これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
最近更新のものは黄色の文字で
畿内(山城国、大和国、河内国、和泉国、摂津国): 古代大和朝廷の勢力圏内。
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東海道(伊賀国、伊勢国、志摩国、尾張国、参河国、遠江国、駿河国、伊豆国、 甲斐国、相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国): 基本的に、太平洋に面した海岸線沿いの諸国。三重県~茨城県。
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東山道(近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国、出羽国): 琵琶湖から本州ど真ん中を突っ切って東北地方に到る。
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北陸道(若狭国、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国): 日本海側、福井県から新潟県まで。
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山陰道(丹波国、丹後国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、石見国、隠岐国): 京都府・兵庫県の北部から島根県まで。
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山陽道(播磨国、美作国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国、長門国): 兵庫県南部から山口県まで。
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南海道(紀伊国、淡路国、阿波国、讃岐国、伊予国、土佐国):
和歌山県、淡路島、四国。
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西海道(筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国、肥後国、日向国、 大隅国、薩摩国、壱岐嶋、対馬嶋): 壱岐、対馬、九州。平安期の日本国領土南端は屋久島・種子島まで。
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北海道、沖縄県 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その他 |
*国分けは『延喜式』神名式(神名帳)による。
ちなみに神名式記載の日本最南端神社は、大隅国・馭謨郡(ごむのこおり)、益救神社(やくのかみのやしろ)。
社名の通り、屋久島に鎮座している。
最北端は、陸奥国・斯波郡(しばのこおり)、志賀理和気神社(しがりわけのかみのやしろ)。
現在の岩手県紫波郡紫波町に鎮座。
現鎮座地でいうと出羽国・山本郡の副川神社(そえがわのかみのやしろ)が秋田県南秋田郡八郎潟町に鎮座しており最北だが、
社伝と旧郡制の領域から鎮座当初はもっと南の秋田県大仙市、獄六所神社の社地に鎮座していたと考えられている。
また副川神社の論社には秋田市添川の添川神明社があり、志賀理和気神社より北にあるが、大勢を占める説ではない。
よって、現在確定している式内社の中では志賀理和気神社が最北となる。
もちろん現在は北海道から沖縄、外国にまで神社が鎮座しているが、さすがにそこまでは行けない・・・たぶん。
*ここで多用される言葉についての説明*
*神社
じんじゃ。今では本殿などの神の鎮まる建物を指すと思われているが、本来はそうではなかった。
昔は「かみのやしろ」といい、「やしろ」とは、
「や」は「屋」にあたり、建物
「しろ」は、「のりしろ」などのように、何かの用途のための一定の区域をさす言葉
つまり「神の建物を建てるための場所」という、「建物」ではなく「場所」を示す言葉だった。
昔の神祭りは、神が隠れているとされた神奈備(神隠り【かむなばり】→神奈備【かむなび】)の山や森、
そして神を招くに相応しい聖域(春日の野など)に神籬(ひもろき)を立てたり臨時の社殿を建てたりして祭りを行い、
その後はそれらを撤去してもとの自然の風景に戻していたと思われる。
それが仏教伝来に伴い、寺院にならって恒久的な社殿を造るようになっていったようだ。
『万葉集』では「もり」という和語に「神社」「社」という漢語を当てており、
当時の人は、神を祀る場所は森と不可分であると考えていたことがわかる。
つまり神社とは建物だけを指すのではなく、「鎮守の森」をなす神域一帯のことであるといえる。
仏教寺院も、本来必ずしもその周囲に緑は必要としていなかった(インドや中国で見られる石窟寺院など)が、
日本では森や庭園など、緑に囲まれている。
神聖な場所には緑が必須、という日本人の思想が反映されているのだろう。
「宮」(みや)については、漢字を当てるなら「御屋」であり、建物に神を祀っていたと思われる。
最古の正史である『日本書紀』では、「神宮(かみのみや)」と呼ばれているのは伊勢神宮と石上神宮のみ。
伊勢神宮は稲倉から発展した社殿を持っており、石上神宮は武器庫としての機能を持っていた。
「何かを納める」ためにつくられた神社は最初から社殿を持っていた、ということになるだろうか。
*『延喜式』『式内社』『式内名神大社』
隋と国交を開いてより日本は律令制を輸入して国内統治に用いようとし、
刑部親王や藤原不比等を中心にして大宝元年に完成された『大宝律令』、そしてそれを修正した『養老律令』をもとにして統治を行った。
「律」は犯罪とそれへの罰への規定。刑法にあたる。
「令」はそれ以外のすべての法律。
律令を制定したのち、時代の変遷に伴い内容に変更が加えられたり新しく追加したりすることがあったが、
それをまとめたものが「格」(きゃく)と呼ばれる。
「律」「令」の条文は簡素なので、その実行に対する5W1Hがどういうものなのかはそこからは読み取れない。
そのため、誰がいつどのような道具を用意してどのように行うか、などの律令の施行細則を示したものが必要となり、
それが「式」(しき)と呼ばれる。
日本では『養老律令』ののちそれを修正した新しい律令を作ることをしなかったため
(建前では、養老律令は明治維新の時まで日本を統治する法律でありつづけていた)、
「格・式」の量がどんどん増えていった。
そのため、平安時代に何度かそれらをまとめる作業が行われ、
『弘仁格式』(819年までの格式を集成)
『貞観格式』(871年完成)
『延喜格式』(927年完成。872年以降の格式に加えて弘仁・貞観の格式を編集、再構成したもの)
が編纂された。弘仁・貞観・延喜は編纂時の元号。
『延喜式』とは『延喜格式』の半分をなすもので、律令の施行細則が細かに記されている。
そのうちの巻一~巻十は神祇官に関する式が記されており、その巻九・巻十「神名式」は通称「神名帳」(じんみょうちょう)と呼ばれ、
毎年二月に行われる「祈年祭」(としごいのまつり、きねんさい。五穀豊穣を祈る春の祭り。「とし」は稲の実りを意味する言葉)
において朝廷が班幣(幣帛をわかつこと)を行う全国の神社(2861社、3132座)が記されている。
(当初は該当神社の神職がみな上京して幣帛を受け取っていたが、いくらなんでも無理があるので、
まもなく遠隔地の神社のほとんどはその国の国司から幣帛を受け取ることとなった)
「延喜式内社」「式内社」はここに名前が載っている神社のことをいい、この時代にはすでにあった歴史の古い神社ということで、
一種の社格のように扱われている。
「式内名神大社」とは、国家の大事にあたって行われた臨時祭である「名神祭」が行われた神社のこと。
特に霊験著しい神は「名神(みょうじん)」と呼ばれた。
式内社には「大社」「小社」の別があったが、名神祭が行われる神社はすべて大社であるので、「名神大社」と呼ばれる。
なぜこういったことが法律に載っているのかといえば、律令制においては、神の祭祀も国家主導で行われていたから。
養老律令は(幕府の出す武家の規則により有名無実化はしていたものの)名目的には明治維新まで生きていたので、
明治になってそれまで民間のものだった神社が「国家神道」になった、という認識は正確ではなく、
律令制定よりずっと神社は国家のものであった、ということもできる。
さらに『日本書紀』には、第十代崇神天皇が「天社・国社(あまつやしろ・くにつやしろ)を定めた」とあり、
公的には神社の創祀においても朝廷(国)がかかわっていた、というスタンスをとっている。
神社は、個人の祈願も受け入れるが基本的には公的な祈りの場である、というのが日本古来の認識であったが、
占領軍の指導による政教分離政策のため、その図式は崩されてしまった。
自分らは大統領就任時に聖書に手をあてて神に誓ったり、国王が国教会の首長やったりしてるくせに、
日本ではそういうことしちゃダメとはよく言いやがったものだと思う。
「延喜式神名帳」に載っている神社がその頃あったすべての神社ではない。
祈年祭を行うには不充分もしくは適当でないと判断された神社、仏を祀っていると認識されていたところなどは外されている。
「延喜式神名帳」には名が見えないが、
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』
の日本の六つの正史(「六国史」と呼ばれる。この六書で神代から第58代光孝天皇、887年までをフォロー。これ以降の国史編纂は頓挫した)
に名が見える神社もあり、これらは「国史見在社」と呼ばれてこれも社格のように扱われる。
もちろん、これ以外にもたくさんの神社があったことは間違いない。
ひとつの村に一社は鎮守の神社があっただろうし、現在でも約8万の神社が全国にあるのだから
(明治初年には20万社はあったらしい。それで明治末年に政府は神社管理のため合祀による神社整理を行い、神社の数を減らした)。
ただ、式内社や国史見在社の中には、戦国時代の混乱などによって没落して祭祀が絶えてしまったもの、
鎮座地がわからなくなっているものも多い(ここではないか、と比定は行われているが、意見が分かれているところも多い。これを論社という)。
*一宮
律令制における地方長官である国司が赴任してまず行うことは、国内の神社をすべて参拝して回ることだった(国司神拝)。
このとき、むやみやたらに参拝して回るのではなく、一定の順番によって回っていくことが徐々に慣例となっていった。
その中で一番最初に参拝する神社、これが「一宮」と呼ばれ、二番目が「二宮」、三番目が「三宮」・・・と呼ばれるようになった。
最初に参拝するのは、たいていは国府の近くにある神社、あるいは国内でもっとも名声の高い神社であった。
これがのちには「国内第一の神社」として社格のように扱われるようになった。
一宮は、ほとんどは国内でもっとも名のある神社となっているが、
尾張国においては、草薙剣を祀る熱田神宮は三宮で、一宮は真清田神社である。
これは国府に近いことと、真清田神社がこの地方の豪族であった尾張氏の祖を祀る神社であったからだろう。
また伊勢国一宮は椿大神社(つばきおおかみのやしろ。猿田彦大神を祀る)だが、
これは伊勢の神宮が天皇しか祭りを行えない「私幣禁断」の場所であり(皇太子・三后ですら天皇の許しがなければ奉幣が行えなかった)、
国司ごときが参拝できるところではなかったから。
律令制が崩れると、「一宮」は民間の認識によってその時々の国内で一番隆盛な神社を指すようになったので、
長い時代の間に一国のうちに何社もの一宮が生まれた国もある。
時代が下ると、国司も国内を回って神社参拝をするのがメンドくなってきたので、
国府の隣地に国内の神社をまとめて勧請してきて、ここに参拝することでいっぺんに用事を済ませるようにしたところもあった。
これが「総社」のおこり。