にっぽんのじんじゃ・あいちけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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熱田とかへ参拝したこともあるけど、写真とってなかったー

尾張国(愛知県西部):

中嶋郡:

稲沢市および一宮市の辺り。
尾張国国府所在地。

真清田神社 尾張大国霊神社
(付・宗形神社、大御霊神社)

海部郡:

中嶋郡の南、美濃国・伊勢国に接する木曽川東岸そして伊勢湾に面する海辺の地。
津島市、弥富市、清須市、名古屋市の西部、甚目寺町、大治町、美和町、七宝町、蟹江町、飛島村など。

津島神社

真清田(ますみだ)神社。

一宮市真清田一丁目に鎮座。
JR尾張一宮駅ならびに名鉄・名鉄一宮駅の北東、
駅前ロータリーからアーケード商店街を抜けたところ。
全国に「一宮」という地名は多いが、市制を敷いているのはここが唯一
(もっとも、市名の重複は原則として認められないので、早い者勝ちということになる)。

『延喜式』神名式、尾張国中嶋郡三十座の一、真墨田神社。
とくに霊験ある神として名神大社に指定されている。
市名の通り、尾張国一宮。

創祀は神武天皇三十三年、尾張国の開拓とともに鎮座と伝えられている。
『続日本後紀』承和十四年(847)十一月十一日条に、
「尾張国の無位の大県天神、真清田天神の二前に並びに従五位下を授け奉る」
との神階授与記事があるのが国史初見。
「大県天神」とは、尾張国二宮・大縣神社(愛知県犬山市鎮座)のこと。
その後仁寿元年(851)十一月に官社に指定されて祈年祭班幣に預かることとなり、
六国史内では正四位上まで授けられている。
熱田神宮(当時の呼称は熱田神社)は三種の神器のひとつ・草薙剣を神体として祭る神社で、六国史内で正二位まで授けられているが、
それを差し置いて一宮となっていることからも、地元・尾張での崇敬が大であったことがわかる(熱田神宮は尾張国三宮)。
もっとも、一宮に関しては全国的に「国府からの距離がもっとも近い(国司が参拝しやすい)、地元の有力な神社」という傾向があるので、
尾張国でもそうだった可能性が高い。

主祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)。上古より尾張国造として尾張国を治めていた尾張氏の祖神。
『古事記』によれば天照大御神の孫神で、天孫・瓊瓊杵尊の兄神(実の兄)にあたる。
『日本書紀』本文では、瓊瓊杵尊の三柱の御子神のうち末子であるとし、
同箇所の異伝では、瓊瓊杵尊の次子とするものや長子とするもの、また『古事記』と同じく瓊瓊杵尊の兄とするものがあり、
伝承に細部の異同はあるが、いずれも皇室の直系に関わりが深い神としている。
その神名は太陽神であることをあらわすとも、
「穂赤り」ということで、稲穂が赤々と稔ったさまをあらわしているとされ、
奈良県桜井市の纏向遺跡は、『日本書紀』に記される第十代崇神天皇の「磯城瑞籬宮(しきのみづかきのみや)」、
第十一代垂仁天皇の「纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)」、
そして第十二代景行天皇の「纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)」にあたる弥生時代末期~古墳時代初期の初期大和朝廷の都と考えられるが
(邪馬台国大和説の学者からは邪馬台国の都、つまり卑弥呼の都とみられている)、
ここから出土する土器のうち、他国から持ち込まれた土器の49パーセント、実に半数は東海系土器であり、
初期大和朝廷と東海地方の間には非常に密接な交流があったことが推定される。
尾張氏の祖神が皇孫の兄神もしくは御子神という破格の位置づけをされているのも、
その深い結びつきのゆえだろう。
尾張氏とその支族は大和国、山城国、美濃国、丹波国などに広く分布しており、その先々で天火明命が祀られている。
近畿においては、「天照御魂神社」として祀られていることが多い。

古い資料では祭神が国常立尊や大己貴命となっており、天火明命は近世の説。
ただ、『続日本後紀』で「真清田天神」と記されていることから、祭神は「天神(あまつかみ)」であるのは間違いない。

江戸時代には幕府より朱印領を与えられ、歴代尾張徳川家が篤く崇敬、
寛永八年(1631)、徳川義直公は社殿の大造営を行った。
しかし、昭和20年の空襲により社殿は焼失。現在の社殿は昭和32年に再建されたもの。

JR&名鉄の一宮駅前ロータリー。 神社前に伸びるアーケード商店街。
商店街を抜けると神社の鳥居と楼門が。 鳥居前。
この周囲の広場の両側にはもとは境外末社が何社か鎮座していたが、
現在は境内に遷座している。
堂々たる楼門。
境内の諸施設は寛永八年に尾張徳川家によって造営され、
先の大戦中の空襲による焼失の後、昭和32年に再建されている。

境内。
正面に拝殿、その向こうに祭文殿、渡殿そして本殿と並ぶ、いわゆる尾張式の社殿配置。
尾張式に特有の蕃塀(神様が境外の不浄を見ないようにと立てられた、不浄避けの衝立。楼門の次に置かれる)
は空襲で失われたのち、再建されていない。
また、拝殿の前の敷地には、かつては勅使殿があった。

祭文殿の両脇には翼殿が伸び、西には神饌所、東には祭具庫。
本殿の背後には、山のように森が繁っている。
拝殿前。静かな境内。 祭文殿東の祭具庫。
本殿の東に鎮座する摂社、服織(はとり)神社。
天火明命の母神である、万幡豊秋津師比売をまつる。
この女神はその神名に「幡(はた)」があることから機織の神。
一宮市は歴史的に紡績・繊維業が盛んなことから、
その守護神として崇敬されている。
広い境内には、ほかにも様々な末社が鎮座している。
拝殿西にある神水舎。
白河上皇の眼病を治したなどの霊験を伝え、
『尾張国名所図会』にも記載がある名所。
一時絶えていたが、復活させたとのこと。
井戸があり、水を汲むこともできるようだ。

尾張大國霊(おわりおおくにたま)神社。

稲沢市国府宮一丁目に鎮座。
名鉄・国府宮駅の北東。

『延喜式』神名式、尾張国中嶋郡三十座の一。小社。
通称を国府宮(こうのみや)といい、この名で広く知られている。
往時は尾張国府がこの神社の隣地にあったためで、古くよりこの名で呼ばれていた。
また、国府に最も近い神社ということで「尾張惣社(総社)」となり、国司は尾張国の神々をこの神社に勧請して祭っていた。
そのため、朝廷の指定は小社ではあったが、地元では大きな尊崇を集める神社だった。
祭神は尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ)。尾張の国土の神霊を祀る。
長く大己貴命(大国主命)と同一視され、明治の神社明細帳にも「大己貴命荒御魂」とされていたが、
昭和15年の国幣小社列格に際して改められ、尾張大國霊神と旧に復した。
大地の生産力・生命力の神格化であり、農業・産業の守護神として、
さらに下に記す「儺追(なおい)神事」により、厄除けの神様として信仰を集める。

旧暦正月十三日(現在でもその通り斎行されており、毎年祭礼日が違う)に行われる「儺追(なおい)神事」、
通称「はだか祭り」で知られる。
年初に希望者の中から籤で選ばれた、厄を負う役割をもった「儺負人(なおいにん)」に触れて厄を落とそうと、
境内に集った裸の男たちがひしめき合う奇祭。
詳しくはネット上にもいろいろ紹介されているので省略。
この祭礼の本義は、その深夜に行われる「夜儺追(よなおい)神事」であり、
儺負人に天下の厄災を封じたとする土餅を負わせて追い立て、餅を下ろしたところに神職がそれを埋め、
それによって地上から災いを一掃する、というもの。
これによって国府宮は「厄除けの神様」として絶大な信仰を集めており、
年初からはだか祭りまでの期間、厄除け祈願の参拝者たちが県内だけでなく他県からも続々とやってくるとのこと。

この儺追神事、現行の形になったのは江戸後期になってからで、
明治時代には、境内に裸の男が満ち溢れるというスタイルが神社にはふさわしくない、として廃止するよう通達が出たこともある。
それ以前には、捕り手が武器を携えて神社から恵方の方角一里外へ出て行き、
出遭った旅人や村人などのうちからランダムに男を捕まえて神社に引き立て(ただし女、子供、乞食、僧侶は除外)、
儺負人に仕立てていた。
なんとも乱暴な方式だが、やはりいろいろとトラブルが絶えなかったようで、
儺負人として攫われた者を取り返そうと同郷の者が武器を取って立ち向かい、刃傷沙汰になることもあった。
この祭礼は神君・徳川家康公のお墨付きをもらっており、尾張徳川藩も祭礼に参加、援助をしていたこともありなかなか手を出せなかったが、
ついに江戸中期に祭儀の改易が命じられ、現在のような形に落ち着いたという。
その起源は奈良時代、称徳天皇が全国の国分寺に命じた「吉祥悔過会(きちじょうえかえ)」に遡るといわれ、
それを尾張国司が総社においても斎行したのがこの祭礼という説がある。
古くはこの祭儀において「奇稲田姫」の画像が架けられており、これは仏教の吉祥天になぞらえて奇稲田姫を祭ったものといわれる。
国府宮にはほかにも独特の祭儀が多く、また本殿の東南脇には自然石を円形に並べた磐境(いわさか)があって古来最も重んじられており、
その祭祀の古さがうかがえる。
創祀は崇神天皇七年とされるが、これは『日本書紀』にみえる「天社・国社」を定めたという記事に拠ったものだろう。
その祭祀の原型はこの地方の開拓時に遡るのかもしれない。

国府宮の参道は美濃街道沿いから始まる。
一の鳥居からみていきませう

県道136号線、旧美濃街道。
東海道・宮宿と中山道・垂井宿を結んでいた。
現在の稲沢市内には稲葉宿があった。
名鉄・国府宮駅からは600mほど南。
その道路沿いに、一の鳥居が立っている。
北に参道が伸び、道端には燈篭が並ぶ。
鳥居のそばはもう名鉄の踏切。
名古屋から名鉄で来るなら、
国府宮駅の手前で車窓から鳥居を見ることができる。
北へ進むと、県道62号線に行く手を阻まれる。
歩行者用の高架橋がかかっている。
渡る。 「参道橋」ということか。
北へと歩く。道端には燈篭が並ぶ。
右は稲沢中学校。
そして交差点のところに二の鳥居。
この先は舗装されていない土の参道になる。

二十五丁橋。
二十五枚の石板で組まれているため、その名がある。
神様が渡る橋であり、一般人は渡ってはならない。
二十五丁橋は熱田神宮や津島神社にもあり、
この地方に特徴的な太鼓橋の形式。
向こうに三の鳥居が見える。
三の鳥居。向こうに楼門が見える。
右手には、
「はだか祭り」観覧用の仮の桟敷席が組まれている。

そして神門へとたどり着く。
一の鳥居から神門まで約1km。

楼門前。
両側には露店が出ている。
別角度から。
(撮った時期も別)
室町期の建築で、
上部を江戸期に改修している。
国指定重要文化財。


楼門をくぐると、不浄避けの衝立である
「蕃塀」が立っている。
(写真左側)
神様が門外のけがれたものを見ることがないように、
との心遣いの設備。
現在では絵馬がかけられているが、
絵馬所ではない。
その向こうに拝殿。国指定重要文化財。
壁のない拝殿で、珍しい形式。
拝殿の奥に祭文殿(さいもんでん)がある。
祝詞を奏上するところ。
その奥に渡殿を経て本殿が位置する。
楼門から本殿までの建物配置は、
「尾張式」とも呼ばれる尾張独特のもの。
「厄除けの神様」として県内外から大きな信仰を集めており、
1月末だというのに社務所には厄除け祈願の参拝者たちが
次々と受付に並んでいた。
厄除け祈願の「なおい切れ」がかかっている。
本殿の東にある儺追殿。
儺負人がここで神事に向けての厳重な潔斎を行う。
境内東南の「庁舎(ちょうや)」。
儺追神事の前夜、
尾張国一宮・真清田神社、二宮・大縣神社、三宮・熱田神宮、
総社・尾張大國霊神社の神々をここに招き、
天下泰平・悪疫退散・五穀豊穣を祈る。
また、儺追神事の夜に行われる夜儺追神事においても、
儺負人に天下の厄災を封じたとする土餅を負わせて追い立てる、
という神事の核心となる行事が行われる。
また、儺追神事の後日行われる的射神事もここで行われる。
見た目はただの木組みだが、重要な建物。
庁舎の手前に並んで鎮座する末社。 神社の北には神饌田があり、
祭典に用いられる米はこの神田でつくられる。

国府宮の北東と南西、つまり鬼門と裏鬼門の方角に別宮が鎮座している。
いずれも延喜式内社。

宗形(むなかた)神社。

『延喜式』神名式、尾張国中嶋郡三十座の一。
尾張大國霊神社の北東、鬼門に位置する(ほとんど東だけど)、
テニスコートの東の道向かいに社叢があって、その中に鎮座する。
国府宮の別宮の一で、古くは角玉大明神とも呼ばれた。
祭神は田心姫命(たごりひめのみこと)。
いわゆる「宗像三女神」の一柱で、『先代旧事本紀』によれば大己貴神(大国主神)の妻となり、事代主神を生んだとされている。
尾張大國霊神社の祭神がかなり古くから大己貴神と同一視されていて、その妃神をここに祀ったということだろうか。
宗像三女神は海上交通の守護神であり、また水の神としても信仰された。

テニスコートの向かい。 小祠がひっそりと立つ。

大御霊(おおみたま)神社。

『延喜式』神名式、尾張国中嶋郡三十座の一、小社。
尾張大國霊神社の裏鬼門、南西に鎮座する国府宮別宮の一。
素戔嗚尊の御子で五穀の神である大年神の御子神、大御霊神(おおみたまのかみ)を祀る。
『古事記』には、大年神が神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘である伊怒比売(いのひめ)を娶って生んだ五柱の神の長子として、
「大国御魂神」の名がある。

尾張大国霊神社、宗形神社、大御霊神社の三社を合わせて「国府宮三社」と呼ぶ。
大地の神霊、水の神、五穀の神がセットになっているところに、古代人の農業に対する思いの深さをはかることができる。

住宅街の中に社叢がある。 小祠が立つ。
森には鳥の群れが住み着いているようだ。

津島(つしま)神社。

津島市神明町に鎮座。
名鉄尾西線・津島駅の西800mほどのところ。

京都の祇園社(八坂神社)と双璧を成す「津島天王社」として古来大きな崇敬を集める神社。
現在の祭神は素戔嗚尊だが、明治初年までは牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていた。

牛頭天王はもとはインドの神で、仏教に取り入れられて祇園精舎の守護神とみなされ、
日本では備後国風土記逸文の「蘇民将来」伝承に出てくる「武塔神」と結びついて疫病の神ともなり、
また素戔嗚尊と習合して大きな信仰を得た。
  *祇園精舎(ジェータヴァナ・ヴィハーラ)・・・
  インドのコーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)にプラセーナジット王(波斯匿王)の太子・ジェータ王子(祇陀太子)の樹園(ヴァナ)があり、
  これを慈悲深い長者のスダッタ(須達多)が太子より買い取ってブッダに寄進、そこに建てられた精行者の舎宅(ヴィハーラ)のことをいう。
  ブッダの出身地に近く、彼の説法における重要拠点だったところ。  
  スダッタは身寄りのない人に食事を支給していたことから「給孤独者(アナータピンディカ)」と呼ばれており、
  「祇園」は正式には二人の名称をとって「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん、ジェータヴァナ・アナータピンダダシャ・アーラーマ)」と呼ばれる。
「武塔神」「素戔嗚尊」と「牛頭天王」の関係については様々な説があり、
牛頭天王は武塔神の眷族あるいは御子とする説、あるいは同体とする説など様々な説が入り乱れ、
素戔嗚尊がどの神と同体であるかについても諸説あり、
さらに陰陽道の「大将軍」にも関連付けられたりしてどんどん牛頭天王ワールドは広がっていき、
信仰される所々で独自ともいえる信仰へと発展していったが、
時代が下ってそれらが収束していくと「全部同体でええやろ」ということになり、
近世以降は「武塔神=牛頭天王=素戔嗚尊」ということになっている。

家々の門に「蘇民将来子孫之家」と書いた札を掲げれば疫病は家に入ってはこない、
という風習の起源は備後国風土記逸文にみえ、ユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」との関連を指摘されることもある。
牛頭天王は疫病避けの神様「天王さん」として一般に親しまれ、日本中に天王社が広まった。
牛頭天王の御子は八柱おり、それらは総称して「八王子」と呼ばれ、その信仰も同じく広がった。
現在残る「八王子」という地名はそれに基づくもの。
中世の文献によれば、牛頭天王と八王子の信仰はその広まった地方ごとに独特の展開をみせており、
基本的な筋書きからさまざまに派生した縁起・伝説が生まれていて、中世のカオスで芳醇な精神世界を垣間見ることができる。
それだけ、疫病と、それを治める神が人々に身近で切実なものであったということだろう。
明治になって「神仏判然令」が出されると、全国の牛頭天王社は神社としての道を選び、
祭神を素戔嗚尊と改め、社名から「祇園」「牛頭天王」の名を外し、仏教的要素を境内から排した。
この時、「八王子」は、
素戔嗚尊の八柱の御子、あるいは天照大神と素戔嗚尊との天安河における誓約(うけひ)において化成した五男神三女神へと変更されたが、
これについては、江戸時代における神仏分離の潮流において八王子を五男神三女神とする説が広く認められており、
多くの神社はそれに従ったということになる。
京都の八坂神社においては、八王子を素戔嗚尊の八柱の御子であるとしている。


津島神社の創祀は欽明天皇元年(540)と伝わる。
高天原を追放された素戔嗚尊はまず朝鮮に天下り、それから日本に渡ったとする伝承が『日本書紀』に異伝として収録されているが、
このとき尊の荒御魂のみが日本に渡り、遅れて人皇第七代孝霊天皇の治世に和御魂がまず対馬に渡って祀られたあと、
この津島の地に遷座したとする。
しかし、津島神社は『延喜式』神名式への記載はなく、国史にも神階授与記事がみられない。
京の祇園社(八坂神社)ものちには「二十二社」の列に加えられた有力な神社だったが、『延喜式』神名式への記載はない。
これは当初より仏法的要素が強かったために官社に入れられなかったものと思われるが、津島牛頭天王社も同じだったと思われる。
『延喜式』神名式は、その年の五穀豊穣を祈る「祈年祭」において朝廷が幣帛を班(わか)つ官社のリストであり、
つまり国家祭祀としての祈年祭を行うに相応しい、選抜された神社のリスト。
よって、それに相応しくないと判断された神社は官社に入れられず、神名式(神名帳)には記されていない。
だから、このリストに入っていないといってその当時存在していなかった、ということにはならない。
『延喜式』神名式には載っていないが、それより以前に成立した六国史の神階授与記事に名前の見える神社は数多い。
ただ、六国史の神階授与記事にも名前が見られないということは、おおよそ9世紀ごろまではまだ高名な神社ではなかった、
とはいえるだろう。

津島天王社は平安後期以降信仰を集め、海部郡の筆頭社として大きく栄える。
伊勢の神宮とも関係をもったようで、現在でも伊勢市内には天王社・八王子社が多く、
伊勢市内の家々は「蘇民将来子孫之家門」の注連縄を玄関の上にかけており、
古くは神宮祠官も内宮・外宮近辺の八王子社や八王子に関する祭事に関わったことが史料からわかっている。
そして尾張地方に伝わる「牛頭天王島渡り祭文」には八王子が「伊勢を経由」して津島に至ったと記されていて、
両者の密接な関係をうかがわせる。
平安後期から伊勢の神宮は「御師(おんし)」が日本各地に散らばって伊勢信仰を広めており、その途上で津島と関係を持ったようだ。
「津島」という土地はその名が示すようにもとは水上交通の要路であって、
中世には伊勢と尾張をつなぐ東海道の重要な交通拠点だった(熱田~桑名の海上ルートができるのは近世からのこと)。
つまり伊勢参宮にも重要なポイントであり、神宮がここを重視して津島天王社と関係を結んだことは充分に考えられる。
近世でも、伊勢参宮の折には津島天王社にも参らねば「片参り」と言われるほどだった。
東海地方の牛頭天王信仰は、伊勢とのタッグで京とは異なる独自の展開を見せたようだ。
社紋が木瓜であったことから同じ家紋をもつ織田氏が氏神とし、豊臣氏、尾張徳川家も篤く崇敬した。

津島神社の例祭は「津島天王祭」としてよく知られている。
例祭は数ヶ月にわたるものだが、
とくに七月第四土・日曜日に斎行される(旧暦では六月十四・十五日に行われていた)「宵祭」「朝祭」の川祭はそのクライマックスで、
「宵祭」では、暗闇の中、五隻の無数の提灯を下げた巻藁船が天王川に押し出す。
その情景は荘厳の一言。
天王祭は、現在ではその荘厳・豪壮さがクローズアップされるが、かつては非常な恐れつつしみを要する祭りだった。
牛頭天王は疫病除け・厄除けの神だが、裏を返せば恐ろしい疫病と災厄をもたらす恐怖の神であったので、
その祭祀には厳重な潔斎が期され、人々も恐れつつしんだ。
川祭の翌日に行われる「神葭放流神事」は、
もともとは疫病の神々を神葭に移して川に放ち、流れのまにまに海の彼方へと押しやるという例祭最重要の行事で、
昔の人々はこの神葭の漂着を非常に恐れ、これに触れた者は疫病にかかってたちどころに死に、さらに一家滅亡すると信じられていた。
だが、時代が下るにつれて禁忌も緩やかになり、しだいに神葭の漂着は慶事のように受け止められるようになっている。

夕暮れの津島神社、東の楼門。
昭和十六年の解体修理に際して天正十九年および天正二十年の墨書が見つかり、天正二十年造営とされる。
国指定重要文化財。
手前には二十五丁橋。
11月だったので、七五三参りの子供たちの姿が多かった。
神社の東には、高く聳える大銀杏の樹が立っているが、撮るの忘れた。
拝殿。ここから奥へ祭文殿・渡殿・本殿と続く、尾張式の社殿。 南門の前から。門の奥に不浄避けの蕃塀が立っている。
その向こうに拝殿。

右端から拝殿、回廊、祭文殿、釣殿、そして本殿と社殿が連なる。
回廊からは透塀が伸び、本殿を囲っている。
イッツ尾張式。
七五三詣での祈願でいえば、
参拝者が拝殿に座り、神主さんが祭文殿で祝詞を奏上することになる。

左端には摂社・八柱社。
天照大神と素戔嗚尊による天安河の誓約の時に化成した五男神三女神を祀る。
もとは八王子社といい、本殿の相殿に祀られていた。
西日を背に楼門を。
鳥居の向こうに大銀杏がかすかに見える。
境内ではなにかの工事中。

本来、楼門は社殿に直列して南に建てられるべきだが、
神社の例祭である津島天王祭にて天王川御旅所への神輿渡御が行われる際に神輿が通るのは東門であり、
そのためこちらが実質上の正門とみなされ、境内の東側に楼門がつくられている。

奉納の菊花。 境内末社たち。
正面奥の柏木のもとには摂社「柏樹社」が鎮座し、
素戔嗚尊の奇御魂(くしみたま)を祀っている。
天平元年に神託によって居森の地から遷座したと伝わる。

津島神社の南に天王川公園があるが、ここが例祭において神輿渡御が行われ、
その御前で宵祭・朝祭が行われるという津島神社にとってきわめて重要な場所。
昔は木曽川が近隣を流れていたためにもっと大きな川で、例祭においては大掛かりな川祭りが行われていたのだろうが、
流路変更などで現在の天王川はほとんど池のようになってしまっている。

天王川御旅所。
津島神社祭神がここに渡御し、川祭を御覧になる。
天王川公園。
ここで川祭が行われる。



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