にっぽんのじんじゃ・あいちけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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熱田とかへ参拝したこともあるけど、写真とってなかったー

尾張国(愛知県西部):

丹羽郡(大口町、扶桑町、一宮市の一部、岩倉市、犬山市):
*田縣神社は小牧市

大縣神社 田縣神社
針綱神社

大縣(おおあがた)神社。

犬山市字宮山に鎮座。
本宮山の西麓。名鉄小牧線・楽田駅の東。

『延喜式』神名式、尾張国丹羽郡廿二座の一。名神大社に指定されている。
尾張国二宮。
『続日本後紀』承和十四年(847)十一月十一日条に、
「尾張国の無位の大県天神、真清田天神の二前に並びに従五位下を授け奉る」
とあるのが国史初見。
真清田天神は今の尾張国一宮・真清田神社。
その後、『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)十一月十三日条に、
これも真清田神社とともに官社に列したことが記され、六国史内では正四位下まで授けられている。
真清田神社は正四位上まで授けられており、わずかに真清田神社の格が上と見られていたようだが、
尾張国内での勢力は伯仲していたようだ。
『日本三代実録』貞観元年(859)二月十九日条には、多度神社、熱田神社と大縣神社への神宝奉献記事が見え、
多度・熱田に比肩する神社であったことがうかがえる。
創祀は、社伝によれば垂仁天皇二十七年、本宮山頂から現在地に遷座したという。
本宮山頂には大縣大神荒御魂を祀る本宮社があり、山中には姫之宮奥宮、また隣の相澤山には姫之宮荒御魂の社が鎮座している。

祭神は大縣大神。丹羽郡開拓の祖神とされる。
この神が具体的にどういう神であったかは諸説あるが、定まっていない。
社殿の古い棟札には国狭槌尊(くにさづちのみこと)の名が記されており、
これは『日本書紀』の天地開闢において最初に出現したいわゆる「独化三神」の一柱で、始原神。
また、大県主の祖神・天津彦根命、あるいは迩波(丹羽)県君の祖・大荒田命ともいわれる。
いずれにしても、この地方の始まりを司った、この地方の氏神。
地元の民にすれば、自分たちの神は氏神だけであり、自分たちの神が他の神と比べてどういう神であるかはどうでもいいことだった。
細かな神名には頓着せず、「(地名)に坐す神」「(地名)の神」で充分だった。
そのため、古い神社では祭神名がよくわからないことが多い。

この神社の例祭である豊年祭(3月15日直前の日曜日に斎行。旧暦では正月十五日に斎行されていた)は奇祭として知られている。
これは「姫の宮祭り」ともいい、女陰を象った物を巫女が持って練り歩くというもの。
境内摂社である姫之宮の後背には、女陰形をした石が奉納されて「姫石」と呼ばれている。
そのため、安産・子授けなど、女性の守護神としての信仰が大きい。
近隣に田縣神社が鎮座し、こちらは境内に男根形の石が置かれ、3月15日に行われる(こちらは固定祭日)豊年祭では、
男根を象った神輿や物にて巡幸を行う。
日本各地には豊穣を祈るために陰陽のものを用いて祭礼を行うところがあるが、原初的な信仰を存しているということだろう。
大縣神社では、以前は田縣神社に対して女陰を模した神輿を出していたが、
これについては「風紀上の問題」ということで外部からストップがかかったらしく、
現在ではおかめ顔を模した神輿になっているため、田縣神社に比べて地味な(それでも他の神社に比べれば突き抜けているが)
お祭りになっている。

神社西方3kmの犬山市青塚に国の史跡・青塚古墳がある。
茶臼山古墳と通称される愛知県下二番目の規模を誇る四世紀半ばの前方後円墳で、
周辺一帯に点在する青塚古墳群の首長墓とみなされているが、
ここは大縣神社の飛地境内地となっている。
これは、この古墳が大縣神社祭神といわれる大荒田命の墳墓であるといわれているため。
大荒田命の娘、玉姫命は尾張氏の祖・建稲種命に嫁いだが、彼は日本武尊の妻となった宮簀媛命の兄。
日本武尊の父である景行天皇の治世は実年代では三世紀後半~四世紀初頭と見られるため、だいたい時期があっている。

鳥居前。西から入る。
手水舎。近づいたらいきなり龍が水吐き出し始めた。
センサー・・・だと・・・
射程距離を調べたかったけどそれはさすがにアレすぎるので断念。
境内。
よく整備清掃されている。
神域も雄大でいい感じ。
参道途中には解除社が鎮座する。
祓えを司る神々が祀られ、参拝者はここに参拝して祓えを行う。
拝殿。立派な構え。
本殿は南向きなので、参道左手に位置する。
伊勢神宮や鹿島神宮などと同じように、古い社は参道の正面に本殿を置かず、右もしくは左に面して鎮座する。

拝殿の向かいには神木が立っている。
拝殿は南北に縦長で、
本殿はかなり奥まったところに鎮座する。
摂社・姫之宮。
大荒田命の娘、玉姫命を祀る。
玉姫命は尾張氏の祖・建稲種命に嫁いだ。
参道をまっすぐ歩いてきて正面に鎮座しており、朱色で目立つので、
ここが本殿と勘違いする人もいるかもしれない。
姫之宮の後背に祀られている、女陰形をした姫石。
これらは氏子崇敬者からの献納物のようだ。
末社・大国恵比須神社。
社殿造替されて間もないようだ。
県下有数の恵比須社として、初えびすの祭礼は賑わうとのこと。
その向かって左には楽田社。地元の英霊をまつる。
境内背後の斜面は梅園となっている。

田縣(たがた)神社。

小牧市田県町に鎮座。
大縣神社の南西、名鉄・田県神社前駅の南西すぐ、県道27号線(木曽街道)沿い。

『延喜式』神名式、尾張国丹羽郡廿二座の一。小社。
小牧市は旧丹羽郡の範囲ではなく旧春部郡(春日井郡)にあたるが、
平安末期に記された尾張国内神名帳でもこの神社は丹羽郡に入れられている。
遷座の記録はないので、鎌倉期以降、郡の境界が変更されたと考えるのが妥当か。
六国史には名が見えないが、尾張国内神名帳では「従三位上 田縣天神」と記されている。
ただ、尾張国内神名帳では従三位はごく一般的な神社の神階になっている。
国内神名帳は、官社に限らず国内のすべての神社を管理するために各国で作成されていた国内神社リストのこと。
現存のものは写本や抄本であり、中世以降に作られたものもあって、当初の姿をとどめているとはいいがたいものもあるが、
中央の官社リストである延喜式神名帳にはみえない神社も収録されており、重要な史料となる。

創祀は不明。
祭神は五穀豊穣の神である御歳神に、丹羽県君の祖・大荒田命の娘である玉姫命を配祀。
この一帯は大荒田命の館があった所といわれ、
尾張氏の建稲種命(日本武尊の妻となった宮簀媛命の兄)のもとに嫁ぎ六人の子を生んだ玉姫命が、
建稲種命の没後ここへ戻り、父とともに国土開発に尽力したという言い伝えがある。

祭祀をもって朝廷に仕えていた忌部(斎部)氏の斎部広成が記した『古語拾遺』の末尾近くには
御歳神の祟りによる蝗の害とその鎮祭(蝗除祭の起源)についての伝承が記されている。

  むかし、神代のこと、大地主神(おおとこぬしのかみ)が御田を作られた日、牛宍(うしのしし。牛肉)を耕作人に食べさせられた。
  その時、御歳神(みとしのかみ)の御子がその田に到着され、御饗(みあへ。神饌)に唾して還り、その有様を父神に告げられた。
  御歳神はお怒りになり、蝗をその御田に放たれたので、苗の葉はたちまち枯れ損なわれ、篠竹のようになった。
  そこで大地主神は、片巫(かたかむなぎ)〔志止止鳥(しととどり)〕・
  肱巫(ひぢかむなぎ)〔今の俗にいう竈輪(かまわ)・また米占(よねうら)である〕を行い、その理由を占わせられたところ、
   (*片巫・肱巫は、古代における占いの方式。肱巫については、注に「米占」とあるので、
    米を用いた農事に関する占いではないかと推測される。片巫は、注に「しとと鳥」とあり、これはホオジロ類の鳥のことといわれ、
    それらの鳥による鳥占の類か)

  「御歳神が祟りをなさっています。
  白猪(しろきゐ。豚)・白馬(しろきうま)・白雞(しろきかけ。ニワトリ)を捧げて、その御怒りをなごめ奉るのがよろしいでしょう」
  と申し上げたので、教えの通りに謝罪申し上げたところ、御歳神はお答えになって、
  「まことに、わが御心である。
  麻柄(あさがら)を以て桛(かせ。糸巻の道具)を作って桛ぎ、その葉を以て掃い、
  天押草(あまのおしくさ。穢れを祓うための草)を以て押し、烏扇(からすあふぎ。ヒオウギの古名)を以て扇ぐがよい。
  もし、そのようにしても出て行かない時は、
  牛宍を以て溝口に置き、男茎(おはせ)の形を作って添え〔これは、その御怒りをまじなう所以である〕、
  薏玉(つすたま)・蜀椒(なるはじかみ)・呉桃葉(くるみのは)、また塩を以てその畔に分け置くがよい」
  と仰せになった。
  そこで、その教えの通りにしたところ、苗の葉はまた茂って、年穀は豊かに稔った。
  これは今、神祇官において、白猪・白馬・白雞を以て御歳神を祭ることの由来である。

この話には、田の虫除けのための民間呪術が記されており、
五穀豊穣をつかさどる御歳神の神威を得るための最終手段として、
牛肉と男茎、つまり男のアレをかたどったものを奉献する習慣があったことがわかる。
『古語拾遺』が書かれた当時はもう牛馬を食用とする事は一般的に禁じられており、
またこれが最終手段とされていることから、これは牛肉食が禁じられる以前のごく古い習慣であると考えられる。
『古語拾遺』では、牛肉と男茎を捧げることは御歳神の怒りの故事を再現する「再現型呪術」であるとしているが、
もとは御歳神を男茎形に見立て、それに牛肉を捧げていたのではなかっただろうか。
上古において牛肉が食べられていたことは、『日本書紀』神武天皇即位前紀に、

  そこで弟猾(おとうかし)は大いに牛・酒を設け、天皇の軍を労わって饗宴を行った。
  天皇はその酒・肉を軍卒に分け賜わった。

と、皇師を挙げての焼肉パーティー(飲み放題)が行われたという記事からもわかる。
御歳神を主祭神とするこの神社はその古い習俗をよく保存しており、境内には数多くの男根形の石が奉納されている。
特に本殿西北の奥宮内には、そういったモノがわんさか奉納されており、奥宮の撮影は禁止されている。
私が参拝したときには、まだ真新しくててらてら光る巨大で太くて長い木製のアレが横になって神前に奉られていて
思わず、
「大きいもの 硬いもの 雄々しいもの それは 立浪ジョージの“ビッグマグナム”である」
という若本声が脳内に響き渡りました
その左右には、昔奉献されたものであろう、黒ずんだ木製の立派なものがいっぱい屹立
気づきませんでしたが、鈴もあれがブラブラ状態とか

昔は旧暦正月十五日の小正月に、新暦の現在は二ヶ月ずらした3月15日に斎行される豊年祭は、
その風習がハジける豪快無比のお祭り。
簡単に言えば簡素な神輿に赤々としたビッグマグナムを貫き通した形の神輿を御旅所から神社へ巡幸、
幟にも大きいものを描き、巫女さんも雄々しいものを抱いて巡幸に供奉。
小さい男根神輿では前行の人が大きなものを捧げ持っていて、人々に触らせる。
とくに女性にご利益があるそうで、女性に積極的に触らせるとのこと。
境内の露店では「ちんこ飴」「松茸飴」「特大Wジャンボ飴」「Hチョコレート」「チンチンチョコ」(※すべて正式名称です)。
パワー漲るお祭で、海外にも有名。
大縣神社の女のものには規制がかかったが、こちらの男のものにはとくに規制がかかっていない模様。
以上のことで(ほかにもあるけど)とかくネタと取られがちなこのお祭だが、しかしその起源は古代より続く伝統的な信仰に基づくもの、
ということは頭の片隅に置いておきたいところ(キリッ

御旅所は、神明社と熊野神社を毎年交互の持ち回りとなっている。

夕刻の田縣神社。鳥居は境内東の木曽街道に面する。
手水舎。
境内はそう広くはない。
拝殿。左は社務所。
境内北西に奥宮。
奥宮内は撮影禁止なので、遠くから。
奥宮への参道両側にある、氏子崇敬者奉献の石の数々。

奥宮の東には「珍宝窟」なるものがあり、二つの石の玉が並んでいて、
右をさすると家内安全商売繁盛、左をさすると子宝安産夫婦和合。
その真ん中にお賽銭の穴があり、
「玉さすり 賽銭入れて 珍となる」
という石碑が傍らに。
だれうま

御旅所のひとつ、神明社。
田縣神社の北西に鎮座する。

もうひとつの御旅所・熊野神社は、
田縣神社の東南、道と川を挟んだ久保山の中に鎮座



針綱(はりつな)神社。

犬山市犬山に鎮座。
わかりやすく言うと犬山城内。
木曽川南岸で、対岸はもう岐阜県各務原市になる。

『延喜式』神名式、尾張国丹羽郡廿二座の一座で、小社。創祀は不明。
旧社地は現在の犬山城天守閣のあたりだったが、
そこへ織田信康(信長の叔父)が犬山城を築くことになったために天文六年(1537)に東の白山平に遷座、
その後慶長十一年(1606)に城下の名栗町に遷座。
「白山妙理権現」「白山針綱大神宮」として犬山城主や城下の民から篤い崇敬を受けた。
明治十五年(1882)、現在地に遷座して今に至る。
天野信景の『尾張五社略記』に熱田神宮、尾張大國霊神社(国府宮)、津島神社、針綱神社、千代保稲荷神社が記されていることから、
「尾張五社」の一社に数えられている。

天文六年、神社の遷座時に織田信康が自ら木の犬を彫って奉献、延命長寿と安産を祈願した。
それにもとづき、延命長寿、安産、子宝の神として信仰を集めている。

祭神は尾治針名根連命(おはりのはりなねのむらじのみこと)。
天火明命の十一世の孫である初代の尾張国造、乎止与命(をとよのみこと)の曾孫にあたる。
『先代旧事本紀』によると、乎止与命(ここでは天火明命十世の孫)は成務天皇によって尾張国造に定められたので、
それから三代後となると、応神~仁徳天皇治世の人か。
大叔母には、日本武尊と契り、草薙剣を奉斎して年魚市郡(あゆちのこおり。のち愛智郡。「愛知」の地名のもと)に熱田神宮を創祀した宮簀媛命がいる。
神社にはほかにも天火明命の後裔を多数配祀しており、
また玉姫命、菊理姫命、伊弉諾尊、大己貴命を祀る。
創祀年代は不明も、この地を治めた尾張氏の一族がその氏神を祀ったのが始まりだろう。

この神社が有名なのは、例祭である「犬山祭」(4月第1土・日曜日)による。
愛知県下の神社の祭礼には山車を繰り出す華やかなものが多いが、ここもその例に漏れない。
ここでの山車は「車山(やま)」と呼ばれ、各町内から十三両の車山が出るが、
それらは高さ8m、三層からなる豪壮なもので、大きな特徴としてその十三両すべてにからくりが仕込まれている。
簡単に言うと車山の上層に人形がいて、それがからくりにより様々な寸劇や芸能を行う。
それを神社鳥居前で奉納する「からくり奉納」を見るために、おびただしい数の人々が集まってくる。
これは江戸時代初期に原形ができ、徐々に発展してきて今のような形式になったとのこと。

犬山祭は大変な人出で、近隣の運動公園や広場などが臨時駐車場として総動員される。

神社鳥居前。すでに凄い人出。
三層の車山がスタンバイしている。
最上層のからくり人形。
まだ例祭祭典前。
境内には数多くの末社が鎮座している。
左側には天満宮。
三光稲荷神社。
猿田彦神社と露店。
境内には露店がひしめき合い、人々の波が凄い。
猿田彦神社前の蛙。
猿田彦さんの神使いとのこと。
カエルは大地の霊力の化身と考えられていたようだ。
祭典が始まるようで、祭員が参進する。
黒い袍を着けておられるのが献幣使さんで、
赤い袍を着けておられるのが宮司さんか。
祭典前に祓所(はらえど)で
祭員・参列者をお祓いする、
修祓(しゅばつ)行事。
その後拝殿奥の・・・祭文殿かな?
そちらへ移動し、祭典が始まる。
拝殿。
拝殿を斜めから。中に神輿が安置されている。 行事が終わった後の祓所。
御神馬。

 

鳥居前。桜が綺麗。
待機中の車山(やま)。
一台ずつ鳥居前でからくり奉納を行う。
華麗な車山。 上層でからくり人形が
見事に曲芸や寸劇を繰り広げる。
移動開始!
若衆が後ろ向きに超重量の車山を曳いてくる。
かなりキツいのだろう、
半泣きで引っ張っている者もいた。
転回中の図。
転回って言ってもつまりは引きずって回してるので、
ひじょーにキツくて危険だろう。

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