これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
*伊予国
越智郡(今治市の一部、上島町)
大山祇神社 (付・末社阿奈波神社) |
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愛媛県今治市大三島町宮浦に鎮座。
瀬戸内海に浮かぶ大三島に鎮座。大三島はしまなみ海道の中央あたりに位置する。
本州からだと、向島、因島、生口島の次。
大三島の次は伯方島、それから大島を経て四国へといたる。
『延喜式』神名式、伊予国越智郡七座の一、大山積神社。名神大。
伊予国一宮。
記紀に見える山の神・大山祇神を祀る。
しかし、この神社では山の神にとどまらず、海運、武運、五穀豊穣など、多彩な信仰を有している。
国史初見は『続日本紀』天平神護二年(766)四月十九日条、
「伊予国神野郡の伊曽乃神、越智郡の大山積神に並に従四位下を授く。神戸を充つるに各五烟」。
『新抄格勅符抄』収録の、全国の神戸について記した「大同元年(806)牒」には、
天平神護二年五月の太政官符により伊予国に神戸五戸を有することが記されている。
その後、『続日本後紀』承和四年(837)八月七日条には、
「伊予国の従四位下大山積神、従五位下野間神、並に名神に預かる」
とあり、このときに野間神社(今治市神宮に鎮座)とともに特に霊験ある神である「名神」に指定された。
その後神階は上がってゆき、『日本三代実録』貞観十七年(875)三月二十九日条には正二位を授けられた記事があり、
これが六国史に見える最後の神階。
社伝ではこの後、陽成天皇の元慶元年(877)九月あるいは宇多天皇の寛平九年(897)に正一位を授けられたと伝える。
瀬戸内海の島に鎮座する神社ながら、神階に示されているように朝廷からは古来非常に重んじられており、
皇室や公家・武家はこぞってこの神社に奉納・寄進を行った。
神社にはおびただしい神宝が収蔵されており、
特に太刀・鎧に関しては、国宝・国の重要文化財に指定されたものの約四割がここにある。
創祀については、『釈日本紀』が引く伊予国風土記逸文に、
宇知郡の御島(みしま。大三島の古名)に坐す神の御名は大山積神、一名は和多志大神(わたしのおほかみ)なり。
是の神は、難波高津宮御宇天皇(仁徳天皇)の御世に顕れましき。
此の神は、百済より度(わた)り来まして、津国(摂津国)の御島(現在の高槻市)に坐しき、云々。
御島といふは、津国の御島の名なり。
と記され、百済から摂津に渡来した異国の神で、そののち大三島に遷座したという。
神社に伝わる古文書である『三島宮御鎮座本縁』や『三島宮社記』には、
第七代孝霊天皇の治世、天候不順で民が苦しんだとき、天皇が斎戒して神に祈ったところ、夢に人が現れ、
「面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと。この二柱は神世七代の第六)・大山積神を祭れば五穀豊穣となるであろう」
と神託を受けた。
天皇が大殿の内で三柱の神を祭ったところ、天候が時にかない五穀豊穣となった。
のち、天皇の第三皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと。別名、吉備津彦命)がこの三柱の神の御杖代となり、
伊予国の比比喜宮に斎き祭った。
そして崇神天皇治世、彦五十狭芹彦命は四道将軍の一として吉備を平定した後伊予に渡り、
三島大神の祭祀者を大山積神の後裔である小千命(をちのみこと)に定めた。
とする。
その後仁徳天皇治世に安芸国霧島(宮島)に遷座(あるいは勧請)、敏達天皇元年に播磨国大倉谷へ遷座(あるいは勧請)、
崇峻天皇二年に御島へ遷座(あるいは勧請)せよとの神託有り、推古天皇二年に御島へ社殿を建て遷座(大三島南東部)し、
文武天皇の大宝元年に現在地へ遷座せよとの神託あり、元正天皇の養老三年に遷座したと記す。
現在の由緒は、神武天皇東征時に小千命が天皇に先駆けて伊予に渡り、瀬戸内海を治めていたときに大三島に祖神を鎮祭したとしている。
奈良時代にはすでに存在していた古社であり、歴史の古さゆえにその正確な創祀についてはもう不明になっているということだろう。
ただ、その創祀伝承から、上古より瀬戸内海各地や朝鮮半島と深い関係をもっていたことがうかがえる。
大三島が瀬戸内海の要所にあり、
朝鮮との交流の中で海上交通の守護神として重んじられていったのは間違いないだろう。
社家の祖である乎(小)千命の子孫は越智宿禰(をちのすくね)の氏姓を賜わり、
代々小市国(をちのくに。のちに伊予国に統合されて越智郡となる)と神社を司り、
のち、律令制下で国の祭政が国司(政治)と国造(祭祀)に分離されると、氏族も二つに別れ、
郡司もしくは国衙への勤めを河野氏が、神社をを祝(はふり、ほうり)氏が継ぐようになった。
『先代旧事本紀』国造本紀には、小市(越智)国造について、
「軽嶋豊明朝(応神天皇)の御世に、物部連の同じき祖大新川命の孫、子到命(こちのみこと)を国造に定め賜ふ」
とあり、物部氏の一族と記す。
河野氏は現在の北条市や松山市に拠点を持ち、平安時代末期には平氏傘下から源氏に鞍替えして戦った。
承久の変において後鳥羽上皇に与したため一時衰退したが、
このときに時宗の開祖として知られる一遍上人が一族の中から出ている。
元寇において河野通有が伊予水軍を率いて弘安の役に赴き、浜辺に築かれた石塁の前方に布陣して九州の御家人たちの度肝を抜くと
(このエピソードは「河野の後築地(うしろついじ)」として知られる)、
さらに元軍に少数で夜襲を仕掛け敵将を捕らえるなど活躍。その恩賞で旧領を回復、河野氏を復興させた。
その姿は『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。
南北朝時代には南朝に与して戦い、最後は幕府と和解した。しかし細川氏の侵入を防ぐための戦いが続き、次第に衰退。
豊臣秀吉の四国征伐において小早川隆景の説得に応じ帰順、隆景の支配下におかれることとなったが、嗣子なく、その家系は絶えた。
祝氏は社家として今治市海岸部から大三島一帯に勢力を持ち、その宗家を大祝氏と呼んだ。
鎌倉末期には倒幕の兵を挙げて長門探題の兵を破るなど、社家でありながら武将の面も持ち、
水軍を率いて瀬戸内海に確固とした地盤を築いた。
戦国時代になると大内氏が瀬戸内海の覇権を得るべく大三島にも出兵を重ね、祝氏はこれと激戦を繰り広げる。
その戦は三度にわたり、その中で勇名をとどろかせたのが、わずか十六歳の少女、大祝鶴姫。
第二回の戦いで兄の死を受け水軍を率いると敵将を討ち取ってこれを撃退、
第三回の戦いにも水軍を率いて戦い、恋人といわれる越智安成の戦死にもひるまず奮戦してついにこれも撃退した。
伝説によれば鶴姫は戦勝後、兄と恋人の死を悼んで身を投げて死んだといい(享年十八といわれる)、「鶴姫伝説」として人口に膾炙している。
神社には、鶴姫の着用ともいわれる現存唯一の女性用(とされる)鎧が伝わっている。
島はその後大内氏の勢力下に入るが、神社への崇敬は損なわれることなく、江戸時代には松山藩の庇護を受けて隆盛、
大祝家は三島姓に変わるもその血筋を今に残している。
祭神の神名の意味は「大いなる(オオ)山(ヤマ)の(ツ)神霊(ミ)」であり、山の神だが、
山は水の源流でもあるので、水の神、ひいては五穀豊穣の神としての信仰も生まれた。
この神社は瀬戸内海中の島に鎮座するので、当然海の神、海運の守護神としての性格を持つようになり、
その崇敬の高さから武士も多大な奉献を行い、また社家の一族は瀬戸内海の水軍を率いていたため、
武神としても信仰されるようになった。
近代では日本海軍が多大な奉献を行い、
現在では全国の鉱山・造船関連の企業が崇敬者として外から神社を支えている。
しまなみ海道。 生口島より、多々羅大橋と大三島。 神社は大三島の西側の港に鎮座するが、大三島ICは島の東側にあるので、山を越えて行くことになる。 |
神社の西にある宮浦港。 写真左奥の岬には、飛地境内社の阿奈波神社が鎮座する。 |
港の前にある、一の鳥居。 |
鳥居から続く小道が参道になる。 | 社叢と、その背後に聳える安神山。 神社は安神山の麓に西面して鎮座する。 神社の周囲には道の駅やお土産屋、食堂が並ぶ。 |
鳥居前。 玉垣には瀬戸内海の造船会社などの名がずらりと並び、その崇敬の高さを実感できる。 扁額には「日本総鎮守 大山積大明神」とあるが、これには以下のような伝承がある。 「三蹟」の一として名筆をうたわれる藤原佐理が太宰大弐の職を解かれて京へ戻る途中のこと、 突如海が荒れてその船が越智郡の岩木島へ漂着してしまった。 その夜、佐理の夢に大山積大神が現れ、 「おまえの書をもって社の扁額にしたいので、おまえの船を留めたのだ」 と教えた。 佐理は大山積社に参拝して、 「このことを天皇に奏上いたしまして、その後に額をお書きして奉りましょう」 と申し上げた。すると順風満帆、佐理は無事京に帰ることができた。 佐理がこの出来事を天皇に奏上したところ、天皇は「日本総鎮守大山積大明神」の勅号を下されたので、 佐理はすぐさまその扁額を書き上げ、奉納した。 この扁額は神社に伝えられ、国の重要文化財に指定されている。 |
真新しい総門。平成二十二年四月十四日竣工。 総門は『一遍上人絵伝』や神社古図にも記されている建造物だが、 元亨二年(1322)正月十九日の火災で社殿ことごとく焼失して以来再建がなされていなかった。 古図をもとに、このたび688年ぶりの再建。 まだ門を守る随神がいらっしゃらない。翌年の完成になるとのことだった。 |
鳥居をくぐってすぐ右手にある、斎田と御桟敷殿。 旧暦五月五日に御田植祭、 旧暦九月九日に抜穂祭が行われる。 御田植祭では、早乙女たちが田に入って苗を植えていく。 写真を撮った位置の背後には絵馬殿がある。 |
御桟敷殿。 左記の二祭典において、神輿がこの殿内に渡御し、 祭典を御覧になる。 これらの祭典において、稲霊と人間の力士が角力(すもう)をとる、 「一人角力」という神事が行われており、 県の指定無形民俗文化財となっている。 目に見えない稲の神霊と人間が相撲をとるので、 見た目は本当に文字通りの一人相撲。 三本勝負で、二勝一敗で稲霊が勝つことになっており、 それによって今年の豊作、来年の豊作が約束される。 |
広い境内。 すぐ左手には神馬舎と馬神社(祭神:天斑馬)。 |
能因法師雨乞いの楠。 能因法師は歌人として知られる僧。 伊予国に旱があったとき、 伊予国守・藤原範国に乞われて雨乞いの祈願を行い、その際、 天の河 苗代水にせきくだせ あまくだります神ならば神 との歌を詠んだ。 すると三日三晩にわたって雨が降り続け、国中が潤ったという。 そのときに法師が幣帛を懸けたのがこの楠と伝わる。 |
この楠の背後には池があり、その中に宇迦神社が鎮座している。 池中の社は一般的には弁才天を祀っていたところなので、 ここはその社名からすると宇賀弁才天 (老翁相の白蛇である宇賀神を頭に戴いた弁才天) を祀っていたものだろう。 福徳の神であり、また龍神でもあるので水も司る。 |
これも大楠。国の天然記念物に指定。樹齢2600年といわれる。 社家の三島家の祖、乎千命御手植の楠といわれる。 現在は創祀を神武天皇の東征時としているので、 2600年というのは『日本書紀』の神武天皇即位年にもとづくものだろう。 元亨二年(1322)正月十九日の火災でいったんは焼けてしまったものの、再び枝葉を伸ばして今の姿になったという。 その幹はほとんど枯死しているようにみえるが、その太さは圧倒的で、その姿は神さびている。 |
大楠の右手に手水舎があり、 その奥に鎮座する葛城神社・祓殿神社・伊予国総社と その前にある祓殿。 |
その対面に鎮座する十七神社。 社伝では、後伏見院の正安四年(1302)、 浦戸神社と越智郡内の七つの島に点在する十六末社をあわせ祀り、 十七神社としたとする。 古図には「十六王子」と記されており、 神社の本地仏である大通智勝仏の十六王子の信仰と重ね合わされていた。 神仏習合の名残を見ることができる。 愛媛県指定重要文化財。 |
大通智勝仏は『妙法蓮華経(法華経)』化城喩品に登場する仏で、
立川のパンチ仏陀より先に存在した、いわゆる過去仏の一。
この仏は想像を絶するほどはるか昔に存在し、想像を絶するほど長い修行の末、悟りを開いた(成仏した)。
この仏は出家する前に十六人の王子をもうけており、この第十六子が(前世の)釈尊。
父が成仏したことを聞いた王子たちは父の元を訪れ、十方の梵天王は仏を供養・勧請し、とともに説法を請うたので
(上方梵天王の大通智勝仏供養文の中に、回向文として有名な「願以此功徳 普及於一切 我等與衆生 皆共成仏道」の偈がある)、
大通智勝仏は「四諦十二因縁」の教えを説いた。
(人の苦しみの原因となる煩悩を滅し、安楽な境地を得させる、方便によって人を導く法)
大通智勝仏は八千劫の間法華経を説いたのち八万四千劫の禅定に入り、(*劫・・・カルパ。43億2000万年)
菩薩となった十六王子は父の禅定の間に法華経を説いて人々を教化していき、
禅定を解いた大通智勝仏は、仏の知恵を確かに受持した十六菩薩を称えた。
十六王子とは、
(東方)阿閦仏、須弥頂仏
(東南方)師子音仏、師子相仏
(南方)虚空住仏、常滅仏
(西南方)帝相仏、梵相仏
(西方)阿弥陀仏、度一切世間苦悩仏
(西北方)多摩羅跋栴檀香神通仏(たまらばっせんだんこうくどくぶつ)、須弥相仏
(北方)雲自在仏、雲自在王仏
(東北方)壊世間一切怖畏仏(えせけんいっさいふいぶつ)
そして、娑婆国土の釈迦牟尼仏。
大通智勝仏を本地としているのは大山祇神社(とその勧請社)くらいで、本地仏としてはどマイナーな選択となる。
これは、安易に本地仏を観音・阿弥陀・釈迦などというメジャーどころとせず、
神社の「本社と十六末社」という関係に合致する仏を仏典から選び出したということだろうか。
本地仏が大通智勝仏であったため、
伊予河野氏は代々その名前に「通」の一字をつけたという。
神門。 | |
拝殿。奥に本殿。 向かって右手に上津宮(祭神:上津姫雷神)、左手に下津宮(祭神:下津姫高龗神)が鎮座する。 拝殿はシンプルな造りで地味な色合いだが、本殿は朱塗りの華麗な彩色。 上津宮・下津宮は現在本殿の左右に鎮座しているが、昔は本殿背後の石垣上に鎮座していた。 火・水の女神を祀る神社であり、古くはその祭祀に男性は携わらず、神職の妻・娘が奉仕したという。 |
下津宮前。 | 神門内。きれいに整備・掃除された、静かで落ち着いた空間。 |
北門から出ると、左手に神輿舎。 | 右手には、右から酒殿、八重垣神社、御鉾神社。 酒殿は大山積神、八重垣神社は素戔嗚尊、 御鉾神社は御鉾大神を祀る。 御鉾大神は三座だが、これは天瓊矛を用いた伊弉諾尊・伊弉冉尊と、、 八千矛神とも呼ばれる大国主神の三柱を祀る。 社伝では、小千命の祖は代々祖神より受け継いだ天瓊矛(天逆鉾)を 伝えてきたと記している。 |
瑞垣の北の外側に並ぶ末社。 手前から院内荒神社、地神社、稲荷神社、石神社。 |
下津宮と本殿の屋根。 |
本殿の後方に鎮座する姫子邑(ひめこむら)神社。三つの祠が並ぶ。 姫子邑神社は、古い社記には「比目木村神社」と記され、越智郡内のいずれかの島に鎮座していた末社が本社に遷座してきたもの。 『三島宮社記』には、旧鎮座地は越智郡岡村(岡本島?)、あるいは越智郡弘保島泊村であったと記す。 祭神は大山祇神の姫神である木花開耶姫命。 残るふたつの祠は、これも社記に、もとは境外末社であった火〔維+心〕神社(祭神:火闌降命)と若稚神社(祭神:火々出見命)を 遷座してきたものと記されており、これらの祭神は木花開耶姫命の御子神で、いわゆる海幸彦と山幸彦。 現在はこの三社を総称して姫子邑神社と呼んでいる。 木花開耶姫命は、燃え盛る室の中で火闌降命・彦火々出見尊ら、 天孫・瓊瓊杵尊の三柱の御子を無事に産んだことが記紀に記されており、 安産祈願の社として信仰されている。 永代常燈明は元文元年(1736)九月一日の奉献。 |
南門付近。 門の外側を石垣が囲んでいるが、 往時は上津宮・下津宮はこの石垣の上の土地に鎮座していた。 |
河野通有公兜掛けの楠。 二度目の元寇、弘安の役において筑紫に向かう河野通有が 神社へ祈願に訪れた際、兜を掛けたといわれる楠。 現在は枯死し、遺木となっている。 河野通有は石塁の後方で待ち構えるのではなく、 その前方に布陣するという豪胆さで島津をはじめとする九州の勇将を 感嘆せしめ、 また河野水軍を率いて元軍に夜襲を仕掛け、 敵将を捕らえるなどの大戦果を挙げた。 神社境内に何本も立っている大楠は、 まとめて国の天然記念物に指定されている。 |
神社の南から山麓にかけての一帯には、かつては神宮寺が存在した。 その区画にある、三基の宝篋印塔。 河野氏の出自である一遍上人が奉納したもの。国指定重要文化財。 ここから東南に向かえば、昔は神宮寺本堂であった祖霊社に至る。 また東には八坂神社・五穀神社の二末社が鎮座する。 さらに山麓には、もと神宮寺であった大通寺がある。 |
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宝物館・海事博物館受付。 神社の宝物を展示する宝物館と、 海洋研究を行っておられた昭和天皇の業績を展示する海事博物館があり、 1000円で両方を見てまわることができる。 神社にしてはちょっと高い・・・けど、 宝物は国宝・国指定重要文化財が惜しげもなく展示されており、 決して損はしない。 国宝の大太刀の輝きとか、尋常じゃねえです。 奉納者も斉明天皇、藤原佐理、平重盛、源頼朝、源義経、 武蔵坊弁慶、木曽義仲、和田義盛、北条時宗、河野一族、 護良親王、脇屋義助、後村上天皇、大内義隆、山中鹿之助、 藤堂高虎、歴代松山・今治藩主・・・などなど。 大祝鶴姫の鎧ともいわれる、 胸元広く腰の締まった鎧(国指定重要文化財)も展示されている。 ここの受付や館内の受付は女性神職さんが担当している。 |
神社のすぐ北の道向かいにある、安くてうまいと評判のお店。 行ったときは休みでしたorz |
神社後方に聳える安神山。 ごつごつとした岩壁が露出し、山の神が鎮まるに相応しい威容。 |
阿奈波(あなば)神社。
大山祇神社の飛地境内社。
宮浦の港から海岸沿いに南に進むと、その道路の突き当たり、御串山の麓の海辺に鎮座している。
『三島宮社記』には「穴場神社」と記され、越智郡内の島々に点在する十六末社の一だった。
祭神は磐長姫命。
大山祇神の姫神、木花開耶姫命の姉で、
記紀神話ではその容貌の醜さからニニギノミコトに嫌われて父のもとに返され、
それを恨んで皇孫、あるいは人間を呪いその寿命を縮めたとされているが、
中世になると、「この世の女性が決して自分のような目に遭わぬよう守護しよう」と誓ったという伝承が発生、
女性の守護神として信仰を集めていった。
そのため、本来の神格である健康・長寿に加えて、子宝や女性の下半身の病気に霊験ありとされた。
後半の霊験は淡島神と共通しており、社に下着を奉納する女性も多いという。
拝殿脇にある奉納品庫には、男性の陽物をかたどったものが多数奉納されており、
子宝への信仰が大であったことがうかがえる。
神社へ向かう道から、一の鳥居方面。 |
海岸に、大祝鶴姫の像。 | |
一の鳥居、そして神社のほうを向いて、 静かに座っている。 平成五年の年末時代劇スペシャル『鶴姫伝奇』では、 その二年前にNHK大河ドラマ『太平記』で 若き鎮守府将軍・北畠顕家公を演じた後藤久美子が 鶴姫を演じていた。 |
道の突き当たりが神社。 | 休憩所か参集殿か。 |
鳥居、拝殿と本殿。西向きに鎮座する。 鳥居には備後福山藩千田村(現・広島県福山市千田町)という文字が見え、末社ながらその信仰の広さがうかがえる。 |
奉納品庫。 男性の陽物をかたどったものが多数奉納されている。 |
では帰ります ぐるり360°の瀬戸の島々の美しさは実際に見てみないとわからない。 |