にっぽんのじんじゃ・ふくいけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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若狭国(福井県西部):

*遠敷郡(おにゅうぐん。小浜市、三方上中郡若狭町の一部、大飯郡おおい町の一部)
 もとは「小丹生(お・に・ふ)」と表記していたが、国名・郡名を「誤読の可能性の低い二字」に揃える動きがあり、
 「遠敷(おに・ふ)」の字が当てられた。

若狭彦神社 若狭神宮寺

若狭彦(わかさひこ)神社。

若狭彦神社(上社):小浜市龍前に鎮座。
若狭姫神社(下社):小浜市遠敷に鎮座。
遠敷川西岸の山の麓、1.5kmほどの間隔を置いて、
若狭彦大神をまつる上社、若狭姫大神をまつる下社が鎮座する。

『延喜式』神名式、若狭国遠敷郡十六座のうち、若狭比古神社二座〔名神・大〕。
若狭国一宮。
古くは上社が一宮、下社が二宮とされていたが、
現在は両社をあわせて一宮とする。
鎮座地名をとって一般には「遠敷明神」と呼ばれていた。

祭神は若狭彦大神・若狭姫大神。
それぞれ、彦火火出見尊(天孫・瓊瓊杵尊の御子。いわゆる山幸彦)、豊玉姫命(海神の娘。山幸彦の妻)を称えての呼称とする。
創祀は和銅七年(714)九月十日とされ、
遠敷郡下根来村の白石の里に示現し、その姿は唐人のようで、八人の眷属を従えていたという。
翌霊亀元年(715)九月十日に現在の上社の位置に遷座、
養老五年(721)二月十日には若狭姫大神を現在の下社の位置に分祀した。
旧社地である白石には白石神社が鎮座し、境外摂社となっている。
『和漢三才図会』には、「風土記に曰く」として、

 昔この国に男と女があって夫婦となり、ともに長生きして人はその年齢を知らず、
 その姿は若々しい少年のままだった。やがて神となったが、一宮の神がそれである。
 そのために若狭の国と称する。

という話を紹介している。
これが奈良時代の古風土記からの引用であることは疑問視されているが、
少なくとも中世以降はそういう話が流布していた。

国史初見は、『続日本紀』宝亀元年(770)八月一日条の、若狭国目従七位下・伊勢朝臣諸人らを遣わして鹿毛馬を奉納した記事。
その後、『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、
「若狭国従二位勲八等若狭比古神に正二位、正三位若狭比売神に従二位を授け奉る」
とあり、朝廷からは重く見られていたことがわかる。
その後、『日本紀略』仁和四年(888)十一月八日条には、一世一代の大神宝使が発遣されたことが記されている。

この神社は古来東大寺と深い縁を有しており、その縁起は以下のように説明されている。

 東大寺二月堂で毎年の修二会が行われることになり、
 それに先立って神名帳(じんみょうちょう。神々のリスト)を読み上げ全国の神々を勧請したが、
 遠敷明神はそのとき漁で忙しかったために集合に遅れてしまった。
 遠敷明神はおわびとして、二月堂の十一面観世音菩薩に対し、毎年閼伽水を送ると約束した。
 すると二月堂のそばに若狭井が湧き出したが、これは遠敷川の鵜の瀬に通じている。

二月、若狭彦神社は鵜の瀬において「お水送り神事」を行い、東大寺では「お水取り」を行って、
この伝説の再現を毎年行っていた。
現在では、お水送りの行事は若狭神宮寺が主導で行っているようだ。

小浜市中心部からは東南の外れに位置する。
下社が主要幹線道路である国道27号線にほど近く、現在はこちらに神職が常駐し、神事もこちらがメインに行われているようだ。
ただ、往古はやはり上社主導だったらしい。

上宮・若狭彦神社の社叢。
鳥居前。 境内に入り参道を進んでいくとその両側に二本の杉の巨木が建っており、
その姿から「若狭彦神社二の鳥居」と称されている。
森の中の薄暗い参道の先に神門。その手前に夫婦杉が立つ。
暗くて携帯写真がブレます
夫婦杉。
神門をくぐる。
神門の両側には、随神として片側四体ずつ八体の神像が立っている。創祀伝承にもとづくものだろう。
正面の空き地は拝殿跡。奥に本殿。
左手に、山中の湧水を引いてきた手水所がある。 本殿前。社殿の古び具合が独特の雰囲気をかもし出している。
燈籠は元禄五年の寄進?ごっつ古い。 若宮社。
両祭神の御子、日子波限建鵜葺草葺不合命を祀る。
神武天皇の父君。
周囲にはうっそうとした鎮守の森が広がる。

続いて若狭姫神社。

鳥居前。
国道に近く、開けたところに鎮座しており、境内も明るい。
社前の道路も交通量が多め。
奥に神門。
神門をくぐる。門の両側には、上社と同じく片側四体ずつ八体の神像が随神として控える。
手前に拝殿跡、奥に本殿。
垣内に巨木が立っている。



























繁り具合も圧倒的。
境内。 境内建物と末社。
手水場。これも自然水だった、はず。
ばんじゃーい 能舞台もある。



若狭神宮寺。

小浜市神宮寺にある。若狭彦神社上宮のもう少し上流。

『類聚国史』180・諸寺の項、天長六年(829)三月十六日条(『日本後紀』の逸文とされる)に、

  若狭国の比古神の神主として私朝臣宅継(きさきのあそん・やかつぐ)を当てた。
  宅継が提出した書状は以下のとおりである。
   古記を調査いたしますと、養老年間、疫病が多発して病死する者多く、時ならぬ大水や日照りで穀物も実りませんでした。
   宅継の曽祖である赤麿(あかまろ)は仏道に帰依して深山にて修行しておりましたが、
   若狭彦大神がこれに感じて人の姿をとって告げることには、
   「この地はわが住居である。私は神の身を受けてその苦悩は甚だ深い。
   そこで仏法に帰依し、神道より離脱したいと思う。この願いが果たされることがなければ災害を起こすだけである。
   汝は私のためによく修行せよ」
   赤麿はすぐに道場を建てて仏像を造り、神願寺と号して大神のために修行しました。
   以後、穀物はゆたかに実り、夭死する人はいなくなりました、云々。

と、神宮寺の起源が記されている。
奈良時代初期には、神は「神道」という輪廻の中のひとつの道のような位置にいるとされ、
仏法に帰依し修行することによってその輪を脱し救われる存在である、という考え方が主流であり、
多度大社の多度神宮寺なども同じような創建伝承をもっていた。
そのような考え方により、神社の境内に寺院(神宮寺)が建てられ、仏法による神の解脱を祈るようになっていった。
しかし、その考え方は一般には受け入れられず、やがて八幡神のような「神=仏法守護者」という解釈を経たのち、
「神=仏が権(かり)に現れた姿」という本地垂迹思想が主流となっていく。
若狭神宮寺でも、若狭彦大神=薬師如来、若狭姫大神=千手千眼十一面観世音菩薩(なんてハイブリッド)という
本地仏を祀るようになった。
神宮寺は若狭彦神社とともに大いに栄え、その境内に数多くの僧坊を数えた。
「お水取り」に見られるように東大寺との縁が深く、東大寺の初代別当である良弁はこの地の出身ともいわれる。
だが、明治の神仏分離に伴う廃仏毀釈運動でその大部分の施設を破却されてしまった。
立地的に神社からはもともと分離しており、とくに壊す必要もないはずなのだが、よほど過激な者がいたようだ。
神仏習合を色濃く残す寺院であり、
本尊の拝礼作法が「合掌一礼・二拍手・合掌一礼」を二回行うという、仏前で拍手を行う珍しいところ。
もともとが神社の神宮寺であった寺院では、現在も拝礼において拍手を行うところがある。

境内北端に建つ仁王門前。仁王門は国指定重要文化財。
モロに逆光で、仁王さん写らないでござるの巻

参道。
両側はほとんど空き地となっているが、
昔は僧坊がみつしりと立ち並んでいた。
参道右手に大膳院・大師堂が残る。
車で来た場合は東側の入口から入るのがよろしいです
本堂。
若狭彦大神=薬師如来と、
若狭姫大神=千手千眼十一面観世音菩薩
をまつる。
スダジイの大木。樹齢500年といわれる。
手前には護摩壇。
境内建物。
左端には閼伽井。
神社も。

閼伽井。
ここで汲んだ水を清めて「香水」とし、遠敷川の「鵜の瀬」に流して東大寺二月堂の「若狭井」に送るのが「お水送り」の神事で、
それを受け取る東大寺の行事が「お水取り」。
お水送りの時には、静かなこの一帯が人でごった返すとのこと。

遠敷川の両側には山が迫る。
もう少し上流に上れば鵜の瀬があり、そこは若狭彦神社の旧地であり、お水送り神事の場でもある。



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