にっぽんのじんじゃ・ふくおか

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*筑前国

太宰府天満宮


太宰府天満宮

太宰府市宰府4丁目に鎮座。
天神から西鉄天神大牟田線に乗って西鉄二日市駅で大宰府線に乗り換え、終点大宰府駅から東に向かうとそこはもう土産物屋の並ぶ門前町。
大宰府政庁跡は、天満宮から県道35号線~76号線沿いに南西へ2kmほど行ったところにある。
(本来の律令上の用字では「大宰府」だが、中世より一般的に「大きい」という意味には「太」の字を用いるようになったため、
「太宰府」という用字になり〔伊勢の内宮の正式名称「大神宮」も「太神宮」となっていた〕、現在は地名や天満宮などの一般的な用字は「太宰府」で、
政庁そのものを指す場合は「大宰府」の用字となっている)

祭神は「天神さん」こと菅原道真公。
後世の学者も彼を記すに「菅家」とその名前を記すことを憚った(系図にさえ名前を記さず「菅家」と記されている)、
日本史上屈指の天才。
菅原氏は、垂仁天皇に仕えた出雲国造の一族・野見宿禰の後裔ではあるが、
古墳造営・葬送儀礼を司った土師氏の子孫というやや低めの出自だった。
しかし桓武天皇の御世、「誰もが嫌がる凶事の職を一氏族に担わせるのはよろしくない」として土師氏はその職より解放され、
それぞれの居住地に因んで「菅原」「秋篠」「大枝(大江)」の氏名を賜わり、
その後、菅原氏は主に文章を司る家柄となっていた。(大江氏は儀式を司る家柄となった)
その家に生まれた道真公はその文才によって頭角をあらわし、讃岐国司として実績を積み、
宇多天皇の抜擢によって政治家としてめきめきと頭角を現し、醍醐天皇の代には右大臣の地位にまで上った。
しかし醍醐天皇を退位させて斉世親王(道真公の娘を妻としていた)を皇位につけるべく謀っていると讒言され
(藤原時平の策謀とされる)、大宰府権帥に左遷される。
太宰府では罪人同様に扱われたが、無念の中にも天皇を恨むことなくその恩を感謝し続けた。
戦前は必ず学校で教えられていた「九月十日」の漢詩、

  去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拝余香

もこのときつくられた。
その二年後、病にかかり、延喜三年(903)二月二十五日、その一生を終えた。
その遺体を都へと送り届けようとしたところ、遺体を乗せた牛車は大宰府を出たところで立ち止まり、動かなくなった。
これは道真公のご意志であろう、としてその場所に遺体を葬り、
二年後の延喜五年、門下の味酒安行がその地に廟を建て、その霊をまつった。
その後延喜十九年(919)、醍醐天皇は藤原仲平(藤原時平の弟)に勅してその祠廟の地に社殿を造営させ、これが太宰府天満宮の創祀となる。
当時は「安楽寺天満宮」と呼ばれ、長く神仏習合の神社であった(元が霊廟だったため)が、
明治になって神仏分離が行われた際、神社であることを選んで「太宰府神社」となり、
戦後、宗教法人登録する際、「太宰府天満宮」との社名になった。

道真公の死後、京中や国内では様々な不幸が立て続けに起こった。
洪水、旱魃、疫病が流行し、道真公の政敵であった左大臣藤原時平が若くして病没(延喜九年)するなど少なからぬ官人が死亡、
道真公の御霊が祟りをなしているという噂が広まり、醍醐天皇は大宰府の道真公の墓所に社殿を建てて祀らせられたが、
その後も不幸は止まず、皇太子に立てられた醍醐天皇の御子・保明親王が薨去(延喜二十三年)、
醍醐天皇は道真公の位を右大臣に復帰させ従二位から正二位に追贈されたが、
さらに続いて皇太孫に立てられた幼い孫・慶頼王までが薨去(延長三年、925)、
ついに宮中の清涼殿(天皇の住居、また政庁)での会議中に落雷が起きて死者が出る事態に及び、
醍醐天皇は心労のあまり病に倒れ、ほどなく崩御された(延長八年)。
この落雷により、道真公の魂は「火雷天神」「天満大自在天神」という雷神になったという噂が広まった。
そして民間より道真公を祀る動きが出てきて、右京七条の多治比文子が道真の託宣を受け自分の家のそばに祠を建てて祀り(天慶五年、942)、
近江国比良宮の神職・神良種(みわよしたね)の子にも同じ託宣があり、両者は北野の地に社殿を建てた(天暦元年、947)。
これが北野天満宮の創祀。
その後天徳三年(959)、藤原師輔によって社殿が寄進され、
永延元年(987)には一条天皇が勅命をもって北野祭を斎行させ、「北野天満宮」と勅号。
正暦四年(993)、道真公は贈正一位左大臣、次いで贈太政大臣となった。
このように、道真公は民間から天皇に至るまでの深い崇敬を受けて神となった。
当初は御霊としての信仰であったが、それが落ち着くと、生前は傑出した学者であったことから学問の神となり、
また、親に孝行し主上に忠誠を尽くしたその高潔な人柄から、至誠の人を守る神として信仰された。

京の北野天満宮とどちらが総本宮なのか、とよく言われるが、
それぞれ独自に創祀された神社なので、どちらが元、ということはない。
どちらも、道真公への深い崇敬により生まれた神社。

「天神さん」「学問の神様」として知らぬ者のない道真公、
参拝者は一年を通してひきもきらず。とても賑やかで、参拝すれば晴れ晴れとした気分になれるのでは。
ただし、いくら必死にお願いしても、本人が勉強しなければ道真公もどうしようもありません。
勉強せずに頭が良くなるとか物理的にありえない。
神様の助けを得るには、まず本人の努力が必要。
人が努力に努力を重ね、人としてやれることをやってやってやりきったその果ての、
人の力ではどうにもならない領域のところで目にみえない後押しをされるのが神様ということ。
ウルトラマンとかと同じ。

あと梅ヶ枝餅おいしいです

西鉄・太宰府駅前。 天神さま通り。左右には土産物屋が立ち並ぶ。
焼きたての梅ヶ枝餅は超美味い。
鳥居をくぐるとまず目の前に見える延寿王院の門。
かつては延寿王院安楽寺天満宮留守別当大鳥居家の宿坊であり、
現在は西高辻宮司(菅原氏)邸となっている。
延寿王院には、幕末、都落ちした三条実美ら五卿が滞在。
勤皇の志士たちがここに集って維新を図った。
かたわらにある道真公の歌碑。
有名な梅の歌、

東風ふかばにほひをこせよ梅の花 あるじなしとて春なわすれそ
(春になって東風が吹いたならばその花を咲かせ、
その匂いを風に乗せて太宰府の地まで届けて欲しい、梅の花よ。
主がいなくなったからといって、決して春を忘れてはいけないよ)

の歌が刻まれる。
初出の『拾遺和歌集』では第五句は「春を忘るな」であり、
「春な忘れそ」は後世の文献に見える形。
「な~そ」は「決して~してはならない」の意味。
心字池にかかる太鼓橋前。
太鼓橋・平橋・太鼓橋の三つの橋からなり、
過去・現在・未来の三世一念という仏教思想をあらわしている。
二の橋と三の橋の間に鎮座する末社・志賀社。
海の神である綿津見三神を祀る。
糟屋郡、志加海神社(現・志賀島の志賀海神社。安曇氏の氏神)
の勧請。
室町時代の造営で、国指定重要文化財。
橋の反りっぷりはかなりのもの。
正面には鳥居と、その向こうに楼門。
猿回しやっとる 歩く猿
赤子人形をあやす猿 輪くぐりを見せる猿
本殿。
桃山時代の造営で、国指定重要文化財。
境内は神仏習合の色濃く、拝殿がない。
本殿も寺院の本堂のような趣がある。
とくに祭日というわけではないが
参拝者はひきもきらず、
殿上には多くの祈願者が座っている。
飛梅。白い花を咲かせる。 皇后梅(きさいのうめ)。
貞明皇后(大正天皇皇后)が、
葉山御用邸よりご持参してお手植えされた紅い梅。
本殿左右に白・紅の梅が並び咲き、とても美しい。
臥牛の像。
道真公と牛は縁が深く、境内には多くの牛の像がある。
境内の池。
境内には自動おみくじ機とかあり、
韓国語のものもあった。けっこう来てるのか。
楼門の前の臥牛像。
塀の上には鳥。ずっと止まっていた。
後ろの奉納品の量も凄い。ビールとかコカコーラの山もあるよ。
宝物殿前の麒麟像。
かのトーマス・グラバーがなぜかこの像を大好きで、
「くれ!」
と神社に申し込んだが神社側は「だめ!」と断ったので、
グラバーは長崎の自邸にそのレプリカを作り、
のちに友人からビール会社を引き受けたとき、
その社名を「キリンビール」とした。
そういえばさっき楼門の前に積んであった
如水の井戸。
この地に隠棲した黒田如水が使っていたと伝えられる。
曲水の庭。
三月第一日曜日には「曲水の宴」が古式ゆかしく行われる。
天満宮東北の山の中に鎮座する天開稲荷社。 東には九州国立博物館がある。
こんな山の中にようこんな「イベント会場」作ったなあ、という感じ。


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