にっぽんのじんじゃ・ぎふけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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美濃国(岐阜県):

不破郡(関ヶ原町、垂井町、大垣市の一部)

南宮大社 大領神社 伊富岐神社

南宮大社(なんぐうたいしゃ)

不破郡垂井町宮代に鎮座。
南宮山の東北麓に位置する。

『延喜式』神名式、美濃国不破郡三座の一、仲山金山彦神社〔名神・大〕。
特に霊験ある神として、国家の大事などに際して行われる臨時祭「名神祭」にて祭られる「名神」に指定されている。
美濃国一宮。

『続日本後紀』承和三年(836)十一月四日条に、
「美濃国不破郡の仲山金山彦大神に従五位下を授け奉る。即ち名神に預かる」
とあるのが国史初見で、この時に「名神」の指定を受けた。
それから神階は徐々に昇階し、『日本三代実録』貞観十五年(873)四月五日条に正二位を授けられており、これが六国史に見える最後。
『日本紀略』仁和四年(883)十一月八日条には、一世一代の大神宝使が発遣されたことが記されている。
南宮大社と呼ばれるのは、美濃国府の南に位置する宮であることからの通称。
『梁塵秘抄』にその名が見えることから、かなり古くから呼び習わされていたようだ。
美濃国府はその後廃絶したが、南宮の呼称は今に残っている。

美濃国府の所在は、南宮大社の北方に「府中」という地名があり、
その中にある安立寺がもとは「府中寺」と呼ばれていたことからその周辺にあったと考えられていたが、
平成3年からの9次にわたる発掘により、もう少し南の「南宮御旅神社」の南一帯から国府正殿・脇殿跡が発見され、その位置が明らかになった。
南宮御旅神社はかつて「国府之宮」と呼ばれ、美濃国内の神々を祀る「総社」と伝えられており、
現在は南宮大社摂社で、神輿渡御の御旅所となっている。
「総社」は、国司が管内の神社を巡拝する労を軽減するために管内神社を一括勧請して祭った社であるとされ、
そのため国府の敷地内、あるいは隣接する土地に置かれていたとみられている。
また、一宮は、その「国司巡拝」において国司が最初に参拝する神社をそう呼んだのが起源とされる。
垂井の地は古代の美濃国の行政・信仰の中心地だったといえるだろう。

社殿は関ヶ原の戦いのあおりを受けて焼失したが、
寛永十九年(1642)に江戸幕府三代将軍・徳川家光によって再建された。
現在の社殿はそのときのもので、国指定重要文化財となっている。

祭神は金山彦(かなやまひこ)神。御名どおりの金属の神。
神話では、伊弉冉尊が火の神軻遇突智を生んだことによる火傷で苦しむ中、その嘔吐物から化成したとされる。
神話学的には、大地母神的性格を持つ伊弉冉尊と火神によって金属が生まれた、という、
土と火によって金が生成するという古代人の考えを反映しているか。
あるいは、大陸から輸入された五行思想も反映されているかもしれない。
ちなみに『日本書紀』の一書には、伊弉諾尊が妻の死に怒って軻遇突智を斬り殺した際、飛び散った血が草に染み込み、
これにより「草が火を含む」ことになったという伝承がある。
草木はよく燃える、また誰も火をつけていないのに野火が起こるという自然発火現象の原因を古代人はそのように理解していた。
神話はただ奇想天外な話ではなく、当時の人々が、
「この世界はどのようにして成り立っているのか」
「いま、身の周りにあるものの起源はいったいどのようであったのか」、
それを真剣に考えた中から生まれたものであって、その姿勢は今でいう「科学」の探求と基本的には同じもの。

美濃地方は四世紀ごろから鉄鉱石の発見とともに製鉄が始まり、飛鳥時代には一大鉄器生産地となっていた。
いったんは吉野に隠棲していた大海人皇子がついには朝廷軍を打ち破って皇位に就いた「壬申の乱」においても、
皇子はまず東国を目指し、不破関に拠って戦力を整えたが、美濃の鉄製武器はそれに大きく貢献しただろう。
それからも美濃の製鉄は発達を続け、刀剣においては「孫六兼元」や「和泉守兼定」の双璧をはじめとする多数の名工を輩出した。
そういった鉄に関わる職人たちの信仰を集めた神社といえる。
平安末期に編まれた『梁塵秘抄』には、
「南宮の本山は信濃国(諏訪大社)とぞ承る。さぞ申す、美濃国(南宮大社)には中の宮、伊賀国(敢国神社)は稚(をさな)き児(ちご)の宮」
とあるように、信濃・美濃・伊賀三国の一宮である諏訪大社、南宮大社、敢国神社が同じカテゴリーに入って序列が付けられていたことがわかる。
これは各神社の信仰の広まりによる交流から生まれたものだろうか。

旧中山道(県道234号線)沿いに立っている石鳥居と常夜燈、
そして「南宮社 江 八町」と記された標柱。
鳥居は寛永十九年の徳川家光公による社殿再建の際、石屋権兵衛が四百両を投じて寄進したと伝えられる。
この一帯には中山道と美濃路の追分となる「垂井宿」が置かれており、
鳥居の周辺では毎月五・九のつく日の六日間に「六斎市」が立ち、大変賑わっていたという。
八町というと874mほどだが、現在はここから南宮大社まで1.2kmほど。
ということは、江戸時代の社域は現在よりも350mほど北、朱色の大鳥居のあたりまであったということ。

ここから北に向かうと、南宮御旅神社および美濃国府跡。

南宮大社方面へ向かう途中、高架前右手にあるのが、史跡・垂井の泉。
県指定天然記念物・垂井のケヤキの根元から古来湧き出ている泉で、全国名水百選にも選出されている。
聖武天皇の美濃行幸の折に立ち寄られた「曳常泉」もこれであるといわれ、
古くより知られた場所であり、多くの歌や俳句に詠まれている。
むろん近隣の人々や垂井宿を訪れた旅人たちの憩いの場でもあった。

                                藤原隆経
  昔見し たる井の水はかはらねど うつれる影ぞ年をへにける  

  葱しろくあらひ上たる寒さ哉  芭蕉

背後には、臨済宗の玉泉寺がある。
高架を渡って東に寄り道すると、時宗の金蓮寺。
天台宗寺院として開基したが、室町期に時宗へと改宗した。
ここは、結城合戦に敗れ捕らえられた鎌倉公方足利持氏の遺児・春王丸と安王丸が、
京に護送される途中で将軍足利義教の命令により殺害された場所。
春王丸は享年十二、あるいは十三だったという。
この西に史跡・春王安王墓があり、同時に関ヶ原の戦いにおける池田輝政陣地跡でもある。

幼くして亡くなった二人の辞世の句も残されている。

夏草や青野が原に咲くはなの身の行衛こそ聞かまほしけれ  春王丸
身の行衛定めなければ旅の空命も今日に限ると思へば  安王丸

青野原は関ヶ原の古名。
南朝の北畠顕家が北朝軍を破った「青野原の戦い」などでその名が知られる。
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は結城合戦をその発端としており、
また第十五回にて、足利持氏の遺臣にして犬塚信乃の父・大塚番作が、
斬られた春王丸・安王丸の首を奪い、鄭重に葬る描写がある。
八犬伝ファンなら訪れておきたい場所だろう。


朱色の大鳥居。
中部地方随一といわれる大きさ。
石鳥居のところの標柱「南宮社へ八町」というのは大体このあたり。
往古はここから南宮大社の社域だったのだろう。
南宮大社への参道は工事中で、迂回。
南宮山方面。
到着。
社域は非常に広大で、
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ
という擬音がつきそうな、迫ってくるような雰囲気がある。
楼門。
正面の太鼓橋(「石輪橋」)は神の通り道であるため、
一般人は渡ることができない。
写真右手外にある橋を渡っていくことになる。
楼門の両脇には随神が控えている。

境内。正面は舞殿。
酸性雨などに伴う桧皮葺屋根の破損が著しいために拝殿屋根の葺き替え工事が行われており、
参拝は舞殿から行うようになっていた。
そのため、気分的にはやや残念。
賽銭箱の上の御簾に五十円玉がはさまっていたのがごっつ気になった。
注連縄に賽銭投げて突き刺さったら云々的なやつだろうか。


境内案内図。ここに記されていない摂末社も多い。
南宮大社には神宮寺があり、境内には塔などの仏法施設が多かったが、
明治の神仏分離に伴い、僧坊のひとつ・真禅院が朝倉山麓に移転し、朝倉山真禅院となった(案内図右上)。天台宗。
本地堂・鐘楼は徳川家光再建時のものを移築したもので、国指定重要文化財。
もとは神社境内南にあった。案内図では左側の山麓一帯。

大領(だいりょう)神社。

不破郡垂井町宮代
南宮大社から東へ300mの森の中に鎮座。

『延喜式』神名式、美濃国不破郡三座の一。
現在は南宮大社の摂社で、美濃国二宮。
「大領」とは、大領・少領・主政・主帳からなる「郡司」四等官の最高官で、国司のもとで各郡の郡政を取り仕切る役職。
地方豪族が国司の推薦によって朝廷から任命される職であり、任期のない終身官だったが、
原則として三親等以内の連任は禁じられていた。

祭神は宮勝木實命(みやのすぐりのこのみのみこと)。
宮が氏の名、勝は「村主」で姓であり、木実が個人名。
仲山金山彦神社の神官であり、壬申の乱(672)において大海人皇子(天武天皇)が吉野を脱出して不破関に到ったとき、
皇子を館に迎えると仲山金山彦神社に戦勝を祈願、一族を率いて不破の関を防ぎ、乱の平定の端緒を開いた。
乱平定後、宮勝木實はその功により、
不破評(のち大宝元年に郡制移行)の大領に任ぜられる。
そして『続日本紀』大宝二年(702)十一月十七日条には、持統太上天皇の行幸が美濃国に到着したとき、
不破郡大領宮勝木實に外従五位下を授けたという記事がある。
霊亀元年(715)木實が卒すると、人々はその功をたたえて木實を神として祀り、これが大領神社の創祀とされる。
現在、人を神として祀っている神社は多いが、地方の氏神がほとんどである延喜式内社の中では珍しい。
それだけこの人の功績が大であり、人々からの崇敬も篤かったということだろう。

関ヶ原の戦いでの徳川家康最初陣地である桃配山の名の由来は、
不破に到着し野上行宮に入った大海人皇子が野上郷の民からの献上品である桃を食べて感動し、
宮勝木實に命じて桃を集めさせ、その山で軍兵に配布し督励を行った、という伝承からきている。
徳川家康最初陣地から国道21号線(中山道)を東に約1km、真念寺の東にある工場の東脇から南へ伸びる道を上がっていき、
東海道新幹線の高架下をくぐってさらに登っていったところが野上行宮跡とされている。
家康は桃配山に布陣した後、すぐに陣を移した。
天下分け目の一戦を前に、家康は天武天皇の故事にならい、験を担いでまず桃配山に布陣したのだろう。

鳥居と拝殿ほか。
鎮守の森。
もとは本殿周囲をびっしりと囲んでいたのだろうが、
北の道路開発とその周辺開発によるものか、
東部分はバッサリといかれている。

伊富岐(いぶき)神社。

不破郡垂井町伊吹に鎮座。
不破関の東、伊吹山東南麓に鎮座する。

『延喜式』神名式、美濃国不破郡三座の一。
美濃国二宮。
『文徳天皇実録』仁寿二年(852)十二月二日条に「美濃国伊富岐神を以て官社に列す」とあるのが国史初見で、
このとき以来官社として毎年の祈年祭班幣に預かる神社となった。
六国史内では『日本三代実録』元慶元年(877)閏二月二十一日条に従四位上に昇階した記事が最後。
近江国坂田郡鎮座の同社名である伊夫伎神社よりは低い神階であり、
伊吹の神を祀ることについては近江国の伊夫伎神社のほうが本社的な扱いだったようだ。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにて社殿は兵火にかかり焼失したが、
六年後の慶長十一年(1606)の棟札があることから、その後間もなく再建されたことが知られる。

伊吹山は、近江国と美濃国の境にある伊吹山地の主峰。その南には三関のひとつ、不破関が置かれていた。
記紀には、伊吹山に荒ぶる神がいると聞いた日本武尊が草薙剣を置いて伊吹山に向かったが、
山中で出遭った生物(記では白猪、紀では大蛇)を山神の遣いと思い、それに対して山神を侮蔑する言葉を吐いたため、
実は山神の化身であったその生物は氷雨を降らせて尊を撃ち悩ませ、衰弱した尊はついに大和に還らずして伊勢国にて崩じた、
と記されている。
また、京の都を悩ませた「酒呑童子」もその出身は伊吹明神の子・伊吹童子の孫といわれ、
童子の住処は大江山ではなく伊吹山とする異本も残っている。
伊吹山麓には古くから平安期に至るまで強大な勢力(あるいは、恐るべき存在)が住み着いていたことがうかがえるが、
事実、発掘によって四千年前の縄文時代から人々が集落を形成していたこと、
東日本の土器や石棒の出土から、東西交流の地であったことがわかっている。
この石棒は祭祀の場に立てられていたと推定されており、伊吹山麓から集中して発見されていて、
これにより伊吹山に対する信仰は縄文時代には芽生えていたと考えられている。
そして、この神社は伊吹山を遥拝する場として創祀されたものだろう。
古代において神体山はみだりに立ち入るものではなく、遥かに仰ぎ望む存在だった。
山中に社寺が建つようになったのは、修験道の流行以降のこと。
近江国伊夫伎神社と同文)

伊吹山からは遠い地に鎮座しているが、近江の伊夫伎神社よりも境内を広く大きく構えている。
中山道沿いであり、往来が栄えていたおかげで氏子からの奉賛も大だったのだろう。

東海道本線と国道21号線(現在の中山道)の間を走る、
旧中山道の松並木。
昔の旅人はこの並木の陰で休憩、疲れを癒していた。
関ヶ原町の天然記念物に指定されている。

この写真の左外、現中山道の道向かいのあたりに桃配山がある。
街道沿いにある、「六部地蔵」。
全国六十六ヶ国を行脚し、
各国に一ヶ所ある霊場に法華経を奉納していく行者のことを
「六十六部廻国聖」と呼び、その略が「六十六部」さらに略して「六部」。
宝暦十一年(1761)ごろ、
そういった六部の行者が行脚の途上この地で亡くなり、
地元民がそれを祀ったものといわれている。
歯痛など、痛みのひどい病を癒す霊験で知られている。
旧中山道沿いに立っている、伊富岐神社一の鳥居と燈篭。
ここから北へ参道が伸びる。神社まで約800mくらい?
踏み切りで東海道本線を越え、バイパスの下をくぐる。
神社手前。
以前はこの付近に木造の二の鳥居が立っていたが、
老朽化のために解体したらしい。
境内入口。 境内と社殿。
境内には雪が積もっていたが、
拝殿への石畳の道だけは雪かきがなされていた。
広大な境内で、後背の森も雄大。
拝殿の向かって左に立つ大杉が圧倒的。
拝殿。向こうに本殿。
伊吹山一帯を治めていた伊福氏は尾張氏と同族で天火明命を祖神としており、伊吹大神=天火明命とする説が古来あったことから、
天火明命の御子神九柱を本殿の左右に祀っている。
「美濃国内神名帳」には「伊福貴(いぶき)一御子明神」から「九御子明神」までの名が見え、中世からあったようだ。
本殿や摂社屋根が朱色に塗られているのは南宮大社に依ったものか。
大杉。
目通りの直径6.6m、高さ30m。
四本の幹に別れて伸びており、まことに堂々とした姿。
樹齢300年以上とされ、言い伝えでは、
関ヶ原の戦いにおいて社殿が兵火にかかったとき、
神体をこの大杉の幹の分かれ目に安置して無事であったという。
古来神木として崇められている。
岐阜県指定天然記念物。







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