これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
飛騨国(岐阜県):
飛騨国には、国内の主要な大社の式年祭や何かの記念の祭において、
その神社に飛騨国内総ての神様を招いて盛大に祭りを執り行う習わしがあり、これを「飛騨の大祭」という。
この時には、その神社に国内のすべての神社の神輿が集まり(現在ではなかなか全てとはいかないようだが)、
境内は大変な盛況となる。
直近では、平成23年5月に高山市の桜山八幡宮にて行われた。
大野郡(現在の高山市の大部分、白川村、下呂市の一部)
飛騨一宮水無神社 | 桜山八幡宮 | 日枝神社 | ||
白川八幡神社 | 鳩谷八幡神社 | 飯島八幡神社 |
岐阜県高山市一之宮町に鎮座。
高山の市街地から南に外れた山の麓、二本の川が合流する地点。
こういった川合の地に鎮座する神社は多い。
『延喜式』神名式、飛騨国大野郡三座の一。小社。
飛騨国一宮。
『日本三代実録』貞観九年(867)十月十五日条に、飛騨国従五位下水無神に従五位上を授けたという記事があり、
これが国史初見。
この時、同時に飛騨国正六位上の大歳神、走淵神、四天王神、遊幡石神、彦度瀬神、道後神に従五位下が授けられていて、
いずれも『延喜式』神名式の飛騨国八座のうちにはみえない社。(いわゆる国史見在社)
その後神階は順次上がっていき、同書元慶五年(881)十月九日条には従四位上を授けられており、
これが国史に見える最後。
ちなみにこの時、同じ飛騨国内の気多若宮神に従五位上が、賀茂若宮神に従五位下が与えられている。
定期的に神階を授けられ、また飛騨国内最高の神階をもっていたことから、
当時から飛騨国第一の社と考えられていたことがわかる。
中世には近隣十八か村を社領とし隆盛したが、戦国の戦乱の中でいったん衰微。
しかし江戸時代の太平の世となると、歴代領主、そして天領になると代官・郡代、そして一般の崇敬を集めて復興。
明治になると国幣小社に列せられ、昭和には大造営がなされて現在の社殿となった。
主祭神は水無神(みなしのかみ)。五穀の稔りを司る御歳神(みとしのかみ)と同一とされる。
「みなし」は「水主」の意と言われ、
神社の南西にある位山(くらいやま。標高1529m)が太平洋・日本海それぞれに流れ出る川の源流となる分水嶺であることから、
水を司る神として位山を崇拝したのが起源ではないかと考えられている。
相殿に大己貴命、少彦名命、天照皇大神、豊受姫大神、応神天皇、神武天皇、天火明命など十五柱を祀る。
古来、飛騨一宮である水無神社の神がどの神にあたるのかという比定がさかんに行われていて、
相殿に祀られているのはそれらに挙げられている神々となっている。
もともとは位山の神であったとすると、そういった記紀に見える神々や諸天皇への比定が一定しないのは当然で、
社名にある「水無神」で充分といえるだろう。
天皇の即位、また改元にあたっては、位山のイチイの木から御用の笏を作って献上する例となっている。
位山は古来神が住む霊山とされ、
『日本書紀』仁徳天皇六十五年条に、
飛騨国に一人の人がいて、宿儺(すくな)といった。
その人となりは、一つの体に二つの顔があって、その顔は互いに反対を向いていた。頭の頂は一つになり、項はなかった。
それぞれに手足があり、膝はあるが、ひかがみ(膝の裏の窪みの部分)や踵はなかった。
力は強く、敏捷であった。
左右に剣を佩き、四本の手はともに弓矢を使った。
そうして皇命に従わず、人民を略奪して楽しみとした。
そこで、和珥臣の祖、難波根子建振熊を遣わして誅殺させた。
とみえる異形の人、いわゆる「両面宿儺(りょうめんすくな)」もこの山中に住んでいたといい、
また山中には巨石が多く、偽史『竹内文書』で知られる酒井勝軍はこの山をピラミッドであると主張、
いわゆる古史古伝信奉者にとっては重要スポットとなっている。
あとスキー場もあります。
市や県の天然記念物に指定される樹木が多く、さすがは飛騨の一宮といった感じ。
川のそばで、周囲を緑に囲まれ、とても涼やかで気持ちがいい。
境内前。緑に囲まれた神社。 |
神社の前には川が流れる。 この川はすぐ先で位山から流れ下る宮川の支流に合流し、 その支流は500m先で宮川に合流する。 |
境内へ入って左に見える絵馬殿。 もとは拝殿であり、慶長十二年(1607)、高山城主金森長近により造営された。 安永七年(1778)、百姓一揆に加担した水無神社の社家が連座して廃され、信州から新たに神主を迎えたが、 この神主は境内から仏教色を一掃、それに伴い社殿の多くを取り壊して新たに造営したが、この拝殿は取り壊されなかった。 明治になり、社殿が伊勢の神宮と同じ神明造になった際にいったん取り壊されたが、 氏子はその資材を保管し、願い出て元の位置に復元。 その後昭和の大造営にともなって拝殿も造替されることとなり、拝殿はこの位置に移され、絵馬殿となって今に至る。 元は杮(こけら)葺だったが、現在は銅板に葺き替えられている。 |
神馬舎。 神馬は左甚五郎作と伝わる。 通称は「稲喰いの神馬」。 この神馬は神社を抜け出して稲を食い荒らしていたため、 村人たちは神馬が出歩けないようにその目を抜いたという。 そのため、この神馬には目玉がない。 古来、黒馬は雨乞いの時の幣帛として神に捧げられており、 この神馬も雨乞いに験ありという。 |
島崎正樹宮司歌碑。 きのふけふ しぐれの雨ともみぢ葉と あらそひふれる 山もとの里 正樹 島崎正樹は島崎藤村の父で、 明治七年から十年まで水無神社宮司をつとめた。 『夜明け前』の登場人物、青山半蔵のモデルとなった人物。 |
境内。 右に少し見えるのは白川神社。 白川村の二つの集落が昭和32年からのダム開発で湖底に沈むことになったとき、 その氏神をこの地に遷座、合祀した神社。 |
本殿。 | 爽やかな境内。 |
神馬舎の隣にある、ねじの木。 昔、氏子たちがこの木を切り倒して普請に使おうとしたとき、一夜にして幹はおろか梢まで捻じ曲がってしまい、 氏子たちは恐れて伐採を中止、神に陳謝した。 その後安永五年、洪水で流失した宮川の大橋再建のための材木にこの神社の木が充てられようとしたとき、 神社側がこの木の神異を持ち出して説明したところ、神社の木を伐採することは沙汰止みとなったという。 |
市指定天然記念物の二本桧。 現在は一本だけだが、かつては二本だったことからそう呼ばれる。 推定樹齢七百年以上。 |
県指定天然記念物の大杉。樹齢八百年。 |
岐阜県高山市桜町に鎮座。
日枝神社とともに「高山祭」の主体となる神社。
主祭神は八幡大神(応神天皇)で、熱田大神(日本武尊)、香椎大神(仲哀天皇、神功皇后)を相殿に祀る。
仁徳天皇の御世、飛騨において両面宿儺という者が反乱を起こし(位山にいたともいわれる)、
これを討つために遣わされた難波根子武振熊命(なにはねこたけふるくまのみこと)が先帝の応神天皇を祭った地といわれ、
清和天皇の御世にこの地を八幡宮の神域と定められ、大永年間(1521~1527)に石清水八幡宮を勧請し産土神としたのが創祀と伝えられる。
江戸初期の元和九年(1623)、
領主金森重頼公が社殿を造営、神領を寄進して高山府の総鎮守社とし、町の北半分の地を氏子と定めた。
その後、天領(幕府直轄地)となってからも、代官・郡代の崇敬が篤かった。
高山の古い町並みの北の山麓に、西を向いて鎮座する。
秋の例祭には氏子区域内の各地区から屋台(いわゆる山車)が出て、華やかに祭りを彩る。
春の日枝神社の例祭も屋台が出る祭りで、この春と秋の二つの祭を総称して「高山祭」と呼び、
日本三大曳山祭、あるいは日本三大山車祭の一に数えられる。
屋台は国指定の重要有形文化財であり、祭礼は国指定重要無形民俗文化財。
有形・無形ともに国の文化財指定を受けているという、数少ない祭り。
境内には高山祭屋台会館という施設があり、屋台の実物をローテーションで常設展示している。
古来より「飛騨の匠」と呼び習わされた、熟練の工匠の技術を見ることができるだろう。
高山の町に堂々と鎮座する壮大な神社。
高山の人々の崇敬の高さと心意気を感じることができる。
宮川の岸、宮前橋のほとりに立つ一の鳥居。堂々たる大鳥居。夕陽を浴びております。 屋台が通るため、この大きさとなっているらしい。 神社までの両側には商店が並ぶ。 |
表参道を神社へと向かう。社号標が見える。 目の前を横切る通りは「越中ぶり街道」。 富山で水揚げされた鰤を、高山、そして信州松本へと運んだ道。 この交差点を左に曲がると、屋台のひとつ「鳳凰台」の蔵がある。 |
二の鳥居が見えてきた。 |
二の鳥居は石ではなく、檜造り。 木造の鳥居はかっこいい。 もちろん長持ちはしないので定期的に建て替えないといけないが、 それをよしとする高山の人の太っ腹さが感じられる。 |
二の鳥居をくぐって左にある、「神楽台」の屋台蔵。 神楽台は屋台に大太鼓を載せた形式で、 その太鼓のあまりの響きが他組の恨みを買い、 切りつけられたという逸話もある。 巡行においては楽人五人を乗せ、獅子舞が随行する。 |
三の鳥居前。 |
神門。 夕方遅かったので、門はすでに閉じておりましたorz なのでこの位置から遥拝。 本殿を囲む森の威容が素晴らしい。 左手前の屋根は手水舎。 |
ななめから。社殿がちょっと見える。 |
本殿の南には秋葉神社が鎮座。これはその拝殿。 秋葉神社の祭神は火結神(ほむすびのかみ)で、 火の神であり火難除けの神様。 天領時代には、高山陣屋の鬼門鎮守の神として深く崇敬された。 |
拝殿内には奉納絵馬が多数かかっている。 |
高山祭屋台会館。 屋台、そして高山祭についての展示がおこなわれている。 |
岐阜県高山市城山に鎮座。
櫻山八幡宮とともに「高山祭」の主体となる神社。
永治元年(1141)、飛騨国守の平時輔が近江国・比叡山の日吉神社(延暦寺の鎮守社)を勧請した神社。
当初の鎮座地は三仏寺城(高山市三福寺町)近隣だったが、間もなく治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)が起こり、
養和元年(1181)に木曽義仲が三仏寺城を攻撃し落城させた際に神社も焼失。
このとき御神体は救出されて片野村杉ヶ平(高山市片野町杉ヶ丘)に遷し祀られ、以来片野村の産土神として長く祭られていたが、
慶長十年(1605)、高山藩初代藩主・金森長近が高山城の守護神として現在地に遷座し、
町の南半分を氏子とすることが定められた。
その後、高山が天領となり高山城が廃されたのちも高山陣屋の鎮守社として崇敬され(神輿御旅所は陣屋前にある)、今に至る。
近世までは「山王権現宮」と呼ばれ、山王権現を祀っていた。
山王権現とは比叡山延暦寺が比叡山の守護神として祀っていた神。
元の社名は日吉神社(ひえのかみのやしろ。現在はひよしじんじゃと読む)だが、本地垂迹説により山王権現と呼ばれるようになった。
本地を釈迦如来とし、天台宗の浸透と鎮護国家・増福延命・無病息災という神徳と共に広い信仰を獲得し、全国に広まっていった。
比叡山の山王権現は、もともと比叡山の神であった大山咋神(おおやまくいのかみ)に大和・三輪山の大物主神を合わせ祀ったものだったが、
神仏分離により、全国の山王社は日吉神社、日枝神社などに改められ、祭神は大山咋神となっている。
大山咋神はその神名どおり山の神であり、
また、同じく大山咋神を祀る京都の松尾大社を氏神として奉斎していた秦氏が酒造を生業としていたことから、
酒の神としての信仰もある。
境内の北は高山城跡で、現在は城山公園となっている。
ここが表参道になるのかしら | 坂、そして石段を上ると鳥居。 |
石畳の参道を歩いてゆく。山の麓で、森に囲まれ辺りは薄暗い。 奥の建物は社務所か。 |
神輿倉。神輿二基がおさめられている。 神輿は文化十四年(1817)竣工。 |
鳥居と、拝殿へ続く石段。 |
拝殿。ちょっと変わった形式の建物。 安永八年(1779)造営で、高山市指定文化財。 避雷針?がついている。災害防止のためのものだろう。 |
拝殿の右手に鎮座する富士社。 木花開耶姫命を主祭神とし、金刀比羅神社・恵比須神社を合祀する。 この富士社社殿はもとの日枝神社本殿で、 寛延元年(1748)に造営され、昭和十年に豪雨による土砂崩れにより破損したが、 その際本殿を再建し、旧本殿を修理して富士社社殿として移築したもの。 県の重要文化財に指定されている。 平成七年に外観の極彩色の補修が行われ、造営当初の姿を取り戻している。 根元が写っているのは日枝神社の大杉。推定樹齢1000年で、県指定天然記念物。 |
ちょっと離れても全然撮りきれない。 |
拝殿左手の末社二社。 奥が稲荷神社で、手前は・・・・ 確か天満宮だったっけ。 |
裏手の山中に鎮座する飛騨高山高椅(たかはし)神社。 地元の料理人さんたちが奉斎する神社で、料理の神様である磐鹿六雁命(いはかむつかりのみこと)を祀る。 磐鹿六雁命は第十二代景行天皇の臣。 景行天皇が皇子・日本武尊の崩後、その平定地である東国を巡られた時、 磐鹿六雁命は安房にて天皇に堅魚と白蛤の膾を料理して献上し、それが美味であったので天皇より膳大伴部の姓を賜り、 その子孫はのち高橋朝臣の姓を賜って代々大膳職として宮中の食膳を司った。 その由緒により、磐鹿六雁命は料理人の祖神として信仰されている。 この神社は、栃木県小山市の高椅神社(延喜式内社)を勧請したもの。 |
岐阜県大野郡白川村萩町、
世界遺産・白川郷に鎮座。
かつては庄川流域一帯に広がっていた上下白川郷四十三か村の総産土神であり、
現在は白川村の荻町・戸ヶ野・島集落(庄川東岸の南北に伸びる一帯)の産土神となっている。
八幡神社なので、祭神は応神天皇。
勧請年代は不詳。
言い伝えによれば和銅年間(708-714)と伝えられるが、
古代において宇佐八幡宮が勢力を拡げていくのは八幡神が東大寺大仏造営推進の神託を発して以降であるので、
おそらくは古くから白川郷の神を祀っていたところへ、後世に八幡宮が勧請されたものだろう。
古来、秋の例祭においてはその年の稔りを神に感謝し、新穀で神酒を醸して神に捧げ、皆で喜び祝う「どぶろく祭」が行われており、
現在もどぶろくを醸し神に捧げたのちに村を挙げての盛大な神幸祭が執り行われ、
還御後、神に献じたどぶろくのお下がりを皆で飲み交わし、その後も夜遅くまで芸能が上演される。
昔は人口も多く、今よりも大規模に行われていたそうだが、
現在では老若男女問わず毎年誰かが何かの役に当たる、という状況らしい。
それでも神幸では長い行列を組み、獅子舞や童子舞など様々な神賑行事が行われ、非常に華やか。
その光景は、境内の「どぶろく祭りの館」でのビデオ上映や展示などで知ることができる。
また、どぶろくも頂くこともできるが、お酒なので、車でお越しの場合はよく考えて。
白川郷内のどこかの店には「どぶろくジェラート」があった。
なお、「どぶろく祭り」はこの神社だけではなく、この一帯の五社において行われていて、ここはその一社。
某ひぐらしの某神社のモデルという事で絵馬所はいつもすごいことになっており、訪れる人も多い。
聖地巡礼もいいですが、神様のお宅でありますのできちんと参拝(御挨拶)もしようず。
城山展望台より、白川郷荻町地区。 向かって右手には南から北(写真奥から手前)へ庄川が流れる。 中央の通りの奥の左手にある森が境内になる。 この城山展望台には、もとは荻町城という城があった。 |
境内前。 厳島神社の大鳥居と同じ、木造の両部鳥居が立っている。 |
鳥居を近くから。 この辺りは冬は深い雪に埋まるので、 海中と同じような感じなのだろうか。 |
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境内。 拝殿正面に石の鳥居が立つ。 向かって右手には釈迦堂、 左手にはどぶろく祭の館。 後者では例祭、どぶろく祭りに関する展示が行われている。 これは時間があれば見ておくべき。 |
別アングル。 本殿は修理中だった。 向かって左手に巨大な杉の木が立っている。 |
真っ直ぐ伸びる、堂々たる大杉。 白川村の天然記念物に指定されている。 神社の歴史とともにある樹木。 荻町内では、 ほかには「明善寺のイチイ」、そして庄川付近に立つ「おおたザクラ」が 岐阜県指定天然記念物となっている。 |
茅葺の釈迦堂。 白川郷では仏堂もすべて茅葺となっている。 寛永四年(1627)、荻町城主の山下大和守氏勝が寄進した建物。 氏勝は徳川家康に仕えて幾多の戦いに参戦し、 その後尾張徳川藩初代となる義直公の傅役となり、 公が長ずるとそのまま尾張藩に仕え、 居城を清須から名古屋に移すよう進言したり、 藩の要職を歴任したりと大いに活躍した人物。 彼がいなければ尾張名古屋の繁栄はなかったと考えると、 名古屋の人は彼に感謝せねばならぬ。 堂内には、氏勝が名古屋城普請の際に仏師に彫らせたという、 弥陀・釈迦・日輪・月輪の四像が収められている。 |
境内。 他の杉も大きい。 どぶろく祭においてはこの境内に蓆を敷き、 大きなどぶろくの樽の中に神前より撤下されたどぶろくを混ぜ、境内一杯に集まった人々に振舞う。 なお、器は各自持参の事らしい。 ちなみに仕事関係の旅行で白川郷に行った時にどぶろく祭りの館で呑ませていただきましたが、 すっぱいです。 |
岐阜県大野郡白川村鳩谷に鎮座。
白山スーパー林道入り口近くの鳩谷交差点の西。
主祭神は八幡神こと応神天皇で、
伊弉諾尊、伊弉冉尊、菊理媛命の白山神社祭神三柱を配祀する。
これは昭和31年、上流の鳩谷ダムの建設にともなってその地の鎮守である白山神社が水没することとなったため、
当社に合祀されたもの。
庄川西岸の山麓に位置し、周囲は深い森であって、
鳩が数多く住んでいたことから「鳩飼村」と名づけられたのが地名の由来という。
古くより本殿の下から清水が涌き出ており、村人はこれを飲み水としてきたが、
室町時代、鎌倉時代にこの地方へ来て浄土真宗を布教した嘉念坊善俊上人が植えた麝香杉を伐り倒したところ、
その根元からさらに多くの清水が湧き出て、それが今に伝えられている。
この湧水は、この地方の神社で行われる「どぶろく祭」に用いるどぶろく用の真水として用いられる。
どぶろく祭は、まず白川八幡神社で行われ、続いてこの鳩谷八幡神社で行われる。
鳥居前。 左手に「麝香杉の湧水」がある。 |
麝香杉の湧水。 岐阜県の名水に選定されている。 |
大きな杉の木。 境内には、天を駆ける神馬がこの地で休憩した際、 風景に見とれて思わず尻餅をつき、その跡が残ったという 「神馬の尻もち岩」がある。 |
岐阜県大野郡白川村飯島に鎮座。
東海北陸自動車道・白川郷IC入口、道の駅・白川郷の道向かい。
どぶろく祭りが行われる神社の一社で、白川・鳩谷に続いて斎行される。
文亀三年(1503)に生え出たという境内の榎の木は白川村の天然記念物に指定されており、
古来、その葉の芽吹き方や紅葉・落葉の状況から、その年の吉凶や降雪を占ったという神木。
たとえば、
*春に新芽がまちまちに芽吹けば無難だが、一斉に芽吹く時は当集落に災難がある
*秋に一度に落葉すれば降雪が早く、ばらばらに落ちれば無難、一度に紅葉した時は他集落に災難が起こる
ということらしい。
道の駅より撮影。 左側に榎の木が見える。 |