これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
備後国:
安那郡(福山市北部):
古くは内海である穴海(あなのうみ)が広がっていた地で、吉備穴国(きびのあなのくに)という国があった。
『日本書紀』景行天皇紀に、日本武尊が熊襲を征伐した帰りに海路にて吉備の穴海を渡ったとき、
道行く人々を害する穴海の悪神を殺して海陸の道を開いたと記され、
『先代旧事本紀』国造本紀には、景行天皇の治世に彦訓服命(ひこくにぶくのみこと)の孫、
八千足尼(やちのすくね)を吉備穴国造に定めた、とある。
一度は吉備国に統合され、その後吉備が三国に分割されると、備後国の一郡となった。
この「穴」が「安那」の郡名のもとで、のちには「やすな」と読まれるようになった。
「穴海」は、伝承では芦田川流域に広く広がり、神辺の平野部の大部分は海で、潮水は新市町の方までも遡っていたという。
ただし、神辺の山麓部からは海辺の営みの証拠となる貝塚は発見されておらず、また平野部からは縄文中期以降の遺跡が見つかっており、
江戸時代まで「元藤沼」という沼があったように湿地帯ではあったが、海があったとまでは考えにくいようだ。
現時点では、現在の福山市蔵王町・蔵王南町の旧村名「市村」が『日本霊異記』にも記されている古代の港町「深津市」にあたるとみられており、
この周辺からはいくつも貝塚が見つかっており、当時その辺りが深い湾になっていたと考えられることから、
この地が「穴海」と呼ばれたために「吉備穴国」と名づけられ、
のち奈良時代に安那郡より分割されて深津郡となった、と現在では考えられている。
ただし、奈良・平安時代にあたる8~12世紀には世界的な海水準上昇が起こっており、
関東地方においては一つの郷が消滅した事例もみられるので、
この時の海進が「穴海」伝承のもとになった可能性もあるか。
あるいは、芦田川は古来大変な暴れ川であるので、
東流する芦田川が急激に南へ90度以上向きを変えるポイントの先にある神辺は、自然の遊水地になっていたかもしれない。
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多祁伊奈太伎佐耶布都神社 | |||||
安那郡:
福山市神辺町川北、
福山市市街地の北に広がる山塊の北西部、
神辺平野を見下ろす黄葉山(もみじやま)の北中腹に鎮座する。
神辺(かんなべ)という地名は、古来黄葉山が神の鎮まる山「カンナビ」とされていたことにもとづくといわれている。
『延喜式』神名式、備後国安那郡二座の一、天別豊姫神社。
社号の「天別豊姫」については、
『延喜式』神名式、阿波国名方郡九座のうちに「天石門別豊玉比売神社(あまのいはとわけとよたまひめのかみのやしろ)」があり、
これが一部省略された形だと考えられる。
豊玉姫命は海神(わたつみ)の姫神であり、
記紀においては皇孫・瓊瓊杵尊の御子である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと。いわゆる山幸彦)と結婚し、
神武天皇の父君である日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)を生んだとされている。
「天別」「天石門別」というのは、神の属性からして「あま」は「海」であり、意味は「海別」「海石門別」ということだろう。
記紀においては、産屋の中で出産する時にあらわした本来の姿(『書紀』では龍、『記』では巨大な鮫)を夫の彦火火出見尊に覗き見られたため、
これを恥じて「海途(うみのみち)」あるいは「海坂(うなさか)」を閉じて去ってしまった、とあり、
「海の世界との境界、門」を掌る神であると考えられていたと思われる。
現在の主祭神は、豊玉姫命、速進雄命(はやすさのをのみこと。素戔嗚尊)、事代主命。
また、大正時代に近隣の社を合祀して吉備津彦命、火之加具土神を相殿に祀っている。
創祀は不明。
国史には、『日本三代実録』元慶二年(878)十一月十三日条に、
因幡国の従三位宇倍神に正三位、従四位下賀露神に従四位上、
備後国の正五位下甘南備神に正五位上、従五位下天別豊姫神に従五位上、
佐渡国の正六位上佐志羽神、筑後国の高樹神に並びに従五位下を授く。
という神階昇叙記事がある。
当初は黄葉山の東の網付谷(あみつけだに)に鎮座し、その後現在地に遷座したと言い伝えられている。
中世以降「神辺大明神」と呼ばれ、黄葉山に築かれた山城・神辺城の鎮守社となり、
近世には川北・川南の産土神となっていた。
水野勝成公が入封した時はまだ神辺城が備後国の主城であり、勝成公は御城守護の神として篤く崇敬、
のち福山城を開くにあたっては神辺大明神の社司が地鎮祭等を行い、そののちも歴代藩主の祈祷を仕え奉っていた。
藩主が水野家であったころは毎年の神楽料の奉納があり、また御代参も立てられていたが、
水野家が無嗣改易ののち入封した松平家以降、その例はなくなったという。
長く「神辺大明神」の呼称が一般的だったが、
江戸時代後期には、『延喜式』神名式、備後国安那郡の天別豊姫神社あるいは葦田郡の賀武南備神社(甘南備神社)に比定されるようになった。
甘南備神社は鎮座している郡が異なるが、「カンナベ」「カンナビ」と音が類似しており、
また同じく事代主命を祭神としているため、当時は有力な説だったようだ。
地元の地誌においては、『備陽六郡誌』には天別豊姫神社との比定はなされてはおらず、
『西備名区』にも、「芦田郡の甘南備神社や天別豊姫神社と祭神は同じだが、天別豊姫神社は粟根にある」
と、現在の福山市加茂町粟根の神末(かのすえ)に鎮座する豊大神社(祭神、豊玉姫神)に比定しており、
『福山志料』においてはじめて「延喜式神名帳の天別豊姫神社」であると断定された。
のち、明治になって政府より式内社であると認められ、「天別豊姫神社」と改称している。
江戸時代初期に刊行された『和論語』(わろんご。日本の論語、の意)には、
「備後国天別豊姫大明神神託」というものが記されている。
益人(ますひと)よ、あめよりなせるわざをつとめ、地よりなせるわざをつとめて、
高きをうやまひ下をみちびき、直(なお)き心をそだててみおや(御祖)をまつれ。
をのづから神の息をなめん。
近世には、祖先を祭ることが人倫の道の基本であると考えられていた。
鳥居前。 入口は、旧・西国街道(近世山陽道)である国道313号に面して北向き。 古代の山陽道は、岡山県からほぼ国道313号線に沿って南西に向かった後、 国分寺前で西に折れ、山沿いを西に向かい、新市町の素盞嗚神社の北辺を通って、そのまま山沿いに府中へと向かっていた。 その後は御調川に沿って御調へと向かい、そこから安芸国豊田郡へと入った。 |
左手には神池があり、 その中に二社が鎮座。 |
石段の下は遥拝所になっている。 |
石段はかなり急。 途中に絵馬舎がある。 |
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絵馬舎内。 | |
絵馬舎から右手に伸びる石段は、 古い時代の参道。 近年、整備がなされている。 |
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また、急な石段。 両側の玉垣は転倒の恐れがあるのか、 ロープが張られている。 上には本殿が見える。 |
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登りきって見下ろしてみる |
さらに石段を東に登って行き、登りきって振り向くと、拝殿。 社殿は山の北中腹に東向きで建っている。 |
本殿と拝殿。 山の中腹を削平しているのでそれほど広くない。 神辺城の築城計画上、ここに置くしかなかったのだろうが、 ちょっと窮屈な印象。 東を向いているのは、北向きを嫌ったのか、 あるいは旧鎮座地において東向きだったからだろうか。 |
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向かいに石段があり、四つの末社が鎮座している。 一番奥の社には「皇神社」とあった。 |
一段低いところには稲荷神社が鎮座。 大きな本殿と拝殿があり、さらにその周囲に多数の稲荷の小祠が鎮座している。 拝殿には「最上 正一位稲荷大明神」とあり、岡山県の高松稲荷(最上稲荷)の勧請のようだ。 小祠にはそれぞれに「○○稲荷大神」という名前があり、かつては村内もしくは氏子邸内に鎮座していたのが遷ってきたのだろうか。 右下にみえる朱色の手すりは、旧参道のもの。 |
絵馬舎の左手にも末社が鎮座している。 |
境内の東側には相撲場がある。 その後方には地元の人々や団体の慰霊碑や記念碑、顕彰碑が並んでいる。 奥の二つの碑は、神辺町出身で、戦前・戦後を通じて国の農政に尽力した重政庸徳翁、重政誠之翁兄弟の顕彰碑。 神社の東は墓地になっており、左奥には近世以降の社家の墓が見える。 近世の社家は平佐氏といい、京の神祇管領吉田氏の家老・鈴鹿氏より鈴鹿姓を賜わり、 鈴鹿氏とも称していた。 |
後背の山上には、神辺城跡がある。 近世の地誌には「紅葉山城」と記され、それ以前には「村尾城」とも称されていた。 「もみじやま」も、近世には「紅葉山」と表記していたが、菅茶山らが『万葉集』などの用字に従って「黄葉山」と書くようになり、 現在では「黄葉山」と表記している。 |
黄葉山の山頂には、室町時代より城が築かれていた。
築城者は浅山(朝山)備後守條就、建武二年十一月二十六日に築いたと伝えられている。
浅山氏は南朝方であったが、その後、備後国は伯耆山名氏の侵攻によってその軍門に降り、
以後、山名氏が守護となって備後国を支配。山名氏は全国六十六州の実に六分の一、十一か国の守護となり、
「六分の一殿」と呼ばれて室町時代初期には大いに権勢を誇った。ただしその後出る杭打たれてフルボッコにされた。
15世紀中頃、山名氏の後継者をめぐる内訌の中、山名満煕が「備後国府城」を奪取して立て籠もったが、
家督を継いだ弟の持豊がこれを鎮圧し満煕は敗死した、という出来事があり、
この「国府城」は府中市出口町にあった八尾城、あるいは同府川町の土井にあったという土居城に比定されること、
(『西備名区』『福山志料』は、府川村に古城跡があり、城主は中村越後守家成であり、山名氏の臣であったとする説を載せている。
中村氏は山名氏の有力な家臣であり、山名氏の名代として備後国を預かっていた人物とみられている)
また、いわゆる応仁の乱より始まった全国的な戦乱の中、
山陽地方では文明十五年(1483)に山名氏と赤松氏が備前国にて戦いを繰り広げたが、
これに参加した山名俊豊は「尾道を出立して国分寺に着陣」し、軍勢の整うのを待ってから備前に向かっており、
ここでいう国分寺は神辺の備後国分寺であり、その頃神辺城が山名氏の主城であったなら当然そちらに陣を敷くはずであるので、
このころまでまだ備後の中心は府中にあって、神辺城にはなかったと考えられている。
神辺が重要になるのは、それまで神辺から新市、府中、御調と走っていた山陽道が、
神辺から南西に折れて芦田川を渡り、沼隈郡の海沿いを走って尾道へと抜けるように変化してからであり、
近世山陽道の街道筋にある神辺城の重要度は一気に高まった。
戦国時代が佳境に向かおうとする大永末年(1528)ごろ、
府中八尾城の城主・山名宮内少輔理興(ただおき)が同じ山名氏から神辺城を譲り受けて移って後は、
在地領主の所領安堵や一宮吉備津神社への大願主としての寄進など一国の守護としての行動を取っていることから、
この頃には神辺および神辺城が備後(少なくとも瀬戸内沿岸部付近の諸郡)の中心地となっていたと確認できる。
山名理興は尼子氏に与していたので、大内氏は毛利氏とともに神辺を攻撃し、
一年の抵抗ののち理興は山陰へと逃走したが、その後毛利氏に降伏し、旧領の神辺城を領することを許された。
理興が卒したあとは子がなかったので、杉原播磨守盛重が神辺城主となり、彼は毛利氏に従って西国で武勲を立てた。
その後、盛重の息子の代に家督争いが起こったため神辺城は召し上げられて毛利元康(元就の八男)に与えられ、
その後は、安芸・備後の領主として入ってきた福島正則の家臣、福島丹波が住んだ。
そして福島正則が改易されて後に大和郡山より入封してきた水野勝成は、
神辺城が不便であるとして現在の福山市に福山城を築城して移り、神辺城は廃城となった。
福山市山野町に鎮座。
広島県東端の福山市、その最北部の山中。
福山と東城を結ぶ国道182号線から県道21号線で山野町へ行き、
中心部を過ぎてさらに北上、お寺のところの三叉路を左折して県道104号線を川沿いに走っていくと、
左側に鳥居と駐車スペースと案内看板。見落としたらたぶんそれまで。
『延喜式』神名式、備後国安那郡二座の一。小社。
創祀は不明。中世以降は所在が不明となる。
近世になると社地の比定が行われるようになり、備後の地誌である『西備名区』ではこの地に比定しているが、
のちの地誌『福山志料』ではそれに懐疑的な意見が提出されている。
この地に鎮座していた社は中世より「岩屋権現」「岩穴宮」などと呼ばれ、この地方の信仰を集めていたが、
明治になって式内社の多祁伊奈太伎佐耶布都神社に比定され、調査の結果その説が認められた。
祭神は、下道国造兄彦命(しもつみちのくにのみやつこ えひこのみこと)を主祭神とし、大穴牟遅命を配祀。
兄彦命については、『日本書紀』応神天皇紀、応神天皇二十二年秋九月条に、
「吉備国を分割してそのうち川島県(かわしまあがた)を稲速別(いなはやわけ)に与えた。彼は下道臣の始祖である」
という記事があり、『先代旧事本紀』国造本紀には、
「軽嶋豊明朝の御世(応神天皇治世。軽嶋の豊明宮で統治を行ったことから)に、
元(はじめ)て兄彦命、亦の名稲建別(いなたけわけ)を封(よさ)し、国造に定め賜ふ」
とあり、初代の下道国造とされている。
下道国はその後備中国下道郡となり、現在は総社市と倉敷市に編入されているが、ここからはやや離れた地。
それをこの地に祀るのはちょっとよくわからないが、
社名の前半部分「たけいなた」はたとえば「建稲田」のように名前を表していると考えられ、
それが国造本紀に記す「稲建別」と類似しているからだろうか。
あるいは「下道」を「備後国」のことと解したのかもしれない。
「岩屋権現」に関する文書の中には祭神を大穴牟遅命とするものがあり、それによって配祀神としているようだ。
名前の類似では、『古事記』応神天皇記に「尾張連の祖建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)」の名があり、
尾張氏の系図では「建稲種命(たけいなだねのみこと)」となっている人物がおり、摂社赤濱宮の祭神となっている。
『延喜式』神名式、備前国御野郡には「針名神社」「尾治針名眞若比女神社」の名がみえ、
尾張氏の系図のうちには「尾治針名根連命(をはりはりなねのむらじのみこと)」「尾綱真若刀婢命(をつなまわかとべのみこと)」の名があるので、
尾張氏の一族の中には吉備国に住んだ者があったと推定されるので、
ここでも尾張氏の一族が祖先を祭った可能性もなくはなさそう。
江戸後期に記された備後国の地誌『西備名区』にはこう記されている。
産土社、原田巌窟権現 〔あるいは原谷と称す〕
岩屋の内に二座あって、これを原田権現と申し上げる。
傍に石があって、俗に弘法大師の衣掛けの岩と申し上げる。
大師がこの巌屋の内に籠られて密乗を行われた時、衣を掛けられた。その岩は、実に衣を掛けた姿である。
当社は式内社である。弘法大師は神道興隆の祖であるのでその由縁ももっともらしいが、
石の形が衣を掛けたようであるので、その伝承も事実かどうかはわからない。
また、大きな水穴がある。この巌屋は日本武尊が穴の悪神を誅された時、凶賊どもがこの巌屋に逃げ籠ったのを、
水をせき入れてことごとく殺された。その水は地中を通り、一つの水道ができたが、その水道であるという。
その筋に淵のようなところがあり、水が流れ出る。清く冷たいことは言うまでもない。
この水は備中幸山(*総社市の幸山か)の水穴に続くという。
日本武尊は崩御されたのちに神として現れられたが、
この処は昔日本武尊がその功をあらわされた跡として、尊をこの岩屋に祭り、
昔この処にて功をあらわされた時にお佩きになっていた御剣を乞い願って祭ったゆえに、布都の神社と申し上げる。
延喜式神名帳、安那郡の条の下に、
多祁伊奈太伎佐耶布都神社とある、これがこの社である。
祭神は日本武尊、宮簀姫命、武稲種命、素盞嗚尊、奇稲田姫の五座である。
当時は、日本武尊が主祭神であると考えられていたようだ。
相殿神四神を合わせた五座は、熱田神宮の中世・近世における祭神と同じ。
『日本書紀』には、熊襲を平定した日本武尊が大和へ帰る途中、
吉備の穴海の悪神を誅殺して海陸の道を通じたということが記されている。
安那郡は日本武尊の武勲の地であり、この社はそれを顕彰して創祀されたと考えられていた。
『西備名区』よりあとに著された備後福山藩の地誌『福山志料』の寺社弁説の巻にもこの社が取り上げられており、
祭神については同じ見解で、社名については武稲種命と布都の剣の合成であり、
社地については同郡竹田村小川の小祠がそれであろうとし、一説として山野村の岩屋権現を挙げている。
「たけいなたきさやふつ」の社名については、
「たけいなた」は神名もしくは人名。
出雲神話の八岐大蛇の話には「稲田宮主」「奇稲田姫」などの名が見えており、
そういった「稲田」の一族が中国山地を越えて吉備の地へも住み着いたものかとされる。
「きさやふつ」は難解だが、語尾の「ふつ」とは刀剣で物を断ち切るときの擬音であり(「ふつのみたまのつるぎ」など)、
刀剣の名であろうとされる。出雲は鉄器を産し、また八岐大蛇神話は鍛冶・刀剣と密接に関わっているといわれるので、
鍛冶の技能を持つ稲田の一族がこの地方に住み着き、宝剣を祀ったのが創祀であろうかという説がある。
『延喜式』神名式、能登国能登郡十七座のうちに「久志伊奈太伎比咩神社(くしいなだきひめのかみのやしろ)」があり、
「奇稲田姫(くしいなだひめ)」には「くしいなだきひめ」の形もあったと思われる。
「いなだき」には「頂、頭頂」の意味があるので、あるいは素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する間、
奇稲田姫を櫛に変えて頭に挿していたという伝承にもとづく呼称だろうか。
(能登国には、ほかにも「大穴持神像石神社」「宿那彦神像石神社」と、出雲の神を祀った社の名がみえる。
上古の出雲がヒスイを求めて糸魚川地方と交易を行っていた時、能登が中継地点となったのだろう。
「国引き神話」の中にある、「高志〔こし〕の都都〔つつ〕」とは、能登半島の珠洲を指すという説もある)
なので、「たけいなたきさやふつ」は、「たけいなたき」までが固有名詞であり、
「さやふつ」は、「さや+ふつ」で、「さやに(はっきりと、明らかに)断ち切る」という剣の切れ味の形容、ではなかろうか。
参道入口の鳥居。 ここから急坂を登っていくことになる。 |
足を滑らせたら文字通り転げ落ちていきそうな坂を上りきると、 社殿の前へと出てくる。 |
後ろを振り返る。 途中には石段がなくただの急坂の箇所もあり、 けっこう体力を使う。 |
でかい岩 | 下に祠が鎮座する。 これは近隣の神社を合祀した社らしい。 |
岩の下に切れ目があり、その空間に鎮座している。 | しかし迫力の岩。 |
ちょっと離れて。 | 上のは石灰岩のでかいカタマリらしい。 広島県天然記念物。 この奇景に、古代人はここに神が宿ると思ったのだろう。 |
向かって右が本殿、左が摂社・赤濱宮。 | 奥には小さな洞くつ(鍾乳洞)があり、清流が流れ出している。 『西備名区』に「水穴」とあるものだろう。 |
自然の驚異の一端を見た。 |