これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
備後国:
沼隈郡(福山市西部~南西部):
通盛神社 (平家宮) |
*磐台寺 (阿伏兎観音) |
厳島神社 | 八幡神社 (寄ノ宮八幡宮) |
沼隈郡:
福山市沼隈町中山南(なかさんな)、
「平家谷」と呼ばれる山中に鎮座。
「平家ノ宮」と通称される神社。
祭神は平通盛(たいらのみちもり)卿と、その妻である小宰相局(こさいしょうのつぼね)。
通盛卿は平家第一の豪勇・能登守教経の兄で、清盛の甥。
従三位越前守の官職だったため、「越前三位」と通称される。
伝承では、通盛卿の一族主従がこの地に逃れて隠れ住んだと伝えられており、
この「平家谷」は平家落人伝説の地となっている。
『平家物語』では通盛卿は一の谷の戦いで討たれ、その悲報を聞いた小宰相局は鳴門の海に身を投げて後を追ったと記されており、
通盛卿が実際にここに逃れたということはないと思われるが、
ここに住む人間は長い間固く白色を忌んでいた。
江戸後期に書かれた福山藩の地誌『福山志料』は、先行する地誌『備陽六郡志』を引用してこう記す。
六郡志にいう。
平家の落人がここに隠れ住んで子孫相伝わるという。
またいう、この谷には人家四十軒ほどあり、何においても白いものを禁ずる。
男女とも下帯・手拭・襦袢等にいたるまでことごとく染めなければ用いない。
もし白いものを用いれば必ず災いがあるため、木綿・夕顔なども栽培することはない。
福泉坊(*平家谷にある浄土真宗の寺)の僧がある年に綿を植えたので、
その所の者は「それはよくない。必ず災いが降りかかるだろう」と言ったが、
「われらは一向宗であるから何事にも構うことはない。ことには寺内に植えるのであるから、あながち咎もないであろう」
と言って種を植えると、綿は生い出でたが、花は咲かず枝葉はだんだん凋んで枯れた。
その秋、寺中に疫病が流行り、住僧をはじめ奴僕にいたるまで皆死んでしまった。
これよりますます恐れて綿を植えようとする者はいない。
池溝田畑などへ白鷺が下ることはなく、そのほかにも白い獣は住まない。
この谷の田沼の蛭は人の血を吸わない。
通盛の足に蛭が食いついた時、
「私は今落人となったので、おまえまであなどるのか」
と言ってその口を切って捨てられたためであるという。
この次の谷を横倉谷という。その地の田へ平家谷の蛭を放てば死に、横倉谷の蛭を平家谷の田に放てば死ぬ。
また、八日間隠れた所を八日谷という。
ここから鞆の麻の谷へ出る。この道に鐙が峠という所があり、鐙を落とされた所であるという。
通盛がここへ落ち来たった事は、平家物語・源平盛衰記等にもみえない。疑問である。他国にもこの類の話は多いであろう。
下総国森戸という所に佐藤庄司(*基治。源義経の腹心、継信・忠信兄弟の父)の墓があり、
また蹄の五郎(*比爪[樋爪]五郎季衡。奥州藤原氏清衡の孫)父子が剃髪して行脚僧となり、
野州宇都宮に来て死んだとして裏町という所に墓がある。
また妙吉侍者(*足利直義が帰依した僧。高師直らを讒言し、師直に追われて丹波で自害。首は獄門にかけられたという)
が狂気して下野国に来て死に、その墓は徳次郎町という所にある。
これらの事は青史に載せていないが、往古より言い伝える事である。
「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず」(*『孟子』尽心下)ともいうので、口碑に伝えることが正しいのだろうか。
今按ずるに、通盛が討死したとき、小宰相は鳴門にて身を投げたと言って郎等共がひそかにここに伴い来て、
数年の後に京の父母のもとに送り返し申し上げ、今残るのはその通盛の家の子の子孫である、という説もある。
疑問ではあるが、何某という者はその中の長であり、古い剣など伝え蔵めるという。
いずれにしても(平家に)故ある所と思われる。
平家谷おっかねー
行く時は色もの着ていかなきゃ・・・
ただ、現在は平家の怨霊も年とともに丸くなったのか、それほどでもなくなっているようだ。
「何某という者はその中の長であり、古い剣など伝え蔵めるという・・・」の内容については、
『福山志料』巻之一の「風俗」の条に、
横倉谷元日の儀
谷に池永平五郎という者がおり、古剣を秘蔵してみだりに人に見せない。
元旦、その剣を床に飾り、酒・鏡餅・燈明を供え、その一間へは妻子をも入れない。
谷中に血伝の家が五戸あり、その主人が拝年(春節の挨拶)にきた時、その床の間に入れ、列を正しく座り、吸い物を据え、土器を巡らす。
その礼は甚だ厳重である。妻子を入れないので、その給仕も平五郎を見ることはない。
平五郎の家は七百年来の血伝を相続する。平通盛の家の子の末裔であるという。当時の礼式はそうだったのだろうか。
平五郎の父が一年この礼を廃したところ、その年にいろいろと凶事があったという。
いつの頃か山伏のような者が来て、宿して数月を経たことがあり、その時剣は失くしたともいう。
とみえ、何らかの由緒のある血筋であったことは間違いなさそうだ。
神社のそばには「平家谷花しょうぶ園・つばき園」があり、
シーズンになると多くの人が訪れる。
御神体は平通盛卿夫妻の像で、通盛は束帯、小宰相は帽子介取の姿という。
もちろん公開されることはなく、見た者は目が潰れるといわれている。
創祀は建久三年(1192)とされ、江戸時代には「通盛御影社」と呼ばれていた。
中世には、現鎮座地よりも南の谷に入った、
現在は「平家谷花しょうぶ園・つばき園」内にある「一本松」付近に鎮座していたが、
谷川の氾濫によって度々被害を受けたため、近世になって高台の現在地へ遷座している。
八日谷ダム。八日谷池を拡張したもので、この辺りは草戸方面から逃れてきた平家落人が八日間隠れたところという。 県道72号線から平家谷に入るには、道路や道端に標示板がこれでもかと出ているので、 その通りに進めばまず迷うことはないだろう。 |
赤幡(あかはた)神社。 祭神は平通盛卿で、卿の旗、つまり平家の赤旗を神体として祀っている。 注連縄に下げる紙垂(しで)も赤い。 平家の旗色が赤であることと、また平家谷では白を忌むため。 通盛神社の例祭においてはここと石亀神社に渡御が行われ、祭典が行われる。 江戸時代の地誌『備陽六郡志』の沼隈郡中山南村神社条には、 赤籏宮〔あかはたという所にあり、二社が相向かっている〕 と記されており、昔はふたつの社が向かい合っていたようだが、今はそうなっていない。 |
平家谷の各所には案内板があり、解説がなされている。 | 福泉坊入り口。 平通盛卿の菩提寺で、しだれ桜で知られる。 |
さらに南へ。 | 着いた! 正面は通盛神社への石段。 右は平家谷花しょうぶ園・つばき園へと続く。 |
駐車場と、案内所・御土産屋・茶屋がある。 平家伝説だけ聞くとちょっとおどろおどろしいが、 実際来てみるとそんなことはない。 |
参道を上る。 |
拝殿。奥に一間社の本殿。 赤い紙垂が下がる。 |
本殿。 かつて旧暦八月十三日の祭礼には、 平家蟹が能登原の海岸から山を登って参拝に来たと伝えられている。 |
供養塔。 元暦二年(1185)の壇ノ浦の戦いから800年後の昭和60年に 八百年祭が行われた際に建てられた。 その下には自然石の墓があって通盛主従の墓といわれており、 赤い御幣が供えられている。 供養塔の横には、 同じく八百年祭の時にタイムカプセルが埋められており、 次回の式年祭の時に開かれることになっているようだ。 |
平家谷花しょうぶ園・つばき園へ。 ハナショウブはまだまだ。 |
正面に見える若い松の木が一本松。 通盛御手植えの松といわれる。 かつては高さ15mの巨松だったが、老衰枯死のため昭和32年に伐採し、 現在は二代目が立つ。 通盛神社の旧社地。 |
二代目のそばに初代の切り株があるが、 虫食いと腐朽のため、現在ではほとんど見えなくなっている。 |
一本松の背後の山が、通盛が蛭の口を斬ったという黒血山。 蛭の口を斬った時、蛭が黒い血を流したことからいう。 |
平家さんの井戸。 一本松からさらに南へ入ったところにある。 かつては祭礼の一週間前から参籠してこの井の水で潔斎、炊事をし、 忌み慎んで祭礼の日を迎えていた。 現在も水が湧き出ているという。 また、この辺りは喜勢(きせい)と呼ばれ、 北の八日谷から逃れてきた平家の一団と 南の能登原から逃れてきた一団が出遭い、 ともに喜び合って勢を取り戻したことから名づけられたという。 |
西へ向かうと、つばき園。 様々な椿の花が咲いている。 今年は雨が少なかったため、咲きが悪いとのこと。 ここから西へ抜けると能登原に出る。 |
さて、来た道をこのままさらに南へ登ってゆくと、やがて瀬戸町長和と鞆町後地を結ぶ福山グリーンラインへと出る。
このグリーンライン、尾根伝いに走る快適な道路のはずなのだが、ルート設定がよくなかったのか、どこか気味が悪い。
夜に走れと言われたら、即座に「やだ」と言えるレベルで、地元では心霊スポットとしても知られる。
とくにトンネルのとことか。
沼隈町能登原、海食崖の岬から突き出た岸壁の上にある、瀬戸内の奇勝。
岬の名をとって、通称を「阿伏兎観音(あぶとかんのん)」という。
臨済宗、妙心寺末寺。
中山南から山を越えた海岸部一帯は能登原(のとはら)というが、
これは、平家が屋島を追われてこの地にやってきた時、平能登守教経が地名を訊ねたところ、
村人は「名はない」と答えたため、教経は自らの官職名にちなんでこの地を「能登原」と名づけたとも、
もとは単に「のと」という地名であったが、能登守教経がこの地の原で軍を訓練したことから「能登原」となったともいう。
この地の山上に古城跡があり、教経らが軍勢を教練した所と伝えられている。
鞆から西は海食崖が続き、また島も多く、
尾道へ向かうにはその間の狭い海峡をいくつも通らねばならないが、海流が速いために航海には危険な場所だった。
広い所を通れば航海自体は安全だが、その代わり海賊に襲われれば逃げ場はない。
なので、少々危険でも陸地沿いに海峡をくぐって進むしかなかった。
源貞世(今川了俊)が記した室町幕府三代将軍足利義満の厳島神社参詣記である『鹿苑院准后義満公伊都伎島詣記』にも、
二十二日、卯の時に御舟を出した。あぶとという瀬場。
追い風激しく、波が高かったので、舟は艫の帆を下ろして漕ぎ重ね、手・棹とも厳しく取って漕ぎ過ごした。
この所は島が一つ南方にさし出て、北の山とのあわい(間)の細い所を押し廻すところである。
海賊といって盗賊たちの立ち処であるという。
と、航海には危険な場所(かつ、海賊の危険もあるところ)だった。
そのため、航海の安全を祈ってこの地、海に鋭く突き出た絶壁の上に十一面観音菩薩がまつられるようになった。
寺伝では、寛和の頃(986)、花山法皇が岬の岩上に十一面観音菩薩の石像を安置したのを開基とし、
『水野記』が引く『寛永寺社記』には、
「寺は暦応年中(1338-41)に建ち、元亀年中(1570-73)に(毛利)輝元修補す」
と記されている。
また寺の縁起には、天正年中の事か、として、
紀州熊野権現を深く信仰していた鞆の漁夫が観音の石像を海中から発見して崖上に安置し、
毛利輝元公が一宇を建てたとしている。
応永二十七年(1420)の朝鮮からの使節の一人が書いた紀行文にはこの崖の上に「小さな庵」があると記している。
福山藩管下の備後六郡の地誌『備陽六郡誌』を著し、
宝暦四年(1754)の磐台寺修造時には普請奉行もつとめた宮原直倁(なおゆき)はこう記している。
江神の祠宇、桂を殿に列ね、蘭を宮に植えて山岡峯巒の間に分け列れり。
江渚に臨む滕王の高閣にも劣らぬ絶景である。
(*滕王は唐の太宗の弟。その住んでいた高閣は滕王閣といって、黄鶴楼、岳陽楼と並ぶ江南三大名楼の一として古来絶景を謳われた。
江西省南昌市。「滕王の高閣、江渚に臨む」は王勃の詩の起句)
文人騒客の著述は枚挙にいとまがない。ようやくその一、二を挙げた。(*原書ではこの文章の前後に引用がある)
大士閣は、往古は突兀たる岩頭、地骨(*石の異称)を捧げたようで、
方丈より羊腸(*折れ曲がった道。つづらおり)をよじ登って上がっていたが、
寛文七年丁未(1667)八月、水野民部勝種公が磨いた切岩を以て石塁とし、方丈より閣上まで廻廊を建て続けられ、無類の壮観である。
大風地震といえども少しも破損することがなく、金輪際より生じた岩頭であるというのもうなずける。
朝鮮の三使来朝の時は、餉米・干菓子・紙墨等の物を献ずるのが毎回の例であった。
崖下にて小舟に棹さし、往来の船から観音の賽銭を乞う。
もし過って海底に落としても、ことごとく観音閣の海岸に流れ寄り、牡蠣のように岩に付着するという。まことに奇妙というべきである。
往反通行の船客、西国九州二島の巡礼、四国遍路、(伊勢への)参宮通者、六十六部(回国行者)はもちろん、
忠海、御手洗、鞆の遊女船、惣娥、海蜻蛉などという者がこの楼上に登って遊戯し、
自分の名を書き、年号月日、あるいは詩歌、発句、狂歌などを板扉、壁柱に書き散らした中に、
歌でも俳諧でもない、当意即妙の落書がある。いかなる剽軽者が書いたのだろうか。
あぶととは、そらごとよ、ねぶとなるべし、うみもあり、はしりもすれば、おしもする。
この辺りの言葉で、虫歯、癤(せつ。できもの)などのうずきを「はしる」という。
(*ねぶと=化膿性のできもの)
『和漢三才図絵』にも「観音寺在り、阿太という」と記され、
東海道五十三次を歩いた弥次さん喜多さんも厳島参詣に向かった際(十返舎一九『厳島参詣膝栗毛』)、阿伏兎観音に参詣。
観音堂からの眺めに、目も眩み足の骨もかゆくなったという。
また、歌川広重の浮世絵の題材にもなっている。
念のために言っておくと、今では国指定の重要文化財なので落書きとかしたらオオゴトになります
落書きは厳に慎みましょう。
『備陽六郡誌』には、著者宮原直倁がこの寺の普請奉行中、冬十二月に摂州麻田藩士の森本光謹という者が寺を訪れ、
その年の秋に亡くなった先代藩主の青木内膳正見典(あおきないぜんのかみ・ちかつね)が以前奉納した十二灯の台は今どうなっているかと訊ね、
寺の住僧がそれを持ってきていろいろと台について趣を語ったので、
光謹はその丁寧さに厚く礼を述べ、一献ののち観音堂に漢詩を記して帰った、というエピソードを記しており、
京畿においても阿伏兎観音のことは知れ渡っていたことがわかる。
もとは海上安全の守護神だったが、子宝・安産にも霊験あらたかであるとして、現在は女性の参拝が多い。
観音堂の中を覗けば、そういった方々の奉納した「おっぱい絵馬」(おっぱいマウスのように立体的)が
多数掛けられているのが見られ、こちらも壮観。
ちなみにおっぱいお守り(立体的)もあります。
そのせいか、近年は乳房に関する祈願も多いとのこと。
おっぱい絵馬やおっぱいお守りがどんなものかは、検索すればあまたのヒットが。
阿伏兎観音のすぐ近くには旅館があり、その近辺に駐車場がある。 | そこから舗装された海辺の参道を通って磐台寺へ。 昔は、磯伝いに何本も架けられた橋を渡りつつ 寺へと向かっていたらしい。 |
磯辺。 | 到着。 海辺の崖下のわずかなスペースに寺があるので、 山門を構えるような敷地の余裕はない。 |
磐台寺客殿。 暦応年間に覚叟禅師が寺院を営んだのが始めとされ、その後荒廃したが、毛利輝元が修造。 その後、歴代福山藩主が修復を重ねて現在まで伝わっており、県の重要文化財に指定されている。 五間半の入母屋造で、禅宗の方丈様式で建てられている。 |
客殿の脇に鎮守社、手水所、そして観音堂への廻廊。 | 途中は鐘楼になっている。 |
観音堂へ到着。観音堂の廻廊は土足禁止。 | 上がる。 |
観音堂廻廊より。 崖下には石塔が立っている。 観音堂内はおっぱい絵馬でいっぱい。 眼下に広がるのは燧灘(ひうちなだ)。海上遠くには春霞がかかっている。 |
廻廊に接する樹の枝には、 お守りやおみくじが結び付けられている。 |
欄干が低く、外側に傾斜しているのでちょっと怖いナリ。 でも誰も来なければ廻廊に座って海風を受けながら 瀬戸の海を眺めつつぼーっとしていたい。 |
崖下に下りてみましたよ。 |
海の上からも見てみたい。 |
岩礁の石塔。 | 歴代工夫のあと。 |
山上には阿伏兎灯台が立ち、 観音様とともに海上安全の役を担っている。 |
参道の途中に立つ、皇太子殿下行啓記念の石碑。 大正十五年、皇太子殿下(のちの昭和天皇)が 海路にてこの沖合を行啓された際に阿伏兎観音の奇勝を御覧になり、 その由緒を同船の浜田広島県知事にご質問され、 また能登原の人々が海岸で奉迎申し上げるのを御覧になり、 海上より会釈を返された。 これを記念して立てられたもの。 |
能登原の山々。 |
福山市沼隈町常石、
田島へと渡る内海大橋の東脇に鎮座する。
常石(つねいし)という地名は、『備陽六郡志』沼隈郡外常石村(現在の常石西部)の条に、
八幡宮の行廟(御旅所)の東の浜に大石四つあり、これを常石という。
いかなる故か知る者はいない。これをもって村の名とした。
と、その由来が記されている。
この厳島神社は常石東部、かつての内常石村に鎮座している。
すぐ向かいにある島、田島(たしま)との海峡部の山麓で、すぐ東には内海大橋が架かっている。
この海峡付近の海岸部は敷名(しきな)と呼ばれており、
かつては敷名番所が置かれていた。
これは海上の関所で、福山領内に出入りする船のチェックや、出荷品の荷改めを行っていた。
敷名番所跡は内海大橋の真下にある。
古くは俊寛、康頼、成経が鬼界が嶋へ流罪の時もここに繋船したといい、古くからの繋留所であった。
『平家物語』巻四「還御」では、高倉上皇が厳島参詣からお帰りになる際に敷名へ泊まられたと記す。
夜半ごろに風静まって海上も穏やかとなったので、(厳島から)御船を漕ぎ出させ、
その日は備後国敷名の泊に御着きになった。
この所は去る応保の頃、一院(*後白河上皇)御幸の時、
国司藤原為成が造った御所が有ったのを、入道相国(*平清盛)が御休息所に設え申し上げたのだが、
上皇はそこへは御幸にならず、今日は卯月朔日、衣替えということがあるぞと、各々都の事を思いやり遊んでおられると、
岸に色深い藤が松の枝に咲きかかっているのを御叡覧になり、あの花を折りに遣わせと仰せになったので、
大宮の大納言隆季卿は承って、左史生の仲原の保貞がはし舟に乗って折節御前を漕ぎ通るのを召して折に遣わした。
藤の花を松の枝に付けたまま折って参上したので、心ばせ有りなどど仰せになって御感心になった。
この花にて歌仕れと仰せになったので、隆季の大納言、
千歳経ん君がよはひに藤浪の松の枝にもかかりぬるかな
二日の日は備前の児島に御着きになったと、云々。
この故事から、敷名の藤は「千年藤(ちとせのふじ)」として知られるようになった。
『備陽六郡志』沼隈郡内常石村の条には、
千年藤。
厳島の明神の下にあり、近年まで知る人もまれであったゆえ、
阿部正福公(*福山藩主)が千年藤という札を立てさせられた。
また、同書の後得録、沼隈郡の常石村敷名千年藤の条には、
誰が言ったことなのであろうか、厳島明神の下、人家の後ろにある藤を、
後白河院(*正しくは高倉院)の勅命あって折らせられたのはこれであると札を立てられたのだが、これは藤ではない。
真の千年藤は番所の東の岸にあったが、畑の障りになるゆえに切り捨て、
近頃までその根が残って芽を出していたが、年々芽を切り捨てたので、今は絶えてしまっただろう。
と記されている。
どちらにしろ、そう離れているわけではない。
現在は、厳島神社の参道や道路沿いに藤が植えられ、千年藤の伝統を受け継いでいる。
後白河上皇御幸の行宮は、番所のそばにあったと伝えられる。
同条は続いて、神社の創祀と神異について記す。
往古よりの厳島の社は石であり、民家の前の畑の中にあったが、元禄、宝永の頃より今の山上へ遷された。
往古よりの石の祠は、すなわち厳島の境内東脇に鎮座する荒神の社である。
厳島の御正体(*御神体)は、白河院(*正しくは後白河院)がこの所に御船をお繋ぎになり、
為成の敷名の風景を叡覧されて、御手ずから御鏡を取り出されると為成に給わり、
「これを神正体として厳島の明神を勧請するように」
と勅諚があって、勧請申し上げたという。
その節はどのような社だったのであろうか。為成が勅を請けて勧請なさった時から石の祠であったのだろうか。
童どもが件の神正体を取り出して玩び物としていた時、筑前の船がここにさしかかり、水を汲みに上陸した。
(その時、ある)男が鏡を取って国に帰ったが、国中に疫病が甚だ流行し、そのほか種々の災いがあって人が多く死んだので、
ただ事ではないと国守より祈祷を仰せ付けられて占ったところ、厳島の神正体を取り来たった祟りであると申し上げたので、
国中を詮議して、件の鏡をこの所へ戻した。それより今の山上へ遷し奉ったという。
近頃曇り錆びてきたので、京都より来た鏡磨に研がせようとしたが、その鏡を磨いたとたんに悶絶したという。
このような小さな社であっても、その祟りは恐ろしい。
山の中腹に石燈籠と鳥居がかすかに見える。 |
参道を上がっていくと藤が植えられている。 千年藤の伝統を継ぐ藤。 |
田島方面。すぐ右手に内海大橋。 |
鳥居と石灯籠。 | 石段と標柱。 石段の上には拝殿が見える。 |
拝殿。背後の石垣の上に本殿が鎮座。 |
右手には末社が二社。 向かって右側は稲荷神社、左は荒神社。 荒神社は江戸期には石祠だったようだが、 現在は木造に建て替えられている。 |
拝殿と本殿。本殿の隣は神庫か。 |
敷名の浦。 江戸後期、福山藩に仕えた学者の菅茶山のまとめた詩集『黄葉夕陽村舎詩』には、 この辺りの情景を歌った漢詩があり、内海大橋の下にはその碑がある。 梔子湾 菅晋帥 荒山何処旧行宮 荒山 何れの処ぞ旧行宮 荒れ山のどこに後白河上皇の行宮があったのだろうか、 嶋寺沙村煙靄中 嶋寺沙村 煙靄の中 島や寺、砂浜や村はけぶる靄の中にかすんでいる。 一去龍舟春幾度 一たび龍舟去って 春幾度 高倉上皇のお召しの舟が去ってから幾度春が巡ってきたのだろう、 紫藤花落暮湾風 紫藤 花は落つ暮湾の風 湾を吹く夕暮れの風に、紫の藤の花が落ちる。 *梔子(くちなし)湾=もとは入海であった草深には「口無泊」という繋船場があり、 敷名とは場所が近接していたのでしばしば混同された。 *晋帥=菅茶山の本名。ときのり。 *旧行宮=その昔、後白河上皇御幸の時に備後国守藤原為成が設けた行宮。 *龍舟=天皇のお乗りになる船。ここでは高倉上皇。 |
福山市沼隈町草深に鎮座。
千年小学校のすぐ西。
往古、この一帯は下山南まで達する深い入海になっており、
山南川河口付近には葦などの草が非常に生い茂っていたために「草深」と名づけられたといい、
もとは山南村の一部だった。
入海は現在の県道47号線、現在の山南川沿いに深く入り込んでいて、山の方からはその出口が見えなかったため、
この地にあった泊りは「口無しの泊(無口泊)」と呼ばれた。
源俊頼の歌集『散木奇歌集』の第六巻「悲歌」は、
大宰府で亡くなった父の亡骸を伴って海路・水路にて帰京する途上に詠まれた歌を収めているが、口無泊について、
口なしのとまりときけば身にしみて いひもやられぬ物をこそ思へ
と詠まれている。
水野家が福山藩主となってからこの地の新涯(新開地)開拓が行われ、入海は塞がれて農地となり、
船の繋留所としての役割を終えた。
現在は数多くのスーパーが立ち並び、沼隈南部の中心地となっている感じ。
この八幡神社は、草深の産土神。
もとは下山南の菅野というところに鎮座していたが、おそらくは入海の後退によって現在地に遷座した。
その由緒によって「寄ノ宮(よりのみや)八幡宮」、あるいは社地の山名をとって「亀山八幡宮」と通称される。
創祀は天暦年中(947-957)と伝わる。
もとは山南にあったため、山南三村(上山南・中山南・下山南)の民もこの社を産土神としており、
江戸時代には、まず八月十五日に山南村が先に祭を行い、草深村は二十五日に祭を行っていた。
祭神は応神天皇、神功皇后、姫神と、宇佐八幡宮と同じ三神を祀る。
八幡宮が遷座してくるまではこの地には地主神の津大明神が祀られており、
八幡宮遷座後は末社となっている。
この山も津大明神が向かいの田島から引っ張ってきたものという伝承があり、
当時はこの辺りが海辺だったのだろう。
また、岡崎宮・有安宮という二末社も鎮座している。
岡崎宮は、岡崎悪四郎の霊を祀る。
岡崎悪四郎義実は三浦氏庶家で、岡崎氏の祖。源氏の家人で、頼朝の挙兵時よりつき従い、鎌倉幕府御家人となった。
伝承によれば、彼の孫の岡崎千太郎実忠は建暦三年(1213)の和田合戦に敗れ、この地に逃れて草深城を造り居住したといい、
この地にはその子孫が多いという。
調査によると、この社地は草深城跡とみられており、草深城の跡地に神社が建てられているとのこと。
参道入口は、山南の人々に配慮してか北にある。 あるいは城の大手が北向きだったのか。 北の通りに、入口を示す標柱が立っている。 |
鳥居。 すぐ東は千年小学校。 |
鳥居には「鳥衾(とりぶすま)」が付けられている。 これは鞆の沼名前神社の鳥居が有名だが、沼隈にあと一例有り、全国でもこの三ヶ所しかないという珍しい形式。 この鳥居は享保八年(1723)建立。沼名前神社(当時は鞆祇園社)にならったものだろう。 |
嘘みたいだろ・・・スロープなんだぜこれ・・・ この高低差の参道が石段じゃなくてスロープとは もと城地だった名残だろうか。 |
登ると標柱。 |
社殿の裏に出てくる。 | 表に回る。 この境内のつくりは、城であったころの形を残している。 |
南に回って、随神門。社殿は南向きなので、社殿の南に立つ。 なので、鳥居から入ってくるといったんぐるりと南に回り込んでからの参拝になる。 ちなみに裏参道は南から入るので、登ってくればすぐ門前に出る。 随神門の裏にはユーモラスな狛犬がいる。 |
拝殿。 このときは石階の改修中だった。 |
本殿。 現在の建築は正徳二年(1712)の造営になる。 江戸時代のスタンダードである入母屋造。 |
神楽殿。 | 社務所と、おそらくは鐘楼(あるいは井戸?)だった建物。 |
神庫と末社。 |
本殿の両側には三社の末社が鎮座。 | |