にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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備後国:

沼隈郡(福山市西部~南西部):

「ぬまくま」の地名は、もとは「ぬなくま」であったところに「沼隈」の字を当て、
それが後世「ぬまくま」と読まれるようになったことから。
「ぬ」は広大な水原を指す言葉で、沼や湖、海をもあらわす。
「な」は、「~の」をあらわす助詞。
「くま」は曲がって入り込んだところ、奥まったところをあらわす言葉で、
沼隈半島から東の福山、西の松永ともに海が大きく入り組んでいたところからつけられた地名。

沼名前神社 *承天寺 高諸神社 潮崎神社 *沖ノ観音

沼隈郡:

沼名前(ぬなくま)神社。

福山市鞆町後地
瀬戸内海の海運の要で、潮待ちの港として古代より栄えた鞆に鎮座する。

『延喜式』神名式、備後国沼隈郡三座の一、沼名前神社。
郡名をその名に冠する神社。
「前」を「くま」と読むことは、紀伊国の古い大社である日前神宮の「日前」を「ひのくま」と読ませるなどの例がある。

この神社の現在までの歴史はなかなか入り組んでいる。
神祇官に官社登録されていた備後国十七座の一であり、古くは沼隈郡南部を代表する神社だった。
しかし、同じ鞆の地にあった祇園社が祇園信仰の高まりとともに勢力を伸ばしていき、
現在の沼名前神社の地に遷座して備後三大祇園社(戸手、鞆、小童〔ひち〕)の一として隆盛。
備後国風土記逸文にみえる「疫隈(えのくま)の国社(くにつやしろ)」にも比定されるほどとなった。
その頃、沼名前神社は「渡守(わたす)大明神」と呼ばれており、別の場所で海上交通の守護神として信仰されていたが、
そのうち鞆祇園社の相殿に合祀された。
江戸時代になると、福山藩主・水野勝貞公が本殿の北に渡守大明神の社殿を造営し、本殿より出し奉った。
そして渡守大明神は式内社の沼名前神社に比定され、その社格が見直されるようになる。
そして明治時代になって神仏分離が行われた際、仏教的な祇園・牛頭天王の名を神社の社号から外すことが定められ
(神仏分離はあくまでも「神社内」の神仏分離であり、寺院内の祇園社・牛頭天王社はそのままで一向にかまわない。
そのため、現在でも牛頭天王社が境内にある寺院は多い)、
鞆の祇園社も社名を変えなければならなくなった。そのとき、渡守大明神=式内社・沼名前神社がクローズアップされ、
祇園社本殿に渡守大明神=大綿津見神が遷座して主祭神となり、
それまでの主祭神であった牛頭天王=素盞嗚尊は相殿神となって、社名は「沼名前神社」となり延喜式内社の社名が復活した。
主客転倒となったわけだが、やはり祇園社としての歴史が長かったことから、地元では今でも「鞆の祇園さん」として親しまれている。

という経緯で、祭神は大綿津見神と素戔嗚尊。
沼名前神社主祭神の大綿津見神は海の神で、海上交通など海の守護神。
港町の鞆に相応しい神様、だが、
近世には沼名前神=渡守大明神は隠岐の知夫利大明神を勧請した猿田彦命、船玉命(船の神霊)と考えられていた。
幕末に『福山史料』を著した菅茶山はこれを批判し、
「渡(わたす)明神」とは渡海安全を祈っての名であり、猿田彦命はあくまでも道路の神であって海の神ではない。
他国に和多理(わたり)神社、度津(わたつ)神社あってみな海神を祀っており、渡明神もワタツミの神を祀ったものである、と論じており、
この説が踏襲されたことになる。
その創祀伝承にはいくつかのバリエーションがあるが大筋では共通しており、現在は以下のようになっている。

  神功皇后が三韓征伐の時にこの地へ立ち寄られたとき、
  海中より方二尺余の霊石が浮かび上がった。
  皇后は不思議なことだと石を船にお上げになり、この地の名を訊ねさせた。
  問われた浦人たちは、
  「ここは吉備国の南海辺と申します」
  と奏上した。
  皇后はまた、この地に神はおわすかどうかを訊ねさせると、浦人は、
  「神はおわしになりません」
  と奏上した。
  そこで皇后は斎庭を設け、神籬を立ててその霊石をご神体としてお祭りし、
  自ら浦人に、
  「今より後、神社を建ててこの神を斎(いつ)き奉れ」
  と詔され、霊石をお渡しになった。

他の伝承では、このときに皇后が武具の鞆などを浦人に授けた、あるいは御船の艫を港に着けていた、
そのことから皇后がこの地を「トモ」と名づけた、という地名起源伝承となっている。
また、素戔嗚尊が南海に渡る時にここへ鞆を落としたから、ともいう。
地名については、古い地誌に「山の連なる地形と弓形の海岸線が射具の鞆を連想させることから名づけられた」としているものがあり、
これが妥当だろうか。

現在の例祭は5月12日だが、昔より現在に至るまでもっとも大規模に行われているのは祇園祭で、
前夜祭にあたる「お手火神事」、そして一週間にわたる神輿渡御と、鞆の町が大いに賑わう。
旧暦では「お手火神事」(当時は「神輿あらい」といった)を6月4日、神輿渡御を7~14日に行っていたが、
現在は「お手火神事」を7月第二土曜日に、神輿渡御を7月第二日曜~第三日曜に行う。
伝説では、素戔嗚尊は戸手(素盞嗚神社)で一泊した後ここでも一泊したとされ、
その時に宿を貸したという「しぶかき」という者の子孫という「渋柿屋」の者が、
神官の一人として祇園祭において重要な役割を果たしていたことが江戸時代の地誌に見える。
また秋祭りとして、旧暦8月13日に行われていた渡守神社例祭を9月第三月曜日直前の週末三日間に行っている。
『備陽六郡志』はその祭礼について、

  祇園の祭礼は、六月四日に神輿あらゐの神事がある。
  同七日の八つ時に神輿坂半ばまでお下りになり、真言七ヶ寺へ七度半の使いがあって、
  いずれも来て加持を行い、それより関町の御旅所に行幸される。
  進雄(すさのを)尊が渋柿屋という者の先祖の宅へ初めておいでになった時、芝を重ねて御座〔ヲマシ〕としたため、
  今でも輿台を用いず、芝の壇を築いて神輿を置き奉るのである。
  それから要害(*大可嶋、円福寺)の御旅所に行幸されて、十四日の八つ時までおいでになってから還御される。
  この日に御山を引き、十八日に神事能がある。水野家の時より能太夫は大坂板倉新之丞という者が代々相勤める。
  例祭の六月中は芝居見世物などが来て夥しく市を形成する。
  渡守の明神は往古よりの生土(*産土)とはいえ、渡守の一盃祭といって八月十三日ただ一日の神事であり、それすら知る人はまれである。
  右、真言七ヶ寺というのは、医王寺、宝厳寺、地福院、常喜院、増福寺、玉泉寺である。

と、祇園祭の盛況と渡守祭のささやかさを伝えている。
「お手火神事」とは、巨大な松明である「大手火」三本を大勢の氏子たちが担ぎ、その神火をもって神輿三基や境内を祓い清め、
そののち町内へ繰り出して町内をも清め、最後は神火を「小手火」という小さな松明に移して各家に持ち帰り、
厄除け・田畑の害虫除けとする特殊な神事で、
神輿渡御にあたり、神輿およびその巡幸する町内をあらかじめ火で祓い清めるという意味を持つ。

神社へ向かう石畳の道
祇園祭直後で、家々にはまだ注連縄と紙垂が張ってある。
沼名前神社の社号標。
途中、右手に境外末社・小烏(こがらす)神社が鎮座している。
近世の鞆は鉄工業もさかんであり、その守護神として崇められた。
一の鳥居と社殿が見えてきた。
境内への入り口になる二の鳥居。
笠木の両側がそっくり返った珍しい形で、さらにそこへ「鳥衾(とりぶすま。鳥の寝床の意)」が付けられている。
鳥居の両側に鳥が止まっているユニークな鳥居で、県の重要文化財に指定されている。
鳥衾のついた鳥居はあと沼隈町に二例を数えるのみで、
ここの鳥居がいちばん鳥の意匠を打ち出している。
随神門。 拝殿が見えてくる。
拝殿、幣殿および本殿。
かつては福山藩主水野公によって造営された壮麗な社殿だったが、惜しくも火災で焼失し、現在はコンクリート造となっている。

延宝年間(1673-81)の末、水野勝種公の時に社殿が大破したので修復が始まったが、当時は飢饉で飢える人が多かった。
氏子はそれまで貯めていた祇園後修復銀を奉行に差し出したところ、鞆奉行の尾関佐次右衛門は、
「この宮居は低くて相応しくないので、高くすべきである。
老人・女・子供で飢えている者に籠少しの土を運ばせ、地を均させたならば助けにもなるであろう」
と申し渡したので、飢えた者はその働きの代価の銀で飢えを免れ、また民力を費やさずに地を均すことができたと伝えられる。
翌天和二年(1682)に五間・三間の本殿が建てられ、
また藩主が阿部家に代わったのちの享保十一年(1726)、阿部正龑公の時にも修造が行われ、
この時本殿をまた一段高いところに遷し、それまでの本殿の位置には前殿が移され、
近代に入ってから幣殿が増設され、今の社殿配置となっている。

本殿南側。
本殿北側。摂末社が並ぶ。
右端の社が渡守神社。明治になり沼名前神社として本殿に祀られたが、
渡守神社としてもなお祀られており、9月に例祭が行われる。
下を見下ろす。簡素な能舞台が見える。
能舞台。
簡素な造りだが、実はこれ、分解して持ち運び可能なポータブル能舞台で、柱も床も天井もバラバラになる、組み立て式。
戦国の世には戦場での娯楽のためにこのような形式の能舞台が多く、豊臣秀吉も愛用していた。
この能舞台も、伝承によれば豊臣秀吉の持ち物であり、伏見城内にあったものを、
伏見城解体のときに水野勝成公が将軍徳川秀忠より拝領し、のちに鞆祇園社に寄進したものであるといわれている。
ただ、伏見城は関ヶ原の戦いの前哨戦にてぼほ焼失しており、17世紀初頭に徳川家康が再建しているので、
その再建時のものとみる説がある。
それでも現存する能舞台の中では屈指の古さであり、さらに現存唯一の組み立て式能舞台であることから、
国の重要文化財に指定されている。
幅の広い石段。 参道より、鞆の町並み。
神社の周囲には寺院が立ち並ぶ。
渡守神社御旅所。神社から南に出てきた海辺にある
神功皇后が海より浮かんだ霊石をはじめて祀った場所といわれ、
綿津見大神御上陸の地として、渡守神社例祭においての神輿御旅所となっている。

*鞆の風景を少し


吸江山承天寺(きゅうこうざんしょうてんじ)。

福山市松永町5丁目、松永の東山麓から町を見下ろす地にある。

臨済宗妙心寺(京都市右京区花園)の末寺。
もとは福山城下にあったが、松永の町が開かれた時に万国和尚を開山としてこの地に移され、
松永の檀那寺となった。
この寺には、松永の地を開拓して承天寺をこの地に移した、本庄杢左衛門重政の墓がある。

本庄家はもと佐々成政の家臣で、佐々氏が改易されたのちに福山藩の水野家に仕えた。
重政は長男だったが、軍学・武者修行を志して家禄を弟の重幸に譲り、江戸に出て数年軍学を学んだ。
その後、肥前唐津藩の寺澤家に仕えて島原の乱に功を挙げ
(大筒を脇に抱えてぶっ放しながらコマンドーばりの無双かましたとかいう話)、
次いで美濃岩村藩の丹羽家に仕え、そして備前岡山藩の池田家に迎えられた。
重政は千石扶持を望んでいたが、岡山藩からはのちに千石給わる約束として先に三百石二十人扶持を与えられた。
しかし、何年たっても千石に加増されないため重政は怒り、無断で備後に帰ると沼隈郡高須村(現、尾道市高須町)に住んだ。
水野家は彼を登用しようとしたが、彼は岡山藩を無断で辞しているために「奉公構い」となっており、
岡山藩が認めない限りどこにも仕えることができなかった。
そこで、重政の息子である杢(当時6歳)を五百石で召し抱えて軍学を伝承させ、
重政は隠居ということで差し置かれ、管内各所の新涯(新開地)の干拓を命じられた。
島原の乱後にはもはや戦は起こらず天下は太平となり、もはや軍略が必要な世ではなくなっていたが、
軍学の中にある築城土木の法は、藩を富ませるための新開地開拓に大いに役に立った。
明暦二年丙申(1656)正月より柳津新涯に取り掛かり、六月に完成。
同三年(1657)に深津郡の所々の新涯を築くと、万治元年(1658)秋に高須村新涯を築き、翌春に完成と、
凄まじいピッチで新開地を広げていった。
そして同三年(1660)より松永新涯の事業に取り組むことになり、
寛文二年(1662)の夏までにわずかに塩浜の形、田畑の荒割が出来上がった。
寛文七年(1667)、重政は沼隈郡新涯奉行に仰せつけられた。
重政もここを住居と心がけて、松永と名付けたいとの由を御願申し上げると、公儀にお伺いがあって許された。
当初、村人は自分たちの村を重政にちなんで「本庄村」と呼んでいたが、重政は開拓の功を私することを望まず、
「松樹永年」の嘉語にちなんで松永としたという。
同年夏より秋までに重政は松永に自らの屋敷を建てて終の棲家とし、翌寛文八年(1668)、重政は菩提寺の承天寺を松永に移し、
山林ならびに新涯の内の田八反を寄付して自らの証文を添え遺した。そして、
「塩浜はたいてい金山に似た物なので、諸方の人が集って住み着くであろう。
されば、宗門は何宗であれ、それぞれの檀那寺より宗旨手形を承天寺にとり納め、
(宗門)改帳はこの寺の一判に仰せつけられたい」
と公儀に御願申し上げ、寺社奉行の裁許を得た。
かくて、松永に住む者は何宗であれ承天寺の檀家となった。
重政は延宝四年(1676)二月十五日に亡くなった。享年七十。

松永は近世から近代にかけて塩田の町として栄えたが、その基を築いたのが本庄重政。
自らの軍学を戦にて活かす機会は僅かしかなかったが、その知識は人々の生活を豊かにするのに大いに役立った。
重政の死後、松永の人々は彼を承天寺の境内に神として祀った。
のちに神社を承天寺のすぐ北、重政の屋敷跡に遷座し、これが現在の本荘神社。
JR松永駅前には彼の銅像が立っており、松永開祖として讃えている。
彼は備前岡山藩に仕えている時、近隣の播州赤穂藩浅野家の家臣、大石頼母助に軍法を授けたといわれ、
承天寺には大石頼母助や大石源五郎左衛門、そして浅野内匠頭から重政に宛てた書簡が遺されている。
この大石頼母助は「忠臣蔵」で知られる大石内蔵助良雄の父親であり、『備陽六郡志』の著者宮原直倁は、
大石内蔵助が本懐を遂げることができたのも重政の伝授の故である、と記している。
(ちなみに、浅野家は重政の岡山藩出奔と同時期に山鹿素行を招いている)
また重政が松永に塩田を開くにあたっては赤穂の塩田を規範にしたといわれ、彼と赤穂のつながりは深い。
なお、父重政の跡を継いだ息子の杢(重尚)は父親には似ず不品行であり、祭礼の場で喧嘩沙汰を起こしたために禄を剥奪され、
承天寺に来て余生を過ごした。
その子は僧となったが若年で亡くなり、子がなかったために重政の家系は絶えた。
松永は明治になると下駄の生産を始め、全国一位の生産量を誇った。
現在、その関係で松永には「日本はきもの博物館」という、古今東西の履物に特化したユニークな博物館がある。
あとゲタリンピックとか。

現在の松永の中心部はすべて開拓地で、
江戸時代の山陽道は現在の国道2号線とほぼ同じだが、それ以前は、
松永から藤井川沿いに御調郡三成(尾道市美ノ郷町三成)へ上り、そこから三原へと下っていたという。
(それより古い時代には、神辺から道上、駅家、新市、府中、御調、八幡、真良、本郷と走っていた)
塩田は、『備陽六郡志』によれば現在の南松永町1丁目東部が小代島、松永町2丁目東部が西島、
松永町3丁目西部が今津島、東部が本郷島、
松永町4丁目西部が長和島、松永町5丁目が神島、松永町6丁目が徳浜という合計七つの塩浜で、
その周囲を田畑が囲んでいた。
現在でも地図を見れば当時の区割りを知ることができる。

石段。 石段途中から松永の町を。
正面には自動車教習所が見えるが、あそこももと塩田の地。
山門の脇にある、「贈従五位本荘重政公霊廟」の標柱。 山門と本堂。
寺院南の墓地に塀で囲まれた一角があり、
その中に本庄重政公の墓がある。
右の八角柱が本庄重政公墓。戒名は如風院憐情露石居士。
境内。
しだれ桜がきれいでした

高諸(たかもろ)神社。

福山市今津町6丁目、国道2号線沿いに鎮座。
でも2号線から直接入ることは出来ないので、
とくに車で参拝するならそこから北の山沿いに走る旧山陽道から向かった方がわかりやすい。

『延喜式』神名式、備後国沼隈郡三座の一、高諸神社。小社。
『日本三代実録』貞観九年(867)四月八日条に、
葦田郡の甘南備神とともに従五位上から正五位下へと神階を進められた記事がある。
のち、六国史内では甘南備神は正五位上に進んだが、高諸神社にはそれに続く神階授与記事はみられず。
それでも六国史内では正五位下と、備後国衙直近の甘南備神社に次ぐ神階をもつ神社だった。
中世から近世まで長く「劔大明神」と称されており、現在でも「おつるぎさん」と呼ばれる、今津の産土神。

神社の創祀伝承は以下の通り。

天武天皇白鳳五年丙子(676)、今津の海辺に「うつほ船」が漂着した。
漁夫たちが怪しんでこれを打ち割ったところ、中には三人の唐人がいたが、言葉が通じない。
そこへこの土地の庄司の田盛がやってきて、彼らの容貌が常のものではないことを見てとり、筆談にて子細を聞くと、
すぐに浦の西の山上に御殿を建てて住まわせた。唐人は新羅国王ということであった。
彼は翌年没したが、また翌年の六月二十七日にその者が田盛の夢に現れ、
「わたしは素戔嗚尊である。古、新羅に降臨したのち日本に渡って様々な果樹を植えたが、
新羅との神縁がまだ尽きていないために神霊がまた新羅国に降臨して生まれたので、
また日本に還ってきてこの地に住もうと思う。わたしの佩いていた宝剣をわが心とし、一心に祀れ」
と告げた。
また、新羅国王に随っていた太子と武官もその死後に神として祀り、
劔宮、王子宮、武宮の三社を営んだ。

うつほ船に乗って漂着した異人を素戔嗚尊として祀ったのを創祀とし、
祭神は須佐之男命と剣比古神の二柱とする。
素戔嗚尊が朝鮮に降臨したことは『日本書紀』にも異伝として収録されている伝承で、
また素戔嗚尊が旅をする客神(まれびとかみ)であることは八岐大蛇神話や備後国風土記の蘇民将来伝承、
そして習合した牛頭天王の島渡り伝承などに見られる。
異国人(の王族)を神とみなすことは、記紀や『播磨国風土記』にみえる新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)などの例がある。

鎮座地は、今こそ内陸になっているが、それは松永を創始した本庄重政の開拓事業によるもので、
それまでは海岸部、というか島であったらしく、伝承にも、うつほ船が漂着した「島」に宮居を建てたとある。
例祭においては市が立っていたが、群れ集う人々は満ち潮に参り、引き潮で帰ったために「潮間の市」と呼ばれていた。
松永が開拓されて内陸部になると、市には芝居や遊女も入ってきて年々ますます賑わったという。
現在でも、往時ほどの規模ではないが、例祭には市が立っている。

近代に至るまでは神主を村庄屋の河本氏が務め、神事は禰宜の立上家、そして別当の真言宗蓮華寺が勤めていた。
河本氏は田盛庄司の後裔として代々田盛氏を称し、その屋敷の門前まで入河であったのでその地の字を河本といったが、
松永開拓後はその情景も消滅してしまったため、上古より言い伝える字が失われることを惜しんで河本と氏を改めたと、
『備陽六郡志』に記されている。
備後の一般的な神社では、神主を村庄屋が務め、禰宜が神事を行うというスタイルが普通だった。

戦国時代、神辺城主の山名宮内少輔忠興がこの地の古志豊清を攻めた時に炎上し、
天文十四年(1545)に豊清が再建、のち承応三年(1654)に福山藩主水野美作守が再造営。
近年では、大正二年に再造営が行われている。

鳥居前。北の旧山陽道から延びる参道。
手水舎前。本殿は正面の石段を上った丘上にある。
石段の向かって右脇には弁財天神社、加佐守神社、そして水神の石神が鎮座する。
弁財天は、うつほ船をこの地へと導いた神とされている。
拝殿前。丘上には田盛神社と稲荷神社の小祠が鎮座、また何社かの遥拝所がある。
田盛神社は社を創始した田盛庄司を祀る。
神池はきれいに整備されている。 本殿の南は森、そして岩を並べて磐境を形成している。
本殿の真裏に小さな祠が。
これは疣神さまで、疣に悩む人が祈願するらしい。
境内東の神庫には、祭礼で用いられていた今津みこしが。
本殿の東に鎮座する摂社、王子神社。隣には荒神社が鎮座する。

潮崎(しおさき)神社。

松永町5丁目に鎮座

もとはすぐ東の柳津(やないづ)に鎮座していたが、松永塩浜の鎮守神としてこの地に遷座し、
今津の産土神であった劔大明神(高諸神社)を勧請合祀した。
それまで松永の産土神は隣村の神村(現、神村町)の八幡宮だったが、
潮崎大明神を遷座してからは、塩浜で塩業に携わる人はこちらを産土神とすることになった。

主祭神は神倭磐礼彦命(神武天皇)と須佐之男之神で、相殿に住吉三神を祀る。
神武天皇東征の時、御船を柳津の地にお着けになったが、
御船を柳樹のもとに着けられたためにその地を柳津と名づけられたといい、その由緒によって創祀された。
須佐之男之神は劔大明神(現・高諸神社)の祭神で、遷座時にその分霊を合祀している。

江戸時代には例祭は八月二十八日に行われていたが、それは豪快なものであった。
前日二十七日の夜から神輿渡御が行われたが、
松永の西端・機織の沖に鎮座していた稲荷社の御旅所へ海上渡御する間、塩浜ごとに大銃をぶっ放し、
神輿に随う何艘もの御供船からは火箭を星のように打ち上げた。
また二十八日の浜中神輿渡御においても同様に大銃火箭が夥しく放たれた。
これらは本庄氏が伝えた一陽・荻野・山鹿流の兵法に基づいて行われ、
それぞれの軍術家が修練の粋を競ってその華やかさは近国に並びなく、
近郷・近国の人々は大挙して見物に訪れたという。
この大祭も、近代になると塩の良く取れた年のみ行われるようになり、
機織の沖も埋め立てが進んで御旅所ももとの塩浜地に移されると海上渡御の儀はなくなり、
花火もなくなるなどその規模は縮小された。
時代の流れというものか。
それでも、平成21年(2009)の例祭(現在は10月10・11日)では、三百五十年祭として、
往時を彷彿とさせる千発の花火を打ち上げた。

道路より。
現在はやや内陸という感じだが、当時は海辺だった。

『備陽六郡志』には、この社地の造営についての伝承を記している。

  本庄憐情(重政)は自ら不動明王を二体彫刻して、一体は今津村の剣(大明神)の真体とし、一体は当社の真体とした。
  当浜成就のはじめは高札場の上の山に社を建てて氏神としていたが、
  段々街並みが立ち続いたため以前の悪水溝を掘り広げて入川とし、船出入を自由にしたところ、
  悪水の石樋は必要なくなった。
  そこで、その自然石が入川の中にあるのを幸いにそれを石垣として地形を築いて宮地とし、宝殿を建立して山上より勧請して、
  八月二十八日を祭礼の日と定めた。

当時は神仏習合の時代であり、不動明王を神体としていたようだ。
不動明王は降魔の利剣を持っていることから劔大明神に相応しく、また波切り不動尊として海上安全を祈る潮崎の社に相応しい。
明治の神仏分離の際、この不動明王像はそれまで別当寺であった薬師寺に移されている。

沖ノ観音(おきのかんのん)。

尾道市浦崎町にある。
沼隈郡浦崎町は、古くから海上交通によって百島、向島、そして尾道との関係が密であったことから、
昭和32年に沼隈郡より分離して尾道市へ編入した。
その後、松永市や沼隈郡が福山市に編入したため、沼隈半島では浦崎町のみがぽつんと尾道市になっている。

この一帯はもともと戸崎村と呼ばれていたが、
江戸時代、福山藩主水野家が新涯を築いてからは戸崎は字の名となり、
村の名は浦崎と改められた。
元来、浦崎とはこの沖ノ観音のある島の名だったという。


この村の海老地区の漁師が漁をしている時に観音像が網にかかり、
いったんは海に投げたが、また網にかかったので、
何かの縁であろうとこの島に祀ったのがはじまりと言い伝えられる。
江戸後期に福山藩の学者・菅茶山の記した領内の地誌『福山志料』には、

 浦崎島。海老の沖、地方(ぢかた)より少し離れた小さな島。潮が引いた時は徒歩で渡る。
 現在、村方では沖ノ観音という。堂は水野侯の建立という。

と記されている。
満潮時は海中の島であり、干潮時に道が現れ、観音堂へ参拝することができる。

境ガ浜の北あたりから。遠くに見える。
常石までは福山市沼隈町だが、この辺りはもう尾道市浦崎町になる。
海老の堤防沿いに走ってゆくと、いよいよ大きく見えてきた。 きたー
海の中、周囲は石垣で囲まれ、木々が繁り、観音堂の屋根がにゅっと出ている、一種面妖な風景。
海の中へ人工的に築いた小島のようにも見える。
この時はやや潮が引いた状態。
沖ノ観音までの一帯は干潟になっていて、
干潮の時には渡ることができる。
なんかそれっぽいのが
しかしまだまだ時間がかかりそうなので、無念ながらも立ち去る。



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