にっぽんのじんじゃ・ひろしまけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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備後国:

御調郡(尾道市の大部分、三原市):

郡名の由来は、神功皇后が新羅遠征の折、長井浦(三原市糸崎)に船を泊められた時、
紀氏の一族である木梨真人という者が御船へ水を献じたことにより、「水貢」の意味で「ミツキ」の名を賜ったという伝承がある。
あるいは、『日本書紀』安閑天皇二年五月条に、

 備後国に後城屯倉・多禰屯倉・来履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉を、
 婀娜国(安那国。のちの備後国安那郡で、奈良時代に深津郡が分置。現在の広島県東端の海側一帯)に胆殖屯倉・胆年部屯倉を置く。

という屯倉設置記事があり、いずれか、もしくはいくつかの屯倉があったことにより「御調」の地名がついたものか。
かつては、南は海上の向島・因島から北は三次郡に接する広大な郡で、江戸時代には九十二村を数えたが、
平成の大合併によって御調郡は消滅し、現在は尾道市及び三原市となっている。

御調八幡宮 久井稲生神社

御調八幡宮(みつきはちまんぐう)。

三原市八幡町宮内に鎮座。

神護景雲三年(769)、大宰府の主神(かむつかさ)、習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)は、
時の女帝・称徳天皇の寵愛を受けて権勢を振るう僧・道鏡に気に入られようとし、宇佐八幡の神の神託と偽って、
「道鏡を皇位に就ければ天下太平となるであろう」
と言った。
称徳天皇は和気公清麻呂(わけのきみ・きよまろ)を玉座近くに招き、
「昨夜の夢に八幡神の使いが来て、『大神は天皇に奏上する事があるので、尼の法均(清麻呂の姉)を遣わされることを願っている』と告げた。
そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神の所に行き、その神託を聞いてくるように」
と勅した。
清麻呂が出発するにあたり、道鏡は「吉報をもたらせば官職位階を上げてやろう」と持ちかけた。
清麻呂は宇佐八幡宮に着くと、八幡大神より、
「わが国は開闢より君臣の秩序は定まっている。臣下を君主とすることはいまだかつてなかったことである。
天つ日嗣(ひつぎ)には必ず皇統の人を立て、無道の人は早く払い除けよ」
との託宣を受けた。
清麻呂は平城京に戻り、ありのままを奏上した。
道鏡は怒り、清麻呂の官職を解いて因幡国員外介に左遷した。
清麻呂が任地に着かないうちに詔があり、彼は官職を剥奪され籍を削られ、
氏名を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と変えられた上、大隅国に流罪となった。
姉の法均尼も還俗させられてもとの名、広虫(ひろむし)に戻され、備後国に配流となった。
(『続日本紀』ではもとの名に戻されたとするが、それに続く正史『日本後紀』の延暦十八年二月二十一日条によると、
「別部狭虫(わけべのさむし)」と改名させられたとする)
広虫は斎戒沐浴し、円鏡を御神体として宇佐八幡宮を勧請し、八幡神に弟の冤罪が晴れるよう日夜祈ったが、
これが備後国御調郡のこの地であり、御調八幡宮の創祀と伝えられている。
翌年八月、称徳天皇が突然崩御し道鏡が下野国の造薬師寺別当として左遷されると、
さっそく九月に清麻呂・広虫は配流先より呼び戻され、清麻呂は旧の官職に復し、広虫は従五位下の官位を授かり、
光仁天皇の宝亀五年(774)には朝臣の姓を賜わった。
そして宝亀八年(777)、清麻呂と親しかった参議藤原朝臣百川がこの地に社殿を造営し、封戸を割いて社領に充てた。

広虫は孤児の救済・養育に尽力しており、中央に復帰してからは天皇の側で伝奏の事に当たり、
典蔵に任じられて正四位下にまで昇進した。
光仁天皇の後を継いだ桓武天皇は広虫について、
「すべての近臣が何かと他人を非難し、また褒めたりする中で、法均が他人のあやまちを口にするのを聞いたことがない」
とその人柄を称えている。
また、広虫と清麻呂の姉弟の仲は非常によく、家産を共有し、世の人は二人の互いに思いあう心を称賛した。
広虫は延暦十七年(798)正月十九日に死去。
生前、「葬儀は簡素にし、初七日から七七日(四十九日)に至る仏事や年々の追善供養をする必要はない」と言い置いていたという。
天長二年(825)、淳和天皇は広虫の旧績を追思され、正三位の位を追贈した。

保元三年(1158)の左弁官宣旨の中に、石清水八幡宮の宮寺領として「備後国御調別宮」が挙げられており、
石清水八幡宮の傘下に入ったことで、この一帯の村々「八幡庄」の総鎮守、さらに備後国総鎮護を称して大いに栄えることとなった。
元暦元年(1184)にはいよいよ平氏を西国へ追いつめていた源頼朝によって再建がなされ、
翌年には源頼朝が下文を発して御調別宮を安堵。
直後の文治年間(1185-1189)には吉備三国の守護となっていた土肥実平が重修。
観応年間(1350-51)には足利尊氏が社殿を造営し、嘉吉年間(1441-44)には足利義政が狛犬一対を寄進。
天正十九年(1591)には社領二百三十四石を有していた。
その後、安芸・備後領主として入った福島正則が社領をことごとく没収したが、
福島の改易ののち広島藩主となった浅野家は、広島藩ならびに支城の三原城主歴代の祈願所として崇敬し、
現在に残る社殿のことごとくを再建した
(御調郡は備後国ではあるが、安芸広島藩領だった。初代福山藩主水野勝成が、尾道よりも備中国笠岡の地を望んだため)。

神社に古くから伝わる七体の神像は平安時代の九世紀から十世紀初頭にかけての作とみられ、
時代の変遷による造形の変化と祭神の増加を知ることができる貴重なもので、国の重要文化財に指定されている。
これにより、平安時代初期にはすでに社殿があったことが確実とみられる。
また、江戸時代に広島藩がつくった領内の地誌である『藝藩通志』には、

 別当神宮寺に持ち伝える、豊田郡仏通寺開山愚中の筆記には、天応元年辛酉(781)十月八日勧請とある。
 しかし、当社の経蔵に、神護景雲二年(768)に景中という者が書写した一切経があり、
 また宝亀十年(779)、百母紀朝臣多継・男氏成・女秋穂書写の経を蔵し、この時すでに社があったという説もある。
 また一説に、当社は和気清麻呂の姉法均尼が初めて建てたものであり、
 山城国高雄神護寺は和気氏の開基にして神護景雲の御世の経があるが、当社の経もこれと同じものであって、
 法均尼が持ち来たったものであるという。
 国史を按ずるに、法均尼は神護景雲三年に当国に配流され、神護寺は延暦年中の創立であって、配流に遅れること十年以上である。
 であれば、その寺の経を持ち来たったというのは誤りである。
 また愚中の記によれば、天応は神護景雲・宝亀ののちであるので、
 その経は、かつて書写されていたのをのちに当社へ納めたものと思われる。

(*紀朝臣多継:坂上忌寸石楯の妻。宝亀十年五月一日に、亡くなった夫の厚恩に報じるために子の氏成・秋穂とともに
大般若経六百巻を写経して納め、一部が唐招提寺に伝わる。坂上忌寸石楯は、恵美押勝の乱において押勝を撃破し捕縛した将)

とある。
社寺にひどく古い写経を奉納するということもまず考えられないので、
八世紀末から九世紀初頭にかけての創祀はほぼ確実、つまり創祀についての社伝は正しいといっていいのではないだろうか。

同じく神社に伝わる木像狛犬は室町時代、嘉吉年間の作といわれ、社伝では足利義政寄進と伝えられており、これも国指定重要文化財。
また、行道(ぎょうどう。仏像を奉じて行列を組み練り歩く行事。練供養とも)にて用いられる仏菩薩の面、
「行道面」もいくつかが残っており、平安後期の作である三面が国指定重要文化財。
そして、鎌倉時代の嘉禎二年~三年(1236-37)製作の阿弥陀経版木2枚・法華経普門品版木2枚・金剛寿命陀羅尼経版木1枚が現存し、
願主や製作年代が明記されている貴重な版木であることからこれらも国指定重要文化財に指定されている。
ほかにも、藤原百川像と伝えられる男神坐像や、
「天逆鉾」として代々重んじられていた弥生時代の銅戈(近隣の山からの出土品)などが県指定重要文化財に登録されている。


八幡宮は元来、神仏習合というよりかなり仏教色が強い社だったので
(そのため、京都の石清水八幡宮はその規模に関わらず官社として登録されなかった)、
かつては神宮寺もあり、境内には数多くの仏教施設があった。
『藝藩通志』にはこう記されている。

 このように古い社であるので、昔より当村及び野串、篝、津蟹、屋中、福井、本庄、垣内、美生、坂井原の十村、
 植野村(*隣の「川筋」地区に属する)のうち田上という地までも八幡庄と呼んで、今に至るまでその諸村の民は同じく当社を祭る。
 祠官五家、および神宮寺がともに祭事を掌る。昔は宮司、祝師、候僧等、およそ七十余人あったという。
 また検校という職もあり、今、津蟹村にその宅址が存する。
 野串村に、中納言谷・二位屋鋪などという地があり、あるいはいう、当社に昔勅使があった時、館舎を置く地であったと。
 昔は当社の傍に、三里塔、准底仏母堂、内楼、外楼、蔵屋鋪、浴室などあり、東南の山には虚空蔵堂があって俗にこれを奥院と称したが、
 今はみな廃し、あるいは礎石を遺す。社の東に下馬天神という社があり、もとはその地に下馬牌〔ふだ〕があったという。
 現存するのは、御供所、集会所、楼門、経蔵、鐘楼等があり、鳥居は三つ建つ。
 一は社を去ること三十町、本庄村にあり、昔は篠根村(現・府中市篠根町)にもあったといい、今、その址が田中にある。
 末社に、若宮、春日、住吉、高良神等があり、みな宇佐の末社に同じ。
 また仏通寺の地に御許〔おもと〕神社というものがあり、山を御許と称する。これもまた宇佐本山に擬したものであろう。

戦国の世に兵火に罹ったり領主(福島正則)に社領を没収されるなどしていったん衰微した時、
きらびやかな仏教施設の多くは再建することができず、そのままになったようだ。
街道筋(古代の山陽道)の鳥居から社殿のある地まではかなりの距離があり、道路沿いには平坦な敷地も多く、
かつてはこういう所にも建物が並んでいたのだろうか。
江戸時代には、神宮寺は京の仁和寺の別院として存続していたが、明治初年の神仏分離において廃寺となった。

祭神は、もちろん八幡神。
この神社では、誉田別尊(応神天皇)、足仲津彦命(仲哀天皇)、息長足姫命(神功皇后)の三柱を主祭神とし、
相殿に武内宿禰命と田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命の宗像三女神を祀る。
宗像三女神は、宇佐神宮(宇佐八幡宮)では「比売大神」として祀られている。

尾道市御調町丸門田から三原市八幡町本庄に入ったところの田の中に、八幡宮の石鳥居が立つ。
一の鳥居にあたる。

『藝藩通志』に、「一は社を去ること三十町(約3km)、本庄村にあり」と記されているもの。
かつては街道の本庄村入口のところ、つまり八幡庄の入口に立っていたのを、現在の国道486号線の拡張整備の時、
現在のところに移されたものか。
『藝藩通志』によると、かつては10km以上東に離れた篠根にもあったという。
御調郡篠根村は古代山陽道沿いの地で、国府所在地の芦田郡との境にある。
御調郡の入口にも鳥居があったということは、御調八幡宮は御調郡を代表する神社であったということになる。

府中市市街地を過ぎてからの国道486号線はほぼ古代山陽道に重なっており、
古代山陽道はその後山陽自動車道三原久井ICのある三原市久井町坂井原で現在の県道50号線に移り、
仏通寺を過ぎて南下し本郷に出ていた。
国道486号線から御調八幡宮方面へ折れたところに立つ石鳥居。
二の鳥居にあたる。
鳥居から少し進むと、下馬石がある。
かつては武士もここで馬を下り、徒歩で参拝していた。
下馬のとき、馬上からこの石の上にまず足を下ろしていたので、
この名がある。
駐車場より。境内を川が流れており、すぐそばに橋が見える。
八幡宮一帯は「やはた川自然公園」となっていてその景観は素晴らしく、
桜や紅葉の時期には多くの人が訪れる。
橋上より。境内へ通じる橋である「清明橋」が見える。 参道を行く。
三の鳥居。奥は社務所。
神社は自然公園の入り口付近であり、
公園はまだまだ西の方へ続いている。
鳥居の向かいには四末社が鎮座。
向かって右より、高良神社、春日神社、稲荷神社、住吉神社。
これより奥のほうにも気比・祇園の二末社が鎮座する。

また、
八幡宮の南に聳える龍王山の八合目には貴船神社が鎮座している。
貴船神社は八幡宮の奥宮として崇敬され、
鎮座は八幡宮より古いという。
朱塗りの清明橋。絵馬が架かっている。 橋上より八幡川下流方面。
涼しい。
石階を登っていくと、二階建ての巨大な神門。
石階の両側には寛延三年(1750)、広島藩支城の三原城主、浅野忠綏公寄進のツツジが多数植えられている。
また、豊臣秀吉公お手植えの桜樹跡もある。
本殿からは三段の段差がついている。
神門のある段、神楽殿ほかのある段、本殿・拝殿のある段。
ここは二段目。
手水舎と拝殿。
拝殿前より、神楽殿を見下ろす。多数の絵馬がかかっている。
中では、写真や絵画の展示が行われていたりする。
神楽殿の北隣にある放生池。
仏教色の強かった八幡宮では、
捕獲した鳥獣や魚を放して殺生を戒める「放生会」が盛んに行われていた。
明治の神仏分離により仏教的な祭儀は禁じられたが、
現在でも、宇佐神宮や石清水八幡宮など、大きな八幡宮では
祭の名前を変えて行っている。
二段目の西のはずれには、「忌釜」が置かれている。
御調八幡宮本殿(左)と、その東隣に鎮座する若宮社(右)。
本殿は、正面五間入母屋造、千鳥破風・唐破風付きの堂々たる建築。
若宮社は、八幡宮祭神の応神天皇の御子、仁徳天皇を祀る。

本殿にはセンサーが取り付けられており、あまり近づくと警報が鳴るので注意。
若宮社を前から。
普通の神社なら充分本殿で通る、立派な入母屋造三間社。
若宮社の東に鎮座する彰徳神社。
戦没者の霊を祀る。
若宮社と彰徳神社の間には御井社の小祠が鎮座しており、
その傍からは清水が湧き出ている。
本殿を西から。ここら辺まで近づいたらセンサーが反応します。

本殿床下にも木戸がつくられ、中に出入りできるようになっている。
神仏分離以前の日吉大社は本殿床下に本地仏を安置して延暦寺の僧が法会を行っていたり、
善光寺では現在でも本堂床下の廻廊を巡る「戒壇巡り」が行われているように、
大規模な社寺の本殿・本堂の床下を何らかの儀礼に使う例がある。
『藝藩通志』には、当社の境内施設に八幡神の本地仏である阿弥陀三尊を祀る本地堂が記されていないので、
あるいはこの下に本地仏が祀られていたのかもしれない。
・・・掃除道具入れてたとかそんなのかもしれないけど。
本殿の西には萱葺の神庫がある。
本殿と神庫の間には地主神社の小祠が鎮座する。
境内の東のはずれに鎮座する、和気神社。
和気清麻呂公、和気広虫公ほか一柱を祀る。
「ほか一柱」は、和気神社の本社である岡山県和気郡和気町鎮座の和気神社の主祭神、
和気氏の祖である鐸石別命(ぬでしわけのみこと。古事記では「沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)」)か。

社前には狛猪がいる。これは、猪が清麻呂公の神使であるため。
清麻呂公が大隅国に配流される途上、道鏡は刺客を放って清麻呂公を殺そうとしたが、
その時三百頭の猪の群れが現れて公を守ったといい、
また正史『日本後紀』には、清麻呂公が足を患って立てなくなったため輿にて宇佐八幡宮に参拝した際、
豊前国宇佐郡楉田村を通りかかった時に突然野猪三百頭ばかりが現れ、
道を挟んで列を作ると十里の間ゆっくりと公を先導してやがて山中へ消え、
これを見ていた人はみな不思議がった、という出来事を記録している。

清麻呂公は、道鏡の即位を阻止し皇統を守った功績によって護国の神として、
あるいは、学問の普及に努めたことにより(息子の広世は父の遺志を継いで「弘文院」を創設した)学問の神として、
また、足を患って立つことができないほどであったのを、宇佐八幡宮に参詣するやたちどころに足が癒え、
行くときは輿に乗っていったが帰りは馬に乗って帰ったという逸話から、
身体健全・病気平癒の神として信仰される。
広虫公は、身寄りのない孤児を救済し養育していたことから、子育ての神として信仰されている。


和気氏の祖・鐸石別命は第十一代垂仁天皇の皇子で、三世の孫・弟彦王(おとひこのみこ)は神功皇后の新羅遠征に従い、
帰還の翌年に起こった忍熊王の反乱鎮圧に遣わされ、針間と吉備の境の山で忍熊王を誅殺し、
その功によって藤原県に封ぜられた、という氏族伝承が日本国第三の正史『日本後紀』に収録されている。
この伝承は『日本書紀』『古事記』に記す忍熊王討伐記事とは異なる氏族独自の伝承。
(記紀では、忍熊王は山城国宇治、近江国逢坂などで連敗し、近江国瀬田で入水自殺したとする)




久井稲生(くいいなり)神社。

三原市久井町江木、亀甲山の麓に鎮座。

現在の久井町一帯は、かつては「杭庄(くいのしょう)」と呼ばれ、山城国の伏見稲荷大社(京都市伏見区鎮座)に寄進された荘園だった。
この神社はその縁により勧請されたもので、伏見稲荷の分社のうち最も古いものとされている。
杭という名は、この社の旧鎮座地である下津の田の中に昔から杭があり、それによって名づけられたという。
江戸時代に広島藩がまとめた領内の地誌『藝藩通志』には、

 祠官の祖である秦某の筆記に、「天慶元年戊辰(938)、稲荷、所祭神三座」とあり、
 また社職の記に、「稲荷宮注連頭〔しめかしら〕、亀甲山神宮寺、祠官秦吉光、祝白〔ものまをし〕貞光、
 別当猪儀兼政、門田利春」とあり、神宮寺は現存し秦氏以下もその末裔がおり、
 また行法硫黄山箱石寺というものもあって、下津村に今、その廃址がある。

とあり、伏見稲荷を管掌していた秦氏がこの地に下ってきて分社を定め、神社を掌っていたことが知られる。
社伝では、創祀は用明天皇元年(585)、伏見稲荷の秦氏が御分霊を下津村三橋の上原田谷に社殿を造営して鎮め奉り、
「杭の伊奈利大明神」として信仰していたのを、天慶元年に現在の江木村亀甲山に遷座した、と記す。
ただ、伏見稲荷大社はその創祀を和銅四年(711)としていてつじつまが合わないので、
勧請されたのは伏見稲荷の勢力が大になってのちだろう。
古代において、伏見稲荷の荘園は山城・美作・備後・加賀・越前・美濃の国にあったが、
分社はここ備後国杭庄と、越前国水間庄の二ヶ所に定められていた。
古文書においては祭神は三座であり、
『藝藩通志』では祭神を倉稲魂(うかのみたま。つまり稲荷神)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と記している。
現在は、宇迦之御魂大神・和久産巣日(わくむすび)神・火産巣日(ほむすび)神・弥都波能売(みつはのめ)大神の四柱、
そして相殿に天照皇大御神を祀っている。

弘治三年(1557)に毛利元就が本殿を造営し、
その後、永禄三年(1560)に小早川隆景が附属する社殿を造営、さらに社領田十二町二反、神子田五町三反を寄進。
また隆景が三原城主となったのち、天正十三年(1585)には大般若経六百巻(県指定重要文化財)を奉納した。
この社領は江戸時代にはなくなっていたので、安芸・備後領主となった福島正則が没収したのか。
江戸時代の元禄十四年(1701)に広島藩主浅野忠義が社殿を再建し、これが現在の社殿。
長く「杭稲荷」と表記されていたが、近代になって、神名の意味(いなり=稲生り)を汲み「久井稲生神社」の表記としている。

この神社には「御当座(おとうざ)の古式」という神事が伝えられており、
「久井稲荷神社の御当」として国の無形民俗文化財〔記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財〕に指定されている。
これは秋に斎行される例祭においての行事であり、
『藝藩通志』には、

 天暦年間(947-957)に定まるところの祭事・神遊等の旧儀を記したものを見ると甚だ厳整であり、
 今も祭事に庄内八村の民は故家の者九十六名が社殿東西に座別を分かって祭儀に与る。
 殿内にて紅魚(*鯛)を撃って神供とする。昔より包丁の家があって、古式を守るという。

とあり、慶長三年(1598)の古記の形式とほぼ同じ形で今も伝えられている。
祭典に引き続き、神楽殿に社家社人が着き、
広庭に設けられた東西の座のうち、東座にはもとの領家分の家の氏子が着き、
西座にはもとの地頭分の家の氏子が着く。
そして、まず神楽殿で「見子の当」があり、
それから「東座」、次いで「西座」があり、当番が甘酒と大鯛を神饌のように奉じながら進んでゆく。
そして最後に「場の魚」として、大鯛を「包丁方」が独特の包丁捌きで料理し(鯛にはいっさい手を触れず、金箸と包丁で調理する)、
その後、皆に配って直会となる。
この時の甘酒は、その年の当番主が自分の田(当番の田は「御当田」と呼ばれる)から収穫した新穀によって醸造され、
当番主は「包丁方」もつとめる。(昔は包丁の家があったようだが、今は当番主がやるようだ)
包丁方は「亀の入れ首」「鶴の羽替え落とし」などの古式によって調理を行う。
「宮座」のように、中世には村の有力者、つまり有力な氏子らが組織を作って神社を運営することが多かったが、
その当時の儀式を今に伝える貴重な行事といえるだろう。

また、境内社の八重垣神社(祭神:須佐之男命)の例祭、「ぎおん祭」において、
神前の庭で踊られる「ぎおん踊」や「獅子舞」も広島県無形文化財に指定されているなど、
古風をよく伝えている神社。

一般的には、二月に行われる「御福開祭(おふくびらきさい)裸まつり」が有名。
2月第3土曜の夜、ふんどし男たちが御調川で身を清めたあと一気に神社へ駆け上がり、
「福木」と呼ばれる札を奪い合う、県内唯一、男だらけの裸祭。
福木獲得者には賞金と玄米一俵だ。



鳥居前。隣には三原市久井歴史民俗資料館。
資料館のある土地には、その昔は「牛市」が立っていた。後述。
稲荷社らしく、多数の鳥居が並ぶ。 石段より、南を望む。江木、そして下津方面。
境内を南西から。正面に見えるのが拝殿。
右のお堂のような建物は、『藝藩通志』に、

 社の傍に釈迦堂がある。

と記されている、かつて釈迦堂だった建物か。
摂末社は八重垣神社と冥府神社しかないので、現在はおそらく宝蔵として使われているようだ。
拝殿を正面から。 神楽殿。
欄干や基礎の柱が朱色に塗られており、遠くから目立つ建物。

御当座の古式ではここで「見子の当」が行われる。
境内の東には小祠がある。
向かって右の祠の上には大きな牛の像があり、
これが牛馬の守護神、大仙社であることを示す。
大仙社とは、伯耆大山の大山智明権現の勧請社。
(一般的には牛といえば天神さんの使いだが、
中国地方では大仙信仰が篤い)
久井には古来牛市があり、伯耆国大仙市、豊後国浜の市とともに
日本三大牛市と称されていた。
江戸初期の延宝年間(1673-81)に市として確立したといわれ、
毎年9月・10月・11月の三回、市が開かれていた。
近隣には「牛馬宿」という家もあり、
大正時代には一年で一万七千頭の牛馬を取引していたという。
伝承では、天暦五年(951)、
三次郡寺町の群兵衛という者が杭庄の勧左衛門に牛を売り、
その受け渡しをこの神社において行ったことが
牛市の起源とされている。
その牛市は昭和42年に停止され、
跡地には町の歴史を伝える久井歴史民俗資料館が建っている。
大正十一年、
日本を訪問された英国の王太子エドワード殿下のためにここで刀を打ち、
厳島にて献刀したことを銘記する碑。

エドワード殿下はその後即位したものの(エドワード8世)、
これが人妻LOVEという困った人で、彼女と結婚するために退位。
しかも親ナチスだったりと、何かと英国をお騒がせした。
その弟が、「英国王のスピーチ」でおなじみのジョージ6世。
本来は王位とは無縁だったのに、兄のせいで、
よりにもよって第二次世界大戦の時代に王位を担った。
本殿と、その東に鎮座する末社・八重垣神社。
『藝藩通志』には、

 末社二宇。祇園社は地主神と称し、稲荷神を勧請する前よりこの社があったと言い伝える。

と記されている。
かつては祇園社と呼ばれていたのを、明治の神仏分離によって現在の社号に改めた。
本殿の西にも「冥府神社」が鎮座しており、この二社を「末社二宇」と記しているのだろう。
本殿の西に鎮座する末社、冥府(めいふ)神社。
神伊邪那美命、大市姫命を祀る。
伊邪那美命はもちろん国生みを行った女神であり、死後は黄泉国の大神となったとされる。
『藝藩通志』によると、近世までは本殿三座の一座だった。
大市姫命は主祭神・宇迦之御魂神の母神。
伊邪那美命は黄泉大神なので「冥府神社」という社号にはふさわしいが、
社殿の中には狐の像があったので、おそらくはもともと「命婦(みょうぶ)社」で稲荷神の神使・狐の神霊を祀っていたのを、
「命婦→冥府」と同音の字に置き換えて現在のようになったのだろうか。
     とり      



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