これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
備後国:
*世羅郡(三次市南部):
平安時代後期、橘氏が支配していた郡東部の地は「大田荘」という荘園として平氏に寄進され、
そののち後白河院を経て高野山根本中堂に寄進された。
以降、戦国時代の混乱の時に至るまで大田荘は高野山領となり、今高野山龍華寺が建立されて領内の管理がなされ、
北備において大いに栄えた荘園となった。
また、北部の「小童(ひち)保」は京の祇園社の社領となり、独自の発展を遂げている。
梨やマツタケの生産で有名で、植物園も多い。
近年はワインの製造も盛ん。
須佐神社 | 武塔神社 |
*甲奴郡(三次市南部、庄原市南西部、府中市北西部):
もとは甲努村といって葦田郡内の一村だったが、葦田郡の郡役所からは遠く、道程も険阻であり、
人民の往還が困難でそれに要する経費もかさんだため、
和銅二年(709)十月八日に葦田郡から分割して甲努郡となった。のち「甲奴」表記。
郡の成立理由からわかるように山谷の多い地域で交通に不便なところだったが、
中世後期からはそれが一転、
石見銀山から採掘された銀を尾道・府中方面へと運搬する「銀山街道」の宿場町がいくつも置かれ、
山陰と山陽を結ぶ交通の要路となった。
江戸時代当初は福山藩が治めていたが、元禄十一年(1698)に藩主の水野家が無嗣子改易となったのちは天領となり、
上下村(現・府中市上下町)にはそれを管轄する「上下代官所」(現・上下支所。県指定史跡)が置かれ、
のち天領の一部が豊後中津領となってからは規模を縮小し、石見銀山大森代官所の出張陣屋となった。
甲奴郡の町村は「平成の大合併」によって府中市・三次市・庄原市の三自治体に分割合併されており、
旧甲奴郡域を枠組みとする古くからの組合などは地方自治体への諸手続きがけっこう面倒な事になっている。
*祇園水 |
三次市甲奴町小童(ひち)に鎮座。
小童はもともと世羅郡に属していたが、
昭和33年に小童の属する世羅郡広定村が甲奴郡甲奴町に合併されたため、
もとは世羅の地でありながら、甲奴の地に属することになった。
現在は「平成の大合併」により、この一帯はともに三次市に合併されている。
祭神は素戔嗚尊。
古来「小童(ひち、しち)祇園社(宮)」として、
戸手天王社(福山市新市町戸手鎮座、素盞嗚神社)、鞆祇園宮(福山市鞆町後地鎮座、現在は沼名前神社配祀)とともに、
「備後三祇園社」の一に数えられた大社。
備後国風土記逸文の記述(戸手の素盞嗚神社の項を参照のこと)からわかるように、
古来、備後地方では素戔嗚尊=武塔神、そしてのちにこれらと同体とされた仏法の神・牛頭天王の信仰が盛んであり、
この三祇園社がその中心的な役割を果たしていた。
備後は「素戔嗚尊が初めて立ち寄られた地」であるとして、各地に「素戔嗚尊が一夜の宿を借りた」とする場所があり、
また備後地方には荒神社が非常に多いが、それも素戔嗚尊(牛頭天王)を祭神とする説があって、
昔はその祭礼における神楽には八王子(牛頭天王の八人の御子)の事があったり、「百手神事」といって弓を百度射て手向ける行事もあった。
室町時代中期の文明元年(1469)に書かれた『小童牛頭王社鎮座由来記』には、
光仁天皇の宝亀五年(774)四月、天下に疫病が蔓延していた。
その時、備州世羅郷にて小童が武塔において、
「わたしは邪毒鬼神である。本地は妙見菩薩である。この里に牛頭天王を祀り、疫癘の禊祓いをせよ」
と諭された。
そこで御殿を建て、同年六月十四日に旗・鼓・笛・鉦を打って御旅所へ神幸し、
同十六日未申の刻にもとの御殿所へ還られた。
それより霊場は日々繁栄し、村、里、郷より崇め敬い奉る。
という創祀伝承が記されている。
また、この部分の前の箇所には備後国風土記逸文に類似する伝承も記されており、これを用明天皇丙寅元年の出来事とするのが特徴
(『日本書紀』の紀年では用明天皇元年は丙午であり、西暦586年にあたる。直近の丙寅は546年もしくは606年)。
江戸時代の宝暦七年(1757)に小童祇園社神宮寺別当によって記された『小童祇園社由来拾遺伝』には、
光仁天皇宝亀五年、天下に疫病が流行した時、
この地に馬に乗った小童が現れ、牛頭天王を祭れば疫病は鎮まると託宣した。
そこで神社を建てて祭ると疫病の災いはなくなった。
と、すっきりした形になっている。
現在の社伝では、この時あらわれた小童は素戔嗚尊の化身であり、
自分は以前よりこの地に祀られていたものの、今はそれが廃れ衰えているので、再び自分を祭れば天下泰平になるであろう、
と託宣したとする。
「ひち」という地名は、この時に出現した小童にちなむとも、
八岐大蛇を斬った素戔嗚尊が、まだ小童であった奇稲田姫をこの地で養育(ひた)し、成長してのち娶られたことからともいうが、
幼い童のことを「ひち」という例はほかにみられず、いかなる理由で「ひち」に「小童」という文字を当てたのかは不明。
11世紀末、堀河天皇の承徳二年(1098)、天皇の勅願によって小童の地は京の祇園社(現・八坂神社)に寄進され、
国役を免除される代わりに祇園社へ神供米料の上納や造営時の労役、恒例・臨時の社役をつとめることになった。
この時に祇園社に寄進されたのは、
丹波国波々伯部(ほほかべ)保 (兵庫県篠山市波々伯部。当地鎮座の波々伯部神社も、もとは祇園社)
近江国坂田保 (滋賀県長浜市細江町)
近江国盛冨保 (滋賀県東近江市南西部、旧・蒲生町を中心とした一帯)
備後国小童保
(「保」はもともと「郡」「郷」の下の最小行政単位だが、古代末期からは荘園などの所領をあらわす単位にもなった)
の四ヶ所で、不輸の権をもつ官省符荘に準ずる扱いとなり、
祇園社の社領の中でもとくに重要な地として、長くその経営基盤を支えていた。
小童保は京・祇園社の大別当を勤めた経歴を持つ社僧・勝尊が保司職となって土地を開発、直接支配を行い、
保司職はその門流に相承された。
しかし鎌倉時代になると一族間で抗争が起こり、
幕府の介入があったり、持明院統・大覚寺統それぞれへの訴えなどもあって、その伝承過程は非常に混沌とした。
荘園支配は相当おいしい仕事だったのだろう。
それはともかく、ほかの三ヶ所とは違って都から遠く離れたこの備後国世羅郡小童の地が祇園社社領として選ばれたのには、
ここが牛頭天王信仰の原型である武塔神・素戔嗚尊の信仰においてとりわけ重要な地であったからではないか、とする説がある。
近世においては世羅・甲奴・三上・三谿・神石の五郡を主な信仰圏とし、
また奴可郡や葦田郡、さらには備中国哲多郡・阿賀郡・川上郡・後月郡からの奉献記録もあり、
かなり広い範囲にわたって崇敬を得ていたことがうかがえる。
また、信仰圏では祇園社の「講」が結成され、その代表は祇園祭に参詣してお札を受けて持ち帰り、
講中に配布していた。
現在でも旧比婆郡である庄原市口和町の一部では「講」が引き継がれているという。
近代になると、明治初年の神仏判然令において神社であることを選択したため、
社号を須佐神社に改め、境内の神宮寺を廃した。
ただ、廃したといってもすでに維新直前の慶応三年、失火によって神宮寺は全焼していた。
祇園社といえば祇園祭。
小童祇園社も旧暦六月十四日~十六日の三日間に祇園会を行っていた。
明治の新暦移行に伴って一か月ずらした七月に行われるようになり、現在は七月第三日曜からの三日間に行われている。
江戸時代の地誌『西備名区』は、小童祇園宮の祭礼について以下のように記す。
四季に祭祀は多いが、六月はことに大祭であり、祇園会といって遠近の参詣が多い。
十四日に神輿渡御、通例として三体の神輿が渡御され、次に大御前と称する大神輿がある。一間四方に高さ一丈ばかりであって、車台である。
神御をお遷しして、御守子が押し出す。
真っ先に大綱を台に撚り付けて数百尋引きはえ、
産子は言うに及ばず、諸方参詣の者まで疾疫除災の御縁の綱と寄り集い引き勇むその先に、諸村の産子が鉦太鼓にて跳ね勇む。
またその先に祇園貝といって、修験者が大法螺貝を吹き立て、御先を祓う。
この貝は、もとは甲奴郡矢野村の修験者が昔祇園の神より賜わった貝であるとして持ち伝え、
この神事にのみ持ち出して先駈(みさきばらい)していたが、今はその家が衰え、
所縁によって芦田郡阿字村の修験に伝わっているので、この修験がこの日の神事に参会し、大御前の御先に貝を吹く。
これに続いて近郷の修験・先達の類が思い思いの出で立ちで貝を吹き、数百人が先駈する。
その貝を吹く時、響きは山谷に鳴り渡り、すさまじい勢いである。
十六日に還御を行う時の行事は前の通りである。
十四日から十六日まで、諸方より夥しい群衆が参詣する。
さて、渡御・還御ともに、かの大御前の神慮勇まれる時は、険しい坂道といえど綱を曳かずとも車を押すかのように馳せ上るが、
神慮が勇まれない時は、下り坂といえど大磐石のように動くことはない。
そのような時は、貴賤老若ともに男女交合・猥雑姦娯の戯言を口に任せて言いののしり、
貴賤ともに笑いを催さないということはない。
これは、昔この所にて素戔嗚尊が奇稲田姫を養育され、交合なさったという縁が残ったものであろうかといわれる。
そうして神慮が和らがれると、また神輿を押すに従い、引かないのに押したかのようになる。
まことに稀有の神業である。
遠近から集まった参詣の者も大神輿の曳綱を曳き、
修験者の集団が法螺貝の大音声で御先掃いを行う、ものすごい迫力の渡御だったようだ。
神輿が進まなくなったら「エロいお話を語り合ってエネルギー充填」という、実に民間のお祭りといった一面も。
大神輿はすぐ南の亀甲山上に鎮座する武塔神社に渡御し、三日目に還御される。
また、この地方の神社には「神儀(じんぎ)」「神殿入り(こうどなり)」といって、
氏子区域内から鉦太鼓打ちや獅子舞、また大名行列を模した「宿(しゅく)入り」などの神賑行事を行いながら宮入りする儀が多いが、
小童においても、氏子内各地区や東隣の矢野地区から地区を挙げての神儀・神殿入りが古来行われており、
現在でも矢野地区からの神儀は一村を挙げて続けられており、「矢野の神儀」として広島県無形民俗文化財に指定されている。
矢野は、旅の途上の素戔嗚尊が小童に入られる前に休息を取られた所であると伝えられており、
『西備名区』の記述によれば、大神輿の先駈の「祇園貝」を託されているなど、小童祇園社と非常に縁の深い土地。
天保七年(1836)に書かれた『小童祇園社歳式歳中行事定書』によれば、祭りの流れはだいたい以下の通り。
*5月29日 忌刺(いみさし)
当番が決められた山に榊を伐りにいき、その榊を本社鳥居や武塔社、そして各村境に刺し立てる。
祭が始まることの標示、および神聖な結界の意味がある。
*6月1日 道造り
本社から御旅所までの道を整える。
*6月10日 神輿清役が甲奴郡矢野村の「祇園水」を汲みに行き、また大神輿に綱を取り付ける
*6月14日 御幸。
・武塔社から本社へ、武塔社禰宜がお迎えに参る。
・甲奴郡矢野村から、御神事吹き囃しつつ打ち入り。
・神輿出御。
金御幣や御先鉾など数多くの神職・社職の供奉とともに、三体神輿が出る。
・御旅所へ甲奴郡矢野村渡拍子打ち入り。
・大神輿出御。
出御の時、楽を奏する。
神宮寺社僧の供奉。
*6月15日 御神楽奉納。
*6月16日 還御。
・御神事吹き囃し、春日井・広石・塩貝の三谷より打ち入り。
・御子舞。
・金御幣、御先鉾、御太刀、御子頭、神子らが仮殿の外を三度巡り、仮殿に入る。
・還御行列並びに供奉は御幸に同じ。
現在でも、簡略化された部分はあるが基本的な流れはそのままに行われている。
京の八坂神社も神輿洗いや本殿三座の三体神輿があるが、ここではさらに大神輿が出るのが独特。
大神輿は現在でも参詣者が疫病除けのために曳いてよいことになっている。
『日本三代実録』貞観三年(861)十月二十日条に、
備後国正六位上の大神神、天照真良建雄神に並びに従五位下を授く。
という神階昇叙記事があり、これらの神は『延喜式』神名式へ登録されていないことから「式外社」、
また国史に名が見えることから「国史現(見)在社」とも呼ばれ、この国史現在社は備後国内に五社が知られているが
(神田神、大蔵神、大神神、天照真良建雄神、隠嶋神)、
上の記事中の「天照真良建雄神」を「あまてらすますらたけをのかみ(天に照り輝く、雄々しく猛々しい男神)」と読み、
これを素戔嗚尊の別名として当社に比定する説がある。
小童は京の祇園社が社領としたほどの地であることから、
*当時、小童には中央に知られるほど武塔神・素戔嗚尊に対する強い信仰があり、当然それを祭る有力な社があった
*神祇官が管理しない式外社にもかかわらず中央にその名が知られていたことから、過去その祭神に神階が授与されていた可能性は高い
*よって備後国史現在社五社のうちの一社が小童の社となり、それに該当しそうなのは天照真良建雄神
ということになるか。
ただし両者を直接結びつける物証はなく、
もしこれを「あまてらすまらたけをのかみ」と読んだ場合は、
記紀や『先代旧事本紀』にみえる鍛冶師の祖神「天津麻良(あまつまら)」に美称を重ねた形とも思われ、
「真金吹く」吉備の国は古代より製鉄が盛んだったことから、いずれかの鍛冶集団の守護神であったとも考えられる。
その場合、世羅郡にも「カナクロ谷製鉄遺跡」があり(世羅郡世羅町黒渕)、これは6~7世紀の製鉄炉跡とみられているので、
天照真良建雄神が鍛冶神であったとしても世羅郡内に祀られていた可能性がある。
須佐神社や、南の亀甲山に鎮座する武塔神社の境内には末社「金神社」があって、これはかつて製鉄が行われていた名残とも思われる・・・
と、神名ひとつでは材料が少なすぎて何とでも言えてしまう。確定には有力な物証が必要。
「備後国内神名帳」でも発見されればいいんだけれど・・・
国内神名帳は法会において国内の神々を勧請する時に用いられることがあり、その国内で有力であった寺院に保管されていることがある。
どっかの寺にでも残っていないものか。
(*「天照」の称について・・・現在、「アマテラス」といえば伊勢の神宮に祀られる神様をさすが、
もともとは「天に照り輝かれる」という「天上の存在に対する美称」であって、固有名詞ではない。
『日本書紀』には、「日神(ひのかみ)」の御名を「大日孁貴(おほひるめのむち)」とし、
別名として「天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)」としていることからもわかる。
『万葉集』にも、「あまでらす 神の御代より 安の河 中に隔てて・・・」という歌があるが(4125)、
この「あまでらす」は「アマテラスオホミカミ」のことではなく「(天上の)神」の枕詞として用いられている。
「天照大神」とは、「天に照り輝かれる大いなる神」という、至って貴い存在を呼ぶのに固有名詞ではなく普通名詞をもってあらわした形。
目上の存在を呼ぶときに本名ではなく「先生」「社長」「ショチョォ!」のように肩書きで呼ぶ、という感じか。
また、記紀が編纂された頃には日神としてだけでなく農業神・武神・皇祖神など様々な神徳・属性を付与されており、
「大日孁貴」という、意味が「日の女神」に限定された固有名詞では、それらを包括するには充分ではなくなっていたこともある)
県道51号線から北西に入る参道入り口。標柱が立っており、奥に鳥居が見える。 左に見える小高い山には、武塔神社が鎮座する。 道路を挟んだ川沿いには大駐車場があり、ゆったり駐車できる。もっとも、祭の時は別だろうけど。 |
参道。 |
鳥居前。 |
鳥居をくぐると、参道の両側に客人(まろうど)神社が鎮座している。 祭神は櫛磐窓神(くしいわまどのかみ)、 および豊磐窓神(とよいわまどのかみ)。 御門の神であり、随神門に祀られることが多い。 大小の草履が奉納されている。 |
右手に、 (左)県指定天然記念物・須佐神社のフジ (中)甲奴町指定天然記念物・須佐神社のツクバネガシ (右)同上・須佐神社のケヤキ が立つ。 藤はツクバネガシとほぼ同じ位置にあり、 巨大な藤の木は、杉の木にぐるぐると巻き付いている。 この藤は、戦国時代、小童の麓山城城主・長綱時が戦勝祈願のために植えたと伝えられ、「綱時のフジ」と呼ばれている。 綱時は小童祇園社の由来記を記させるなど、祇園社への信仰が篤かった人物。 |
手水舎を過ぎると石段があり、 その上からは廻廊が伸びる。 |
廻廊内。多くの絵馬がかかっている。 最近かけられたものもあった。 廻廊の奥に幣殿が建つ。 |
須佐神社幣殿。 三間社入母屋造、千鳥破風・唐破風付。 棟札は神宮寺に保管されていたが、慶応三年の神宮寺火災で焼失してしまった。 しかし棟札の文面は武塔社の禰宜によって書写されており、それによれば、 享禄三年(1530)に修造したものを文禄三年(1594)六月に毛利輝元・元継父子が造替、 その後寛永二年(1625)には世羅郡を領した安芸広島藩主浅野但馬守長晟が造替した。 現在の建築は元禄九年(1696)に造替されたもので、 明和七年(1765)に後方に新しく本殿が造営されるまで、この建物が本殿だった。 太平の江戸時代の建築らしい、華麗な彩色と装飾が特徴。 |
幣殿外観。 幣殿の左手には御供所(神饌所)がある。 |
|
一段高い所に本殿が鎮座。 本殿は神明造で、大正十三年に造替されたもの。 備後地方の社殿は入母屋造および流造が主流であり、 神明造の社殿は珍しい。 それまでの本殿は、摂社・小童神社の本殿として移築されている (下の写真)。 |
幣殿の東に南向きで鎮座する末社群。 大きな社殿は小童神社。 祭神は足那槌(あしなづち)・手那槌(てなづち)神で、素戔嗚尊の妃である奇稲田姫の親神を祀る。 かなり古びているが、この社殿はもとの須佐神社本殿を移築したもので、明和二年(1765)の造営になる。 一間社入母屋造。 小童神社の向かって右には四小祠が鎮座。 金神社(祭神:金山比古大神、金山比売大神) 金属・鍛冶の神様 大荒神神社(祭神:須佐之男大神) 荒神は、備後では「地荒神」として、屋敷、一族もしくは小字区域ほどの狭い範囲の守護神として信仰されることが多く、 近世には荒神=素戔嗚尊とみなされていた。 現在、一般的には荒神社を竈神とみなして祭神を奥津彦・奥津姫神とするが、 備北においては、明治期に荒神社を素戔嗚尊を主祭神とする須佐神社などとした例が多いようだ。 旧・甲奴郡域には素戔嗚尊を主祭神とする神社が三百社以上と非常に多いが、 そのほとんどはごく小規模で宗教法人登録もなされていない小祠であり、荒神社を改称したものらしい。 中世より出雲大社の祠官は西日本を中心に広く布教を行っていたので、その影響が大きかったのだろうか。 水波売神社(祭神:水波売大神) 水の女神。 三宝荒神社(祭神:奥津彦大神・奥津姫大神) 竈の神。 向かって左脇には、的矢神社の小祠が鎮座している。 |
同じく、西向きで鎮座する末社。 右は伊勢神社。天照大神ほか、九神を祀る。 左は合祀神社。天御中主神ほか、十二神を祀る。 合祀神社は、かつては「籠り堂」として、眼病平癒祈願の人が籠るところだった。 その霊験と、現在の祭神が天御中主神であるということから、もとは妙見堂だったのだろうか。 室町時代の由来記にも、牛頭天王を祀るよう託宣した邪毒鬼神の本地を「妙見菩薩」としている。 |
小童神社と正対して北向きに建つ神楽殿。 | 神楽殿脇より、本殿東の境内。 |
幣殿・御供所の西に建つ、稲田比売・厳島神社。 一社殿に二社が並んでおり、 向かって右に稲田比売神社、左に厳島神社。 稲田比売神社は素戔嗚尊の妃である奇稲田姫命を祀り、 厳島神社は市杵島比売命を祀る。 稲田比売神社には、 「波梨賽(はりさい)神社」と書かれた木札がかかっている。 「波梨賽」とは、牛頭天王が南海を訪れて娶った娑羯羅龍王の娘の名で、 牛頭天王は彼女との間に八人の御子「八王子」をもうけた。 ここが祇園社であったころの社号。 |
|
その西に南向きで建つ末社群。 向かって左より、 祖霊社(祭神:宇賀濃武丸城主矢田氏祖霊) 祖霊社(祭神:伊達氏霊神) 伊達氏は長く祇園社禰宜であった家。 日吉神社(祭神:大山咋大神) 疫除神社(祭神:須佐之男大神) が鎮座。 |
稲田比売(波梨賽)神社の中には一基の大神輿が台車に乗って入っており、入口を取り外せば神輿を引き出せるようになっている。 この神輿は一般的な神輿ではなく、中にはつねに御祭神の奇稲田姫命が鎮まられている。 つまり、この神輿が神社そのものということ。 八角長柄構え、台車つき、反転屋根神輿。 サイズは高さ3.1m、幅2.1m、重量は実に1.3tと、神社本殿と呼ぶに相応しい威容を誇る。 内部の墨書より室町時代の永正十四年(1517)の製作とされ、のち宝暦十三年に改修。 その年代の古さ、装飾の優秀さや、中央に心柱(大黒柱)をもつ特異な構造などから、県の重要文化財に指定されている。 かつては「大御前(おおごぜん)」と呼ばれ、現在ではなまって「おごっさん」と呼ばれている。 文明元年(1469)に書かれた『小童牛頭王社鎮座由来記』には、 本宮の西側に波梨采女を祀る。これは御神幸の時、「大ごぜん」ともいう。 とあり、これは現在の大神輿の製作年以前の記述であるため、 現在の大神輿が作られる以前よりこのような形で祭祀され、神幸を行っていたと考えられている。 京の祇園社では波梨采女は本殿三座の内だったが、ここでは末社として神輿の中に祀られ、 祇園祭には三体神輿とは別に神幸を行う。 例祭においては、一日目に武塔神社へ神幸して御旅所に留まられ、三日目に還幸される。 古くは長柄をもって神輿を担っていたが、寛文八年(1668)より台車に乗せられ、曳き綱にて巡幸することになった。 |
『小童牛頭王社鎮座由来記』には当時の祭神が記されており、それによると、
本宮には三座が祀られており、東に「邪毒鬼神」、中に「牛頭天王」、西に「邪ふしょい天王」が祀られ、
末社として本宮の東には「いざなぎ」「いざなみ」「八王子」が、
本宮の西には「波梨采女」「いつくしまさん」「みたらしみずはめの明神」「さんのう七社の別宮」
が祀られていたという。
京の祇園社も本殿に三座が祀られている。
『二十二社註式』の「祇園大明神」の条に、
祇園大明神 三社である。
西の間は稲田姫の垂迹である。波利女、少将井とも号す。
中の間は祇園牛頭天王。大政所と号す。
東の間は蛇毒気神。沙竭羅龍王の娘である。
とあり、小童祇園社もこれにならっていたようだ。
「邪ふしょい」というのは、おそらく「少将井(しやうしやうゐ)」が訛ったものだろう。
この名は、京・祇園会の三体神輿渡御において、京中の名井であった「少将井」に御旅所が置かれていたことから。
本来の意味が忘れられた、ひどく訛った形になっている。
「邪毒鬼神」は、一般的には「蛇毒気神」。八王子の末子、あるいは牛頭天王眷族中で最も猛悪な存在とされ、
八岐大蛇と同体とする説もあった。恐ろしい神だが、女神とされる。
「いざなぎ」「いざなみ」はもちろん伊弉諾尊・伊弉冉尊で、素戔嗚尊の親神。
『古事記』には、伊邪那美命(伊弉冉尊)は比婆山に葬られたとされており、
また山を越えた出雲国意宇郡の熊野大社の祭神・熊野大神櫛御気野命は伊弉諾尊の子とされ、素戔嗚尊と同一視されており、
中世には出雲国一宮・杵築大社の祭神が素戔嗚尊、二宮・佐太神社の祭神が伊弉諾・伊弉冉尊とされており、
大庭の神魂(かもす)神社の祭神も伊弉諾・伊弉冉尊だった。
それらにより、備北でも古くからこれら三神への信仰があったと思われる。
現在の小童神社にあたる神社の祭神だったか。
「八王子」は牛頭天王の八人の御子で、天照大神と素戔嗚尊の天安河での誓約により生まれた五男神三女神と同一視され、
神仏分離後はそちらに置き換えられた。現在ある伊勢神社の元々の祭神だったと思われる。
なお、京都の八坂神社では、八王子は五男神三女神ではなく、みな素戔嗚尊の御子神に置き換えられている。
「波梨采女」「いつくしまさん」は、表記順よりみて当時から並んで祀られていたとおぼしい。
中世の所伝では、波梨采女および安芸一宮・厳島明神はともに娑羯羅龍王の姫神であるとされていた。
「みずはめ明神」は水の女神。現在は幣殿東の小祠に祀られている。
「さんのう七社」は、現在も幣殿の西に鎮座する日吉神社にあたる。
平安後期から室町初期まで京の祇園社が比叡山延暦寺の支配下にあったため、
祇園社では比叡山の鎮守社である山王七社(東西本宮・牛尾宮・樹下宮・三宮宮・宇佐宮・白山宮)を祀っており、
ここでもそれにならったもの。
明治になって山王社は『延喜式』に記載されている社号「日吉神社」に復している。
幣殿の西の境内。 左には社務所があり、宮司宅となっているが、古くは神宮寺があった場所。 牛頭天王は祇園精舎の守護神であり、武塔神=素戔嗚尊と習合したのちもその信仰には仏法的な要素が強かったので、 祇園社も「祇園社感神院」として、主に社僧によって経営されていた。 当社の神宮寺は真言宗で、寺号を亀甲山感神院本願坊神宮密寺と称しており、 江戸時代の元禄九年に造替された幣殿棟札に「導師今高野山法印大和尚亮雄」とあることから、 今高野山安楽院の末寺であったとみられている。 長く祇園社の経営を掌っており、いろいろな文書・記録を所蔵していたが、 享保八年と慶応三年の火災で惜しくもそのほとんどを失っている。 明治初年の神仏判然令によって行われた神仏分離において小童祇園社は神社であることを選択したため、 社号は須佐神社に改められ、神宮寺は廃寺となった。 (*もしこの時小童祇園社が寺院であることを選択すれば、社号も境内もそのままでよかった。 もっとも、江戸時代の地誌における社寺の分類を見ると祇園社は「神社」に入れられており、 つまり当時はそういう認識だったので、寺を称することは無理だっただろう) 現在の社務所は、その神宮寺の様式に似せて建てられている。 |
社の前には小童川が流れ、祇園橋がかかっている。 山々に囲まれた、のどかな田園風景。 |
三次市甲奴町小童、
須佐神社の南にある小高い山、亀甲山に鎮座する神社。
祭神は素戔嗚尊。
武塔とは、備後国風土記逸文にみえる、素戔嗚尊と同体とされる神・武塔神(武塔天神)のこと。
牛頭天王と武塔神の関係について、現在は同体であると一般に認識されているが、
古代においては両神は別の存在として、牛頭天王は武塔天神の一族、あるいは御子とするなどいろいろな説があった。
京の祇園社の古伝においても牛頭天王を武塔天神の御子としており、
古来、小童祇園社と武塔天神社が別々に存在しているのも、その考え方に基づいているのだろう。
須佐神社本殿がほぼ正確に武塔神社の方角を向いていることから、
ごく古い時代から武塔神社が小童の地に鎮座しているところへ、小童が京の祇園社の社領となって祇園社が勧請された時、
以前よりの神であり牛頭天王の父神である武塔天神に敬意を払い、その方向を向いて祇園社の社殿を建てたとも考えられる。
祇園社の神輿が武塔天神の御前に渡御してそこを御旅所とするのも、
古くからの神に対する新参の神の挨拶廻りという意味があったのかもしれない。
武塔神社鳥居。 「武塔天神」との扁額が懸かっている。 神社表参道は西に面している。 |
参道。 正面に見えるのが須佐神社御旅殿。 |
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武塔神社境内。 左が須佐神社御旅殿、右が神楽殿。 神楽殿は武塔神社本殿に正対する。 |
武塔神社本殿。三間社入母屋造、向拝・千鳥破風・唐破風付。 棟札によると現在の社殿は正徳三年(1713)に造替されたもので、それ以前には文明十三年(1481)に造替されたという。 本殿は南向き。 本殿両側には一社ずつ末社が鎮座し、それぞれ金神社(祭神:金山毘古神)、矢部神社(祭神:猿田彦命)を祀る。 |
境内に立つ大樹。 右はカヤ、左はケヤキ。ともに町指定天然記念物となっている。 |
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甲奴郡:
祇園水。
府中市上下町矢野にある。
矢野は、鎌倉時代に発見され、現在は国民保養温泉地に指定されている「矢野温泉」で知られる所。
温泉の少ない広島県では貴重な温泉地になる。
往古、旅の途中の素戔嗚尊が矢野の地において休息され、
路上に少しばかり湧いていた水をもって禊をされたのち、里人らの見送りを得て小童に赴かれた、という伝承がある。
この泉を今に「祇園水」「若水」と呼び、この水をみだりに穢す者は病を得るという。
小童祇園祭においてはこの祇園水をもって大神輿を清めることとなっており、
現在も祇園祭前には須佐神社より片道4㎞以上の道程を歩いての「祇園水汲み取り神事」が行われている。
古来、甲奴郡矢野村の人々は小童祇園社の祭礼になると村内一丸となり、
幟、鉦太鼓、屋形(だんじり)、獅子舞、大神楽、宿入り(大名行列の模倣)など
様々な「神儀」(じんぎ。神賑行事)を練りながら小童祇園社へ向かい、
祇園社境内、そして御旅所の武塔神社において太鼓の飛び打ち、入れ替わりの回り打ちや舞打ちなどの激しく勇壮な打ち舞い「庭打ち」を行う。
記録によれば、宝亀五年の創祀の時よりその原型となる宮入りの儀を行っていたとされる。
現在も矢野の人々は一軒残らず参加する儀となっており、
「矢野の神儀」として広島県無形民俗文化財に指定されている。
昔、矢野は甲奴郡、小童は世羅郡で隣郡であり、さらに現在でも通行が難しい山道によって隔てられているが、
それにもかかわらず一村挙げて隣郡の村の社に奉仕する儀が連綿と続けられてきた。
小童祇園社の崇敬の高さもさることながら、矢野村が小童祇園社と深いつながりを有するという自負と誇りを持ち、
その魂を代々しっかりと伝えてきたということだろう。
小童から矢野へ向かう。
小童から県道427号線を東へ向かう。 | まもなく「大型車通行不能」の小路となる。 |
車一台通るのがやっとの道幅。 | ここから左への急カーブで上りに入る。 |
間もなく上から下りてくる車と鉢合わせになり、 下まで延々とバックしてかわした。 待避所もない道路。 |
ガードレールもカーブの箇所にしかない。 この先でまた車と遭遇し、 今度はあちらの車にバックしてかわしていただいた。 |
両側が石垣になっている箇所を抜けるところに「府中市」の標示。 越えると府中市上下町。 ここを抜けると目の前が開ける(道幅はまだしばらく狭いけど)。 「祇園水汲み神事」においては、 坂を下りて最初にある家で水汲み道具を借りることとなっている。 |
しばらく進むと広い道路になる。 | この看板のある所が、祇園水の場所。 左の写真のように広い待避所があって、車も楽々停められる。 |
祇園水。 周囲は整備されており、テーブルと椅子も置かれている。 |
注連縄を巻かれた木の下に小さな鳥居が立てられ、その位置を示している。 湧水は豊富なものではなく、ちょろちょろとした細い流れ。 江戸時代の文献にも「路上に少しの水出るところあり」と記されており、少なくとも当時よりこれくらいだったようだ。 |