にっぽんのじんじゃ・ひょうごけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


戻る


播磨国:

明石郡:

『先代旧事本紀』国造本紀に、

  明石国造(あかしのくにのみやつこ)。
  軽嶋豊明朝(かるしまのとよあきらのみかど。第十五代応神天皇)の御世に、
  大倭直(やまとのあたひ)の同じき祖八代足尼(やしろのすくね)の児、都彌自足尼(つみじのすくね)を国造に定め賜ふ。

とあり、もともとは明石国という一国だったが、大化の改新において播磨国に編入され、一郡となった。

現存する『播磨国風土記』は巻首の総説と続く明石郡のすべて、そしてそれに続く賀古郡の冒頭部分、また赤穂郡の部分を欠いており、
明石郡に関する記述は、かろうじて『釈日本紀』が引く播磨国風土記逸文に残っている。
明石駅家の「駒手の御井」に関する伝承では、
 
  難波高津宮の天皇(*仁徳天皇)の御世、楠が井の上に生えて、朝日には淡路島を陰にし、夕日には大倭島根を陰にした。
  そこで、その楠を伐って船を造ったが、その速いことはまるで飛ぶようで、梶のひと掻きで七つの浪を越えていったため、速鳥と名づけた。
  そして、朝夕この船に乗り、天皇のお食事にそなえ奉るためにこの井の水を汲んでいたが、ある朝、お食事の時間に遅れてしまった。
  そのため、歌を作って止めにした。その歌にいう、
     住吉(すみのえ)の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥といはめ 何か速鳥
      (住吉の大倉に向かって飛んでこそ速鳥というのだ。何が速鳥か)

『古事記』仁徳天皇記には、朝夕に淡路島の寒泉を汲んで御飲料の水とした「枯舟」の記事があり、
仁徳天皇は船で御飲料水を運ばせられていたという言い伝えが各所にあったようで、
また『続日本紀』天平宝字二年(758)三月条には、播磨・速鳥という名の二艘の舟を従五位下に叙したという記事があって、
速鳥という船の伝説は後世にも著名であったことがわかる。

『釈日本紀』にはほかにも、神功皇后が新羅遠征に出られる時、爾保都比売命が国造の石坂比売命に託宣して自らを祭らせて赤土(丹)を出し、
皇后がそれをもって桙や舟や兵の着衣を染めて出征したところ、海上で皇后の軍を遮るものは何一つなかったという話を引用しており、
これは、あるいは「明石」の地名の由来伝承ではないかと考えられている。
また、『本朝神社考』には、「八十橋は陰陽二神および八十二神の降った跡である」という逸文を引き、
『万葉集註釈』は藤江浦についての逸文を載せる。これは下の住吉神社の項に引いた『住吉大社神代記』の記述の簡略化といえるもの。

住吉神社 海神社

明石郡:

住吉(すみよし)神社。

明石市魚住町中尾、住吉公園内に鎮座。

明石市の海沿いには住吉神社が非常に多く、東は大久保町から西は隣の自治体の加古郡播磨町を超えて加古川市にまで及んでいる。
これは、往古この一帯が摂津国一宮・住吉大社の神領であったため。
住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』には、「明石郡魚次(なすき。現在の魚住)浜一処」として、その領域を、

 東限、大久保(明石市大久保町)尻の限り。南限、海棹の及ぶ限り。
 西限、歌見(明石市二見町か)江尻の限り。北限、大路。

としており、この魚住の漁港に鎮座する住吉神社はこの一帯の住吉社の筆頭格で、戦前の旧社格は県社であった。
ちなみに加古郡と加古川市のあたりは「賀胡郡の阿閇津浜一処」という神領で、
現在の阿閇漁港を中心とする一帯だった。
播磨国においては、あと賀茂郡の大部分、
つまり現在の加東市・加西市・三木市・小野市を中心に神崎郡福崎町・市川町、
そして多可郡多可町、篠山市・三田市・西脇市にもかかる、9万8千余町(1町は約1ヘクタール)もの広大な神領をもっていた。
住吉大社の式年遷宮御料材はこの神領から伐り出す材木でまかなっており、
内陸のこの域内にも住吉神社が数多く鎮座しているが、その中でも中心であったのは、
『神代記』に「住吉大神の宮九所」の一に挙げられている住吉酒見社(現、加西市北条町北条鎮座の住吉神社)。

『住吉大社神代記』は、「明石郡魚次浜一処」の由来として、


 右は、巻向の玉木宮にて大八嶋国をお治めになった活目天皇(いくめのすめらみこと。第十一代垂仁天皇)より
 橿日宮の気長足姫皇后(おきながたらしひめのきさき。第十四代仲哀天皇皇后、神功皇后)の御世、
 この二御世に熊襲ならびに新羅国を平定し終えられ、
 還り上られて、大神を木国(きのくに。紀伊国)の藤代嶺(ふぢしろのみね)に鎮め奉った
 (*伊都郡高野町上筒香。『播磨国風土記』によれば、その地には神功皇后の新羅遠征を助けた爾保都比売を祀ったとし、
 爾保都比売は現在伊都郡天野の丹生都比売神社に祀られ、生田神社に祀られる稚日女尊と同一視される)

 その時、荒ぶる神を誅伏され、背宍の鳴矢を射立てて境とされた。
 「わたしの住まおうと思う所は、大屋に向かうように、針間国に渡り住むであろう」と(仰せになり)、
 そこで大藤を切って海に浮かべ、盟(うけひ)して仰せになるには、
 「この藤の流れ着くところにわたしを鎮め祀れ」と仰せになったところ、この浜浦に流れ着いた。
 ゆえに藤江(現在は明石市藤江にその名が残る)と名づける。
 明石川内の上神手山・下神手山(神戸市西区神出町。明石川沿いの神戸市西区押部谷町細田に住吉神社あり)
 から大見小岸に至るまで、ことごとく神地として寄進しお定め申し上げた。
 その時、意弥那宜多命(おみながたのみこと。主使長田命)の児、
 意富弥多足尼(おほみたのすくね。大御田足尼)〔津守宿禰の遠祖である〕が仕え奉り、
 この時に初めて船司・津司に任じられた。また、所々の船木の姓を賜わった。


という伝承を記す。
社伝では、創祀は雄略天皇八年(464)、現在地には正応五年(1292)に遷座したという。
祭神は住吉大社と同じく、住吉三前大神である底筒男神、中筒男神、表筒男神と神功皇后。

海辺の社。神社周辺の道は狭く入り組んでいるので、参拝の時はうっかり道を間違えないように。

神社の一帯は住吉公園となっている。
住吉といえば、の松原が美しい。
神社は南向きで、その先には魚住港。 港からの参拝者を迎える鳥居。
常夜灯。 万葉歌碑。
神亀三年(726)、
聖武天皇は播磨国印南野(加古川河口地域)に行幸されたが、
その折、この付近を通過された。
その時に笠朝臣金村が作った歌の反歌二首のうちの一首。

 行き廻(めぐ)り見(み)とも飽かめや
  名寸隅(なきすみ)の船瀬の浜にしきる白波

      (行きつ戻りつして見ても飽きが来ようか、
      名寸隅の船瀬の浜にしきりに寄せる白波は)
参道より、魚住港方面。 山門、そして堂々たる楼門。明石市指定文化財。
二階建ての門で、棟札には慶安元年(1648)造営、
元禄四年(1691)修理と記されている。
拝殿正面にある能舞台。明石市指定文化財。
初代明石城主小笠原忠政(のち忠真)が寛永年間(1624-45)に造営したと棟札に記される。
明石市内に残る唯一の能舞台。
拝殿。
この神社は、
山門・楼門・能舞台・拝殿・本殿が一直線上に並ぶ、
東播磨地方の典型的な様式を今に伝えているとのこと。
住吉神社本殿。

本殿後方にある庭園に茂る藤の木。
住吉大神が鎮座地を定めるために海に藤を流し、
漂着したこの地方に鎮座したという伝承によって
藤は住吉大神の神木となっており、
大神が祓の神徳をもっていることから、
この木は祓除(はらえ)の神木と呼ばれている。

海(わたつみ)神社。

神戸市垂水区宮本町
JR垂水駅ならびに山陽垂水駅のすぐ南。
国道2号線沿い、明石海峡に面する垂水港の後背、また福田川河口のすぐ西に鎮座している。

『延喜式』神名式、播磨国明石郡九座の内、海神社三座〔並名神・大、月次、新嘗〕。
名神大社で、2月の祈年祭に加え6月・12月の月次祭、11月の新嘗祭においても神祇官の班幣を受けていた。
大宝律令制定当初、
日本中の神社で神祇官に登録されている「官社」はすべて京へ来て、宮内の神祇官にて朝廷の幣帛を受け取っていたが、
実際問題として地方の神社は移動はともかくナマモノも含む大量の幣帛を運搬することが大変であり、
やがて地方の神社はその国の国司から幣帛を受け取ることとなった。
これには神官だけの問題だけでなく、現在も研究者の間で、
「発掘によればそれほど広くもなかったと思われる平城京の神祇官敷地内に、大量の幣帛を置き全国の祝部を集めたうえ、
さらに祈年祭の祭典を行うことができたのだろうか?」
という謎もあるようなので、多分に実務的な理由からそうなったのだろう。
ただ、地方であっても重要な神社はそれまで通り京に出向いて神祇官の幣帛を受け取っていた。
神祇官から幣帛を受け取る神社を官幣社といい、国司から幣帛を受け取る神社を国幣社という(近代社格制度のそれとはまったく別)が、
播磨国~長門国の山陽道においては官幣社はわずか二社四座で、
この海神社三座と、安芸国佐伯郡の速谷神社のみ。
ともに山陽道沿いで海が近く、有力な社かつ交通の便がよかったために京への往復も容易だったからだろうか。

主祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の、いわゆる海神三座。
『古事記』には、黄泉国から還ってきた伊耶那岐命が身の穢れを祓うために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」
(九州の日向〔あるいは日に向かう地〕の橘川の河口の、アハギが生えている浜辺)で禊をなさった際、
水中に浸かられた時に住吉三神とともに成り出た神であると記されている。
もともとは筑紫国に住んでいた海人の一族、安曇氏の奉斎神であった。
相殿には、大日孁貴尊(天照大御神)をお祀りする。

神功皇后が新羅遠征からお還りになる際、この地の海上で暴風雨のために船が進まなくなり、
皇后が海神三柱をお祭りしたところ風雨が鎮まったためこの地に三柱をお祀りしたのが創祀と伝えられ、
古くより瀬戸内海の海上鎮護、漁業安全の神として信仰を集め、
また、山陽道が畿内から播磨国に入ったところに鎮座しているということで、道中の無事を祈る交通安全の神としても信仰された。

『新抄格勅符抄』収録の「大同元年(806)牒」には
全国の神社のもつ神封(神社経営のために国が与えた封戸)が記されているが、この神社について、

 播磨明石垂水神 十戸 
 播万(はりま)

と、播磨国内に十戸の神封をもっていたことが記されている。
また住吉大社の古文書である『住吉大社神代記』の冒頭には、住吉大神と縁の深い「部類神」の一として、

 播磨国明石郡 垂水明神

と挙げられており、住吉大社とも深い関係をもっていた。
往古は一般的に鎮座地をとって垂水神社、垂水明神と呼ばれていたようだ。

国史においては、『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、

 播磨国従五位下勲八等粒坐天照神、伊和坐大名持御魂神に並びに従四位下を、
 従五位下海神社に従五位上を授け奉る。

とあり、播磨を代表する神社の一つだった。
そして現在も、上の三社を「播磨三大社」と呼んでいる。
六国史ののち、朱雀天皇の天慶三年(940)に正五位下に進んだという。
「海神社」の読みは、「あまじんじゃ」「たるみじんじゃ」などと読まれていたが、
本居宣長が「わたつみのやしろ(海神の社)」と読むべきであるという説を出し、それが受け容れられている。
もっとも、「わたつみじんじゃ」だと「海神神社」となり、「ぶた肉ととん汁でぶたがダブってしまった」的なことに。
「かいじんじゃ」と音読されることも多い。
中世から近世にかけては「日向大明神」との呼称が一般的だった。

旧郡制では、播磨国東端の明石郡のさらに東端という山陽道のスタート地点といえる場所だったが、
現在は兵庫県神戸市の西部、ということになる。
国道と鉄道に挟まれて社域もそれほど広くなく、喧噪のただ中にあって窮屈な感じもするが、
もともとは海の神様なので、陸にはお祭りをするだけの空間があればいい、というところか。
例祭では神輿を船に載せて海上を渡御する「海上渡御祭」が華々しく行われている。

鳥居前。夕方で、参道は閉まっている。
国道を挟んだ先、もとの海辺だったところに大鳥居が立つ。
昭和32年に建てられたもので、
その場所は当時まだ砂浜であったという。
鳥居の東隣には宝ノ海神社が鎮座する。


拝殿。
すぐ後ろは駅。
境内末社の鳥居が見える。

ここから数百メートル西には、兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳があり、
復元整備され、築造当初の頃に近いであろう姿を見せている。
全長194mというその規模から、明石地方に大きな勢力を持っていた人物が被葬者とみられている。
『日本書紀』には、神功皇后が三韓を平定し、皇子・誉田別尊(応神天皇)をお産みになって帰還する際、
大和で留守をしていた麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ。ともに皇子の異母兄)が
皇位継承の障害である皇子を亡き者にしようと反乱を起こしたが、
その際、先帝・仲哀天皇の陵を造ると称して軍勢を明石に進出させると、
淡路島まで船を繋ぎ、淡路島の石をもって山陵を造り、軍勢に武器を取らせて皇后を待ち受けた、とあり、
これが五色塚古墳のことをいったものではないかという説がある。
もちろん、こんな規模の古墳を造ってたら完成前に攻めかかられてしまうのでこの話が史実というわけではないだろうが、
築造年代は四世紀後半~五世紀前半と、広開土王碑にみえる日本の朝鮮進出記事の時代と符合している。
古墳の前方部は南西、淡路島のほうを向いている。
近隣に海神社が鎮座することもあり、明石海峡から淡路島まで、この一帯の海を掌握していた人物だったのかもしれない。
近年ではパワースポットにもなってるらしい。ほかの古墳と違って復元整備されていて、見た目がきれいだからか。

さらに西、山田川沿いの大歳山には大歳山遺跡(神戸市垂水区西舞子)があり、
旧石器時代から弥生時代までの遺物が発見され、はるか二万年前から人間がこの地に定住していた、
世界的にも稀な営みが行われていた地であることがわかっている。
前は海、後ろは山で、山海の幸に恵まれた豊かな地だったのだろう。
現在、この一帯は開発されつくしており、往時を偲ばせるものは眼下に広がる明石海峡のみ。
ただ、多くの人が暮らしているということにおいては変わっていない。






inserted by FC2 system