にっぽんのじんじゃ・ひょうごけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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播磨国:

賀古郡(加古川河口付近東岸一帯。稲美町、播磨町、加古川市、姫路市の一部、明石市の一部):

現存『播磨国風土記』は巻首の総説と続く明石郡のすべて、そして赤穂郡を欠き、
この賀古郡の冒頭の地名起源伝承の途中から始まっている。その伝承については日岡神社の項に記す。

日岡神社

印南郡(加古川河口付近西岸一帯。高砂市の一部、加古川市の一部、姫路市の一部):

『播磨国風土記』には印南郡の条が立てられておらず、その部分は賀古郡の条に含まれている。
編纂当時はまだ印南郡が立てられていなかったとも、編纂上の不備ともいわれている。
ほかにも、収録されている郡の順番上、そこだけ脱落するはずのない赤穂郡が欠けていることから、
現存の『播磨国風土記』は草稿段階のものであったといわれている。

生石神社

賀古郡:

日岡(ひおか)神社。

兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山に鎮座。
加古川線日岡駅のすぐ北、加古川東岸近くにある日岡山の西麓。
山中には古墳があり、宮内庁の御陵指定がなされている。

『延喜式』神名式、播磨国賀古郡一座、日岡坐天伊佐佐比古神社(ひおかにいますあめのいささひこのかみのやしろ)、小社。
主祭神は天伊佐佐比古命で、相殿に豊玉姫命、鸕草葺不合命、天照皇大御神、市杵島比売命。
社伝によれば、第十二代景行天皇の皇后・稲日大郎姫命(いなびのおほいらつめのみこと)が
御子の櫛角別命(くしつのわけのみこと)をお産みになった際に非常にお苦しみになられたので、
その次にご懐妊された時に天伊佐佐比古命が皇后の安産を七日七晩祖神に祈り、
その験あって皇后が無事に大碓命・小碓命(日本武尊)の双子を御出産されたと伝え、
安産の神として古来崇敬を集めている。
播磨国司が国内神社の管理のためにまとめた播磨国内の神社リストである『播磨国神名帳』には、
「鎮守日向社伊佐々別尊明神」と記されており、
近世は、明石郡の海神社(垂水明神)と同じく「日向大明神」と呼ばれていた。
「ひおか」が「ひゅうが」に通じるからだろうか。

『播磨国風土記』にはこの地に関する記載がある。
ただ、現存する『播磨国風土記』は完本でなく、巻首の総説、続く明石郡のすべて、
そしてそれに続く賀古郡の冒頭部、そのほか赤穂郡を欠いている。
よって現存『播磨国風土記』は賀古郡(加古郡)の途中から始まっていることになるが、その冒頭には、

 四方を望み見られ、勅して、
 「この土(くに)は丘と原・野と非常に広大で、この丘を見ると鹿児(かこ)のようだ」
 と仰せになった。ゆえに名づけて賀古郡(かこのこほり)という。
 狩りをなされると、一匹の鹿が来て、この丘に走り上って鳴いた。その声が比々(ひひ)といった。
 ゆえに日岡(ひをか)という。
 〔鎮座される神は、大御津歯命(おほみつはのみこと)の御子、伊波都比古命(いはつひこのみこと)である〕

とある。
いずれかの天皇がこの地に御幸され、郡の名を名づけたという伝承で、
伝承の冒頭を欠いているためにいずれの天皇であるかは不明。
ただ、この日岡に鎮座する神を風土記は「伊波都比古命」と記しており、
現在の、そして『延喜式』に記された祭神とは異なっている。
風土記の編纂された八世紀から延喜式の編まれた十世紀初頭までに祭神の変更があったのか、
それとも日岡山には伊波都比古命を祀る別の社があって官社には入っておらず、
後世に廃絶した、または別の所に遷座した、あるいは日岡神社に合祀された後に忘れられたのか、不明。
鎮座の神の父の御名は、反正天皇の諱「瑞歯別尊(みづはわけのみこと)」と類似しており、
ここでの天皇はあるいは反正天皇かもしれないが、反正天皇には伊波都比古命にあたるような名の皇子はいない。
播磨に縁の深い顕宗天皇の諱を『古事記』では「袁祁之石巣別命(をけのいはすわけのみこと)」といい、
その父君は「市辺忍歯王(いちのへのおしはのおほきみ)」といって、これも類似しているような気もするが、
字面上で言っても確認のしようのないこと。皇族とも限らない。
この地の地名起源伝承には鹿が関わっているが、
現在の姫路市中心部にあった飾磨(しかま)郡も、鹿の鳴き声によって命名されたという伝承が『播磨国風土記』に記されており、
鹿と縁の深い地方であったようだ。


この加古の地に縁の深い天皇は、社伝にもみえるとおり景行天皇。上の伝承に続いて、こうある。

 この岡に比礼墓(ひれはか)がある。
 褶墓(ひれはか)と名づけたわけは、昔、大帯日子命(おほたらしひこのみこと。景行天皇)が
 印南別嬢(いなみのわきいらつめ)を妻問いなされた時、
 御腰に帯びられた八咫の剣の上結には八咫の勾玉、下結には麻布都鏡(まふつのかがみ)を懸けて、
 賀毛の郡の山直(やまのあたひ)らの祖、息長命(おきながのみこと)〔またの名は伊志治(いしぢ)〕を
 仲人として妻問いに下っておいでになった時、摂津の国の高瀬の済(わたり)まで来て、
 「この川を渡ろうと思うのだが」
 と渡し守に頼んだ。すると、渡し守である紀伊国の人、小玉(をだま)は、
 「私を天皇の贄人(にへびと。天皇に贄を進上する部民)となさるのですか」
 と申し上げた。
 その時に勅して、
 「朕公(あぎみ。親愛なる君よ、の意)、そうではあろうがぜひ渡してほしい」
 と仰せになった。渡し守は答えて、
 「どうしても渡りたく思し召すならば、渡し賃を賜りたい」
 と申し上げた。そこで道中の装いのために身に着けていた弟蘰を取って舟の中に投げ入れられると、
 蘰が光り輝いて舟内に満ちた。渡し守は渡し賃を得たので、お渡し申し上げた。
 ゆえに、朕公済(あぎみのわたし。大阪府守口市高瀬付近。淀川支流の中津川の古名を吾君川といった)という。
 
(*紀伊国の海人は、朝廷には従属または直属しない性格、あるいはその特権・お墨付きを持っていたか。
あるいは、ここでの行為は「天皇の妻問い」という儀礼に付属する、道中儀式的なものかもしれない)

 そして明石郡の厮御井(かしはでのみい)に御到着されたので、御食(みあへ)をたてまつった。ゆえに厮御井という。
 その時、印南別嬢はそれを聞いて驚きかしこみ、ただちに南毘都麻(なびつま)の島に逃げ渡った。
 そこで天皇は賀古の松原に行かれ、尋ね問われた。
 その時、白い犬が海に向かって長く吠えた。
 天皇は御問いになって、「これは誰の犬か」と仰せになると、須受武良首(すずむらのおびと)がお答えして、
 「これは別嬢の飼っている犬でございます」と申し上げた。
 天皇は勅して、
 「よく告(のり)つるかも」(よく教えてくれたことだ、の意)
 と仰せになった。ゆえに告首(のりのおびと)という。
 それから天皇は別嬢がこの小島にいるということを御知りになって、渡ろうとお思いになり、阿閉の津に行かれたので、
 御食(みあへ)をたてまつった。ゆえに阿閉(あへ)の村という(*加古郡播磨町本荘にある阿閉漁港)。
 また、江の魚を捕って御坏物(みつきもの。土器に盛る食べ物)とした。ゆえに御坏(みつき)の江という。
 (*加古川市別府付近か)
 また、御舟にお乗りになった時に、楉(しもと。木の若枝)で榭(たな)を作った。
 ついに島に渡り、互いにお会いになった。
 勅して、「この島に隠(なび)し愛妻(はしつま)よ」と仰せになった。ゆえに南毘都麻(なびつま)という。

(*妻問いにおいては、女性が隠れ、男性がそれを見つけ出すという儀礼があったらしい。
ナビツマの島は加古川河口にあった洲と思われる。現在でいう高砂市の辺り)

 そして天皇の舟と別嬢の舟を舫ってお渡りになり、舵取りの伊志治を大中(おほなかの)伊志治と名づけられた。
 (*仲人として仲立ちをしたので。加古郡播磨町に大中の地名あり、大中遺跡がある)
 再び印南の六継(むつぎ)の村にお還りになり、初めてここで密事(むつびごと)をなしとげられた。
 ゆえにここを六継の村という。
 天皇は勅して、「ここは波の音や鳥の声がひどくやかましい」と仰せられ、
 南の高宮にお遷りになった。ゆえに高宮の村という。
 このとき酒殿を造った処をすなわち酒屋の村と呼び、
 贄殿(にへどの)を造った処をすなわち贄田(にへた)の村と呼び、
 宮を造った処をすなわち館の村と呼ぶ。
 また城宮田村(きのみやたむら)にお遷りになり、そこで初めて婚姻の儀を挙げられた。
 その後、別嬢の寝室の床掃に奉仕した出雲臣比須良売(いづものおみ・ひすらめ)を息長命に賜った。
 彼の墓は賀古の駅の西にある。
 年を経て、別嬢はこの宮に薨じた。そこで墓を日岡に造った。
 そしてここに葬ろうとして、その遺骸を捧持して印南川を渡る時、大きな旋風が川下から吹いてきて、
 その遺骸を川中へ巻き込んでしまった。
 探し求めても得ることができず、わずかに櫛箱と褶を見つけた。
 そこでこの二つの物をもってその墓に葬った。ゆえに褶墓という。
 ここにおいて天皇は恋い悲しみ、祈誓されて、
 「この川のものは食うまい」
 と仰せになった。ゆえに、その川の年魚は御贄には進上しない。
 (後略)

という、天皇と播磨の姫の伝承を記しており、日岡にその姫の墓がある、とする。
この姫は、『日本書紀』景行天皇二年三月三日条に、


 播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)を立てて
 〔あるいはいう、稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)と。「郎姫」はここでは「異羅菟咩(いらつめ)」と読む〕、
 皇后とされた。后は二柱の皇子をお生みになった。
 第一を大碓皇子(おほうすのみこ)と申し上げ、第二を小碓尊(をうすのみこと)と申し上げる
 〔一書にいう、皇后は三皇子をお生みになった。その第三を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)と申し上げるという〕。
 その大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞にて双子にお生まれになった。
 天皇は奇異なことだとお思いになり、碓(うす)に向かって雄叫びをされた。
 ゆえに、その二柱の御子を名づけて大碓・小碓と申し上げる。
 この小碓尊のまたの御名は日本童男(やまとをぐな)〔「童男」は、ここでは「烏具奈(をぐな)」と読む〕、
 または日本武尊(やまとたけるのみこと)と申し上げる。

    (*小碓尊にのみ「尊」という字を用いるのは、
    日本書紀冒頭に初めて「尊」の字が用いられた箇所(国常立尊という神名)の割注に、
    「非常に貴い御方を尊といい、その他を命という。ともにミコトと読む。以下みなこれにならえ」
    と規定してあることにより、皇室の正統に連なる神や人に対して用いられる。
    記紀において小碓尊は天皇に準じた表記をされ、
    また『常陸国風土記』でも「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)」と表記されている)


とあり、また『古事記』景行天皇記に、


 この天皇、吉備臣等の祖、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ。大吉備津彦命の弟)の女(むすめ)、
 名は針間の伊那毘能大郎女(いなびのおほいらつめ)を娶りて生みたまへる御子、
 櫛角別王。次に大碓命。次に小碓命、亦の名は倭男具那命(やまとをぐなのみこと)。
 次に、倭根子命。次に神櫛王(かむくしのみこ)〔五柱〕。


とある、播磨稲日大郎姫(針間伊那毘能大郎女、またの名、稲日稚郎姫)が印南別嬢のこと。
『日本書紀』には、景行天皇は四年二月に美濃へ御幸して弟媛という女性に妻問いを行い、
弟媛は竹林に隠れたが、天皇は一計を案じて弟媛を誘い出して求婚し、
弟媛の推薦によりその姉の八坂入媛を妃とする、という話を載せており、妻問いを行われた天皇、という強いイメージがあったようだ。
神社の鎮座する日岡山の山中には古墳があり、
景行天皇皇后・稲日大郎姫命の陵であるとして宮内庁管理となっている。
『延喜式』の「諸陵式」には、当時、国が管理し祭祀を行っていた陵墓が記載されているが、
この古墳はその中には記されておらず、『播磨国風土記』の記述に基づき明治時代に指定されている。

『播磨国風土記』賀古郡(印南郡)含芸里(かむきのさと)条には、

 郡の南の海中に小島がある。名を南毘都麻という。
 志賀高穴穂宮にて天下をお治めになった天皇(成務天皇)の御世、
 丸部臣(わにべのおみ)等の始祖、比古汝茅(ひこなむち)を遣わして国の境界を定めさせた。
 その時、吉備比古・吉備比売の二人が出てきてお迎えした。
 そこで比古汝茅が吉備比売を娶って生んだ児が印南別嬢である。
 この女性の容姿端正なことはその世に優れていた。
 その時、大帯日子天皇(景行天皇)がこの女性を娶りたいとお思いになり、
 ここに下っておいでになった。別嬢はこれを聞くとその島に逃れ渡り、隠(なび)ていた。
 ゆえにナビツマという。

とし、丸部臣(和邇部臣。和邇氏は朝廷の黎明期から仕えていた豪族)と吉備比売の子を印南別嬢としていて、
『古事記』とは異なるが、吉備と深い関係をもっていることは共通している。
またこの話では成務天皇の御世の話に父の景行天皇が登場するというおかしなことになっているが、
これはもともと別々の系統の話だったものが混じり合って一つの話となってしまったためか。
もっとも、記紀でもこの辺りの系図をまとめきれておらず混乱がみられるので
(たとえば、日本武尊の曾孫の姫が尊の父の景行天皇に嫁ぐようになっているなど)、
あるいはなんらかの事実に基づくものかもしれない。
『古事記』では、
第七代孝霊天皇の皇子・大吉備津日子命とその弟の若建吉備津日子命が、

 針間(はりま)の氷河(ひのかわ)の前(さき)に忌瓮(いはひべ。神祭に用いる清浄な祭器)を据ゑて、
 針間を道の口として吉備国を言向(ことむ)け和(やは)したまひき。

とある。
氷河とは加古川のことで、前とは岬と同義語であり、日岡山のこととされる。
加古川を氷河と呼ぶのは、日岡のそばを流れていたため。
往古、加古川は日岡山の所で大きく蛇行していたと考えられており、日岡山はまさに岬のようであったらしい。
つまり吉備の地を平定するにあたって吉備津彦命はここ日岡山で祭祀を行い、吉備平定に向かったと記されている。
大吉備津彦命とは吉備を平定したことからの別名であり、
本名は比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと。書紀、彦五十狭芹彦命)。
この御名のイサセリヒコと神社祭神のイササヒコという御名は酷似しており、
『古事記』の伝承とあわせて祭神は大吉備津彦命のことではないかという説もある。
また、景行天皇の皇后・稲日大郎姫命の御子である日本武尊は熊襲征伐の後に東征に向かうが、
その時に副将となったのは若建吉備津日子命の孫である吉備武彦命であったと『日本書紀』に記されており、
『古事記』では稲日大郎姫命は若建吉備津日子命の娘としていて、
吉備との浅からぬ関係が感じられる。
その稲日大郎姫命が加古川流域に住んでいたということ、
また、その出生伝承が吉備国との国境線の画定に関わっていることから、
上古においてはこの辺りまで、つまり加古川を境として西はもう吉備の地、少なくともその勢力圏であったらしいことがうかがえる。
吉備平定前に日岡で祭祀を行ったのも、ここから先が吉備の勢力圏だったからだろう。
でかいよ吉備。
ただ、ここから先は伊和大神こと大己貴命とその眷属の足跡が色濃いので、
朝廷が平定に向かったころには出雲の勢力が山陽地方にもどっかりと根を下ろしていたようだ。
朝廷はまず山陽道から切り崩し、それから山陰道に手を付けていったということだろうか。

景行天皇と稲日大郎姫命の仲人を務めた息長命については、『続日本紀』天平神護元年(765)五月二十日条に、

  播磨守従四位上の日下部宿禰子麻呂らは次のように言上した。
  「管轄下の賀古郡の人で、外従七位下の馬養造人上(うまかいのみやつこ・ひとかみ)が上申して、
  『人上の先祖の吉備都彦(きびつひこ)の子孫の上道臣(かみつみちのおみ)の一族息長借鎌(おきながのかりかま)は、
  難波高津朝廷(仁徳天皇朝)の御世に播磨国賀古郡の印南野(いなみの)に住んでいました。
  その六世の孫の牟射志(むさし)は馬の飼育に長じており、上宮太子(聖徳太子)に仕えて馬司(うまのつかさ)の役に任じられました。
  このため、庚午の年(天智天皇九年、670)の戸籍(庚午年籍)が作られる時に、誤って馬養造として戸籍に入れられました。
  謹んで願いますには、居住地の地名を取り、印南野臣の姓を賜わりたい』と申しております」
  播磨国司が審査したところ、上申が事実であったので、朝廷はこれを許可した。

とあり、人上の祖先だったのだろうか。これも吉備津彦の子孫となっていて、吉備と播磨の深い関係を示している。

うわ、テキスト長っ
しかし、この加古川が古代史の重要地点であったのは確か。

『播磨国風土記』には品太天皇(ほむたのすめらみこと。応神天皇)が国見をしたり狩をしたという記事が非常に多く、
播磨と縁の深い天皇であったことが示されている。
記紀には、応神天皇が皇太子の時に若狭国の敦賀に行き、
当地に鎮座する気比大神と御名を易(か)えたという伝承が記されており(『日本書紀』では異伝として収録)、
それによって気比大神の御名は去来紗別神(いざさわけのかみ)となったという。
とすると応神天皇の本来の御名は「去来紗別尊(いざさわけのみこと)」であったということになり、
この「イザサ」と当社祭神の「イササ」の名はほぼ一致しているので、
あるいは「アメノイササヒコノミコト」とは応神天皇を指しているのかもしれない。
もっとも、『日本書紀』編者は、「天皇の元の名が去来紗別尊であるという記録はなく、未詳である」と注している。

かつては加古川が曲流していた日岡山の南は、
現在は住宅地になっている。
神社から真っ直ぐ南に行ったところにある鳥居
昔はここがクロスロードだったのだろう。
境内入口の神門。
延びる参道。 神門をくぐった右手には「居屋河原日岡神社」が鎮座する。
かつてこの地より東の寺家町居屋河原に鎮座していた日岡神社であり、
この社とは兄弟社のような間柄だったが、
昭和44年にこちらの社が火事で全焼し、その復興に際して
昭和46年にここへ遷座している。
もちろん、祭神は同じく天伊佐々彦命。
通称は大鳥居神社。
絵馬殿および拝殿が見えてきた。
絵馬殿。 拝殿。
本殿脇には末社が鎮座。 ご神徳がら、安産祈願・初宮詣に来る人がたいへん多いらしい。
社務所の北に、日岡御陵への路。
御陵は山中にある。 御陵なので宮内庁管理。そしてまむし注意。
御陵標示。 もう少し。
日岡御陵。景観は他の御陵と同じ。
前方後円墳とされるが、近世までは円墳であったものに後から前方部が追加されたものという話もある。
しかし、明治期に御陵指定がなされたので、研究者の立ち入りは出来ず詳細は不明。
伝説どおりなら、中には遺体はなく、櫛笥とひれという副葬品のみが入っているということになる。
御陵の東には、日岡山公園や研修施設である「はりまハイツ」があり、加古川の町を一望できる。
右奥には加古川の流れ。
はるか昔、吉備津彦命もこの山で祭祀を行い、吉備の方角を望見したのだろうか。

印南郡:

生石(おうしこ)神社。

兵庫県高砂市阿弥陀町生石
高砂市総合運動公園の西にある小高い岩山、宝殿山の急坂の中腹に鎮座する。

四角錐の屋根のような突起物のある巨大な石の直方体を横倒しにしたような形をした、
「石の宝殿」という石造物を神体とする神社。
大己貴命と少彦名命の二柱が国作りの中途ここに立ち寄り、国土を鎮めるに相応しい石の宮殿を造営しようと一晩中工事を進めたが、
工事半ばにして阿賀の神が反乱を起こしたため、神々を召集してこれを鎮圧した。
しかしそこで夜明けとなったため、石の宮殿を起こすことができなかった。
二柱は、たとえこの社が未完成であろうと、神霊はこの石に籠って永く国土を鎮めようと仰せになり、
以来この宮殿を石の宝殿あるいは鎮(しづ)の石室と称しているという。
のち、崇神天皇の御世、天下に悪疫が流行して人民が多く死んだ時、
天皇の夢枕に二神が現れ、「わが霊を斎き祭れば天下は泰平である」と告げたことによってこの地に生石神社が創祀された。
以上の由来により、大己貴命と少彦名命の二柱を祭神とする。

『延喜式』神名式には播磨国五十座のうちに記載がないが、
平安末期に播磨国司によって編まれた『播磨国内神名帳』には、
「生石太神」として播磨国内百七十四社のうち特筆すべき「太神二十四社」の内に入っている。
中世播磨の地誌である『峰相記』(みねあいき。貞和四年、1348年ごろ成立)においては「播磨八所大明神」の内に数えられ、

  次に、生石子と高御倉は陰陽の夫婦神である。
  昔、天女がこの地に舞い降りて石の御殿を造ろうとしたが、
  その途中で夜明けが来てしまい、大石を起こすことができないまま上天に去った。
  そのため、今でもこのように石が横になったままである。
  この石の社はとても大きく、凡夫が扱えるものではない。

と、「石の宝殿」に関する伝承が語られており、播磨国においては国内有数の社であった。
また、北に聳える播磨富士こと高御位山に鎮座する高御位神社と一対の社と認識されていたらしい。
高御位神社は山頂の磐座を神体として祭った神社で、これも大己貴命と少彦名命の二柱を祭神とし、
生石大神を大己貴命、高御位大神を少彦名命とする。
高御位神社も『延喜式』への記載がないが、おそらくその頃は両社とも神祭のための社殿を備えておらず、
その崇敬にもかかわらず官社として登録はされなかったものと思われる。

『播磨国風土記』賀古郡大国里条に、

  大国の里〔土は中の中〕。
  大国と名づけるわけは、人民の家が多くここにあり、ゆえに大国という。
  この里に山があり、名を伊保山という。
  (中略。伊保山の命名伝承)
  山の西に原があり、名を池之原という。原の中に池があり、ゆえに池之原という。
  原の南に石の造作物がある。その形は家屋のようで、長さは二丈(約6m)、幅は一丈五尺(約4.5m)で、高さも同様である。
  その名を大石という。
  伝えていうには、聖徳王(*聖徳太子)の御世に弓削大連(*物部守屋)が作った石であるという。

とあり、これが「石の宝殿」にあたるのではないかといわれている。
ただし、現存の石の宝殿は、奥行7.2m、幅6.4m、高さ5.7mであり、風土記の記述よりひとまわり大きい。
それに風土記にはただ「大石」とあるだけで、神を祭っているとの記述はなく、造られた時期も飛鳥時代とされている。
また、所在地も「伊保山の西にある原の南」であり、この伊保山が現在の伊保山と同じならば、所在地も異なる。
『播磨国風土記』がよほどルーズな作りでないかぎり、
風土記に記された「大石」は「石の宝殿」より小さなもので、宝殿とは別に原の南にあったのかもしれない。
『播磨国風土記』は土地の質や産物についての報告と地名起源伝承がほとんどで、
神社について積極的に記すことはないため(一宮の伊和神社でさえ直接の言及はない)、
「石の宝殿」はスルーされたとも考えられる。

また、『万葉集』巻第三(355)には、生石村主真人(おひしのすぐり・まひと)の歌として、

  大汝 少彦名のいましけむ 志都(しつ)の石室(いはや)は幾代経ぬらむ

という歌があり、これが石の宝殿のことであるといわれている。
『播磨国風土記』飾磨郡胎和里条に、尾張連の祖・長日子とその妻と馬の三つの墓があったところへ、
のちに国司の「上生石大夫(かみのおひしのまへつぎみ)」が墓のほとりに池を築き、馬墓池といった、という伝承があり、
生石村主がその一族出身とすれば、志都の石室はこの「石の宝殿」をさすことも十分考えられるが、
それを実証するものはない。
この周辺、竜山や伊保山から取れる石は「竜山石」といって石材として用いられており、
上質の石として古墳時代の大王クラスの墓によく用いられていた。
この石の宝殿も、古墳の石槨を切り出していたものが、なんらかの理由で中止されたものとも考えられているが、
石槨にしてもあまりに大きすぎるため、何のためにこんなものを造ったのか、確かなところはわかっていない。
『延喜式』神名式、能登国羽咋郡十四座の内に「大穴持神像石神社」、同国能登郡十七座の内に「宿那彦神像石神社」があって、
この二柱は石神として祭られる例が古代にあったとみられることから、
あるいはこれも石神の類であるのだろうか。

天正七年、羽柴秀吉の三木城攻めの時、
秀吉は三木城攻略のためにまず神吉城を落とそうとして近隣の当社を陣所に所望した。
時の宮司は神吉城主の弟であったためにこれを拒んだが、
秀吉の怒りに触れて神社は焼き払われ灰燼に帰し、境内の梵鐘は持ち去られた。
その鐘は、のちに大谷刑部吉隆が関ヶ原において陣鐘として使用したのち、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄進し、
現在は岐阜県大垣市の指定文化財となっている。

境内南の駐車場脇の鳥居。
雨が降ってきたので東の表参道へはまわらず、ここより参拝。
拝殿ぽいが、土間。もとは床が張ってあったのだろうか。
東からの表参道はこの拝殿の下をくぐって上がってくる。
昔は、拝殿の南(写真の手前側)に御供所があったようだ。
もとは割拝殿だったと思われる建物。
現在は神符守札等の頒布所になっている。
幣殿。
この中央をくぐると、石の宝殿。
なお拝観料100円とのこと。
でかっ
下は掘り込まれていて水が溜まっており、
一見大石が浮いているように見える。
側面には溝がある。
背面には突起がある。
屋根、というには相対的にちんまりしすぎている感じ。
これを起こせば岩室になる、というが、
それなら起こすまでもなく最初からそういう形で造ればよいのに、
という疑問もある。
これで完成形なのか、ここから起こすつもりだったのか、
さらに運ぶつもりだったのか、
はたまたここからさらに彫り込んでキテレツなものを造ろうとしたのか。
岩山の両側から上に登ることができる。
雨だとつるつる滑ります。
上から。
この周囲は一枚岩で、それをを削りに削ってこの石造物を彫り出している。
調査では内部空洞は確認できなかったとのことで、灌木は堆積土に根を張っているのだろう。

雨で足元がつるつるになってきて、足を滑らせて落ちそうになったので、下りる。
境内北には末社の祠が鎮座する。
ごく最近、玉垣とともに造替されたらしい。
屋根付きで、雨の日も安心。

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