にっぽんのじんじゃ・ひょうごけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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播磨国:

揖保郡(太子町、たつの市、姫路市西部、相生市の一部):

粒坐天照神社 夜比良神社

揖保郡:

粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社。

たつの市龍野町日山に鎮座。
龍野高校のすぐ東、白鷺山の麓。

『延喜式』神名式、揖保郡七座の一、粒坐天照神社、名神大。
播磨国一宮・伊和神社、神戸市垂水区鎮座の海神社とともに「播磨三大社」の一。
通称は粒坐(りゅうざ)神社。

祭神は天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)。
社伝では、推古天皇二年(594)、神託により的場山(龍野町北龍野)の頂に祠を建てて祀ったのを創祀とする。
この時に神より一粒の稲種と水田を授かり、これを耕作したところ大豊作となり、一粒万倍した。
よってこの郡を粒(いひぼ)と呼び、以後穀倉地帯として栄えたという。

火明命は、記紀では天孫・瓊瓊杵尊の三柱の御子の一柱あるいは兄とされ、尾張氏の祖となっているが、
『播磨国風土記』飾磨郡伊和里(現・姫路市市街部)条には、

 昔、大汝命の子、火明命は強情で、行いは非常に猛々しかった。
 父神はこれを思い悩んで、棄てて逃れようと思い、
 そこで船を因達神山(いたてのかみやま。現在の姫路市新在家町、八丈岩山。姫路城の北北西にある)へ着けると、
 火明命を水汲みにやらせ、帰ってくる前に船出してしまった。
 火明命は水を汲んで戻ってきたが、すでに船が去ってしまったことを知って大いに恨み怒り、
 風波を巻き起こして船に追い迫った。
 そのため父神の船は進むことができずに打ち破られた。
 そういうわけで、(船が壊れ、波が来た)その所を船丘と呼び、波丘と呼ぶ。
 琴が落ちた処をすなわち琴神丘と呼び、
 (*中略。船とその積み荷が化したという姫路市にある十四の丘の列挙)
 その時、大汝神が妻の弩都比売(のつひめ)に仰せになるには、
 「性の悪い子から逃れようとして、かえって風波に遭って太(いか)く辛苦(たしなめ)られたことだ」
 と仰せになった。
 こういうわけで(その地を)瞋塩(いかしほ。古くは置塩川と呼ばれた夢前川河口か)と呼び、
 苦斉(たしみのわたり)という。


とあり、火明命は大汝命(おほなむちのみこと。大国主命のこと)の御子神としている。
この神話には『出雲国風土記』海潮郷条に、
宇乃遅比古命(うのぢひこのみこと)がその父神・須義禰命(すがねのみこと)に怒って宍道湖の海潮を溢れさせ、
父神を漂わせた、という類話がある。(島根県雲南市大東町鎮座、海潮神社の項

『播磨国風土記』揖保郡揖保里(現・たつの市揖保上・揖保中)条には、

  揖保の里。土は中の中である。
  粒(いひぼ)と称するわけは、この里は粒山(いひぼやま)に寄り添っている。ゆえに山によって名とする。
 
  粒丘(いひぼをか。通説では現・たつの市揖保町揖保上中臣とされるが、白鷺山をいうとする説もある)。
  粒丘と呼ぶわけは、
  天日槍命(あめのひぼこのみこと。日本に渡来した新羅の王子)が韓国(からくに)から渡ってきて、
  宇頭川(うづかわ。現在の揖保川)下流の河口に着くと、
  葦原志挙乎命(あしはらのしこをのみこと。大国主命の別名)にお乞いになって、
  「汝(なむち。あなた)はこの国の主たる方である。わたしの泊る所を与えてほしい」と申し上げた。
  そこで志挙は海上に居ることを許した。
  すると客神(まれびとかみ。訪問神。ここでは天日槍命)は剣で海水をかき回し、これに宿った。
  そこで主神は客神のこの盛んな行為に恐れ畏み、先に国占めをしようと思い、
  巡り上って粒丘まで来て食事をした。すると口から粒(いひぼ。飯粒)が落ちた。
  ゆえに粒丘と呼ぶ。
  また杖をもって地面に刺した。するとその杖の処から冷たい水が湧き出て、ついに南と北に流れ通った。
  北のものは冷たく、南のものは暖かい〔おけらが生える〕。
  (後略)

と、揖保という地名の由来が記されており、社伝とは稲に関する伝承で共通している。
同じ伝承から派生したのだろう。
中臣の地には中臣印達(なかとみいたて)神社が鎮座しており、『延喜式』では名神大社に指定されている。
中臣氏が印達神(いたてのかみ)を祀っていた神社と思われ、
イタテノカミとは、素戔嗚尊の御子である五十猛命(いたけるのみこと)とされている。
「イタテ」の名を冠する神社は播磨国内ではほかに射楯兵主神社(姫路市鎮座)があるが、出雲において特に多く、
社号には「韓国(からくに)」という言葉を頭に付ける場合が多い。
五十猛命も『日本書紀』によれば朝鮮から渡ってきたとされており、天日槍命と同じく渡来神なのだろう。
かつて渡来人がこの地に先進の農耕技術を教えた、そういうことがあったのかもしれない。

国史においては、『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、

 播磨国従五位下勲八等粒坐天照神、伊和坐大名持御魂神に並びに従四位下を、
 従五位下海神社に従五位上を授け奉る。

という神階授与記事があって、播磨国を代表する三社の一であり、一宮・伊和神社に比肩する神社であった。
のち、元慶五年(881)に伊和神社へはさらに二階が加えられて正四位下となり、
その時にこれら三社の格付けがはっきりとなされたようだ。
伊和神社、粒坐天照神社、海神社を播磨三大社と呼ぶのはこれに基づく。


室町時代、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺し自らも滅ぼされた嘉吉の乱(1441)において兵火にかかり焼失、
揖西町小神に遷座。
その後の戦国時代、龍野城主となった蜂須賀小六正勝が現在地に遷座、続く領主の福島正則が社殿を造営。
寛文十二年(1671)に信州から転封となった脇坂家も篤く信奉、神域を拡大し多くの末社を勧請、今に至る。
現在は龍野・揖西・揖保川三町3300世帯の総氏神。

山の麓には住宅が立ち並び、隣には学校もあって、生活に密着して存在する神社という感じ。
といっても騒がしいということはなく、静かな境内だった。
山の上には公園もあって、散歩をしている人もちらほら。
社域も広く、社殿も立派で、国史にみえる播磨国第二の社(ただし、播磨国二宮ではない)にふさわしかった。

鳥居前。
駐車場の隅には榎本武揚卿筆の碑が立つ。 石階を登るとまた広場になっていて、絵馬殿、拝殿へ続く石階。
絵馬殿下。 左を見る
右背後。神庫のようだ。 絵馬殿遠景。
絵馬殿は巨大で、近くからだと撮りきれない。
絵馬殿を東から。
右の絵馬は、
龍野藩主・脇坂中務大輔安董(やすただ)公の奉納。
安董公は外様ながら将軍徳川家斉公に抜擢されて
寺社奉行、老中を歴任し、
藩政・幕政に豪腕を振るった名君。
脇坂家は彼の代より譜代となった。

奉納は「天明丙午」とあるので、
天明六年、西暦1786年。
前年末、従五位下淡路守に叙位任官されている。
本殿と拝殿。
絵馬殿と拝殿の距離が近くて拝殿が撮りきれないのでこんな所から撮った、ような気がする。
本殿西の末社。琴平神社と瑜伽神社をあわせ祀る。 本殿東の菅原神社。いわゆる天満宮。
菅原神社の裏には瑜伽神社参道、そして鳥居がある。 本殿・末社を見下ろす高台。
瑜伽神社拝殿・本殿。
瑜伽神社は本殿西に琴平神社とともに祀られていたが、その旧地ということで残しているのか。

境外社として、たつの市揖西町小神に中宮・古宮神社が鎮座し、ここは嘉吉の乱後の鎮座地。
もとの鎮座地は的場山とされ、山の中腹には同じく境外社である奥宮・天津津祀神社が鎮座する。


夜比良(やひら)神社。

たつの市揖保町揖保上に鎮座。
揖保川東岸。

『延喜式』神名式、播磨国揖保郡七座の一。小社。

祭神は大己貴命(おほなむちのみこと)。いわゆる大国主命のこと。
大己貴命は出雲から因幡を経て播磨の地を巡られ、
この粒(揖保)の地に留まられてこの地を開拓し、民を慈しまれたといい、
その故に祀られている。
揖保川上流に鎮座する播磨国一宮・伊和神社の祭神、
播磨一国の土地神である伊和大神は大己貴命と同体であるとされており、
ゆえに伊和神社を北方殿、この夜比良神社を南方殿と呼ぶ。
『播磨国風土記』揖保郡揖保里条には、大汝命がこの地を訪れたという伝承を記している(粒坐天照神社の項参照)。

川辺の神社で、境内の雰囲気はさわやか。

夜比良神社参道。並木がさわやか。
鳥居扁額は米内光政卿の揮毫。

古来、神社の扁額はどれだけ能筆であっても平民が書くべきではない、と考えられていたようで、
たとえ地方の小さな神社であっても皇族や公卿、少なくとも高位の人に揮毫を依頼していた。
そして、武家の世においてあまり裕福ではなかった貴族にとって、それはちょっとした収入源になっていた。
東には田畑が広がる。
北東の丘には中臣印達神社が鎮座する。
境内。
拝殿。
向かって右奥には末社が見える。
夜比良神社本殿。 境内北東隅の末社。







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