これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
播磨国:
宍粟郡(宍粟市、姫路市・たつの市・佐用町のそれぞれ一部):
「宍粟」は、『和名抄』に「志佐波」とあるように古くは「しさは」と呼んだが、後世「しそう」と訛った。
『播磨国風土記』宍禾郡条には、
宍禾郡と名づけるわけは、伊和大神が国を作り堅め了えられてからのち、
ここの山・川・谷・峰を境界として定めるために御巡幸なさった時、
大きな鹿(しし)が自分の舌を出してくるのに矢田の村で遇わ(あは)れた。
そこで詔して、
「矢はその舌にある」
と。ゆえに宍禾(ししあは→しさは)の村といい、村の名を矢田(やた)の村と呼ぶ。
と、地名起源伝承が語られている。
ここでの矢は、境界や領有を示すために射られたもので、
『播磨国風土記』揖保郡広山里条には、広山の旧名である「都可(つか)」の地名起源伝承が収録されているが、そこでは
石比売命(いはひめのみこと)が何本も矢を射て、それらすべてが握(ツカ。一握り)だけ地上に残して突き立ったところを「都可の村」と呼んだ、とある。
また、伊和大神と新羅からやって来た天日槍とが土地の領有を争った時、
最終的に黒葛を三本ずつ足で蹴り飛ばし、落ちたところを領有した、という伝承が宍禾郡御方里条にある。
何かを遠くへ飛ばして、それが落ちたところを領有するような、一種の「ニアピン賞」みたいなやり方が古代には行われていたのだろうか。
上の伝承では、「矢を射た」という行為が脱落しているか、あるいは自明のことであるために語られなかったのだと思われる。
山崎町に「鹿沢」という地名があって、これが「宍粟」の名の由来という説があるが、
鹿の沢なら、上のようなひねった伝承ではなく、もっとすっきりした伝承になりそうな気がする。
続く記事には、宍禾郡は孝徳天皇の御世、揖保郡から分割されてできたと伝えている。
伊和神社 | 御形神社 | *家原遺跡公園 | ||||
宍粟郡:
兵庫県宍粟市一宮町須行名(すぎょうめ)、
揖保川とその支流・引原川の合流地点からやや下流の東岸、国道29号線(因幡街道)沿いに鎮座する。
播磨国一宮で、粒坐天照神社・海神社とともに播磨三大社の一。
『延喜式』神名式、播磨国宍粟郡七座の一、
伊和坐大名持御魂神社(いわにいますおほなもちのみたまのかみのやしろ)、名神大。
「大名持の御魂」とあるとおり、祭神は大己貴神。大国主命のこと。
伊和大神とも申し上げる、播磨の地の主神。
『播磨国風土記』には、国内全域にわたって伊和大神の活躍が記されている。
単独で、あるいは少彦名命とともに国を巡った記事、数多くの御子神の記事、米や酒に関する記事など数多い。
中には、病気になったり、求婚を断られてキレたり、
乱暴な御子神を置き去りにして船を出したら、御子神が怒って追いかけてきて船を壊されたという話もある。
へんな話では、神前郡堲岡(はにをか)里条に、
堲岡の里〔生野・大川内・湯川・粟鹿川内・波自加の村〕(*神崎郡市川町から朝来市生野町に至るまでの市川流域の地)。
土は下の下。
堲岡と呼ぶわけは、昔、大汝命(大己貴命)と小比古尼命(少彦名命)が互いに言い争って、
「堲(はに。粘土)を担いで遠くまで行くのと、屎(くそ)をしないで遠くまで行くのと、二つのうちどちらがやり通せるだろうか」
と言った。
そこで大汝命は、
「わたしは屎をしないで行こう」
といい、小比古尼命は、
「わたしは堲の荷を持って行こう」
といった。
そしてこのようにお互いに争って行ったが、数日過ぎて、大汝命は、
「わたしはもう我慢できない」
といって、その場にしゃがんで屎をした。
その時小比古尼命が笑っていうには、
「同じく、わたしも苦しい」
そしてまた、その堲をこの岡に放り投げた。ゆえに堲岡という。
また、屎を垂れた時、小竹(ささ)がその屎を弾(はじ)き上げて衣服についた。
ゆえに波自賀(はじか)の村という。(*神崎郡神河町福本)
その堲と屎とは石となって、現在でもなくなっていない。
(後略)
なんでそんな言い争いになったのか 神様の思考回路すごい あと少彦名さんマジいい相棒
また、新羅よりやってきた天日槍(あまのひぼこ)との土地領有争いについても各所に記事がある。
『日本書紀』垂仁天皇三年三月条に、新羅の王子天日槍が帰化した記事があるが、その箇所への注に、
あるいはいう。
はじめ天日槍は、小船に乗って播磨国に停泊し、宍粟邑(しさはのむら)にいた。
その時天皇は、三輪君(みわのきみ)の祖・大友主(おほともぬし)と倭直(やまとのあたひ)の祖・長尾市(ながをち)を
播磨に遣わして天日槍に尋ねられるには、
「おまえは誰か。また、どこの国の人か」
と仰せになった。
(*三輪君は大物主神を祀る大神神社を、倭直は倭大国魂神を祀る大和神社を掌る氏族。勅命とともに二柱の神威も帯びて問うた)
天日槍は答えて、
「わたしは新羅国主の子です。ですが、日本国に聖皇がいらっしゃると伺い、わが国を弟の知古に譲って帰化いたしました」
と申し上げた。
(中略。天日槍がのちに但馬一宮・出石神社の神体となる八つの神宝をたてまつる)
そこで天日槍に詔して、
「播磨国の宍粟邑、淡路島の出浅邑、この二邑はおまえの任意に居住してよい」
と仰せになった。その時、天日槍は、
「わたしが住む所は、もし天恩を垂れてわたしの心に叶う地をお許し下さるならば、
わたしは自ら諸国を巡り見て、わたしの心に叶った場所を賜わりたいと存じます」
と申し上げた。
天皇はお許しになった。
そこで天日槍は宇治川を遡り、北方、近江国の吾名邑に入ってしばらく住み、
また近江国から若狭国を経て、西方、但馬国に到り、そこを居住地と定めた。
(後略。田道間守にいたるまでの天日槍の子孫系譜)
と、天日槍が最初に播磨国宍粟邑に居住したことが語られている。
この伝承ではわりと平穏にいったようだが、
『播磨国風土記』には、伊和大神と天日槍による土地領有の丁々発止のやり取りが随所に記されている。
*韓国(からくに)から天日槍命が宇頭川(揖保川)の下流にやってきて、「この国の主よ、わたしの泊る所を与えてほしい」と言ったので、
葦原志挙乎命が「海の上にいろ」と言うと、天日槍は剣で海をかき回し、そこに宿った。
葦原志挙乎命はその勢い盛んなさまをおそれ畏み、先に国を占めようとした。(揖保郡・揖保里粒丘条。現・たつの市龍野町)
*葦原志許乎命と天日槍命がこの谷を奪い合った。ゆえに奪谷(うばひたに)という。
それによって、谷の形は曲がった藤蔓のようになっている。(宍禾郡・比治里奪谷条。現・宍粟市山崎町)
*国占めの時、天日槍命がまずここに到着し、伊和大神が遅れて到着した。大神は大いに不思議に思われ、
「はからずも先に来ていたものだ」と仰せになった。ゆえに波加(はか)の村という。(宍禾郡・雲箇里波加村条。現・宍粟市波賀町)
*糠岡。伊和大神と天日桙命の二神が各々軍兵を発して互いに戦った。その時、大神の軍兵は集まって稲をついた。
その糠が群れ集まって丘となった。(神前郡多駝里糠岡条。現・加西市?)
*八千軍(やちくさ)というわけは、天日桙命の軍兵が八千あった。
ゆえに八千軍という(*やちいくさ→やちくさ)。(神前郡多駝里八千軍条。現・福崎町八千種)
と、広域にわたって先着を争い、地形が変わるほど争い、軍勢を率いて戦も行ったという。
このほか、両者が国占めにおいて色々な所に立ち寄り、地名を名づけた伝承がある。
両者の最終的な決着は宍禾郡御方里条に記されており、
志爾嵩(しにたけ)にて各々黒葛を三本ずつ蹴り飛ばし、その落ちたところを領有すると取り決め、
天日槍命の黒葛はみな但馬国出石に落ち、葦原志許乎命の黒葛は但馬国の気多、養父そして播磨国の御方に落ちたので、
天日槍命は出石に落ち着いたとする。
天日槍命の伝承地は揖保川とその支流、そして市川沿岸にあり、
新羅からやってきた彼らは川をさかのぼって住むべき地を探したのだろう。
また、鉱山をめぐる争いであったともいわれる。
伊和大神は大己貴命と同体とされるが、もともとこの地に住む伊和氏の奉斎神であったのが習合されたともいわれる。
播磨と出雲の土器の出土状況から、弥生時代後期には播磨と出雲の間で人やモノの移動がさかんに行われていたとみられており、
習合があったならば、それは弥生時代にはもう行われていたかもしれない。
土器や青銅器から見る出雲ネットワークは、北九州から越後に至るまでの日本海沿岸地域、
そして吉備・播磨・近畿、はては信濃にまで広がっていて、
それは神話における大国主命の行動範囲と符合している。
『播磨国風土記』宍禾郡伊和村条には、
伊和の村〔もとの名は神酒(みわ)〕。
大神が酒をこの村で醸された。ゆえに神酒村という。
また於和の村ともいうのは、大神が国を作り終えられてのち、「於和(おわ)」といった。「我が美岐(みき、神酒)」に同じ。
との地名起源伝承があり、
社伝では、播磨国の国作りがこの地で終わり、大神はそのままこの地に鎮座したと伝えている。
成務天皇十四年甲申歳(144)二月十一日丁卯、あるいは欽明天皇二十五年甲申歳(564)とも伝えるが、
伊和恒郷の夢に「われを祭れ」との神託があり、一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞い、
大きな白鶴が二羽、石の上で北向きに眠っていたため、その所に社殿を造営した。
その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためであるという。
立地上の制約がない限り、通常、神社は日に向かう東向きか南向きに建てられる。
社地は川辺の開けた土地であり、十分南向きに建てられる場所であるが、
それをわざわざ北向きに建てたというのは、社伝にあるようななにか特別の理由があったのだろう。
『新抄格勅符抄』に収録されている、
大同元年(806)時点の全国の神社の神封(神社の経営を助けるために国が与えた封戸)を記した「大同元年牒」には、
播磨伊和神 十三戸 〔播万国〕
とあり、
国史においては、貞観元年(859)に従五位勲八等から従四位下に、
次いで元慶五年(881)に従四位下から正四位下に進んでおり(『日本三代実録』)、
その後累進して正暦二年(991)に正一位を授けられた。
中世においては新田義貞や播磨国守護・赤松氏からの、
近世においては池田家や松平氏、小笠原氏など武家からの寄進や造営があり、
明治以降の社格制においては国幣中社に列した。
播磨国の国府は飾磨郡(姫路市)にあり、伊和神社はそこからはるか遠く離れた山奥の地にありながら、
一宮の座を他に譲らず国内第一の社であり続けたというのは、いつの世も変わらぬ高い崇敬を集めていたということだろう。
伊和神社の道向かいは「道の駅 播磨いちのみや」になっている。 参拝の人はたいていここに車を停めて行かれるようだ。 |
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東の表参道入口。 茂った木々が古社にふさわしい威容をかもし出している。 |
表参道。 | 随神門。簡素な造り。 |
随神門からは北参道ものびる。 舗装してある道は、交通安全祈願の車の進入路。 |
随神門をくぐると手水舎がある。そして、社殿へ。 交通安全祈願の車が拝殿前に停まっている。 |
伊和神社拝殿。 六月晦日大祓の茅の輪が設けられている。 拝殿内では、交通安全祈願の方が修祓を受けている。 |
拝殿に続く幣殿。 現在の幣殿は安政六年(1859)の再建で、 もともとは播磨国内の諸神を奉斎する「総神殿」であったが、 明治二十一年の改修において正面三間の長押を格子戸に改め、 本殿側にあった神座の壇を取り払い、本殿と接続して幣殿とした。 総神殿は永享四年(1432)にはじめて造営されたと伝えられ、 その形式や規模の大きさは全国的にも珍しいもの。 現在では用途が変わったが、当時の様式を忠実に伝えるものとして、 兵庫県登録文化財に指定されている。 総神殿は、明治の改修時に本殿の両側に新たに社殿を造営して、 「播磨十六郡神社」となっている。 |
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幣殿に続く本殿。 方一間の入母屋造という一宮にしては小規模な本殿だが、 意匠を存分に凝らしており、貧相な感じは受けない。 現在の社殿は、明治目前の文久二年(1862)、 この辺りを治めた安志藩主小笠原貞孚(さだちか)の造営による。 安志藩は譜代とはいえわずか一万石の小藩であったが、 本殿は藩の財力で造営し、 他の社殿は神社の醵出金や氏子、播磨国内からの浄財によって再建したという。 幣殿とともに兵庫県登録文化財に指定されている。 本殿脇にみえるのは、播磨十六郡神社の西八郡。 播磨国内の式内社のうち、西部八郡の神々を祀る。 これは姫路市の射楯兵主神社境内の播磨国総社と同じ形式。 また、西随神門の外には末社の市杵島姫神社が鎮座する。 |
本殿東側。本殿脇に播磨十六郡神社の東八郡社殿、 そこから東に五柱社、御霊殿が鎮座し、南参道となる。 |
境内西側の神楽殿、神輿庫。 境内は狭すぎず広すぎず、鎮守の森も森厳としていて雰囲気がよく、 曇天だったもののとてもすがすがしい気分になった。 |
兵庫県宍粟市一宮町森添、
伊和神社よりさらに上流の山裾に鎮座する。
『延喜式』神名式、播磨国宍粟郡七座の一。
祭神は葦原志許男神、つまり大国主命。
相殿に、素戔嗚神・高皇産霊神・月夜見神・天日槍神を祀る。
『播磨国風土記』宍禾郡御方里条には、「みかた」という地名の起源伝承が記され、
その中で、土地の領有を争った葦原志許男神と天日槍の決着について語られている。
御方の里〔土は下の上〕。
御方と名づけるわけは、
葦原志許乎命(あしはらしこをのみこと。大己貴神の別名)は天日槍命と黒土の志爾嵩(しにたけ)に行かれ、
お互いにそれぞれ黒葛を三条、足に着けて投げ合いをなさった。
その時、葦原志許乎命の黒葛は、一条(ひとかた)は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫(やぶ。養父)の郡に落ち、
一条はこの村に落ちた。(三条めが落ちた、その)ゆえに三条(みかた)という。
天日槍命の黒葛はみな但馬の国に落ちた。ゆえに但馬の伊都志(いづし、出石)の地を占めておいでになる。
あるいはこうもいっている、大神が形見(かたみ)として御杖をこの村に立てられた、ゆえに御形という。
葦原志許乎命の黒葛が落ちた地には、
それぞれ気多神社(豊岡市日高町上郷鎮座。但馬国総社)、養父神社(養父市養父市場鎮座。但馬国三宮)、そしてこの御形神社が鎮座し、
天日槍命の鎮まった地は但馬一宮・出石神社となっている。
弘法大師が唐土から三鈷杵を投げ、それが突き刺さっていた高野山に金剛峯寺を開創したという伝説があるように、
何かを遠く投げて、それが落ちたところを占めることができるという方法が古代にはよく行われていたのだろうか。
気多・養父の両社は出石神社を牽制するような位置、円山川沿いに鎮座しているが、
御形神社はそれらより遠く離れた場所。
ここが但馬国の養父郡や朝来郡と接する国境の地であることから交通上の要衝として、
あるいはここに天日槍の勢力があって、それを一掃するためにことさら領有を主張したのだろうか。
また、両者の争いは鉱山の領有に関わるものであったともいわれる。
神社はもともと東南の川向かいの高峰(標高845m)の頂にあったのを、宝亀三年(772)に現在地に遷座して社殿造営されたと伝えられ、
現存する社殿は室町末期の大永七年(1527)のもので、
以来修理を加えつつ現在まで伝わっており、国指定重要文化財となっている。
鳥居前。 脇の石燈籠には、「正一位高見大明神」と刻まれている。 神社に伝わる大永年間の神事次第書に「御形社高見大明神」とあり、 中世以降は高見大明神と呼ばれて高皇産霊尊を主祭神とし、素戔嗚神・月夜見神を相殿に祀っていた。 |
随神門。 | 桜や椿が植えられている。 椿は複数色の花が咲く「五色椿」と呼ばれるもので、 桜は「正福寺桜」。県内最大級のもので、県指定天然記念物。 |
境内。 向かって右にみえる神楽殿には大絵馬がかかっており、 殿内には江戸時代末期に奉納された百人一首図絵絵馬がかかっている。 |
御形神社拝殿。 | |
本殿。 室町末期、戦国時代の建築を今に伝えており、 国の重要文化財に指定されている。 指定後の昭和46~47年に解体修理が行われ、 腐朽部材を新補し、 過去の改修において造り替えられた部分を 建築当初の姿に復元した。 |
本殿の周囲には摂末社が鎮座する。 |
本殿の真裏には神木が立っていて、鈴がつけられており、願をかけることができるようになっている。 宝亀三年の遷座にあたっては、村人が一夜のうちに三本の大杉が出現するという夢を見たといわれ、 これがその杉であるとして「夜の間の杉」と呼ばれている。 もとは三本あったが、大正時代に二本が台風のため倒れ、一本が残る。 樹齢は600年以上とみられている。 御形神社遷座以前は、この地には山神社が鎮座していたと伝えられている。 |
御形神社のすぐ南、三方の地を一望できる見晴らしの良い丘の上に、
縄文時代から中世に及ぶ大規模複合遺跡がある。
発掘調査から、縄文時代の竪穴式住居一棟と多数の落とし穴、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴式住居群、
奈良時代の土坑、平安時代から鎌倉時代にかけての掘立柱建物群・墓跡が見つかり、
長い間ここに集落が営まれていたことが明らかになった。
現在は「家原遺跡公園」として整備され、
縄文時代の竪穴式住居、弥生時代の竪穴式住居、古墳時代の竪穴式住居と高床式倉庫、鎌倉時代の掘立柱建物を復元し、
各時代における生活の移り変わりを見ることができるようになっている。
また、歴史資料館をはじめ、体験工房施設やグラウンド、温泉もあって、多目的に利用できる。
縄文時代の竪穴式住居復元。 二本の掘立柱に一本の桁を渡し、 両側から垂木を立てかけ、茅葺屋根としている。 家の形は、角の丸い四角形。 発掘では二本の柱跡とその中央に石で囲んだ炉の跡があり、 縄文中期末から後期初頭の石器類が見つかっている。 また、この時代の地層からは多くの落とし穴が見つかっており、 集落に来た獣を捕らえていたものと考えられている。 |
弥生時代の竪穴式住居復元。 弥生時代の住居跡は23棟以上発見されており、 その全時期にわたって住居が営まれていたと考えられている。 建物は円形で、小型のものは4本の柱で家を支え、 大型になるほど柱を増やしている。 床の周りには溝をめぐらし、家の中央には土坑を設けているものが多い。 同じ場所に建て替えを行った住居跡もあった。 住居内からは土器や石器、鉄器などが見つかっている。 |
古墳時代の竪穴式住居および高床式建物の復元。 古墳時代の住居跡はこれまでに78棟以上が見つかっており、 この集落が最も栄えた時代とみられている。 この時代の竪穴式住居は四角形で、多くは4本の柱で支えられており、 上部で梁と桁を渡し、垂木を立てかけ茅を葺いて屋根としていた。 床は固く叩き締め、 中央には石をコの字形に組んだり、土器を再利用したりした炉があって、 時代が下ると竈を備えるものも出てくる。 |
高床式建物は2間四方(2.6×2.6m)で、8本の柱によって支えられていた。 板張りの高床と板壁を持ち、屋根は切妻。 梯子をかけて出入りしていた。 茅葺屋根の家々の中にあってはひときわ目立つ建物で、 集落内でも特別の意味がある建物であったと考えられている。 |
鎌倉時代の掘立柱建物復元。 遺跡からは、この時期の掘立柱建物群や、 中国製の焼き物を納めた土壙墓などが見つかっている。 この周辺は「三方庄」と呼ばれた荘園となっており、 それに関係する施設であった可能性も指摘されている。 正面の建物は正面四間・側面三間で、その向かって左側には、 正面一間・側面四間の「中門廊」という出入り口がある。 これは中央貴族の住居である寝殿造にあやかったもので、 平安後期には地方有力者の住居に用いられるようになった。 よって、この建物が当時もっとも重要な施設であったとみられている。 復元にあたっては、主屋を茅葺、庇と中門を板葺としている。 この一角には、ほかにも二棟の復元建物がある。 |
すぐ北の山裾には御形神社が見える。 |
木工や竹細工などの体験施設がある。 | 一宮温泉まほろばの湯。 名前だけの温泉ではなく、 2億5千万年前、この地がまだ海だったころの海水が 地中深く閉じ込められてできた、食塩泉という立派な温泉。 昔からあったわけではなく、試掘して温泉があることを確認し、 それから本掘削を行って掘り当て、2002年に開業している。 塩分濃度が人体のそれと近いため、 湯あたりしにくく保温効果が高いとされる (ただし、個人の体質や体調によってはその限りではない)。 暑いし汗でてたしでふらふら入ってみたけど、 けっこう よかった ごはんもおいしかったし。卵かけごはん定食。 |
揖保川上流。三方町のやや手前あたり。 揖保川は、『播磨国風土記』には「宇頭川(うづかわ)」と記されている。 揖保郡条に、 宇須伎(うすき)津(姫路市網干区、揖保川東岸の津)。 右、宇須伎と名づけるわけは、 大帯日売命(おほたらしひめのみこと。神功皇后)が韓の国を帰順させようとして海を渡っておいでになった時、 御船が宇頭川の泊に宿られた。 この泊から伊都(揖保郡御津町伊都)に渡航なされたとき、たちまち逆風に遭って進むことができなくなり、 船越から(陸路で)御船を越えさせたが、それでもなお進ませることができなかったので、民を召して御船を曳かせた。 ここに一人の女人があり、自分の背負っていた子を資(たすけ)としてたてまつろうとして、入江に堕ちた。 ゆえに宇須伎(うすき)という〔今の言葉では「いすすく(驚き慌てる、の意)」である〕。 宇頭川。 宇頭川というわけは、宇須伎津の西の方に絞水(うづ、渦)の淵がある。 ゆえに宇頭川という。すなわちこれは、大帯日売命(おほたらしひめ。神功皇后)の御船が宿った泊である。 語源は「渦」であり、河口付近にあった淵から命名されたようだが、 この川自体、昔からたびたび氾濫を繰り返してきた非常な暴れ川。 上流では川岸や川中に大きな石がゴロゴロし、速い流れがそれにぶち当たって白い波を立てながら下ってゆく。 この近く、一宮町福地地区では、 昭和51年9月の台風17号に伴う連日の大雨のため、山津波および揖保川氾濫による大災害が起こっている。 そのような恐ろしい川ではあるが、こういった「ごつごつした石の川原」には何か神聖な気持ちを抱いてしまう。 自然の驚異に対する畏敬の念のためだろうか。 |