にっぽんのじんじゃ・ひょうごけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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摂津国:

武庫郡(兵庫県西宮市・尼崎市):

上古、西宮市の平野部はほぼ海の底であり、この辺りは深く入り込んだ湾となっていた。
海の後退や洪水による土砂の堆積によって平野部が増えた古代においては、
「武庫水門」「武庫泊」という港町として海陸の交通の要衝だった。
「むこ」とは、同じく港町であった難波から見て「向かふ」の港町であったことから名づけられたともいわれている。
『住吉大社神代記』によると、もとは「御子代国(みこしろのくに)」といい、それが訛って「武庫国(むこのくに)」となったと記されている。

現在では一面の住宅地になり、河口・海岸部の埋め立て開発も行われているが砂浜も残しつつ、
神戸と大阪の間にあってわりとのんびり過ごせる住みよい街となっている。

廣田神社

武庫郡:

廣田(ひろた)神社。

兵庫県西宮市大社町
旗は勇む武庫の平野に聳える甲山の南麓丘陵に鎮座。
正式な社号表記は「廣田」だが、一般には「広田」と表記される。
地元の阪神タイガースが必勝祈願を行う社。

『延喜式』神名式、摂津国武庫郡四座の一。
名神・大に指定され、祈年祭のほか、月次・相嘗・新嘗祭にも班幣に預かった。
住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』には、住吉大神の「部類神」五社の筆頭に挙げられており、
住吉大社と深い関係を有していた。
ちなみに他の部類神四社は、筑紫国の「香椎廟宮」(香椎宮)、同国糟屋郡の「阿曇神三前」(志加海神社三座)、
播磨国明石郡の「垂水明神」(海神社三座)、そして紀伊国名草郡の「丹生咩姫神」(紀伊国伊都郡の丹生都比女神社か)。
平安後期には、朝廷が恒例の幣帛をたてまつる「二十二社」の一に定められた。

祭神は、天照大御神之荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)。
伊勢の神宮に祀られる天照大御神の荒ぶる猛々しい働きの神霊で、
伊勢においては皇大神宮(内宮)の第一別宮・荒祭宮に祀られている。
『日本書紀』仲哀天皇八年九月五日条、および神功皇后摂政前紀には以下のような記事がある。

 仲哀天皇は熊襲征伐の途上、行宮であった筑紫の橿日宮(今の香椎宮)で熊襲を攻めることを議られた。
 その時、突然神功皇后が神がかられ、
 「熊襲の地は乏しく空しい国である。海の向こうには新羅国という豊かな国がある。
 よくわたしを祭れば、刀に血塗らずしてその国は服従し、熊襲もおのずと従うであろう」
 と託宣した。
 天皇はこれを疑われてそのまま熊襲を討たれたが、勝利を得ることができず、翌年二月、橿日宮において急な御病にて崩御された。
 そこで、神の御言葉を用いられなかったためであるとわかった。
 一説には、熊襲の矢に当たって崩御されたという。
 皇后は重臣の武内宿禰に命じて天皇をひそかに穴門国(あなとのくに。長門国)に遷させ、豊浦宮にて无火殯斂(ほなしあがり)を行わせた。
 皇后は託宣を行われた神の正体を知ろうとお思いになり、
 三月一日、みずから神主となられると、武内宿禰に琴を弾かせ、
 中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を審神者(さにわ。神託の内容を判定する人)として、
 先に天皇にお教えになられた神の御名を請われた。
 すると七日七夜に至って答えて仰せになるには、

   神風(かむかぜ)の伊勢の国の、百(もも)伝ふ度逢(わたらひ)の県(あがた)の、拆鈴(さくすず)五十鈴宮(いすずのみや)に居(ま)す神、
   名は、撞賢木厳御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまざかるむかつひめのみこと)。

 この神のほかにまた神がおいでになるかと問われると、答えて仰せになるには、

   幡荻穂(はたすすきほ)に出(いで)し吾(あれ)や、尾田(をた)の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)に居す神、有り。

 まだおいでになりますか、と問われると、答えて仰せになるには、

   天に事代(ことしろ)、虚(そら)に事代、玉籤入彦厳之事代神(たまくしいりひこいつのことしろのかみ)、有り。

 まだおいでになりますか、と問われると、答えて仰せになるには、

  有ること無きこと知(いさし)らず。

 ここで審神者が、
 「今お答えにならずとも、またあとで仰せになることがございますか」
 とお尋ねすると、応えて仰せになるには、
 
  日向国(ひむかのくに)の橘小戸(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に居して、水葉(みなは)も稚(わか)やけく出で居す神、
  名は、表筒男(うはつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神、有り。

 まだおいでになりますか、と問われると、答えて仰せになるには、

  有ること無きこと知らず。

 ついに、さらに神がおいでになるかを言うことはなかった。
 神の御言葉を得たので、その通りにお祭り申し上げた。
 そののち、吉備臣の祖、鴨別(かもわけ)を遣わして熊襲を討たせると、日を経ずして自ずから服した。

皇后は神々の助けにより海を渡って出征、戦わずして新羅・高麗・百済の三国を服せしめて帰還、
筑紫にて皇子・誉田別命(応神天皇)をお生みになったが、
大和においてこの知らせを聞いた皇子の異母兄、麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)は、皇子を亡き者にしようと反旗を翻した。
皇后はこれをお聞きになると、武内宿禰に皇子を託してひそかに南海から紀伊へと進ませ、
みずからは主力を率いてまっすぐ難波を目指された。
しかしその中途、皇后の船が海中で旋回して進むことができなくなった。そこで、

 また務古水門(むこのみなと)に戻られて卜占をなさった。
 ここで天照大神がお教えになって仰せになるには、

  我が荒魂(あらみたま)、皇后(おほみもと)に近づくべからず。まさに御心の広田国(ひろたのくに)に居(ま)しますべし。

 そこで、山背根子(やましろねこ)の娘、葉山媛(はやまひめ)をもって祭らせられた。
 また、稚日女尊(わかひるめのみこと)がお教えになって仰せになるには、
  
  吾(われ)、活田長峡国(いくたのながをのくに)に居さむと欲(おも)ふ。

 そこで海上五十狭茅(うなかみのいさち)をもって祭らせられた。
 また、事代主尊がお教えになって仰せになるには、

  吾を御心の長田国(ながたのくに)に祠(まつ)れ。

 そこで、葉山媛の妹の長媛(ながひめ)をもって祭らせられた。
 また、表筒男・中筒男・底筒男三神がお教えになって仰せになるには、

  吾が和魂(にぎみたま)、大津(おほつ)の渟名倉(ぬなくら)の長狭(ながを)に居さしむべし。
  すなわち、因りて往来(ゆきかふ)船を看(みそこなは)む。

 ここにおいて、神のお教えの通りに鎮座させられると、平穏に海を渡ることができた。

その後、皇后は紀伊にて皇子らと合流し、北上して反乱軍を撃破した。 
この記事における、伊勢国の度逢県の五十鈴宮、つまり伊勢の神宮に鎮座する、「撞賢木厳御魂天疎向津媛命」が天照大御神の荒御魂。
武庫水門での卜占において、天照大御神は自分の荒御魂の力が烈し過ぎるために皇后の近くに居てはいけないとして、
みずからを広田の地に鎮めるようにと託宣したが、これが廣田神社の創祀となる。
撞賢木厳御魂天疎向津媛命とは、
「突き立った榊に宿る霊威ある御魂、向かいの女神」の意(「あまざかる」は「鄙(ひな)」「向かふ」にかかる枕詞)。
『日本書紀』によれば、天照大御神は崇神天皇の世に皇居を出たのち、
倭笠縫邑に「磯堅城神籬(しかたきのひもろき)」を立てて祭られていたといい、
神籬とは、神聖な木を神の依り代とし、その周囲に籬(かき)を廻らせて祭る形式。
伊勢神宮でも、御正殿の下には「心御柱(しんのみはしら)」という神聖な柱が立てられていて、
大神にたてまつる神饌は、古くは社殿の前ではなく床下の心御柱の前に捧げられていた。
この心御柱は磯堅城神籬の名残と考えられ、上古より天照大御神は神聖な木に祭られていたことが知られる。
「撞賢木厳御魂」とは、そういう祭祀形式による神名だろう。
「天疎向津媛命」は、大和国の向かい、隣国である伊勢国の女神ということになるか。

ちなみに、稚日女尊の鎮座するのが神戸市中央区鎮座の生田神社で、
事代主尊の鎮座するのが神戸市長田区鎮座の長田神社。
住吉三神和魂の鎮座地は、もちろん住吉大社。
上では割愛しているが住吉三神の荒魂は皇后帰還時に穴門(長門)国山田邑に祭られており、
現在の長門国一宮である住吉神社。

当初の鎮座地は「高隈原(たかくまはら)」と伝えられており、もう少し北の甲山山麓の地であったと考えられている。
その後御手洗川のそばに遷座したが、水害の恐れがあるため享保年間に現在地に遷座した。
先の大戦では空襲によって焼失し、本殿は伊勢の神宮の荒祭宮旧社殿を譲り受けて昭和31年に竣功している
(昭和28年に伊勢神宮の式年遷宮が行われていた)。
荒祭宮は皇大神宮(内宮)の第一別宮で、天照大御神の荒御魂を祀る宮であるので、
いわば元宮を移築したということになる。

朝廷からは平安期に入って重んじられ、
『文徳天皇実録』嘉祥三年(850)十月七日条に神階従五位下を授けられた記事があり、
『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条では、「従三位勲八等の広田神」に正三位が授けられていて、
この九年間にかなりのジャンプアップが果たされている。
そして貞観十年(868)十二月十六日には広田神に従一位、生田神に従三位が特に授けられ、
同閏十二月十日条には、両社への奉幣記事並びに告文(勅使の奏上する、天皇の詔としての祝詞)が記されている。

  天皇が詔旨と、広田大神の広前に申し賜へと申さく。
  大神を弥高弥広(いやたかいやひろ)に供奉(まつ)らむと所念行(おもほ)す、
  而る間に摂津国の解すらく、地震(なゐ)の後に小震止まずと。
  因りて卜(うら)へ求めしむれば、大神のふしこり賜ひて致し賜ふなりと申せり。また先日に祷ぎ申し賜ふ事も有りけり。
  因りて今、従一位の御冠(みかうぶり)に上げ奉り崇め奉る状を、主殿権助従五位下大中臣朝臣国雄を差し使わして、
  御位記(みくらいぶみ)を捧げ持たしめて奉り出す・・・
  (*ふしこる・・・いきどおる、怒る、の意)

この年の七月八日に播磨国・山城国にかけての地震があり、今では「播磨国地震」と名づけられている。
この地震の後、播磨国にて小規模な余震が続いたので、卜したところ広田・生田両神の怒りのためと出たので、
以前に祈祷した事とあわせて広田神に従一位、生田神に従三位を授け、御心を和めようとしたということ。
ちなみにこの翌年、三陸沖を震源とした大地震が東日本を襲い、その津波は当時の海岸線から2~3㎞内陸まで浸水した。
今では貞観地震と名づけられ、平成23年3月11日に起こった東日本大震災との関連を指摘されている。
古代の人は何でもかんでも神頼みのようにみえるが、
科学の発達していない古代においては、気象・災害・疫病など身の回りのほとんどのことは人の力ではどうしようもないことであって、
それについて人々は神に祈るしかなく、災いが起これば、自分たちがなにか過ちを犯したのではないかと反省して神を祭った。
それに比べて現代は、といっても、科学の進んだ現代においてもなお人智の及ばぬことは存在するし、
その進んだ科学じたいが、かつての神々の祟りのかわりに人々に脅威を与えている。
現代人は昔の信仰を迷信と言って笑うが、
現代人も「科学的」と思い込めば、実際には科学的根拠がなくても信じ込んでしまうように、基本的にレベルは変わらない。
火が食事や居住を便利にする一方で火事を起こすように、水が人々に潤いを与える一方で洪水を起こすように、
大地が豊穣の恵みを与える一方で地震を起こすように、
「神」は大いなる恵みを与える一方で恐るべき災害を引き起こす、両面性をもった存在だった。
「科学」もそうであり、科学に依り頼む現代人は「科学という神」を信仰しているといえるだろう。
ただ、昔の人々は恵みの力と祟りの力、神聖とケガレなどという相反するものは循環する表裏一体のものであるということをよくわかっていたが、
現代人はややもすればその一面しか見ようとせず、自らの行いに対する反省もしない。

閑話休題、平安後期になると広田神社は京畿の神社の中でも特に有力な神社となり、
朝廷が恒例の幣帛をたてまつる「二十二社」の一となり、その「下八社」に列した。
神祇官の長である神祇伯白川家(臣籍降下したもと皇族の血筋だが、神祇伯に就いた者は「王」となり皇族扱いとなったので、
「白川伯王家」とも呼ばれた)は広田神社に特に崇敬を寄せ、神祇伯就任時には必ず参詣し、そのほか折に触れて参詣したと伝えられる。
現在も西宮市には神祇官町という町があり、また神祇官田という字もあって、西宮は白川家と縁の深い土地であったとみられている。
海辺に鎮座する「西宮えびす」こと西宮神社は広田神社の摂社であり、祭礼を同じくしていたが、西宮神社は明治になって独立した。

神社の北から東にかけて廻る御手洗川。
往古、広田神社参拝者はまずこの川で身を清めていた。
正式名称は東川といい、南流して今津港に注ぐ。
「イナイチ」こと国道171号線方面から来る車道。
参道には松並木が続いている。
現在、参道まわりを工事中。
周辺が住宅地なので、交通量もそこそこある。
参道。
境内入口方面。境内へは東から入る。
大鳥居の工事中で、正面から入ることはできなかった。

参道。 参道。
綺麗に整備された境内は、さすが旧・官幣大社というところ。


石段を上がると参道は右に折れ、大きな拝殿が視界に飛び込んでくる。
参道右手、社務所の前に鎮座する齋殿(ときどの)神社。
広田神社の創祀にあたって斎宮(いつきのみや)となった、山背根子の娘の葉山媛命を祀る。
神祇伯を務めていた白川氏は、広田社の例祭にあたって度々この社に参ったという。
もとは現鎮座地の東北、御手洗川の川岸に鎮座していたが、
享保九年の広田神社の遷座にともない、享保十二年に境内の西山に遷座。
明治四十四年の神社合祀政策により境内末社の松尾神社に合祀されたが、
先の大戦後の復興造営において現在地に一祠を立て、祭祀が行われている。

山背根子については、『新撰姓氏録』摂津国神別・天孫に、

  山代直(やましろのあたひ)。
  天御影命(あまのみかげのみこと)の十一世の孫、山代根子の後である。

とある天孫氏族。
天御影命は天津彦根命の御子神で、凡河内(おほしかはち、おうしこうち)氏や若田部湯坐(わかたべのゆゑ)氏などと祖を同じくする。
武庫郡の西、芦屋から灘一帯にあった菟原郡の式内社、河内国魂神社は凡河内氏の奉斎神社と考えられており、
この辺りは天御影命の後裔氏族が勢力を張っていた地域だった。
齋殿神社の向かいは祓所となっている。
巨大な広田神社拝殿。
拝殿の向こう、中央の本殿に天照大御神荒御魂を祀る。

左(向かって右)の第一・第二脇殿には住吉三前大神と八幡三所大神を祀る。
「前(まへ、まえ)」は神を数える単位のひとつで、
住吉三神の場合は通常「前」を用いて「すみよしのみまえのおおかみ」と呼ぶ。
八幡三所とは応神天皇・神功皇后・仲姫命。
これらの脇殿の神々は神功皇后をはじめとする鎮座伝承に関わる神々を祀っている。

右(向かって左)の第三・第四脇殿には、
諏訪健御名方富大神(すわのたけみなかたとみのおおかみ)と高皇産霊大神(たかみむすひのおおかみ)を祀る。
諏訪明神は蝦夷討伐の守護神とされたことから鹿島・香取と並ぶ軍神として中央に知られ、
美濃の南宮神社と結び付けられたように鍛冶の神としても広く信仰され、
また、諏訪明神の免状があれば獣を殺生する罪から免れるとして、狩猟民の間で広く信仰された。
高皇産霊大神は造化三神の一で、天照大神とともに高天原を主宰し、
かつて神祇官で祀られていた「宮中八神」においても首座的な位置にあり、
神祇伯白川家と縁が深かった広田神社でも篤く崇敬されたものだろう。
拝殿前より、本殿を見る。
第一・第二脇殿前。
第三・第四脇殿前。
右脇殿の外側に石祠にて鎮座する、摂社・伊和志豆(いわしず)神社。

『延喜式』神名式、摂津国武庫郡四座の一、伊和志豆神社(いわしづのかみのやしろ)〔大。月次・新嘗〕に比定。
大社に指定され、月次・新嘗の班幣にも預かる、武庫郡では広田神社に次ぐ社だった。
祭神は伊和志豆之大神。
一説には、神功皇后の先祖にあたる開化天皇皇子・彦坐王(ひこいますのみこ)ともいう。
隣国・播磨国の一宮の神は「伊和大神」であり、大国主命と同一視されている。
これと関連のある神だろうか。

中世室町時代には、神祇伯白川家の伝える祓法を修する六社の一として崇敬された。
もとはこの地から東南1.5㎞の地に鎮座していたが、大正六年に広田神社境内に遷座し、
戦後の復興にあたっては本殿に合祀されていたのを、
平成二年の御大典にあたって社殿を造営し、再び独立して祭るようになっている。

『延喜式』神名式で武庫郡の官社として記されている広田神社以外の名次(なつぎ)神社・伊和志豆神社・岡太(おかた)神社は、
現在はいずれも広田神社の摂社となっている。
名次神社・岡太神社は境外摂社。
境内西面に鎮座する末社。
奥は五末社。奥から八坂神社・子安神社・春日神社・地神社・稲荷神社。
手前は松尾神社。
松尾神社は一般に酒造の神として信仰されており、酒造の盛んな西宮にも当然のように勧請されている。

現在、酒造業者は西宮神社(西宮えびす)にて「宮水まつり」を斎行し、「酒ぐらルネサンス」を催している。
酒造から近場で、商売的にもえべっさんの方が御利益ありそうだから仕方がないところか。



境内はけっこう広い。
境内には、古代と江戸時代の西宮を図示したものが掲示されている(西宮甲子園ライオンズクラブによる)。
武庫水門に西から突き出ている「角の松原」は、『万葉集』にその景勝をうたわれている地。

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