にっぽんのじんじゃ・いばらき

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*常陸国

『常陸国風土記』(完本は散逸。ダイジェスト版の写本が現存する。他の書物に引用されている逸文からある程度の補足が可能)によれば、
「ひたち」の名の由来は、往来の道が海川の渡りを隔てず、郡郷の境が山河の峰谷に相続くことから、
近く通う意味「ひた(直)・ち(通)」から名づけられたとも、
また、古に倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと。日本武尊を常陸国風土記は天皇としてあつかう)が
東征途上に新治国(のちの新治郡。当時は国だった)を訪れたとき、新治国造の毘那良珠命(ひならすのみこと)が
新たに井戸を掘ったが、その水はとても清らかであり、天皇がその水で手を洗った際に御衣の袖が泉に漬かって濡れ、
その袖を「漬した」故事から「ひたち」と名づけられた、という。
また地元の諺では、「筑波岳(つくばね)に黒雲挂(かか)り、衣袖漬国(ころもでひたちのくに)」というとあり、
それによって常陸国の枕詞は「衣手」となっている。
海山の産物が豊富であり、古に「常世の国」と呼ばれたのはこの地であろうか、と記されている。ただ、上質の水田は少なかったらしい。
日本武尊が東征において征伐した蝦夷の「日高見国」は信太郡にあったとされる。
昔は各郡が国でありそれぞれに国造が定められていたが、孝徳天皇の世、大化の改新時に常陸国にまとめられた。

筑波郡:

『常陸国風土記』筑波郡の条には、古老の言として、
筑波の県(あがた)は昔は紀国(きのくに)といい、
美万貴天皇(みまきのすめらみこと、第十代崇神天皇)の世に采女臣の一族である筑波命が紀国国造として遣わされた際、
自らの名を国につけたといい、地元では「握飯(にぎりいひ)筑波の国」という、と記される。

筑波山神社


筑波山(つくばさん)神社。

つくば市筑波
筑波山の南中腹付近に鎮座する。

『延喜式』神名式、常陸国筑波郡二座、筑波山神社二座。
「一は名神大、一は小」とされている。

『日本紀略』弘仁十四年(823)正月二十一日条(おそらく散逸した『日本後紀』の逸文)には、
「常陸国従五位下筑波神を官社とす。霊験頻著なるを以てなり」
とあり、これが国史初見とできる。
この年、筑波山神社は常陸国司より祈年祭班幣を受ける官社となり、京の神祇官が編む神名帳にその名を記された。
その後、六国史内の神階は筑波男神が従三位、筑波女神が従四位上まで授けられた。

『常陸国風土記』筑波郡の条には、筑波山と富士山に関する伝承が記されている。

  古老が言うには、
  昔、祖神尊(みおやのかみのみこと)が御子神たちのもとを巡っていたとき、
  駿河国の福慈岳(ふじのたけ、富士山)に到って日暮れとなったため、子である福慈神に宿を請うた。
  しかし、福慈神は、
  「今日は初粟(わせ)の新嘗(にいなめ。新穀を神に奉り感謝する行事)の日で、家の内は物忌みしています。
  今日は御泊めできません」
  と断った。
  祖神尊は恨み泣いて罵り告げた。
  「自分の親をどうして泊めようと思わないのか。
  おまえが住む山は、生涯の限り、冬も夏も雪霜が降り、寒さが重なり、人は登らず、飲食を奉る者もいないだろう」
  それから筑波岳に登って、同じように宿を請うた。
  筑波神は答えて言った。
  「今日は新嘗の日ですが、母君の仰せを断ることはいたしません」
  そして、飲食の座を設け、恭しく拝み仕え奉った。
  祖神尊は歓んで歌った。
  
  愛哉我胤、巍哉神宮。  はしきかも あがみこ、たかきかも かむみや。
  天地竝齊、日月共同、  あめつちのむた、ひつきのむた、
  人民集賀、飲食富豊、  たみくさつどひことほぎ、をしものゆたかに、
  代代無絶、日日弥栄、  よよたゆることなく、ひにけにいやさかえ、
  千秋万歳、遊楽無窮。  ちよよろづよに、たのしみきはまらじ。

  これからのち、福慈の岳は常に雪が降って登ることができない。
  しかし筑波岳は、往き集い歌い舞い飲み食いすること、今に至るまで絶えることがない。

マレビト訪問譚の一形態だが、
はるか遠くに冠雪し聳える富士山に対し、われらが神たる筑波の雄峰を誇る人々の気持ちがよく現れている。
昔は各農家で行われていた新嘗行事の一端が垣間見えるのも興味深いところ。
にしても富士山、ほかの伝説では自分よりも背が高い八ヶ岳を嫉妬してその頭ぶっ飛ばしたりしてるし、
ツンにも程がある。
ていうか、昔話における高い山どうしはたいてい仲が悪い。

風土記には、続いて、

  その筑波岳は高く雲に秀で、頂は西の峰(男体山)が険しく、これを雄神と呼んで、登らせない。
  ただ、東の峰(女体山)は四方が岩場で登り下りが険しいが、その側に泉があり、冬も夏も絶えない。
  足柄の坂より東の諸国の男女は、春は花の咲くころ、秋は木の葉の色づくころ、
  手を携え連なり、食べ物や飲み物を持って騎馬や徒歩で登山し、遊び楽しむ。
  ここで歌われた男女の歌は多すぎて載せきれない。
  世の諺には、「筑波峰の会(かがひ)に妻問いの財(たから)を得ざれば、娘とせず」という。

とあり、春や秋に男女が山に登って飲食して楽しみ、互いに恋の歌を歌って相手を見つけていたことがわかる。
昔は、歌垣(うたがき)といい、ある場所に多くの男女が集って歌を交わし、恋の相手を見つけるということが広く各地で行われていた。
現在では和歌を歌うことは高尚なことのように思われているが、昔は一般庶民でも日常的に行っている、
いわば一般歌謡、もっと言えばポップスだった。
記紀では日本武尊が「新治、筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌っており、
『万葉集』にも、筑波山に関する歌が二十五首収録されている。

   検税使大伴卿、筑波山に登りし時の歌一首 并に短歌
  衣手(ころもで) 常陸の国の 二(ふた)並ぶ 筑波の山を 見まく欲(ほ)り 
  君来ませりと 熱けくに 汗かきなけ 木(こ)の根取り 嘯鳴(うそぶ)き登り 峯上(をのうへ)を 公(きみ)に見すれば 
  男神(ひこかみ、をのかみ)も 許し賜ひ 女神(ひめかみ、めのかみ)も 幸(ちは)ひ給ひて
  時と無く 雲居雨零(ふ)る 筑波嶺(つくはね)を 清(さや)に照らして 
  言ふかりし 国のまほらを 委曲(つばらか)に 示し賜へば 
  歓(うれし)みと 紐の緒解きて 家のごと 解けてそ遊ぶ 打ち靡く 春見ましゆは 夏草の 茂きは在れど 今日の楽しさ
   反歌
  今日(けふのひ)に 何如(いか)にか及(し)かむ 筑波嶺に 昔の人の 来(き)けむ其の日も
  (巻九、1753・54)

筑波山の歌垣は「かがひ」といったが、それについての歌。

   筑波嶺に登りて嬥歌会(かがひ)を為(す)る日に作る歌一首 并に短歌
  鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 
  娘子壮士(むすめをとこ)の 行き集ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我(わ)も交はらむ 我が妻に 人も言問へ 
  この山を うしはく神の 昔より 禁(とが)めぬ行事(わざ)ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
  〔「嬥歌」は、東(あづま)の俗(くにひと)の語(こと)に「かがひ」といふ〕
   反歌
  男神に 雲立ち登り しぐれ降り 濡れ通るとも 我帰らめや
     右の件の歌は、高橋連虫麻呂の歌集の中に出づ。
  (巻九、1759・60)

夫妻が「かがひ」に出かけていって、それぞれ別の人妻や旦那と交わるという、
今から見ると不品行極まりないフリーダムなことも行われていたように歌われているが、
ただし、これは高橋虫麻呂の誇張表現であり、実際はそこまでの事は行われてはいなかったという説もある。
それは、反歌の「男体山に雲が立ち時雨が降って、びしょ濡れになったとしてもわたしは帰ることができるだろうか」が、
女性を得られずみじめな様になったが、それでもまだワンチャンあるかも・・・という未練の歌であることから
(「しぐれ」や「濡れ通る」などの語はどちらかというとマイナスイメージのニュアンスで用いられる)、
長歌と反歌における男性のテンションの落差を滑稽に描くために誇張して歌ったのだ、という解釈による。
「裳羽服津」というのは未詳だが、筑波山中の特定の場所であるとも、
あるいは上記の風土記の一節に「女体山の側に泉がある」という記述があることから、
その泉のことではないかという説がある。

また、『小倉百人一首』の陽成院の歌にも、

  筑波嶺のみねより落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる

とあるように、長く男女の恋に関わる山として歌われてきた。


祭神は、筑波男大神と筑波女大神。
それぞれ伊弉諾尊・伊弉冉尊と同一視される。
男体山(871m)と女体山(877m)を神体とし、山頂に本殿が建てられている。
筑波山神社は山麓にある遥拝所であり、拝殿はあるが本殿は無い。
風土記にあるように、昔の男体山はその険しさのため登山が禁じられており、
『延喜式』では男体山が名神大社、女体山が小社に指定されていた。
現在の男体山は登頂が可能であり、古代からの登山ルートで女体山へ登り、そこから尾根伝いに登っていくか、
あるいは山麓から両峰の中間地点へとケーブルカーが通されているので、そこから登ることができる。
ただし、現在でも頂上手前はほとんど岩場を登るような感じであり、雨や凍結などで足場の悪い日は危険。

『常陸国風土記』信太郡条には、

  その里の西の飯名社(いひなのやしろ)は、これはすなわち筑波岳に有るところの飯名神の別属(わかれ。分社)である。

とあり、この飯名社の本社は筑波山の南西麓に鎮座しており(祭神は保食神)、筑波山神社の里宮とされている。
旧暦夏四月一日は「筑波のお座替わり」といい、この日に筑波の山の神が山宮から里宮に下りてきて「田の神」になる、
あるいは飯名神は筑波の神の御子神であって、親神が里宮に下りる間、御子神は山宮に移るといわれていた。
飯名神という神名、そして筑波神が新嘗の行事を行っていたという伝承から、
筑波の神やその御子神は五穀豊穣を司る神であって、
その信仰圏も周辺一帯に広がっていたとみられる(現在も、筑波山周辺には稲荷社が多い)。
筑波郡が古くは「握飯(にぎりいひ)筑波の国」と呼ばれたのも、筑波の神の神徳を称えてのことだっただろうか。

筑波山へは、つくばTX駅からのシャトルバス、あるいはJR土浦駅から関東鉄道バスで筑波山口駅まで行き、そこから乗り換え、
というのがわかりやすい公共交通手段。

筑波市沼田にある、
関東鉄道バス、筑波山口(つくばさんぐち)駅。
土浦からバスで来る場合は、ここを経由して筑波山へと向かう。
廃線となった筑波鉄道筑波駅の跡地をそのまま使用しているので、
構内は細長い。

この日は曇り空だった。残念。
筑波山口駅から鳥居をくぐり、山を登っていく。
筑波山神社前でバスを降りると、目の前に朱色の大鳥居。 店や旅館の立ち並ぶ中を歩いていく。
神社前。 鳥居をくぐると神橋。
徳川三代将軍家光公の寄進。
このような太鼓橋は神の通り道であり、
通常は通ることができない。
もし通ることが可能であっても、
あえて避けてゆくのが神様に対する礼儀。
歩いてみたいのはやまやまだけど。
随神門を見上げる。
随神門。随神門も徳川家光公寄進。
門の向かって右には豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)、左には倭建命と、東国経営に携わった二人の皇子が立つ。
豊木入日子命(豊城入彦命)は第十代崇神天皇の皇子で、
『日本書紀』によれば、崇神天皇が彼とその異母弟の皇子とどちらを皇太子にするか決めかね、二人の夢をもって占うことにしたが、
豊城入彦命は御諸山(三輪山)の上で東に向かって八回鉾を振り八回太刀を振るった夢を見たので、
それにより天皇から東国の統治を命ぜられ、上毛野君・下毛野君の祖となった(それぞれ上野国・下野国。群馬県と栃木県)。
『新撰姓氏録』では、数多くの氏族がその祖としている。
ちなみに弟は、御諸山の上で四方に縄を張って粟を食べる雀を逐うという、
四方に臨んで農業を司る夢を見たことによって皇太子に定められた。そして第十一代垂仁天皇となる。
豊木入日子命は鉾を持ち、倭建命は剣を持つ。
左を見る。 右にはぶっとい大杉が立つ。
拝殿下。 左手のほうには末社・厳島神社が鎮座。
拝殿。堂々たる構え。仏堂的な造り。
そしてデカい鈴。ただし鳴らせない。
末社の日枝神社および春日神社の拝殿。
後方に日枝・春日両社の本殿が鎮座。
徳川家光公寄進。
恵美押勝(藤原仲麻呂)の子で興福寺僧の徳一大士が
筑波山知足院中禅寺を開基した際、
藤原氏の氏神である春日神、縁の深い日吉神を鎮守として
勧請したのがはじまりといわれる。
拝殿と日枝神社春日神社拝殿の間に立つ、
マルバクスの木。
クスノキの変種で、
牧野富太郎博士がこの木を調査、新種であることを発見し、
命名した。
拝殿と社務所の間を抜けていったところにある御神水の泉。 御神水脇の階段を上がっていくと、稲荷社が並んでいる。
稲荷社から拝殿を見る。 拝殿後背の深い森。
斎館、社務所、そしてその向こうに拝殿。

では筑波山に登ります
・・・ケーブルカーで

筑波山ケーブルカー・宮脇駅。
神社の向かって左手にある。
宮脇駅展望台からの眺め。
晴れていれば・・・
きた。
片道510円。
女体山のロープウェイで下りるルートの切符も売っている。
20分ごとの運行。
急斜面を登っていく。途中トンネルをくぐる。
結構ゆれる。
この中でスタンドバトルとかしたらケーブル切れそうで怖い。
着きました 駅周辺は広場。
コマ展望台、そして多くの茶屋・お土産屋が並ぶ。
西に男体山 東に女体山
近い男体山から登ることに。

下は結構ぬかるんでいる。坂は急。 凍結注意の看板。
右へ ・・・・・・・・・
ロッククライミングと申したか
凍結してなくてもかなりの注意が必要。
きたー ほかにも建物が
男体山、
筑波男大神本殿。
女体山を見る。
では女体山へ
アンテナが立っている。
かたくりの木が集中しているところ。
男体山ほどではないが、なかなか険しい。 雪が残っている。
セキレイ石。
この岩の前に茶屋があり、休憩できる。
さらに進む。 ガマ石。
筑波名物はガマの油。
こっちも岩坂きた きたー
見えているのは社務所。
神職さんが中に詰めている。山頂奉仕おつかれさまです
筑波女大神本殿。
この背後が筑波山最高点。
きたー
富士山は・・・
やっぱり見えないorz
東のほう。
本殿を後ろから。
正面の小橋は、「天浮橋」という。
頂上全景。
ホントに岩山。


もどってきたー ひといき


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