にっぽんのじんじゃ・きょうと

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*山城国

葛野〔かどの〕郡(およそ京都盆地の西部~西北部)

「カドノ」は、古くは京都盆地全域を指す地名だったが、
古くは広大な湿地帯だった京都盆地の開拓が進むにつれ京都盆地北西部の限定された地域を指すようになり、
律令制下では一郡となった。
中心は太秦、および松尾大社であり、渡来系氏族の秦氏が本拠を置き一大勢力を築いていた地域になる。

松尾大社 月読神社 衣手神社


松尾大社(まつのおたいしゃ)。

京都市西京区嵐山宮町に鎮座。
社号の「松尾」の正式な読みは「まつお」ではなく「まつのお」なので、注意。
ちなみに昔は「まつのを」で、「まつのうぉ」と発音してた。

『延喜式』神名式、山城国葛野郡二十座のうち、松尾神社(まつのをのかみのやしろ)二座〔並名神・大。月次・相嘗・新嘗〕。
有力な渡来系氏族である秦氏によって奉斎され、
その秦氏が酒造に長けていたことから「お酒の神様」として全国にあまねく知られ、酒造の守護神として各地に勧請されている。

祭神は、大山咋神ならびに中津島姫命の二座。
大山咋神は、
『古事記』では、須佐之男命の御子で五穀豊穣の神である大年神が天知迦流美豆比売(あまちかるみづひめ)を娶って生んだ御子のうち、
竈の神である奥津日子神・奥津比売命(またの名を大戸比売神)に続いて生まれた神であり、

  次に、大山咋神(おほやまくひのかみ)。またの名は、山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。
  この神は、近淡海国(ちかつあふみのくに。近江国)の日枝山(ひえのやま。比叡山)に鎮座され、
  また、葛野の松尾に鎮座されており、鳴鏑(なりかぶら)を用いる神である。

と記されている。
別名の「山末之大主」というのは「山頂の大いなる主」という意味であり、この神が山頂に鎮座していたことを示す。
この御子神は「九柱」と記され、竈神を筆頭として、
「庭津日神」「庭高津日神」という邸宅の庭にかかわる神や、「阿須波神」「波比岐神」という屋敷神・宅地境界の神、
「大土神(別名、土之御祖神)」という土地神、
そして「大山咋神」に「香山戸臣神」という山の神、そして「羽山戸神」という山麓の神からなっている。
総数は十柱になるのだが、これは男女一対不可分である竈神をあわせて一柱と数え、「九柱」としていると考えられている。
これらの神の出現によって、人が山麓の地に農耕による定住生活を営むことができるようになったことをあらわすのだろうか。
山城国で松尾社と双璧をなす賀茂社の、上賀茂の祭神・賀茂別雷命は、山城国風土記逸文においては、
賀茂氏の祖神・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと。いわゆる八咫烏)の娘・玉依姫命が、
「乙訓(おとくに)に坐す火雷命(ほのいかづちのみこと)」の丹塗矢を川で拾ったところ身ごもり、生んだとされているが、
秦氏も、秦氏の娘が川で松尾大明神の矢を拾って身ごもり、賀茂別雷命を生んだという伝承をもっていた。
秦氏が古伝承を改変して自らの伝承としたと考えられるが、
そのベースにはこの両神が同じ属性をもっていた、ということがあるのかもしれない。
すなわち、大山咋神は山神であり、雷と火の神であったということ。
御子神である上賀茂の賀茂別雷命は神名通りの雷神であり、上賀茂社北方の「神山」を神が降臨する神体山としている。
『日本書紀』には、雄略天皇が少子部蜾蠃(ちひさこべのすがる)に命じて三諸岳(三輪山)の神を捕まえて来させたところ、
蜾蠃は大蛇を捕らえてきたが、その時天皇が斎戒されなかったために大蛇は雷音を轟かせ、その眼を爛々と輝かせたので、
天皇は恐れて御覧にならず、大蛇を岳に放たせたという話があり、山の神には雷神の属性があったことがわかる。
「鳴鏑を用いる神」というのも、神がその神意をあらわすときに「カミナリ」を用いるということで、
のちにそのシンボルが「鳴鏑」とされたということかもしれない。
『日本後紀』延暦二十四年二月十日条には、
石上神宮に納められている数多くの武器を葛野郡に移送して保管しようとしたが、結局翌年には石上神宮に返納し、
社殿を造替して石上の神に謝し奉ったという事件の顛末が記されているが、
はじめ武器の移送が決定された時、それを思いとどまるようにと石上神宮社家の布留宿禰高庭が提出した解(げ。上申文書)の中に、
「近頃、(石上の)大神が頻りに鳴鏑を放ち、何の兆しかわからず村の者がみな不思議がっていたが、ほどなく武器の移送が決定された」
という一節があり、これも当時石上の山においてさかんに雷鳴が轟いており、
それを武器の移送に対する神の怒りとみなしたということだろう。
(誰かが実際にぴゅんぴゅんとマメに鏑矢を放っていたとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえもっと恐ろしいものの片鱗・・・だと思う)
竈神のすぐ下の弟神が山そして火の神であるのも、順番からしてふさわしいように思われる。

中津島姫命は、宗像三女神の一、市杵島姫命のこととされる。
これは、『先代旧事本紀』地祇本紀に、

  素戔嗚尊。
  この尊が、天照大神とともに誓約(うけひ)を行った時、
  (天照大神は)「生まれた三柱の娘は、おまえの子とせよ」と仰せになった。
  御名は、田心姫命(たこりひめのみこと)。またの名は奥津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)。
  または瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)。宗像の奥津宮に鎮座する。これは遠い瀛津嶋にいらっしゃるのである。
  次に、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。または佐依姫命(さよりひめのみこと)。
  または中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)という。宗像の中津宮に鎮座する。これは中嶋にいらっしゃるのである。
  次に、湍津嶋姫命(たぎつしまひめのみこと)。またの名は多岐都姫命(たきつひめのみこと)。
  またの名は辺津嶋姫命(へつしまひめのみこと)。宗像の辺都宮に鎮座する。これは海浜にいらっしゃるのである。

とあるのにもとづく。
筑紫の宗像大社に鎮座する宗像三女神は、
玄界灘のただ中にある沖ノ島に鎮座する「奥津宮」、海岸に近い大島に鎮座する「中津宮」、
そして海辺の田島という地に鎮座する「辺津宮」の三宮にて祀られているが、
そのうち「中津嶋」の神が松尾大社の祭神となっており、市杵島姫命のことであるとする。
『古事記』の天安河の誓約の場面では、

  天照大御神がまず建速須佐之男命のお佩きになっている十拳剣を乞い取って、三段に打ち折って、
  ゆらゆらと天の真名井に振り濯いで、ばりばりと噛み砕いて、吹き出した息吹の霧の中からお生まれになった神の御名は、
  多紀理毘売命。またの御名は奥津嶋姫命と申し上げる。
  次に市寸嶋比売命。またの御名は狭依毘売命と申し上げる。
  次に多岐都比売命〔三柱〕。

と、長女の多紀理毘売命を奥津嶋の神とし、以下同じ順となっている。
ただし、『日本書紀』の天安河の誓約の箇所やそこに収録されている一書(異伝)においては、
三女神の配列や鎮座地が異なっている。

  (本   文)田心姫、湍津姫、市杵島姫。
  (一書第一)瀛津嶋姫、湍津姫、田心姫。
  (一書第二)市杵島姫命:遠瀛に鎮座  田心姫命:中瀛に鎮座  湍津姫命:海浜に鎮座
  (一書第三)瀛津嶋姫命、別名を市杵島姫命。次に湍津姫命、次に田霧姫命。

市杵島姫命は、本文においては三女となっておそらくは辺津宮の神とされ、
三つの異伝においてはいずれも長女として奥津宮の神とされており、中津嶋の神である次女としているものはひとつもない。
現在の宗像大社では、『日本書紀』本文の記述に基づき、奥津宮に田心姫命、中津宮に湍津姫命、辺津宮に市杵島姫命を祀っている。
『先代旧事本紀』は平安中期の成立であり、記述の多くは記紀や『古語拾遺』の文章を再構成したものであるので、
三女神の配列については『古事記』をもとにしたか、あるいは当時の一般認識を記したものと考えられる。

神社の創祀は大宝元年(701)。
秦忌寸都理(はたのいみき・とり)が勅命により松尾山の麓に社殿を造営、
それまで松尾山上近くの磐座において祀られていた大山咋神を遷座し、娘を斎女として仕え奉らせたのを創祀とする。
もちろんこれは社殿祭祀における創祀であって、大山咋神の祭祀そのものはそれ以前より続けられていたとみられる。
秦氏は、中国や朝鮮から日本へと渡来・帰化した氏族のうち最大のもの。
仲哀天皇の治世に秦始皇帝三世の孫・孝武王の子である功満王が初めて来朝し、
その子の融通王、またの名を弓月王は応神天皇十四年に来朝し、百二十七県の民を率いて帰化したという。
秦始皇帝は紀元前3世紀の人で、その四世の孫が仲哀天皇の治世に来朝するというのは時代的に合わず、
そのために「三世」は「十三世」もしくは「二十三世」の誤りともいわれるが、
そうであるとしても、『史記』によれば秦王朝三世の秦王子嬰は一族もろとも項羽に殺されたとされており、
それ以前の二世皇帝胡亥の時にも宦官・趙高の謀略によって始皇帝の公子が大量に殺害されているので、
秦王朝の直系が後世に残っているとは考えられず、一族であったとしてもかなり傍流の出であったと思われる。
『三国志』「魏書」の「烏丸鮮卑東夷伝第三十」の「韓」の条には、

  (前略)
  辰韓(朝鮮半島南東部。のちの新羅の版図)は馬韓(朝鮮半島南西部。のちの百済の版図)の東方にある。
  辰韓の老人は代々こう言い伝えてきている。
  「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきた者がおり、馬韓が、東部の地域を割いてその人々に与えた。
  それが我々である」
  辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を「邦」といい、弓を「弧」といい、賊を「寇」といい、
  酒を杯に注いですすめることを「行觴」という。お互いを呼び合うには「徒」という。
  これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕や斉の物の名称が伝わったのではないことを示している。
  (中略)今、辰韓を秦韓と呼ぶ者もいる。(後略)

とあり、辰韓の人々は朝鮮の直近である燕や斉のものとは違う中国の文化を保持していた。
彼等がまた日本へと渡ってきたのが秦氏なのだろうか。
ちなみに、この「烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭人」の条が、いわゆる「魏志倭人伝」。


仁徳天皇は彼ら秦氏を国々に分け置いて、その先々で蚕を飼わせ、絹を織って奉らせた。
その後、秦氏は細分化されたことで一族としての力が衰微していったので、
第二十一代雄略天皇は各地の秦氏を集めて秦公酒(はたのきみ・さけ)に与え、糸・綿・絹を織らせたところ、
それらは庭を埋めて山のように積み上がったので、天皇は「宇豆麻佐(うづまさ。太秦)」という姓を賜った。
また、大蔵を造って秦氏にその出納を任せた。

秦氏は、先に葛野の地を開拓定住していた賀茂氏と密接な交流をもったようで、
賀茂祭と松尾祭はほぼ同時に行われており、賀茂祭においては松尾社でも行事が行われていた。
そのため、時代が下ると上賀茂社祭神である賀茂別雷命の生誕について、
山城国風土記逸文では「賀茂氏の祖神・賀茂建角身命の娘の玉依姫命が乙訓に坐す火雷神の矢を拾って身ごもり、生んだ」としているのを、
『秦氏本系帳』が引く伝承では、「秦氏の娘が松尾神の丹塗矢を拾って身ごもり、生んだ」とし、
「賀茂氏は秦氏の婿である」とまで言っている。
能の『賀茂』でもその説が踏襲されており、
そのためか、もし賀茂社で『賀茂』を演ずれば、演者は雷に撃たれて死ぬと言い伝えられている。

平安後期になり、財政的に全国の官社への定期的な班幣が不可能となった時、
畿内の特定の神社に定期的な奉幣が行われるようになり、これをその数から「二十二社」と呼ぶが、
賀茂・松尾の両明神は「上七社」に列し、
「賀茂の厳神、松尾の猛霊」
と並び称され、王城の守護神として高い崇敬を集めた。


四条通と県道29号線が出逢う交差点に大鳥居があり、
そこから自動車通行可能な石畳の参道。
鳥居前。

鳥居から榊の小枝の束が十二束、ぶら下げられている。
これは「脇勧請(わきかんじょう)」といって鳥居の原初形態であり、
月々の農作物の出来具合を占った太古の風俗を伝えるものとされる、とのこと。

通常は十二束だが、閏年は十三本下げる。
旧暦は「太陰太陽暦」であり、基本的には月齢ベースで暦を進め、太陽との運行とのズレを調整するために「閏年」を設けるが、
太陽暦の閏年が「2月29日」の「一日」を加えるのに対して、旧暦では「閏月」といっていずれかの月をもう一度繰り返し、
一年を「十三か月」として太陽の運行とのズレを調整している。
なお、イスラームでは完全な太陰暦であるヒジュラ暦(紀元は西暦622年にあたる)を用いており、
太陽暦と合わせることをせず月齢ベースでどんどんつき進んでいるので太陽暦であるグレゴリオ暦よりも年月の進みが速く、
現在のズレはとてつもないものになっている(西暦622年を起点として、43年ほど先に進んでいる)。
ただし、太陰暦は農耕のサイクルとは合わないため、イスラームの国でも太陽暦を採用しているところがある。
鳥居をくぐって左側に、「川渡しの御船」および「駕輿丁船」が収められている。
松尾大社の例祭においては「松尾七社」の神幸が行われ、六基の神輿と月読社の唐櫃が氏子区域内を巡幸されるが、
この時、桂離宮東の桂川において船渡御が行われる。
月読社の唐櫃をはじめに六基の神輿が次々に桂川を渡り、
月読社・四之社・宗像社・櫟谷社・大宮社は西七条御旅所へ、
三宮社は三宮社御旅所へ、衣手社は衣手社御旅所へと渡御される。
また、還幸祭においては朱雀御旅所(松尾総神社)へと神輿が立ち寄る。

神輿を乗せる御船一隻、神輿を担ぐ駕輿丁らが乗る駕輿丁船二隻。

この向こうには、「お酒の資料館」がある。
楼門。

門を守る随神の前には、
願い事を記した数多くのしゃもじが懸けられている。
楼門をくぐり橋を渡ると、右手に手水舎がある。
亀が水を吐いている。
松尾大社の神使は亀と鯉であり、
境内のいたるところにその姿がみられる。
この水盤は京の造り酒屋の奉納らしい。
この燈籠は大坂は天満酒造からの奉献。
この常夜燈は勢州、
つまり伊勢国の酒屋からの奉献。
お酒の神様だけあって、
各地の酒造からの奉献がものすごい。
松尾大社拝殿。

もともと、祭祀は本殿の前の庭上、つまり屋外で行われるものであり、
雨天の時のため便宜的に設けられるようになったのが拝殿。
そのため、拝殿は通常の祭典の邪魔にならないよう、本殿から離れたところに設けられていた。
そのうち、拝殿内で祭祀を行うことが一般化したため本殿と拝殿は近接するようになり、
現在では本殿と拝殿が接続する形式が一般的になっている。
松尾大社本殿。その前には釣殿・中門が続き、回廊が周囲を囲む。
本殿は応永四年(1397)に造営、天文十一年(1542)に大修造を施したものと伝えられる。
両流造という特殊な造りの社殿で、「松尾造」とも呼ばれる形式。
二座を祀るため、正面が四間の造りとなっているのも一般とは異なるところ。
国指定重要文化財。

釣殿・中門・回廊および拝殿・楼門は江戸時代初期の造営。
本殿と、その向かって右手の神饌殿との渡り廊下の下をくぐり、御手洗川を渡っていった先に鎮座する、
三宮社(さんのみやしゃ)および四大神社(しのおおかみのやしろ)。
ともに「松尾七社」の一。

三宮社は玉依姫命を祀る。
玉依姫命は下鴨社の祭神で、賀茂氏の祖であり「八咫烏」である賀茂建角身命の姫神。
松尾大神の丹塗矢に触れて身ごもり、上賀茂社の祭神である賀茂別雷命を生んだとされる。
山城国風土記逸文によれば、玉依姫命を身ごもらせた賀茂別雷命の父は「乙訓に鎮座する火雷神」とされているが、
『秦氏本系帳』に記す伝承によれば「秦氏の娘が松尾神の丹塗矢を手にして身ごもった」となり、
やがて「秦氏の娘」が玉依姫命と同一視されるに至ったもののようだ。
これは民間にも広く流布した説で、能の『賀茂』にもその設定が取り入れられているが、
やはり賀茂社を管掌する賀茂氏には受け入れがたい説であったようで、
『賀茂』を賀茂社で演じると、賀茂の神の祟りにより雷が落ち演者は死ぬと言い伝えられている。


四大神社は、
春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神の四季の神を祀る。
『古事記』によれば、
大山咋神の兄弟神である羽山戸神の御子に、
若山咋神・若年神・妹若沙那比売神・弥豆麻岐神・夏高津日神・秋毘売神・久々年神・久々紀若室葛根神の八柱がおり、
これにもとづく神々だろう。
これらの神はその御名に農耕のサイクルがあらわされており、
その誕生によって、葦原中国が定期的な農耕を行うことが可能な地になったことを示す。
この八柱の神々の出現の直後、
「天照大御神の命以ちて・・・」
と、接続詞も何もない唐突ともいえる書き出しで天照大御神が天孫降臨の号令を発し、
天照大御神の御子で稲の神霊である天忍穂耳命(最終的にはその御子である天孫・邇々芸命)が天降ることとなる。


この社殿の手前には霊水である「亀ノ井」があり、参拝者が次々ひっきりなしに水を汲んでいた。
ので、写真が撮れなかった。
酒の醸造の際にこの水を加えると酒が腐らないといわれており、杜氏さんはこの水を酒の元水に混ぜて用いる。
右手奥に見える鳥居は、当初鎮座地といわれる松尾山(別雷山)山上の磐座登拝道の鳥居。
もちろん磐座へ登るには神社の許可が必要であり、勝手に登るなどもってのほか。
三宮社・四大神社の左手奥、
御手洗川が流れ落ちる「霊亀の滝」の瀬に祀られる、
滝御前社。
祭神は、水神である罔象女神(みづはのめのかみ)。
本殿南の末社。
向かって右から、衣手社、一挙社、金刀比羅社、祖霊社。
衣手社は「松尾七社」の一。

衣手社の祭神は羽山戸神。
『古事記』によれば、須佐之男命の御子である大年神が天知迦流美豆比売(あまちかるみづひめ)を娶って生んだ神であり、
大山咋神の弟神になる。
神名の「ハヤマト」は「端山」の「戸」、つまり山麓の神と解釈されているが、この社では「衣手神」とされている。
『古語拾遺』には、

  昔、白羽神(しらはのかみ)が麻を植えた。これにより俗に衣服を「白羽」という。

とあることから、羽山戸神と白羽神が混同されて衣服の神となったのではないか、といわれている。
『日本書紀』には、日本の古い織物である「倭文(しつおり)」の神の名を「建葉槌命(たけはつちのみこと)」としており、
これも神名に「ハ」を含むので、古語では「ハ」が衣服もしくは織物を指していたと思われる。

一挙社の祭神は一挙神。
なんの神であるかわからないようで、神社においても「素戔嗚尊の別名か」としている。
どんな困難でもこの神に祈れば一挙解決、らしい。

金刀比羅社の祭神は大物主神。
大国主神の和魂とされ、奈良県の大神神社で祀られる。
金刀比羅社自体は香川県の金刀比羅宮の勧請であり、
薬師十二神将の筆頭である宮比羅(金毘羅)大将と大物主神が習合したもの。
宮比羅大将はサンスクリット語では「クンビーラ」といい、別名を「マカラ」というガンジス川のワニを神格化した水神で、
日本にはワニがいないために蛇形とされた。
大物主神も蛇の姿で顕現するとされ、また記紀には「海を照らして渡ってきた神」であると記されており、
属性の類似から習合されたようだ。
海上交通安全の神、そこから漁業守護以下えべっさんと同じような経過で商売繁盛の神様として信仰される。

祖霊社は、松尾社社家など神社ゆかりの功労者をお祀りしている。

『都名所図会』では、本殿南には三宮社、大日堂、十禅寺社、舎利殿などの建物が記されている。
授与所前。

樽うらない!
そういうのもあるのか!

奥の建物は神輿庫。
境内北の参集殿。
「松風宛三庭」拝観の受付所にもなっている。
松風宛三庭は故・重森三玲氏が昭和50年に完成させた昭和を代表する現代庭園で、
上古の神祭の形式である磐座・磐境を模した石庭「上古の庭」、
平安貴族の曲水の宴を現代風に表現した「曲水の庭」、
鎌倉時代に流行した蓬莱思想にもとづき、当時の様式である回遊式庭園の中に仙界を表現した「蓬莱の庭」の三庭。
なお、この拝観料で、松尾大社に伝わる御神像を収めた「神像館」、
および「お酒の資料館」に入館することができる。
駐車場には、車祓所がある。
また、電気自動車の充電コンセントも設置されていた。
さらに南には、神様へのお供えに供する米を栽培する神饌田や、奉納相撲を行う土俵がある。




月読(つきよみ)神社

京都市西京区松室山添町に鎮座。

『延喜式』神名式、山城国葛野郡二十座の一、葛野坐月読神社(かどのにいますつきよみのかみのやしろ)〔名神・大。月次・新嘗〕。
葛野郡二十座の筆頭に記されている、古くから高い崇敬を受けていた月神の社。
現在は松尾大社の境外摂社となっている。

『日本書紀』顕宗天皇三年(487)二月一日条に、

  阿閉臣事代(あへのおみ・ことしろ)は命を受けて、任那(みまな。朝鮮半島南端部)に使者として遣わされた。
  この時、月神が人に憑依して語って仰せになるには、
  「わが祖、高皇産霊(たかみむすひ)は、天地を創造するにかかわって功績があった。
  民の土地をもってわれ月神に奉れ。もし請うままにわたしに奉れば、かならず福慶があるだろう」
  と仰せになった。
  このため、事代は都に還るとつぶさに奏上し、歌荒樔田(うたあらすだ)を奉った〔歌荒樔田は、山背国葛野郡にある〕。
  壱岐県主(いきのあがたぬし)の遠祖・押見宿禰(おしみのすくね)が祠に仕えた。

と、その創祀が記されている。
『延喜式』神名式、壱岐島壱岐郡十二座のうちに「月読神社〔名神・大〕」および「高御祖神社」の名があり、
この月読神社を山城国に勧請し、壱岐氏も山城国に移住してその祭祀に仕え奉った、ということになる。
壱岐氏は壱岐島の豪族で、天児屋根命の子孫である中臣氏の中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ。雷大臣とも)の子孫とされ、
卜をもって占いを行う技能者が多く、律令制下においては壱岐・対馬・伊豆より選抜された卜者が「卜部(うらべ)」として神祇官で働いていた。

この記事の少し後に、今度は日神が人に憑依して阿閉臣事代に「磐余の田をわが祖・高皇産霊に奉れ」と仰せになったので、
事代はまたこれを奏上して神に田を奉り、対馬の下県直(しもつあがたのあたひ)が祠に仕えた、
という、大和国十市郡に鎮座する目原坐高御魂神社(めはらにいますたかみむすひのかみのやしろ)の創祀記事があるが、
これも『延喜式』神名式、対馬島下県郡十三座のうち「高御魂神社〔名神・大〕」および「阿麻弖留神社(あまてるのかみのやしろ)」に関わるもので、
高御魂神社を対馬下県から大和へ勧請し、下県氏も移住して祭祀をつかさどったものと考えられている。
壱岐氏・対馬氏が朝鮮半島との通交および卜の技術をもって朝廷内に確固たる位置を占めていったことが、
このエピソードにあらわされているということだろうか。
また、当時としては中央よりやや離れた地であった山背国への勧請には、
その当時山城国に大きく勢力を張っていた渡来系氏族・秦氏の存在が大きかったとみられている。

月神に奉られた「歌荒樔田」とは「“うた”という地にある“あらす”という名の田」ということであり、
「あらす」とは「生(あ)ラス」、お生まれになるの意で、神の生まれる田、神田の意かといわれている。
「うた」とは、現在の右京区宇多野のことと考えられており、京都盆地北西部、おおむね仁和寺より西の一帯。
『続日本紀』大宝元年(701)四月三日条に、

  勅。山背国葛野郡の月読神、樺井神、木島神、波都賀志神等の神稲は、これより以後、中臣氏に給付せよ。
    (*葛野郡月読神=当社、樺井神=樺井月神社、木島神=木島坐天照御魂神社、波都賀志神=羽束師坐高御産日神社)

という記事があって、これらの神社の神田からの収入が中臣氏の給料に充てられたことがみえ、
壱岐氏と中臣氏の深い結びつきがうかがえる。
『文徳天皇実録』斉衡三年(856)三月十五日条に、

  山城国葛野郡の月読社を移して、松尾の南の山に置いた。
  社の近くの河浜が水によって浸食されたため、移したのである。

と、社地が水害に遭ったために現在地へ遷座したという記録がある。
『山城名勝志』(宝永二年、1705)が引く山城国風土記逸文には、

  山城の風土記にいう。
  月読尊が天照大神の勅を受けて豊葦原の中つ国に降り、保食神のもとにおいでになった。
  その時、一本の湯津桂(ゆつかつら。神聖な桂)の樹があった。そこで月読神はその樹に依ってお立ちになった。
  その樹のあったところを、今も桂の里と名づけている。

この伝承は、『日本書紀』においては、

  天照大神が弟の月読尊に、
  「葦原中国に保食神という神がいるが、その様子を見てきなさい」
  と命じ、月読尊が降って行ったところ、保食神は月読尊をもてなすために食事を出したが、
  山を向けばその口から山の産物が出、海を向けばその口から海の産物が出た。
  そこで月読尊はこれを汚らわしいとして保食神を剣で斬り殺した。
  この事を聞いた天照大神は大いに怒り、「おまえは悪い神だ。おまえとはもう会いたくない」と言って、
  弟とは一日一夜を隔てて住むことになった。(*昼夜の別の起源)
  天照大神が別の神に保食神を見にやらせたところ、その亡骸からは五穀が生まれていた。
  そこで天照大神はそれらを取らせ、天の田畑に播いて増やした。

という形で収録されている。
中国には「月の中に桂の樹が生えている」という伝説があり、旧暦八月を「桂月」ともいうように、
月と桂とは古来深いつながりがあるとされていた。
この伝承が月読社の鎮座の由来であるのか、あるいは鎮座後に生まれた所伝であるのかは定かではないが、
少なくとも月読社ももとは桂の里、もしくはそれに近い土地に鎮座していたと思われる。

『日本三代実録』によれば、三年後の貞観元年(859)正月二十七日の267社神階昇叙記事において、
平野神社の祭神四柱の一である今木神とともに正二位を授けられている。
また、同年九月八日には、風雨を祈るために奉幣のあった京畿の神々の筆頭に名がみえる。
このようにもともとは独立した神社であり、山城国の月神といえばまずこの社、というネームバリューを持っていたが、
松尾社の近隣に遷座して以降は松尾社の勢威増大とともにその摂社という位置づけとなり、
「松尾七社」の一に数えられるようになった。

松尾大社から南へしばらく歩いていったところに鎮座している。
周辺の道路も狭く、幹線道路からも少し離れているので、一般の参拝者は少ない。

社の前。
周囲は閑静な住宅街となっている。

神門前より、境内の風景。
左に拝殿、右奥に本殿。
参道の直線上に社殿はなく、本殿の中心線と参道の線とはズレている。
これは、参拝を終えた人が神前に真っ直ぐ背を向けたまま帰るという非礼を防ぐためといわれている。
拝殿。
太鼓や金幣が置かれており、
祭典や通常の祈願などはここで行う。
古来、安産守護の神様としての信仰があることから、
いわゆる「戌の日」のお参りが多いようだ。
本殿。
文字通り山の麓に建っており、森厳な雰囲気がある。
本殿の向かって右手に鎮座する聖徳太子社と、「むすびの木」。
聖徳太子社はもちろん聖徳太子を祀っており、学問の神として崇敬されている。
太子は山城国を巡行されたことがあり、葛野の地に広隆寺を創建し秦河勝に賜われるなど、葛野郡や秦氏には縁が深い。

「むすびの木」の下には大石があり、その上に「月延石(つきのべいし)」がある。
神功皇后が新羅遠征を行った際、折しも臨月に当たっていたため、
出産を遅らせるために二つの霊石を裳の腰に差して出征され、帰還して無事に皇子(第十五代応神天皇)を出産されたが、
この石を「鎮懐石」といい、この石の伝承は記紀や筑前国風土記逸文をはじめとして九州北部に広く分布している。
当社のこの月延石も、筑前国伊都県に人を遣わして求めさせたものであると伝えられており、
子授け・安産祈願の石として、その周囲には願文を記した数多くの白石が奉納されている。
古来、お産は月の満ち欠けと密接な関係があると信じられていたことから、
月神を祀る当社にも安産祈願の信仰が生まれ、それを補強する意味でいつからか「月延石」が導入されたということになるだろうか。
本殿の裏手には「願掛け陰陽石」があり、向かって左には御船社(おふねしゃ)が鎮座する。
御船社の祭神は天鳥船神(あまのとりふねのかみ)で、水上交通の守護神として祀られており、
松尾大社の例祭においては桂川を神輿が渡るため、この社にて渡御の安全が祈られる。

境内の南端には「解穢(かいわい)の水」が湧き出ている。
自己の穢れを解く霊水とのことだが、「飲用ではありません」との但し書きがある。
完全な自然水なので、口にする場合は自己責任ということなのだろう。

衣手(ころもで)神社

京都市右京区西京極東衣手町に鎮座する、松尾大社の境外末社。
松尾大社の例祭においては「松尾七社」の六基の神輿および月読社の唐櫃が渡御するが、
そのうち、衣手社の神輿の御旅所となる。

祭神は玉依姫命と羽山戸神の二柱。
鎮座当初より玉依姫命を奉斎して「三ノ宮社」と称していたが、
明治八年、松尾大社の境内社である衣手社の神輿御旅所と定められたことから衣手社の祭神・羽山戸神を合祀し、
明治十一年に「衣手神社」と改称している。ややこしい。
玉依姫命は下鴨社の主祭神の一であり、松尾の神の丹塗矢によって上賀茂社の神・賀茂別雷命を生んだとされる。
羽山戸神は、素戔嗚尊の子である五穀豊穣の神・大年神の子で、大山咋神の弟神。

衣手神社社叢。
周囲は住宅街となっている。
鳥居前。
鳥居の扁額は旧社号の「三ノ宮」となっている。
社号標には、「三ノ宮社衣手社」と、旧社号と現社号とを併記している。
この標柱は戦前に建てられたようで、松尾大社は当時の社号「松尾神社」となっており、
また、政府の定めた松尾神社の社格「官幣大社」が戦後の政教分離政策によって廃止されたため、
「官幣大」の字が埋められている。

鳥居左には、「歌枕・衣手杜」の碑が立っている。
京の衣手杜(ころもでのもり)は数多くの歌に詠まれた歌枕。
江戸時代に刊行された『都名所図会』の「衣手の杜」の条には、
「昔は松尾の東にあったが、洪水に流されて樹木がなくなり河原となった。
衣手社は松尾の境内にある」
とあって、当時衣手の杜はすでになく、
現在の西京極衣手四町(東町・西町・南町・北町)付近の桂川左岸がその故地とされていたようだ。
文献によれば、江戸時代には松尾大社の南の森が「衣手の杜」と呼ばれていた。
衣手杜を詠んだ歌の中には「からくれなゐ」という言葉がよく見られるので、
紅葉の美しい森であったと思われる。
「三宮社が衣手社の御旅所になる」というややこしいことになったのも、
この辺りが「衣手の杜」の故地であり、ひいては「衣手社」の故地であると考えられたからだろう。
参道を進むと、朱色の鳥居。
くぐって右手に松尾大社衣手社御旅所、
正面に衣手神社拝殿、本殿、および末社群が鎮座する。
衣手社御旅所。
松尾神社例祭の神幸においては、
「松尾七社」のうち衣手社の神輿の御旅所となり、
神輿がこの中にしばし鎮座される。
衣手社拝殿、本殿および末社。
本社および南北に鎮座する末社。
境内の掲示板には、境内社として、

野宮社(祭神:天照大御神)
八王子社(祭神:素戔嗚尊の御子神)
諏訪社(祭神:建御名方神)
幸神社(祭神:道祖神)
山王社(祭神:日吉神)

が挙げられている。
「野宮社」は、伊勢斎王の潔斎の宮にもとづく社。
伊勢神宮の天照大神に仕える皇族の女性(内親王もしくは女王)、いわゆる「斎王」は、
伊勢国での住居である「斎宮」に赴く前、まず宮中の便宜の場所で一年間潔斎を行い(これを「初斎院」という)、
そののち京外の清らかな場所を卜定して「野宮」を建て、さらにそこで一年間潔斎を行い、それから伊勢に向かっていた。
平安京遷都後の野宮は嵯峨野に置かれており、斎王制の廃絶後、その跡地とされる場所に野宮神社が鎮座している。
松尾大社の神使が亀と鯉であるので、
手水舎には亀が。
境内に置かれている道標。
「右 松尾・梅の宮」
「左 郡 衣手森・かつらみち」
と記されている。

「郡」とは、この一帯の字(あざ)の名(現在の西京極郡町)。
神社境内に道標を立てることはないので、
もとは付近の道路の辻に立っていたのを、
道路開発に伴ってこの境内に移設したものだろう。



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