これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
*山城国
愛宕〔おたぎ〕郡(京都市北区、左京区の大部分)
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貴船神社 | 鞍馬寺 |
京都市左京区鞍馬貴船町鎮座。
叡山電鉄出町柳駅から鞍馬線で山を登って行き、貴船口駅が最寄りの駅になる。
『延喜式』神名式、山背国愛宕郡二十一座の一、貴布禰神社。名神大、月次・新嘗。
律令制下における国家祭祀においては、
特に霊験ある神社として、国家の大事に際して臨時に斎行される「名神祭(みょうじんのまつり)」にて祭られる「名神」に指定され、
五穀豊穣を祈って2月に行われる「祈年祭(としごひのまつり)」のみならず、
6月・12月の「月次祭(つきなみのまつり)」、
そして11月下卯の日に行われる新穀感謝の「新嘗祭(にひなめのまつり)」においても朝廷より幣帛が頒布される社だった。
また、祈雨・止雨のために行われる臨時祭「祈雨神祭(あまごひのかみのまつり)」で幣帛を受ける八十五社の一にも指定。
平安後期、財政難のために全国の官社(祈年祭において国家の幣帛を頒布するよう定められた神社)への班幣が不可能になった時には、
国家が恒例の幣帛を奉るよう定めた京畿の有力神社である「二十二社」の一に数えられ、古来高く崇敬された神社だった。
祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。
「おかみ」という言葉に当てられている漢字の中に「雨」「龍」とみられるとおり、雨を司る龍(蛇)体の水神。
ゆえに祈雨神として信仰されていた。
『延喜式』臨時祭式の祈雨神祭幣帛条には、
丹生川上社(にうのかはかみのやしろ)・貴布禰社(きふねのやしろ)には、各々黒毛馬一疋(ひき)を加えよ。
と、大和国吉野の丹生川上神社とこの貴布禰神社には通常の幣帛に加えて特に黒毛馬一頭が奉られていたと記されており、
祈雨神の中でも代表的な神であるとみなされていた。
『日本三代実録』貞観八年七月十四日条には、七社へ祈雨の班幣をして雨が降ったため、
勅使を遣わして感謝の意を奏上したという記事が収録されている。
幣を賀茂御祖・別雷、松尾、丹生川上、稲荷(*伏見稲荷)、水主(*山城国久世郡鎮座)、貴布禰神に班(わか)った。
御前に賽(ささ)げて毎日祈ると、それとともに恵みの雨が降った。
告文に言うことには、 (*告文:勅使の奏上する、天皇の詔としての祝詞。このときの勅使は散位・従五位下の大中臣朝臣国雄)
天皇(すめらみこと)が詔旨(おほみこと)らまと、掛けまくも畏き松尾大神の広前に恐み恐みも申し給はくと申さく。
不慮之外(おもはざるのほか)に天下(あめのした)に有旱(ひでりあり)て、農稼(たなつもの)枯れ損なはれぬ。
因りて、掛けまくも畏き大神を憑(たの)み奉りて、大幣帛(おほみてくら)出し奉り給はむと祈(の)み申しき。
しかるに、祈み申しも験(しる)く、甘雨零(ふ)らしめ賜へり。
因りて歓びながら、散位従五位下大中臣朝臣国雄を差し遣わして、大幣帛を捧げ持たしめて出だし奉り賜ふ。
此の状(さま)を平けく聞こし食(め)して、今も今も風雨調和(なご)め給ひ、
五(いつくさのたなつもの)を豊登(ゆたかにみのらし)め賜ひ、天下(あめのした)饒足(にぎびたらはし)め賜ひ、
天皇朝廷(すめらがみかど)を、宝祚(あまつひつぎ)の無動(ゆるぐことな)く、
常磐(ときは)に堅磐(かちは、かきは)に、夜の守り日の守りに護り幸(さき)はへ奉り賜へと申し給はくと申す。
その他の社への告文はみな同じ。 (*神名を入れ替えるだけで、文面は同じということ)
現在、全国各地に鎮座している数多くの貴船神社はここよりの勧請であり、総本社という位置づけになる。
(ただし、寺のように総本山―末寺という支配関係ではない。
神社はいずれかの社の摂末社でない限り、規模の大小を問わず各々独立し、氏子によって奉斎される)
本宮と奥宮からなり、本宮が現鎮座地、奥宮が旧鎮座地。
奥宮の地は度々水害に遭ったため、天喜3年(1055)に現鎮座地に遷ったと伝えられる。
創祀は不明だが、社伝では第十八代反正天皇治世のこととする。
難波津に玉依姫(たまよりひめ)と称する船に乗った神が出現し、この船のとどまるところに社殿を建ててその地の神を祀れと託宣した。
その船は淀川、鴨川を遡って奥宮付近の泉に留まったため、その地に社殿を建てて神を祀ったのがはじまりという。
この玉依姫という神は、海神・大綿津見神の娘で、神武天皇の母君であるところの神。
天武天皇もしくは持統天皇治世の白鳳六年に社殿造替をおこなったとの伝があり、古くから社殿祭祀を行っていたようだ。
いつのころからか賀茂別雷神社(上賀茂社)の摂社のような位置づけとなり、長らく賀茂社より支配されていたが、
近世になって独立運動が起こり、明治になって独立した。
もともとは祈雨・止雨の神だったが、古来一般の願掛けも多く、心願成就の神様としても有名。
もっとも、謡曲「鉄輪」などにより「丑の刻参り」、呪詛神として広く知られてしまってはいるけれど。五寸釘と藁人形で願掛けします。
また、和泉式部のエピソードなどで「縁結びの神様」としても有名で、境内にはカップルの姿が多い。ていうかほぼカップル。
ひとり参拝はなんとなく肩身が狭いので注意。
この神社のおみくじは、祭神が水の神様ということで、水に浮かべると文字が浮かび上がる「水占(みずうら)みくじ」という珍しいもの。
貴船神社本宮、二の鳥居前。 (一の鳥居は貴船口駅前にある) ほとんどカップルか家族連れ、 ひとりで参拝する人もだいたい女性。 石段両側に立ち並ぶ、 朱色の春日灯篭が美しい。 |
本宮拝殿前。 本宮境内は洪水の影響を受けない川沿いの高台で、それほど広くない。 木々の色づきは不完全とはいえ、いい雰囲気。 |
ご神木の桂の木。 | 川沿いで、空気も涼やか。 |
さらに川上へ。奥宮を目指す。 |
和泉式部歌碑。 平安期の代表的な歌人である和泉式部が夫としばらく疎遠となり、 思い悩んで貴布禰神社に参拝したときのこと。 貴布禰神社への祈願は夜がよいとされていたので彼女も夜半に参拝したが、 そのとき淡い光を発しつつ川の上を乱れ飛ぶ蛍たちを見て、 もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞ見る (思い悩んでいると、沢に群れ飛ぶ蛍の光もわが身から抜け出した魂ではないかと見える) と詠んだ。 するとその時彼女の耳に、男の声による返歌が聞こえてきた。 おく山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかりものな思ひそ (奥山に激しく流れ落ちる滝の水しぶきが玉となって飛び散る、そのように、 魂が散ってしまうほどまでに思い悩むのではないよ) (*「玉」が水飛沫の「水玉」と「魂」をかけている) 和泉式部は、これは貴布禰明神が自分の歌に対して詠まれた歌であると信じた。 そしてその後ほどなく夫婦の仲は元に戻ったという。 この二つの歌は『後拾遺和歌集』に収録されている。 この奥に中宮、別名結社(ゆいのやしろ)が鎮座し、 磐長姫命(いわながひめのみこと)が祀られている。 磐長姫命は山の神・大山祇(おおやまつみ)の娘で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉。 天孫・瓊瓊杵尊に姉妹とも奉られたが、瓊瓊杵尊は容貌の醜い磐長姫命を返してしまった。 磐長姫命はこれを恥じ、人々に良縁を授けることを誓ってこの地に鎮まった、という。 縁結びの神様である。 本宮、奥宮と参拝し、最後に中宮へ参拝するのがならわし。 |
結社と奥宮の間に立つ相生の大杉。 | |
綺麗どすなあ | 風流どすなあ。 川沿いには料亭・旅館・茶屋が立ち並ぶ。 |
「思ひ川」と「思ひ川橋」。 もとは参拝者がこの川で禊をしてから参拝したと思われ、 「御物忌川(おものいみかわ)」と呼ばれていたのが、 和泉式部のエピソードによって「おもひかわ」に変わった、 といわれている。ここより奥宮参道。 |
奥宮参道。 |
奥宮拝殿と本殿。 本宮から500mほど北に鎮座。 古びた社殿は文久三年(1863)造営のもの。 このあたりは貴船の谷のもっとも低いところでたびたび水害に遭ったため、 前述の通り現在の本宮の位置に遷座した。 しかし創祀の場所ということで、この地での祭りも継続して今に至る。 いわゆる「丑の刻参り」の舞台であり、かつては境内に五寸釘と藁人形が見られたが、 現在は、もしあれば撤去されている。 また、本殿内には「龍穴」があるといわれる。 ここでひとやすみする人々が多かった。 呪詛とか思いもよらない、のんびりした雰囲気。 |
奥宮周辺の紅葉。 | 奥宮境内の、たしか連理の杉。 |
また二の鳥居前まで戻ってきた。 春日灯篭ずらーり。 |
立ち並ぶ店。 |
貴船川。 | 貴船口駅。 貴船神社へはここが最寄駅。 鞍馬寺にもお参りするなら、終点の鞍馬駅で降りて、 鞍馬寺から行った方が体力的精神的に楽。 |
京都市左京区鞍馬本町にある。
叡山電鉄出町柳から鞍馬線で鞍馬駅(終点)が最寄り。
鞍馬寺は、その創建にはいろいろな伝があるが、
延暦十五年(796)、造東寺長官(東寺建立の長官)の藤原伊勢人が貴布禰神の霊夢により、
すでにその地にあった毘沙門天の小堂に観音菩薩像をあわせて安置した、という話が『扶桑略記』『今昔物語集』などに見える。
初期は真言宗、そののち改宗して長らく天台宗だったが、
戦後にどうしたわけかブラヴァツキー夫人の神智学的世界観を取り入れ、「鞍馬弘教」という宗派を立てて天台宗から独立している。
魔王尊が650万年前に金星から来た、などのトンデモ設定の数々はこのときできたもの。
その創建は素朴だが、現在はなかなかカオスなスポットになっている。
鞍馬の険しい山中には天狗が住んでいるとされ、若き日の源義経が山中で武芸や兵法を学んだという伝説は有名。
幕末では「鞍馬天狗」とか。フィクションだけど。
もっとも、鞍馬の山中はかなり険しく、足元も悪いので、
こういう所でがっつり修行したら八艘跳びくらいできるようになるんじゃないか、と思ってしまう。
車窓の風景。 まずは鞍馬寺から。終点の鞍馬駅で降りる。 門前は地元の名産品や天狗グッズの店でにぎわっていた。 |
仁王門。 ここから山をえんえんと登っていくことになる。 |
由岐(ゆき)神社。 天慶三年(940)に京の北方鎮護として京中より遷座した。 大己貴命・少彦名命の国作りコンビの二柱を祀る。 祭神がこの地に遷宮した際、地元の民が松明をもって出迎えたという故事にもとづく、 「鞍馬の火祭り」で有名。 現在の拝殿・本殿は豊臣秀頼が建てたもので、拝殿は国の重要文化財に指定。 この先から参道はつづら折に。 |
のぼるー 清少納言が『枕草子』で「近うて遠きもの」として挙げているのが、 この「九十九折(つづらおり)」。 |
石段を上ってゆく。 この上に金堂などの主要施設が建ち並ぶ。 見える建物は休憩所か何か。 |
与謝野晶子の書斎、冬柏亭。 鞍馬弘教を開宗した信楽香雲は与謝野門下の歌人であり、 その縁で霊宝殿前に移築されている。 |
山越えで貴船神社方面へ向かう。 |
木の根道。 岩盤が地表近くまできているために根が地中に入ることができず、 地上に露出している。 義経が足場の悪いここで武芸の修練に励んだといわれる。 |
さらに進み、奥の院・魔王殿を過ぎると、急激な下り道となる。 足腰にあるていど自信がないと、相当つらい。 山を下りて鞍馬寺西門を出、 川を渡るとすぐ川上に貴船神社が鎮座している。 |