にっぽんのじんじゃ・きょうと

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*山城国

宇治郡(京都市南東部、宇治市):

宇治という地名は、『詞林采葉抄』が引く山城国風土記逸文に、

  宇治というのは、
  軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)にて天下をお治めになった天皇(*第十五代応神天皇)の子、
  宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)が、桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)を造って宮室(おほみや)となされた。
  それで、その御名によって宇治と名づけた。もとの名は許乃国(このくに)という。

とあり、皇位の譲り合いの中、みずから命を絶たれた悲劇の皇子・菟道稚郎子の御名にもとづくとされ、
それまでは「コ」という名の国であったという。
大和と山背・近江をつなぐ交通の要所であり、渡河の難所である宇治川があることから、
古来多くの戦いの舞台となった。
また風光明媚で閑静な地であることから平安時代になると貴族の別業(べつごう。別荘)の地となり、
藤原氏は多くの陵墓を山麓に築き、藤原頼道は宇治河畔に平等院を建立した。
中世以降は茶の名産地となり、現在も「宇治茶」は日本茶の一大ブランドとなっている。

かつては平安京に住んでいた貴族の別荘地で、
「わが庵は都のたつみ鹿そすむ世をうし山と人はいふなり」と詠まれたりもしたが、
現在では京阪地域のベッドタウンとして成長し、人口は20万人弱と賑やかな所になっている。
ので朝とかわりと渋滞する。
もちろん、修学旅行やツアーの定番・平等院鳳凰堂や宇治橋、宇治茶などで観光スポットとしても有名であり、多くの人が訪れる。

宇治神社 宇治上神社 *宇治墓 宇治彼方神社 *宇治橋 橋姫神社 *平等院
許波多神社
(五ヶ庄・木幡)


宇治神社

宇治市宇治山田に鎮座。

『延喜式』神名式、山城国宇治郡十座のうち、宇治神社二座〔鍬・靫〕。
宇治郡の筆頭に記されている。
二座というのは、この宇治神社と、すぐ上に鎮座している宇治上神社を合わせていったもので、
往古はこの二社で一社を形成していた。
『延喜式』編纂の頃には、祭神(神社)には「大」「小」の区別ができており、宇治神は「小」であったが、
「小」の神(小社)へ頒布される規定の祈年祭幣帛に加えて「鍬(すき。農具)」「靫(ゆぎ。武具)」が奉られており、
一般の官社よりは格が上だったと思われる。

主祭神は菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと。現在は「うじのわきいらつこのみこと」と表記)。
第十五代応神天皇の皇子で、皇后の御子ではなく、さらに諸皇子の中でも年少であったが、
若くして聡明であったために天皇は特に愛され、後継者に指名された。
応神天皇の時代は大陸の文物が多く輸入された時期だったが、
菟道稚郎子は百済よりの渡来人である阿直岐(あちき)や王仁(わに)博士らに師事してそれらを学び、
『日本書紀』によれば、朝廷が高句麗からの使節を迎えた際、高句麗の上表文を一読するやその不備と非礼を指摘したと伝えられる。
天皇が崩御した後、皇位相続に不満を抱く異母兄の大山守皇子(おほやまもりのみこ)が反乱を起こしたが、
同じく兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)から急報を受けるや、知略を用いてこれを速やかに撃破するなど、文のみならず武にも優れていた。
あとは皇位に就くだけだったが、菟道稚郎子は長幼の順を重んじ、年長であり皇后の長男である大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとされた。
しかし、兄の大鷦鷯尊も「父である天皇の詔は絶対である」としてこれを聞き入れず、互いに譲り合って空位の状況が三年も続いたため、
国政に支障をきたす事態となった。
日頃より大いに悩まれていた菟道稚郎子命は事ここに至り、
「豈に久しく生きて天の下を煩わさむや(どうして久しく生きて天下を煩わせてよいものか)」
と仰せになって、ついに自ら命を絶たれた。
大鷦鷯尊は大いに悲しまれ、やむなく皇位につかれた。これが聖帝(ひじりのみかど)として名高い第十六代仁徳天皇。
聡明な皇太子であったが即位することなく薨去されたというのはのちの厩戸皇子(聖徳太子)を思い起こさせ、
記紀編者もそれを念頭に置いたと思われる。
『播磨国風土記』揖保郡上筥岡・下筥岡・魚戸津・朸田条には、

  宇治天皇(うぢのすめらみこと)の御世、
  宇治連らの遠祖である兄太加奈志(えたかなし)、弟太加奈志(おとたかなし)の二人が、
  大田の村の与富等(よほと)の地を請い受け、田を開墾して種子を蒔こうとしてやってくる時、
  召使が朸(あふこ)で食べ物の道具類を担った。ところが朸が折れて荷が落ちた。
  それで、奈閇(なへ。鍋)が落ちたところをすなわち魚戸津(なべつ)といい、
  前荷の筥(はこ)が落ちたところをすなわち上の筥岡と名づけ、後荷の落ちたところをすなわち下の筥岡といい、
  担っていた朸が落ちたところをすなわち朸田という。

と、菟道稚郎子を「宇治天皇」とあらわしている。
これは、菟道稚郎子を追尊していったものというのが一般的な見方だが、
あるいは一時期菟道稚郎子が即位しない状態で政務を執っていたか、または即位したものとみなされていた、ということかもしれない。
もっとも、『日本書紀』にいう「天皇」「皇太子」は中国の皇帝の制度にならったものであり、
「大王(おほきみ)」と呼ばれていた時代には君主としてどのような在り様であったのか、
「日嗣(ひつぎ)の御子」はどのような立ち位置であったのかは、完全には解き明かされていない。

ちなみに、『日本書紀』では、自らの亡骸の前で歎き悲しむ大鷦鷯尊に「やれやれだぜ」と思われたのか、
なんと一時蘇生され、兄に今後についての色々な指示を与えたのちまた息を引き取られた、という話になっている。
死後に蘇ったとか聖徳太子より凄い。
『古事記』では宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)は自殺せず、兄との皇位の譲り合いの中で早世されたとしている。

『古事記』応神天皇記に、宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)の生誕にまつわるエピソードが収録されている。

  ある時、天皇(*応神天皇)が近淡海国(ちかつあふみのくに。のち「近江国」と表記)に越えていらっしゃった際、
  (中略)
  そして木幡村(こはたのむら。宇治市木幡)に御着きになった時、美しい乙女がその道の辻で天皇と出逢った。
  そこで天皇はその乙女にたずねて、
  「おまえは誰の子であるか」
  と言った。答えて申し上げるには、
  「丸邇(わに。和珥氏)の比布礼能意保美(ひふれのおほみ)の娘で、   (*『書紀』「日触使主」)
  名は宮主矢河枝比売(みやぬしのやかはえひめ」)です」           (*『書紀』「宮主宅媛」)
  と申し上げた。
  天皇はさっそくその乙女に、
  「わたしは、明日帰る時、おまえの家に寄っていこう」
  と仰せになった。
  そこで矢河枝比売はこの事を詳しく父に話した。すると父は答えて、
  「それは天皇でいらっしゃるようだ。恐れ多いことだ。わが子よ、お仕え申し上げよ」
  と言い、その家を飾り、謹んで待っていると、明くる日においでになった。
  そして、大御饗(おほみあへ。御馳走)をたてまつった時に、その娘の矢河枝比売命に大御酒盞(おほみさかづき)を取らせてたてまつった。
  すると、天皇はその大御酒盞を持たせたまま、御歌にいうには、

    この蟹や 何処(いづく)の蟹 百(もも)伝ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去らふ 何処に至る 
    伊知遅島(いちぢしま) 美島(みしま)に著(つ)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息づき 
    しなだゆふ ささなみ道(ぢ)を すくすくと 我(わ)がいませばや 木幡の道に 遇はしし嬢子(をとめ)
    後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも 歯並(はなみ)は 椎菱(しひひし)如(な)す 
    櫟井(いちひゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を 端(は)つ土は 肌赤らけみ 下土(しはに)は 丹(に)黒き故(ゆゑ)
    三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火(まひ)には当てず 眉(まよ)画(が)き 此(こ)に画(か)き垂れ 遇はしし女(をみな) 
    斯(か)もがと 我(あ)が見し子ら 斯くもがと 我が見し子に 転(うた)た蓋(けだ)に 向ひ居るかも い添ひ居るかも

      (この蟹はどこの蟹か。多くの地を伝い来た角鹿の蟹だ。横ばいしている。どこへ行くのか。
      伊知遅島・美島に着いて、カイツブリが潜る時に息をつくように息をつきつつ、
      〔しなだゆふ〕ささなみ道をどんどんわたしが歩いてゆくと、木幡の道で出逢った乙女、
      その後ろ姿は小楯のようで、歯並びは椎や菱のように整っている。
      櫟井の丸邇坂の土を、上の方の土は赤く、下の方の土は赤黒いので、
      〔みつぐりの〕その真ん中の土を取って、〔かぶつく〕強い火には当てずに作った眉墨で眉を引き、こんなふうに引き垂らし、出逢った乙女。
      こうであればなあとわたしが思った子、こうであればなあとわたしが思った子に、
      いよいよまさしく向かい合っていることだ、寄り添っていることだ)

      *角鹿:今の敦賀。応神天皇は幼少時、敦賀に鎮座する気比大神と御名を交換したという伝説がある。
      *伊知遅島・美島:琵琶湖の島。それぞれがどの島かは不明。別の歌謡にも「鳰鳥(にほとり)の淡海(あふみ)の海に」とあり、
        古来カイツブリは琵琶湖を象徴する鳥であって、現在も滋賀県の県鳥となっている。
      *しなだゆふ:「ささなみ」にかかる枕詞とみられるが語義未詳。
      *ささなみ:楽々浪。琵琶湖西南岸一帯をさす。「ささなみ道」は、そこへと至る道。
      *櫟井の丸邇坂:天理市櫟本町、丸邇氏の本拠地にある坂。
      *みつぐり:「中」にかかる枕詞。栗の中には三つの実があり、真ん中の実が一番大きく立派であることから、という。

  こうして結婚なさって生んだ御子は、宇遅能和紀郎子である。

御幸の途中、自らの理想のタイプに完全合致する乙女と偶然出会ったという幸運。
そのような女性の御子であるなら、しかもめっちゃ賢いとなったら、皇后の御子でないにもかかわらず立太子するというのももっともか。
古くは、幼児は母方の父の家で養育される習慣があり、
菟道稚郎子も宇治の地で育ち、のち宮を営んで住まわれたのだろう。

「宇治」という地名は菟道稚郎子命が宮を建てて住まわれたことからつけられたと伝えられ、
菟道稚郎子命は宇治の総鎮守神として古来信仰された。
また、生前は学問にすぐれた御方であったため、学問の神として信仰されている。

宇治川。遠くに見えるのが宇治橋。
神社前にかかる朝霧橋より。
宇治川の中洲「中の島」でなにやら大掛かりな工事中。
宇治川右岸に面して立つ鳥居。 手水舎から石段があり、拝殿(桐原殿)が見える。
拝殿の奥、もう一段高い所に本殿が鎮座する。
本殿は三間社流造の檜皮葺で鎌倉時代初期の造営であり、
御神像(菟道稚郎子像)とともに国の重要文化財に指定されている。
本殿左側の末社群。
日吉、春日、住吉。
本殿右側の末社群。
伊勢両宮、松尾、高良、廣田。

宇治上神社。

宇治市宇治山田に鎮座。
ユネスコ世界文化遺産『古都京都の文化財』の一に指定されている。

『延喜式』神名式、山城国宇治郡十座のうち、宇治神社二座〔鍬・靫〕。
二座というのは、すぐ下に鎮座している宇治神社と合わせていったもので、
古来「離宮明神」「離宮の大神」と呼ばれていた。
神社の鎮座する地には皇太子・菟道稚郎子の宮であった「桐原日桁宮」という宮があったとされ、
この宮は応神天皇の離宮ともみなされていたことから、
宇治上神社は「離宮上社」、宇治神社は「離宮下社」と呼ばれていた。
離宮上社の祭神は応神天皇・仁徳天皇・菟道稚郎子の三柱だったことからそのうち「八幡宮」を称するようになり、
「宇治離宮八幡大宮」「宇治離宮八幡宮」などと呼ばれていた。
また、『源平盛衰記』に、
平将門討伐に参加しながら褒賞を得られず憂悶のうちに亡くなった参議民部卿の藤原忠文を宇治の離宮明神として祭っている、とあり、
一般からは民部卿忠文の霊を祀っていると考えられていた。

創祀は仁徳天皇治世、または昌泰年中(898-900)に神託があり、醍醐天皇の延喜元年(901)に山城国司が社殿を造営したのがはじまりという。
延喜式神名帳では宇治郡十座の筆頭に記されている社の創祀が延喜元年ということはまず考えられない
(三番目に記される許波多神社は山城国風土記逸文に名が見られるので、奈良時代にはすでにあることが確実)ので、
この時には社殿の造営が行われたのだろう。
あるいは、近世には一般人の知っている昔の元号といえば「大同」か「延喜」くらいだったらしいので、それに引かれたものか。
実際、大同年間創祀・草創という社寺はきわめて多い。
なぜ大同かというと、近世に広まっていた坂上田村麻呂の歌謡に「大同二年の御草創、坂上田村丸の御願なり」とあって、
「坂上田村麻呂が大同二年に清水寺を建てた」ということは一般によく知られており、
民間へのわかりやすさのために「古い、歴史がある=大同年間にできました」という風潮だったらしい(菅茶山『福山志料』寺社弁説)。
延喜も、「天神さま」菅原道真公つながりで有名だったのだろう。

治暦三年(1067)、関白藤原頼通に招請されて宇治平等院に御幸された後冷泉天皇が正三位の位記を授けられ、
のち、江戸時代の正徳年間(1711-15)に正一位の極位が授けられている。

平安時代の公家の日記である『中右記』や『兵範記』には離宮明神の祭礼について記されており、
それによると、神社から御旅所まで神輿の渡御があり、以後は田楽や散楽をはじめとする様々な芸能が催され、
はたまた競馬も行われたりして、見物の人は数千人も集まったという。
離宮明神が平等院鎮守社とされていたことから平等院の僧も離宮祭の行粧(行列)に加わり、寺田楽を催していた。
近世においては上社が宇治川下流の中洲である槙島、そして下社が上流の宇治をその氏子区域としていて、
一体ではありながらそれぞれ独自の活動を行っていた。
祭礼においては両社の神輿が御旅所に巡幸し、その際には大きな金銀の幣(丸木に金・銀の紙を貼り笠を被せた物)を、
「ぎんかりぎんかり」
と言いながら供奉していた(「ぎんかり・・・」は「金銀の幣あり」というのを伝え誤ったものという)。
かつては五月八日より行っていたが、近世になって江戸幕府四代将軍徳川家綱がこの日(延宝八年〔1680〕五月八日)に薨去したため、
忌日を避けて一週間後の五月十五日より行うようになったという。
現在は新暦五月八日に渡御祭が行われ、その後一か月間御旅所に留まられて、六月八日に還幸祭が行われている。
金銀幣の供奉の儀は、同じく平等院鎮守社であった縣神社の「大幣神事」に受け継がれている。

『万葉集』巻第九の挽歌冒頭には、柿本人麻呂歌集にある歌として、「宇治若郎子の宮所の歌」一首が載せられている。

  妹(いも)らがり 今木の嶺に 茂り立つ 嬬待(つままつ)の木は 古人(ふるひと)見けむ 〔1795〕

   妻のもとへ今来た、という名前をもつ今木の嶺に茂り立っている、夫を待つ松の木は、昔の人もきっと見たであろう。
    *いもらがり:妻のもとへ、の意で、妹・我・君・妻などの語に接し、来・行く・通ふ・遣るなどの移動をあらわす動詞にかかる。
             ここでは地名である「今木(いまき)」を導くために用いられている。
             「木」と「来」はそれぞれ「キ」の乙類・甲類であって発音は少し違ったと考えられるが、
             掛詞はシャレみたいなものであるので、少々の音の違いは許容されていた。
    *嬬待:「夫を待つ」の意。「まつ」は「松」にかけている。「夫の訪れを待つように立っている松の木」という意味。
    *古人:宇治稚郎子をさす。

神社背後の仏徳山(大吉山)山頂の展望台には、この歌の歌碑が立っている。

宇治神社の拝殿脇より「さわらびの道」に出て少し登ればすぐに見えてくる。
橋を渡り神門をくぐれば拝殿・・・なのだが、
現在、拝殿は修理中のために足場が組まれ覆いがかけられており、やや殺風景。
ただ、古くなったら建て替えリフォームは世の常なので致し方なし。
かつて宇治には「宇治七名水」という七つの名水があり、宇治茶を点てるのに用いられていた。
現在は宇治上神社境内に湧く「桐原水」のみとなっており、参拝者はこの水で手を清める。
汲めるようにもなっているが、飲用に用いる時は安全のために煮沸が必要とのこと。
宇治市名木百選にも選ばれているケヤキの大木。
推定樹齢300年。
拝殿の後方の高台に本殿が鎮座する。
本殿前。
厳密には、見えている建物は「覆屋」であり、
この覆屋の中に一間社の本殿三社が横並びに鎮座している。
もともとは三社殿がむき出しで建っていたのを、
社殿保護のためにあとから覆屋を造ったものとみられている。
もっとも、この覆屋も中の本殿の構造部分と一体化している箇所があって、
厳密な意味での覆屋ではないらしい。
覆屋は桁行五間・梁行三間の流造檜皮葺。
内殿三社は一間社流造檜皮葺。
平安時代後期の造営で、現存する神社建築としては日本最古であり、国宝に指定されている。
左殿(向かって右)に菟道稚郎子、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る。
内殿の大きさは一定ではなく、仁徳天皇の右殿が一番大きく、
続いて菟道稚郎子命の左殿、応神天皇の中殿の順となっている。
また、左殿は平等院鳳凰堂建立(1053)に次ぐ時代の造営、中殿はその前後の造営、
右殿はそれらより多少遅れた時期の造営とされている。

広島県の日本三景・安芸の宮島に鎮座する、海上の神社である厳島神社本殿も、
祭神の鎮座する六つの「宝殿」を巨大な本殿内に格納するという形式をとっているが、
これも平安末に平清盛のおこなった大修造時にそうなったと考えられている。



元来、神社には社殿がなく、社殿を建てる場合はあくまでも祭りの期間、臨時に建てられるものだった。
春日大社の「若宮おん祭り」における御旅所がそういう感じ。
常設の社殿がある神社は伊勢神宮、出雲大社などわずかな例だった。
その後仏法の流布とともに、仏堂にならって常設の本殿が建てられるようになった。
それでも、本殿は神の坐所であって人が入ることはなく、
従って本殿内で祭りを行うということもなかったので、出雲大社のようなわずかな例外を除き巨大である必要はなかった。
祭りは基本的に本殿の前の屋外で行っており、雨天の場合でも祭儀を実行できるように設けられるようになったのが拝殿。
そのうち、神仏習合にともなって社殿の規模も大きくなっていったが、
それでも本殿はそれほど肥大化せず「三間社」が最も多く、
そのぶん祭りの場である拝殿が大きくなり、正面から本殿を蔽い隠すほどになった。
神仏習合の度合いが強い神社では本殿も仏堂のような豪壮華麗な造りとなり、本殿内で祭典が行えるようになっている。
本殿左(向かって右)に鎮座する摂社・春日神社。
一間社流造檜皮葺、鎌倉時代後期の造営で、国指定重要文化財。
宇治の地は藤原氏の別業(別荘)となり、当社も一時期は平等院の鎮守社でもあったため、
藤原氏の氏神である春日祭神四座も摂社として祀られている。

奥には住吉社と香椎社(祭神:神功皇后・武内宿禰)が鎮座。
いずれも応神天皇に縁の深い神様。

手前の大石には注連縄が張られ、多くの石が積み上げられている。
近世や明治時代の本には末社の中に「岩戸大神」の名がみえるが、これがそうだろうか。


近世には、本殿のすぐ左には春日社ではなく住吉社、次に厳島社、そして大外に春日社と並んでおり、
本殿の右に香椎宮、そして神庫があった。
本殿右(向かって左)に鎮座する厳島社と武本稲荷社。
稲荷社のかたわらの斜面にはよくわからない石神が二社あった。
宇治ということで、境内にはお茶の木が植えられている。
修理中の拝殿。
拝殿は鎌倉時代初期の建築で、本殿と同じく国宝に指定されている。
拝殿前には、白砂をふたつ山盛りにした「清め砂」がある。上賀茂社のが有名。


宇治上神社から「さわらびの道」を下っていくと茶屋があるが、
平成七年、この茶屋を建設するにあたって埋蔵文化財調査が行われた時、敷地内より石敷き遺構が発見された。
平安後期の庭園遺構であるとされ、現在は上に藤棚が設けられている。
「さわらびの道」を下る途中に鎮座する末多武利(またふり)神社。
宇治市宇治又振に鎮座。
祭神は藤原忠文。
藤原式家の出身で、正四位下参議の位にあった。
天慶三年(940)に平将門討伐のための征東大将軍に任命され出撃したが、到着前に将門は平貞盛・藤原秀郷等に討たれており、
戦後の論功行賞では忠文の功についてが議論となった。
藤原師輔は「功がはっきりしないときは認めてもよかろう」と主張したが、
藤原実頼(小野宮清慎公)は「疑わしきを行ってはならない」と主張し、結局忠文は賞せられなかった。
忠文は実頼を深く恨んで憂悶の内に亡くなり、その後小野宮実頼の子孫は繁栄しなかったので、忠文の霊が祟ったのだといわれた。
そのため、彼の霊を鎮めるために創祀されたと伝えられている。
彼は卒時に参議民部卿であり、宇治に別邸があったことから通称を宇治民部卿といい、のち正三位中納言を追贈されている。

近世の書には「傍に榎の老木がある」とあるが、幹のみ残っている木がそうだろうか。





宇治墓

宇治市菟道丸山

宇治川の東岸、京阪宇治線宇治駅の北にある、応神天皇皇太子・菟道稚郎子尊の墓。
もとは直径40mほどの円丘だったが、明治22年に宮内省がこれを菟道稚郎子の墓であると治定し、
土を追加して前方後円墳の形に整形し、墓所として整備している。
『日本書紀』によると、菟道稚郎子は、

  そしてまた、棺に伏して薨去された。
  そこで大鷦鷯尊は喪服をお召しになり悲しまれ、慟哭された。
  そして、菟道の山の上に葬り奉った。

と、「宇治の山の上」に葬られたと記されている。
宮内省の治定よりも前は、地元にもこれが菟道稚郎子の墓であるという伝承はなかった。
水害の恐れのある川の近隣に皇太子の墓を造営するということは通常ありえないことであり、
『日本書紀』の記述に照らしても妥当とは思われない、というのが現在の一般的な見方。
塚については、豊臣秀吉の宇治川流路変更工事において新流路を掘り堤を築いた際に残土を集めておいた所ではないか、
という身もふたもない説もある。

平安時代に編纂された『延喜式』の諸陵式には、

  宇治墓。菟道稚郎子皇子。
  山城国宇治郡に在り。兆域、東西十二町(約1.3㎞)、南北十二町。守戸三烟。

と、宇治郡に東西・南北とも1.3㎞の墓域をもち、その墓守の家が三戸あったと記されている。
細かい所在地を記していないのは、当時としては所在は自明の事であって(でかいし、墓守いるし、行けばわかる)、
郡名を記しておけばあとは書くまでもないため。
この1.3㎞四方という墓域は、かなり大きい。
諸陵式に載せる仁徳天皇陵「百舌鳥耳原中陵」の墓域でさえ「東西八町、南北八町」であり、それより広いということになる。
破格の規模であり、皇子の墓でこれを上回るのは、天智・天武天皇の祖父である押坂彦人大兄皇子の「東西十五町・南北十五町」のみ。
もっとも、墓がそれだけ大きかったという事ではなく、墓を中心とし、それに関わる区域がそれだけ広かった、ということだろう。

律令制下では、陵墓には墓守が置かれて管理がなされ、毎年十二月には朝廷の幣帛を奉って祭り、二月には官人が巡検を行っていたが、
律令制が崩れて国家財政が苦しくなってきたこと、中世に入って武家が実権をもつようになったことから陵墓の管理は行われなくなり、
墓守もいなくなって荒廃し、陵墓のほとんどが所在不明となった。
時代が下って江戸時代になると、水戸学や国学の影響により尊皇の機運が高まったことで陵墓の比定が行われるようになり、
荒廃した古墳の整備事業もなされるようになる。
そして明治時代、政府がひととおりの陵墓の治定を済ませ、国の管理として現在に至っている。
この時の治定結果については疑問も多く、再調査を望む声は多いが、
宮内庁は明治の治定結果を尊重し、なかなか陵墓に入ることはできない。
エジプトのファラオの墓のように、王家はとうの昔に滅び、子孫もどうなったかわからないようなものは
それこそ宝探しよろしく好き勝手に掘られまくっているが、
日本では皇室が世々絶えることなく続き、現在も日本の象徴としてあられるため、
その御先祖の墓をたいした根拠もなしにたやすく掘り返させるわけにはいかないのは当然の事。
しかし、『続日本後紀』の承和十年(843)四月二十一日条には、
「図録を調査したところ、今まで神功皇后陵と成務天皇陵を取り違えていたことが判明したため、両山陵に謝し奉った」
という記事があるように、当時の朝廷は陵墓の治定に誤りがあると判断すれば訂正を行っていた。
実際は陵墓なのに認定されていないものがあるかもしれないし、再調査はやってもいいのでは、と思う。

『続日本後紀』承和七年(840)五月六日条には、淳和太上天皇が崩御されるにあたって、
「人は死ぬと霊は天に昇り、墳墓には鬼が住みついて祟りをなし、長くわざわいを残すと聞いている。
死後は骨を砕いて粉にし、山中に散布するように」
と仰せになったので、中納言藤原朝臣吉野が、
「昔、宇治稚彦皇子はわが朝の賢明な御方でありましたが、この皇子は遺教にて散骨せよとお命じになり、後の人はそのようにいたしました。
しかしこれは親王のことであって、帝王のことではありません。わが国では上古より山陵を起こさないということは聞いたことがありません・・・」
と諫言した記事がある。
(この吉野さんは素晴らしい人格者だったが、二年後に承和の変に連座して左遷された。政界は恐ろしいところなりよ)
古墳時代真っただ中の菟道稚郎子の時代に庶民はともかく貴人を散骨するような慣習があったかは疑問だが、
少なくとも平安時代初期において、菟道稚郎子は散骨にて葬られたと考えられていたようだ。
墓域が広いのも、あるいは治定時にどうしても墓所がわからず、
「どうしても墓が見当たらない・・・これはもう・・・散骨されたんじゃない?スゲー賢いお方だったんでしょ?」
「それだ」
「お前頭いいな」
「天才あらわる」
ということになっていたため・・・かもしれない。
現在においても、年代的に菟道稚郎子のものとされるような古墳は見つかっていない。
ちなみに、淳和太上天皇は崩御後、山陵を造営したうえで、御遺言通り散骨が行われた。

宇治川土手の上、南より、宇治墓遠景。
京阪宇治駅のすぐ北に、宇治墓への道標が立っている。左へ。
背後には観音さんがまつられている。
京阪の踏切を渡る。
宇治墓の兆域標。
民家の脇の道を歩いていく。
到着。
陵墓として細心の手入れがなされており、さわやか。
場所が場所なので緊張はするけど
宇治墓前。
宮内庁からのお達しの札が立っている。
正面からの情景は、基本的にどの陵墓も同じ。

宇治彼方(うじおちかた)神社。

宇治市宇治乙方に鎮座。
宇治橋東詰から県道7号線を北東へ上ってゆく左手。

『延喜式』神名式、山城国宇治郡十座の一。

祭神は大物主命。
現在は小さな社であり、境内の享保十八年の灯籠に「諏訪大明神」とあるように、近世には諏訪明神を祀っていたが、
式内社に比定されるとともに祭神を変更したようだ。
かつては宗像神を祀っていたともいうが、当初の祭神は不明。

『日本書紀』神功皇后摂政元年三月五日条。
皇位継承に不満を抱いて反乱を起こした忍熊王(おしくまのみこ)を討つべく、
神功皇后は武内宿禰(たけうちのすくね)と和珥臣の祖・建振熊(たけふるくま)を山背に遣わした。
二人は精兵を率いて紀伊から河内、山背を経由して宇治に至り、忍熊王の背後、宇治川の北岸に駐屯した。
忍熊王は陣営を出て攻撃をかけようとし、熊之凝(くまのこり)という者が先鋒となったが、この時彼は歌を歌って、

  彼方(をちかた)の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢を副(たぐ)へ 
  貴人(うまひと)は 貴人どちや 親友(いとこ)はも 親友どち いざ闘(あ)はな 我(われ)は 
  たまきはる 内の朝臣(あそ)が 腹内(はらぬち)は 砂(いさご)あれや いざ闘はな 我は

   (彼方のまばらな松原、その松原に渡っていって、槻の弓に鏑矢を添え、
   貴人は貴人どうし、親友は親友どうし団結して、いざ戦おう、我々は。
   〔たまきはる〕内の朝臣の腹の内には砂が詰まっているだろうか。いざ戦おう、我々は)

この歌の冒頭にある「をちかた」が、この土地のことであるという説がある。
この戦いは、武内宿禰が和平をもちかけて自軍の兵の弓弦を断ち切らせ、刀を川に捨てさせたので、
忍熊王がそれに乗って同じようにしたところ、官軍は髪の中から替えの弓弦を出して張り、本当の刀を帯びてから一斉に渡河進攻したので、
武器を失った忍熊王はひとたまりもなく退却したが、武内宿禰はこれを捕捉して撃破した。
この時両軍が「逢った」ところを「逢坂」という。
忍熊王は近江に逃げたが、栗林(大津市膳所の栗栖)で壊滅的敗北を喫し、瀬田の渡りに身を投げて死んだ。
その死体は、数日後に宇治川で見つかったという。
宇治川の北岸(東岸)に駐屯した官軍に渡河して攻撃をかけようとした忍熊王の軍は南岸(西岸)にいたはずだが、
官軍から渡河攻撃を受けて敗走しながら逢坂へ行くには、敵が渡ってきた宇治川を渡河するか、
あるいは当時あった巨大な池・巨椋池を時計回りに廻りつつ木津川・桂川を渡って延々逃げないといけないが、どちらも無理がある。
これは、書紀編者が歌の「をちかた」を宇治に実際にある「をちかた」という地名のことであると解釈したため、
地理的に無理のある戦いになったのだろう。
よって、当時すでに「をちかた」という地名があったと考えられる。
語源としては、宇治川が巨椋池に落ちる所としての「落方(おちかた)」、
または宇治橋そばの街道筋であることから「大路方(おほぢかた)」などの説があるが、
いずれも語頭が「お」であり、「を」でないことから疑問。
単純に、大和からみて向こう岸になる宇治川の東岸を「あちら側」として「をちかた」と呼んでいた、とかじゃなかろうか。

境内。
宇治駅から県道7号線を50mほど東へ歩いた道端にひょっこり鎮座している。
社地は広くなく、社号標がなければスルーしてしまいそう。

宇治橋。

宇治市宇治、宇治川にかかる橋。

山崎橋(京都府大山崎町・八幡市橋本の間。現存しない)、瀬田の唐橋(滋賀県大津市瀬田)とともに「日本三古橋」に数えられる古橋。
架橋年代は大化二年(646)と伝えられ、日本最古の橋といわれる。
宇治橋東岸の高台にある橋寺放生院(はしでら・ほうじょういん)には、宇治橋の架橋について記した碑が立っている。

  浼浼たる横流 其の疾きこと箭の如く  修修たる征人 騎を停めて市を成す
   重深に赴かんと欲すれば 人馬命を亡い  古より今に至るまで 航葦を知ること莫し
  世に釈子有り 名を道登と曰ふ  出自は山尻 慧満の家
   大化二年 丙午の歳  此の橋を搆立し 人畜を済度す
  即ち微善に因りて 爰に大願を発し  因を此の橋に結びて 果を彼岸に成さんとす
   法界衆生 普く此の願を同じくして  夢裏空中 其の昔縁を導かんことを

   (この碑の下三分の二は修復されたものであり、文は『帝王編年紀』によって補われているが、
   「航葦」は「杭葦」、「慧満」は「恵満」、「昔縁」は「苦縁」の誤りではないかとする説がある)

『日本霊異記』上巻第十二にも、

  高麗の学問僧である道登は、元興寺の沙門であった。山背国の恵満の家より出た。
  昔、大化二年の丙午に、宇治橋を造ろうとして往来する時に・・・

とあり、宇治橋は大化二年(646)に元興寺(飛鳥寺)の僧である道登が架けたと一般には伝えられていた。
道登は、『日本書紀』大化元年八月八日条に、

  沙門狛大法師の福亮・恵雲・常安・霊雲・恵至・寺主僧旻・道登・恵隣・恵妙・恵隠をもって十師とされた。
   (*沙門=僧。狛=高麗、高句麗。高句麗に留学して仏法を学んだ法師ら)

と、国内の僧侶が仏法をきちんと修行するよう教導する役である「十師」の一に任命されており、
白雉元年(650)二月九日条には、長門国司が白雉を献じたことに対して孝徳天皇の下問があった時、
百済王子豊璋や僧旻とともにこれが吉祥であると例を挙げて上奏し、これによって「大化」より「白雉」への改元が行われているなど、
学問を修めた高僧として記されている。
だが、『続日本紀』文武天皇四年(700)三月十日条の、飛鳥寺の道照和尚の物化記事には、
「かの宇治橋は道照和尚の建てたものである」
とあって、やや後代の別の僧が架けたことになっている。
二人は同じ飛鳥寺の僧であり、法名も似ているので、『続日本紀』の編集にあたって編者が取り違えたか、
道登の宇治橋架橋にあたって道照が現場監督として事実上の架橋をおこなったか、
道登の架橋した宇治橋がその後老朽化あるいは流失していたのを道照が修理補強もしくは再建したものと考えられている。
道照は造船を職掌とする渡来系氏族・船首(ふなのおびと)の出身で、
その父の恵尺(えさか)は、乙巳の変(645)において、燃え落ちる蘇我蝦夷の館から『国記』(聖徳太子と蘇我馬子が編纂した国史)を救い出した、
大功ある人物。
現在も伊勢神宮の内宮前にかかる宇治橋の架け替えにおいては船大工も参加しているように、
造船技術は架橋技術とほぼイコールだった。
道照が動くとなれば船首の一族もその事業に参加したことは疑いなく、
おそらく、『続日本紀』編纂時の宇治橋は、道照の手による堅牢な橋だったのだろう。
道照は遣唐使にて唐に渡り、あの玄奘三蔵法師に師事して禅を学び、それを日本に伝えた高僧。
帰国後は何年も各地を巡って橋や井戸を数多く造り、天皇の勅によってようやく飛鳥寺へと戻るとひたすら禅に打ち込み、
最期は椅子に端座したままの姿で遷化した。
日本で最初に火葬された人物としても知られている。

宇治の地は、大和から奈良山を越えて山背へ入ったのち近江・北陸へ向かう途上にある交通の要衝であり、
水量の多く流れの激しい宇治川を渡るための橋が求められていた。
激流であるために橋は老朽化すると流されてしまい、
また交通の要衝であるということは戦の舞台になるということで、
幾多の戦いにおいて橋は橋板を剥ぎ取られるなどして使用不能となった。
橋はその度に修復・架け替えがなされており、
中世末には天正八年(1580)に織田信長が架け替えを行ったが、その用材は大和の霊峰である三輪山の木を700本伐り出したものだった。
丈夫な用材が求められていたこともあるが、
興福寺をはじめとして土着勢力の抵抗が根強かった大和国に対する示威行為でもあっただろう。
この当時は平等院前に架橋されていた。
近世になると寛永十三年(1636)に架け替えが行われ、この時に用いられた擬宝珠が現存最古のものとして伝わっている。
近代では、明治・大正に一度ずつ架け替えがなされ、
現在の宇治橋は、宇治市内の交通渋滞の解消のために平成八年(1996)に架け替えられたもので、
複車線に広い歩道を備えた、ゆったりとした幅広の橋となっている。
宇治橋の歴史と周囲に点在する歴史遺産との調和をはかり、
構造部の表面はコンクリートではあるが、橋の擬宝珠高欄や桁隠し(橋桁を雨水より護る設備)、
また流木が橋脚に直撃することを防ぐための「芥留杭(ごみとめくい)」には木材が用いられており、
遠目にはあたかも古風な木造橋に見えるような配慮がなされている。

宇治橋東詰南の山麓にある橋寺放生院(はしでら・ほうじょういん)。
正式な山号・寺号は雨宝山常光寺(うほうざん・じょうこうじ)。
真言律宗、本尊地蔵菩薩。

聖徳太子の命によって推古天皇十二年(604)に秦河勝が地蔵院を建立し、
のち大化二年(646)に宇治橋が架けられた時、
地蔵院を改修して宇治橋鎮護の寺としたのが創建と伝わる。
その後衰退したが、弘安四年(1281)に大和西大寺の僧・叡尊が現在地に再興、
新たに地蔵菩薩像を造って旧像をその中に納めた。
また弘安九年(1286)の宇治橋架け替えにあたって宇治川の中洲に十三重石塔を建て、
放生会を営んでそれまでに宇治川で亡くなった人馬の霊を供養した。
この時より「放生院」の名が起こったといい、
時の帝・後宇多天皇は叡尊の業績をお褒めになって、
三百石の寺領を賜うと同時に宇治橋の管理をお任せになったことから、
「橋寺」と通称されるようになったという。
最近改修されたらしく、さっぱりした本堂。
本尊は叡尊の手による地蔵菩薩立像で、国指定重要文化財。
脇壇には不動明王立像(国指定重要文化財)、釈迦如来坐像が安置され、
ほかにも阿弥陀如来・弁財天女の坐像がある。
「宇治橋断碑」を納める覆屋。
宇治橋の由来を記した石碑で、国指定重要文化財。
この碑はいかなる理由があったのか長い間地中に埋もれており、江戸時代の寛政三年(1791)に境内から掘り出されたが、
それは上部三分の一のみであり、下部は失われていた。
しかし室町初期に記された歴史書『帝王編年記』に宇治橋碑文の全文が収録されており、
それによって残部(失われた部分)を補い、寛政五年に復元されている。
オリジナル部分は断片であることから「断碑」といい、このオリジナル部分が重要文化財に指定されている。
原碑が立てられた時代は不明。
碑文は六朝楷書の流れを汲む筆致で、刻法が素朴であることから、
唐の書法が一般的となる平安時代に入るより前、大化二年の宇治橋架橋からそう遠くない時代に刻まれたものという説がある一方、
そのような碑文があれば『続日本紀』編者が参考にしなかったはずはないとして、
延暦十六年(797)の『続日本紀』完成以降、
かつ碑文を参考にしたことが確実な『日本霊異記』の成立とみられる弘仁十三年(822)以前に立てられたものだとする説もある。

通常は保存のためにぐるぐる巻きにされており、公開は春と秋の決まった時期に限られている。
宇治市歴史資料館にはこの断碑のレプリカが展示されており、こちらは開館中であれば見ることができる。


宇治橋東詰より。
鉄筋コンクリート製だが、擬宝珠高欄と桁隠し、そして芥留杭が古橋の雰囲気を醸し出している。
見ての通り、水量はかなり多く流れも激しいが、これでも上流にある天ヶ瀬ダムによって流量が抑制されている。
こんな川を甲冑つけて騎馬で先陣争うとか脳筋にもほどがあると思います聞いてますか佐々木さん梶原さん
いくら浅い所を渡ったとはいえ、中には「馬が流されたので、矢を避けるために潜水して対岸にたどり着いた」
というヤツがいるので、大の男が潜水できるくらいの深さはあった。
潜行して対岸に泳ぎ着くというのも大概クレイジーです
宇治川岸には、「川で泳ぐな近づくな」という標示がものすごく多い。
いったん足をすくわれたら、大人でもひとたまりもないだろう。
昔の人は超人ぞろいだわ
宇治橋東詰の南にある通圓(つうえん)茶屋。
永暦元年(1160)創業、850年余の歴史をもつ老舗茶屋で、
古来、宇治橋を渡る旅人に宇治茶を提供してきた。
初代は源三位頼政の家臣・古川右内で、
晩年に隠居する際、頼政の一字を頂いて「太敬庵通圓政久」
と名乗り、宇治橋東詰に庵を結んでいた。
その後、以仁王の挙兵に応じた源頼政に従い宇治にて戦ったが、
利あらず敗れ、頼政とともに自刃。
その後、通圓政久の子孫は代々宇治橋の橋守を仰せつかり、
橋の管理、そして道行く人に宇治茶を差し上げることを生業とし、
現在は二十三代を数えるとのこと。
源頼政と通圓政久の墓はともに平等院境内にある。

吉川英治の『宮本武蔵』の中で、
武蔵を追って奈良へ向かう途中のお通さんが立ち寄っているのがここ。
東詰北には、京阪電車宇治駅。
建築家・若林広幸デザインの駅舎は
私鉄の駅で初めてグッドデザイン賞を受賞しており、
近鉄の駅百選にも選ばれている。
宇治橋の上。
歩道も広く、車道も片側二車線の合計四車線あり、橋幅は25m。
京滋バイパス・宇治東ICからここまでの区間は四車線となっているが、宇治橋西詰より先は二車線のため、朝夕は渋滞する。
ちなみにこの向こうはJR宇治駅とか市役所とかユニチカとか任天堂とかある、宇治市中心部。
そりゃ渋滞する。
宇治橋三の間。
宇治橋の途中から上流側に突出しているテラス部分で、
橋の西詰から三間め(三つ目の橋脚間)にあることからいう。
この宇治橋三の間から汲む宇治橋の水は名水として知られており、
豊臣秀吉は毎朝この水を汲ませて京へ運ばせ、茶を立てたという。
現在では、10月1日に行われる「宇治茶まつり」において、ここから水が汲み上げられる。
なぜ三の間の水が重んじられたかというと、
往古は三の間に宇治橋の守護神である橋姫の社が鎮座していたため。
橋姫社は近世になって宇治橋西詰北に遷座して住吉神社と合祀され、
明治初年の洪水によって流失したのち、現在地に遷座している。
宇治橋西詰より。
西詰からは、
平等院表参道(向かって左の小路)、
そして縣神社の鳥居が見える。
鳥居をくぐってしばらく行くと、
左手に橋姫神社が鎮座している。

昔、宇治から木幡、伏見、久御山町淀の辺りにかけて「巨椋池(おぐらいけ)」という巨大な池があり、
宇治川は宇治橋をくぐると幾筋にも枝分かれして多くの島を形成しながらこの巨椋池に流れ込み、
巨椋池は木津川をも合わせて池の西端、淀の地で桂川と合流し、淀川となって難波へと流れていた。
のち、豊臣秀吉が伏見城造営にあたって宇治川の流路変更工事を行い、
槇嶋堤などの長大な堤を築いて、宇治川が巨椋池を東から北へ迂回して桂川・木津川と合流するようにした。
これによって地形が変わり、近世においては宇治郷が宇治郡を離れて久世郡に併合されることとなって、
「宇治に宇治無し」と呼ばれるようになった。
明治になると洪水対策のために再び流路変更工事が行われたが、これによって巨椋池はほぼ孤立した池となり、
生活排水・農業排水の排出が滞って水質が悪化し、疫病の流行や虫の大量発生を引き起こした。
そのため、食糧増産事業の一環として昭和初期に干拓事業が行われ、全域が農地となって巨椋池は姿を消している。
かつての巨椋池は「湖」といって申し分のない広さを誇っており、「湖」と呼ばれなかったのは主に琵琶湖のせいか。
巨椋池南岸は立地的に安定した土地であり、宇治川の出口ということもあって、宇治は水運でも中心的な土地だった。


橋姫(はしひめ)神社。

宇治市宇治蓮華に鎮座。

宇治橋の守護神。
祭神は瀬織津比咩(せおりつひめ、瀬織津姫)で、住吉神を配祀する。
社伝によれば、大化二年に道登が宇治橋を架けた時、
橋の鎮守のため、上流の櫻谷に鎮座していた瀬織津姫命の社を橋上に遷座奉祀したと伝えられる。
もとは宇治橋の三の間に鎮座していたが、江戸時代に宇治橋西詰北に遷座して住吉神社と合祀され、
のち明治初年の洪水によって流失したのち、現在地へ遷座再興している。

「宇治の橋姫」といえば、様々な伝承に彩られている。
毘沙門堂本『古今集註』(『古今和歌集』の注釈書)が引く山城国風土記逸文には、

  宇治の橋姫はつわりになり、七尋の和布(わかめ)を食べたいと願ったので、
  男は海辺に採りに行って、笛を吹いていると、龍神がそれに感じて聟に取った。
  橋姫は夫を尋ねて海のはたに行くと、そこに老女の家があったので、行って問うと、
  「その人ならば、龍神の聟となっていらっしゃるが、龍神の火で煮炊きした食べ物を忌み嫌って、ここに来て食事をしている。
  だから、その時に見てごらんなさい」
  と言ったので、隠れて見ていると、夫は龍王の玉の輿に乗って来て、お召し上がりものを食べていた。
  女はこれと話をして泣く泣く別れた。しかしついには帰ってきて、この女といっしょになった。

と、最も古い形と思われる橋姫伝説が語られている。
思わぬことでいったんは別れ別れになった男女が、最後は再び結ばれるというひとまずのハッピーエンド。
記紀神話において、黄泉国に行ったイザナミノミコトは黄泉国で「黄泉戸喫(よもつへぐひ)」、
つまり黄泉の竈で調理した食事をとっていたことから現世に帰ることはできなくなっていた、とあるように、
龍神の火で煮炊きした食べ物を食べると龍神と同類とみなされ、おそらくは二度と現世には戻れなくなっていただろうから、
それを食べようとしなかった男は、龍神に束縛されながらも現世に戻る気を失ってはいなかった、
つまり女に操を立てていたということになる。
山幸彦神話や浦島太郎伝承のバリエーションのひとつといえるだろう。
『古今和歌集』巻第十四の読み人しらずの歌に、

 さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらん宇治の橋姫
  (狭い筵に、衣を片方だけ敷いて独り寝をしながら、今宵もわたしを待っていることだろう、宇治の橋姫は)

とあり、歌の世界では男を待って独り淋しく居る(であろう)女性を「宇治の橋姫」に仮託していた。
おそらく読み人は、『山城国風土記』の橋姫伝説のように、今は離れていても将来必ずその女性と結ばれたいとの思いを込めていたのだろう。
『風土記』は奈良時代初期に各国に編纂を命じられた書物であり、
大化二年(646)に宇治橋が架けられてから半世紀ほどで宇治橋の橋姫伝説ができてそれが即刻風土記に収録される、
ということはまずありえないことで、また宇治橋とは何ら関連のない話であり、
古語では「いとしい」ことを「はし」ということから、山城国風土記逸文の「はしひめ」は「愛姫」の意で、
宇治橋とは関係ないであろうといわれている。
それによって「橋姫」には「男性を待つ女」というイメージが持たれ、
『源氏物語』の最後を飾る「宇治十帖」も宇治を舞台とし、「橋姫」に始まり「夢浮船」に終わるなど、
宇治橋と橋姫を趣向に取り入れている。
また、離宮(現在の宇治・宇治上神社)の大神が宇治橋の姫大明神のもとに夜な夜な通う、という言い伝えも生まれた。

その古伝承も、時代が下ると、老女の家で女が「見るなのタブー」を犯したために男と二度と会えなくなる、というバッドエンドに変わり、
やがて現在もっとも人口に膾炙している「鉄輪」のエピソードが生まれることとなる。
いわく、
嵯峨天皇御宇、嫉妬に燃える公家の娘が貴船明神に七日間参籠したところ、
明神は宇治川に三七日(21日間)浸かれば鬼になれると神託、
女はその通りにしてついに生きながら鬼となったが、これが宇治の橋姫である、という話。
橋姫は妬む人間をことごとく殺したのちは無差別に人を取り続けたが、やがて(約200年後!)頼光四天王の一・渡辺綱に一条戻り橋で腕を斬られた。
貴船明神もそのような恐ろしい願いを叶えなくても、と思うが、
貴船明神は願いを叶えたわけではなく、「鬼になれる方法」を教えただけ。
大人でさえ容易に流される宇治川の激流に21日間耐えるのはまず不可能。
浅瀬でやったとして、そんなヘタレが鬼になれるわけがない。
それを可能にする体力と精神力があれば、確かにその「努力」によって鬼になれそうな気がする。
いくら神頼みをしても、それが叶うかどうかは結局、その人の努力次第ということ。
橋姫さんはそれを立派に成し遂げた。これは凄いことやと思うよ。
完全にマイナス方向への努力だけど。
これによって宇治の橋姫には「嫉妬に燃える女性」というイメージがつき、
美男が三の間から川面を覗き込むと河中へ引き込むとか、
仲睦まじい男女を嫌って不幸にするとかいう言い伝えが生まれ、
橋を守護するという頼もしさの一方で畏怖すべき存在となった。
もっとも、ごく古い時代の神も、大きな恵みを与える一方で恐ろしい祟りを起こす両面性をもった存在だったので、
神様らしいといえば神様らしいともいえる。

記紀や各地の風土記等の伝承には、「坂や峠に荒ぶる神がいて道行く人の半数を殺した」というものがよくみられる。
上古においては、自分たちの住んでいる領域の外は未知のものが跋扈する異界であり、
その境界には恐るべきものが存在し、また災いをもたらすものが道を通って行き来する、と信じられていた。
それゆえに人々は坂や峠の神に「手向け」をおこなって道中の安全を祈願し、
村の入口に「道祖神」を祀って災いが村に入ってこないようにした。
そして「橋」は、隔てられたふたつの土地をダイレクトに接続する「境界」であり、かつ、彼岸・此岸のどちらでもない「異界」だった。
それは、善いもの・悪いものがなんでも自由に往来することができ、さらに未知の恐ろしいものが自由に跋扈できるという空間。
古くは、神社の入口に川があっても橋は架けられず、参拝者は川を徒歩で渡って参拝していた。
現在、伊勢神宮の内宮前に流れる五十鈴川には「宇治橋」が架かっているが、これも古代には存在せず、
神官や参拝者は河中に大石を飛び飛びに並べた「渡瀬」を渡って神域に入っていた。
これには禊の意味がある一方、邪悪なものが神域に入ることを防ぐ意味もあった。
「橋」は、「何が通るかわからない」「何が潜んでいるかわからない」という恐ろしい場所であり、
それゆえ橋には鎮守神が置かれ、通行者の安全が祈られていた。
そういう恐ろしい場所に鎮座する神には、それ相応の恐ろしい性格が付与されるということだろう。

瀬織津姫は、『大祓詞』に、「高山の末、低山(ひきやま)の末よりさくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す」と形容される、
山から激しく落ち来たる川瀬に鎮座する水の神であり、罪穢れを海へと押し流す祓えの神。
川や滝のそばにおいてよく祀られる。
『創禊弁』という書物が引用する山城国風土記逸文には、

  山城の風土記にいう、宇治の滝津屋は祓戸(はらへど。祓えを行う場所)である、云々。

とあり、宇治には祓を行う場所があったことが知られる。
住吉神は摂津の住吉大社の勧請であり、古くは水運が盛んであった宇治において水上安全を祈願して祀られている。

宇治橋西詰から鳥居をくぐってしばらく進むと、
塀の向こうに鳥居と紫色の幟が立っているのが見えるが、
そこ。
覆屋の下に二社殿が並ぶ。
向かって左が橋姫神社で、右が住吉神社。

朝日山平等院

宇治市宇治蓮華
宇治橋手前の左岸にある。

本尊は阿弥陀如来。宗派は現在は単立、かつては天台宗・浄土宗の兼宗。
「古都京都の文化財」の一としてユネスコ世界遺産に登録されている。

この地はかつて左大臣源融(光源氏のモデルと言われる人物)の別業(別荘)の地であり、その後、宇多天皇ほかが所有したのち、
関白藤原道長がこれを入手して「宇治殿」という別業となった。
それを、息子の関白藤原頼通が永承七年(1052)に寺院へと改築したのが、平等院となる。
永承七年の年は釈迦入滅後二千年にあたるとされ、
それより仏法が衰え廃れるマッポー末法の世に入るという「末法思想」が広まっていた。
世紀末思想みたいなものだが、当時は折悪しく天災が続いていたことから人々は不安に駆られ、末法の世の到来に恐怖していた。
ここにおいてそれまで主流であった現世利益信仰は転換を迎え、
現世よりも来世の救済、極楽往生を願う「浄土思想」が主流となり、
皇族や貴族の発願によって西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を本尊とする寺院が次々と建てられた。
それと同時期に、阿弥陀・薬師・観音を本地とする紀伊の熊野三山への信仰が高まってきて、皇族や貴族が続々と「熊野詣」を行い、
それが中世に「蟻の熊野詣」と呼ばれる巡礼ラッシュにつながってゆくが、
平等院は、まさにその末法元年に建てられた寺院となる。

藤原氏の創建であることから平安時代の建築・美術・造園技術の粋が尽くされ、
その境内に西方極楽浄土めいた光景を現出させた。
また充分な寺領があてられて経済的にも充実し、境内には数多くの堂塔が建てられていった。
しかし、南北朝の動乱初期、建武三年(1336)に楠正成の軍と足利軍がこの地で衝突した際、
楠正成が平等院に放火したことで多くの堂塔が灰燼に帰した。
平等院は交通の要衝である宇治橋のすぐそばであることから、ひとたび戦となればすぐに巻き込まれて被害を受け、
それから後も応仁の乱など室町後期の戦乱の中で焼亡したが、
平等院のシンボルともいえる阿弥陀堂(鳳凰堂)のみは戦火を免れ、現在に伝わっている。実際奇跡的。

表門前。
宇治橋方面から来た場合は、こちらから入ることになる。
表門を入ると左に見える、観音堂。
鎌倉時代の建築で、簡素な造り。
本尊は十一面観音菩薩で、観音堂とともに国指定重要文化財。
観音堂裏にある、「扇の芝」。
源三位頼政自刃の地とされている。
治承四年(1180)五月、平氏打倒を志した以仁王(後白河天皇皇子)は平氏追討の令旨を発して挙兵を試みたが、
兵が整わないうちに紀伊熊野で源氏方と平氏方の軍事衝突が起こってしまい、そこから事が漏れてしまった。
以仁王は園城寺へ逃亡し、源頼政を味方に付けると、さらに寺院勢力を引き入れて対抗しようとしたが、
意に反して手勢はほとんど集まらなかったため、南都興福寺へ向かうこととした。
しかし平知盛・重衡率いる六波羅の平氏軍精鋭がこれを急追し、早くも宇治にて追いつかれる。
そこで頼政が平等院に拠り、宇治橋の橋板を落として追手を食い止めることになったが、
宇治川を強行渡河してきた六波羅軍の前に衆寡敵せず打ち破られ、一族郎等次々に討死するにいたり、
頼政はもはやこれまでと扇を敷いて、

  埋れ木の花さく事のなかりしにみのなる果ぞ悲しかりける
   (埋もれ木に花の咲くことなどあるはずがなかったのに、花を咲かそうと事を起こしてしまったこの身の成れの果てが悲しいことだ)
    *「みのなる」が「身の成る」「実の生る」を掛けており、木・花・実が縁語となっている。

と詠んで自害した。時に五月二十六日、薨年七十七。
その場所がここ、「扇の芝」であると伝えられている。
頼政の墓は、境内の塔頭・最勝院の境内にある。

以仁王は同日、南山城の加幡河原(現・木津川市山城町綺田)にて追いつかれて討ち取られたが、
王の令旨は全国に放たれ、伊豆に流されていた源頼朝、信濃の木曽義仲、甲斐の武田信義ら各地の源氏が次々挙兵し、
平氏を追い詰めていくこととなる。
ただし新宮十郎、テメーはダメだ
阿弥陀堂。国宝指定。
鳳凰が両翼を広げたかのような美しいたたずまいから、近世より「鳳凰堂」の名で呼ばれるようになった。
平等院開創の翌年、天喜元年(1053)に建てられて以降、修理を加えられつつも建築当時の姿を維持している。
10円玉とか修学旅行先として日本人なら誰でも知っているはずの建物。
・・・は、この時は修理中ですっぽり覆いを被っており、小学校の修学旅行以来の拝見とはならず。
まあでも、こういう姿を見る方がレア度が高いというもの。

平等院は当初天台宗であり、本尊の大日如来を安置する本堂・大日堂が宇治河畔に建っていたが、
現在は失われており、この阿弥陀堂がメインの施設となっている。
本尊の阿弥陀如来は、平安後期に活躍した仏師定朝の作で、国宝。
鳳凰堂は見られないが、庭園はきれい。
これは国の名勝に指定されている。

境内には平等院の様々な物品を収蔵し展示する「鳳翔館」という施設があり、
鳳凰堂の屋根に置かれていた一対の鳳凰や堂内の雲中供養菩薩像(の半数)や鐘楼の梵鐘などが、
劣化を防ぐために保存、展示されている。

鐘楼。
平等院の梵鐘は日本三名鐘の一に数えられており、『都名所図会』にも「本朝三鐘の其一」と記されるなど、古来高名だった。
その三鐘とは、

  姿の平等院、声の園城寺(音の三井寺)、勢の東大寺

あるいは東大寺に換えて「銘の神護寺」が入る。
こういう「三大なんたら」は言ったもん勝ちみたいな感じがあるが、
まずは衆目一致の名鐘といえるだろう。
「姿の・・・」と呼ばれる通り、全面に施された華麗なる装飾が特徴。
そのかわり銘文がないため、いつ、だれの寄進で奉納されたかはわからない。
その様式から、11~12世紀のもの、とまでしか言えないようだ。
現在、オリジナルの梵鐘は大気汚染や酸性雨などによる劣化からの保護のために鳳翔館にて保存・展示されており、
鐘楼にはレプリカがかかっている。
梵鐘は国宝指定。  
鳳翔館の裏にある平等院旧南門。
伏見城からの移築と伝えられている。
養林庵書院。
慶長六年(1601)、伏見城より移築と伝えられる。
松花堂昭乗の扁額、狩野山雪工房の襖絵、
狩野山楽の床壁絵、そして細川ホヒョン三斎の平庭枯山水と、
有名人関わりまくりの国指定重要文化財だが、
中に入れないのでニンともカンとも。

養林庵書院は下の浄土院の施設の一。
浄土院。
平等院塔頭の一。浄土宗。
浄土宗の栄久上人が、明応年間(1492~1501)に平等院修復のために開創と伝えられる。
浄土院内の羅漢堂。
寛永十七年(1640)、宇治茶師・星野浄安道斎発願による建立。
和様主流の平等院にあっては異質な禅宗様の建物。
宇治市指定文化財。
浄土院は鳳凰堂の背面にあたる。
塀際に、源三位頼政卿供養塔と、
頼政の家臣、太敬庵通圓の墓がある。
通圓は隠居して宇治橋東詰に庵を構えていたが、
頼政の挙兵に応じて旗下に馳せ参ずるも敗れ、
頼政とともに自害した。
彼の子孫は代々宇治橋橋守として橋の管理を行い、
また橋を渡る人々に茶をふるまった。
現在、宇治橋東詰南にある通圓茶屋がそれ。

 

最勝院。
浄土院と並び立つ、平等院二塔頭の一。
天台宗寺門派聖護院末寺。
承応三年(1654)、京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧・澄栄が平等院に移り、その住庵を最勝院と号したのが開創と伝わる。
本尊、不動明王。

元来、平等院は天台宗の寺院であり、開祖も頼通が帰依していた園城寺(三井寺)の明尊だった。
しかし、戦国末の天正十年(1582)、円満院門主と平等院住持を兼任していた養慶が亡くなって以後は天台宗と関係が切れ、
専ら浄土宗の浄土院が平等院を経営していた。
江戸時代になると、幕府は平等院を天台・浄土両派によって護持するようにとの裁定を下し、
それによって最勝院が開創された。
以後、天台・浄土両派の輪番制で平等院を維持管理し、
平等院は戦後の宗教法人法による宗教法人化においてもしばらく兼学であったが、
その後、特定の宗派に属さない単立寺院となっている。
(ただし、最勝院は天台宗、浄土院は浄土宗の僧が住持となる)

本堂玄関上部、藤の花の透板彫りが施された欄間は、伏見城から移されたものといわれている。
手前に見切れているのが不動堂、奥に地蔵堂、
そして木々に囲まれる中に源三位頼政墓。
命日の五月二十六日には法要が営まれている。

 

平成10年より、それまでに行ってきた発掘成果に基づいて造営当時の庭園を再現すべく復元的整備工事が進められており、
平成12年には阿字池に平橋・反橋が架けられている。

宇治川、中の島。

平等院のすぐ前に宇治川の中洲である「中の島」がある。
「橘島」「塔の島」の二つからなり、それぞれ橋でつながれている。

橘島へと渡る橘橋。
工事中のため、この時は通行禁止。
橘島。
宇治橋先陣の碑が立っている。
橘島は護岸工事のため、この時は殺風景。
喜撰橋を渡ると、十三重石塔の立つ塔の島。
放生院を中興した僧・叡尊が、弘安九年(1286)の宇治橋架け替えにあたって放生会を営み、
宇治川における殺生禁断、また宇治川で亡くなった人馬の霊を供養する目的で建てたもの。
その後宝暦六年(1756)の洪水で倒壊、長く川底に埋没していたが、
明治四十一年(1906)に掘り出され、失われていた九重目と相輪を補修して再興されている。
対岸、観流橋。
11km東の瀬田川南郷洗堰から引かれ、
関西電力宇治発電所(水力発電)を通過してきた水が
宇治川と合流する地点に架かる。
橋の南(右のほう)に立つ銀杏の樹は、
宇治の秋のバロメーターとなっている。
銀杏の木の立つ奥には興聖寺があり、紅葉で有名。
興聖寺は曹洞宗で、道元禅師の開基。
もとは伏見深草にあったが、慶安二年(1649)に現在地に移転、
再興している。
下流、恵心院のあたり。
恵心院は真言宗智山派、弘法大師開基と伝えられる古刹。
創建当時は龍泉寺と呼ばれていたが、
寛弘年間(1004-11)に恵心僧都によって再興されたことから、
恵心院と呼ばれるようになった。
藤原氏や豊臣秀吉、徳川将軍家の保護を受け、
江戸時代には春日局が家光のために祈願を行っている。
境内には様々な花が植えられ「花の寺」と呼ばれており、
天然記念物である福島県三春の「三春滝桜」の子木もある。
塔の島から中島橋を渡って橘島へと渡り、そこから朝霧橋で宇治川東岸へと行ける。
朝霧橋上より、宇治橋上流方面。



許波多(こはた)神社。

『延喜式』神名式、山城国宇治郡十座のうち、許波多神社三座〔並大。月次・新嘗〕。

『釈日本紀』が引く山城国風土記逸文に、

  宇治の郡、木幡の社〔祇社(くにつやしろ)〕。名は天忍穂長根命(あまのおしほながねのみこと)である。

と、社名と社の分類、そして主祭神が記されている。
天忍穂長根命は、一般的には天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の御名で知られ、
天孫降臨をおこなった皇孫・瓊瓊杵尊の父神で、天照大神の長子。
『日本書紀』では、
天照大神が高天原に上ってきた弟・素戔嗚尊の赤心を試みるために天安河で行った誓約(うけひ)の時、
素戔嗚尊が「わたしの生む子が男ならば清い心であるとお思い下さい」と誓って、
天照大神の身につける勾玉を乞い受け、天の真名井で濯いでばりばりと噛み砕き、
吹き出した息吹の霧から生まれた五男神の第一の神で、
素戔嗚尊が、自らの潔白を証明できた、「まさしくわたしはすみやかに勝った」という御心から、
「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)」と名づけられた。
この時、天照大神は、
「子が生まれた元になった物根(ものざね。物が生じた根本)を尋ねると、勾玉はわたしのものである。
よって、その五男神はすべてわたしの子である」
と仰せになり、五男神を引き取って養育することにし、
また天照大神が素戔嗚尊の十握剣(とつかのつるぎ)を乞い受けて噛み砕き、
吹き出した息吹の霧から生まれた三柱の女神、いわゆる宗像三女神は素戔嗚尊の子として授けた。
天忍穂耳尊は天照大神に養育され、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘である栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶り、
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を生んだ。
高皇産霊尊はこの御子神を特に寵愛して養育し、葦原中国の主として降臨させることとした(古くは、幼児は母方の父が養育した)。
その時、地上は草や木や石すら物を言うほど騒がしく、夜は闇の中で不気味に輝く神があるなど治まっていなかったため、
「国譲り」が幾多の紆余曲折を経て行われ、ようやく用意が整ったところで「天孫降臨」が行われた。
神話において華々しく活躍はしないが、皇統における重要な神様。

なお『古事記』では、最初に天忍穂耳命が天孫降臨の役を命じられるが、地上が騒がしく治まっていないのを見て引き返してしまい、
国譲りの完了ののち改めて降臨を命じられるが、
用意の間に御子の日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)が生まれたのでこれを降すのがよいでしょうと上奏し、
それが通って邇邇芸命が天降ることになる、という、いささかニートっぽい役回りとなっている。

神名は、「アマ(天)・ノ(の)・オシ(力強くすぐれた)・ホ(稲穂)・ミミ(霊霊)」の意で、
「天上の稲穂の神霊」をあらわす。
天忍穂耳尊は天原の御田にて育てられた稲穂であり、
瓊瓊杵尊の降臨は、そこから得られた稲籾を地上に降したことの象徴なのだろうか。
日向国風土記逸文には、瓊瓊杵尊が降臨した時にはまだ地上は夜昼の区別なく暗闇であったのを、
その土地にいた二人の土蜘蛛の教えによって千穂を揉んで稲籾とし、それを四方に投げ散らした途端、天の下が明るくなったという伝承がある
(「高千穂」および臼杵郡知鋪〔ちほ〕郷の地名起源説話)。

『日本書紀』における天忍穂耳尊の表記は、

  〔第六段本文〕正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
  〔同段一書第一〕正哉吾勝勝速日天忍骨尊
  〔同段一書第二〕正哉吾勝勝速日天忍骨尊
  〔同段一書第三〕勝速日天忍穂耳尊
  〔第七段一書第三〕正哉吾勝勝速日天忍穂根尊

と、異伝のうちに神名を「アマノオシホネ」とするものが三つあり、むしろこちらの表記が多い。
「アマノオシホ」に親愛のニュアンスを含む「ネ」が付いた形であり、
これに「ナガ」という形容詞を加えたものが山城国風土記逸文にみえる神名。
以上のように天孫であるが、『山城国風土記』では「祇社(くにつやしろ)」と表記されている。
山城国風土記逸文では、たとえば久世郡の水渡神社について、「天照高弥牟須比命(アマテル〔あるいはアマテラス〕タカミムスヒノミコト)」という、
明らかに天つ神とみられる神を祀る社(久世郡、水渡神社)も「祇社」となっており、
これは律令制導入より前の神社の区別、
『日本書紀』崇神天皇七年十一月条に「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)、また神地(かむところ)・神戸(かんべ)をお定めになった」
とある、現在の認識とは異なる古い分類の仕方に基づいているものか、と考えられている。

『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、従五位下から従五位上への神階昇叙記事がある。
その後神階を上げていったようで、永禄十二年(1569)には正一位を授けられている。

現在、許波多神社は二社の論社があり、五ヶ庄、木幡という隣接する地域に鎮座している。
宇治は交通の要路であり、平安末の戦乱や承久の変、南北朝の戦いや応仁の乱などで戦いの舞台となることが多かった。
神社も戦災に遭うことが多かったと思われ、やむなく社地を遷すこともあったかもしれない。
また、中世、木幡の庄はすぐ北の紀伊郡伏見荘からの押領を受けるなどして大きくその領域を侵され、領域論争もたびたび起こっていた。
一方、木幡南部の五ヶ庄は五摂家筆頭の近衛家の荘園であり、侵されることは少なかった。
荘園の成立による新たな領域設定により、分割されたそれぞれの地域で許波多の神を祀るために分祀が行われたのだろうか。
近世には「柳大明神」と称されており、『都名所図会』には、

 柳大明神は木幡里にある。天忍骨尊を祭る〔この里の産土神とする。例祭は九月十六日〕

と記されている。
二社はともに許波多神社の後継社と考えられており、
延喜式に記されている三座のうち、木幡に二座、五ヶ庄に一座が分祀されていると考えられていた。
そのため、明治時代に式内社の比定が行われていった際、両社とも式内許波多神社である、と判定されている。
両社はかつてともに「柳大明神」と称しており、これは旧社地が大和田村柳山にあったことから。
柳山は現在の宇治市五ヶ庄三番割、黄檗公園の辺りで、五ヶ庄の許波多神社はここに鎮座していたが、
明治九年に五ヶ庄の大部分が陸軍火薬製造所用地として上知された際、社地が火薬庫予定地にあたったため、
現在地に遷座している。
平安時代初期の史料である『山城国宇治郡解』に、
「宇治郡五条七条上包田外里十七坪・十八坪に社がある」という記述があり、これは現在の木幡南山畑の麓あたりであるとみられている。
宇治市が編纂した『宇治市史』では、

 平安初期には本社である柳山の許波多神社から南山畑周辺へ分祀が行われており、
 のち、南山畑の分祀許波多神社が遷座して木幡の許波多神社となった。
 柳山の許波多神社は本社としてそのまま存続し、明治初期に陸軍火薬庫用地として上知のため、現在地に遷座した。

という説を採っている。
もっとも、延喜式内の宇治神社の「二座」が上社・下社という別の場所に鎮座する二社殿をもって「二座」と記しているように、
同じ郡内の許波多神社の「三座」も、元から別々にあった社を「こはたのかみのやしろ」として一括管掌していたものと考えることも可能。
「~神社 三座」というのは、「~神社へは主祭神ほか二柱の、合わせて三柱ぶんの祈年祭幣帛を頒布します」ということであり、
その三柱の神々が同じ場所にいらっしゃるかどうかを保証するものではない。
(さらには神社の祭神が三座のみである、ということではない。
ほかに数多くの神を祭っていても、神祇官が「その中のこれとこれとこれの神様だけ神名帳に登録します。あとは登録しませんので」
ということで、実際には十座くらい祀っていても「三座」としか記されていないこともありうる)
よって、当初より五ヶ庄・木幡(あるいはもう一所)の社を総称して「許波多神社三座」としていた可能性もある。

社名であり、地名である「こはた」については、
山城国風土記逸文に「宇治のもとの名を『許乃国(このくに)』という」とあること、そして木幡は宇治の北辺に伸びる地であることから、
許の国の端、「許端(こはた)」の意ではないか、といわれている。

五ヶ庄の許波多神社。
宇治市五ケ庄古川に鎮座。

鳥居前。
かつては東の山麓、大和田村柳山に鎮座していたが、
明治九年、五ヶ庄の大部分が陸軍火薬製造所用地として上知されたため、御旅所であった現在地に遷座している。
現在、火薬製造所跡地は陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処および京都大学宇治キャンパスとなっている。
400mほど南は自衛隊駐屯地だが、神社周辺は閑静な所。
木造鳥居、割拝殿、幣殿。
拝所前。奥に本殿。
祭神は天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)の三座。
本殿は旧社地より移築したもので、室町末期の建築であり、国の重要文化財に指定されている。
本殿脇には、末社が数社鎮座する。

旧鎮座地には境内から西、二町にわたって馬場があって、古来、競馬神事が行われていた。
神宝として馬具の半舌鐙・長舌鐙が伝わっており、国の重要文化財に指定されているが、
これは平安時代のものとされており、神事の歴史の古いことがうかがえる。
また、近世までの別当寺より男神・女神一対の神像が伝わっており、「馬頭天王」「弁財天」と称されているが、
この馬頭天王は馬頭を戴く珍しい神像であり、
競馬神事の故事もあって当社は「競馬の神様」としても信仰されている。


五ヶ庄は五摂家の一である近衛家の荘園の地であり、神社は長く近衛家によって保護されてきた。
近世、幕府も加わっての「隠元さん引き止め大作戦」のため近隣に黄檗宗萬福寺が建立されたことで、
鎮座地である大和田村は幕府に収公されたのち萬福寺領となったが、
柳大明神の社地は除地(非課税地)となっていたので、例祭においては近衛家より幣帛が奉られるなど、
良好な関係を続けていた。
寛永十七年(1640)秋、五ヶ庄に牛疫が蔓延した時、近衛信尋公が柳大明神に

  憐みをたるる柳の神ならば死ぬるをうしと思ひやはせぬ

と御献詠されたところ、悪疫はたちどころにおさまった、と伝えられている。
現在の鎮座地である旧岡屋村も、近衛家領であったところ。

ちなみに信尋公は後陽成天皇の皇子で、母方の近衛家に養子となった方。兄には後水尾天皇。
書や連歌に通じ、茶道はあの古田織部に師事した。
美形で、若い頃にはオッサンもいいとこの伊達政宗や藤堂高虎に柳生宗矩までもが近衛家に入りびたって親交を結び、
藤堂高虎は彼のために邸宅を建ててあげたりしていた。
ただし公はホモォではなく、一流芸者のハートをかけて京の豪商と争ったことがある(ただし結果は課金額の差?で爆死)。
へうげものに師事したせいか近衛家の家風か、ユーモアにも巧みであり、
福嶋正則主宰の茶会に招かれた際、正則が公家衆を案内しようとして茶室に至る門にかかっていた蜘蛛の巣を被ってしまい、
今にもプッツンして不手際の家人を成敗せんとした時、とっさの冗談でその場を和ませて収めたという話がある。
手水舎の手前に立つムクノキ。
推定樹齢500年で、宇治名木百選に指定。
社叢遠景。






木幡の許波多神社。
宇治市木幡東中に鎮座。

鳥居前。
神社の周囲は住宅地および鉄道に囲まれ、古い街道に面して西向きに鎮座する。
往古、木幡の山の西麓に山を背負って西向きで鎮座していたという形を守っているのだろうか。
この道路は県道7号線の裏道のようになっており、狭いながらも交通量は多い。
また、JR奈良線木幡駅と京阪宇治線の木幡駅に挟まれたところで、人通りもある。
京アニもある。
境内。神前へと続く。 左の写真にみえる鳥居の手前にある「狐塚」。
宇治には藤原氏の陵墓が多く、総称して「宇治陵」と呼ばれているが、
この塚も明治政府によりそのひとつであるとされていて、
現在は「宇治陵第36号墳墓」として宮内庁管理となっている。
被葬者は不明だが、藤原基経の墓であるという話もある。
その権勢のわりには小さすぎるような気がするがはたして。
二の鳥居、拝殿、本殿が並ぶ。
某軽音楽部アニメではカットされた拝殿もなかなかの造り。
神門(拝所)・本殿。
本殿は、流造の二社殿が並立している。
近世、こちらの柳大明神は二座を祭るとされていたのは、社殿がふたつあったからだろうか。
あの賽銭箱へ某あずにゃんに倣って千円を投入(10円お百度参り)した人も多いのだろうか。
本殿の左前面に「正一位柳大明神」、右前面に「田中神社」の燈籠が立つ。
許波多神社は明治末期の神社合祀政策により、旧河原村の田中神社を合祀している。
現在は左殿に許波多神社、右殿に田中神社を祀っているということになるのだろうか。
本殿右側に南向きに立つ末社群。
奥から、市杵島姫社・稲荷社・愛宕社をあわせ祀る社、八幡社、天照皇大神宮、春日社。
末社群の奥には、クスノキの巨木が立つ。

住宅や鉄道に圧迫されて立地的にはかなり窮屈なところだけど、境内の雰囲気はかなりよく、
年配の方が次々に散歩に来られていた。古社のたたずまい、というものか。





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