これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
*山城国
久世郡(久御山町、城陽市、京都市伏見区淀。
なお、近世には宇治郡の宇治郷が久世郡に編入されていたが、昭和26年の宇治市発足の際、久世郡より分離・復帰している)
水主神社・樺井月神社 | ||
綴喜郡(井手町、宇治田原町、八幡市、京田辺市、城陽市の一部、京都市伏見区淀の旧・美豆村地区)
「つつき」の名は、『古事記』開化天皇記に、
開化天皇の皇子・比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)の子に大箇木垂根王(おほつつきたりねのみこ)、
あるいは同じく開化天皇皇子・日子坐王(ひこいますのみこ)の子に山代之大箇木真若王(やましろのおほつつきまわかのみこ)がおり、
御名の「つつき」はこの地名にもとづくものと考えられている。
*「箇」の字は、古くは「筒」の異体字として用いられていたため、「ツツ」と読む。
この時代は天皇や皇族が丹波国や山城国の豪族の女性を娶っていることが多く、当時の外交姿勢が垣間見える。
ちなみに、同書・垂仁天皇記には、「(天皇が)大箇木垂根王の娘・迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)を娶って生んだ御子は袁耶弁王(をざべのみこ)」
と記しており、この「迦具夜比売命」が『竹取物語』の主人公「かぐや姫」の原型ではないか・・・という説もある。
のち、仁徳天皇と不和となった皇后の磐之媛命が一時宮室を設け、
また継体天皇が一時期ここへ宮を置いていた。
石清水八幡宮 | |
久世郡:
水主(みずし)神社。
樺井月(かばいつき)神社。
城陽市水主に鎮座。
京阪奈自動車道・城陽ICの南、木津川の東岸に鎮座する。
同一境内に二社の式内社が祀られている。
そのうち水主神社は、『延喜式』神名式、山城国久世郡二十四座のうち、
水主神社十座〔並大。月次・新嘗。このうち、同じく水主に坐す天照御魂神、水主に坐す山背大国魂命神二座は相嘗祭に預かる〕
と記される神社。
祈年祭班幣に預かる神が十座あり、そのすべてが「大」であって月次・新嘗祭においても班幣があり、
さらにそのうちの二座は京畿内に七十一座しかない相嘗祭班幣に預かっている。
主祭神はおそらく相嘗祭班幣に預かる二神のうちの一、「水主坐山背大国魂命神」であり、水主に鎮座する山城国の国土の神霊。
古くは久世郡一郡だけでなく、山城国内においてもとくに崇敬された神社だったのだろう。
そして、もう一社の「同水主坐天照御魂神」は、「同じく、水主に鎮座する」天照御魂神(あまてるみたまのかみ)。
書き方では同一境内鎮座のようだが、これも高い崇敬を受けていた神社だった。
天照御魂神は、記紀神話に登場する「火明命(ほあかりのみこと)」と同体とされている。
火明命は尾張地方の豪族である尾張氏の祖とされる神で、
皇統譜においては、異伝において少々の違いがみられるが、
いずれも皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと。天照大神の御孫で、天孫降臨を行った)、
あるいはその御子である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと。いわゆる山幸彦)の兄弟としており、
皇室と非常に近しい存在であるとされていた。
奈良県の箸墓の辺りに広がる3世紀頃の遺跡で、「邪馬台国」であるという説もある纏向遺跡から出土する土器のうち、
大和地方以外のものでは東海地方(伊勢・尾張)のものが約半数と圧倒的に多く、
纏向の地を都とした垂仁天皇(纏向珠城宮)・景行天皇(纏向日代宮)の頃、尾張氏の一族は多く大和に移り住んでおり、
初期大和朝廷内で重きをなす勢力であったことがうかがえる。
第五代孝昭天皇は尾張連の祖・瀛津世襲(おきつよそ)の妹、世襲足媛(よそたらしひめ)を皇后として迎え、
天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)・日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと。第六代孝安天皇)
を生んでいる。
兄の天足彦国押人命は即位はしなかったが、
春日臣・小野臣をはじめとする十三の臣、伊勢国の飯高君・一志君そして近江国造の祖となっており、皇別氏族の雄だった。
また、崇神天皇の妃にも尾張大海媛が入り、八坂入彦命・渟名城入姫命・十市瓊入姫命(『記』は大入杵命も加える)を生んでいる。
そういった皇室との関係の深さが神統譜に反映されているのだろう。
『新撰姓氏録』山城国神別・天孫条には、
尾張連。火明命の子、天香語山命の後なり。
六人部連。火明命の後なり。
伊福部。上に同じ。
石作。上に同じ。
水主直。上に同じ。
三富部。上に同じ。
とあるように、山城国にも尾張氏とそれに連なる一族が多く住んでおり、
水主の豪族である水主直もそうであるとされている。
また『新撰姓氏録』左京神別下・天孫の条には、
榎室連(えむろのむらじ)。
火明命の十七世の孫、呉足尼(くれのすくね)の後である。
山猪子連(やまゐこのむらじ)らは上宮豊聴耳皇太子(かみつみやのとよとみみのひつぎのみこ。聖徳太子)の御杖代として仕えた。
太子が山背国へ巡行された時、古麻呂の家が山城国久世郡水主村にあったが、その門に大きな榎樹(えのき)があったので、太子は、
「この樹は室(むろ)のように繁っている。大雨も漏らすまい」
と仰せになった。そして、榎室連の姓を賜わった。
と、水主の地に火明命の子孫が住んでいたという氏族伝承もある。
榎室連や水主直がその祖神を祭っていたのが「同水主坐天照御魂神社」ということになる。
「同水主坐」ということから、水主坐山背大国魂命神の相殿もしくは摂社という位置づけなのだろうが、
かたや天孫、かたや地祇であり、神格が上であるためだろうか、主祭神よりも先に記されている。
現在の祭神は、
天照御魂神、天香語山神、天村雲神、天忍男神、建額赤命、建筒草命、建多背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂命
の十座。
火明命とその八代の子孫、および山背大国魂命を祀っている。
山背大国魂命については、倭得玉彦命の子である玉勝山背根古命と同一視する説もある。
すると、尾張氏始祖オールスターズの社ということになる。
同一神社で最多の神が官社登録されているのは出雲国出雲郡の阿須伎神社の十一座
(阿須伎神と「同社・・・神」十座。なお『出雲国風土記』によれば、同社で官社登録されていない神がなお二十八座もある)だが、
それに次ぐ十座もあってそれらがみな「大」であるというのは水主神社が唯一。
この水主は、当時はほぼ湿地であった京都盆地を大和朝廷が開拓するにあたってのベースキャンプ地のひとつだったのかもしれない。
水主神は山城国の山川を領する国土の神霊を祀る社であり、社名どおり木津川の河畔に鎮座する水神でもあったので、
都が平安京に遷って後は祈雨のためにしばしば奉幣がなされていた。
『文徳天皇実録』天安二年(858)七月十二日条には、
「雨師(丹生川上神社。大和国吉野郡鎮座)・乙訓(乙訓坐火雷神社)・水主・貴布禰の神等に雨を祈ったところ、夜に雨が降った」
という記事があり、
『日本三代実録』貞観元年(859)九月八日条には、京畿の45社に奉幣して風雨を祈った中に名が見える。
貞観八年(866)七月十四日条には、賀茂御祖・別雷、松尾、丹生川上、稲荷(伏見稲荷)、水主、貴布禰神に祈ったところ雨が降った、とあり、
同年十一月二十日条には神階従四位下から従四位上へと昇叙されている。
元慶二年(878)六月三日条には、賀茂御祖・別雷、松尾、稲荷、貴布禰、丹生川上、乙訓、水主の八社に祈雨が行われ、
元慶七年(883)五月二十二日条には、旱のために夜分に使いを遣わし、松尾、賀茂御祖・別雷、稲荷、貴布禰、水主、乙訓の七社に雨を祈っている。
山城国内における祈雨に霊験のある七社の一として、朝廷からの崇敬も高かった。
樺井月神社は、『延喜式』神名式、山城国綴喜郡十四座の筆頭に記される。
「大」であり、祈年祭のほか月次・新嘗祭においても朝廷の班幣に預かった。
綴喜郡では、ほかに「月読神社」も「大。月次・新嘗」に指定されており、月神信仰の盛んな地域だったようだ。
祭神は、もちろん月神である月読命。
綴喜郡は現在の京田辺市・八幡市・井手町・宇治田原町・城陽市南端部(旧青谷村)・京都市伏見区淀町の一部(旧美豆村)であり、
もとは水主神社とは木津川を隔てた対岸、あるいは木津川の中洲である樺井の地に鎮座しており、
のち、社地が洪水で流失したために水主神社へ合祀されたと伝えられている。
これは、古くは水主と樺井の間に渡し場があり、また機会に応じて仮橋もかけられていたといい、
その縁で合祀したという。
月は暦の神であり、海の満ち干に関わる水の神でもあったので、木津川を治める水の神として祭られていたか。
水主神社は天照御魂神を祀り、樺井月神社は月読命を祀るとなると、川を隔てて東に太陽神、西に月神を祀っていたということになる。
『古事記』には、安康天皇が眉輪王に父の仇として暗殺されたのち、
その皇子である雄略天皇が眉輪王のみならず皇位継承権をもつ皇子をことごとく殺して即位した時、
殺された皇子の一人である市辺王の子で、まだ幼い意祁王(第二十四代仁賢天皇)・袁祁王(第二十三代顕宗天皇)の両皇子が難を逃れて逃走したが、
その途中「山代の苅羽井(かりはゐ)」にて食事をしていると「山代の猪甘」という老人に食物を奪われた、と記しており、
これが樺井のこととする説もある。
当社は「牛馬の神」としての信仰がある。
『続日本後紀』承和十二年(845)五月九日条に、
山城国が言上するには、
「綴喜・相楽の両郡内において、去る三月上旬より虻虫が大量発生しています。
その身は赤く首は黒く、大きさは蜜蜂のようで、好んで牛馬を咬み、咬まれたところは腫れ上がります。
相楽郡の牛は斃れ死んで残っておりません。綴喜郡にては病死するものが相次いでおります。
郡司・百姓が卜筮を行い、仏神に就いてそれぞれ祓除(はらへ)を行いましたが、止みません。
疫病の気は今、北上しております」
と。その由を卜させたところ、綴喜郡の樺井社、また道路の鬼が更(あらた)めて祟りを為している、と出た。
そこで使いを遣わして祈謝するとともに、牛疫の処方と祭の料物を賜わった。
という記事があって、虫による牛疫が樺井社および道路の鬼の祟りで起こり、それらを祭って鎮めたという。
樺井月神社では現在も2月20日に牛馬攘疫祭を斎行しており、境内には、狛犬ならぬ狛牛がいる。
この朝廷からの奉幣が契機となって、以後慣例となったものだろうか。
あるいは、月神は暦と水をつかさどる農業神としての面ももっているので、
農耕における重要なパートナーであった牛馬の守護神としてそれ以前から信仰されていたか。
世界的に見ても、月神と牛には深いつながりがある。
また、旧鎮座地一帯はもと綴喜郡大住郷といい、大隅隼人の移住地であることから、
隼人の信仰に基づくものという説もある。
社前。 周囲は田んぼやビニールハウス。西には京阪奈道。 |
境内。木々がよく繁っていて、薄暗い。 旧社格も府社で結構な格だったが現在は兼務社であるらしく、神職さんの姿はない。 手水舎と神門がみえる。 |
神門。 門には格子戸がかけられており、門内より拝する形になる。 |
境内西には絵馬殿。 |
水主神社本殿。 現在の社殿は寛政十年(1798)造営。 |
水主神社本殿の前に西向きの小祠が鎮座しており、 これが樺井月神社だろうか。 |
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針乃碑。 水主神社には大縫命・小縫命を祀る衣縫(きぬぬい)神社が合祀されており、 この二柱は衣縫の技能をもって第十三代成務天皇に仕えたという故事から、 毎年四月に衣縫神社の祭礼が行われている。 この大縫命・小縫命も天火明命十世の孫で、尾張氏の一族。 |
綴喜郡:
八幡市八幡高坊、男山の鳩峯に鎮座する。
豊前国宇佐八幡宮(現在の社号は宇佐神宮)の勧請社であり、
伊勢大神宮とともに「国家二所宗廟」と称され絶大な崇敬を集めた、八幡大神の社。
祭神は宇佐神宮(宇佐八幡宮)と同じく、
誉田別尊(ほむたわけのみこと)
比咩大神(ひめおおかみ)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
を祀る。
誉田別尊とは第十五代応神天皇の諱であり、この天皇の治世には大陸・半島より多数の人が渡来・帰化し、
また漢字や書物が輸入され、大陸の学問・文化が日本にもたらされた。
比咩大神は多紀理毘売命(たきりびめのみこと)市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)、多岐津毘売命(たきつびめのみこと)の、
いわゆる「宗像三女神」をさす。
『日本書紀』には三女神はまず宇佐に天降ったという伝承を記しており、
宇佐八幡宮においては八幡大神の鎮座よりも前から祀られていたとされている。
息長帯比売命は第十四代仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母君である、いわゆる神功(じんぐう)皇后。
住吉三神を守護神として海を渡り新羅遠征を行われたことから、住吉大社においても祀られている。
『日本書紀』では応神天皇即位前の摂政とみなして天皇の列には加えていないが、
特に一巻を立てて伝が記されていることから、近世までは第十五代天皇とみなされていた。
この三柱を総称して「八幡大神」と称する。
清和天皇の貞観元年(859)七月十五日、南都大安寺の僧・行教(ぎょうきょう)が宇佐八幡宮に参詣した際、
「わたしは都に近い石清水男山の峯に移座し、国家を鎮護しよう」
という八幡大神の御神託を受けた。
この神託が上奏されると、朝廷は木工寮の橘良基に宣旨を下して男山に六宇の宝殿を造営させ、
翌貞観二年(860)四月三日、八幡三所の神璽を奉安申し上げたのが石清水八幡宮の創祀と伝えられる。
「石清水八幡宮護国寺」と呼ばれて当初より神仏混淆の社であり、どちらかというと仏式優位のスタイルだったため、
その崇敬の高さにもかかわらず、神祇官が祈年祭幣帛を頒布する「官社」には入らなかった。
ただし八幡宮への崇敬は奈良時代より高まっており、石清水への鎮座以降は伊勢・賀茂とともに皇室の高い崇敬を受け、
とくに伊勢と並ぶ「二所宗廟」として重んぜられた。
平安後期になって律令体制の弛緩とともに全国の官社への幣帛頒布が難しくなってくると、
朝廷は畿内の特に崇敬の高い限られた社にのみ定期的な奉幣を行うようになり、これをその数から「二十二社」と呼ぶが、
そのうちでも伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日からなる「上七社」に列し、高い社格を有した。
清和天皇の裔である清和源氏が八幡宮を崇敬して氏神としたことから武家の守護神ともなり、
のちに源氏が鎌倉に本拠を構えた際には八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創祀した。
そして鎌倉御家人が全国各地に地頭として赴任した時、彼らがその任地に八幡宮を勧請したために八幡信仰は日本全国に広まり、
現在では稲荷社とともに日本で最も多い神社数を誇っている。
神社というよりは仏法的な要素が強く、日本各地に社領を有し経済的にも充実していたために境内には壮麗な堂塔が立ち並んでおり、
山麓にあった下院・極楽寺や摂社の高良社ですら堂々たる威容を備えていた。
そのため、『徒然草』内でもとくに有名な第五十二段のエピソード、
仁和寺のある法師が、年老いるまで石清水を拝んでいなかったのを残念に思い、
ある時思い立って、ただひとり徒歩で詣でた。
極楽寺・高良社などを拝み、これでよいと思って帰った。
さて、仲間に向かって、
「年頃思っていたことを果たしました。聞いていた以上に尊くいらっしゃいました。
それにしても、参った人が皆、山へ登っていたのですが、何があったのでしょうか。
気にはなりましたが、神様にお参りすることが目的なのだと思って、山までは見に行きませんでした」
と言った。
少しのことにも、案内者を持ちたいものである。
というのも、高良社・極楽寺の規模が神社本殿とその神宮寺と見まがうばかりであって、
「知識のない者は間違えても仕方がない」という一般認識が前提となっている。
それゆえ、高い学識を備えているはずの仁和寺の僧が誰でも知っている石清水八幡宮の本殿の場所を知らず、
知らないくせに聞きもしなかったというのが滑稽で面白いということ。
もっとも「知っているつもりで実は知らない」ということはいくらでもあるので、仁和寺の法師を迂闊に笑えない。
にしても兼好さん、52~54段にかけて仁和寺ネタ三連発でいずれもマヌケ話(あと第60段に、有能だけど変人な僧都の話がある)。
皇室門跡寺院である仁和寺の格式とそこに住む僧のアホな所業というギャップが当時話題になったのだろうが、
それらを後世にしっかり伝えて差し上げるとは、なにか恨みでもあったのか。
行教は大和朝廷黎明期よりの古豪である紀氏の一族であったので、
社僧には多く紀氏の者が含まれており、特に別当職は紀氏が世襲した。
現在の社職である田中家・善法寺家はともにその子孫になる。
平安中期以降、紀氏は応天門の変に連座したことで政界中枢より遠ざかったが、
その代わり、石清水八幡宮別当職として大きな勢力をもつことになった。
行教には弟がおり、法名は益信、諡号は本覚大師。真言宗を極め、弘法大師直系の第四世とされる。
宇多上皇の受戒の師となったほどの高僧であり、石清水八幡宮の初代検校職もつとめた。
一説には、行教は備後国品治郡(広島県福山市新市町南部および駅家町一帯)の出身であったといい、
当地の豪族である品治氏は武内宿禰の後裔を称していた。
武内宿禰は、第八代孝元天皇の皇子・比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)が、
木国造(きのくにのみやつこ。紀伊国造)の祖・宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影日売(やましたかげひめ)を娶って生んだ子で、
成務天皇から仁徳天皇の治世にかけて朝廷に仕えた。
武内宿禰の子である木角宿禰(きのつののすくね)は木臣(きのおみ)の祖、つまり紀臣という氏姓の祖となっている。
広島県福山市蔵王町(旧・備後国深津郡)にある遺跡「宮の前廃寺跡」は奈良時代~平安初期の寺跡だが、
そこからは「紀臣和古女」という紀臣の名のある文字瓦が出土していて、備後地方にも品治氏をはじめとする紀氏一族が多く住んでいたとみられ、
『日本三代実録』貞観六年(864)十一月十日条には、
「備後国品治郡の人、左史生従八位上の品治公宮雄(ほんちのきみ・みやを)の本貫を山城国葛野郡に改めた」という記事があって、
品治氏も中央政界の末端で働いていたことが知られる。
男山は王城の南に聳える要害の地であるため(古代には烽火を上げる施設があった)、
京都をめぐる幾多の戦乱に巻き込まれてその度に社殿・伽藍は焼亡し、
そのため近世にはかなり規模は縮小していたが、なお多くの堂塔を備えていた。
しかし、明治初年の神仏分離において境内より一切の仏法施設は取り除かれ、現在の形となっている。
ただし、もともと神道と仏法の混淆した状態で生まれた石清水八幡宮から仏法を取り除いても、
それは「本来の姿」になったというわけではなく、「別のものになった」ということになる。
八幡宮独特の祭典である「放生会」も仏法の要素を含むことから明治初年に禁止されたが、
近年、春日大社の若宮おん祭りにおける古儀復興や下鴨社の賀茂祭における神馬渡御の儀の一部復興など、
各地の大社では明治政府の命令などにより断絶していた古儀の復興が試みられており、
当社でも石清水祭における「放生」の儀式が復活している。
この、八幡宮で行われる放生会の起源は、
『政事要略』巻二十三、年中行事八月・石清水放生会条に、旧記を引用して、
旧記にいう。
養老四年(720)に豊前守宇奴首男人(うぬのおびと・をひと)を将軍とし、大御神を請い奉りて、
大隅・日向国にて反乱の隼人らを征伐し、殺した。
大神が託宣するには、
「われはこの隼人を多く殺した報いとして、毎年放生会を仕え奉るべし」と。
と、隼人の反乱において豊前国守がその討伐のため宇佐の八幡神の動座を請うて戦い、多くの隼人を殺したため、
それへの報い(慰霊と滅罪)のために行われるようになった、と記されている。
もともとは宇佐八幡宮の祭典であり、それが勧請先の八幡宮でも同じく斎行されていったもの。
この隼人の反乱は『続日本紀』養老四年二月二十九日条以下に記されており、
隼人が蜂起して大隅国守の陽侯史麻呂(やこのふひと・まろ)を殺害したという大規模なもので、
朝廷は大伴宿禰旅人(おほとものすくね・たびと。酒大好き)を征隼人持節大将軍として派遣しこれを討伐させた。
藤原朝臣不比等が同年八月三日に薨去したために大伴旅人は召し返されたが、
副将軍の笠朝臣御室はとどまって掃討につとめ、ようやく翌年七月七日に帰還し、斬首・捕虜1400人余であったと報告している。
鎮圧までの期間がほぼ一年半にわたっていることから相当根強い抵抗があったと考えられ、
その戦いにおける強烈な印象が放生会の発生につながったのだろう。
本殿は山上に鎮座しており、参道は山の北東麓にある一の鳥居から山の南へとぐるりと回りながら登っていくことになる。
また、北麓の八幡市駅からは「男山ケーブル」が出ており、こちらを使えば楽。
駐車場は、一の鳥居の少し南の高良社・頓宮の前に設けられている(有料)。
男山のすぐ北、 木津川沿いにある八幡市駅。 石清水八幡宮の最寄駅となる。 ここから南に少し歩けば、一の鳥居に達する。 |
一の鳥居前。 平安京の南にあたるため、鳥居は山の北に置かれている。 一の鳥居の額は、「三蹟」の一である藤原行成卿の筆になる一条天皇の勅額を、 江戸時代に松花堂昭乗が行成卿の筆跡を寫して作られたものであり、 オリジナルは神庫に保存されている。 昭乗は江戸時代初期の僧で、堺の出身。 近衛信尹に仕えたのち石清水八幡宮にて出家、瀧本坊にて真言密教を学びつつ公武間の斡旋に奔走した。 密教を極めて阿闍梨位を授けられ、また瀧本坊住職となり、そののち坊を甥である弟子に譲って泉坊に隠棲した後、 その坊内に方丈の草庵を結び「松花堂」と称したことから松花堂昭乗と呼ばれるようになった。 当時の一級の文化人であって書・画・茶その他多方面の道に深く通じており、 特に書においては近衛信尹・本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称えられている。 平成23年の瀧本坊遺跡発掘調査においては、 敷地内にあった茶室が崖にせり出して造られた「懸造り」という空中茶室であったことが判明しており、 制作に携わったといわれている小堀遠州と昭乗の奇抜な発想がうかがえる。 奥には頓宮、右手には放生池がある。 頓宮前左手の建物の中には「筒井」という井戸があり、「八幡五水」の一に数えられる。 |
放生池。 現在では九月十五日に行われる勅祭「石清水祭」にて、魚鳥を放つ行事が行われる。 かつては旧暦八月十五日に行われており、「石清水放生会」といって、 仏法の殺生禁断の思想に基づき魚鳥を放つことで天下泰平・万民安楽を願う祭だったが、 仏法色が強かったために明治初年に禁止され、のち明治十七年に勅祭として仏法色を排し「石清水祭」として再興されたのち、 近年になって「放生」の儀が復興され、可能な限り古儀に近い祭典を行うようになっている。 |
放生池の鯉。 石清水祭の前にあらかじめ捕まえられ、 祭典において放生されるという大役がある。 |
頓宮の裏手。 頓宮は、神輿の渡御において神御を一時奉安する御旅所であり、 石清水祭においては朝夕の勅祭が行われる。 かつては四方に廻廊を設ける壮麗な社殿だったが、 明治元年の鳥羽・伏見の戦いにおいて戦火にかかり焼失、男山四十八坊のうち岩本坊の神殿を移築して仮宮とし、 その後大正四年に造営がおこなわれた。 平成23年に修理が行われ、その際に屋根が檜皮葺から銅板葺に葺き替えられている。 |
頓宮正面。 神門は山上の南総門を移築したもので、 平成23年の修理において銅板葺に葺き替えられている。 |
左手には摂社・高良(こうら)神社が鎮座する。 |
高良神社拝殿および本殿。 高良神社の祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)。 筑後国一宮・高良神社の勧請になる。 古い文献には「かはらのやしろ」「河原社」とあり、もとは川のほとりに鎮座しているため「河原社」と呼ばれていた社が、 「高良(こうら)」と音が似ていることから「高良社」と呼ばれるようになったのではないか、といわれている。 なお宇佐八幡宮では、神門の随神として高良大明神と阿蘇大明神が鎮座している。 この一帯、八幡地区の氏神であり、七月に行われる「太鼓祭り」では各町内より「太鼓みこし」が担がれる。 |
高良神社の御神木であるタブの木。 樹齢約700年。 |
二の鳥居。 この鳥居をくぐれば表参道を行くことになる。 右手からは裏参道が伸びるが、この時は土砂崩れのために通行禁止となっていた。 |
表参道を行くと「七曲」と呼ばれる九十九折の上り道に入り、その上に大扉稲荷社が鎮座。
祭神は御食津神。
さらに直進して登ってゆくと、参道は大きく右曲して三の鳥居前に達する。
稲荷社からは右に上っていく道もあり、そちらを行くと石清水社(いわしみずしゃ)に達する。
石清水社は石清水八幡宮摂社で、祭神は天之御中主神。
八幡宮鎮座以前より祀られていたと伝えられる。
社前には「石清水井」という井戸があって、霊水「石清水」が湧き出ているが、
これが「石清水八幡宮」の社号の由来となっている。
かつて朝廷の御祈祷・将軍家の祈誓にあたってはこの霊水を「御香水」として神前に奉る例となっており、
現在でも年間の祭典においてはこの石清水を早朝に汲み上げ、神前に奉っている。
松花堂昭乗が修行していた瀧本坊はこの石清水の近隣にあった。
石清水社へ向かう参道の傍らには、松花堂昭乗が隠棲して晩年を過ごした泉坊の「松花堂跡」がある。
参道の周辺には、かつて護国寺や「男山四十八坊」と呼ばれた数多くの僧坊があった。
表参道を登り切ったところから下を見る。 | |
三の鳥居と向かい合って、神馬舎が建つ。 |
三の鳥居。 鳥居をくぐると、燈籠の立ち並ぶ石畳の参道となる。 |
三の鳥居から伸びる参道は「馬場先」と呼ばれるが、
鳥居から少し進んだ所に自然石が露出している所がある。
これを「一ツ石」といい、これは祭礼においてかつて行われていた走馬・競馬の出発点で、
これに対して南総門下には「五ツ石」があって(今はない)その終点となっていた。
一般の参拝者はこの一ツ石をお百度・千度参りの起点としたことから「お百度石」「勝負石」とも呼ばれ、
これは蒙古襲来の折、人々が一ツ石と本殿の間を往復する「道俗千度参」を奉修したことに由来するといわれている。
ずらり。 | 御鳳輦舎。 |
長い石燈籠の参道の右手には神職養成のための学校である「学校法人 京都皇典講究所 京都國學院」の事務所があり、
神職を志す人々(若者が中心)は午前中に石清水八幡宮で実習を行い、午後は京都市内にある学校にて勉学に励む。
キビシソウダネ
南総門。 右手にはカヤの巨木が立っている。樹齢は700年以上。 このカヤの実は例祭である石清水祭の神饌として用いられており、 茶道・裏千家の初釜式においては 「蓬莱山飾り」という新春のお飾りとして用いられている。 |
楼門、舞殿、幣殿、その奥に本殿。その周囲を廻廊が囲む。 本殿は「内殿」「外殿」の二殿を「相の間」で連結する「八幡造」で、 現在の社殿は寛永十一年(1634)、江戸幕府三代将軍徳川家光公の寄進になるもので、国指定重要文化財。 相の間にかかる雨樋は「黄金の雨樋」と呼ばれ、天正七年(1579)織田信長公の寄進と伝えられる。 それまでは木製であった雨樋を唐金製にしたもので、 今後もし宮殿に被害があった場合はこれを売って修理の足しにするように、との心遣いであったといわれている。 宇佐の八幡宮は三殿が独立しているが、石清水においては内殿・外殿・相の間がそれぞれひとつなぎになっている。 本宮瑞垣内には、摂社の武内社が鎮座している。 祭神は武内宿禰命(たけうちのすくねのみこと)で、 成務天皇・仲哀天皇・神功皇后(応神天皇摂政)・応神天皇・仁徳天皇の五代に仕えた長寿の人。 もちろん応神天皇の臣としても多大な貢献を行ったことから、特に瑞垣内に祀られている。 鎮座は本宮と同じ貞観二年と伝えられる。 本殿は参道の一直線上にはなく、角度がずれている。 これは、御神前で参拝して帰る時、八幡大神に対して真正面に背中を向けないよう中心を外しているためといわれている。 神前作法においては、祝詞奏上や玉串拝礼などの行事は正中(神様の真正面)で行うが、 それが終わって退出する時はまず斜めに後ずさって正中を外して、それから回転して戻るようになっており、 それと同じだろう。京都は礼儀作法に厳しい、というところだろうか。 |
左手にある神楽殿。 神楽殿の背後の右手には大楠が立っており、 京都府指定天然記念物となっている。 伝承によれば、建武元年(1334)、 楠正成公が戦勝祈願のために楠千本を八幡山に植えた、 と伝えられており、楠正成公お手植えといわれている。 『都名所図会』では、 楠正成公の楠は東総門外にあるとしており、 その傍に「安宗別当社(あんじゅべっとうしゃ)」という、 行教和尚の弟子で石清水八幡宮護国寺初代別当である 安宗の霊を祀る社があるとしている。 |
本宮西、西総門の北に鎮座する末社、廣田社・生田社・長田社。 それぞれ天照大御神・稚日女命・事代主命を祀る。 いずれも兵庫県西宮市および神戸市に鎮座する同名社の勧請で、 主祭神の一である神功皇后の新羅遠征において守護神となった神々。 鎮座は天喜三年(1055)と伝えられる。 奥には校倉造の宝蔵がある。 建築年代は明らかではないものの、類例の少ない建物であることから、 京都府指定文化財となっている。 |
本宮・摂末社を囲む塀は築地塀となっている。
瓦と土を幾重にも重ねたもので、織田信長公が好んで採用したとされる様式であることから、
「信長塀」ともいわれる。
鉄砲に対する耐久力や耐火性に優れており、実戦的な塀といえるだろう。
校倉の東隣には、 摂社の住吉社と末社の一童社が鎮座する。 住吉社は貞観十一年(869)鎮座と伝えられ、 祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神で、 神功皇后の新羅遠征を守護した海上交通の守護神。 一童社は鎮座年月不詳。 祭神は磯良命で、海の神。 安曇氏の本拠であった筑紫の志賀島周辺で信仰されており、 『太平記』などにみられる後世の所伝では、 神功皇后の新羅遠征に随行して功を立てたとされる。 この神はいつも海の中で暮らしているため、 顔に牡蠣や海藻がくっついて醜い外見であると伝えられている。 |
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北総門の東隣には、末社の貴船社・龍田社が鎮座する。 貴船社の祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で、水神。 龍田社の祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)・ 級長津媛命(しなつひめのみこと)で、風神。 ともに同名社の勧請であり、 農業に必要な風雨の順調を祈る社。 建久二年(1191)鎮座と伝えられる。 |
築垣内東北隅には、摂社の若宮社・若宮殿社および摂社の水若宮社、末社の気比社が鎮座する。 写真右には東総門の軒先が見える。 南面する二社のうち、左の大きな社が若宮社で、仁徳天皇を祀る。 仁徳天皇は応神天皇の御子で、第十六代天皇。 人民の困窮を見て三年の間課役を止めるなどの仁慈の政を行ったことから「聖帝(ひじりのみかど)」と称えられる。 この時は檜皮屋根の修理中。 その右手の社が若宮殿社で、応神天皇の皇女を祀る。 『都名所図会』では、この二社は「仁徳」「姫若宮」と記されている。 西面する二社のうち南の大きな社、水若宮社は菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を祀る。 菟道稚郎子命は応神天皇の皇太子で、大陸伝来の学問を修めた非常に聡明な皇子だったが、 天皇崩御後は兄の大鷦鷯皇子(仁徳天皇)に皇位を譲り、 大鷦鷯皇子も先帝の決定を覆すことはできないと弟に譲り、互いに譲り合って空位の状況が続いたため、 苦悩した菟道稚郎子命はついに自ら命を絶って兄に皇位を譲られたと伝えられる。 『都名所図会』には「宇治御子」と記されている。 以上の三社は貞観十一年(869)鎮座と伝えられる。 西面する二社のうち小さい方の社、気比社は越前国敦賀の気比神宮の勧請であり、祭神は気比大神。 記紀には、応神天皇が皇太子の時に敦賀へ行き、気比大神と御名を交換したという逸話が収録されている。 鎮座は永正二年(1505)と伝えられる。 住吉社、若宮社、若宮殿社、水若宮社は国指定重要文化財。 左端に見える本殿廻廊の東北隅の下の石垣はその角がすっぱりとカットされたようになっており、 「鬼門封じ」のためといわれている。 |
ここからは見えないが、東総門外には水分(みくまり)社が鎮座する。
祭神は國之水分神で、弘安三年(1280)鎮座と伝えられる。
本宮の西南、休憩所「石翠亭」のある広場の北には三女神社が鎮座する。
祭神は宗像三女神で、暦応二年(1339)鎮座と伝えられる。
『都名所図会』には「弁天」と記されており、近隣には阿弥陀堂や大塔があった。
本宮西北1.1㎞の狩尾山山上には狩尾(とがのを)社が鎮座しており、
狩尾山の地主神で石清水八幡宮鎮座以前からの社と伝えられる。
境内西の広場。 休憩所や、参拝者駐車場もある。 かつては阿弥陀堂や大塔が建っていた一角。 現在は「涌峯塔」という名のシンボルタワーが立っている。 とくに何らかのいわれがあるモノではなさそうなので、 現代美術か何かか。 |
エジソン記念碑。 「発明王」と呼ばれる エジソンの白熱電球の発明において、白熱部分であるフィラメントに適する炭化材を広く世界中より求めたところ、 男山を中心とする洛南地域一帯の竹材が最も優れていたので、これを用いて成功を収め、実用化に至った。 現在、世界の人々が夜でも明るく暮らせるのは、実にこの男山の竹のおかげであるということになる。 その偉業を記念して昭和九年に記念碑が建立され、それが老朽化したため昭和五十九年に再設が行われている。 また、エジソンの誕生日である2月11日にはエジソン生誕祭、命日である10月18日にはエジソン碑前祭が斎行され、 記念碑前にて日米両国の国歌を奉奏し、国旗を掲揚している。 国歌奉奏って、やっぱり雅楽でやってるんだろうか |