にっぽんのじんじゃ・きょうと

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*丹後国

与謝郡(宮津市・与謝町・伊根町・福知山市の一部・京丹後市の一部)

籠神社 浦嶋神社 大虫神社 小虫神社
京都府宮津市、由良川の河口。
『小倉百人一首』にも収録されている曾禰好忠の歌、

由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな

にある「由良の門」はここであるともいわれている。
他の候補地は紀伊国の由良海峡(和歌山県日高郡由良町)。


籠神社(このじんじゃ)。

京都府宮津市大垣
日本三景の一、天橋立の根元に鎮座する。

『延喜式』神名式、丹後国与謝郡廿座の一。
名神大社で、祈年祭のほか月次・新嘗祭にあっても朝廷の班幣に預かった。
丹後国一宮。
『倭姫命世記』によると、第十代崇神天皇の御世に皇女・豊鍬入姫命が天照大神の御杖代となり、
皇居を出た大神の鎮座地を求めて各地を旅した際、まず丹波の地の「吉佐宮(よさのみや)」にて大神を奉斎したという記述があり、
それが籠神社に比定されていることから、「元伊勢」と呼ばれる。


平安初期の延暦年間に伊勢大神宮が朝廷に提出した『延暦儀式帳』の皇大神宮鎮座伝承にはそのような記述はなく、
平安末期~鎌倉初期の作とされる『倭姫命世記』はそれよりも信憑性が落ちるとみられているが、
『倭姫命世記』での元伊勢の地には紀伊(南海道)・吉備(山陽道)・丹後(山陰道)・近江・美濃(東山道)・尾張(東海道)と、
その当時の朝廷勢力圏の前線であったであろう地が並んでおり、
そこを天照大神が巡った、となると、あながち後世の創作とも言い切れないものを含んでいるといえる。

国史初見は『続日本後紀』嘉祥二年(849)二月二十五日条、「丹後国籠神に従五位下を授け奉る」。
その後、『日本三代実録』に神階授与記事が散見し、最終的には元慶元年(877)十二月十四日に従四位上まで進んでいる。

祭神は天火明命。
吉佐宮にて天照大神を奉斎した後、豊鍬入姫命はよりよい鎮座地を求めて旅立った。
その空いた宮に、天火明命を祀るようになったという。
天火明命は天孫・瓊瓊杵尊の兄弟あるいは息子とされる神で、尾張氏の祖。
関西地方に何社かみられる天照御魂(あまてるみたま)神社の祭神であり、男性の太陽神ともみられている。
『先代旧事本紀』国造本紀では、
「丹波国造。志賀高穴穂宮朝(第十三代成務天皇治世)に、尾張国造の同じき祖、建稲種命の四世の孫・大倉岐命を国造に定め賜ふ」
とあり、尾張氏の流れを引く一族がかつて天照大神が鎮座していたところに祖神である天火明命を祀った、
というところだろうか。
大倉岐命は天火明命十六世の孫にして海部直(あまべのあたい)の祖であり、
海部氏は丹波国造家、そして籠神社の社家として代々、現在にいたるまで神社を管掌している。
社家に伝わる「海部氏系図」は国宝に指定されており、
また海部氏に代々伝えられてきた神鏡「息津鏡・邊津鏡」はそれぞれ後漢・前漢時代のものと鑑定されていて、
発掘されたものではない伝世鏡としては日本最古のもの。
系図には、

  天祖は二璽神宝〔息津鏡また辺津鏡がこれである。それに副えて天鹿兒弓・天羽羽矢を賜わった〕を火明命に授け、詔して、
  「おまえは葦原中国の丹波国に降り、この神宝を奉斎して、すみやかに国土を造り修めよ」
  と仰せになった。そこで火明命はこれを受け、丹波国の凡海息津嶋に降られた。

と、これらの鏡を「天祖」から授かったと記されており、海部氏の歴史の古さを物語る。


伊勢外宮の祭神豊受大御神は丹波国からの勧請とされているが、
平安末期までの伊勢神宮の伝承や歴史の断片を集成した『太神宮諸雑事記』の雄略天皇の項には、
雄略天皇即位二十一年(丁巳年)に天照伊勢太神宮の御託宣として
「我が御食津神(みけつかみ)は、丹後国与謝郡真井原に坐す・・・・」
とあり、また中世の伊勢神道書である『倭姫命世記』には、
崇神天皇三十九年七月七日、天照大神が吉佐宮に坐すとき、豊受大神がその御饌を奉るために天下ったと記されている。
それよりのちの成立と見られる『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』では、二柱は並んで鎮座し、豊宇気姫命が神酒を捧げたと記され、
のちに伊勢両宮で祀られる二柱が一足先にこの地で並んで祀られていたとする。
社伝によれば、当初は摂社・真名井神社の位置が宮地であり、
養老三年(719)に現在地に遷座し、主祭神を天火明命とし、相殿に天照大神、豊受大神を祀るようになったという。
「海部氏系図」に記す伝承では、
丹波国に天降った彦火明命の御子・天香語山命(あまのかぐやまのみこと)とその御子の天村雲命(あまのむらくものみこと)が、
伊佐奈子嶽(いさなごのみね)に鎮座していた豊受大神をこの地に遷座して祭り、
のち養老三年、彦火明命と佐手依姫(市杵島姫命の別名。火明命の妃神であり、また天香語山命の后神である穂屋姫命の母)が
この宮に天降って祀られるようになった、とある。
神社を創祀したのが天香語山命とされていることから、
社号の「籠神社」はもともと「かご(かぐ)のかみのやしろ」と読んだのではないか、という説もある。

社前。
「元伊勢大神宮籠之宮」の標柱が立つ。
境内。
元伊勢ということもあり、きれいに整備されている。
籠神社拝殿。
伊勢の神宮とは違って拝殿を備えており、また本殿は神宮の御正殿に準じて造られているので、
神宮の御正殿はだいたいこんな感じなのか、と知ることができる。


神社の西から裏側へ出、東へ歩いてゆく。
神社の西には天橋立ケーブル・リフトがあり、
山の頂上から天橋立を見下ろすことができる。
鳥居と「外宮大元宮吉佐宮」の標柱
ここから山へ登ってゆく。
山中に入ると、真名井神社に。
籠神社旧鎮座地といわれる。
境内に入ると、左手に泉があり、汲むことができる。
自分が参拝したときは山のようにペットボトル持ってきていた人が
独占状態で水汲んでいて、引いた。
欲を出すのは結構ですがよくばりはいけないと思います
ひょっとしたらいろんな人から頼まれていたのかもしれないけど

石段を上がると、磐座(いわくら)首座である真名井神社が鎮座。
豊受大神を祀る。
その裏にある磐座西座。
天照大神、伊射奈岐大神、伊射奈美大神を祀る。
この磐座は「日之小宮(ひのわかみや)」と呼ばれる。
「ひのわかみや」は、『日本書紀』には「日之少宮」と記されており、
国生みの大業を終えた伊弉諾尊が隠居したところとして描かれている。
この地は、「天橋立」の伝説(後述)にみられるように、伊弉諾尊と縁の深い地となっている。

そばを川が流れる。
天橋立を望む。

*天橋立。

宮津市字文殊にある。
「日本三景」の一つ。

丹後国風土記逸文(『釈日本紀』が引用)によれば、

 与謝の郡。郡役所の東北隅の方向に速石の里がある。この里の海に長く大きな岬がある。
 前を天の椅立(はしだて)といい、後ろを久志(くし)の浜と名づける。
 そう言うわけは、国をお生みになった大神・伊射奈芸命(いざなぎのみこと)が天に通うために梯子を作り立てられた。
 ゆえに天梯立といった。しかし大神がお寝みになっている間に倒れ伏した。
 そこで久志備(くしび。神異)であると不思議にお思いになり、ゆえに久志備の浜といった。
 中ごろから久志というようになった。
 ここから東の海を与謝の海といい、西の海を阿蘇の海という。このふたつの海には様々な魚や貝が住んでいる。ただ、蛤は少ない。

と、その地誌が記されている。

地名の「文殊」は、天橋立の南端の海辺に建つ古刹、智恩寺文殊堂にちなんでいる。

雨降ったり晴れたりとやたらめったらな天気で、携帯も対応できませんどした

浦嶋(うらしま)神社。

京都府与謝郡伊根町本庄浜
筒川下流、山あいの川辺に鎮座。
てっきり海辺に鎮座と思いがちだが、そうではない。

『延喜式』神名式、丹後国与謝郡廿座の一、宇良神社(うらのかみのやしろ)に比定。
祭神は浦嶋子。いわゆる浦島太郎。
相殿神として、月読命、祓戸大神を祀る。

天長二年(825)七月二十二日、淳和天皇の勅命により浦嶋子を筒川大明神として祀らせたのが創祀と伝えられる。
この年、浦嶋子が仙境より帰還して亡くなったことを知った天皇が、小野篁を勅使として社殿を造営したとするが、
ただ、国史にそのような記述は見当たらない。
当時の国史は『日本後紀』だが、当該巻は散逸しており、『類聚国史』『日本紀略』に引用された逸文でかなり復元されるが、
その中にもそういった記事はない。
天長二年(825)七月二十二日というのは後世の文献に基づく。

『釈日本紀』が引く丹後国風土記逸文に、

 与謝の郡。日置の里。この里に筒川(つつかは)の村がある。ここに日下部首(くさかべのおびと。開化天皇皇子・彦坐王の後裔氏族)
 らの祖で、名を筒川の嶼子(しまこ)という男があった。生まれつき容姿は端麗で、風流なことは比類がなかった。
 これは世に言う水江の浦の嶼子(みづのえのうらのしまこ)という者である。
 このことはすべて元の国司であった伊預部馬養連(いよべのうまかひのむらじ。持統・文武天皇に仕えた官人。『浦島子伝』〔散逸〕を書いた)
 が書いていることと少しも違っていない。
 ゆえに、簡単にそのいわれを述べよう・・・

と、いわゆる浦島太郎伝説が語られる。要約すると以下の通り。

 長谷朝倉宮にて天下をお治めになった天皇(雄略天皇)の御世、嶼子はひとり船に乗って釣りに出たが、三日三晩で一匹の魚も釣れず、
 ただ五色の亀を得た。それを船の中に置いて寝てしまうと、たちまち亀は婦人となった(彼女の名は亀比売といった)。
 彼女は嶼子の美貌に感じ入り、親しく話をしたくて風雲に乗ってやってきたのだと言った。
 嶼子は婦人の誘いに応じて海中の蓬莱山を訪れ、婦人と契り、その家族と親しみ、その生活を楽しむうち、三年が経過した。
 すると嶼子の心に郷里を思う心と両親を慕う心が巻き起こり、留めきれなくなった。彼は姫にそれを話し、郷里に帰りたいことを告げた。
 二人は互いに悲しんだが、姫は別れにあたって嶼子に玉櫛笥を渡し、
 「私を忘れず恋い尋ねて下さるのなら、決して開けて見てはいけません」
 と言った。
 かくて嶼子は筒川の郷へ戻ったが、村はすっかり様相が変わっており、知った人もいなかった。
 人に自分の家について聞くと、人は驚き、昔、嶼子という者が海へ遊びに出たきり帰ってこず、それから今までに三百余歳を経ていると教えた。
 嶼子は絶望して村を歩き回ったが、ひとりの知人にも会うことができず、十数日を経過した。
 そして姫との約束を忘れ、玉櫛笥を開いてしまった。
 すると、一瞬のうちに彼の美貌は風雲とともに蒼天のかなたに飛び去ってしまった。
 嶼子は姫との約束に背いたゆえ再び会うことができなくなったと知り、涙に咽んでさまよい、歌を歌った。
 すると、姫ははるかに芳音を飛ばして歌を返した。
 嶼子は恋の心を抑えきれずに再び歌を歌い、後代の人はそれに付け加えて歌った。

『日本書紀』雄略天皇二十二年(478)秋七月条にも、浦島太郎伝説が見える。

 丹波国与謝郡の管川の人、水江浦嶋子が船に乗って釣りをした。ついに大亀を得ると、たちまち乙女に化した。
 ここに浦嶋子は心を動かされて妻とし、海に入ると蓬莱山に到って仙境を廻り見た。この物語は別巻にある。

この「別巻」は丹後国風土記あるいは伊預部馬養連の書いた『浦嶋子伝』を指すと思われる。
『日本書紀』の成立は養老四年(720)なので、その時には浦嶋子はすでに帰還していることになる(でないと記事にならない)。
なので、浦嶋子が天長二年帰還とすると、『日本書紀』『丹後国風土記』などの記述と思い切り矛盾してしまう。
あるいは浦嶋二号。
書紀や風土記に見える浦嶋子伝説を記念して天長二年に創祀されたか、
あるいはすでに神社として祀られていたのを、天長二年に官社に列したことが後世に創祀と混同されたのではないかとも思われる。

浦嶋子様ならびに配祀神たちのご神徳は、
縁結び・長寿・農業・漁業・航海・牛馬・養蚕。
神社には浦嶋明神絵巻、乙姫小袖という重要文化財、また玉櫛笥が伝わっている。

筒川。
下流方面。
筒川河口は港、そして本庄浜海水浴場となっている。
そこが筒川嶼子が漁をしていたところ。
神社前。幟が多数立っている。 なんかやってはる
舞の奉納が 黒式尉(こくしきじょう)が舞う。
翁三番叟(おきなさんばそう)の大トリ。
NHKも来てた
境内の右手には、浦嶋子が訪れた蓬山を模した庭園。
おわた
延年祭の最後を飾る奉納だったらしい
拝殿の装飾。
祭典後の拝殿。
奥に本殿。
拝殿全景。
神社前の公園のモニュメント。
神社周辺は山に囲まれている。
本庄浜へは・・・時間の関係で行きませんでした

丹後半島はほとんどが山で、海辺の道は山の中腹に沿って走っている。

ほかの港町。 切り立った崖。
出入りが激しい。 いろいろ工事中。
穏やかな日本海。水平線のかなたには何も見えない。
この海のかなた、浦嶋子はどこへ行ったのか。
経ヶ岬。京都府京丹後市丹後町袖志。
丹後半島の先端で、近畿地方最北端。
このあたりは旧郡制では竹野郡になる。

大虫(おおむし)神社。

京都府与謝郡与謝野町温江に鎮座。
加悦谷(かやだに)と呼ばれる扇状地の東、大江山連峰の西麓に鎮座する。

『延喜式』神名式、丹後国与謝郡廿座の一。特に霊験ある神として「名神・大」に指定された、いわゆる名神大社。
主祭神は大己貴命。いわゆる大国主命のこと。
明治十四年に阿知江神社(与謝郡式内社、祭神・少童命わたつみのみこと)を合祀している。

国史には、『日本文徳天皇実録』斉衡二年(855)正月二十五日条に、
「伊勢国の阿耶賀神、丹後国の大虫神に並びに従四位下を加ふ」
との神階授与記事がある。

社伝によれば、もとは小虫神社とともに大江山中腹の池が成というところに鎮座していた。
その起源は、大己貴命が沼河姫(ぬなかはひめ。上越・糸魚川地方の女神。建御名方神の母とされる)とこの地で暮らしていたとき、
槌鬼という悪鬼の毒気に当てられた姫が病に伏した。
そこへ少彦名命が息を吐きかけて槌鬼を追い出し姫を癒したが、
今度はその息のせいで人や獣や草が虫病に苦しむようになったので、
少彦名命は小虫と名乗って体内から悪虫を除くことを、
大己貴命は大虫と名乗って外から病を治すことを誓い合い、
鏡を二面作ってそれぞれ分け持った。これにより二柱は「大虫」「小虫」の神として崇められるようになった。
また、用明天皇の皇子・麻呂子親王が大江山の三鬼を征伐した際、神社に神像あるいは鏡を奉納したといわれる。
(麻呂子親王伝説については、竹野郡の竹野神社の項参照)
現在地に遷座したのは、室町時代初期と伝えられる。

大虫神社と小虫神社は起源を同じくする神社であり、その祭祀も共同で行われている。
日本各地には、このように大己貴命と少彦名命を一組で祀っているところが多い。
『日本書紀』崇神天皇紀には、出雲において出雲大神は鏡を神体として祀られていたとおぼしい記述があり、
ここでも大己貴命と少彦名命が鏡を分け持って祀られたとあるので、
丹波においてもかつて同じ形態で祭られていたのだろうか。

一の鳥居。ここから山道を少し登る。 鳥居のそばにある与謝野礼厳(与謝野鉄幹の父)追念碑。
路がカーブしたところに入口がある。 周囲は深い森。
拝殿前。
丹後地方の神社には、拝殿や本殿に覆いを施しているところが多い。
そういう風習なのだろうか。
境内社。
狛犬は、一般的ないかめしいものではなくユーモラス。
麻呂子親王伝説のためだろうか?
道の駅より、大江山連峰。
いわゆる酒呑童子伝説で知られるのは山の向こう、京都側。
しかし、山の形はこちらのほうが綺麗に見える、とは道の駅のママさんの言でした。

小虫(こむし)神社。

京都府与謝郡与謝野町温江
加悦谷(かやだに)と呼ばれる扇状地の東、大江山連峰の西麓に鎮座する。
大虫神社よりもやや北西。

『延喜式』神名式、丹後国与謝郡廿座の一。
大虫神社とともに「名神・大」に指定されている。
主祭神は少彦名命。
大虫神社と対をなす神社であり、由緒等は大虫神社に同じ。

鳥居。
鳥居をくぐって進んでいくと、社殿が見えてくる。 左手はグラウンドに。
拝殿。大虫神社と同じく覆いがかかる。
小虫神社の社叢。


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