にっぽんのじんじゃ・きょうと

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*丹後国

竹野(たかの)郡(京丹後市の北半分)

竹野神社 奈具神社

丹波郡(京丹後市の南半分)

藤社神社 比沼麻奈為神社 大宮売神社


竹野郡:

竹野(たかの)神社。

京都府京丹後市丹後町宮に鎮座。
丹後半島の海沿いを走る国道178号線から古代の里資料館の方へ折れていくと、資料館の道向かいに標柱と鳥居が見えてくる。
竹野川の河口近くの山の麓。

『延喜式』神名式、丹後国竹野郡十四座の一。大社に指定されている。
国史には、『日本三代実録』元慶元年(877)十二月二十九日条に、
「因幡国正六位上相尾神、丹後国正六位上竹野神、山伎神に並びに従五位下を授く」
とある。

祭神は天照大神。
摂社に斎宮(いつきのみや)神社があり、日子坐王命(ひこいますのみこのみこと)、
建豊波豆良和気命(たけとよはづらわけのみこと)、竹野媛命(たかのひめのみこと)をまつる。

竹野媛命は記紀によれば丹波大県主由碁理(たにはのおほあがたぬしゆごり)の娘で、開化天皇の妃となった。
竹野媛命が老いたのち、つとめを終えて郷里の竹野に戻るとき、天照大神を奉斎してこの地に祀ったのが創祀といわれる。
ちなみに『古事記』によれば竹野媛命の生んだ子は比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)、
その子は大筒木垂根王(おほつつきたりねのみこ)と讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)。
大筒木垂根王の娘は迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)といい、第十一代垂仁天皇の妃となって袁邪辨命(をざべのみこと)を生んだ。
この一連の人名が「かぐや姫」の登場人物に奇妙に一致しているのはよく指摘されるところ。
迦具夜比売命はそのものずばり、竹野媛、大筒木垂根王の「竹野」「筒木」は竹を示しており、
(「筒木」は一般には山城国の「綴喜」の地名にもとづくものといわれる)
「かぐや姫」の養父は「讃岐の翁」というが、それは讃岐垂根王に符合している。
散逸した『丹後国風土記』には「かぐや姫」に類する伝説が記されていて、
それをもとに『竹取物語』が書かれた・・・ということもあるかもしれない。

日子坐王命と建豊波豆良和気命は第九代開化天皇の皇子。
『古事記』によると、日子坐王は第十代崇神天皇の世に丹波へ出征して玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討ち、
近淡海(ちかつあふみ。近江のこと)の御上祝(みかみのはふり)が奉斎する天乃御影神の娘、
息長水依比売(おきながみづよりひめ)を娶って丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)を生み、
丹波比古多多須美知能宇斯王の娘・氷羽州比売(ひばすひめ)は垂仁天皇の皇后となり、
第十二代景行天皇や伊勢神宮を定めた倭姫命らを生んだ。
『日本書紀』の崇神天皇紀には、四道将軍の一として丹波に派遣された丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の娘が
日葉酢媛(ひばすひめ)となっており、
丹波道主王は「彦坐王(ひこいますのみこ)の子、あるいは彦湯産隅王(ひこゆむすみのみこ)の子である」と注があり、
この辺りの系譜はやや不明瞭であったらしい。
また日子坐王は『先代旧事本紀』国造本紀では、但馬国造の項に、
「志賀高穴穂朝(第十三代成務天皇)の御世に、竹野君の同じき祖彦坐王の五世の孫船穂足尼を国造に定め賜ふ」
とあり、竹野君の祖ともされている。

建豊波豆良和気命は『古事記』によると丹波の竹野別の祖とされる。
開化天皇から垂仁天皇までの間、朝廷と丹波(丹後は奈良時代の和銅六年に丹波から分割)とは深い関係を有していた。
これはこの間、朝廷が丹波を平定し、融和策をとっていたことを示すものだろうか。

斎宮神社にはほかに、第三十一代用明天皇の皇子、麻呂子(まろこ)親王も祀られている。
その伝説は以下のとおり

用明天皇の御世、
河守荘三上ヶ嶽(大江山)に英胡(えいこ)・軽足(かるあし)・土熊(つちぐま)という三人の鬼を首領として悪鬼が集まり、民を苦しめていた。
そこで天皇は勅命を下し、麻呂子親王に征伐を命じた。
親王は七仏薬師の法を修め、兵を率いて丹波に向かった。
途上、篠村のあたりで商人が死んだ馬を葬っているのを見て、
「この征伐、利あらば馬必ず蘇るべし」
と祈誓すると、たちまち地中からいななき声がし、馬は蘇った。
掘り出してみると駿足の竜馬であり、ゆえにこの村を馬堀という。
親王はこの馬に乗り、生野の里を通り過ぎたが、このとき老翁が現れ、白い犬を献上した。
この犬は頭に明鏡をつけていた。
親王はこの犬を道案内として雲原村に到ると、ここで自ら薬師仏七体を彫り、
鬼を征伐できたならこの国に七寺を建立し、七仏を安置いたしましょうと祈誓した。
そして三上ヶ嶽の鬼の岩窟に到着し、英胡・軽足の二鬼を誅殺したが、土熊の姿を見失った。
そこで白犬の鏡で照らし出したところその姿が明らかとなり、これも服せしめた。
親王は末世までの証として土熊を岩窟に封じた。これが今の「鬼が窟」である。
あるいは土熊は逃れて竹野郡に到り、その地にて討たれたという。
征伐を終えた親王は神恩に感謝して天照大神の社を建て、そのかたわらに自らの宮を建てた。
鏡は三上ヶ嶽の麓に納めて犬神大明神と号した。この鏡は大虫神社に納められていたという。
そして仏の加護に報いるため、祈誓のとおり丹後に七か寺を創建し七薬師を納めた。

酒呑童子伝説の原型といえるだろう。
ちなみに麻呂子皇子は『日本書紀』にも名前が見える実在の皇子。
用明天皇が葛城直磐村の娘・広子を娶って生んだ皇子で、当麻公の祖。聖徳太子の異母弟になる。
妹は酢香手皇女(すかてのひめみこ)で、伊勢の神宮に斎王として仕えた。

神社に接した山には神明山古墳があり、周囲にも古墳や遺跡が点在していて、
古代にはこの地方の中心であったことは確実とみられる。
神社も信仰の中心であったのだろう。
創祀伝承によりこの神社は古来「斎宮(いつきのみや)」と呼ばれており、現在でも「いつきさん」と通称されている。
現在の社殿は文政十三年(1830)に再建されたもので、本殿、斎宮神社、中門は京都府登録文化財に指定。
また、神社の祭礼で子供たち六名によって演じられる郷土芸能「竹野テンキテンキ」も京都府登録文化財に指定されている。

竹野神社鎮座地一帯。穏やかな田舎町。
左から奥へ延びる松並木の道が参道になっている。
国道から直接竹野神社へ向かう参道。
左奥に古代の里資料館。
わかりやすいのは国道から県道75号線に入って南下する道。
神社前。
「式内 竹野神社」「斎宮神社」の標柱が左右に立つ。
鳥居と太鼓橋。
太鼓橋は神様の通り道なので、右の橋を渡るのが礼儀。
境内を歩く。
鎮守の森の鄙びた雰囲気がいい。
参道も清掃されている。
中門前。
神社の南には神明山古墳があり、そちらへの道が延びている。
神明山古墳は丹後地方屈指の規模を誇る前方後円墳で、
その古墳造成法や副葬品に、
垂仁天皇皇后・日葉酢媛陵との類似が見られるとのこと。
中門をくぐる。ここに鈴がついている。

拝殿。
本殿および斎宮神社。
桧皮葺の、歴史を感じさせる古い社殿。
ついさっきまで降っていた雨のためにすのこが立てかけてある。
中門を振り返る。なかなかに凝った造り。 石垣も歳を経ております
本当に素晴らしい雰囲気のお宮でした
ちなみに竹野神社周辺の図。
竹野川河口の立岩は、麻呂子親王が土雲を封じたといわれるところ。

奈具(なぐ)神社。

京都府京丹後市弥栄町船木に鎮座。

『延喜式』神名式、丹後国竹野郡十四座の一。小社。
豊宇加能売命(とようかのめのみこと)、つまり伊勢外宮の祭神、豊受大御神を祭神とする。
『類聚神祇本源』ほかが引く丹後国風土記逸文には、

  丹後国丹波郡に比治(ひぢ)の里があり、比治山の頂上に井戸があり真奈井(まなゐ)といった。今は沼となっている。
  その井に八人の天女が天下って水浴びをしていたが、老夫婦がそれを見てそのうち一人の衣裳を隠してしまった。
  その天女は天に帰ることができず、老夫婦が衣を返すかわりに娘になってほしいと嘆願したので、天女はそれに従った。
  この天女は酒を醸すことが上手で、その酒を飲むとどのような病も治るので、人々は大金を積んでその酒を買い求め、
  老夫婦の家は豊かとなり、土形(ひぢかた)は富んだ。ゆえに土形の里といい、のちに比治の里と呼ぶようになった。
  さて、豊かになった老夫婦は天女に冷たくなり、おまえは娘ではないと言って追い出してしまった。
  天女は老夫婦のあまりに身勝手な仕打ちに慟哭したが、老夫婦はどうしても出て行けとせきたてる。
  天女は人間の世に長くとどまりすぎたために天に帰ることができなくなっていた。
  天にも帰れず、地上に行くあてもない彼女は、

   天の原ふりさけ見れば霞立ち家路まどひて行方知らずも

  と歌い、放浪して荒塩の村に到り、村人に言った。
  「老夫婦の心を思えば、私の心は荒塩(荒潮)となんら異なることがありません」
  ゆえに比治の里の荒塩の村という。また丹波の里の哭木(なきき)の村に到り、槻の木にもたれて泣いた。
  ゆえに哭木の村という。また竹野の郡舟木の里の奈具の村に到り、村人らに言った。
  「ここに来て私の心は奈具志久(なぐしく。平穏に、の意)なりました」
  そしてこの村に留まり住んだ。
  これがいわゆる竹野郡の奈具社に坐す豊宇加能売命(とようかのめのみこと)である。

という伝説が記されている(要約)。
丹後国丹波郡の比治の真奈井に天降った天女である豊宇加能売命がこの地に移動して鎮座した、という伝承で、
伊勢の神宮が朝廷に提出した儀式書である『延暦儀式帳』には、
外宮である豊受宮は、雄略天皇の御世に「丹波国の比治の真名井」より遷座した、とされており、
(丹後国は律令制下において丹波国より分割された国であり、雄略天皇治世にはまだ丹波国に属する)
よって奈具神社の祭神は伊勢外宮の神と同体であるということになる。

奈具村は嘉吉三年(1443)の洪水で一村流失して廃村となり、
奈具神社は外村・溝谷村の産土神であった溝谷神社(弥栄町溝谷に鎮座。延喜式内社)に合祀され、奈具村の遺民によって奉仕されていた。
その後、江戸時代後期になって船木村の現社地に神社が再興され、溝谷神社に相殿で祀られていた御神体の霊石を遷座しようとしたが、
祭礼への参加やその費用の負担について溝谷神社氏子との間で争論となり、
ようやく明治六年に返還されている。

近隣には「奈具岡遺跡」という弥生時代中期の大規模な玉作工房跡があり、
古くから栄えた地であったことがわかっている。

奈具神社社叢。
鳥居前。
鳥居をくぐって左側に、丹後国風土記逸文等を記した案内板がある。
石段を登ると、一段高い所に木造の両部鳥居と狛犬。
そこからまた少し登ると、拝殿前に出る。
奈具神社拝殿、本殿、および末社。
本殿は覆屋で覆われ、拝殿と末社にはブルーシートが架けられている。
殺風景ではあるが、社殿保護のためだろうか。
この地方の神社では、本殿や拝殿にこのような処置を施している所が多い。
境内脇には、
「社日(しゃにち)」の石柱が立っている。

「社日」とは、春分と秋分それぞれの直近の戊(つちのえ)の日のことをいい、
この日、人々は産土神に参って、春の社日(春社)には五穀豊穣を祈願し、秋の社日(秋社)には収穫を感謝していた。
また、春社日に種籾浸しを行い、秋社日に種籾の調製や穂懸けを行っていた。
あるいは、土地の祭日であることから土いじりを忌み、仕事を休んで集まり「社日講」「地神講」を開くところもあった。
「社(シャ)」とは、漢語では「土地神」をあらわす言葉で、もともとは中国の土地神信仰に基づく行事だったが、
日本では「春に田の神が山から降り、秋には山へと帰る」という信仰と結びつき、農耕行事の一環となっていた。
山陰地方の神社境内には、各面に神名を彫った五角形あるいは六角形の石柱が多くみられるが、これも「社日」と呼ばれる。
石柱には、おおむね天照皇大神、倉稲魂命、埴安媛命、大己貴命、少彦名命などの神名が彫られる。
天照大神は天孫降臨にあたって皇孫・瓊瓊杵尊に稲穂を授け、これを地上で育てるようにとお命じになった稲作農業の祖神であり、
もちろん作物の生長に欠かせない太陽の女神。
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は文字通り稲の神霊、
埴安媛命(はにやすひめのみこと)は土の女神、
大己貴命と少彦名命は人や牛馬のための医療の法、また田畑の害虫を除くまじないの法を伝えた神であって、
いずれも農耕にとって重要な神。

社の周囲は一面の田畑となっている。

丹波郡:

藤社(ふじこそ)神社。

京都府京丹後市峰山町鱒留に鎮座。

祭神は保食神(うけもちのかみ)で、
伊勢の神宮の外宮に祀られる豊受大神と同体とされる。
『類聚神祇本源』ほかが引く丹後国風土記逸文には、

  丹後国丹波郡に比治(ひぢ)の里があり、比治山の頂上に井戸があり真奈井(まなゐ)といった。今は沼となっている。
  その井に八人の天女が天下って水浴びをしていたが、
  和奈佐(わなさ)という名の老夫婦がそれを見てそのうち一人の衣裳を隠してしまった。
  その天女は天に帰ることができず、老夫婦が衣を返すかわりに娘になってほしいと嘆願したので、天女はそれに従った。
  この天女は酒を醸すことが上手で、その酒を飲むとどのような病も治るので、人々は大金を積んでその酒を買い求め、
  老夫婦の家は豊かとなり、土形(ひぢかた)は富んだ。ゆえに土形の里といい、のちに比治の里と呼ぶようになった。
  さて、豊かになった老夫婦は天女に冷たくなり、おまえは娘ではないと言って追い出してしまった。
  天女は老夫婦のあまりに身勝手な仕打ちに慟哭したが、老夫婦はどうしても出て行けとせきたてる。
  天女は人間の世に長くとどまりすぎたために天に帰ることができなくなっていた。
  天にも帰れず、地上に行くあてもない彼女は、

   天の原ふりさけ見れば霞立ち家路まどひて行方知らずも

  と歌い、放浪して荒塩の村に到り、村人に言った。
  「老夫婦の心を思えば私の心は荒塩(荒潮)となんら異なることがありません」
  ゆえに比治の里の荒塩の村という。また丹波の里の哭木(なきき)の村に到り、槻の木にもたれて泣いた。
  ゆえに哭木の村という。また竹野の郡舟木の里の奈具の村に到り、村人らに言った。
  「ここに来て私の心は奈具志久(なぐしく。平穏に、の意)なりました」
  そしてこの村に留まり住んだ。
  これがいわゆる竹野郡の奈具社に坐す豊宇加能売命(とようかのめのみこと)である。

という伝説が記されている(要約)。
藤社神社の南にそびえる磯砂(いさなご)山が『丹後国風土記』にいう比治山であると地元では言われており、
社号の「ふじ」は「ひじ」の転訛といわれ、
「ますとめ」という地名も、昔は「益富」「枡富」とも表記し、天女の醸す酒によって村が富を増した「ますとみ」が転じたものといわれ、
また鎮座地は古くから「真奈井」と通称されていたことから、
『延喜式』神名式の丹後国丹波郡九座の一、比沼麻奈為神社に比定する説もある。

鎮座地は中世には「益富保」と呼ばれ(「保」は所領をあらわす単位の名称)、
やや東北にある二箇保とともに石清水八幡宮領となり(領家・地頭の下地中分)、
近世には宮津藩の京極氏の支配の後、京極氏改易を経て天領となった。
江戸時代中期に編まれた丹後国の地誌『丹後旧事記』には、

  婦父社    丹波郡土形枡富村
   祭神 和奈佐老父
       和奈佐老婦
       豊宇気比売命

   旧記にいう。和奈佐翁は土形の里の長であった。豊賀志飯女を養いわが子として、世に富み栄えた。
   のちに田畑神(たなばたのかみ)として崇める。
   祭礼七月七日。
      (*豊賀志飯女・・・『丹後旧事記』においては豊宇賀能女の別名としている)

とあり、同じく近世の地誌である『丹哥府志』には、

  藤社大明神は蚕の神であるとして、およそ村々で蚕を養う者でこの神を祭らない者はいない。

と、「蚕の神」として信仰されていたことが記されている。
丹後地方は古来絹の生産が盛んであり、奈良・東大寺の正倉院には竹野郡より献上された絁(あしぎぬ)が保存されている。
また近世には峰山の絹屋佐平治によって縮緬(ちりめん)の生産も始まり、峰山は絹織物の一大集散地となった。
これは今に「丹後ちりめん」として伝わっている。
機織りに縁の深い「七夕の神」であることから「蚕の神」の信仰が起こったか、あるいはその逆だろうか。

明治に至り、しばらくは祭神不詳とされていたが、やがて蚕の神であることから「保食之神」と定められ、
さらに鎮座地が丹後国風土記逸文にある「土形の里」であり、
保食神は五穀の神であって豊宇賀能女命や伊勢外宮の豊受大神と同体であるとして、
式内比沼麻奈為神社に比定されるようになった。


天女の降臨は崇神天皇の御世、
神社の創祀は開化天皇の皇子・彦坐王の御子で、丹波を平定した丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)によると伝えられる。
現在の社殿は、昭和二年の丹後大震災によって倒壊した社殿を、
伊勢の神宮の第58回式年遷宮(昭和4年)にともなう古材の下賜を受けて昭和十一年に再建したものになる。

丹後国一宮・籠神社の社家、海部氏に伝わる「海部氏系図」(国宝指定)には、
天火明命を祖とする海部氏の系図が記されているが、

  天香語山(あまのかぐやまのみこと)。またの名は手栗彦命(たくりひこのみこと)。またの名は高志神(こしのかみ)。
  彦火明命(ひこほあかりのみこと)が天上において生んだ神である。
  母は天道姫命(あまのみちひめのみこと)。またの名は屋乎止女命(やをとめのみこと)、
  またの名は高光日女命(たかてるひめのみこと)、またの名は祖母命(みおやのみこと)である。
  ここに天香語山命と天村雲命(あまのむらくものみこと)は父の火明命に従って丹波国凡海嶋(おほしあまのしま)に天降られた。
  そして神議をもって国土を造り修めようとお思いになり、百八十軍神を率いて当国の伊去奈子嶽(いさなごのみね)に到ったが、
  そこで母の道日女命と逢ったので、この地へ天降った理由を問うた。
  母が答えて仰せになるには、
  「この国土を造り固めようと思いましたが、この国は豊受大神のいらっしゃる国です。
  ですから、大神を奉斎しなければ、国を造ることは難しいでしょう。そこで神議をもって清浄な地を定め、
  おまえとともに懇ろにこの大神を奉斎すれば、国は成るでしょう」
  そこで祖命はその弓矢を香語山命に授けて仰せになるには、
  「これはこの大神の御心です。おまえはこの矢を放ち、その落ちたところに従って清浄な地に行きなさい」
  そこで香語山命はその弓矢を取り、これを放った。するとその矢は当国の加佐郡矢原山に落ちて刺さった。
  その時、その矢から根が生えて枝葉は青々と繁った。ゆえにその地を名づけて矢原という〔矢原は屋布(やぶ)と読む〕。
  (後略。両神はさらに移動して、ついに籠神社を創祀する)
      *高志神・・・高志は越の国のこと。天香語山命は越後国一宮・弥彦神社の祭神となっている。
      *丹波国凡海嶋・・・凡海は丹後国加佐郡にあった郷で、海上の島であったとされ、
         大宝元年(701)の地震で、峰二つの先端を残して海中に没したと伝えられる。
         現在、若狭湾の沖合に浮かぶ冠島と沓島がそれであるとされ、それぞれに天火明神と日子郎女神を祀る社がある。
      *天村雲命・・・天香語山命の御子。伊勢外宮の祠官、度会神主氏の祖とされる。
      *矢原・・・「やぶ」は草木が生い茂ったところを指す言葉で、突き立った矢が大木となって繁ったことからの名か。
         『延喜式』神名式、丹後国加佐郡条に「笶原神社」がある。
         『播磨国風土記』宍禾郡御方里条には、
         葦原志許乎命(あしはらのしこをのみこと。大国主神)と天日槍命(あまのひぼこのみこと。渡来してきた新羅の王子)が、
         その居住地を決めるためにそれぞれ三本ずつ黒葛を蹴り飛ばしてそれが落ちたところに鎮座したが、
         天日槍命のものはすべて但馬の出石(いづし)に落ち、葦原志許乎命のものは但馬の気多(けた)、養父(やぶ)、
         そして播磨の御方(みかた)に落ちた、とあり、ここでも神の居住地を決めるために何かを飛ばし、
         その落ちたところを「やぶ」と呼んでいる。

という氏族の由来伝承が記されているが、
そこには、天火明命の御子である天香語山命が「伊去奈子嶽」に行き、そこで天降った母の道日女命と逢ったとされている。
伊去奈子嶽とは磯砂山、比治山のことであり、
丹後国風土記逸文の伝承とは、
 *天道日女命のまたの名を屋乎止女(やをとめ)といい、「八人の乙女」と符合
 *豊受大神の鎮座地を求める出発点となっている
というところで共通している。
天香語山命は舞鶴湾沖に降臨したのち内陸部のこの地まで来て、さらに舞鶴湾まで引き返して籠神社を創祀した、ということになり、
一見かなり無理のあるルート設定になっているが、それは、豊受大神のもともとの鎮座地がこの地域であって、
籠神社の創祀を語るにはどうしてもこの地域を絡めなければならなかったからだろうか。
中世に書かれた『古事記』の注釈書『古事記裏書』が引く摂津国風土記逸文には、

  摂津の風土記にいう。
  稲倉山(いなくらやま)。昔、止與宇可乃売神(とようかのめのかみ)が山中に居り、飯を盛った。それによって名づけた。
  またいう。昔、豊宇可乃売神が常に稲椋山に居て、膳厨の所(*台所)としていたが、
  のちに事情があって、やむを得ず、ついに丹波国の比遅乃麻奈韋(ひぢのまなゐ)に還られた。

とあって、「丹波国の比治の真名井に鎮座する豊宇賀能女命」のことは広く知られていたようだ。


藤社神社社叢。 神社入口と周辺。
左手は山の斜面になっており、右手は川。
神社は山の北麓に東向きで鎮座している。
鳥居前。すぐ左手には由緒を記した案内板。
手前に一の鳥居、奥に二の鳥居が見える。
二の鳥居より。山と道路・川に挟まれ、境内地は細長い。 山の斜面。
境内。右手からさらさらと川の音が聞こえてきて、とてもさわやか。
境内末社。
手水舎。山の谷間から小川が流れ降っている。
拝殿。奥に神明造の本殿が建つ。
本殿後ろには和奈佐夫婦を祀る社、和奈佐夫婦祠が鎮座する。
昭和十一年の再建にあたって造営された。

和奈佐夫婦は、丹後国風土記逸文にはあまり性格の良くない人間と記されているが、
神として祀られていることから、地元においてはまた別の言い伝えがあっただろうか。
しかし、たとえ生前は不品行であった人でも、亡くなった後は子孫や村を守る神様となったとして祀っている例もある。
「死者に鞭打つ」ことはしないのがわが国の美徳。
拝殿周辺。 拝殿内。
本殿が開扉されていた。
なにかの神事の前、もしくはあとだろうか。
清流の流れ下る谷間。


なお磯砂山中には「乙女神社」という神社が鎮座し、天下った天女が生んだとする三人の娘のうちの一人を祀っている。
女性がここに祈願すれば、美しい女子を授かるという。


比沼麻奈為(ひぬまない)神社

京都府京丹後市峰山町久次に鎮座。
藤社神社より1.6kmほど北東、山の麓に鎮座。

『延喜式』神名式、丹後国丹波郡九座の一、比沼(治)麻奈為神社の論社の一社。

主祭神は豊受大神で、瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命を配祀する。
伊勢の神宮が平安初期の延暦年間に朝廷に提出した『延暦儀式帳』には、
内宮及び外宮の創祀伝承が記されているが、このうち外宮の創祀伝承として、

  天照坐皇大神(あまてらしますすめおほかみ)が、
  巻向玉城宮(まきむくのたまきのみや)にて天下をお治めになった天皇(*第11代垂仁天皇)の御世に
  初めて国々の所々に大宮処をお求めになった時、度会の宇治の伊須々(いすず)の河のほとりに大宮をたてまつった。
  その時、大長谷天皇(*第21代雄略天皇)の御夢に教え諭されるには、
  「私は、高天原に鎮まっている時に求め見たところへ鎮まった。しかし、私は一所のみにいるのは甚だ苦しい。
  それだけでなく、大御饌(おほみけ。特に鄭重な神饌)も安らかに摂ることができない。
  ゆえに、丹波国の比治(ひぢ)の真名井(まなゐ)に鎮まっている、わが御饌つ神の等由気大神(とゆけのおほかみ)をわが許にほしい」
  と仰せになった。その時天皇は驚いてそれを悟られ、すぐに丹波国から行幸させ、
  度会の山田原に、下つ岩根に宮柱太知り立て、高天原に千木高知りて、宮を定めていつき仕え奉った。
  これをもって御饌殿をお造り申し上げて、天照坐皇大神の朝の大御饌、夕の大御饌を日ごとにたてまつる。

とあり、外宮の祭神・等由気大神(豊受大神)の旧鎮座地は「丹波国の比治の真名井」であるとされ、
それが比沼麻奈為神社のことであるとされている。
『延喜式』の多くの写本には「比“沼”麻奈為神社」とあるが、
この『延暦儀式帳』や丹後国風土記逸文の記述から、
もとは「比“治”麻奈為神社」であったものが誤写されたのではないか、という説もある。
また、中世初期に伊勢神宮の祠官によって書かれた五つの書物「神道五部書」には、
伊勢に皇大神宮を定めた倭姫命以前にも、初めて天照大神の御杖代となった崇神天皇皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が
大宮処を求めて各地を巡ったという伝承が記されており、
丹後国一宮である籠神社もそのひとつとして「元伊勢」とされているが、
五部書のひとつである『倭姫命世記』には、

  (崇神天皇の)三十九年〔壬戌〕、但波の吉佐宮(よさのみや)に遷幸し、奉斎すること四年。ここからさらに倭国へと求めた。
  この年、豊宇介神(とようけのかみ)が天降って御饗を奉った。

と、天照大神をその身に託されて皇居を出られた豊鍬入姫命が初めに「但波の吉佐宮」、
つまり丹波国、のちの丹後国の与謝郡に宮を定めたとし、この時に豊受大神が天降って天照大神に御饗を奉ったとしている。
社伝によれば、豊鍬入姫命が与謝郡の吉佐宮(よさのみや。現在の籠神社)に坐す時、
この地に鎮座していた豊受大神が天の真名井の水で調理した御饌を天照大神に奉ったといわれ、
また当時は崇神天皇が派遣した「四道将軍」の一で、丹波地方を平定した丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)が、
八乎止女(やをとめ、個人名もしくは八人の乙女。丹後国風土記の八人の天女と関連か)をもって豊受大神を祀っていたと伝えられている。
これらの由緒により、社の棟札や扁額には「真名井大神宮」「豊受大神宮」とあり、古来豊受大神の鎮座地として篤く奉斎されていた。
また、伊勢外宮のおおもとの社ということで「元伊勢」を称している。

神社の鎮座する地は「久次岳」の東麓にあたり、この山はまた真名井山、また咋石(くいし)岳ともいう。
近世の地誌には、この山が保食神の天降ったところであり、山頂には大岩があって、
その表面に人の死姿がみえるが、これは月読命に斬り殺された保食神の姿であるといわれていたことが記されている。
また、鎮座地周辺はもと「咋岡」という名の村であったということから、
『延喜式』神名式、丹後国丹波郡九座の一である「咋岡神社」ははじめ久次山の頂上もしくは山麓に鎮座しており、
当社は咋岡神社が遷座した跡地に保食神を祀ったもので、式内比沼麻奈為神社ではない、という説もあった。
(現在、咋岡神社は峰山町赤坂に鎮座。中世末期に峰山の山祇山に遷座し、また近世になって、峰山藩の鎮守社として現在地に遷座されている)
ただ、咋岡神社も保食神を祭神としており、また当社も近世には「真名井大明神」と呼ばれていることから、
式内社の比定はさておいて、この地において古くから保食神=豊受大神を祀っていたことは間違いないのではないかと思われる。
中世には真言宗の寺院があって大いに栄えていたといい、神仏ともに信仰の中心として重要な場所であったことが推定される。

近世には安産守護の神として信仰されており、
昔は社殿の床下から出る「ドシャ」という米粒の形をした土を産婦に呑ませていたという。
『延喜式』祝詞式に収録されている天皇の宮殿の祓と祝福を行う祭「大殿祭(おほとのほがひ)」の祝詞の中に、
家屋の守護神として「屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)」の御名を挙げているが、
その箇所への注記として、

  これは稲の霊である。世俗の言葉に、宇賀能美多麻(うかのみたま)。
  今の世、産屋に辟木や稲束をもって戸のところに置き、米をもって屋内に散(ま)く類である。
     *辟木・・・さいき。へぎ。材木を薄く割いたもの。

とあるように、稲には祓え・清めの霊力があると信じられており、
古くは命の危険にさらされることの多かった産婦を死の力から護るために稲束や米が用いられていた。
ここに「今の世」とあるのは平安時代であって、その頃の世俗の慣習だが、
当社周辺での慣習も、この豊受大神信仰にもとづくものだろうか。

山間に鎮座しており、到着するまでには狭い坂道を上っていくことになるが、
それに反して社域は広々とし、境内はさわやか。

社前。
大きな鳥居に標柱。
正面に見える建物は社務所。
境内を進んでいくと、右手に石段。 石段を上がると拝殿および本殿。
伊勢外宮の最初鎮座地ということもあり、拝殿・本殿とも唯一神明造。
ただし、拝殿には覆いがかけられて中が見えないようになっており、
本殿も覆屋で覆われ、両側の「棟持柱」と屋根しか見ることができない。
境内の森。
年を経た巨木が林立している。
境内の南を小川が流れる。

鳥居と森。
境内の造りは大社の趣がある。



大宮売(おおみやめ)神社。

京丹後市大宮町周枳に鎮座。
北近畿タンゴ宮津線・丹後大宮駅の北東山麓。

丹後国丹波郡九座のうち、大宮売神社 二座〔名神・大〕。
丹後国二宮。

祭神は大宮売神(おほみやのめのかみ)、若宮売神(わかみやのめのかみ)の二柱。
大宮売神は、宮中の神祇官にて祀られていた、いわゆる「宮中八神」の一座。
『古語拾遺』には、天手力雄神が天石窟から引き出した天照大神を新殿に遷し坐さしめた時、
大宮売神は大神の御前に侍った、と記され、その注に、この神は太玉命の御子神であり、
今の世に、内侍がうるわしい言葉をもって君臣の間を和らげ、君の心を喜ばせるような役割である、とある。
太玉命は中臣氏ともに宮中祭祀を司った忌部氏の祖神で、祭祀を司る神。
『延喜式』祝詞式に収録された、天皇の住まわれる宮を祝福する祭「大殿祭(おほとののほがひ)」の祝詞の後半には、

  詞を分けて申し上げることには、大宮売命と御名を申し上げることは、
  天皇と同じ殿の中に塞がっておいでになり、
  参内する人、退出する人の良し悪しを選び采配し、
  荒れすさぶ神々があれば言葉をもってよい方向に直し和らげ、
  天皇の朝夕のお食事を用意する男女の料理人に手のつまづき・足のつまづきがないようにし、
  親王、諸王、諸臣、すべての官人らがそれぞれ自分勝手な方向を向かないようにさせ、
  悪い心、邪な心無く、ひたすら宮勤めに勤めさせて、
  もし咎・過ちがあったならば、良い方へ見直し聞き直され、平穏無事にお仕え申し上げさせることによって、
  大宮売命と御名をお讃え申し上げます。

とあり(上はだいたいの訳文)、
宮中の諸事を采配し、すべてがうまくいくように取り計らう、秘書のような女神様といえる。
大殿祭に続いて行われたと考えられている「御門祭」では櫛磐窓命・豊磐窓命の二柱が讃えられていて、
『古語拾遺』では天照大神の新殿の御門守衛にあたり、『古事記』では天孫降臨に供奉している神だが、
この神も丹波国に祀られており(丹波国多紀郡、櫛石窓神社二座。ともに「名神・大」指定)、
天皇の宮および御門を司る神々は丹波国から出ていることになる(丹後国は奈良時代の和銅六年に丹波国から分割)。
伊勢の神宮、天照大神のお食事の世話をするのは豊受大神だが、これも丹波からの遷座。
皇室と丹波国との密接なつながりがうかがえる。
豊受大神の遷座は雄略天皇治世と伝えられるが、その時期、宗教的に大きな動きがあったのだろうか。

境内からは弥生後期~古墳時代前期の土器や勾玉が出土、祭祀遺跡とみられており、
境内全域は「大宮売神社遺跡」として京都府指定文化財となっている。
この地で古代から祭祀が連綿と行われ、大宮売神社が成立していったのだろう。
周囲には古墳も多く、この地域の中心地であったようだ。
『新抄格勅符抄』の大同元年(806)牒によれば、当時丹波国に神封七戸を所有していた。
『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条には、
「・・・丹後国の従五位下大川神と大宮売神に並びに従五位上を授け奉る・・・」
との神階授与記事がある。
境内には「徳治二年(1307)」と刻まれた石灯籠があり、国の重要文化財に指定。
旧本殿は元禄二年(1689)に造営され、昭和二年の丹後大震災で損壊、現在は忠霊社となっている。
現本殿は昭和五年の造営となる。

本殿前に道路が走り、その脇に駐車場がある。
一の鳥居と参道は長く延びている。
社殿は南西向き。
もう一本国道側の道(県道656号線)沿いに立つ一の鳥居。

境内。丹後のほかの神社と同じように、拝殿がすっぽりと覆ってある。
境内石碑の由緒説明には、
大宮売神=天宇受売命、若宮売神=豊受大神とあった。

伊勢の神宮の内宮御垣内に祀られる宮比神(みやびのかみ)は、
中世には宮中八神の一である大宮売神ともみなされ、
その隣に鎮座している興玉神(おきたまのかみ)が
猿田彦神と同一視されたことで、興玉神と並んで鎮座する宮比神は
その妃神・天宇受売命と同一視されていた。
ここから、宮比神=大宮売神=天宇受売命という説が生まれ、
現在でもその説に従っている神社は多い。
これは平田篤胤の説であるようだ。

大宮売神=豊受大神なら神格的にまだ納得できるけど、
敏腕秘書とフィーバーダンサーじゃキャラ違いすぎだと思う。
拝殿前。二本の燈籠。
境内裏手。摂末社が並ぶ。
本殿裏手は禁足地になっている。
境内周辺には弁財天社などの小祠が何社か。



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