これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
*丹波国
天田郡(福知山市の一部)
生野神社 | ||||
京都府福知山市三俣に鎮座。
国道9号線と土師川(由良川支流)の北、上六人部(かみむとべ)小学校の北隣の山麓。
『延喜式』神名式、丹波国天田郡四座の一。小社。
別名を御幣(みてぐら)神社という。
祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。
天岩屋戸にては神憑かりして舞い、天孫降臨では猿田彦神の正体を明らかにした女神。
天照大神から「いむかふ神と面(おも)勝つ神」と呼ばれたにらめっこ無双な神様で、
どちらの場面でも衣服を下ろして事に臨んでおり、脱げば脱ぐほど力を発揮するもよう。
朝廷で鎮魂祭に奉仕した猿女君の祖。
神名の「うず」とは髪飾りのことで、それゆえ「鈿」(テン、デン。黄金の飾り、青貝細工、簪の意)という漢字を当てられている。
髪飾りをつけ、神降ろしを行う巫女の神格化。芸能・音楽の守護神。
生野は山陰道(現・国道9号線)沿いの里で、神社も街道沿いに鎮座しており、
江戸時代にはこの地方を治めていた綾部藩の九鬼氏をはじめ周辺の諸藩が参勤交代の際必ず参拝、
神前の榊の枝葉を頂いて道中安全を祈願し、帰途にこれを返納していた。
これにより、旅行、出張、転居などの移動事や道中安全の神としての信仰を集めている。
綾部藩は生野に倉庫を建てて上納米を収めていたが、そこから毎年生野神社へ御供米を奉献していたので、
「御幣神社」「御幣はん」と通称されるようになったという。(「みてぐら」は神への捧げものを意味する)
社叢。左端の台地の上に上六人部小学校。 | 神社と小学校の間の道は、古くは「京街道」だった。 京街道とは、丹波の人から見た山陰道のこと。 彼らにとっては、山陰道は「京へと向かう道」。 |
鳥居前。新しい鳥居と燈籠。近年建て替えがなされたのだろう。 |
石段を上ると、拝殿。 細かい意匠が施された、小さいながらも立派な社殿。 |
拝殿および本殿。 夕暮れ時なので、携帯ではかなり写真がぶれる。 |
本殿横に鎮座する末社。 |
拝殿前の狛犬。 | 本殿後背の森。 |
境内の木々。 |
*生野の里。
生野は古来宿場町として中央に知られており、『小倉百人一首』にも収録されている小式部内侍(和泉式部の娘)の有名な歌、
大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
(丹波への入り口である大枝山を越え、生野の里を過ぎて行く道があまりにも遠いので、
まだ天橋立へ足を踏み入れたこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません)
に歌いこまれていることで知られる。
この歌には、
小式部内侍は若くしてすぐれた歌を作っていたが、周囲からはそれらは母・和泉式部の代作だと思われていた。
そういったとき、ある歌合で中納言藤原定頼が彼女のいる局の前で、
「歌はどうされましたか。丹後へ人は遣わしましたか.。使いが帰ってこないのでは、どれほど心細いことでしょうか」
とからかった。当時、和泉式部は夫とともにその赴任先の丹後国に下っていた。
母がいなければ歌は歌えないでしょう、という皮肉に対し、
小式部内侍が簾から身を乗り出し、行き過ぎようとする定頼の裾を取って引きとめ歌い掛けたのが上の歌。
「生野・行く野」「踏み・文」という二つの掛詞を用い、また「踏み」は「橋」の縁語、
「大江山」「生野」「天橋立」と三十一文字の中に地名を三つも盛り込みながら歌の流れにまったくよどみがなく、
まだ見ぬ遥か遠くの天橋立へ行ってみたい、という歌の陰に「私は母の手を借りずとも歌を作れますよ」という二重の意味を込めている。
あまりにも見事な瞬時の切り返しの前に、定頼は歌い掛けに対する返歌もできず、
「これはどうしたことだ」
と言って退出してしまった。これ以降、小式部内侍の名声がとみに高まった・・・
というエピソードがある。
大江山は、山陰道の起点である山城国と丹波国の境、
つまり現在の国道9号線が京都市から亀山市に入る境の一帯にある大枝山のことで、
酒呑童子で知られる大江山のことではない。
生野の里近辺。 | 国道9号線、山陰道。 |