これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
伊勢神宮編:
伊勢の神宮を構成する神社や施設ほか。
*正宮、別宮
皇太神宮(内宮) (付・皇大神宮摂社津長神社ほか) |
豊受大神宮(外宮) (付・豊受大神宮摂社宇須乃野神社ほか) |
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皇大神宮別宮・月読宮 (付・皇大神宮末社葭原神社) |
皇大神宮別宮・瀧原宮 およびその所管社 (付・皇大神宮摂社多岐原神社) |
皇大神宮別宮・伊雑宮 およびその所管社 |
皇大神宮別宮・倭姫宮 |
豊受大神宮別宮・月夜見宮 (付・豊受大神宮摂社高河原神社) |
*摂社・末社・所管社その他
斎宮(さいくう)近隣 | 天皇の代替わりごとに、神宮の祭祀を司るために皇室の女性が神官として伊勢に赴いた。 これを斎王といい(厳密には、内親王が赴けば斎内親王、女王が赴けば斎王という。 平安中期以降、年少の天皇が増えたために斎内親王の例はほとんどなくなった)、 その居館が今の松阪市にあった。これを斎宮といい、それを囲む「斎宮寮」という五百人規模の広大な施設があった。 その址は近鉄・斎宮駅のそばにあり、歴史博物館が建っている。 そのひとつ西の駅、漕代駅から北に向かうと、 皇大神宮の「神御衣祭(かんみそさい)」に麻布・絹布を奉織するふたつの神社が鎮座している。 神麻続機殿神社および末社八所、神服織機殿神社および末社八所、 神宮土器調製所、史跡鳥墓神庤跡、史跡斎宮跡。 |
田丸・小俣周辺 | 初瀬街道と熊野街道が出会い、神宮へと向かう交通の要衝だった田丸と、 宮川の渡しを目の前にする小俣。 斎王の離宮や神宮運営を司る大神宮司もここにあった。 狭田国生神社、坂手国生神社、鴨下神社、田宮寺・田宮寺神社、奈良波良神社、小社神社、 湯田神社、小俣神社、史跡離宮院跡および官舎神社。 |
外城田(ときだ)周辺(1) 外城田周辺(2) |
外城田・田丸周辺に内宮摂末社が多いのは、 このあたりが内宮神官職をつとめた荒木田氏の住処だったかららしい。 一面の田園地帯の中に鎮座する神社。 皇大神の鎮座地を求める倭姫命もこの辺りを旅したといわれる。 (1)棒原神社、御船神社(牟弥乃神社同座)、田乃家神社(田乃家御前神社同座)、 蚊野神社(蚊野御前神社同座)。 (2)朽羅神社、津布良神社、鴨神社。 |
宮川流域 | 宮川を渡ると、いよいよ外宮宮域に近づく。 倭姫命が大神の鎮座地を求めて宮川を上り下りした時に定められた神社や、 宮川治水の神々。 久具都姫神社、神宮萱山、園相神社、川原神社、神宮苗圃、草奈伎神社・大間国生神社、 清野井庭神社、志等美神社・大河内神社・打懸神社、 大神宮寺相鹿瀬寺跡。 |
神社港(かみやしろこう)・ 大湊(おおみなと) |
伊勢の海の玄関口。この港は海上交通の要衝であり、東西の船がこの港に立ち寄っていた。 海の神々、宮川河口付近の神々。 宮川を下った倭姫命は、五十鈴川を目指していったん海へ出、五十鈴川河口へと向かったという。 御食神社、志宝屋神社、河原神社(毛理神社同座)、河原淵神社。 |
二見(ふたみ)周辺 | 古来景勝をうたわれる二見浦の周辺。 神宮の祭典に用いる御塩を作る塩田・御塩浜や、製塩を行う御塩殿神社がある。 宮川から二見の海に出てきた倭姫命は神社を定めつつ五十鈴川(現在の五十鈴川派川)へ入り、 そこから遡って大宮地へと向かった。 堅田神社、御塩殿神社および御塩浜、江神社、神前神社(許母利神社・荒前神社同座)、 粟皇子神社、神宮御園。 |
五十鈴川流域 | 皇大神宮筆頭摂社・朝熊神社などの重要な摂社が鎮座し、また神田がある。 五十鈴川を遡った倭姫命はついにこの地に皇大神宮を定め、 そののちは御膳・御贄処を定め、神嘗祭の起源となる祭りを行った。 加努弥神社、朝熊神社・朝熊御前神社・鏡宮神社、神宮神田、 大土御祖神社(宇治乃奴鬼神社同座)・国津御祖神社(葦立弖神社同座)、 宇治山田神社(那自売神社同座)。 |
鳥羽周辺 | 外宮に奉納する海産物の御贄の守り神、赤崎神社。 そして、神宮三節祭にて用いられる熨斗鰒を調進する、神宮御料鰒調製所。 あと、鳥羽といえば・・・の鳥羽水族館とか。 赤崎神社、神宮御料鰒調製所。 |
伊勢神宮、正式名称は「神宮」。
皇大神宮(内宮、ないくう)と豊受大神宮(外宮、げくう)の二つの正宮(しょうぐう)にその別宮(べつくう)14社、
そのほか摂社・末社・所管社を加えた総数125社からなる神社。
内宮は皇祖神である天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。神宮で用いられる最高尊称)を祀り、
外宮は天照坐皇大御神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)、豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る。
まず外宮に参拝し、それから内宮に参拝するのがならわし。
皇大神宮は皇室の祖先を祀る神社であり、また日本国民の総氏神とされ、
世の中が落ち着いた江戸時代には、「おかげ参り」という60年周期の爆発的な伊勢参宮ムーブメントが起こった。
日本の総人口のほぼ6人に1人が一年のうちにどっと伊勢に押し寄せたのだ。
日本全国の老若男女が、お互いにお金を出し合ってその代表が旅立ったり(伊勢講)、
時には無断で村を離れて伊勢を目指した(抜け参り)。
体が悪いなどの理由でとても伊勢へ行けない人は、
犬に「伊勢参宮」と書いた袋を下げて初穂料を入れ、伊勢へと送り出した。
犬たちは、同じおかげ参りの人々の好意によって伊勢へと無事たどり着き、きちんとお祓いを受け、お札を受けると、
また帰りの人々に世話を焼いてもらいながら無事に地元へと帰ってきたという。この「犬の伊勢参り」の話もかなり多いらしい。
神宮には、6月・12月の月次祭(つきなみさい)、そして10月15-17日の神嘗祭(かんなめさい)という三つの最も重要なお祭りがあり、
これを三節祭(さんせつさい)という。その中でも、新穀を天照大御神に奉る神嘗祭が一番重要なものであり、
この日は皇居内の天皇陛下も伊勢の方角を向いて遥拝され、
さらに夜中にいたる祭儀が終わり、神宮から電話でその儀の連絡が入るまでは決して床につかれないという。
神宮で20年に1度行われる式年遷宮はこの神嘗祭を大規模にしたもので、「大神嘗祭」といわれる。
このときは、神宮を形成する125社すべてが社殿を一新するだけでなく、御神宝・装束など、
神宮の中にあるすべてのものが新しく作り替えられる。
新しい意匠を加える事無く、古文献の通り、まったくオリジナルのままに。
私たちが今見ている建物は、千年以上昔も、まったく変わらぬ姿のままそこにあった。そしてこれからもそうだろう。
ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、伊勢の神宮について、その「永遠性」に驚嘆し、
「世界の建築の王座である」
であると絶賛している。
天武天皇がこの制度を定めてより1300年、途中戦乱による中断はあったものの、絶える事無く行われてきた。
第一回から戦前までは国家行事で、国庫から予算が出ていたが、戦後は政教分離のためにそれができなくなり、
民間からの寄付により行われている。
次回は平成25年で、第62回の遷宮となる。