これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
皇大神宮周辺の社など。
皇大神宮所管社・饗土橋姫(あえどはしひめ)神社。
伊勢市宇治今在家町に鎮座。
皇大神宮への入口、五十鈴川にかかる宇治橋の鎮守神。
饗土(あへど、あえど)とは、道饗祭(みちあへのまつり)をするところ。
宮域四方において、鬼魅が入らぬよう御饗を捧げてもてなし、帰っていただく祭り。
『延喜式』四時祭式にも見え、国家の恒例祭祀として平城京や平安京においてもおこなわれていた。
やな奴が来たらごちそう食わせて満足して帰ってもらう、という平和的解決法でござる。
鎌倉時代初頭の建久年間(1190-98)に書かれた神宮の年中行事書『建久年中行事』には「饗土社」の名が見え、
道饗祭を行う場としての社は鎌倉期にはすでに存在していたことがわかる。
また、『氏経神事記』によれば、文明九年(1477)四月の条に「大橋之橋姫御前社」の造替に際して十万度の祓えに仕え奉った、
という記事があり、宇治橋およびその橋姫社はこれ以前にはあったことがわかる。
これら二社を併せたのが饗土橋姫神社、ということになる。
もともと五十鈴川には橋はなく、祠官や参宮者は流れの中にいくつも大石を並べた「渡瀬」を渡って参進していた。
川は俗界と神域とを隔てる境界の役割を担っており、また渡る者を清める「禊」の役割も果たしていた。
橋を造って道をつけるということは、そこから悪いモノが容易に侵入できるということであり、
それを防ぐために清浄を厳守する神宮では長い間橋は懸けられていなかった。
宇治橋ができたのはそういった厳格さが緩んできた室町時代の初期と考えられており、
橋を介しての悪いモノの侵入を防ぐために橋姫社が創祀され、のちに饗土社と一体となったのだろう。
宇治橋からまっすぐ西へ、道路を渡りタクシー乗り場も突っ切った先。 山の麓から宇治橋を見守るように鎮座している。 |
社殿。 祭神は宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)。 元々はもっと宇治橋の近く、 おはらい町通りの終着点右手、 現在の宇治橋前の松の大木がある辺りに鎮座しており、 まさに宇治橋の目の前にあった。 明治の国道改修時に遷座したとのこと。 |
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写真中央右にある大きな松の木の辺りだったらしい。 具体的な祭神名はなかったようで、 江戸時代にはこの辺りの摂末社八座を祀っていると思われていた ようだ。 |
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平成二十一年に宇治橋が架け替えられ、 11月3日に渡始式が行われるが、 その神事において祭られる饗土橋姫神社も造替される。 (その間、橋姫様は津長神社に仮遷座となる) 完成しつつある清々しい白木の社殿。 |
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造替された社殿。 式年遷宮の四年前に宇治橋架け替えが行われるため、 饗土橋姫神社が一番初めに造替される神社となる。 ただ、式年遷宮は大神の宮の遷宮を第一とするので、 それを一番と考えると、この神社は 「もっとも遅く造替される神社」 ということになる。 |
神社から真正面に見える宇治橋を見る。 |
皇大神宮摂社・津長(つなが)神社。
皇大神宮末社・新川(にいかわ)神社、同じく皇大神宮末社・石井(いわい)神社が同座で祀られる。
饗土橋姫神社の右手の台地上に鎮座する。
津長神社の祭神は栖長比売命(すながひめのみこと)。 水の女神。 古代、この一帯は五十鈴川を遡る船が泊まる船着場であり、 御膳・御贄処を定め終え戻ってきた倭姫命がこの地で上陸、神社を定めたと伝えられる。 『延喜式』神名式や『延暦儀式帳』では、「津長大水神社」と記されている。 新川神社の祭神は新川比売命。川の神であり、倭姫命が社を定めた。 江戸時代につくられた参宮ガイドブックや名所図会によれば、 五十鈴川上流の鏡石という巨石の上に二つの社があり、うち一方が新川神社であるともいわれていた。 ちなみに、そのもう一社は鏡石神社といい、明治の神社整理で宇治神社に合祀された。 また、新川神社は川相神社の近辺であるともいわれていた。 石井神社の祭神は高水上命(たかみなかみのみこと)。 岩清水の守り神と伝わる。 参宮手引書や名所図会によれば、江戸期にはだいたい今の神宮司庁の裏あたりの巨岩の立っているところに鎮座しており、 「岩社」「巌社」と呼ばれていた。 戦前の巡拝記には、 現在は宇治山田神社に御同座の那自売神社が「明治四年に津長神社に御同座」とあるので、 那自売神社も一時この社殿にいらしゃったようだ。 |
皇大神宮摂社・大水(おおみず)神社。
皇大神宮末社・川相(かわあい)神社、皇大神宮末社・熊淵神社同座。
饗土橋姫神社の左手の台地上に鎮座する。
大水神社の祭神は大山祇御祖命(おおやまつみのみおやのみこと)。 五十鈴川流域の山を司る神。 山の神なのに「大水」という社名は一見おかしいが、川の流れは山に発することからの連想だろう。 川相神社の祭神は細川水神(ほそかわのみずのかみ)。 熊淵神社の祭神は多支大刀自神(たきのおおとじのかみ)。 ともに大水上神の御子。それぞれ水・滝の神。 大水上神とは大山祇神の別名ともされるが、伊勢では内宮末社である那自賣神社に 「大水上御祖命(おおみなかみのみおやのみこと)」 が祀られ、同座でその御魂が祀られているが、その名は 「御裳乃須蘇比賣命(みものすそのひめのみこと)」 で女神であることがわかり、大水上神は大山祇神ではない。 神宮摂末社の水神はほとんどこの大水上神の御子である。 奥に見える壁は、旧林崎文庫のもの。 江戸時代の参宮手引書(ガイドブック)によれば、 そのころは熊淵神社、川相神社とも別所に鎮座しており、川相神社は川相淵、熊淵神社は熊淵に鎮座していたらしい。 名所図会には、瀧祭神の南の河合に石積みがあって細川水神を祀っており、 遷宮時には神宝を清めるところであると記している。 現在の川原祓所付近、五十鈴川と島路川の合流点の川原に鎮座していたのだろう。 |
史跡・旧林崎文庫。
大水神社の背後にある。入口は駐車場に面している。
江戸時代、内宮の図書館ならびに学問センターとして内宮の神官たちが学んだ旧林崎文庫。 春と秋に期間限定公開される。 外宮の「豊宮崎文庫」(後期伊勢神道の中心人物であった出口延佳が設立)にやや遅れて設立されたが、 まもなく荒廃してしまったのを、内宮神官・荒木田氏の蓬莱尚賢が本居宣長らの助力をうけ再興、 数多くの書物の寄贈があり、最終的には10,978冊に達した。 *出口・蓬莱などはそれぞれ度会氏・荒木田氏のうちの一家。 外宮神官は度会氏、内宮神官は荒木田氏が世襲でつとめており、時代が下るにつれ分家を繰り返して一族は非常に多数となった。 そこで、中世くらいからは氏族名でなく家名(概ね在住地)で呼ぶようにするのが通例。 朝廷の五摂家である近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家がみな「藤原氏」であるというのと同じ。 |
ちなみに近隣に鎮座している「合格神社」は神宮とは関連のない神社。
「憲政の神様」と呼ばれた尾崎咢堂(行雄)をまつっている。