これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
伊勢国:
度会・多気・飯野の三郡は古代において伊勢大神宮の神領であり、「神郡」と呼ばれていた。
度会郡(伊勢市、度会郡、志摩市の一部)
猿田彦神社 | 二見興玉神社 | 松下社 |
多気郡(多気郡、松阪市の一部)
佐那神社 | 櫛田神社 | 竹神社 | 魚見神社 |
飯野郡(松阪市南東部):
神山神社 |
度会郡:
伊勢市宇治浦田に鎮座。
内宮と外宮を最短でつなぐ御木本道路と国道23号線バイパスの交点で、
内宮への入口となる宇治浦田町交差点の北西の一角。
天孫降臨後、それを導いた猿田彦大神は伊勢の地に鎮まった。
その子孫である大田命(おおたのみこと)は倭姫命に天照大神を祀るための宮処を献上し、
かくてこの地に皇大神宮が定められた。
大田命の子孫は宇治土公(うぢのつちきみ、後にうじとこと読まれる)氏と呼ばれ、
代々内宮に奉仕し「宇治大内人(うぢのおおうちんど)」という役職にあった。
これは三節祭・春秋の神御衣祭また臨時の皇室からの奉幣において太玉串・天八重榊を扱うという重職で、禰宜に次ぐ高位の職。
『大神宮諸雑事記』には、皇大神宮の創祀において大田命が「玉串大内人」として奉仕したと記されており、
古くより宇治土公氏がその役職を担っていたようだ。
しかし明治になると政府は神職の世襲を禁止、さらに伊勢神宮の内部改革を行ったため、
内宮の荒木田氏、外宮の度会氏は神宮からほとんどいなくなってしまい、
同じく宇治土公氏もその職を失ってしまった。
そのため、代々居館で私的に祀っていた祖神・猿田彦大神を神社として祀ることにしたのがこの神社。
祭神はもちろん猿田彦大神で、相殿に大田命を祀る。
猿田彦大神は天孫降臨の先導をつとめたために「みちびき」「みちひらき」の神として信仰されており、
主に交通安全の神様として知られる。
また、人生の様々な場面においてよい方向へと導いてくれる神様ともされる。
伊勢国一宮である椿大神社と、どちらが猿田彦神の本宮かとよく論争になるが、
参拝する側からすると別にどちらでもかまわない、というところ。
神社正面。 |
拝殿正面。 | 正面入って右手に鎮座する、摂社・佐留女(さるめ)神社。 天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀る。 |
境内。 | 駐車場には車修祓所がある。 |
本殿裏手には神田があり、 毎年五月初旬に御田植祭が行われている。 中世には猿田彦命には様々な属性が付加され、 農業神の役割ももった。 |
伊勢市二見町江に鎮座。
二見浦の東端、音無山が海に突き出す、その先にある立石崎と呼ばれる場所。
「夫婦岩」で有名。
二見浦は古来景勝の地として知られ、西行法師や鴨長明など、名だたる歌人・文人がこの地を訪れている。
とくに西行法師は治承四年(1180)、中央の戦乱を避けてこの地に草庵を結び、六年間暮らしていた。
また、伊勢参宮者は参宮の前に二見浦で禊を行うならわしがあり、これを「浜参宮」といった。
現在、「浜参宮」は二見興玉神社で行うのが一般的で、
「お木曳行事」「お白石持ち」などの式年遷宮行事に奉仕する人々は、まずこの神社で祓えを受け、
その上で行事に参加することになっている。
二見興玉神社は夫婦岩の沖合にある「興玉神石」を神体としており、
夫婦岩を鳥居とし、神石を遥拝する形態となっている。
興玉神石は祭神である猿田彦大神ゆかりの石とされており、
寛政九年(1797)刊の『伊勢参宮名所図会』によると干潮時には見ることができたようだが、
安政元年(1854)の安政東海・南海大地震によって海中に没し、以降見ることはできなくなった
(まれに、大きな干潮の時は見えるらしい)。
神社については、伝承では天平年間、行基によって江村の大江寺の鎮守社として成立し、
明治三十年、現在地に遷座。
そののち、明治四十三年に境内地に以前から鎮座していた三宮神社(祭神・御食津大神)を合祀、社名を二見興玉神社とした。
昭和二十年に栄野神社を合祀したが昭和二十六年に再び分祀、飛地境内摂社として今に至る。
そういった経緯で、現在の祭神は御食津大神と猿田彦神となっている。
海辺の通りにはたくさんの旅館が立ち並んでいるが、 その中にある賓日館(ひんじつかん)。 神宮崇敬団体である神苑会によって明治二十年二月に竣工。 工事期間はわずか二ヶ月だったが、これは明治天皇の母君、英照皇太后のご宿泊に間に合わせるためだった。 その後、皇太子明宮嘉仁親王(大正天皇)が避暑・療養・水泳訓練のために滞在されるなど、 皇族・要人の宿泊施設として用いられた。 明治四十四年に民間の二見館に払い下げられ、それからも昭憲皇后が休息されたり、最近では秋篠宮殿下が植樹を行われていた。 改修を加えつつ宿泊施設として機能していたが、 平成十一年、二見館の休業とともに宿泊施設としての役割を終え、 その後二見町に寄贈され、現在は資料館となっている。 貴人の宿泊施設として、明治から昭和にいたる建築技術の粋を凝らした建物と庭園をもつため、 国の登録有形文化財、県の有形文化財に指定されている。 |
無事かえる。 猿田彦大神の神使はカエルであり、 境内にもカエルの像が多い。 |
海辺の鳥居。 海岸の参道を進んでゆく。 |
ふたつめの鳥居。かたわらにカエル。 海では海鳥が休息しており、空には明野駐屯地の輸送ヘリが。 |
天の岩屋。 この場所には、もと三狐神(三宮神、しゃぐじ)が祀られていたが、 弘化元年(1844)に遷座され、明治に興玉神社に合祀された。 |
参道の風景。 | 拝殿。 祈願やお祓いは拝殿にて行う。 奥に夫婦岩が見える。 |
夫婦岩。 夏至の前後の期間、 この間から太陽が昇る。 |
|
横から見る。 海鳥が岩の上で休息中。 |
とにかくカエル 境内のカエルは、祈願が成就した方々からの献納品。 |
夫婦岩付近は禊行事の行場になっている。 毎年夏至の日の早朝には夏至祭が斎行され、 その後ここで禊修法が行われており、 全国から多くの人が身を清めにやってくる。 |
参道が南へ伸びる。 奥には竜宮社が鎮座。大綿津見神を祀る。 さらに進めば二見プラザ、二見シーパラダイスへ。 |
伊勢市二見町松下に鎮座。
伊勢では古くから牛頭天王と八王子の信仰が盛んであり、かつては各地に祇園社や八王子社があって、
現在も家々の門には「蘇民将来子孫家門」などと書いた札が懸けられているが、
松下社はその中心ともいえる神社。
伊勢で牛頭天王の信仰が盛んなわけは、中世に伊勢の神宮御師が全国へ伊勢信仰を布教していく際、
当時、伊勢道と東海道のクロスロードであった津島の天王社(現在の津島神社)とタッグを組んだため、という説があり、
神宮の祠官も近隣の祇園社や八王子社の祭礼に参加していたという記録がある。
現在、そういった社は素戔嗚尊や五男神三女神(天照大神と素戔嗚尊が天安河の誓約で化成した、
皇孫瓊瓊杵尊の父神である天忍穂耳命をはじめとする五男神および宗像の三女神)を祀る神社となっている。
松下社の創祀は不明だが、
室町時代に内宮の一禰宜(筆頭禰宜)をつとめた荒木田氏経の神事日記である『氏経日次記(うじつねひなみき)』(『続々群書類従』1神祇部収録)の
文安六年(1449)の条にその名がみえ、その時には鎮座していたことが確認できる。
この社では古くから「蘇民将来子孫」と書いた護符を十二月十六日に頒布始祭を行ったうえ年末に配布し、
近郷の家々ではそれを注連縄に吊るす習わしとなっている。
社叢は「蘇民の森」と呼ばれ親しまれており、境内には三重県天然記念物指定の樟の老木がある。
神社の南には「民話の駅蘇民」があり、 その駐車場に車を停めることができる。 中央に大きな空洞のあるクスノキがみえるが、 これは三重県天然記念物に指定されている神木。 |
境内入口。 |
本殿前。 右手の建物は絵馬殿。 |
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松下社本殿。 素戔嗚尊を祭る社だが、 伊勢地方の社であるので唯一神明造となっている。 |
参道。奥に本殿。 左手には神木である大クスの樹が立つ。 |
松下社の大樟。 三重県の天然記念物に指定。 主幹は5m位を残して枯損、下部は空洞化しているが、 樹幹基部周辺から枝幹が張り出してなお青々としており、 その樹齢は1000年ともいわれている。 |
斎館と祓所。 |
境内にある蘇民祠。 備後国風土記逸文にみえる、武塔神こと素戔嗚尊を一晩泊めてその祝福を受けた蘇民将来を祀る。 この武塔神が牛頭天王と同一視されて祇園信仰となり、全国に広まっていった。 |
多気郡:
多気郡多気町仁田に鎮座。
国道42号線沿い、佐奈小学校の西隣。
『延喜式』神名式、伊勢国多気郡五十二座の内、佐那神社〔二座〕。
天岩屋戸神話で天照大御神を岩屋から引き出し、天孫降臨にも供奉した大力の神・天手力男命(あめのたぢからをのみこと)、
そしてこの地方を開墾経営した曙立王命(あけたつのきみのみこと)の二柱を祀る。
『古事記』には「手力男神は、佐那の県に坐す」とあり、
『古事記』が成立した八世紀初頭にはすでにこの地に鎮座していたことが知られる。
また『延暦儀式帳』には皇大神宮の相殿神二座の一として天照大御神の脇に控えており、天照大御神の近侍という感じの神様。
曙立王(一般的にはあけたつのみこ、と読む)は、第九代開化天皇の皇子・彦坐王(ひこいますのみこ)の孫で、
『古事記』には「伊勢の品遅部君(ほむちべのきみ)・伊勢の佐那造(さなのみやつこ)の祖」と記される。
垂仁天皇記には、
出雲大神の祟りにより言葉が不自由な皇子・本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)がその祟りを解くため出雲大神の宮へ参拝に向かう際、
その随行者として曙立王が卜に合ったので、天皇が曙立王に誓約(うけひ)をさせ、曙立王が、
「この大神を拝むことによって本当に験があるならば、この鷺巣池の樹に住む鷺よ、誓約に従って落ちよ」
と天皇の詔を宣ると、鷺は木から落ちて死に、
「誓約に従って活きよ」
と宣ると、生き返った。
また、甘樫丘の崎にある、葉の広く繁った樫の木を誓約によって枯らし、また生き返らせたので、
天皇は曙立王に「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとのしきのとみのとよあさくらのあけたつのみこ)」という名を賜わった。
曙立王は弟の菟上王(うなかみのみこ)とともに御子に従って出発したが、
それにあたっても卜をおこない、
「(山城国へ向かう)奈良越えの道を行けば足の悪い人や目の見えない人に遭うだろう。大坂越えの道を行っても同じだろう。
ただ紀伊越えの道のみが幸先の良い道である」
と、紀伊へ出たうえで出雲を目指し、行く先々で品遅部を定めていったとある。
これは、曙立王が祝詞と卜術にすぐれた特異な人であったことを示しているのだろう。
また、伊勢志摩地方は出雲の文化圏に入っていたことが、
「伊勢津彦命は出雲神の子である」と記す伊勢国・伊賀国風土記逸文や、
嶋津国(志摩国)の初代国造を出雲臣の一族である出雲笠夜命であるとする『先代旧事本紀』国造本紀の記述からうかがえるので、
曙立王は出雲文化を熟知する者として、出雲へ向かう皇子の随身に立てられたのだろうか。
現在、神宮式年遷宮においては御正宮から所管社まで合わせて125社すべての社殿の造替が行われているが、
これは明治からのことであり、律令制下においては「神宮七院・社十二処」のみが朝廷より派遣される「造宮使」によって式年造替され、
その他の社は破損に応じて宮司が修理することになっていた。
「七院」とは「大神宮(内宮御正宮)・荒祭宮・月読宮・瀧原宮・伊雑宮・度会宮(外宮御正宮)・多賀宮」の七宮であり、
「社十二所」とは、『延喜式』伊勢大神宮式に、
朝熊社、園相社、鴨社、田乃家社、蚊野社、湯田社、 (*以上は内宮摂社)
月夜見社、草名伎社、大間社、 (*以上は外宮摂社。月夜見社はのちに宮号宣下を受けて「月夜見宮」となる)
須麻漏売社、佐那社、櫛田社。
という注記があり、
「須麻漏売(すまろめ)社」「佐那社」「櫛田(くしだ)社」の三社は神宮管下の社ではないにも関わらず、
造宮使が造替を行うという特別な扱いを受けていた。
神名式(神名帳)でもこの三社は伊勢国多気郡条の筆頭に並べて記されており、
斎宮寮式でも斎宮の祈年祭で祭る神社に指定されている。
『延暦儀式帳』に記される鎮座伝承においては、
・・・そして飯野高宮にご滞在された。
その時、佐奈県造(さなのあがたのみやつこ)の御代宿禰(みしろのすくね)に、「おまえの国の名は何か」とお問いになった。
答えて「許母理国(こもりのくに)、志多備国(したびのくに)、真久佐牟気草向国(まくさむけ くさむけのくに)です」と申し上げ、
神御田と神戸をたてまつった。
そして多気佐々牟迤宮(たけのささむえのみや)にご滞在された。
その時、竹首(たけのおびと)の吉比古(えひこ)に、「おまえの国の名は何か」とお問いになった。
答えて「百(もも)張り蘇我国(そがのくに)、五百枝(いほえ)刺す竹田国(たけたのくに)です」と申し上げ、
櫛田・根椋(*根倉)の神御田をたてまつった・・・
(*飯野高宮・・・『延喜式』神名式、伊勢国飯野郡「神山神社」の地とされる。松阪市山添町)
(*多気佐々牟迤宮・・・『延喜式』神名式、伊勢国多気郡「竹佐佐夫江神社」の地とされる。多気郡明和町山大淀)
とあり、古くから神宮の神戸及び神田があった場所と伝えられていた。
また、神宮の記録によれば、佐那神社は外宮禰宜の労社として祝の制を定められ、毎年二月に神事が行われていたといい、
外宮を掌る度会氏との縁が深かったことが示されている。
『延暦儀式帳』には、大化の改新時、全国に「評」(こほり。のちの「郡」)が立てられた時、
「多気評」の助督として礒部真夜手(いそべのまやて)という者が任じられたとしており、
この礒部氏は、『続日本紀』和銅四(711)年三月六日条に、
伊勢国の人、礒部祖父(いそべのおほぢ)・高志(こし)の二人に渡相神主(わたらいのかむぬし)の姓を賜わった。
と、「渡相(度会)神主」という氏姓を賜わっており、これが外宮神主家である度会氏。
この年は外宮の第二回式年遷宮の年であり、それにあたって礒部氏を外宮神主と定めたのだろう。
櫛田神社も大神宮の鎮座に多大な功があったとされる度会氏の祖・大若子命を祀っており、
この一帯は皇大神宮の創祀そして度会氏に大きな関わりがあり、
当地に鎮座する神社も多気郡の筆頭社として重く扱われたと考えられる。
おそらくは「飯野高宮」が皇大神宮鎮座伝承において特に重要な地であったことを示すのだろう。
『倭姫命世記』には、倭姫命が飯野高宮において祓を行ったことではじめて五十鈴宮(内宮鎮座地)に向かうことができるようになったとし、
神宮へ向かうすべての人が櫛田川の川辺で禊をし駅馬の鈴声を止めるのはこれが由来である、としている。
あるいは、『続日本紀』文武天皇二年(698)、天皇が践祚大嘗祭を行った翌月の十二月二十九日条にある、
多気大神宮を度合郡へ遷した。
という記事は、あるいはごく古い時期にこの佐那の地には多気郡における伊勢大神の遥宮(とおのみや)があって、
それを度会郡へ遷座した(たとえば「瀧原竝宮」として)ということで、
そのために宮の旧地は神宮と同じ扱いとなった、ということなのかもしれないが、
『続日本紀』の記述は簡素であり、
『延暦儀式帳』もその記事にあたるような出来事や管下にない神社については報告を求められていないために記されておらず、
この『続日本紀』の記事についてはなお謎のまま。
伊勢神宮の内宮第一回遷宮は持統天皇四年(690)、つまり持統天皇即位の年であり、
その年の冬に天皇は新暦を導入し、さらに新益京(藤原京)の造営に取り掛かっており、
翌年には新益京の鎮祭(地鎮祭)を行い、
その翌年、外宮の第一回遷宮の年(692)の三月には天皇は伊勢・志摩行幸を行い、
五月には藤原宮の宮地の鎮祭を行ってその事を伊勢・大倭・紀伊・住吉の四社に奉告。
そして持統天皇八年(694)十二月に藤原宮に遷御された。
ここから、新益京・藤原宮の造営と神宮の遷宮は同じ構想の下になされたと考えられ
(平城京についても、元明天皇の践祚大嘗祭が行われた和銅元年〔708〕の翌年、
和銅二年〔709〕に内宮第二回式年遷宮が行われ、その翌年和銅三年〔710〕に平城京遷都、
その翌年和銅四年に外宮第二回式年遷宮が行われている)
藤原宮の中心線の真南に天武天皇陵があり、さらに真北には天智天皇の山科陵が位置することから、
この「天智天皇・今上天皇・天武天皇」による南北線に対して、伊勢神宮内宮が「東西線」に位置する場所に遷宮されたのかもしれない。
藤原宮の東西線を真東に伸ばすと、ちょうど現在の多気町中心部、つまり佐那神社近辺を通過するが、
あるいは第一回遷宮においてこの付近に遷宮が行われたのかもしれない。
ただしここは神宮の神堺である櫛田川にあまりに近く、祭祀に不適当であり、
「こんなところで静かにお祭りできません」と神宮側からクレームがきたため、
文武天皇の践祚大嘗祭が行われた698年に遷宮が行われて元の五十鈴河上の地へ戻され、
外宮の遷宮を伴わないイレギュラーなものだったために「式年遷宮」としてカウントされず、
神宮側でも「なかったこと」「黒歴史」にされたが、
イレギュラーなものであったために国史には採録され、
(『続日本紀』は、凡例として各部署が担当するような時節の恒例行事については記さない、と、
『日本後紀』延暦十三年〔794〕八月十三日条に収録されている『続日本紀』献呈にともなう上表文に明記している。
つまり、式年遷宮という定期的行事は『続日本紀』の収録対象にならず、それ以外の臨時的な遷宮ならば記事になるということ)
第一回遷宮における内宮周辺の重要な社であった佐那神社等三社は、
その後も造宮使による造営が行われる慣習となった・・・とかだったりしたかもしれない。
表参道鳥居前。 南の国道42号線方面からも入れるが、国道42号線は新しくできた道路であり、そちらは裏参道になる。 古くから存在した、山の麓を走る熊野街道に面した北からの入口が表参道。 |
鳥居の傍にある、 紀州藩が享保甲辰(1724)に立てた禁殺生石。 |
国道からの入口。 |
左が拝殿、 右は、西南の役以降の国事国難に殉じた地元出身者を祀った、 和玉社の拝殿。 |
拝殿内から本殿をちらり。 ちょうど地元のお祭りの時分だった。 白木の拝殿・社殿がとても清々しい。 この神社は神宮式年遷宮の古材を拝領して式年造替を行っており、 古の慣例を今に伝えている。 |
燈篭も神宮の古くなったものを頂いているらしい。 | 鎮守の森の威容がすばらしく、 中にいると心が落ち着く。 この森によって当社は「大森社」とも呼ばれていた。 |
拝殿前の神木。 | 境内西にある夫婦杉。 嘉永三年(1850)に植えられたとのこと。 |
佐那神社とともに式年遷宮にあわせて造替されていた須麻漏売(すまろめ)神社は、
この佐那神社に合祀されている。
ただ、旧社地には小祠があり、元宮として毎年お祭が行われているとのこと。
須麻漏売社については、
式内社の一であり、内宮の摂社の一である「棒原神社」があり、
祭神を「天須婆留女命御玉(あまのすばるめのみことのみたま)」とし、「奈良時代に創祀された」としている。
「天須婆留女命」はおそらく「昴(すばる)星」のことであり、
おそらくは須麻漏売社の祭神も同じであり、この神社の分社が棒原神社であったかもしれない。
佐那神社から山沿いの旧熊野街道を500mほど行くと 歯医者さんがあるが、そのもう少し向こうに山へ登っていく道がある。 |
山の麓、みかん畑の中に・・・ |
祠があり、これが須麻漏売神社旧社地。 ただ、論社であり、候補地はほかにも存在する。 祠の背後に、「須麻留売神社」の碑がある。 須麻漏売神社は須麻留売神社とも表記される。 手前に、「南勢 准四国 第七十八番」の碑。 江戸時代には八十八ヶ所のひとつに数えられていたようだ。 |
下のほうを見渡す。よい眺め。 でも暑くて蒸すのでほどなく下りた |
松阪市櫛田町に鎮座。
近鉄山田線・櫛田駅の東北、櫛田川西岸。
『延喜式』神名式、伊勢国多気郡五十二座の一。
大若子命(おおわかこのみこと)を祀る。
『倭姫命世記』には、
天照大御神の鎮座地を求める倭姫命が飯野高宮に滞在しているとき、
大若子命(度会氏の祖。この後、倭姫命に同行し、皇大神宮の初代大神主となる)にその統治する国の名を問うたところ、
大若子命は「百張る蘇我国、五百枝刺す竹田国」と答えたが、
そのとき倭姫命の御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定めた、との櫛田神社の創祀伝承が記されていて、
主祭神はその大若子命となっている。
明治時代に神社合祀のため移転し、さらに山添町の神山神社(飯野高宮の地とされる)に合祀されたが、
氏子の嘆願により昭和八年にこの地に分祀している。元の鎮座地はここより北西にあるとのこと。
福岡市博多区に鎮座する、博多祇園山笠で有名な櫛田神社は、天平宝字元年(757)にこの神社を勧請したものといわれる。
大若子命は、度会系図などによれば垂仁天皇治世に勅命を受けて越国の阿彦という者を征討、
戦において幡をかかげ大いに戦ったことにより「大幡主」との名を賜ったとあり、大幡主命(おおはたぬしのみこと)とも呼ばれる。
伊勢の勢力がはるばる越国、つまり富山・新潟のほうまで出撃するとは、それだけ天照大御神の神威を必要としていたということか。
のち、神功皇后の新羅遠征にあたっては天照大御神が筆頭の守護神となったことが記紀に記されており、
大和朝廷の拡張期には天照大御神が軍陣守護の神として常に随行していたのかもしれない。
櫛田川の西岸、近鉄櫛田駅の東北の水田・住宅地が渾然としている地域に鎮座しており、道が入り組んでいてわかりにくい。
その創祀伝承と社名から全国の理容美容業者の信仰を集めており、
社域の向かって右手には三重県美容業生活衛生同業組合らによって建立された「櫛の碑」がある。
こぢんまりとしているが、境内はきれいに清掃されており、気持ちのいい神社だった。
地元の氏子さんを始め、数多くの崇敬者に支えられているのだろう。
神社の前。 右のほうに「櫛の碑」が見える。 碑の裏側には、 三重県だけでなく日本各地の理容・美容業社の 名がずらりと並んでいた。 |
拝殿。 | 本殿と境内。 |
山神様。 ほかには境内社や、戦没者名を記した慰霊碑がある。 |
境内でミミズ取る人がいるのだろうか? |
多気郡明和町斎宮、
近鉄斎宮駅の東、近鉄線と参宮街道(県道428号線)に挟まれた一角に鎮座。
『延喜式』神名式、伊勢国多気郡五十二座の一、竹神社。
天皇の代理として伊勢の神宮を斎き奉った斎王の宮であった「斎宮」の跡に鎮座する神社。
もとは斎宮歴史博物館の南に隣接する、祓川のほとりの明和町竹川の中垣内の地に鎮座しており、明治の末に同・東裏へ遷座したのち、
明治44年に「野宮(ののみや)」と呼ばれていた現在地に遷座して今に至る。
明治末期の神社合祀政策により、同じく式内社の火地神社などを合祀している。
祭神は長白羽命(ながしらはのみこと)。
孝徳天皇の御世、全国に「評」(こほり。のちの郡)を定めた時、伊勢の神宮の地には度会評・竹評(のちの度会郡・多気郡)が定められたが、
この時に竹評の督領(のちの郡司四等官の大領)に任じられた麻績(をみ)氏がその祖神を祀ったのが創祀とされる。
伊勢大神宮が朝廷に提出した『延暦儀式帳』の「初めの神郡、度会多気飯野三箇郡の本記行事」の条には、
難波朝廷(なにはのみかど。孝徳天皇朝)が天下に評(こほり)を立てられた時に、
十郷をもって分けて度会山田原(わたらひのやまだのはら。現在の外宮鎮座地のあたり)に屯倉(みやけ)を立て、
新家連阿久多(にひのみのむらじ・あくた)が督領、礒連牟良(いそのむらじ・むら)が助督として仕え奉った。
十郷をもって分けて竹村(たけのむら)に屯倉(みやけ)を立て、
麻續連廣背(をみのむらじ・ひろせ)を督領とし、礒部真夜手(いそべのまやて)を助督として仕え奉った。
と記されている。
ちなみに度会郡初代大領の新家氏は物部氏の一派。伊勢と物部氏は縁が深く、一志郡・員弁郡などに物部氏の支族が居住していた。
『延喜式』神名式には伊勢国飯高郡と一志郡にそれぞれ「物部神社」が記されており、
そのうち一志郡の物部神社(三重県津市新家町鎮座)は、この新家氏が祖神の宇麻志摩遅命を祀った社とされる。
礒部氏は、『続日本紀』和銅四(711)年三月六日条に、
伊勢国の人、礒部祖父(いそべのおほぢ)・高志(こし)の二人に渡相神主(わたらいのかむぬし)の姓を賜わった。
とあり、「渡相(度会)神主」という氏姓を賜わっている。
この年は外宮の第二回式年遷宮年であり、それにあたって礒部氏を外宮神主と定めたのだろう。
「多気」という郡名は、現在では「たき」と読まれているが、かつては「たけ」だった。
『延暦儀式帳』の「天照坐皇大神宮儀式ならびに神宮院行事」条には、
そして(倭姫命は)多気佐々牟迤宮(たけのささむえのみや)に坐した。
その時、竹首(たけのおびと)の吉比古(えひこ)に、「おまえの国の名は何か」とお問いになった。
(吉比古は)答えて「百張(ももはり)蘇我国(そがのくに)、五百枝(いほえ)刺す竹田国(たけだのくに)です」と申し上げ、
櫛田・根掠(根倉)の神御田をたてまつった。
とあり、竹首という氏姓の一族がこの土地に住んでおり、地名は「たけ」であったことがわかる。
『万葉緯』が引用する、『神名秘書』が引用した伊勢国風土記逸文の「八尋機殿」の条には、
風土記にいう、
機殿を八尋殿と名づけるのは、倭姫命が大神をいつき奉った日に作り立てられたのである。
(*伊勢の神宮所管社の神麻続機殿神社および神服織機殿神社では、現在でも境内の八尋殿にて天照大神にたてまつる神御衣を奉職する)
またいう、
難波長柄豊碕宮にて天下をお治めになった天皇(孝徳天皇)の丙午(大化二年。西暦646年)、
竹連(たけのむらじ)・磯部直(いそべのあたひ)の二氏がこの郡(多気郡)を建てた、と。
麻續連と竹連が被っているが、麻續氏は大神の神御衣を織る氏族であり、竹連は土地名を氏族名とするバリバリの土着氏族と、
ともに現地では重きをなす氏族であり、大化年間に死去など何らかの理由で竹連から麻績氏、もしくはその逆で督領の交替などがあったのだろうか。
長白羽神は、斎部(忌部)広成が著した『古語拾遺』の天石窟(あまのいはや)の段にその名がみえる。
ここで思兼神(おもひかねのかみ)が深謀遠慮にて図ることには、
太玉神(ふとたまのみこと)に諸部神を率いさせて和幣(にきて)を造らせ、
石凝姥神(いしこりどめのかみ)〔天糠戸命の子、鏡作の遠祖である〕に天香山の銅を採らせて
日像之鏡(ひがたのかがみ。いわゆる三種神器の一・八咫鏡)を鋳させ、
長白羽神〔伊勢国麻績の祖である。今の世に衣服を白羽というのはこのためである〕に麻を植えさせて青和幣(あおにきて)を作らせ、
天日鷲神(あめのひわしのかみ)と津咋見神(つくひみのかみ)に穀木(かぢのき)を植えさせて白和幣(しろにきて)〔これは木綿(ゆふ)である。
以上の二つの物は、一夜にして繁った〕を作らせ、
天羽槌雄神(あめのはつちをのかみ)〔倭文の遠祖である〕に文布(しつ)を織らせ、
天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)に神衣を織らせた。いわゆる和衣(にぎたへ)である。
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)に八坂瓊五百箇御統玉(やさかにのいほつのみすまるのたま。三種神器の一)を作らせ、
(中略)
それらの物がすべて準備できると、天香山(あまのかくやま)の五百箇真賢木(いほつまさかき)を根元から掘り起し、
その上枝には玉を懸け、中枝には鏡を懸け、下枝には青和幣・白和幣を懸けて太玉命に捧持させて称え事を申し上げさせることとし、
また天児屋命(あめのこやねのみこと)にも共に祈祷させることとして、(後略)
と、天石窟に隠れられた天照大神の復帰を祈って史上初めて行われた「祭り」にあたって、
麻を育ててその麻で青和幣、つまり榊に懸けて聖別・装飾する布を織り上げた神。
割注には、伊勢国の麻績の祖であり、衣服を「白羽」というのはこの神の名に基づくとある。
記紀にはみえない神で、天児屋命の後裔・中臣氏と共に朝廷の祭事を掌った太玉命の後裔・忌部氏が率いた一族だったようだ。
伊勢麻績氏は伊勢神宮に奉仕し、天照大神に荒妙(あらたへ。麻布)の神御衣を奉織することをその職務とし、
その祭典は現在も「神御衣祭(かんみそさい)として五月と十月(旧暦では四月と九月)に行われている。
長白羽命は別名を天白羽命・天白羽鳥命といい、天日鷲命の子とされる。
その子を天物知命(あめのものしりのみこと)、その子を八坂刀売命(やさかとめのみこと)といって、これは諏訪大明神こと建御名方命の妃神。
『新撰姓氏録』右京神別・天神の項には、神麻績連を「天物知命の後なり」と記す。
『先代旧事本紀』天神本紀には、饒速日命の降臨に際して護衛となった三十二柱の神々の中に「八坂彦命(やさかひこのみこと)」があり、
その割注には「伊勢神麻続連等の祖」とある。
八坂彦命も八坂刀売命の父神とされるので、天物知命と同一の神となる。
倭文の神である建葉槌神がまつろわぬ星神・天香香背男を平定したり、伊勢内宮の相殿神・万幡豊秋津姫命の神体は剣であったりと、
日本では織物の神は武神を兼ねていることがある。
八坂彦命が天孫降臨の護衛神となっていることもあり、その父神である長白羽神も織物の神であり、おそらくは武神でもあったのだろう。
東海・中部地方に広く伝播している「天白神」信仰も、この長白羽命の信仰がもとになっているという説があり、
伊勢麻績氏の活動範囲は相当広かったようだ。
斎王は南北朝の戦乱の中、後醍醐天皇の時を最後に廃絶し、
かつては五百人の官人が行きかう小都市だった斎宮寮も荒れ果てて森になり、地元民は「斎宮の森」と呼んでその記憶を伝え、
これも祭祀されなくなり荒廃した竹神社は、やがて地元の人々によってポピュラーな「八王子社」として維持されることとなった。
伊勢地方には祇園信仰や祇園神の御子神である八王子信仰が広く浸透しているが、
これは中世に伊勢の神宮御師(じんぐうおんし。神宮の社務に携われない禰宜家の子弟が主)たちが全国に伊勢信仰を広めていく際、
当時の東海道沿い、交通の要衝に鎮座していた津島天王社(津島神社)と提携したことから、という説がある。
アマテラス様にスサノヲ様が組んだら相当強力。
しかも伊勢の別宮にはツキヨミ様もいらっしゃるし、三貴子揃い踏みとなったら超強力。
それはさておき、世が落ち着いて伊勢参宮者が増えてくると、斎宮の森の社ということで、参宮者たちも多数立ち寄ることとなった。
『伊勢参宮名所図会』の「斎宮旧跡」の項には、
斎宮旧跡〔斎宮村〕
斎宮の森。
斎王の宮の二所に分かれる。 森には小社があり、画馬舎がある。斎宮、あるいは竹の宮という。
斎宮絵馬。
十二月晦日夜に絵馬をかける。
と、斎宮の森には神社のほかに絵馬堂があり、大晦日の夜に絵馬をかけるならわしとなっていた。
このことは広く知られており、謡曲『絵馬』はこれを題材としている。
謡曲『絵馬』では「節分の夜」に絵馬をかけるとなっているが、旧暦の歳時記では節分が12月の行事に入れられているように、
旧暦ではほぼ節分が年末にあたるので、大きな違いというわけではない。
かけられる絵馬の白馬と黒馬の割合から、白馬が多ければ翌年は晴れが多く、黒馬が多ければ雨が多いという占いがなされていたらしい。
また、「竹の宮」と、古い社号をなお伝えていたことがわかる。
絵馬堂は明治末年に廃され、建物のみは地元の方の家に移築されて存続していたが、老朽化で焼却された。
絵馬は神社に寄贈され、神宝として今に伝えられている。
絵馬堂は神社とは反対側の斎宮の森東端、参宮街道の辻にあり、その場所は「斎宮絵馬辻」と呼ばれていた。
現在はその所を「エンマ川」が流れているが、これは「絵馬川」がなまったものとされている。
現鎮座地は「野宮」と呼ばれていたところで、斎宮城があったとも言われている所。
発掘の結果、境内の北側と東側からこの一角を囲む大型の柵列が発見されており、
ここは斎宮寮の中でも特に重要な内院の一角であったと考えられている。
現在は6月上旬に「斎王まつり」が行われ、
一般より斎王・女別当・内侍・命婦・女孺・采女・近衛使・検非違使・随人・陪従・風流傘・輿丁に舞人や童役と、
総勢100名以上を公募して斎王群行など平安の華麗なる王朝絵巻を再現したり、様々なアトラクションを行ったりして斎宮一帯が賑わうが、
(三重県知事や明和町長も衣冠姿で参列される)
その開催にあたってはまず竹神社にて祭典が行われる。
鳥居前。社の入口は南で、「竹神社前」交差点のそば。入ってすぐ左手に社務所がある。 鳥居のそばに「延喜式内社竹神社」の標柱が立つ。 |
境内。小さな社だが、かなり木々が繁っている。 参道の左に見えるのが拝殿前鳥居。 本殿は東向きになっている。 三重県は明治末の神社合祀政策を真面目に行った県で、 ために県内の神社数が激減したが、 この竹神社もその時に多くの神社を合祀しており、 それらの神社から移設された石灯籠が境内に立っている。 |
拝殿前。奥に本殿が見える。神宮と同じく唯一神明造。 脇には絵馬がかかっている。 祭神の一覧が記されており、 長白羽神 天照大御神 建速須佐之男命 八柱神 応神天皇 地主神 火産霊神 宇迦御魂神 大己貴命 天棚機姫命 八千々姫命 瀬織津姫神 神名を見ると、だいたいどんな神社を合祀したか想像できる。 火産霊神が、式内社・火地神社の祭神だった。 |
神宮遥拝所と石の衝立。 昔は東にも参道があって、その不浄除けだったんだろうか。 |
本殿。 |
境内の石神さん。 | ほかにも社が鎮座していた。 |
松阪市魚見町に鎮座。
櫛田川の東岸、県道60号線で魚見橋を渡ってすぐのところ。神服織機殿神社、神麻続機殿神社の近隣。
『延喜式』神名式、伊勢国多気郡五十二座のうち、「魚海神社 二座」の論社。
ここからやや北の川島町にも「魚海神社」という社があるが、
こちらの魚見神社が式内社として有力視されているようだ。
『倭姫命世記』には、
倭姫命が皇大神の鎮座地を探すべく飯野高宮を出て櫛田川を下っていき河後(かわじり)の江に達したとき、
魚たちが自然に寄り集まって倭姫命の船に飛び乗ったので、倭姫命はそれを見て喜び、魚見社を定めた、
と記されている。
伊勢神宮管下ではないが、古来深いつながりがあったようだ。
祭神は豊玉彦命で、豊玉姫命、月読荒魂命ほかを配祀する。
神社前。 |
第一の鳥居の向こうに狛犬。 | 拝殿が見えた。 |
拝殿。向こうに小さな本殿が見える。 全体的にこぢんまりした神社だが、 近所のおばあさんたちが境内のそばに腰掛けて 話し合っているのを見て、いかにも村のお社だなあ、 と感慨深くなった。 |
魚見橋より、上流を見る。櫛田川の流れ。 倭姫命も、伝承のように船でここを下ってきたんだろうか。 |
飯野郡:
松阪市山添町に鎮座。
県道37号線から県道701号線で櫛田川西岸を遡り、JR紀勢本線を越える直前で川のほうに曲がり、土手を下りて701号線をくぐると、
神社方面へ。
神社正面に車を停めるスペースがある。
『延喜式』神名式、伊勢国飯野郡の項にある「神山神社」とされる延喜式内社であり、
『延暦儀式帳』『倭姫命世記』に、天照大御神の鎮座地を求める途中の倭姫命が一時滞留した「飯野高宮」の地であるとされる。
つまり、「元伊勢」のひとつ。
祭神は猿田彦命、天鈿女命。
神社前。 |
頮嗽石盂(くわいそくせきう、手水鉢)。 享保十八年(1733)、旱により雨乞いを行ったときに奉献されたもの。 |
参道。山を登ってゆく。 |
線路!? 境内をJR紀勢本線が横断しており、踏切がある。 遮断機はないが、近づくと音声で警告メッセージが流れる。 |
そのセンサー。 |
踏切を渡りさらに進むと、 石段の上に拝殿が見えてくる。 |
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神山神社拝殿。 集会所のような簡素な造り。 |
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扉を開ければ鈴や賽銭箱がある。 拝んで、また扉を閉めておく。 拝殿内は土間になっている。 |
本殿は神明造の立派な建物。 山麓の高台にあり、緑に囲まれたいい雰囲気のお社。 飯野「高宮」ということは高所にあったんだろうから、 ここがふさわしいような気がする。 |
本殿右手にある猿木神社跡の碑。 | 反対側。この木は祓所かそれとも神木か。 |
帰路。 ちょうど列車が通り過ぎていったけど撮り損ねた。 遮断機はないので、左右確認忘れずに。 |
参道かたわらの山神さまたち。 |