にっぽんのじんじゃ・みえけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


戻る


伊賀国(伊賀市、名張市):

敢国神社 大村神社 名居神社 神戸神社

敢国(あえくに)神社。

伊賀市一之宮に鎮座。
近くに名阪国道の走る南宮山の麓。
名阪国道・伊賀一之宮ICを下りて北西のほうに曲がり、最初のガソリンスタンドのある交差点を左折して進んでいけば、
駐車場が右手に見えてくる。

『延喜式』神名式、伊賀国阿拝郡(あへのこおり)九座の一で、伊賀国内唯一の「大」指定がなされていた神社。
社号は、現在は「あえくにじんじゃ」と読むが、
正史『日本三代実録』には「敢国津神(あへのくにつかみ)」「敢国津大社神(あへのくにつおほやしろのかみ)」と記されているように、
古くは「あへのくにつかみのやしろ(敢の国つ神の社)」と読んでいた。
鎮座地名どおり、伊賀国の一宮。

主祭神は大彦命(おおひこのみこと)。
第八代孝元天皇の皇子で、
第十代崇神天皇の御代に武埴安彦(たけはにやすひこ。大彦命の異母兄弟)の反乱を鎮圧、また四道将軍の一人として北陸道を平定した。
晩年は、ここ伊賀国の阿拝(あへ)の地に住み着き、この地で薨去。
その子孫は阿閉臣(あへのおみ)として代々この地を治めた。
『日本書紀』には、大彦命は、

  阿倍臣(あへのおみ)、膳臣(かしはでのおみ)、(*この二氏は天皇の食膳を担当する氏族)
  阿閉臣、狭狭城山君(ささきやまのきみ。近江国蒲生郡)、筑紫国造、越国造、伊賀臣

の七氏の祖とされ、『新撰姓氏録』『先代旧事本紀』の記述と一致する。
つまり、「阿部」「安倍」「阿倍」「安部」などなど、現在数多くある「アベ」さんの祖ということになる。
また、大彦命は、埼玉県・稲荷山古墳出土の鉄剣(ワカタケル大王=雄略天皇の銘があることで知られる)の銘文に見える、
鉄剣を鍛造した乎獲居臣(をわけのおみ)の八代前の人物で、
氏族の始祖と位置づけられている「意冨比垝(おほひこ)」と同一人物である可能性が高いとされている。
この地を治めた阿閉臣がその祖である大彦命を祀ったのがこの神社で、神社の裏手には大彦命を葬ったとされる古墳がある。

創祀は斉明天皇四年(658)。
主祭神の大彦命に、南宮山頂上付近で渡来人の秦氏が祀っていた少彦名命を配祀したという。
(ただし、927年成立の『延喜式』の神名式では祭神は一座となっている)
跡地の南宮山頂上には美濃の南宮神社(美濃国一宮)を勧請、金山比咩命(金属、鍛冶の神)を祀っていた。
正史では『日本三代実録』貞観十五年(873)九月二十七日条に神階正五位下を授けられたとし、
その後は、『日本紀略』によると寛平三年(891)四月二十八日条に神階正五位上を授けられている。
延長年間(923-931)には朝廷によって社殿の修造がなされた。
貞元二年(977)に金山比咩命の社殿が激しく揺れ、
社前の神木に虫食いで「與阿倍久爾神同殿(敢国神と殿を同じくせよ)」の文字が現れるという神異により、本殿に合祀。
以降、三柱をもって「敢国津大神」として信仰される。
『梁塵秘抄』に、
「南宮の本山は信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮 伊賀国には稚(おさな)き児(ちご)の宮」
とあるように、平安末期には敢国神社は金山比咩命を祀る神社として有名で、諏訪、南宮とセットで考えられていたことがうかがえる。
中世には「一宮諏方(すわ)社」と呼ばれることもあったが、その考え方に基づくものだろう。
南北朝期には後村上天皇が行幸し参籠されたという。
戦国期の兵乱で一時荒廃するも、江戸時代になり藩主藤堂家によって社殿調度修営・神器社領寄進・祭儀神事復興が行われ、
現在に至っている。

一宮、そして社名の字面からいかめしい感じを受けるかもしれないが、
素朴(社殿は立派だけど)で落ち着いたお社だった。

駐車場より。
写真左、北側の小道はいかにも参道みたいだが、そちらは裏参道で、
表参道は南側のアスファルト舗装の道路になる。
舗装道路といっても、道幅は車一台通るのがやっと。
表参道入口にある芭蕉句碑。

 手はなかむおとさへ梅のにほひかな

が刻まれる。
道向かいには民家が並ぶ。
途中に鎮座する市杵嶋神社。周囲を濠に囲まれている。

正面鳥居。参道の左手。
正面に拝殿が見える。
拝殿。
写真左外には、かなりの樹齢になるだろう大杉が立っている。
拝殿内。
向こうに本殿がわずかに見える。
本殿の左右には六所社、九所社が立つ。
境内。
正面に「桃太郎岩」。
南宮山頂上から金山比咩命を合祀したあと、
その跡地には木華開耶姫命が勧請された(浅間社)。
その後、浅間社社地より運ばれてきた石で、
木華開耶姫命の神話に基づき安産祈願の石となっている。
拝殿横の神饌殿。でかい。
裏参道には末社が並ぶ。
一番奥の石段の上には若宮八幡宮(祭神:仁徳天皇)、
次の石段の上には「子授けの神」(祭神不詳)。
写真一番手前の石段の上にはさらに参道があり、
その向こうには楠社(祭神:楠正成・藤堂元甫)、
結社(祭神:高皇産霊尊・手間天神)が鎮座。
写真左外には神明社(祭神:天照大神)が鎮座している。

*手間天神は、少彦名命の異名。
父神・高皇産霊尊の手の指の間からこぼれ落ちたことからの名。
*藤堂元甫(もとすけ)は江戸中期、伊賀上野城代を務めた武士。
伊勢・伊賀・志摩三国の地誌である『三国地誌』の編集に尽くした。
大石社。
もとは独立していたが、付近の神社を合祀し、現在は敢国神社摂社。
不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命を祀る。
この社においては、祈年祭・春祭・祇園祭が行われる。



大村(おおむら)神社。

伊賀市阿保に鎮座。
大和と伊勢を結ぶ古くからの街道である国道165号線(初瀬街道、伊勢北街道)を走り、
阿保に入ってファミリーマートがあるところの三叉路を入って行き、橋を渡ったところに東駐車場がある。
ここに停めれば、正面鳥居から参道の石段を登っていくことになる。
そのまま山を上れば、境内にも駐車場がある。
木津川支流である柏尾川の左岸の山麓高台に鎮座する神社。

『延喜式』神名式、伊賀国伊賀郡十一座の一。
祭神は大村神。
大村神とは第十一代垂仁天皇の皇子・息速別命(いこはやわけのみこと)のことで、
その子孫である阿保君が創祀したといわれる。
『新撰姓氏録』右京皇別・下の「阿保朝臣」の項には、

  阿保朝臣。垂仁天皇の皇子、息速別命の後なり。
  息速別命、幼弱(いとけな)くましし時、天皇、皇子の為に宮室(みや)を伊賀国阿保村に築(つく)りたまひて、
  封邑(よさしどころ)と為(し)たまひければ、子孫(うみのこ)、因りて家(いへを)れり。
  允恭天皇の御代に、居る地(ところ)の名を以て、阿保君という姓を賜ひき。
  廃帝の天平宝字八年に公を改めて朝臣の姓を賜ひき。続日本紀合へり。
    (*廃帝・・・第四十七代淳仁天皇。先代の孝謙上皇と意見の相違があって皇位を廃され淡路へ流された天皇であり、
    ゆえに諡号がなく、長らく「廃帝」「淡路廃帝」と呼ばれていたが、近代になって明治天皇より「淳仁」の諡号を追贈された)

とある。
この地方の氏神だが、相殿に春日三神(武甕槌神、經津主神、天兒屋根命)を祀り、
鹿島・香取神宮でお馴染みの要石が境内にあることから、地震除災の神としても知られる。

神社遠景。
鳥居。 ちょっと長めの参道を上がっていく。

拝殿前。 拝殿に向かって右手にある要石社。中には要石がある。
露出している部分はちょっと大きい石、といった程度。
要石社の脇にある水かけなまず。 本殿裏、現在は駐車場になっている空き地には、
おそらく明治初年まで「禅定寺」という名の神宮寺(神社境内にある寺)が
あったようだ。神仏習合の産物。
境内には鐘撞堂もある。
これがそう。 境内はそこそこ広く、巨大な神木も立っており、
周囲には神庫や休憩所などの建物が並ぶ。
喧騒からは離れた、静かな雰囲気。

境内の神木。

名居(ない)神社。

名張市下比奈知に鎮座。
名張市内の県道691号線(狭い)沿いであり、神社の標示も出ているが、
ちょっと駐車場の入り口がわかりにくい。

『延喜式』神名式、伊賀国名張郡二座の一。
社号の「ない」は、地震をあらわす古語「なゐふり」「なゐ」にもとづいているとされており、
『日本書紀』推古天皇七年(599)四月二十七日条に、

  地震が起こって舎屋がことごとく倒壊した。
  そこで四方の諸国に命じて、地震神(なゐのかみ)を祭らせた。

と、推古天皇の御世に大地震が起こり、それにともなって「地震の神」を各地で祭ったことがみえるが、
当社はその時創祀されたと伝えられている。
現在の主祭神は大己貴神(大国主神のこと)になっているが、
この神はその別名を「大国玉神」ともいい、国土の神霊ともされているところからきているのだろうか。

正面鳥居。 拝殿。
境内には伊勢の神宮・橿原神宮の遥拝所があり、
また数多くの石を「山神」として祀っている。
周囲は住宅地で、静かなんだけど、
生活圏がすぐそばなのでちょっと落ち着かない印象。
皇大神宮・橿原神宮遥拝所。

神戸(かんべ)神社。

伊賀市上神戸に鎮座。

大和から伊勢に向かう古い街道である「初瀬街道」よりやや北に外れた、
木津川左岸に鎮座する神社。
ここには、伊勢の神宮を定められた倭姫命が天照大御神の鎮座地を求めて伊賀国を過ぎる途中、
この地にしばらくとどまられたという伝説がある。
平安時代初頭、伊勢大神宮の祠官が神宮の由緒や儀式について太政官へ上申した文書『延暦儀式帳』の冒頭部には、
皇大神宮(内宮)の鎮座伝承が記されているが、
そこには、垂仁天皇の御世に天照大神の鎮座地を求めて「美和(みわ)の御諸原(みもろはら)」を出発した倭姫命が、
「宇太阿貴宮(うだのあきのみや)」、次いで「佐々波多宮(ささはたのみや)」を経て伊賀国に入り、

  次に伊賀穴穂宮(いがのあなほのみや)に坐し、次に阿閇柘植宮(あへのつげのみや)に坐した。
  この時、伊賀国造らが神御田と神戸をたてまつった。

と、二ヶ所に滞在したとされており、この地は「伊賀穴穂宮」の地であると伝えられる。
つまり、「元伊勢」のひとつ。
その伝承によって長らく「穴穂神社」と称していたが、明治に周辺の神社を合祀した際、「神戸神社」と改称している。
神戸とは、神社に付属してその労働による産物等により神社の経営を支える家々のことで、
兵庫県神戸市など地名に「神戸(かんべ、こうべ)」とある所はすべて、往古はいずれかの神社に付属する集落があった所。
伊勢の神宮においては、鎮座地とその周辺である伊勢国度会郡と多気郡(のち飯野郡が追加された)が
「神郡(かみのこほり、しんぐん)」としてその全戸が神戸として神宮に奉られており、
また、周辺各地にも神宮に奉献された神戸があって、
この一帯も「伊賀神戸」と呼ばれる神宮の神戸の一つだった。
『延喜式』伊勢大神宮式の諸国封戸条には、「伊賀国 廿戸」と記され、
同じく神田条には、「伊賀国伊賀郡 二町」とある。

『延暦儀式帳』の「供奉朝大御饌夕大御饌料地祭物本記事」には、

  朝夕の御饌の箕を造り奉る竹原ならびに藤・黒葛が生えるところ、三百六十町。伊賀国名張郡にある。
  また、朝夕の御饌に供え奉る年魚取淵(あゆとりふち)、梁作瀬が一処。
  また、御栗栖が二町(*異本、三町)。伊賀郡にある。
  右の五処は、この伊賀国造らの遠祖が奉った地である。記し顕すこと、件の如し。

と、伊賀国伊賀郡に「年魚取淵」があり、
三節祭(神嘗祭および6月・12月の月次祭)においてたてまつる朝夕の「由貴大御饌」の御料地とされていたことが記されているが、
その伝統に基づき、現在も毎年六月の月次祭(つきなみさい)の時に当地より鮎を献上するならわしがある。
また神宮の式年遷宮の際、内宮別宮・風日祈宮(かざひのみのみや)の古材を拝領して式年造営を行っており、
今なお神宮との結びつきが深い神社となっている。

主祭神は大日孁貴(おほひるめのむち)。
『日本書紀』にみえる「日神(ひのかみ)」の御名で、「大いなる太陽の貴い女神」という意であり、
天照大神のことをさす。
倭姫命がこの地に暫くご滞在になり、天照大神を奉斎されたこと、
また神宮の神戸としてその中心地に天照大神を勧請し、祭っていたことによる。

川沿いの田園地帯の中にある、静かなお宮。

参道入り口。
鳥居は西に向いている。
「皇大神宮由緒古蹟 神戸神社」の標柱が立つ。

こぢんまりとした神社ながら、
神社の西向かいにはけっこう大きな駐車場があるので、
駐車場所について心配することはない。
拝殿前。
拝殿の奥に神明造の本殿が建つ。
参道は直角に曲がり、拝殿および本殿は南向きとなっている。

小規模ながら深い森に囲まれた、本当に静かなお宮。


inserted by FC2 system