にっぽんのじんじゃ・みえけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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伊勢国:

桑名郡(桑名市、木曽岬町)

多度大社

鈴鹿郡(鈴鹿市、亀山市、四日市市のそれぞれ一部)

椿大神社

壱志郡(津市、松阪市のそれぞれ一部)

阿射加神社 北畠神社

*桑名郡(くわなのこおり)

多度(たど)大社。

桑名市多度町多度に鎮座。
広大な伊勢平野の北端へ、揖斐川沿いに北から張り出す養老山地の南端、多度山の麓に鎮座する。
ちなみに、現在「伊勢」といえば伊勢の神宮の鎮座する伊勢市周辺を指すが、
それまでは伊勢国、つまり伊賀・熊野地方をのぞく現在の三重県のほぼ全域のことを指していた。
つまり、桑名からはもう「伊勢」であるということ。

『延喜式』神名式、伊勢国桑名郡十五座の一、多度神社。
名神大社に指定され、朝廷の臨時祭である名神祭において朝廷の幣帛を受けていた。
後世になると、伊勢国二宮と呼ばれるようになる。
平成八年に、「多度神社」から「多度大社」へと社名を変更している。

多度山は周辺の平野部や海上のかなり遠くからでも確認できる目立つ山で、
それゆえ神体山として古くより信仰されていた。
山にかかる雲の具合から天気予知ができたといわれ、天候神として信仰されていたようだ。
その山に、地元の豪族であった桑名首(くわなのおびと)がその祖神・天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀ったのが、この神社。
創祀は雄略天皇治世と伝えられる。
『新撰姓氏録』右京神別下・天孫の項に、「桑名首。天津彦根命の男、天久之比乃命(あめのくしひのみこと)の後なり」とあり、
天津彦根命は、天照大神と素戔嗚尊の天安河の誓約(うけひ)において、
天照大神の身につけていた玉を素戔嗚尊が天真名井(あめのまない、高天原の聖なる井戸)ですすいで噛み砕き、
吹き出した息吹の霧の中から生まれた五男神(六柱とする異伝あり)の一柱。
素戔嗚尊の行為から生まれたが、天照大神の持ち物から生まれたので天照大神の子とされた。
これは個人や集団の持ち物にその持ち主の魂、本質が宿るとするマナ信仰のひとつで、記紀では「物実(ものざね)」という言葉で説明されている。
(マナ信仰とは、たとえば野球ドラマで、どうしても一打が欲しい場面において、
「オレのバットを使え」or「ちょっと借りるぜ、おまえのバット!」というようなもの)
五男神の長子は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)で、皇孫瓊瓊杵尊の父。
次男は天穂日命(あめのほひのみこと)で、出雲国造、无邪志(武蔵)国造らの祖。出雲大社の宮司はその子孫にあたる。
それに次ぐ存在の神。
『古事記』では桑名首の名は出てこないが、凡川内(凡河内)国造・額田部湯坐連・茨木(茨城)国造ほか多数の氏族の祖となっている。
また、この神社では天津彦根命の御子神である天目一箇命(あめのまひとつのみこと。鍛冶神)も別宮に祀っており、「多度両宮」と呼ばれる。

六国史終了時の神階が正二位であり、
下に記すように多度大神宮寺の僧も国分寺僧に准ずる扱いとなっていて、勢力のある神社だったことがわかる。
伊勢参宮が盛んになると、東海道桑名宿に近い(といってもちょっと遠いけど)この神社に参拝する人が増えた。
伊勢大神宮(『延喜式』などに見える伊勢の神宮の昔の呼称)にいます天照大神の御子神を祀っていることから「北伊勢大神宮」と呼ばれ、
「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と歌われた。
海上からでも仰ぐことができる山であるので漁民たちの守護神として彼らが船で参拝に訪れることがあり、
その船着場には大鳥居が立てられていた。
その大鳥居は現存しないが、「多度町大鳥居」という地名が現在に残っている。
(昔はこの一帯の東は海であり、木曽三川河口付近には海上に多数の中州が浮かんでいた。
現在の地形は木曽三川の急流の度重なる変更とそれらが運んでくる土砂の堆積、また江戸時代以降の土地開発による)
現在は県道26号線(多度町小山)に白い大鳥居が立ち、国道258号線を車で走ってくる参拝者の目印となっている。

神仏習合が早くから行われた神社として知られており、
延暦二十年(801)十一月三日に記された『多度神宮寺伽藍縁起資財帳』には、
「天平宝字七年(763)、多度神が神託して言うには、
『私は久しく罪業を重ね、神道の報いを受けている。今、神の身を離れるため、三宝に帰依したいと思う』
それが何度も続くので、神社の東に住んでいた満願禅師が神のいます山の南辺を伐り払って小堂を造り、
神像を祀って『多度大菩薩』と呼んだ、云々」
と多度大社神宮寺の縁起が記されている。
このように神仏習合の当初は「神は仏に救済される対象である」として「仏>日本の神」という考え方があったことがうかがえるが、
それは一般には受け入れられず、やがて「日本の神は仏菩薩の仮の姿である」として「仏=日本の神」という本地垂迹説に変わり、
これによって仏法は一般にも広まることとなった。
多度大社神宮寺はその後承和六年(839)天台宗別院となったが翌年には停止、
嘉祥二年(849)、真言宗(東寺)別院・多度大神宮法雲寺となった。
それにより延暦寺と東寺の間でしばらく争いが起こったが、最終的には東寺が勝利した。
『延喜式』玄蕃寮式、多度神宮寺条には、
「多度神宮寺の僧の度縁戒牒(*国が発行する僧侶資格証明書)は国分寺の僧に准ずる」
とあり、重んぜられていたことがわかる。
多度神宮寺はその後、伊勢平氏の信仰などによって神社とともに栄え、
北畠氏の保護のもと室町時代には寺院七十坊、僧侶三百名を数えたが、
戦国時代、織田信長の長島一向宗との戦いにおいて一向宗側についたことで信長の攻撃を受け、
元亀二年(1571)、神社・神宮寺ともに焼失。
慶長十年(1605)、桑名藩主本多忠勝によって神社は再興され、
さらに寛永年間(1624-44)、藩主松平定行によって多度神社別当寺として法雲寺も再興されたが、神宮寺としてではなかったので、
多度神宮寺は信長によって廃絶したということになる。

古来天候神、とくに祈雨神として信仰され、雨を祈るには馬が奉献されるならわしであったことから、
この神社では馬、ことに白馬がシンボルであり、
春に豊作を占う上げ馬神事・秋に収穫を感謝して行う流鏑馬祭など、馬に関する祭典が多い。
境内の神馬舎にも白馬がいる。
山の麓、自然に囲まれた神社であり、境内の雰囲気も素晴らしい。

まずは伊勢国の入口、七里の渡からご紹介します

桑名市船馬町、「七里の渡」跡

尾張国熱田の宮宿と伊勢国桑名宿の間は近世の東海道唯一の海路であり、
その距離が七里であったため「七里の渡」と呼ばれた。
ここが伊勢国の入口であったため、
江戸時代の天明年間(1781-1789)にここへ伊勢大神宮の「一の鳥居」が立てられ、
参宮者はここの鳥居をくぐり、神宮へと向かっていた。

すぐ南には桑名城があり、
桑名の中心部としてこのあたりは大変な賑わいを見せていた。

現在、この鳥居は伊勢の神宮の式年遷宮に際して、
内宮の宇治橋の両側に立っている鳥居のうち宮域外側の鳥居が移築されており、
二十年に一度建て替えられている。
ちなみに宮域内側の鳥居は、伊勢別街道の関宿の東追分に移築される。
さらにちなみに、
内宮の宇治橋の両側に立っている鳥居は、
式年遷宮によって古材となった内宮・外宮御正殿の棟持柱(むなもちばしら)から造られており、
宮域内側のものは内宮御正殿の棟持柱、
外側のものは外宮御正殿古材の棟持柱から作られている。
つまり、この写真の鳥居の木材は、
もともとは外宮御正殿の御料材だったということ。
つまり、この鳥居が二十年ごとに↑に建て替えられる。
御正殿棟持柱は、
御正殿で二十年、
宇治橋鳥居で二十年、
そして関の追分と桑名の七里の渡で二十年と、
都合六十年用いられる。
関の追分の鳥居は、
その後は地元の鎮守社の用材として
使われるとのこと。
伊勢湾台風の被害によって堤防が築かれ、
岸辺の風景はずいぶん様変わりしているようだ。
ここから桑名城址の一帯は公園となっている。

北のかた遠くに多度山が見える。
直線距離で10kmほどだろうか。
風が気持ちいい。
豊臣秀吉に「(東の)天下無双」と讃えられた豪勇の将で、
初代桑名藩主である本多忠勝の像。
桑名城址・九華公園。
本丸・天守閣跡には護国守国神社が鎮座している。

では多度大社へ

国道258号線を北上していくと、
左手のほうに、県道26号線を跨ぐ白い大鳥居が見えてくる。
そちらへ曲がり、ひと山越えると、右手に鳥居。
多度大社正面へとのびている。
神社前の駐車場より。山がきれいに紅葉している。
流鏑馬神事直前で、馬の走路がつくられていた。
正面には馬車が停まっている。
本来の参道は東からきており、そちらに鳥居が見える。 神社正面。
石段を上る。
正面が第一神楽殿。神楽奉納を伴う参拝者の祈願をこちらで上げるんだろう。
伊勢の神宮と同じ方式となっている。本殿が山の奥まったところにあるので、ここが拝殿代わりということか。
車のお祓い、また七五三参りでにぎわっていた。

その右手は第二神楽殿および社務所で、その奥が豊明殿。結婚式その他に用いられているようだ。
手前の社は新宮社で、天津彦根命・天目一箇命の幸魂(さきみたま)を祀る。
写真左外には神馬舎。
本殿への参道。 紅葉がきれい。
右を谷川が流れていて、その音が心地いい。
右に白馬舎。木造の白馬が納められている。
正面の冠木(かぶき)鳥居は、
熱田神宮より撤下されたものを移築している。
「多度両宮」の額のかかった於葺門(おふきもん)と、
市杵島姫命を祀る美御前社(うつくしごぜんしゃ)。
市杵島姫命は天安河の誓約において素戔嗚尊の剣から生まれた
いわゆる「宗像三女神」の一柱で、天津彦根命の妹神にあたる。
弁才天と習合し、全国にその信仰が広まった。
現在、市杵島姫命を祀っている神社のほとんどは、
明治初年までは弁才天を祀っていた。
参道の最奥にある本宮、多度神社。
天津彦根命を祀る。
本殿の右手にある別宮、一目連(いちもくれん)神社。
製鉄・鍛冶の神である天目一箇命を祀る。
この一帯では一目連の神は天候神であり、
とくに暴風を起こす風神であるという信仰があった。
また、洪水に際して一目連の名を唱えていたら助かったという話もあり、
水神としての属性もあった。
一目連は片目の龍神の姿をしているといわれ、
製鉄神=龍の関係は出雲神話における八岐大蛇を髣髴とさせて面白い。
落葉川が本宮の裏から流れ落ち、下ってゆく。 参道最奥部遠景。



左:境内を流れ下る落葉川。
右上:落葉川対岸の岩場。 右下:まだ葉の青いものがあり、本格的な紅葉はもう少しあと、というところか。
神馬舎。
白馬がいらっしゃる。

ごっつにんじん食いたそうにしていらっしゃった
「上げ馬神事」で用いられる走路。
騎馬が境内への急坂を駆け上がり、
最後に垂直な崖を踏み越える。

隣には桟敷席。
最後にもう一枚。
馬車はお客をのせて出て行ったようだ。

*鈴鹿郡(すずかのこおり)

椿大神社(つばきおおかみやしろ)。

鈴鹿市山本町に鎮座。

『延喜式』神名式、伊勢国鈴鹿郡十九座の一。
伊勢国一宮。
入道ヶ岳・椿ヶ岳の麓、伊勢平野をはるかに見渡す地に鎮座する。

創祀は、社伝では垂仁天皇二十七年。
前年に皇大神宮を定めた倭姫命が神託によりこの地に猿田彦大神と、
その相殿神として瓊々杵尊(天孫降臨を行った天照大神の孫)・栲幡千々姫命(瓊々杵尊の母神)を社殿を建てて祀らせたとする。
猿田彦大神は、天孫降臨にあたって天の八衢で皇孫を出迎え道案内を行った神で、
導きの神、また別名を岐神(ふなどのかみ)といい、境界の神として信仰を集めている。
『日本書紀』に記される魁偉な容貌から、天狗の原型ともいわれる。

鈴鹿市に鎮座しているが、ほとんど四日市市に近い山の麓で、行くには結構時間がかかる。
伊勢自動車道で鈴鹿ICで下りるのがいちばん早いだろうか。
駐車場は広く、停めるのに支障はない。例祭や年末年始のときになると違うだろうけど。
広大な社域をもち、歴史を感じさせる大木が林立して境内を覆う。
これぞ古社、という堂々たるたたずまい。

神社正面。
「椿大神社地祇猿田彦大本宮」と見える。
これは昭和10年、内務省の調査により、この神社が日本のすべての猿田彦大神を祀る神社の総本社に認定されたことによる。
正面に獅子堂が見える。
ちょうど春季大祭中で、
獅子堂前では獅子舞が行われていた。
これは2月11日から始まり各地を巡舞していた
「獅子神御祈祷神事」の舞い納めになる。
獅子堂は、通常は交通安全祈祷殿として用いられ、
この前庭で自動車のお祓いが行われる。
雅楽に乗せて獅子と、猿田彦大神が舞う形式。
獅子頭役以外は子供が担当する。

参道へ。 真っ直ぐ伸びる参道、結構長い。
参道の途中、左手にある「土公神陵」。
『古事記』では阿邪訶(現在の松阪市、大阿坂・小阿坂の辺り)
で貝に挟まれ溺死したと記される猿田彦大神の神陵とされる。
阿邪訶の地は山の麓であるが、
昔は海がかなり伊勢平野の内陸まで入り込んでいたと推定される。


拝殿前。
自然石の石畳と深い森とその中に建つ木造社殿とが厳粛さを醸し出している。
拝殿右手に鎮座する、別宮・椿岸神社。
猿田彦大神の妻となった天之鈿女命(アメノウズメノミコト)を祀り、
全国の天之鈿女命を祀る神社の総本社とされる。
芸道の神として尊崇され、また結婚を司る神として、
当社での結婚式はここで執り行われる。
林立する巨木。
社殿を囲む鎮守の森の威容が素晴らしい。



*壱志郡(いちしのこおり)

阿射加(あざか)神社。

松阪市小阿坂町大阿坂町にそれぞれ同名の神社が鎮座しており、ともに
『延喜式』神名式、伊勢国壹志郡の名神大社、「阿射加神社 三座」の論社。
朝廷が祈年祭班幣を行う神社のリストとして編んだ『延喜式』の「神名式(神名帳)」に、
伊勢国は全国でも五指に入るほどの多くの神社が登録されているが、その中に大社は十八座あり、
そのうちの十四座は伊勢神宮にあって、残りの四座はこの阿射加神社三座と、桑名郡の多度神社(現在の多度大社)。
古くから大きな尊崇を集めていた。

『古事記』には、天孫降臨を導いたのちの猿田彦命は伊勢国の阿耶訶(あざか)にいたが、
海へ漁に出たときに「ひらぶ貝」に手を挟まれて溺れ、
猿田彦命が海底に沈んだときの名は底度久御魂(そこどくみたま)、
海水が泡立った時の名は都夫多都御魂(つぶたつみたま)、
泡が水面で割れる時の名を阿和佐久御魂(あわさくみたま)という、
という伝承が記されている。
現在の大阿坂・小阿坂町は山の麓にあり、そこから海へ漁に出たというのはやや不審に思われるが、
縄文時代の伊勢平野はほとんどが海の底であったことが堆積物の発掘から実証されており、
その記憶が伝承に反映されているのだろう。
また、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』『大神宮儀式解』などには、
この地の山には荒ぶる神がいて道行く旅人の半数を殺しており、
天照大御神の鎮座地を求め旅を続けていた倭姫命はそのために藤方片樋宮(ふじかたかたひのみや。
津市の藤方に鎮座する式内社・加良比乃〔からひの〕神社に比定されている)から動くことができず、
垂仁天皇に使者を派遣して伺いを立てた。
天皇はその悪神を鎮め祀るように命じて数多くの幣帛をつかわし、
かくて荒ぶる神を鎮め、この地に社を建てて祀った、という伝承が記されている。

現在は二社ある阿射加神社だが、この神社は古くは山中に鎮座し、のちに山麓に遷座したと推定されており、
説によってはそれが大阿坂の阿射加神社であるとし、また小阿坂の阿射加神社であるとし、
大阿坂・小阿坂の阿射加神社をそれぞれ一座とし、ほかにもう一座阿射加神社があった、とする。
あるいは、この地方は伊勢神宮外宮御厨であったが、鎌倉期に阿坂の御厨が二分された際、
その鎮守社とされていた阿射加神社も二社に分祀された、という説もある。
二社間はそれほど隔たっておらず、祭神に大きな違いはないので、
学者でなければそこらへんは深く考えずに両方お参りすればいいのではないかと思う。
近世は「龍天大明神」を祀っていたが、
現在はともに猿田彦大神を主祭神とし、
小阿坂の阿射加神社は伊豆速布留神(阿佐加の山の荒ぶる神の名)、竜天大神を、
大阿坂の阿射加神社は伊豆速布留神、底度久神をあわせ祀って三座としているようだ。

まずは小阿坂の阿射加神社。
伊勢自動車道・松阪ICから県道58号線をしばらく北へ進み、
市立阿坂小学校の角を西へ折れると石柱が立っており、
そこから真っ直ぐ進むと行き当たる。

鳥居。

鳥居の傍にある、
紀州藩が享保甲辰(1724)に立てた禁殺生石。
境内へ。真っ直ぐの参道。
橋がある。
昔は川か池があったんだろうか。
参道を抜けると広場になっている。
手水舎と社務所。 本殿。
三殿が並び立つ。
毎年一月十四日には調舎(ちょうや)にて、
御火試(おひだめし)・粥試(かゆだめし)神事が行われる。
御火試神事は、月の数を記した十二本の樫の割木の先を焼き、
月数を記した板にそれをこすりつけて、
その灰の色から一年の天候を占うもの。
粥試神事は、早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)の印をつけた
笹竹の管三本を入れた小豆粥を焚き込み、
管に入った小豆や米の量で稲の作柄の吉凶を占うもの。
ともに市指定無形民俗文化財。
この間、境内ではどんどが盛大に行われ、
その前で子供たちを中心に「小阿坂のかんこ踊り」が踊られる。
以前は豊作の年の秋に行われていたが、
今は豊作祈願と神への感謝の意味を込めて奉納されている。
これは県指定無形民俗文化財。
摂社・大若子神社。
阿佐加の山の悪神を鎮め祀った大若子命を祀る。
境内の神木。
境内の林1.45haにはスダジイ・ヤマモガシ・ミミズバイなどの常緑照葉樹が繁茂しており、
この神社の社叢は松阪市の指定天然記念物となっている。

続いて大阿坂の阿射加神社。
58号線をもう少し北へ進み、JA松阪市大阿坂出張店のところを左折して進むと、
三叉路のところに鳥居が見える。

鳥居。
二本の道に挟まれた、狭い入口。
進んでいくうちに広がっていくけど。
鳥居の傍にある、
紀州藩が享保甲辰(1724)に立てた禁殺生石。
厳重に囲みすぎだが、
前に誰かがいたずらでもしたのだろうか?
手水鉢と常夜燈。
賽銭箱が置いてある。
参道が長いので、
普段ここから遥拝する人のために置いているんだろう。
これも真っ直ぐな参道。鳥居が見える。 長い。
二の鳥居をくぐる。遠くに社殿が。 ついた。
手水舎と神門。最近造替されたようだ。
本殿前。鳥居と玉垣も新しい。
小阿坂の阿射加神社もそうだったが、拝殿がない。
伊勢神宮方式というところか。
境内社。
右手のほうには大きな池がある。
(左)二の鳥居を過ぎたところにあるご神木。
互いに根が巻きつきつながっている。

(右)本殿背後の木々。
堂々としてます。

北畠(きたばたけ)神社。

津市三杉町上多気に鎮座。(旧伊勢国壱志郡美杉村)
三重県からだと伊勢本街道こと国道368号線を奈良県のほうに走っていき、道の駅のところにある信号を右折すれば見えてくる。
津市というと伊勢湾沿いというイメージだが、町村合併によってこの辺りまで津市になっている。

南朝三代の帝に仕えた北畠顕能(きたばたけあきよし)公を主祭神とし、
父の親房公、兄の顕家公を配祀する。
顕能公は北畠親房公の三男。伊勢国司としてこの地に館を構え、その子孫は織田信長に滅ぼされるまで伊勢国司を称していた。
創祀は寛永二十年(1643)で、北畠氏の末裔、鈴木孫兵衛家次がかつて北畠氏館だった地に小祠を祀って北畠八幡宮と称し、
のち明治になって北畠神社と改称し、昭和になって別格官幣社に昇格した。
現在は神社本庁の別表神社となっている。

まずは伊勢本街道こと国道368号線からみていただこう
伊勢本街道は天照大神鎮座の地を求める倭姫命が通った道ともいわれ、
また大和と伊勢神宮を結ぶ最短ルートだったため、
大和方面から伊勢参宮を行う者が多く通った道だったが、難所が多いことでも知られていた。

三重県方面からゴー。
松阪市飯南町下仁柿までは快適なのだが、そこから先はごらんの通りの一車線(*大型車通行不能)となり、
「・・・国道?」
「酷道です。」
という状況で曲がりくねる崖上の道をゆく。
昔の伊勢本街道でもこの区間は難所だった。
木、木、木。 急カーブが連続する。
ガードレールの向こうは崖。 山、山、山。
すぐそこは崖。
国道で、松阪方面へ抜ける道なので、結構車ともすれ違う。
また、ライダーが集団で走り抜けていく。
この車は軽四なのでまだいいが、
普通自動車だと対向車が来た時、
ほとんどの場面でバックを余儀なくされるだろう。
伊勢本街道・櫃坂(ひっさか)の峠。

  お伊勢参りしてこわいとこどこか、
  飼坂 櫃坂 鞍取峠 鶴の渡か宮川か。

と歌われた、伊勢本街道最大の難所。
徒歩で伊勢参宮する人はこの山道を歩いてゆく。
抜けた!
現在、大型車も通れるよう、ショートカットの広い道路を作っている。
平成21年開通予定らしいが、できたんだろうか。
(これを撮ったのは21年6月)
奥立川対岸にあるオフロードランド美杉。
もう少し行けば道の駅美杉があり、
その近くの上多気交差点を北に向かえば、JAのすぐ北に北畠神社。

そして北畠神社。

正面鳥居。

鳥居左手には、
北畠氏居城・霧山城への登山口。
しばらく道沿いの参道を進み 境内へ
二度参拝したそれぞれの写真。拝殿と、本殿を囲む鎮守の森。木々の真っ直ぐっぷりが素晴らしい。
拝殿。奥に本殿。 本殿北、玉垣のところにある北畠氏館・入口跡。
16歳ながら奥州鎮守府の兵を率いて西上し、
足利軍を美濃青野原(のちの関ヶ原)で破るなど、
赫々たる戦功を上げ続けた若き貴公子、
顕能公の兄である「花将軍」北畠顕家公の像。
ちょっと前の大河ドラマ『太平記』では後藤久美子が演じていた。
北畠顕能公の歌碑。

いかにして伊勢の浜荻ふく風の
治まりにきと四方に知らせむ

と刻まれる。
「伊勢の浜荻」とは葦のことで、
伊勢では葦のことを「浜荻」と呼んでいた。
土地によってものの名や習慣が違うことをあらわすことわざに
「難波の葦は伊勢の浜荻」
というものがあって古来よく知られており、
柿本人麻呂の歌にもあらわれる。
本殿北にある、北畠氏館・礎石建物跡。
写真右外には、北畠一族を祀った留魂社が鎮座する。
本殿左手に鎮座する末社・多芸神社。
明治末年の神社合祀政策により、
近隣の神社を一括して祀っている。
国の名勝及び史跡・北畠氏館跡庭園。
管領・細川高国(1484-1531)の手になるといわれ、
彼が政争に敗れ自害する前、
かつて身を寄せていた北畠晴具にあて、

  絵にうつし石(いわ)をつくりし海山を
    後の世までも目かれずや見む

という歌を送ったが、
これはこの庭園のことを歌ったものといわれる。
庭園の風景。


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