これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
陸奥国:
宮城郡(仙台市の大部分、多賀城市、塩竈市、利府町、七ヶ浜町):
志波彦神社 鹽竈神社 |
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牡鹿郡(石巻市南部、女川町):
鹿島御児神社 |
宮城県塩竈市一森山に鎮座。
鹽竈神社は陸奥国一宮。
もともとは別であった二つの神社が一森山中に隣接して祀られており、
現在は二社をあわせて一つの宗教法人として経営されている。
志波彦神社は、『延喜式』神名式、陸奥国宮城郡四座の一で、「名神・大」に指定されており、
国家の大事にあたって斎行される臨時祭「名神祭」において朝廷の奉幣を受ける、霊験大なる神社として信仰されていた。
祭神は社名通りの志波彦大神。
記紀をはじめとする古典には登場しない神であり、いかなる神かは不明。
東北地方には「シハ」という地名が点在しており、また古代においては帰順した蝦夷に「物部斯波連」という氏姓を与えている例もある。
「シハ」は「終末・端」を意味する言葉であることから、
大和朝廷の勢力が北進していく過程で、国境付近で祀られている神を「シハの神」として祀っていたのではないか、という説もある。
現在は、「農耕守護」「殖産」「国土開発」の神として信仰される。
なお、栗原郡には「志波姫神社」(名神・大)が鎮座している。
当初の鎮座地は宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川(七北田川)河畔。
多賀城へと向かう街道上の河畔、交通の要衝に鎮座していた。
奉斎氏族が没落したためか、あるいは祭祀する重要性が失われたためか、中世以降は衰微。
近世には、岩切村内の牛頭天王社(現・八坂神社)境内の小祠にて細々と祭られていた。
しかし明治になると、延喜式内名神大社であることから国幣中社に列格されることとなり、ひとまず鹽竈神社別宮に遷座。
その時の御祭文(天皇の詔として勅使が奏上する祝詞)には後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されていたが、
政府も国幣中社とはいえ地方の神社にお金を使っている余裕がなく、なかなか社殿造営に動かなかった。
そこで宮司が上京し、「神事と明治帝の御意志」をもって大臣に直談判してようやく重い腰を上げさせ、
昭和十三年に現在の社殿が造営された。
その後の国際情勢の緊迫化、および戦後の政教分離のため、全額国費で造営された最後の神社といわれている。
鹽竈神社は、『延喜式』神名式に記載のない、いわゆる式外社。
神名式に記載がないということは、
毎年二月に国家の祭として斎行される五穀豊穣祈願祭「祈年祭」に幣帛が頒布される神社ではないということ。
ということは、その頃は国家からの崇敬も少ない小さな社だったのか、といえばそういうことはなく、
『延喜式』主税寮式には、
諸国の出挙の正税・公廨・雑稲
陸奥国の正税六十万三千束、公廨八十万三千七百十五束(中略)、
鹽竈神を祭る料一万束、国分寺の料四万束、学生の料四千束、文殊会の料二千束、救急の料十二万束。
とあり、鹽竈神の祭祀にあたっては陸奥国より稲一万束が祭祀料として宛てられていた。
この記事は10世紀前期編纂の『延喜式』に百年先立つ『弘仁式』の逸文にもみられ、
平安初期の9世紀はじめにはすでに行われていた制度であり、神社はそのころすでに鎮座していたことが確認できる。
国庫より祭祀料が出る神社は、ほかに出羽国の月山大物忌神の二千束、伊豆国三嶋神の二千束、
そして淡路国の大和大国魂神の八百束で、
こちらはともに式内名神大社だが、それらをも圧倒する祭祀料となっている。陸奥国の地方税の実に1/60。
すべてを神にささげる、というのは無理なので、
その祭祀には夥しい数の人が参加していたのか、あるいは神社で米を用いて何かを大量に生産していたのか。
または神社で行っていた事業(製塩とか)に携わる人々への撤下品だったのか。
そして、それほどの神社がなぜ官社に登録されず、神階授与記事もみられないのか。
これは謎となっている。
神亀元年(724)に創建され陸奥国府が置かれた多賀城の鬼門にあたることから、
国府多賀城の鎮守として特に崇敬された神社であり、ゆえに式外社でありながら一宮となったと推定されている。
事実上国府多賀城の管理下にあったため、「総社」と同じような扱いで官社登録されなかったということだろうか。
平安後期には天皇の代替わりにあたって著名な神社に「大神宝使」を遣わして神宝を奉納する慣例となっていたが、
鹽竈神社にも大神宝使が発遣されている。
また、六月と十二月に行われる国家の恒例祭祀・月次祭(つきなみさい)の前には、
天皇の御体について卜を行う「御体御卜(おほみまのみうら)」の儀が行われていたが、
鹽竈神社は数度その卜に名が出ており、中央にもよく知られた神社であったことがうかがえる。
奥州鎮護の社として中世以降も武士によって高い崇敬を受け、
代々の領主が「大神主」として神社を経営し、禰宜家が神事を掌ってきた。
近世には伊達政宗とそれに続く代々の仙台藩主が大神主となり、手厚い保護を加えている。
初代の伊達政宗公は慶長十二年(1607)に社殿造営を行い、
三代綱宗公は寛文三年(1663)に大規模な造替を加えた。
四代綱村公は鹽竈社への崇敬殊に篤く、神祇管領吉田家に依頼して鹽竈神の神階を正一位の極位へ昇叙させ、
さらに社殿の造替に着手した。
この事業には九年をかけ、次代の五代吉村公によって宝永元年(1704)に竣工。
これが現在の社殿であり、国の重要文化財に指定されている。
また、この時より式年遷宮の儀が定められ、二十年ごとに社殿の改修が行われている。
明治に入ると、明治四年に志波彦神社が境内に遷座するのと同時に国幣中社に列格し、
先の大戦後には旧社格が廃されたが、民間の浄財によって式年遷宮の儀は今も続けられている。
別宮・左宮・右宮と三殿をもち、
別宮に塩土老翁、左宮に武甕槌神、右宮に経津主神を祀る。
主祭神は別宮の塩土老翁で、左宮・右宮は配祀神。
この場合の「別」とは、「ほかの」ではなく「特別に」の意。otherではなくspecialということ。
武門の守護神である左宮・右宮は仙台城の方を向き、
海、塩、海上安全の神である別宮は海を背負って西を向いている。
中世の間は祭神が具体的にどういう神であるかは不明であり、いろんな説があったが、
元禄から宝永の修造にあたって鹽竈社縁起の作成を神祇管領の吉田兼連に依頼し、現在の祭神の決定を見ている。
松尾芭蕉は五月八日に塩釜に到着して一泊した翌朝、九日の早朝に鹽竈明神に参拝し、
早朝塩がまの明神に詣。
国主再興せられて宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかかやかす。
かかる道の果、塵土の境まで神霊あらたにましますこと、吾国の風俗なれどいと貴けれ。
神前に古き宝燈有、かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。
五百年来の俤、今目の前にうかびてそぞろに珍し。
渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。
誠、人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。
と、その感動をのべている。
和泉三郎は奥州藤原氏・秀衡の三男である忠衡のこと。
父・秀衡の遺命を守り、奥州に逃亡してきた源義経を奉じて鎌倉幕府に対抗しようとしたが、
幕府への帰順を主張する兄・泰衡と対立し、義経が泰衡に攻められて自害した後、誅殺された。
文治三年(1187)は、藤原秀衡の亡くなった年にあたる。
この「文治の燈籠」は、今も左右宮拝殿前に据えられている。
駐車場より。 | 同じく。 奥には剣道道場の尚武殿一森山道場がある。 稽古後に『論語』素読してるってマジですか |
社務所。 ここには神職養成所があり、神職の養成も行っている。 境内の神苑は広く、整備されていてとてもきれい。 さすが旧国幣中社。 手入れ大変そうだけど |
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志波彦神社鳥居。 後方には鹽竈神社博物館がある。 |
志波彦神社と社務所の間にある自動車祓所。 | 志波彦神社前。 手水舎と祓所がある。 |
神門。 |
志波彦神社拝殿。 本殿・幣殿・拝殿・廻廊は昭和十三年(1939)に竣工し、鹽竈神社別宮より遷座。 奥の本殿は三間社檜皮葺流造。 近代神社建築の粋を集めた社殿であり、昭和38年、神門を含めて塩竈市の文化財に指定されている。 |
鹽竈神社の東神門。 表参道は南だが、駐車場に停めた場合はこちらから参拝することになる。 現在の東神門は昭和十六年造営、竣工。 |
境内。 左手に舞殿、祭務所、楼門、 正面に末社、 右手に鹽竈桜が立つ。 |
舞殿。 | 鹽竈ザクラ。 サトザクラ系の八重桜で、例年五月初旬に満開となる。 昭和十五年(1940)に国の天然記念物に指定され、 その時の樹は枯損したものの、苗木が育成されて、 「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」として昭和62年(1987)、 再び国指定天然記念物となっている。 鹽竈神社の社紋は、この桜を象ったもの。 堀河天皇御製 あけくれにさぞや愛で見む鹽竈の桜の下に海人のかくれや |
撫で牛。 開運・商売繁盛祈願。 「商いは牛の涎」という諺にあやかっている。 商売は、牛の涎が細く長く垂れ下がるように、 気長に辛抱強く続けるのがよい、という意味。 牛は食べた物を何度も反芻し、その度ごとに涎を垂らすが、 そのさまから生まれた諺。 |
絵馬所。 |
唐門前の狛犬。 延享四年(1747)八月の奉納。 唐門をくぐれば、別宮、左右宮の前へ。 この付近には、奉納された錨やシャコ貝がある。 |
鹽竈神社別宮拝殿。 普通、別宮といえば主祭神を祀る本宮に次ぐ社をさすが、当社においては主祭神を祀る宮となっている。 塩竈港を背負って西向きに建っており、この時は正面より西日を受けている。 拝殿の向こうには横に延びる廻廊があり、廻廊中央より本殿に向けて幣殿が伸び、 その向こうに三間社檜皮葺流造の本殿が鎮座。 近世においては、社僧が拝殿にて神前読経し、神職は幣殿にて祭典を執り行っていたという。 鹽竈神社の本殿以下十四棟の建物と石鳥居は国指定重要文化財。 |
左右宮拝殿。 参拝当時は第十八回式年遷宮にともなう屋根葺き替え工事中で、周囲はすっぽりと覆われていた。 右手奥(御守の看板の背後)にみえる赤さびた燈籠が、文治三年(1187)に和泉三郎こと藤原忠衡が寄進し、 その五百年後に松尾芭蕉が目にして感慨を新たにした「文治の燈籠」。 芭蕉が参詣した後、老朽化のために笠と土台は取り替えられたが、胴の部分は奉納時のままであるという。 左の方には、林子平が奉納した日時計(レプリカ。オリジナルは塩竈博物館所蔵)が置かれている。 |
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脇から少し覗かせていただいた。 廻廊および左宮本殿の檜皮葺屋根がみえる。 |
銅鐵合製燈籠。 文化六年(1809)、九代藩主伊達周宗(ちかむね)公寄進。 後見役の若年寄堀田正敦による蝦夷地巡検後、奉納されたと伝えられる。 仙台鋳物師の技術の粋を凝らした一品。 周宗公は寛政八年(1796)に生まれたが、 その年に父の八代藩主斉村公がわずか23歳で亡くなってしまった。 当然まだ後継者として定められておらず、本来は相続できないところ、 それでは伊達家が改易になってしまうためにいろいろ裏工作が行われ、 生後一年にも満たないうちにめでたく?九代仙台藩主となった。 もちろん政務を執ることはできないので、 後見役を置いたうえで家臣団が政務を執っていたが、 やはりリーダー不在のためか政治は安定せず、一揆が起こったりした。 文化六年に疱瘡にかかって一時危篤となり、 その後は公式の場に姿を現さず、 文化九年(1812)に異母弟の徳三郎(斉宗)を末期養子として わずか17歳で異例の隠居をし、まもなく亡くなった。 母君も周宗公を出産後まもなく亡くなっており、 遺伝によって生来体が強くなかったのだろう。 一説には、周宗公は文化六年に疱瘡で亡くなったが、 末期養子は17歳未満では認められていなかったので、 伊達家改易という大ピンチを再度回避するために またも裏工作によってその死が三年間隠匿されたともいう。 ただし、それを証する史料はない。 |
境内西に鎮座する末社四社。覆屋の中に四つの小祠が並ぶ。 神明社、八幡社、住吉社、稲荷社。 |
境内の神木。 |
堂々たる威容の随身門(楼門)。 随身門をくぐって左に立つ石燈籠は、山片蟠桃の奉納と伝えられる。 |
表参道(表坂)石段。202段ある。 石段下の石鳥居は寛文三年(1663)建立で、国指定重要文化財。 近世になり、仙台藩主の参詣用に整備された参道。 「帆手祭」「花祭」「みなと祭」においては、この石段を1トンの神輿が渡御する。 野球部の石段ダッシュ中。 正面奥は塩竈公園で、その向こうは塩釜高校なので、そこのメンバーだろうか。 往古は、石段の下の平地にまで入江が入り込んで祓川(はらいがわ)の河口となっていた。 多賀城から街道を通って来た人は現在の塩釜高校の地にあった「鳥居原」という市に至り、 そこから江尻に下りて祓川を渡り、最古の参道である七曲坂から鹽竈神社へと上っていた。 鳥居原にはその名の通り鳥居が建てられていて、 近年まで塩釜高校内にはその跡が存在していたとのこと。 この表坂は急であり、これに対して東に伸びる裏坂(裏参道)は緩やかであるため、 表坂を「男坂」、裏坂を「女坂」という。 |
裏参道鳥居、そして東へ伸びる裏参道(裏坂)。 裏坂は近世になって一般人の参詣のために開かれたもので、表坂よりも緩やかな坂となっている。 |
七曲坂。 この坂は鹽竈神社最古の参道で、かつては山の下まで入り込んでいた入江を渡り、この坂を上って参拝が行われていた。 鎌倉時代になると入江には橋がかけられ、のち次第に埋め立てられて江戸時代には祓川を残すのみになった。 それまでは七曲坂造営時の排土にて坂の下の一角を埋め立て、鹽竈神社神官家の阿部家が邸宅を構えて参道口を守っていたという。 |
鹽竈神社博物館前に置かれている鋳銭釜(いせんがま)。 貨幣鋳造時、銅や鉄を鎔かすために用いられた釜で、石巻鋳銭場で用いられていたもの。 米を蒸す甑(こしき)に似ていることから、甑炉型と呼ばれている。 現存する甑炉型鋳銭釜で上・中・下段三段とも残っているのはこれのみ。 鹽竈神社博物館は江戸時代の神職の邸宅跡に建てられた博物館で、 鹽竈神社の神宝を中心に5000点を収蔵。 屋上には展望台がある。 |
牡鹿郡:
宮城県石巻市日和が丘、
日和山(ひよりやま)の山上に鎮座。
『延喜式』神名式、陸奥国牡鹿郡十座の一、鹿嶋御兒神社(かしまのみこのかみのやしろ)。
古代には陸奥国に三十八社あったといわれる鹿島大神の苗裔神の一。
『日本書紀』景行天皇紀にみえる日本武尊の記事のように、大和朝廷は東方進出にあたって古くより蝦夷と戦いを繰り広げていたが、
それにあたって奉じられたのが鹿島と香取の大神であり、朝廷勢力の北上とともに鹿島大神や香取大神の御子が各地に祭られていった。
鹿島大神は、草・木・石さえも物を言い、昼は五月の蠅のように騒ぎ立て、夜は不気味な光を発する悪神が跋扈する、
無秩序な地上を平定するために天から降臨した神であると『常陸国風土記』に記され、
記紀神話には「国譲り」において葦原中国平定を成し遂げた勲功の神として描かれている。
強敵である蝦夷との戦いにおいては香取・諏訪の神とともに頼みとされた神であり、
平定した地が日本の地であることの標示、およびその鎮護のために大神やその御子神が祭られた。
『延喜式』神名式、陸奥国一百座のうち、鹿島大神の御子、鹿島大神ならびに香取大神の御子が祀られている神社は以下の通り。
栗原郡(宮城県西北端部):香取御兒神社
牡鹿郡(宮城県東部牡鹿半島周辺):香取伊豆乃御子神社、鹿嶋御兒神社
黒川郡(宮城県中部):鹿嶋天足別神社
亘理郡(宮城県南端部):鹿嶋伊都乃比気神社、鹿嶋緒名太神社、鹿嶋天足和気神社
信夫郡(福島県福島市の西半分):鹿嶋神社
行方郡(福島県北東部):鹿嶋御子神社
磐城郡(福島県南東部):鹿嶋神社
鹿島御児神社の祭神は、鹿島大神である武甕槌命とその御子・鹿島天足別命の二柱。
鹿島天足別命は香取大神の御子(阿佐彦命)とともに海路下向し奥州平定および辺土開拓にあたった神と伝えられ、
この地の港に停泊して錨を上げ下ろししていた時に石を巻き込んだことから、ここが「石巻」と呼ばれるようになったという。
そのため、この地には鹿島・香取それぞれの御子神が祀られている。
神社の鎮座地である日和山は石巻湾近く、旧北上川右岸の歴史的な石巻中心部に位置する眺望の大変良い山であり、
宮城県民謡の「斎太郎節(大漁唄い込み)」にも、
石巻サーヨー その名も高い 日和山トエー
と唄われる名所。男声合唱編曲だとテナーソロがカッコよく歌うところだ。
船の出航によい風向きや潮の流れなど「日和」を見る山であったことからその名がつけられた、と考えられている。
中世には、奥州合戦の功により鎌倉幕府からこの地を恩賞として受領した葛西氏が城館を築いて住んでいたとされ、
戦後の発掘によってその遺構が発掘され「石巻城跡」として保存がはかられており、
最近では神社拝殿の北から空堀の跡が発見されている。
近世、石巻は仙台藩の買米制度によって集積された米の積出港として、千石船の出入りで大変賑わった。
元禄二年(1689)にこの地を訪れた松尾芭蕉と門人の河合曽良は日和山に登ってその絶景を堪能しているが、
芭蕉は山海の眺めとともに、
数百の廻船入江につとひ 人家地をあらそひて竈のけふり立つつけたり
と、人の営みの賑わしさを記している(『奥の細道』)。
平成23年(2011)3月11日の東日本大震災によって本殿基礎に亀裂が入り、本殿も西に傾いた。
「大規模半壊」と判定され、倒壊の危険があるため、平成二十五年(2013)八月に本殿は解体されている。
氏子区域は被災地であるので寄付を募るわけにはいかず、
現在は神社本殿建築奉賛会を設立し、広く一般からの浄財を募っている。
背中で語る004、アルベルト・ハインリヒ。 この先には006の張々湖に007のグレート・ブリテンもいる。 石巻市は石ノ森章太郎と縁の深い土地で、 旧北上川の中洲には石ノ森萬画館がある。 この通りには『サイボーグ009』のゼロゼロナンバーサイボーグ (ただし0010以降はいないけど)のほか、 仮面ライダー1号やキカイダー、アカレンジャーなどの石ノ森キャラが、 石巻駅から石ノ森萬画館へ至る通りの歩道に置かれている。 |
鹿島御児神社鳥居。 目の前には旧北上川河口、そして太平洋が見える。 山の斜面は桜の公園になっており、石段はその下まで続いているが、往復している時間がなかった。 |
授与所(奥に社務所)、自動車祓所。 正面奥に拝殿。 |
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幣殿、本殿。 東日本大震災によって基礎に亀裂が入り、ずれてしまったため、 瑞垣がすべて倒れてしまっている。 |
境内末社。拝殿の下手に鎮座する。 どこかのお坊さんが参拝してはった |
日和山頂上周辺は石巻城跡として史跡保護されており、また日和山公園として整備されている。 |
ここでも石ノ森キャラが 島村ジョーの右にいるのは、 石巻市ローカルヒーローの「シージェッター海斗」。 コミック単行本に続き、このたび実写版登場。 脚本三条陸、カブトのかがみんに高岩さんのダブルキャスト、 高岩さんはスーツアクターでなくてまさかの素顔アクション、 そして主題歌水木アニキとかなにこれガチすぎ観たい |