にっぽんのじんじゃ・ながさきけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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肥前国:

彼杵郡(長崎市、佐世保市、諫早市の一部、西海市、時津町、長与町、川棚町、波佐見町、東彼杵町)

彼杵(そのぎ。昔は「そのき」)という郡名の由来は、『肥前国風土記』彼杵郡条にみえる。要約すると、以下の通り。

  昔、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)にて天下をお治めになった天皇(*第十二代景行天皇)が
  球磨贈於(くま・そを)(*球磨・贈於の二地域。熊襲のこと)を誅滅して凱旋された時、
  天皇は豊前国宇佐の海辺の行宮においでになって、神代直(かみしろのあたひ)に命じて土蜘蛛を捕らえさせた。
  この時、速来津姫(はやきつひめ)という人が参上し、
  健村(たけむら)の里に住んでいる弟の健津三間(たけつみま。健村の三間という名の男)が美しい玉を持っていると申し上げたので、
  天皇は神代直に命じて彼を召させたが、健津三間は玉を惜しんで逃亡し、落石の峰〔(彼杵の)郡役所の北の山〕に隠れた。
  しかしついに見つかって捕らえられ、「石上(いそのかみ)の神の木蓮子(いたび)の玉」と「白珠(しらたま)」の二つの玉を献上した。
  速来津姫はまた、篦簗(のやな)という人がこの地の川岸に住んでいて美しい玉を持っていると申し上げたので、
  神代直は篦簗を捕らえて問うたところ、篦簗は玉を献上いたしますと申し上げた。
  神代直は復命し、三つの玉を天皇に献上した。
  天皇は勅して、
  「この国は具足玉(そなひだま。玉が十分に備わった、の意)の国というべきである」
  と仰せになった。いま彼杵の郡というのは、これが訛ったのである。

速来津姫は、『豊後国風土記』速見郡条に「速津媛」としてみえ、
この海辺の土地の長であり、天皇に帰順し土蜘蛛の居場所を教えてこれを誅滅させた女性で、
その国は「速津媛国」と呼ばれ、のちに速見と改められたと記されており、『日本書紀』にも同じような話が収録されている。
速津媛は宇佐地方の人間でありながら遠く長崎の方の事情にも通じていたとされるが、
いったいどのような女性だったのだろうか。
「石上の神の木蓮子の玉」は、その名前からして石上神宮に納められたのだろう。

諏訪神社

諏訪(すわ)神社。

長崎市中心部の北に聳える山の麓、
長崎市上西山町に鎮座。
長崎の鎮守社であり、西の鎮めの大社、「鎮西大社」と称する。
その例祭は「長崎くんち」として広く知られている。

諏訪神社は、諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社を一所に祀ったもので、
諏訪神社の建御名方神・八坂刀売神を主祭神とし、
森崎神社の伊邪那岐神・伊邪那美神および住吉神社の表筒之男神・中筒之男神・底筒之男神を配祀する。

諏訪神社の創祀は弘治元年(1555)、京の諏訪神社(賀茂社の摂社)を勧請し、風頭山の麓に鎮座したと伝えられる。
しかし、領主の大村純忠がキリシタンとなってイエズス会、つまりローマ・カトリックに長崎の地を寄進したため、
「異教徒の神殿」である領内の社寺はことごとく破却され、当時は別々の地に鎮座していた諏訪・森崎・住吉の三社も例外ではなかった。
当時、欧州ではローマ・カトリックがマルティン・ルターの宗教改革に対して「対抗宗教改革」運動を展開しており、
その中に「新大陸への宣教」があった。
これは一言で言えば「全世界をカトリックで染め上げる」ことを目論んだもので、
東洋にも多数の宣教師を送り込んで「カトリックの領土」を増やそうとしており、
イエズス会はその急先鋒だった。異教の悪魔を叩いて砕く、イエズス会がやらねば誰がやる。
日本人少年たちがはるばる欧州まで旅してローマ教皇に謁見したという「天正遣欧少年使節」も、確かに偉業ではあるが、
その目的は、「われらは極東の地にまで敬虔な信徒を増やしているぞップロテスタント―――ッ!」というカトリックの示威行為。
しかし、ポルトガル商人が日本人を海外へ奴隷として輸出していたことが豊臣秀吉にバレたことから、
キリスト教は日本侵略の尖兵であるとして排除されるようになっていった。
イエズス会本部からは「奴隷売買に関わった宣教師は即刻破門する」という通達も出ており、
そのような通達が出るほど宣教師も奴隷売買に関わっていたようだ。
そんなこんなで長崎の地にはしばらくの間社寺が存在していなかったが、
寛永二年(1625)、佐賀の修験者・青木賢清は長崎奉行・代官の助力を得て西山郷円山の地に諏訪・森崎・住吉の三社を再興、
これを長崎の産土神とし、賢清は初代の宮司となった。
のち、正保四年(1647)に幕府から土地の寄進を受け、現在地に遷座。
安永四年(1857)の火災によって焼失したが、孝明天皇の勅諚を受けて明治元年(1868)に再営されている。


「長崎くんち」は寛永十一年(1634)に始まった行事で、
二人の遊女が神前に謡曲「小舞」を奉納したのがはじまりと伝えられる。
諏訪神社の例祭日が旧暦の9月7日~9日であり、とくに重陽の節句である9日に奉納踊りなどの大掛かりな神賑行事を行ったことから、
通称が「九日(くにち→くんち)」となった。
長崎奉行もキリシタン一掃の意図もあってこれを積極的に支援したため、祭礼はどんどん賑やかなものとなり、
その盛況ぶりに出島在留のオランダ人たちも見物に来て、神社にオランダ船模型などを奉納していた。
明治元年、この行事は華美に過ぎるとして一時中止されたが、
明治八年(1875)に例祭日を新暦の10月7~9日とした時に復活し、戦時の中断を乗り越えて今に至る。

例祭のメインは神輿渡御で、それにともなって様々な奉納行事がおこなわれ、それらは「演(だ)し物」と呼ばれる。
長崎市内の59の町(かつては77町)が7組に分かれ、一年に一組ずつ、順番に「踊り町」に当たって演し物を行う仕組みになっており、
町ごとに得意演目があって、毎年個性的な演し物で見る者の耳目を喜ばせる。
傘鉾やら曳船やら龍踊やらコッコデショやら鯨の潮吹きやら舞踊やら阿蘭陀漫才やらバラエティー豊富で、
とくに「コッコデショ」と「鯨の潮吹き」にはあのシーボルトもカルチャーショックを受け、自著『日本』にてイラスト付きで紹介している。
挿絵の鯨が超カワユス
コッコデショは、四人の童子が乗っている太鼓台を真上に投げ上げ、
落ちてくるところを担ぎ手が拍手一発から突き上げた片腕でがっちり受け止めてキメる!ところがチョーイイネサイコー
「祭りは“男”を育てる」とかそんなことを思ってしまう。
ようつべで検索すればいくらでも動画あり。
九州男児凄いわ

大門前。
翼廊を備えた立派な神門。
大門へ至るまでにはいくつもの鳥居と石段がある。
この坂を「長坂」という。
長崎は海沿いの山の斜面に形成された「坂の町」なので、
諏訪神社も急な坂の途中に鎮座している。

坂が多いために長崎では自転車の姿がほとんどなく、
その代わり原付の数がすこぶる多い。
大門正面。
巨大な注連縄がかかる。
頭が右(向かって左)で右巻きと、通常とは逆の注連縄となっている。
祭神が大国主命、あるいはその族類神である神社では、
概ね出雲大社にならってこのような形式の注連縄になっている
(諏訪神社祭神の建御名方神は大国主命の御子神)。

ただし大国主命系神社の専売特許ではなく、
伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る多賀大社なども同じ形式。
左手に立つ大樹。

端に見えるのは「太鼓楼」で、平成四年に竣工。
中には胴回り4.25mの大太鼓があり、朝夕に打って氏子区域内を祓う。

神門をくぐると、さらに石段を登った所に拝殿。
通常の参拝はここで行う。

祭礼時の祭典は、拝殿の先、廻廊の急な階段を登った上の「祝詞殿」にて行う。
祝詞殿内には「神」一字の扁額が懸かっており、これは霊元天皇御宸筆。
ルックスもイケメンな神馬像。西洋的な肉感。

かつては明治三年に長崎製鉄所(三菱重工業長崎造船所の前身)
の創業記念として神馬像が奉納されていたが、
先の大戦において国に供出され失われていたのを、
長崎平和記念像の作者である北村西望が新たに制作し、
昭和60年に奉納したもの。
右手には御神輿庫。
境内左手、社務所の裏にある祓所と神池。
玉垣はかつての商人たちの寄進によるもののようだ。

神池と社務所の間には、祝詞殿へと上がる石段がある(立ち入り禁止)。


長崎観光のほぼ定番であるグラバー園の園内にある長崎伝統芸能館では、
長崎くんちに用いられる傘鉾・曳船・龍などが展示されている。

右から、
銅座町・南蛮船、
築町・御座船、
出島町・阿蘭陀船、
元船町・唐人船。
榎津町・川船、
万屋町・鯨の潮吹き、のミニチュア。
本物はもっとでっかくてユーモラスで、豪快に潮を吹く。
手前から、
八坂町川船、
東濵町竜宮船。
諏訪町龍踊。
右、今籠町傘鉾、
左、大黒町傘鉾。
右から、
西古川町傘鉾、
築町傘鉾、
銅座町傘鉾、
銀屋町傘鉾。
/ファイナルベント\






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