にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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添上郡(奈良市の大半、大和郡山市・山添村・天理市のそれぞれ一部):

春日大社

添下郡(生駒市北部、奈良市西部、大和郡山市):

矢田坐久志玉比古神社 八所御霊神社 *秋篠寺
神功皇后陵・成務天皇陵・
日葉酢媛命陵・称徳天皇陵

平群郡(生駒市、生駒郡):

往馬大社 龍田大社 *信貴山朝護孫子寺

廣瀬郡(北葛城郡河合町~広陵町の一帯):

廣瀬大社


*添上郡(そふのかみのこおり)

春日大社。

奈良市春日野町、地名の通りの「春日の野」に鎮座する。

『延喜式』神名式、大和国添上郡三十七座の内、春日祭神(かすがにまつるかみ)四座。
みな名神大で、祈年祭のほか月次・新嘗祭において朝廷の班幣があった。
朝廷の祭祀氏族である中臣氏が関東において長く祀っていた武甕雷命および経津主命と、
中臣氏の祖神である天児屋根命と比売神の四柱が祭神で、
それぞれ鹿島神宮(常陸国一宮)・香取神宮(下総国一宮)・枚岡大社(河内国一宮)の勧請。
武甕雷命および経津主命はわが国を代表する武神、
天児屋根命は初めて祭祀を行い祝詞を読んだ祭祀神という強力ラインナップ。
中臣氏から分かれた藤原氏がこの四柱を氏神としてこの地に祀ったのが春日大社の興りで、
神護景雲二年(768)に藤原永手が鹿島・香取・枚岡の三社を勧請したのを創祀とする。
もとは藤原氏の氏神であるので、その祭祀は「氏神祭」として藤原氏のみで行われる内輪のものだったが、
藤原氏が勢力を拡大していくにつれて年々盛大に執り行われるようになり、
ついには「春日祭」という国家の恒例祭祀として、官物が支給され勅使も発遣する大がかりなものとなった。
平安時代に藤原氏が確固たる勢力を築いて以降、春日祭は華やかに執り行われていたが、
応仁の乱以降の天下大乱の中で衰退し、太平の江戸の世においても公家に圧力が加えられたこともあって復興とまではいかなかったが、
明治18年よりより再び天皇が勅使を発遣される勅祭として執り行われている。
かつては旧暦二月・十一月の上申の日に行われ「申まつり」と呼ばれていたが、
新暦になって三月十三日に固定され、また藤原氏の氏神祭としての性格はなくなった。

この春日の野には春日大社鎮座の遥か以前より祭祀が行われていたことが発掘からわかっており、
神祭りの神聖な地として伝わってきた。
『日本書紀』には第九代開化天皇が春日の地、率川に宮を営まれたと記されており、
率川神社はその跡地に鎮座しているとされ、大神神社の御子神を祀る摂社として、大神氏の氏上が「三枝祭」を執り行っていた。
『続日本紀』霊亀三年(11月17日に養老元年と改元。717)二月一日条には、

  遣唐使が蓋山(みかさやま。春日山)の南で神祇を祠(まつ)った。

とあり、遣唐使発遣にあたってその道中無事を祈願するために御蓋山の麓で祭祀が行われたことが記されている。
「神祇」と言った場合は「天津神・国津神」つまりすべての神々をさすので、このころはまだ特定の神を祀るのではなく、
状況に応じて神々を勧請し祭っていたのだろう。
奈良時代には遣唐使発遣にあたってまず春日で神祇を祭り、その後住吉大社で祭を行っており、
天平勝宝三年(751)春、遣唐使の無事を祈って春日にて神を祭った日、
藤原大后(光明皇太后)が甥の遣唐大使藤原清河に賜わった歌、

  大船に 真梶繁(しじ)貫(ぬ)き 此の吾子(あご)を 韓国(からくに)へ遣(や)る いは(斎)へ神たち
   (大船に梶をたくさん取り付けて、このわが子を唐の国へと遣わします。どうか神々よ、御祝福くださいませ)

そしてそれに対する清河の歌、

  春日野に いつ(斎)く三諸の 梅の花 栄(さ)きて在り待て 還り来るまで
   (春日野に斎き奉る社の梅の花よ、この咲き誇った姿のままで待っていてくれよ、私が還ってくるまで)

が『万葉集』巻第十九に収録されている(4240、4241)。
天平勝宝八歳(756)に書かれた、東大寺の寺域を記した絵図「東大寺堺四至図」には、現在の春日大社の地にはただ「神地」とだけ書いてあり、
このころはまだ春日の野には常設の神祭りの施設はなく、ただ聖域のみがあった。
祭祀が行われる時はその聖域に臨時の神祭の施設をつくって祭をおこない、終れば破却していたとみられている。
ちょうど現在の「春日若宮おん祭」の形式。
『万葉集』にも、

 ちはやふる神の社しなかりせば 春日の野辺に粟蒔かましを(巻三、404)
  (〔ちはやふる〕神の社がなかったならば、春日の野辺に粟を蒔くことができようものを)

とあり、現在の春日大社の一帯はまだ粟を蒔けるような野原であったとわかる。
また、面白いところでは、
神亀四年正月のある日、数人の王の子や諸臣の子らが春日野に集まって打毬(まりうち。西洋でいうポロ)に興じていたところ、突如天かき曇り雷電した。
この時、彼らが春日に出払っていたために宮中には侍従・侍衛がおらず、宮中警備が行われなかった。
そこで勅して刑罰を行い、彼らを授刀寮にて謹慎させたが、その中の一人が嘆いて歌った歌が『万葉集』に収録されている(巻第六、948,949)。

  真葛延(は)ふ 春日の山は 打ち靡く 春さり往くと 山がひ(峡)に 霞たなびき 高円(たかまど)に 鶯鳴きぬ
  物部(もののふ)の 八十(やそ)とものを(伴緒)は かりがねの 来継ぐこのころ 
  かく続(つ)ぎて 常に有りせば 友な(並)めて 遊ばむものを 馬な(並)めて 往かまし里を 待ちがてに 吾がせし春を 
  かけまくも 綾に恐(かしこ)く 言はまくも ゆゆしく有らむと 予(あらかじ)め かねて知りせば 
  千鳥鳴く その佐保川に 石(いは)に生ふる 菅の根取りて しのふ草 解除(はらへ)てましを 往く水に 潔(みそ)ぎてましを
  天皇(おほきみ)の 御命(みこと)恐み ももしきの 大宮人の 玉桙の 道にも出でず 恋ふるこのころ

   (葛が這い広がる春日の山は、〔打ち靡く〕春がやってくると山の谷間には霞がたなびき、高円山にも鶯が鳴き始めた。
   朝廷に仕える官人らは、北へ帰る雁が連なって次々にやってくる頃、
   そのようにずっと、いつもであれば、友と連れ立って遊ぼうものを、馬を並べて行くつもりであった里を、私が待ちかねていた春だったのに、
   声をおかけするのも非常に恐れ多く、口に出すのも恐れ多いこのようなことになるとあらかじめ知っていたならば、
   千鳥の鳴くあの佐保川の、石に生える菅の根を取ってしのふ草として祓えをしていたものを、流れる水で禊をしていたものを。
   天皇の御命令を畏み、〔ももしきの〕大宮人らが〔玉鉾の〕道にも出ずに、春を恋い慕っているこの頃だ)

  反歌一首
  梅柳 過ぐらく惜しみ 佐保の内に 遊びし事を 宮もとどろに
   (梅や柳の盛りが過ぎるのを惜しみ、佐保の内で遊んだことを、宮では一大事と騒ぎ立てていることだ)

これにより、春日野は春には人々が集まり遊興に打ち興じる場所であったこともわかる。
(また、若草山の北をめぐって流れてくる佐保川が禊祓の場であったこともわかる)
春日野は、祭祀の場であると同時に農耕の場であり、遊興の場でもあった。
こういった場所に自分たちの氏神の社殿をオラオラオラオラと建ててしまったのだから、
光明皇后のもと怖いものなしだった当時の藤原氏の権勢のほどがうかがえる。

春日社は同じく藤原氏の氏寺として創建された興福寺とタッグを組み、興福寺僧は春日社の祭典においては神前読経を行うなど神仏習合が行われ、
両者はほぼ一体化して大和国に勢力を拡大していった。
中世には大和国には守護が置かれず、興福寺がその任に当たり、
春日社も大和国の数多くの神社を傘下に置き、二十年の式年社殿造替においては古殿をそれらの社に移築していて、それが現存する神社も多い。
興福寺は度々神輿を奉じて強訴に及んだが、その時は春日社の神霊を移した榊を奉じていた。
明治になって神仏分離が行われると、それまでのように寺僧が神社祭祀に関わることができなくなり、また大和では廃仏毀釈が行われたため、
興福寺僧の中には還俗して春日社の神職になり、引き続き春日の神の祭祀に仕えた者もいた。
現在は、興福寺僧が神前読経を行う儀が復活している。

創祀後ほどなく山城国の長岡京、そして平安京へと遷都が行われたが、
この時に大原野へ春日社の分霊を勧請したのが大原野神社で、藤原氏の氏神として春日社に準ずる崇敬を受け、
「大原野祭」という国家恒例祭祀が執り行われた。
また、伊勢の斎宮・賀茂の斎院にならい、春日祭・大原野祭には藤原氏の娘が「斎女」として祭典に奉仕した。
律令制下の恒例祭祀制が崩壊したのちも両社は「二十二社」の一として朝廷の奉幣を受け、
中世、春日社は「春日大明神」として一般の信仰も集めるようになり、
伊勢の天照皇大神、山城の石清水八幡宮とともに「三社託宣」の神として、掛け軸などになって家々の床の間に飾られるようにもなった。

現在、春日大社の祭典としていちばんよく知られ盛り上がるのは、若宮神社の「おん祭」。
若宮神社の祭神は、中臣氏・藤原氏の祖神天児屋根命の御子神、天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、
長保五年(1003)三月三日に比売神の第四殿に顕現、その後は第二殿と第三殿の間に祀られていたが、
疫病・飢饉救済祈願のために保延元年(1135)二月二十七日、現在地に社殿を造営して鎮座し、
翌年九月十七日、春日野にその御神霊を招請して丁重に祭典奉仕したのが「おん祭」のはじまりと伝えられる。
以後、五穀豊穣・万民安楽を祈願して毎年大和一国を挙げての盛大なる祭典を執り行い、連綿と続いて今に至る。
往古は興福寺との共同だったこともあって明治初頭に一部の儀式が廃されたが、近年は旧儀復興が進められている。

その儀式のメインともいえるのが、若宮社殿より春日野の行宮(あんぐう、お旅所)への遷幸の儀と暁祭そして還幸の儀。
遷幸(午前零時より)・還幸の儀(午後十一時より)は古来より神秘とされており、
現在も参道はみな明かりを落とし、その間は携帯写真など厳禁、さらには懐中電灯を灯すことすら許されない。
冬の浄闇の中、厳粛に執り行われる。
御渡りになる御神体は神職が榊の枝をもって十重二十重にお囲みし、警蹕(けいひつ、みさきばらい)の声を発しながらお遷しし、
その間、楽人は道楽(みちがく)の「慶雲楽(きょううんらく)」を奏しつつお供をする。
御神体が目の前を通る時、参拝者はみな直視せずに目を伏せ、二拝二拍手一拝の拝礼を行う。
一時間をかけてお旅所に遷られると、暁祭が午前一時から斎行。
庭燎に火が入り、簡素な行宮に神饌が次々とたてまつられ、祝詞奏上に続いて神楽が奏せられる。
古くは、神祭りや神渡りの行事はこのような夜中に行われ、昼間には奉幣や神賑行事が行われていた。
若宮おん祭は、この古儀を現代までよく伝えているお祭りのひとつ。
江戸時代につくられた祭礼番付では、「若宮祭」として西前頭二番目に名を連ねており、
「春日祭」は西前頭三枚目と、祭りの規模が逆転している。
これは、氏神祭祀・国家祭祀である春日祭と、春日社・興福寺が共同し大和一国を挙げて行われた若宮祭の、
民衆への親しみやすさの差からきているのだろう。


春日大社一の鳥居。前の交差点。
外国からの方の姿も多い。
なだらかに広がる春日野。鹿が草を食む。

昼の春日大社については写真も多かろうなので、夜の春日大社でも。おん祭の遷幸の儀および暁祭。
携帯写真なので何が何やらわからねーとは思うがありのまま起こったことを今話すぜ

夜の一の鳥居。榊が立てられている。
鳥居をくぐり、参道を歩いていく。が、暗い。
参道に照明はないので、真っ暗な中を歩いていく。
しばらく進むと左手のほうに煌々と明かりがともっている場所があり、ここがお旅所。
奈良国立博物館・新館のちょうど南になる。
土地の中央奥が土盛のスロープになっており、その上に黒木(加工していない木材)の仮の社殿が建てられている。
この仮社殿が春日若宮の御旅所。この日のために建てられ、終わると取り壊される。
その手前の両側には太鼓。右手には楽所と神饌場、左手には参列者のテントが立っている。
先を急ぐ・・・が、真っ暗で何も見えないので、懐中電灯を持っているお母さん三人連れに、
「すみません、御一緒させて頂いてよろしいでしょうか?」
とお願いし、御一緒させて頂いた。ありがとうございましたー。
真砂が敷き詰められた参道をさくさくとしばらく歩くと公道に出る。左に行くと東大寺南大門、そして大仏殿へ。当然真っ直ぐ進む。
懐中電灯も持たずにずんずん歩いていく初老の方がいらっしゃったが、やっぱり地元の方だろうか。
茶屋のところで参道が右に折れ、また左に曲がる。すると向こうに照明に照らされた二の鳥居が見えてくる。
一の鳥居から1kmほど歩いたか。

すでに二の鳥居から50mくらいまでの参道両側には遷幸に立ち会おうとやってきた人々が並んでいる。この寒い中、早い。
神社の方が遷幸奉拝に関しての説明を行っている。
若宮遷幸は神聖な行事であるため、その間は一切の明かりを消し、写真・ビデオ撮影は厳禁。周囲の人もうんうんとうなずいている。
さすがに奈良の方にはそういったコンセンサスがあるということだろう。
すぐ近くの春日大社駐車場の御手洗が23:30消灯ということで、行っておく。
御手洗の照明が消える。鳥居の向こうでは白衣の巫女さんや神職さんたちの移動が見える。
まだ駐車場に入ってくる車のライトが入ってきて、まぶしい。もっと早く来なさいよ。
23:50、奥から大太鼓の音が重々しく響いてくる。もうすぐか。
すべての照明が消え、辺りが暗くなる・・・が、ずっと暗闇の中にいるせいか、周囲が見える。
この日は新月の次の夜にも関わらず、空が明るかった。奈良市街の明かりが空を照らしているせいだろう。日本の夜は明るい。

0時。太鼓が遠く響くのに続き、楽の音が聞こえてきた。そして参道の向こうに火の明かりがゆらめく。

楽の音に「おーおー」という男性の警蹕(けいひつ)の声が混じる。
警蹕は声により渡御を知らせ、また邪なものを追い払う、御先払いの声。
湧き上がるような低音の声がその場の空気を変える。空気がさらに凛と冷え込んだように感じた。
遷幸の行列が視界に入ってきた。その両側に松明が燃えている。
松明は行列の前を行く。船のような大きな器の中で松明を燃やし、それを棒でばしばし叩いて参道に火の粉を落とす。
浄闇の中、参道にできた火の道の中を、若宮が遷幸される。
この時、背後の参道から懐中電灯の明かりが二つ近づいてきた。もう祭典は始まってるのに今さら明かりを点けてノコノコやってくるとは・・・
「もう始まってる、明かりを消して!」
壮年の男性の方が小さく鋭い声で注意する。電灯が消え、年配のカップルがやってきた。
分別あって当然の歳なのに、祭典の尊厳を汚してはいけない。
はっきり言って、遅れたのならここに来てはいけない。暗視スコープ持ちとかインフラビジョン能力者ならともかく。
目の前を松明が火の粉を落としつつ過ぎ行く。
そのあとに、大きな御幣を掲げた神職、そして香を焚く神職が続き、
その後ろに、白衣を着た大勢の若い神職たちが榊を持って神体を隠し、警蹕の声を上げながら早足で過ぎてゆく。
けっこう速い。もっとしずしず行くのかと思ってた。周囲の方が若宮さんに向かって二拝二拍手一拝を始めたので、それにならった。
そのあとに楽人などが続き、参列者が続く。前のほうが早足なので、氏子さんや協賛者なのだろう参列者の中には走っている人もいた。
さすがに走ったらいけないと思うけど。暗いし、お祭だし。
意外と慌しい約百人の行列が過ぎると、しばらくして一般の人もその後ろについて御旅所へと向かう。
暗いが、皆、もう目が慣れているので何の混乱もなく明かりのない参道を歩いてゆく。
ここへ来るときは懐中電灯がないと何も見えなかったのだが・・・人体の適応能力は素晴らしい。
道路を渡り、さらに進んで御旅所へ。
御旅所へは一般の人もそこそこ入ることができ、若宮を仮殿に鎮め奉る「暁祭」を奉拝できる。
列の先頭から一定人数、なので、早く来た人順ということ。ここへ入るときには、押し合いへしあいになった。前年はここでけっこう混乱したらしい。

入れた

しかし中央付近はすでに黒山の人だかりなので、サイドのほうに行くしかなかった。太鼓があっていいところが見えない。
二拍手の音がする。
現行の神社祭式では祭の始めには「宮司一拝」を行うが、春日では旧神社祭式にしたがって再拝二拍手一拝を行っているようだ。
そして献饌。祭員が伝供道に散り、神饌所から神前へ神饌をリレーしてゆく。
この神饌は、「御染御供(おそめごく)」といい、米を青黄赤白に染め分けて棒状に高く盛り飾った特殊神饌。
でも遠目なのでよく見えなかった。
あとそれとは別に、四角く深い箱に串に刺した餅と蜜柑を入れ、檜の葉で覆った「素合の御供」も手前の案に供えられてゆく。

「まつる」の語源についてはいろいろな説があるが、伊勢の神宮の祭儀の報告書である『延暦儀式帳』では、
祭典の次第において、神饌の数々を列記したのち、
「このように祭り終り、告刀(のりと)を御巫内人(みかんなぎうちんど)が申す・・・」
と記されているところが何か所もあり、祭典においては神饌を「たてまつる」ことが「祭る」ことであると考えられていたことがわかる。
つまり、神を祭るということの根幹は「神に神饌をたてまつる」ということ。
献饌が終わると、宮司祝詞奏上。
神様にお食事をたてまつったのち、神様に御祈願を聞いていただく。

そして、神楽奉納。笛の音と歌とともに二人の巫女が舞い、神の御心をなごめ奉る。

そして、献饌と逆のプロセスで神饌を神前より神饌所へ撤し、撤し終わると、
宮司の再拝二拍手一拝で暁祭が終わる。

祭員が退下すると、一般の人も柵をへだてて若宮さんにお参りができるようになる。
ただし仮殿正面からの写真撮影は禁止。
正中、つまり真正面は神の通り道であり、極力立ちどまったり歩いたりしてはならない所であるため。
なので、神社の参道も真ん中を歩いてはならない。

賽銭箱が置かれており、皆お賽銭を入れて拝礼して、帰途に着く。
この写真は1時53分撮影。12月中旬の大和盆地の午前2時とか超寒い。
草木も眠る時分の春日社一の鳥居。


*添下郡(そふのしものこおり)

矢田坐久志玉比古(やたにますくしたまひこ)神社。

大和郡山市矢田町に鎮座。

『延喜式』神名式、大和国添下郡十座のうち、矢田坐久志玉比古神社二座。
二座とも大社で、祈年祭に加え月次・新嘗祭にも朝廷の幣帛に預かった。
『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、従五位上の神階を授けられた記事がある。

物部氏の祖神、櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)とその妻、御炊屋姫(みかしきやひめ)を祀る。
饒速日命は皇孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に先立ち天磐船に乗って大和の地に降臨したとされ、神武東征の折に神武天皇に帰順した。
天磐船に乗っていた、という伝承から航空の神様として信仰されている。
この神が天磐船に乗って大和国を国見し、その情景を称えて「虚空見日本国(そらみつやまとのくに)」と言ったことから、
「そらみつ」が大和国の枕詞となった。
饒速日命は天下るときに三本の矢を放ち、それが落ちたこの地に宮を定めたと伝えられる。
一の矢は神社の南、二の矢は現在の境内に、三の矢は神社の北に落ちたという。
その由緒により、「矢落明神」と呼ばれる。
『新撰姓氏録』大和国神別の項に、
「矢田部。饒速日命の七世の孫、大新河命の後なり」
とあり、物部氏の一族がこの矢田の地で祖神を祀ったのがはじまりとみられる。

航空の神様ということで、
神門には大きな木製のプロペラが懸かっている。
駐車場が見当たらず、車が停められなかったので一枚のみ。

八所御霊(はっしょごりょう)神社。

奈良市秋篠町、伎芸天で有名な秋篠寺の南門のすぐ外に鎮座する。
祭神は崇道天皇(早良親王)、伊豫親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、吉備大臣、火雷神の御霊八所。
長く秋篠寺の鎮守社であった。
本殿は奈良県の指定文化財。遅くとも室町時代の建築とみられている。

鳥居と拝殿。
小さい神社ではあるが、境内は玉砂利がきれいに梳かれており、ものすごく清冽でさわやかな印象。
秋篠寺を訪れたなら、ぜひこちらにも足を運びたい。

秋篠寺。

奈良市秋篠町。
本尊は薬師如来。現在は単立の寺院で、特定の宗派に属しない。
もとは法相宗と真言宗の兼学であった。
創建は不明。
『続日本紀』宝亀十一年(780)六月五日条に、光仁天皇が勅して秋篠寺に食封百戸を施入した、とあり、これが国史初見。
これ以前には創建されていたことになり、また皇室と縁が深かったことがうかがえる。
すぐ南には西大寺があり、寺領の増大とともに度々衝突した。
保延元年(1135)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失。鎌倉時代に再建されたが、規模は縮小された。
本堂(国宝)にある「伎芸天」立像(重要文化財)で有名。ただ、この像が伎芸天であるかどうかは確証がない。
また、大元堂に置かれる大元帥明王像(重要文化財)もその凄絶な姿形でつとに知られており、
毎年六月六日の一日しか開帳されない秘仏となっている。

本堂を裏から。
境内は緑が多く苔むしており、
どこか神社と似た雰囲気。


もともと仏教寺院には緑は必要ないものだった。
それが日本でこのように森や庭園に囲まれるようになったのは、
古くから緑なす地に神聖を見出してきた日本人の心によるのだろう。

神功皇后陵。

奈良市山陵町にある。

神功皇后は、和風諡号を気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と申し上げる、第十四代仲哀天皇の皇后。
第九代開化天皇の子孫であり、
また母は、新羅より渡来し帰化した王子・天日槍(あめのひぼこ)の子孫といわれる。
仲哀天皇の崩御後、皇后は神の託宣に従って熊襲を平定、そののち朝鮮に出征すると戦わずして新羅をはじめとする三韓を平定し、
帰還されると筑紫にて誉田別尊(ほむたわけのみこと。応神天皇)を出生。その後、皇子が長ずるまで摂政として執政した。
現在は天皇の列には加えられないが、『日本書紀』では一巻をさいて本紀を立て、
その死を「崩」と記し、天皇に準ずる扱いを行っている。
『常陸国風土記』では「息長帯比売天皇」と天皇号を用いて記しており、
平安時代以降は天皇として認識され、長い間第十五代天皇とされていた。
応神天皇を中心とする八幡神の一柱として、また住吉大神四座の一柱として、数多くの神社で祀られている。

近鉄・大和西大寺駅前のならファミリー駐車場に停めさせていただいてまず食事、
それから古墳めぐりにゴー。
近鉄・平城駅のすぐ北にある。

陵の南の丘陵にある遥拝所上り口。
子の丘陵には八幡神社も鎮座している。
古墳の丘陵。前方部。

平城駅から東に行くと、成務天皇陵と日葉酢媛命陵が並んでいる。

成務天皇は第十三代天皇で、近淡海国(ちかつあふみのくに。近江国)の志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)に都し、
国造・県造を定め、国々の境をお定めになった。
『古事記』序文には、
「境を定め邦(くに)を開きて近淡海(ちかつあふみ)に制(をさ)めたまひき」
とその業績を称えられている。
『先代旧事本紀』国造本紀では数多くの国造が成務天皇治世に定められており、
少なくとも国史編纂が始まった飛鳥時代以降、成務天皇の業績はごく一般的な認識であったことがわかる。

日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)は第十一代・垂仁天皇の皇后。
五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと。武を好んで一千振の大刀を造らせ、また石上神宮の神宝をつかさどった)、
大足彦命(おおたらしひこのみこと。第十二代・景行天皇)、
倭姫命(やまとひめのみこと。伊勢国に皇大神宮を定めた)
らの皇子・皇女を生んだ。
皇后が薨去したとき、野見宿禰の献言によって初めて埴輪を陵墓に立て、以後の慣例にしたという。

北から、ふたつの古墳の間へ。
道路がちゃんと整備され、散歩にちょうどいい。
成務天皇陵・前方部前の遥拝所。
成務天皇陵の濠。 日葉酢媛命陵の濠。

丘陵を下ると、称徳天皇陵。
聖武天皇の皇女・阿倍内親王が第四十六代・孝謙天皇として即位、
第四十七代の廃帝・淳仁天皇を経て再び即位(これを重祚という)した。
女性として立太子した初の人物で、天皇となることが決まっていたゆえに結婚が許されなかったという。
ゆえに子もなかった。
そのためか弓削氏出身の僧・道鏡を寵愛し、それは道鏡に譲位するか否かという宇佐八幡神託事件にまで発展した。
その神託事件の翌年、俄に病にかかり崩御。西大寺東塔の心柱礎石を破却した祟りであったという。

ならファミリー駐車場より。
称徳天皇陵は古くは西大寺に隣接していたらしい。

*平群郡(へぐりのこおり)

往馬(いこま)大社。

生駒市壱分町に鎮座。
『延喜式』神名式、大和国平群郡二十座の内、往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこのかみのやしろ)二座。
大社に指定され、祈年祭・月次祭・新嘗祭において朝廷よりの班幣に預かっていた。
六国史での最終神階は従五位上。
生駒山の麓に鎮座する。
十月の体育の日のころ、巨大な松明を担いで石段を駆け下りる豪快な一瞬の祭りである「火祭り」が行われる。
祭神は伊古麻都比古神・伊古麻都比売神。生駒山の男女一対の神で、聖なる火を起こす木の神。

少し出ると住宅団地や幹線道路があるのだが、この周辺は緑も多く、静か。いいお社。

鳥居。 鳥居をくぐったところ。かなり広い空間になっている。
正面は高座という建物で、主に御旅所として使うらしい。
この左・右・手前にも建物がある。
石段。途中に干支のネズミの絵馬がかかっている。 拝殿。
本殿。本来の祭神は伊古麻都比古・伊古麻都比売の二柱だが、
中世以降八幡信仰も取り入れたため、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后と
そのご両親の五柱を加えた七座。

境内の神木。落雷に引き裂かれ、さらに火災に遭って幹は黒焦げになっているが、なお生きて緑を生い茂らせている。
その生命力に多くの人々が崇敬を寄せている。
奥に末社や戎神社が見える。
手前の立て札の上溝桜(うわずみざくら)から、
大嘗祭にて用いる火燧木を切り出すのが歴代の伝統だった。
昭和・平成の大嘗祭では、
この桜から大嘗祭に用いる稲を育てる斎田の場所を占うための
占卜に用いる木を切り出した。

龍田(たつた)大社

生駒郡三郷町立野南に鎮座。

『延喜式』神名式、大和国平群郡二十社の内、龍田坐天御柱国御柱神社(たつたにいますあめのみはしらくにのみはしらのかみのやしろ)二座。
平群郡の筆頭に挙げられている神であり、
名神大社に指定され、祈年祭・月次祭・新嘗祭において朝廷よりの班幣に預かっていた。
風神である天御柱命・国御柱命の二柱を祀る。
『延喜式』巻第八の「祝詞式」に「龍田風神祭」の祝詞が収録されており、その中に、
第十代崇神天皇の御世、作物の不作が何年も続いたので、いずれの神の御心であるかと占わせたが徴はなく、
天皇自らがいずれの神の御心かと問われたとき、天皇の夢に天御柱命・国御柱命が現れて正体を明かし、
「朝日の日向ふ処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野にわれらの宮を定め、祭りを行えば五穀から草々に至るまで無事に実るであろう」
と言った、という神社の起源が語られている。

国史初見は『日本書紀』天武天皇四年四月十日条。
「小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わし、風神を竜田の立野に祠(まつ)る。
小錦中間人連大盖・大山中曽祢連韓犬を遣わし、大忌神を広瀬の河曲に祭る」
と、龍田と廣瀬の神を同日に祀ったことが見え、以後これが恒例の国家祭祀となり、毎年四月と七月に両社の祭祀が行われるようになった。
龍田での祭りは五穀が順調に育つために悪風が吹かないようにと祈る祭りで「風神祭」と呼ばれ、
祭日は旧暦四月・七月の四日に固定された。これは初夏と残暑の、稲の生育にとって大事な時期に行われていた。
(現在は「風鎮祭」と呼ばれ、7月第1日曜に斎行される)。
それほど重要視された神でありながら、記紀神話には一切名前が出てこないという不思議な神様。
一般には、記紀に名の見える風神、「級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長戸辺命(しなとべのみこと)」と同一視される。


このあたりの紅葉は古くから有名で、在原朝臣業平の歌、
「ちはやふる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」
はよく知られている(龍田川とは現在のそれではなく、この神社の下を流れるあたりの大和川のことを指すと解釈されている)。
神名式には龍田坐天御柱国御柱神社に続いて「龍田比古龍田比女神社 二座」とあり、現在は境内摂社となっているが、
龍田比女命は紅葉を司る「秋の女神」として親しまれている。

現在は周囲の丘一帯が住宅団地として開発されており、その中にぽつんと存在する感じになっている。
新しい人間がどっと流入してきている中、これまでの信仰を維持できるのだろうか?と思った。
周辺や境内で犬の散歩をしている人が多かったが、鳥居の前で長い間拝礼しているお婆さんもいらっしゃった。

鳥居。
鳥居正面。
延喜式・風神祭祝詞の、
「朝日の日向ふ処、夕日の日隠る処の龍田の立野」
のごとくに、
東の丘陵に東を向いて鎮座する。
境内と拝殿。
拝殿向こうには本殿や摂社が並ぶ。
摂社のひとつである龍田比古龍田比売神社の
祭神の一柱、
龍田比売は秋の女神として古来親しまれている。
池の中にある下照神社。 末社。お稲荷さんだったっけ。
末社・えべっさん。

*廣瀬郡(ひろせのこおり)

廣瀬大社

北葛城郡河合町大字川合に鎮座。
寺川、飛鳥川、高田川、葛城川、曽我川、富雄川など、大和の地を流れる河川が一堂に会して大和川に合流する、
「廣瀬の河合」の地に鎮座する。

『延喜式』神名式、大和国廣瀬郡五座の一、廣瀬坐和加宇加乃売命神社(ひろせにいますわかうかのめのみことのかみのやしろ)。
廣瀬郡筆頭の神で、名神大社に指定され、祈年祭・月次祭・新嘗祭において朝廷よりの班幣に預かっていた。
主祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)。別名廣瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)。
その名からわかるように食物を司る女神であり(「ウカ」は食物を意味する)、
また大和の地を流れるもろもろの川がこの「廣瀬の河合」で合流することから、水神としての属性も持つ。

国史初見は龍田大社に同じ。この二社はほとんどの場合セットで祭られる。
『延喜式』祝詞式には「廣瀬大忌祭祝詞」が収録され、
「御膳(みけ)持たする若宇加能売命」に、五穀の豊穣と、山から流れ下る「荒き水」が「甘き水」となって作物を成長させることを願う。
この「廣瀬大忌祭」は古来、龍田の「風神祭」と同じ日に行われてきた国家の祭りであり、
風と水の順調による五穀豊穣が古代人の切実な願いだったことがわかる。
それほど重要視された神でありながら、龍田の風神と同じく記紀神話に一切名前が出てこないという不思議な神様である。
(一般には豊受大御神、宇加之御魂神と同体とされてはいる)

鳥居。
川沿いにあり、右隣には会社がある。
左はすぐ小川で、境内地はその間にあって非常に細長い。
鳥居と拝殿。
拝殿前の風景。
拝殿。
周囲は本当に静か。
近くに巣があるのか、蜂が飛んでたけど。
神社は森の中にあるから、
神職さんも参拝者も、
蜂にはよく気をつけないといけない。


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