にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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日本史上に見える最古の道・山の辺の道の周囲には古い神社が多数鎮座。

城上郡:
(天理市南部~桜井市、三輪山南麓)
大神神社 狭井神社 檜原神社 志貴御県坐神社

*城上郡(しきのかみのこおり)

大神(おおみわ)神社。

桜井市三輪
三輪山に鎮座。

『延喜式』神名式、大和国城上郡三十五座の筆頭に記される、大神大物主神社(おほみわのおほものぬしのかみのやしろ)。
「名神」そして「大社」に指定され、祈年祭のほか月次・相嘗・新嘗祭において朝廷の班幣を受けていた。
大和国一宮。
三輪山を神体山として祀るという日本の原初的祭祀形態を伝えており、日本最古の神社のひとつに数えられる。
山そのものが神体であるために本殿は存在せず、参拝者は山麓の拝殿から三輪山を遥拝する。

祭神は、大物主神。
人の目にみえない諸々の畏怖すべき無名の存在、「モノ」を治める大いなる神。
記紀や『出雲国造神賀詞』においては大国主命と同一視され、
『出雲国造神賀詞』においては大己貴命の和魂(にぎみたま)として、
「倭大物主櫛瓺玉命(やまとのおほものぬしくしみかたまのみこと)」と御名を称えている。
『古事記』によれば、
大国主神は少名毘古那神とともに国作りを行っていたが、ある日、少名毘古那神は常世国へと渡ってしまい、
大国主神はパートナーを失って途方に暮れた。その時、

  この時、海を光(て)らして依り来る神があった。
  その神が言うには、
  「わたしをよく鎮め祭れば、わたしは共によく国を作り成すであろう。もうそうしなければ、国が成ることは難しいだろう」
  と言った。
  そこで大国主神が仰せになるには、
  「そうであるなら、鎮め祭る方法はどのようにしたらよいだろうか」
  と仰せになると、答えて言うには、
  「わたしを倭(やまと)の青垣の東の山の上にいつき(斎)奉れ」
  と言った。これは、御諸山の上に坐す神である。

とあり、
『日本書紀』における大己貴神は、本文においては素戔嗚尊が大己貴神を生んだという箇所と国譲りの場面に出てくるのみで、
『古事記』のような国作りの活躍は一切述べられていない。
これは、『日本書紀』が中国の史書でいう「本紀」の体裁であり、基本的に皇室とその統治の歴史しか描かないため。
ただし、これでは国譲りにおける大己貴神の神格が不明瞭となるため、
それを補完するものとして、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬る段には六つの一書(異伝)が収録されており、
その最後の一書第六に、大国主神について述べられている。

  一書にいう。大国主神、または大物主神と申し、または国作大己貴命(くにつくりのおほなむちのみこと)と申し、
  または葦原醜男(あしはらのしこを)と申し、または八千矛神(やちほこのかみ)と申し、または大国玉神(おほくにたまのかみ)と申し、
  または顕国玉神(うつしくにたまのかみ)と申す。その御子はすべて一百八十一神であった。

と語り始められ、すぐに少彦名命との国作りと、少彦名命の常世郷渡りが語られたのち、

  その後、国の中でまだ(国作りが)成らない所は大己貴神がひとりでよく巡り造られ、ついに出雲国に着かれた。
  そこで興言(ことあげ。特別な機会に言霊の力を借りて言い上げること)して仰せになるには、
  「いったい葦原中国はもとより荒れた国であり、磐石(いはほ)や草木に至るまでみなことごとく強暴であった。
  しかしわたしがすでに摧(くだ)き伏せ、服従しないものはいなくなった」
  と仰せになり、こういう次第で、
  「今、この国を治める者はただわたし独りである。わたしと共に天下を治める者はいるだろうか」
  と仰せになった。
  その時、神(あや)しい光が海を照らし、忽然と浮かんでくる神があった。仰せになるには、
  「もしわたしがいなければ、あなたはどうしてよくこの国を平定できたであろうか。
  わたしがいたからこそ、あなたはその国作りの大功を立てることができたのだ」
  と仰せになった。この時、大己貴神は問うて仰せになるには、
  「では、いったいあなたは誰か」
  答えて仰せになるには、
  「わたしはあなたの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)である」
  この時、大己貴神は仰せになって、
  「その通りだ。あなたはわが幸魂・奇魂であることがすぐにわかった。今、どこに住みたいと思うか」
  答えて仰せになるには、
  「わたしは日本国(やまとのくに)の三諸山(みもろやま)に住みたいと思う」
  そこで、宮をその処に造営し、そこに住まわせた。これが大三輪(おほみわ)の神である。
  この神の子は、甘茂君(かものきみ。葛城鴨氏)ら・大三輪君(おほみわのきみ)ら、
  また姫媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと。神武天皇皇后)である。
  あるいはいう、事代主命が八尋熊鰐(やひろくまわに。巨大なサメ)に化して三嶋溝樴姫(みしまみぞくひひめ)に通われ〔あるいは玉櫛姫という〕、
  御子の媛蹈鞴五十鈴姫命をお生みになった。
  これは神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれひこほほでみのすめらみこと。神武天皇)の后である。

と、大物主神は大己貴神自身の幸魂(ラッキー)と奇魂(ワンダー)であるとしている。
この場面、早い話が自問自答であり、なんか「悟りを開いた」的なものを感じさせる。
あるいは、「和魂・荒魂」の別や、和魂をさらに「幸魂・奇魂」に区分し、さらに進んで「ある神の御魂を他所へ分霊」するような思想は、
出雲において生まれたことを示しているのかもしれない。
この神の子孫は葛城地方の豪族であった鴨氏、そして大神神社を掌った三輪氏となり、
また、神武天皇皇后の媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)もこの神、
あるいは事代主神の子とする。
事代主神は大国主神(=大物主神)の御子であるので、さほど矛盾はない。
同書の神武天皇紀では上記の別伝を採用して、姫は事代主命の御子であるとしており、
『古事記』では、美和大物主神が丹塗矢に変じて姫を生ませたとする。

『日本書紀』の国譲りの箇所の一書には、
大己貴神から国を譲られたのち、
経津主神(ふつぬしのかみ。香取大神)は岐神(ふなどのかみ。猿田彦命)を道案内にして国土を平定したが、

  この時に帰順した首魁は、大物主神と事代主神である。
  二柱は八十万神を天高市(あまのたけち。大和の高市地方を上空に投影したもの)に集め、
  率いて天に昇り、その至誠の情を開陳した。
  その時、高皇産霊尊は大物主神に勅して、
  「おまえがもし国つ神を妻とするならば、私はなおおまえが心から服していないと思うだろう。
  よって、今、わが娘の三穂津姫をおまえに娶せ、妻としよう。
  八十万神を率い、永遠に皇孫のため護りお仕え申し上げよ」
  と仰せになり、還り降らせた。
  そこで、紀国の忌部の遠祖・手置帆負神(たおきほおひのかみ)を作笠者(かさぬひ)とし、
  彦狭知神(ひこさしりのかみ。手置帆負神とともに大工・木工の神)を作盾者(たてぬひ)とし、
  天目一箇神(あまのまひとつのかみ。鍛冶神)を作金者(かなだくみ)とし、
  天日鷲神(あまのひわしのかみ。阿波忌部の祖で木綿〔ゆふ〕を掌る)を作木綿者(ゆふつくり)とし、
  櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たますり)とした。
  そして太玉命(ふとたまのみこと。祭祀・祭具の神で、忌部氏の祖)に命じ、
  その弱肩に太手襁を取り掛けて皇孫の代わりにこの神を祭らせたのは、初めてこの時に起こったのである。
  また、天児屋命(あまのこやねのみこと。祭祀・祝詞の神で、中臣氏・藤原氏の祖神)は神事をつかさどる本家であるので、
  太占(ふとまに。鹿の肩甲骨を焼き、そのひび割れにより占う)の卜事(うらこと)をもって仕え奉らせた。

と、大己貴神と大物主神を別個の存在のように描いている伝承もある。
出雲の加茂岩倉遺跡からは銅剣・銅鐸が夥しく出土しており、
北九州から近畿までの広い範囲に出雲の人々や文化が進出していたことがうかがわれるが、
そのうち、大和に住みついていた出雲勢力が朝廷に帰順した時の出来事を示したものか。
この伝承では、大物主神は高天原の司令神・高皇産霊尊の姫神を娶り、
また、その祭祀には朝廷の祭祀氏族の双璧、中臣氏と忌部氏の祖神をはじめ、
朝廷に仕える工匠集団の祖神がそれぞれの職掌の物を作り、
まるで皇孫に仕えるのと同じように大物主神に仕え奉ったとしている。
これは大神神社の祭典、大神祭において朝廷から中臣・忌部を差遣して祭っていたことの起源伝承と思われるが、
大物主神の強大な神威・勢力をも示している。
大神祭はかつては旧暦四月・十二月の上卯日に行われていたが、『日本紀略』元慶四年(880)四月八日条には、

  大神祭のため、灌仏の儀を停止した。神事に重なるためである。

とあり、四月の上卯日が八日であった場合はお釈迦様の誕生日を祝う灌仏会を停止することもあった。
これは、宮中では神事のある時は仏事を忌んでいたためで、
立川の某パンチさんにはうらやましい話であろう。梵天さん等の襲撃やサプライズがないので。

大物主神は大国主神と同体とされる一方、恐ろしい疫病を司る神でもあった。

  崇神天皇の御世、天下に疫病が流行し、死亡する者は人民の過半数に及ぶほどとなった。
  天皇は日々身を慎んで自らの至らぬ事を神祇に謝罪されていたが、
  そのうち、当時は宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和の土地の神霊)の二柱の神を、
  自らと同じ床で殿を共にして祭っているのが失礼にあたるのではないだろうかとお思いになり、
  二柱の神を宮中からお出しして別々に所を定めて祭らせたが、なお災いは止まなかった。
  そこで亀卜の占いを行ったところ、
  神が倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ。孝霊天皇皇女で、大吉備津彦命の姉)に憑り、自分を祭れと教えると、
  自分は「倭国の境の内に居る神、大物主神」と名乗った。
  そこで大物主神を祭らせたが、なお験はなかったので、天皇がさらに神に祈られたところ、夢に大物主神が貴人の姿で現れ、
  「天皇よ、もう愁うることはない。国の治まらないのは、わが心による。もしわが子大田田根子にわたしを祭らせたならば、立ちどころに平らぐであろう」
  と教えた。
  そこで天下に布告して大田田根子を探し出した。彼は大物主神と活玉依媛の子であった。
  天皇は大田田根子を大物主大神の祭主とし、物部氏の祖・伊香色雄に祭祀のものを作らせ、
  大物主神とともに倭大国魂神および八十万群神を祭ったところ、疫病は終息して国内は治まり、
  五穀は豊かに稔って人民は賑わった。
  そのため、翌年四月の乙卯の日に高橋邑(たかはしむら)の活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とし、
  十二月の乙卯の日に神酒をもって大神を祭った。

以上が『日本書紀』崇神天皇紀にみえる大物主神の祟りの伝承であり、
このことから大物主神は疫病を支配する神としての信仰があったことが知られ、
令で規定された国家の恒例祭祀である「四時祭」には、
三月に大神神社とその摂社の狭井神社の二社で「鎮花祭(はなしづめのまつり)」という疫病除けの祭を行うよう規定されている。
また、例祭にあたる大神祭が旧暦四月と十二月の「卯の日」に行われていたのも、上記の伝承に基づく。
神を祭ってもすぐに験がなく、何度も何度も何度も祈ってようやく、というところは非常にリアルで、
実際、諸々の技術が未発達であった上古では、自らの手に余ることはひたすら神に祈るしか手立てがなかっただろう。
もっとも、現在でも人間の手に余ることはいくらでも存在するし、
発達した技術がそれに比例して人間に重大な災いをもたらすことがあるということももはや常識。
また、この頃に神を日常の生活の場から切り離し(聖俗の分離)、
かつ天皇がみずからの祖神のみならず諸豪族の神々をも積極的に祭っていくようになったという祭祀の変化も見て取れるだろうか。
『日本書紀』欽明天皇紀に、物部大連尾輿と中臣連鎌子が、

  我が国家(みかど)の天の下に王(きみ)とましますは、
  恒に天地社稷(あめつちくにいへ)の百八十神(ももあまりやそのかみ)を以ちて春夏秋冬に祭拝(まつ)りたまふことを事とす。 

と上奏した、天皇の第一職掌ともいえる天神地祇祭祀の原型はこの頃できたのだろう。
記紀には、大物主神は「海を照らして寄り来たった神」とあり、
『書紀』の崇神天皇六十五年七月条には「任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した」という初めての外交記事があって、
この時期、海外の祭祀形態を取り入れたということもあっただろうか。

  倭迹迹日百襲姫命はこののち大物主神と神婚した。
  しかし、神は昼には現れず、常に夜に来た。
  姫は大神に語って、その姿をよく見たいと申し上げたところ、大神はそれを了承し、
  「明朝、おまえの櫛笥の中に入っていよう。どうか驚かないでくれ」
  と仰せになった。
  姫は朝になるのを待って櫛笥を開けた。そこには、美しい小蛇が入っていた。その長さ太さは衣の紐のようであった。
  姫は驚いて叫んだ。
  大神は恥じ、たちまち人の姿になると、妻に語って、
  「おまえは我慢できずにわたしに恥をかかせた。今度はわたしがおまえに恥をかかせよう」
  と仰せになり、天空を踏んで三輪山に登って行かれた。
  姫はこれを仰ぎ見て後悔し、どすんと尻餅をついた。そして、箸で陰部を突いて薨去された。
  そこで、大市に葬った。時の人はその墓を名づけて箸墓といった。

以上が『日本書紀』崇神天皇十年九月条にある三輪山神婚伝承で、大物主神は蛇の姿であると考えられていたことがわかる。
『古事記』にも三輪山神婚伝承があるが、ここでは大物主大神と意富多多泥古(大田田根子)の母である活玉依毘売との話になっている。

  河内の美努村(みののむら)の陶津耳(すゑつみみ)の娘・活玉依毘売は端正な容姿であったが、
  そのもとへ神のように美麗な男が夜に訪れてきた。
  心を通い合わせて共に過ごしたところ、ほどなく活玉依毘売は身ごもった。
  父母は怪しんで問い質し、そのことを聞くと、その人の事を知りたいと思った。
  そこで娘に教えて、赤土を床の前に散らし、糸を針に通して男の衣の裾に刺しなさいと言った。
  教えたとおりにして朝見ると、針を付けた糸は戸の鍵穴から出て行っており、残った糸は三勾(みわ。三巻き)だけであった。
  鍵穴から出たということがわかって、糸をたどって尋ねていったところ、美和(三輪)山に至り、神社の所で止まっていた。
  そのため、その神の子であるとわかった。
  その糸が三勾残っていたことにより、その地を美和(みわ)といったのである。
  〔注。この意富多多泥古命は、神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)の祖である〕

平安初期に編まれた『新撰姓氏録』の大和国神別地祇・大神朝臣の項にも、氏族の起源伝承としてこれとほぼ同じ話が収録されている。
こちらでははっきり蛇とは言わないが、「鍵穴を通って出入りした」というところに暗示されている。

また『日本書紀』雄略天皇七年七月条には、

  天皇は少子部連蜾蠃(ちひさこべのむらじ・すがる)に詔して、
  「わたしは三諸岳(みもろのをか。三輪山)の神の姿を見たいと思う
  〔注:ある伝えには、この山の神は大物主神であるという。ある伝えには、宇陀の墨坂神であるという〕。
  おまえは膂力が人に優れている。自ら行って捕らえて来い」
  と仰せになった。
  蜾蠃は答えて、
  「試しに行って捕えてきましょう」
  と申し上げた。
  そこで三諸岳に登り、大蛇を捕らえて天皇にお見せ申し上げた。
  天皇は斎戒なさらなかった。その大蛇は雷音を轟かせ、目は赫々と光り輝いた。
  天皇は畏れられ、目を覆って御覧にならず、殿中に退き隠れられ、大蛇を岳に放たせられた。
  そこで、蜾蠃に改めて名を賜わって雷(いかづち)とした。

とあり、やはり三輪山の神は蛇体であるとされ、これは雄略天皇も畏れるほどの存在であった。
そのことから、神社を掌っていた三輪氏の勢力の大きさもうかがえる。
『日本霊異記』の劈頭を飾るのもこの少子部栖軽(すがる)の話だが、そこでは雷丘で鳴雷神を捕らえる話となっており、
伝承のおおもとは「雷を捕らえた少子部連蜾蠃」で、捕まえた場所にはいろいろバリエーションがあったようだ。
「ミモロヤマ」は「カンナビヤマ」のように神の住む山としての一般名詞であり、
大物主神のミモロヤマがもっとも著名であったことから御諸山=大物主神の鎮座する山、となったが、
この頃にはいろんなミモロヤマがあったと思われ、宇陀の墨坂もその一つだったのだろうか。
墨坂は大和の東の入り口にあたり、坂、つまり境の神。
『書紀』崇神天皇九年三月十五日条に、天皇の御夢に神人が現れて、

 赤盾八枚・赤矛八竿をもって墨坂神を祠(まつ)れ。また黒盾八枚・黒矛八竿をもって大坂神を祠れ。

と教え、四月十六日に墨坂神・大坂神を祭ったという。
大坂神は今の大坂山口神社であって、河内へ抜ける大和の西入口にあたり、これらの「坂=境の神」に盾矛を奉納して祭ったということは、
大和国の境界守護を祈ったものであり、すなわち大和朝廷が大和国を完全に掌握し、外敵に備えたということを示す。


『書紀』神功皇后摂政前紀には、神功皇后が新羅遠征に際して軍勢を召集したが、兵士の集まりが悪かったので、
これは必ずや神の御心であろうと、「大三輪社」を立てて刀矛を奉ったところ、軍衆は自然と集まったという。
また、『釈日本紀』が引く筑前国風土記逸文にもほぼ同じ伝承が記されている。
この社は、『延喜式』神名式に筑前国夜須郡一座、於保奈牟智神社(おほなむちのかみのやしろ)と記される社であり、
現在の福岡県朝倉郡筑前町鎮座の大己貴神社。
『古事記』によれば、大国主命は筑紫の宗像三女神の一、多紀理毘売命を娶って阿遅鉏高日子根神ほかを生んだと記されており、
上古の出雲と筑紫の交流を示しているが、
あるいはすでに出雲から勧請されていたのを、この時に再建したということかもしれない。

『日本書紀』持統天皇六年二月十九日条には、天皇が三月三日に伊勢へ行幸することを決めたことに対して、
中納言・直大弐(従四位上相当)の三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみ・たけちまろ)は上表して行幸が農事の妨げとなることを諌め奉り、
三月三日の出御の日には、自らの冠を脱いで天皇に捧げ(官職返上の意思表示)、重ねて農時の御動座を諌め奉ったことが記されている。
この時は面と向かって直言したと思われるので、決死の覚悟であったろう。
『日本霊異記』上巻「忠臣の欲少なく足るを知り、諸天に感ぜられて報を得、奇しき事を示しし縁第二十五」には高市麻呂の事が語られているが、
そこではこのエピソードに加えて、
「高市麻呂は、旱の時には自分の田の水口を塞がせ、他の多くの人々の田に水を流させたので、
諸天はこれに感じ、龍神が彼の田のみに雨を降らせた」
という話が記されていて、物語の最後には、

  修々たる神(みわ)の氏
  幼年より学を好む
  忠にして仁有り
  潔くして濁ること無し
  民に臨みては恵を流(つた)へ
  水を施さむとして田を塞ぐ
  甘き雨 時に降り
  美しき誉 長(とこしへ)に伝はる

との賛が記されており、彼が一般からの崇敬をも集めていたことがわかる。
これには、天武・持統朝に国家の最高神へと昇格していく皇室の祖神、伊勢の天照大神に対し、
相対的に立場を下げられていくことを良しとしない大和の神々を奉じる土着勢力の対抗意識があった、
という穿った見方もあるが、仮にそういう意識があったとしても、それも大和の民の共感を呼んだことは間違いなく、
そういった諸々の意識が彼を忠・仁の名臣として後世に伝えたのだろう。
なお、持統天皇は高市麻呂の諌めを聞かずに伊勢行幸を強行されたが、行幸のことに携わった人々のその年の調役を免除しており、
壬申の乱において天武天皇方につき、箸墓の戦いなどにおいて大功を挙げた功臣である高市麻呂への配慮があったことがうかがわれる。
高市麻呂は文武天皇の時代に従四位上長門守、そして左京大夫に任じられ、慶雲三年(706)に亡くなり、従三位を追贈された。

大鳥居と三輪山。
駐車場は二の鳥居近辺にあるので、そこまで車で入って行ける。
二の鳥居と参道。

拝殿。本殿はなく、山麓から三輪山を神として拝することになる。拝殿から上は禁足地。
大物主神は蛇の姿で顕現することから、
蛇の好物としてワンカップと卵が多く供えられており、賽銭箱の前にはそのための台がある。
その情景を撮ろうと思ってあとで来たら神職さんに片付けられてしまっていたでござる

拝殿前に立つ神木、「巳の神杉」。
蛇が棲んでいるといわれ、
その根本には大きなうろがある。
江戸時代には「雨降杉」と呼ばれ、
人々は雨乞いの時にはこの杉に集ってお参りしたという。
蛇は水の精であり、
蛇をあらわす「みづち」という語も、
「水(み)の(つ)霊(ち)」という意味。
すでに『延喜式』臨時祭祈雨神祭式にも、
大神社は祈雨神八十五座の内に名を連ねており、
国史にも、祈雨に際して大神社に奉幣したという記事が
何度も見られる。

『日本書紀』によると、大物主神の祟りが治まって国内が平安になった翌年の崇神天皇八年十二月乙卯(二十日)、
崇神天皇は大物主神の祭主・大田田根子に大物主神を祭らせたが、
そのとき、先立つ四月乙卯(十六日)に大神の掌酒(さかびと)に任じられていた高橋邑(たかはしむら)の人、
活日(いくひ)が自ら神酒を天皇に献じて歌った。

このみきは わがみきならず 
やまとなす おほものぬしの かみしみき いくひさ いくひさ

(この神酒は、私が醸造した神酒ではありません。
倭の国〔ここでは大和国一国をさす〕を御造りになった大物主大神の醸造された神酒でございます。幾代までも久しく栄えませ)

そして大神神社にて宴を開き、諸臣は

うまさけ みわのとのの あさとにも いででゆかな みわのとのとを
(〈味酒〉三輪の社殿で夜通し酒宴をして、朝門を開くときにでも出てゆきたいものだ、三輪の社殿の戸を)

と歌い、天皇は、

うまさけ みわのとのの あさとにも おしひらかね みわのとのとを
(〈味酒〉三輪の社殿で夜通し酒宴をして、朝門を開くときにでも押し開くがよい、三輪の社殿の戸を)

と歌われた。

これにより、大神神社は酒の神としても信仰され、また「味酒(うまさけ)」は「三輪」の枕詞になった。
(酒の神としては京都市西京区の松尾大社〔祭神:大山咋神〕も有名)
現在、全国の酒造業者、醸造関係者、販売店等により「酒栄講」という講社が結成され、毎年十一月十四日には、
全国より清酒、蒸留酒、ビール、酢、醤油などが大前に供えられ「醸造安全祈願祭(酒まつり)」が行われる。

北のほうへ。 祈祷殿。平成九年竣工。
「山の辺の道」を北に向かう。 山の辺の道を少し北に進むと鳥居があって上に登る石段があるが、
それを上ったところに鎮座する摂社・活日神社。
『書紀』で大神神社の掌酒となった高橋活日命を祀る。
高橋活日命は史上に見える初の杜氏であり、
杜氏の祖としての信仰を集める。
活日命は大物主神の教えにより一夜で酒を醸したという伝説があり、
この神社は近世には「一夜酒之社」と呼ばれて
近隣には酒蔵があったという。、
現在でも「一夜酒さん」と地元では呼ばれる。
大神神社の南には崇神天皇を祀る「天皇社」が鎮座しており、
大神神社拝殿を頂点とした三角形を形成している。



狭井(さい)神社。

桜井市大字三輪に鎮座
大神神社拝殿前から「山の辺の道」を北に300mほど歩いていったあたり。

大神神社摂社。
『延喜式』神名式、大和国城上郡三十五座の内、狭井坐大神荒魂神社(さゐにいますおほみわのあらみたまのかみのやしろ)五座。
小社指定だが、祈年祭班幣においては、小社への通常の幣帛に加えて鍬・靫が奉られており、
通常の小社よりも格上だった。

大物主神の荒御魂である大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)をはじめとして、
大物主神、
媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと。神武天皇皇后)、
勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと、神武天皇皇后の母。『古事記』では大物主神と神婚した)、
事代主神(大物主神=大国主命の御子神。『書紀』ではこの神が神武天皇皇后の母と神婚する)
の五柱を祀る。

『養老律令』の「神祇令」には、「季春 鎮花祭(すゑのはるは、はなしづめのまつり)」とあり、
旧暦三月には国家の祭りとして「鎮花祭」を行うことが記されている。
「令」のオフィシャル注釈書(勅命により編纂)である「令義解」には、この箇所への注として、

  大神・狭井の二つの祭也。春花飛散の時に在りて、疫神分散して癘(れい。えやみ。疫病のこと)を行ふ。
  其の鎮遏(ちんあつ。しずめること)を為さんとして、始めて此の祭有り。故に鎮花と曰ふ。

と書かれ、花の散る頃に四方へ分散する疫病を鎮めるための祭りであることがわかる。
なぜこの二社で行うかといえば、大物主神は天下の人民を絶滅させるかというほどの疫病を起こし、
また自らを祭らせることでその疫病を鎮め天下に平安をもたらした、という、記紀に見える故事による。
疫病の神は、またそれを鎮める神でもあるのだ。
この疫病、時期的に見て花粉症?と思えなくもないが、
季節の変わり目は体調を崩しやすいし、医学の発達していない昔はなおさらだっただろうから、
そちらから起こった祭りである、と考えておくのが無難か。
この鎮花祭は現在も四月十八日に行われており、
全国の薬業関係者が多数参列し、神前には奉納の薬がずらりと供えられる。

この神社境内からは、原則として禁足地である三輪山への登山道入口があり、
登山希望者はこの神社でお祓いを受けてから山頂まで登山することが可能。
また、拝殿の左手裏には「薬井戸」があり、万病に効くという霊泉が湧き出ている。
お持ち帰りOKであり、多くの人がペットボトルを持参、水を汲んで帰る。

狭井神社鳥居。
写真左端には、なお北へ続く山の辺の道。
鳥居をくぐるとすぐ左手に「鎮女池(しずめいけ)」と朱塗りの小祠。
これは市杵嶋姫神社で、いわゆる宮島さん。
こういうのは、たいていは神仏習合時代に弁才天を祀っていたものが、
明治になって市杵嶋姫神社と名を変えたもの。
習合といっても、「仏教じゃこう呼ぶ、日本の神様としてはこう呼ぶ」
くらいのもので、信仰内容にドラスティックな変化があるわけではない。
弁才天も仏様じゃなくて神様だし。

狭井神社拝殿へ。 拝殿。
こちらは、拝殿の後方に大神荒御魂神を祀る本殿がある。
登山道入口。
三輪山山頂まで登ることが可能。
とはいえ神様の隠れていらっしゃる神域なので、
登山中は慎み深い行動が求められる。

薬井戸。背後に本殿。
傍らに、中で殺菌灯を照射している戸棚があり、
そこからコップを取り出して汲んで飲む。
ペットボトルを持参して汲んで帰ってもよい。
病気平癒に効験あり、とのこと。

檜原(ひばら)神社。

桜井市大字三輪に鎮座。
狭井神社より「山の辺の道」を約1km北に歩いたところ。

大神神社摂社。
崇神天皇の御世、それまで皇居で祀られていた天照大御神が、
皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を御杖代(みつえしろ)として初めて皇居を出ることとなった。
その経緯は『日本書紀』崇神天皇六年条にみえる。

  これより先、天照大神・倭大国魂の二神を同じく天皇の大殿の内に祭っていた。
  しかし、その神の神威を畏れ、共に住まわれることに不安があった。
  そこで、天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫邑に祭り、
  そして磯堅城(しかたき)の神籬を立てた〔神籬は、ここでは比莽呂岐(ひもろき)という〕。
  また、日本大国魂神を渟名城入姫命に託して祭らせた。
  しかし、渟名城入姫命は髪が抜け落ち体が痩せ細り、祭ることができなかった。

当時、天照大神と、大和の国土の神霊である倭大国魂は、並んで天皇の住まわれる殿内で祭られていたが、
その時に疫病が流行って多くの人民が死に、止めようがなかった。
天皇はこれを自らの罪として朝夕神々に祈って謝罪していたが、
そのうち、二柱の神を殿内で祭ることは失礼にあたるのではないかと不安になられた。
その頃大和朝廷は拡張期に入っていて、それまでの宮はわりと素朴だったと思われるが、
この辺りになると宮も大きくなり、人や物も増えて煩雑になって、静かに清らかに神を祭ることができなくなっていたのだろう。
そこで、殿内よりこの二柱の神をお出ししてしかるべき場所に祭ろうということになり、
天照大神は倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)に神籬(ひもろき)を立てて祀られた。
そして、この地がその倭笠縫邑に比定されている。
天照大御神は垂仁天皇の世にその皇女・倭姫命によって笠縫邑から諸国を廻り、ついに伊勢国度会郡の五十鈴川上に鎮座したが、
この地での天照大御神の祭祀も引き継がれて今に至る。つまりここは「元伊勢」。
豊鍬入姫命は「斎王」(いつきのひめみこ、さいおう。天照大御神の祭祀を行う天皇の皇女、あるいは親族の女王)の起源とされる。

神籬とは、現在でも地鎮祭などにみられるような、木組みの囲いの中に榊を立てて木綿(ゆう)などで飾り、神の依代としたものだが、
古代においてはもっと規模が大きく、「八雲立つ出雲八重垣・・・」のように、垣根を造って神域を区切り、その中に神を祭ったものをいう。
「磯堅城(しかたき)」という形容から、それが特に堅固なものであったと想像され、
あるいは現在の伊勢の神宮の御正宮にみられるように、幾重もの垣を築き、その内側には河原石を敷き詰め、
その中央に神の依代として現在の「心御柱」にあたる榊を立てたのだろうか。
『書紀』神功皇后摂政前紀では、伊勢国の五十鈴宮に鎮座する天照大神の荒御魂が

  撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・いつのみたま・あまざかる・むかつひめのみこと)

と名乗っており、「突き立てた榊に霊威ある神霊が天を離れて降る」という神籬祭祀の姿をよくあらわしている。
『書紀』垂仁天皇二十五年条にある異伝には、

  ある伝えにいうには、天皇は倭姫命を御杖として天照大神にたてまつられた。
  これによって倭姫命は天照大神を磯城の厳橿(いつかし)のもとにお鎮め申し上げてお祭りした。

とあり、榊ではなく神聖な樫の木のもとに鎮座させたとしており、「心御柱」の前身として具体的。

祭神は当然、天照大御神。
大神神社から山の辺の道を北へ1.5kmほどてくてくと歩いてゆくと、右手に見えてくる。
山の麓には箸墓古墳があり、さらに平地部には纏向遺跡が広がる。

鳥居。 境内は掃除され、玉砂利はきれいに梳かれており、
非常に清冽な雰囲気の境内。
本殿前。
伊勢の神宮と同じく拝殿がない。
そして、大神神社と同じく「三つ鳥居」を備える。
伊勢式と大神式がミックスした、
ある意味凄い光景といえる。
向かって左手には末社・豊鍬入姫宮が鎮座するが、
現在は修復中。


背後の鳥居からは、
西のかなた二上山を正面に見ることができる。
山の辺の道。
南、大神神社方面。

逆の北側へ進むと、景行天皇陵・崇神天皇陵があり、
ずっと進むと、石上神宮を経てやがて春日へと到る。

志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社。

桜井市金屋に鎮座。
大神神社拝殿前より「山の辺の道」を約400m南へ下ったところ。

『延喜式』神名式、大和国城上郡三十五座の一。
神社の区分は「大」に指定され、祈年祭のほか月次祭・新嘗祭においても朝廷の班幣に預かった。
御県(みあがた)とは朝廷の直轄領、もしくは天皇へ献上する作物を栽培する地のことであり、
『延喜式』祝詞式収録の「祈年祭祝詞」で名前が見える六つの御県の神の中にこの「志貴御県に坐す神」も挙げられていて、
初期大和朝廷において重要な地であったと推定される。
現在の祭神は大己貴神だが、往古は志貴御県を管理した土着の豪族、
志貴県主(しきのあがたぬし)がその祖神を祀っていたとみられている。
また、この地は崇神天皇が宮を置いた「磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)」跡であるともいわれている。

山の辺の道を南に歩いていき、山を下った三輪山の南麓に鎮座する。
現在はひっそりとしたところだが、付近には古代の市として栄えた「海柘榴市(つばいち)」があり、
かつては大いに栄えた地だったのだろう。
見つけにくいのだが、西に天理教、東には喜多美術館があり、それを目印にすればいい。
しかし、天理教の陰になっていてややわかりにくい。

第一鳥居。
左手は天理教。
境内入口鳥居。
境内と拝殿。
夕刻に参拝したため、かなり薄暗い。
境内社。
本殿。 境内には磐座を祀っている。

やや東に行ったところに立っている、
海柘榴市の看板。



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