にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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弥生時代の環濠集落遺跡として知られる唐古・鍵遺跡周辺。
神社の祭神から、職能集団が多く住んでいたと思われる一帯。

城下郡:
(奈良県田原本町、三宅町、川西町)
村屋坐弥冨都比売神社 池坐朝霧黄幡比売神社 岐多志太神社
鏡作坐天照御魂神社 鏡作麻気神社 鏡作伊多神社

*城下郡(しきのしものこおり)

村屋坐弥冨都比売(むらやにいますみふつひめ)神社。

磯城郡田原本町蔵堂に鎮座。
大和川(初瀬川)のほとり、広大な水田地帯のただ中に鎮座している。
近鉄橿原線の田原本町駅と笠縫駅の中間の真東のあたり。

『延喜式』神名式、大和国城下郡十七座の筆頭に記される。
そこでは「村屋坐彌“富”都比賣神社」と記されているが、現在の社名では「富」が「冨」になってるみたい。
大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に加え、相嘗祭においても朝廷の班幣に預かっていた。

主祭神は三穂津姫命(みほつひめのみこと)。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと。高天原の司令神)の姫神で、大和国最大の国津神である大物主神(大神神社祭神)の妻。
『日本書紀』神代巻、第九段一書第二の所伝にこうある。

大己貴神が国譲りを行った後、経津主神(ふつぬしのかみ。いわゆる香取大神)は岐神(ふなどのかみ)とともに葦原中国を平定したが、
そのときに帰順した神々の首魁は大物主神と事代主神であった。
この二神は神々を率いて天に上り、帰順の言葉を述べた。
このとき、高皇産霊尊が大物主神に、
「おまえがもし国津神を妻とすれば、私はなおおまえが心服していないと思うだろう。
だから今、わが娘三穂津姫をおまえに娶わせて妻とさせよう。神々を率いて、永遠に皇孫のために護り申し上げよ」
と言い、地上に還り下らせた。

この伝承は「斎庭之穂神勅」「宝鏡奉斎神勅」ほかが入っていることでよく知られているが、
そのほかの部分では『古事記』でみるような一般的な日本神話とはかなり異なる部分がある。
上のように、大己貴神と大物主神が別の神であるかのように描かれているのもそのひとつで、
ほかにも大己貴神が事代主神に服従の意思を言わせる部分がなく、
経津主神を逆に使者に立てて自ら高皇産霊尊と交渉するなどその国譲りのプロセスも大きく異なる。
また瓊瓊杵尊に拒絶された磐長姫が皇孫あるいはこの世の人間を唾を吐いて呪い短命にする、という場面もある。
それはさておき、主祭神は大物主神の妻で、よってこの神社には大物主神も配祀されている。
そして、その由緒より大神神社の別宮と呼ばれ、縁結び、家内安全の神様として信仰される。
この地方の人々は、正月のとんどにおいて大神神社とこの神社の火を持ち帰って夫婦(みよと)火とし、
それで雑煮を炊いて一年の無事を祈ったという。

『日本書紀』によると、天武天皇元年(670)、壬申の乱において大和の地でも激戦が繰り広げられていたが、
その中、村屋神が祝(はふり。神官)に憑依してこう言った。

  今、吾(あ)が社の中道(なかのみち)より軍衆(いくさびと)将に至りなむとす。
  故(かれ)、宜しく社の中道を防ぐべし。

それから間もなく近江軍が中道からやってきたので、時の人は「神のお教えくださったお言葉はこれである」と言った。
これが国史初見で、このときにはすでに鎮座していた。
正倉院文書のひとつ『天平二年〔730〕十二月二十日大和国正税帳』には「村屋神戸」の項があり、
封戸をもち、一定の収入のある神社であったことがわかる。

この神社のすぐ東には、古代の官道のひとつである「中ツ道」が南北に真っ直ぐ伸びていた。
かつての社域は今より広大であったはずなので、神社の中を中ツ道が走っていただろう。
都が平安京に遷った後は廃れ、さらにこの一帯は水田開発が行われたためにかつての姿はないが、
現在の農道にその痕跡がわずかに認められる。
現在の県道51号線にあたり、ここを真っ直ぐ南下すれば、県道が東に折れたあとも農道が真っ直ぐ南下しており、
神社付近で初瀬川を渡り、神社前の参道をさらに南へ、となる。
壬申の乱においては、上ツ道・中ツ道・下ツ道に軍勢が行き交い、各地で戦いが行われた。
とくに上ツ道で行われた、大和地方での雌雄を決する戦いとなった「箸墓の戦い」がよく知られている。

天正年間、戦火に巻き込まれて社領を失い祭祀が一時中絶したが、
慶長四年(1599)に規模を縮小して再興、今に至るという。
境内には同じく式内社の服部神社、村屋神社、久須須美神社が鎮座する。
これは、戦火を逃れるためなどの理由で時代ごとに遷座してきたもの。
この神社の社叢は、イチイガシを中心に高木層、亜高木層、低木層、草本層が良好なバランスを保って生育しており、
植物生態学上重要、また環境保全上貴重であるとして奈良県の天然記念物に指定されている。
その森ゆえに地元では古くから「森屋の宮」「森屋さん」と呼ばれていた。
イチイガシは田原本町の町木になっている。
社域はそれほど広くないものの、鎮守の森が多様な樹木によりまるで壁のように隙間なく繁っていて、独特の雰囲気をかもし出している。
でも、これでも平成10年の台風で多くの木が倒れてしまったためにずいぶんと境内が明るくなってしまっているらしい。

境内前の二の鳥居前。
両側から覆いかぶさってきている森の繁りっぷりが凄い。
参道。
燈篭が整然と並んでいる。
拝殿。
境内の様子。 境内入口から一の鳥居を見る。

池坐朝霧黄幡比売(いけにいますあさぎりきはたひめ)神社。

磯城郡田原本町法貴寺に鎮座。
唐子・鍵遺跡の東、大和川(初瀬川)のほとりに鎮座している。

『延喜式』神名式、大和国城下郡十七座の一。
大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭に加え、相嘗祭においても朝廷の班幣に預かっていた。
古写本の中には「池坐朝霧“横”幡比売神社」とするものがある。

推古天皇二十四年(615)、聖徳太子が創建した法貴寺(元の名は法起寺)を秦河勝に賜ったが、
秦氏がすぐ南の地でその氏神を祀っていたのがこの神社。
秦氏は秦始皇帝の子孫を称した帰化人集団で機織・酒造などの技術を持っており、この地方をはじめ各地に在住した。
社名の神名からも、彼らが機織の神を奉じていたことがうかがえる。
現在は、祭神は高皇産霊尊の姫神で、機織の神であり皇孫瓊瓊杵尊の母神である天萬栲幡千々比賣命とされる。
『正倉院文書』のひとつ「天平二年十二月二十日大和国正税帳」(730)には「池神戸」の名が見え、神戸をもつ神社だった。
『令集解』天神地祇令条の『釈記』引用によれば、池首(いけのおびと)が神社の祭祀を掌っていたらしい。
のち天慶九年(946)九月十二日、北野天満宮より菅原道真公を勧請して配祀。
中世以降は法貴寺とともに在郷の豪族である長谷川氏に信仰され、天神信仰のほうが主となり、
「大和国長谷川法貴寺天満天神」と表記されるなど、「天満宮」として栄えた。
明治になってから社名が『延喜式』に基づき旧に復され、今に至る。

かつては社の裏手、東側に池があったことから「池坐」の名がついていたが、現存しない。
現在は神社の東側に大和川(初瀬川)が流れているが、元々は神社の南で直角に西に折れ、
さらに神社の西で北へ直角に折れて流れていた。
しかし昭和57年の台風10号による洪水でこの地方が大きな被害を蒙ったため、
蔵堂地区から八田地区の3.5km区間の流路変更工事を行い、現在の直線的な流路に改修されている。
そのため、池は大和川の流路に入ったことで消滅した。
旧流路は、yahoo!地図の写真で見ればその跡が確認できるだろう。

正面鳥居。川を背に、西向きに鎮座する。
「天満宮」の燈篭があり、天満宮としての信仰が大きかったことがわかる。
参道。 左手(北方)には、山門と鐘楼がある。
鐘楼に鐘はない。
門の向こうが法貴寺境内となる。
拝殿正面。「天満宮」の額がかかる。
境内には数多くの末社が鎮座している。
山門の向こうは法貴寺境内。
現在は小さなお堂が残るのみで、
周囲は民家となっている。

法貴寺・千万院薬師堂。

法貴寺は真言律宗の寺院で、かつては十三の院を構える壮大な寺院だったが、
時の流れとともに次第に衰微、江戸期には千万院と実相院だけとなり、
明治初年の神仏分離にともなう廃仏毀釈運動によってこの千万院のみとなった。
現在、ほかに残っている施設は山門と鐘楼。
飛鳥時代創建の古寺であることから時代ごとに仏像が造られており、
不動明王立像(平安時代・国重文)、薬師如来坐像(鎌倉時代・国重文)、
聖徳太子像(南北朝時代)、薬師如来坐像(室町時代)などの像が祀られている。

 


岐多志太(きたした)神社。

磯城郡田原本町伊与戸に鎮座。
村屋・池神社の中間あたりの水田地帯のただ中に鎮座している。

『延喜式』神名式、大和国城下郡十七座のうちの二座。
ともに小社で、祈年祭班幣にあたっては小社規定の幣帛に加え鍬・靫が奉られていた。

創祀・由緒は不明で、中世には社地不明となる。
明治になって社地の比定が行われていった際、この地の天神社が岐多志太神社であると定められた。
現在は天児屋命・天香山命の二座を祀っている。
経緯はともかく、この神社が古くからこの地の人々が奉斎してきた神様であることは間違いない。

神社遠景。西の農道より。

鏡作坐天照御魂(かがみつくりにいますあまてるみたま)神社。

磯城郡田原本町八尾に鎮座。
唐子・鍵遺跡の南西、近鉄・田原本駅の北東、寺川の西岸。

『延喜式』神名式、大和国城下郡十七座の一。
大社で、祈年祭・月次祭・新嘗祭において朝廷の班幣に預かっていた。
正倉院文書のひとつ『天平二年〔730〕十二月二十日大和国正税帳』には「鏡作神戸」の項があり、
『新抄格勅符抄』によれば十八戸の神戸を持ち、大和国に二戸、そしてはるか伊豆国に十六戸を持っていた。
伊豆国田方郡には鏡作郷があり、ここがそうではないかといわれている。

この一帯は『和名抄』によれば「鏡作郷」という地で、鏡製作を生業として朝廷に仕えた集団・鏡作部が住んでいたところ。
『古語拾遺』には、

その昔、天皇とその祀る神々は同殿共床であり、神財と官物の区別もなかった。
しかし磯城瑞垣朝(しきのみづがきのみかど。崇神天皇治世)、ようやく神威を畏んで天照大神を別の地に祀ることになった。
そのため忌部氏に命じて、石凝姥命(いしこりどめのみこと)の末裔と天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の末裔にそれぞれ新たに鏡と剣を造らせ、
天皇の護身(みまもり)の御璽(みしるし)とした。
これは今、践祚(皇位継承)の日に奉る神璽の剣鏡である。
天照大神は倭の笠縫邑に祀られることとなり、磯城神籬(しきのひもろき)を立て、
天照大神(八咫鏡のこと)と草薙剣を遷し奉って、皇女・豊鍬入姫命に斎(いつ)き奉らしめた。

という伝承が記されており、崇神天皇の世、皇居を出た天照大神の神体・八咫鏡と草薙剣の代わりの鏡と剣が作られたとされ、
そのうちの鏡がこの地で作られたといわれている。
この鏡は天照大神の形代、また皇位継承のしるし、つまり三種の神器の一(『古語拾遺』が書かれた時代は剣・鏡の二種だったようだが)
として代々伝わり、現在も皇居の賢所に祀られている。
石凝姥命は天岩屋戸神話において八咫鏡を鋳造した女神で、鏡作部の祖。
異伝ではその父神・天糠戸(あめのぬかと)が作ったとするが、いずれにせよ、
鏡作部は祖神が天照大神の姿を象った八咫鏡(鏡は太陽の象徴)を鋳造したことを由緒とし、代々鏡作りを職責としていた。

現在の祭神は天照國照彦天火明命(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)、石凝姥命、天児屋根命。
崇神天皇の世に八咫鏡の代わりの鏡を鋳造する際、試鋳にて造られた鏡を天火明命の神体とし、主祭神として祀っている。
そして一族の祖神・石凝姥命と、中臣氏・藤原氏の祖神である祝詞奏上を司る神・天児屋根命をあわせ祀る。
『奈良県磯城郡誌』では祭神は「天照大神御魂・麻気神(天糠戸命)・伊多神(石凝姥命)」であり、祭神の異動があったようだ。
由緒からするとこちらのほうがわかりやすいが、いろいろと理由があったんだろうか。
近隣に「鏡作麻気神社」「鏡作伊多神社」と「鏡作」を冠する二社が鎮座しており、あわせて「鏡作三所大明神」と呼ばれている。
往古は、三社にそれぞれ天照御魂神・天糠戸命・石凝姥命が一柱ずつ祀られていたのだろう。

天照國照彦天火明命は、『日本書紀』によれば瓊瓊杵尊と鹿葦津姫(木花開耶姫)の間に生まれた御子神で、
火闌降命(ほのすそりのみこと。海幸彦)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと。山幸彦)の兄弟。
尾張連の祖であり、その神名から男性の太陽神とみられる。
また『書紀』の一書の異伝のうち、天火明命を瓊瓊杵尊の兄と記すものがふたつあり、
『先代旧事本紀』はその伝承を採用した上で、天火明命を物部氏の祖神・饒速日命と同一の神であるとしている。
これは、平安期には衰微していた物部系氏族が自らの出自を潤色し、
物部氏の独自伝承に『日本書紀』『古事記』『古語拾遺』の文をミックスして聖徳太子・蘇我馬子撰に仮託した『先代旧事本紀』を作り上げ、
氏族の由緒を記す『新撰姓氏録』編纂にあたって提出したか、あるいはその内容に反発したものではないかといわれている。
(饒速日命は瓊瓊杵尊とは別に独自に天下った神であり、『日本書紀』にもそれが明記されているにもかかわらず、
『新撰姓氏録』においては「神別・天孫」ではなく「神別・天神」の項に入れられている)
「天照御魂神社」は近畿地方にのみみられる社号で、尾張氏やその支族の分布地において祀られている。
「天照國照」という称辞は「天に照り輝き、地上に照り輝いておいでになる」という意味で、
神の威光をたたえたものであって、そのまま太陽神であることを意味しない。
でなければ、「天照大神」は「天は照らすが、国は照らさない神」ということになり、火明命より劣ることになってしまう。
「天照国照」とは、「天上においても地上においても素晴らしい神様」ということであり、
天上から地上に降臨した、あるいはその逆である神であることを示している。

正面鳥居前。
旧官幣社か国幣社かという堂々たる構えをしている(実際は旧県社)。
戦前は国幣社入りを目指していたようなので、そのときに整備されたものか。
広い参道。 拝殿。
本殿三座。
『延喜式』では一座として扱われているので、
中世のどこかの時点で鏡作麻気・伊多の神を配祀して増えたのだろうか。



鏡作麻気(かがみつくりまけ)神社。

磯城郡田原本町小阪に鎮座。
鏡作天照御魂神社の東、ほぼ国道24号線に面したところに鎮座する。
ただ、社域は狭く、周囲は民家や会社(旭食品)に囲まれ、国道からも畑ひとつ隔てているため、かなりわかりにくい。

『延喜式』神名式、大和国城下郡十七座の一。小社。
『新抄格勅符抄』によれば一戸の神戸をなぜか丹波国に持っていた。

祭神は天麻比止都禰命(あまのまひとつねのみこと)とする。
諸史料は天麻比止都禰命か天糠戸命かで半々といったところ。
江戸期には鏡作天照御魂神社の主祭神が天糠戸命と考えられていたらしく、そこでこちらに天麻比止都禰命がお呼ばれされたようだ。
天麻比止都禰命は、『日本書紀』には天目一箇神(あまのまひとつのかみ)と記されており、
天照大神の五男神の第三とされる天津彦根命の御子で、鍛冶の神。
『古語拾遺』では天目一箇神は天岩屋戸神話において刀・斧・鉄鐸を作り、
崇神天皇御代に天目一箇神の後裔は草薙剣の代わりとなる剣を造っており、本来鏡とは関係ない。
が、天目一箇神と石凝姥命は並んで記されることが多いので、ここにいらっしゃってもそれほど場違いではない。
社名とは矛盾するけど。
社名の「まけ」は、鏡を磨くことを意味する言葉らしい。

時代が下ると神仏習合し、境内には観音堂・薬師堂・庫裏が建てられていたが、
現在は薬師堂はなく、観音堂と庫裏(現在は社務所?)が残っている。
明治の神仏判然令では、神社から仏教的要素は排さなければならなかったから(寺院に神社があるのはそのままでかまわない)、
その時は柵でも作って分けていたんだろうか。

鳥居前。
すぐ左には池がある。
観音堂。本尊は十一面観音菩薩。
神宮寺で、江戸時代には大和三十三ヶ所の三十一番札所だった。
奥の建物は、もとは庫裏だったもの。
境内には、写真右外のほうに薬師堂もあった(現存せず)。
江戸時代には現在の規模の社地になっていたようだ。
拝殿、本殿。



鏡作伊多(かがみつくりいた)神社。

鏡作伊多神社には論社が二社あり、
磯城郡田原本町保津と、
磯城郡田原本町宮古の、
距離200m足らずのところに近接して鎮座している。
鏡作坐天照御魂神社の南西。

『延喜式』神名式、大和国城下郡十七座の一。小社。
「いた」は「板」で、鏡を板状に鋳造することをいうようだ。
祭神は石許利止売命(いしこりどめのみこと)。鏡作部の祖神を祀る。
各資料はすべて祭神・石許利止売命で一致している。
鏡作三所一帯の生活圏に鏡作部が居住し、鏡を作っていたのだろう。

論社二社のうち、南の保津の神社は物部系の保津氏が居住していた環濠集落の中に鎮座し、
北の宮古の神社は池の側に鎮座している。

写真は、時間の都合上宮古のほうのみ。

境内入口。
境内。社殿は簡素そのもの。 宮古池。
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