にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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大和国:

高市郡(明日香村、高取町、橿原市南部、大和高田市南端部)

いわゆる「飛鳥」の地。
「飛鳥」を「あすか」と読むのはなぜかというと、
もともと「あすか」という地の枕詞が「飛ぶ鳥の」であり、「飛鳥明日香(とぶとりのあすか)」と言っていたのを、
両者は一体といっていいものであったため、そのうち枕詞の「飛鳥」を直接「あすか」と読むようになっていったもの。

河俣神社 古宮遺跡 豊浦寺跡 甘樫坐神社 飛鳥寺
飛鳥坐神社 酒船石遺跡

河俣(かわまた)神社。

橿原市雲梯(うなて)町に鎮座。
曽我川東岸、田園地帯の中。

『延喜式』神名式、大和国高市郡五十四座の筆頭、
高市御縣坐鴨事代主神社(たけちのみあがたにいますかものことしろぬしのかみのやしろ)に比定される神社。
大社指定がなされ、祈年・月次・新嘗祭にあたって朝廷よりの班幣に預かっていた。
祭神は、大国主神の御子神で、託宣を司る事代主神。
「鴨」という名が冠せられているように、葛城地方の古豪・鴨氏が奉斎する神だった。
『延喜式』祝詞式に収録の「出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこかむよごと)」には、

 乃(すなは)ち大穴持命(おおあなもちのみこと。大国主命のこと)の申し給はく、
 皇御孫命(すめみまのみこと。皇孫・瓊瓊杵尊、あるいはその子孫である代々の天皇)の静まり坐さむ大倭国(おほやまとのくに)と申して、(中略)
 事代主命の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ま)せ、(中略)皇御孫命の近き守り神と貢(たてまつ)り置きて・・・


と、大国主命が天皇の近辺守護のために大和国に置いた神々のうちの一柱とされ、
「宇奈提(うなて)」に鎮座させた、としている。
「うなて」とは田の灌漑用に掘られた溝のことを指す言葉で、
当時、曽我川から引かれた溝が通っていたことからこの地名がついたのだろう。
現在の地名も「うなて」となっている。
「御縣」とは、大和朝廷の直轄地、もしくは天皇へ献上する作物を栽培する地とみられており、
高市郡にあった御縣「高市御縣」の中に鎮座する「鴨事代主神社」、というのが社号の意味するところ。

『万葉集』に、

  真鳥(まとり)住む 卯名手(うなて)の神社(もり)の 菅の根を 衣(きぬ)に書付け 服(き)せむ児もがも (巻第七、寄草、1344)
    (〔真鳥住む〕卯名手の神社の森の菅の根を衣に書き付けて着せる女性がほしいものだ)

  想はぬを 想ふと云はば 真鳥住む 卯名手の社(もり)の 神し知らさむ (巻第十二、3100)
    (想ってもいないのに想っていると嘘を言っても、
       〔真鳥住む〕卯名手の社の神〔託宣、言葉を司る事代主神〕はきっとお知りになる〔そして、神罰を下される〕でしょう)

と歌われているのがこの神社のことであるとされる。
この神社をあらわすのに「うなてのもり」と呼ぶこと、また、「真鳥(立派な鳥。鷲や鷹など)住む」という句が枕詞になっているように、
往古は鷲や鷹が住むほどの深い森を有していたと思われる。
また、「もり」という和語を表すのに「森」ではなく「神社」「社」という漢語を用いていることから、
古代人にとっては神社と森とが不可分のものであったことがうかがえる。

『日本書紀』天武天皇元年七月条に、壬申の乱(672年)において大伴吹負を中心とする大海人皇子方の軍が飛鳥古京を制したころ、
高市縣主(たけちのあがたぬし)の許梅(こめ)という者が急に言葉が喋れなくなり、三日の後に神憑かりになって、
「吾は高市社(たけちのやしろ)に居る、名は事代主神。
又、牟狭社(むさのやしろ。式内大社、牟佐坐神社。橿原市見瀬町)に居る、名は生霊神(いくたまのかみ)なり」
「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと、神武天皇)の陵(みささぎ)に馬及び種々(くさぐさ)の兵器(つはもの)を奉れ」
「吾は皇御孫命(すめみまのみこと。ここでは大海人皇子)の前後(みさきあと)に立ちて、不破に送り奉りて還りき。
今且(また)官軍(みいくさ)の中に立ちて守護(まも)りまつる」
「西道(にしのみち)より軍衆(いくさびと)将に至りなむとす。宜しく慎むべし」
と言って目覚めた、という記事があり、これが国史初見。
大神神社をはじめとして大和国の有力な神社は大海人皇子に味方していたようで、
おそらく天智天皇の近江京遷都について忸怩たる思いを持っていたのだろう。
六国史の最後『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条の神階授与記事で、
大神神社、大和神社、石上神宮、高鴨神社などとともに従一位を授けられたと記され、これが国史に見える最後。
古くはこれらの神社に比肩する重要な神社だった。

現在、社域は社殿周辺のわずかな土地に縮小しており、かつて「真鳥住む卯名手の社」と呼ばれた面影はないが、
曽我川とそのそばに広がる水田地帯に、かつての姿を想像することはできるだろう。
住吉大社には、祈年祭と新嘗祭に用いる土器を作るための埴土を畝傍山口神社(畝傍山頂)で採取する埴取(はにとり)の神事があるが
(ちなみに昔は天香久山の埴土を採取しており『住吉大社神代記』にもその記述があるが、のちに畝傍山に改められた)、
そのとき参向する神職がこの神社で装束を整える例となっており、「装束の宮」と呼ばれているとのこと。

参道入口。
すぐ右は曽我川。涼しい風が吹き渡る。

参道。 拝殿。
結構激しい雨が降ったあとの雨上がりで、
境内が水浸しだったのがちょっと残念だった。

古宮遺跡(小墾田宮推定地)。

橿原市飛鳥村豊浦。
豊浦駐車場のすぐ北、甘樫丘の北麓平地部分。橿原市和田町に接する所にある。
(マーカーは「古宮土壇」の位置。ここは和田町の区域内になる)

恒久的な都城である藤原京ができるまでは、天皇は代替わりごとに新しい宮を造営してお住まいになっていたが、
小墾田宮(をはりたのみや)は推古天皇がお住まいであった宮。
奈良時代に「推古天皇」という漢風諡号が贈られるまでは、
この天皇は豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)と呼ばれていたが、長いので、
宮の名を取って小墾田天皇(をはりたのすめらみこと。小治田天皇とも表記)と呼ぶことが多かった。
古代においては、天皇を「宮(地)の名+(御宇)+天皇」で表記することが多く、それで充分区別が出来ていた。

現在、目につくのは土壇のみで、一本の木がその目印となっている。
土壇の南からは7世紀前半の小池と石敷が発掘されており、当時の庭園跡であったとみられている。
また、駐車場の敷地からは7世紀全般にわたる建物群の遺構が発掘され、広範囲の遺跡であったと推定されている。
ただ、近年の発掘では、飛鳥川を挟んで東にある雷丘東方遺跡において「小治田宮」と記された奈良時代の土器が数多く出土しており、
少なくとも当時の小墾田宮は雷丘東方遺跡であると判明した。
天皇の宮は、代替わりすると打ち棄てられるのではなく、行宮、仮宮や倉庫などの用途で修造されながら存続していた。
飛鳥時代の小墾田宮も同じ位置、あるいはそう遠くない位置にあったと考えられるので、
現在、古宮遺跡はこの地域に居を構えていた蘇我氏に関わる庭園跡ではないかという説が有力となっている。

駐車場より、土壇。
田んぼのただ中にある。
駐車場。

豊浦寺(とゆらでら)跡。

高市郡明日香村豊浦。甘樫丘の北麓。

宣化天皇・欽明天皇の世に大臣として国政に参与した蘇我宿禰稲目の邸宅であり、
仏法が日本で初めて公に祀られた場所。また、豊浦宮跡ともされる。

日本書紀』欽明天皇十三年(552)十月条に仏法公伝の模様が記されている。(要約)

  百済聖明王が釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干巻を献じ、上表文にて仏法の妙法なることを説いた。
  天皇はこれをお聞きになって喜ばれたが、独断は避けられ、群臣一人一人に仏を礼拝するかどうかとお訊ねになった。
  蘇我稲目宿禰は、「西蕃諸国がすべて信仰しているのに、どうして日本だけそれに逆らうことがありましょうか」と上奏した。
  物部大連尾輿と中臣連鎌子は上奏して、
  「この国の天下に王としてましますのは天神地祇を春夏秋冬に拝み祭ることを事としているためであり、
  ここに改めて蕃神(となりつくにのかみ。異国の神)を拝めば、国神の怒りを被るでしょう」と申し上げた。
  天皇は希望する人に信仰させようと仰せになり、稲目宿禰に試しに拝ませた。
  大臣は仏像等を受けて喜び、家に安置して、一心に出世の業を修めるよすがとし、向原(むくはら)の家を寺とした。
  そののち国に疫病が流行して手がつけられなくなった。物部大連尾輿と中臣連鎌子は上奏して、仏像の遺棄を献言した。
  天皇はそのとおりにさせ、仏像は難波の堀江に流され、伽藍を焼いた。その時、天に風雲もないのに大殿に火災が起こった。

初めて仏様を拝んだ内容が「出世の業」のためとはいきなり現世利益的・・・じゃなくて、
ここでの「出世」とは「世を出る、俗世間を離れる」意味。
現在、この地には浄土真宗の向原寺(こうげんじ)が建っているが、かつてはこの地に蘇我稲目の向原の邸宅があり、
一時期寺に改修されていたがすぐに焼かれてしまった。
その後、推古天皇の即位(593)に際し、この邸宅は宮に改修されて即位式が行われ、
新宮である小墾田宮が完成(推古天皇十一年、603)するまでの間、天皇はここにお住まいになった。
天皇が新宮に遷られると、この宮は寺に改修されて豊浦寺となった。
日本での仏教流布の初めには尼が多く、この豊浦寺も尼寺であった。
仏法の輸入元の百済では寺院と尼寺が近接して互いに行事を共にする形式が主流であり、それに従って、
この豊浦寺に対応する寺院として飛鳥寺(法興寺、元興寺)が建てられたと、『元興寺縁起』は記している。
ただ、出土する瓦は飛鳥寺と同時期もしくはそれより時代が下るものであり、完成したのは飛鳥寺より後であったとみられている。
『日本書紀』の舒明天皇即位前紀には、
推古天皇崩御後に田村皇子(舒明天皇)と山背大兄王(聖徳太子の御子)のどちらを皇位にお即け申し上げるべきか諸臣がゴタゴタしていた時、
山背大兄王が蘇我蝦夷大臣の使者から「『推古天皇の遺詔』によって群臣が田村皇子が皇位につかれるべきであると言っている」と聞き、
その「遺詔」の内容を聞いたうえで、「それは実際に自分が聞いた内容とは違う」と言って長々と弁じるくだりで、

 自分はかつて叔父(蘇我蝦夷)の病を見舞おうと思って京(みやこ。ここでは飛鳥)に行き、豊浦寺にいたことがある。

と発言しており、これが国史初見。
これは628年の事であり、山背大兄王による過去の回想の言であるので、
これ以前には完成していたか、少なくとも人が居住できるまでには出来上がっていたと考えられる。

『日本書紀』には、敏達天皇十三年(584)に仏像が百済からもたらされた時、
蘇我馬子はそれを請い受け、播磨国の還俗していた高麗人の恵便を師とし、
鞍作村主司馬達等(くらつくりのすぐり・しばたっと)の娘、11歳の嶋(しま)を出家させて善信尼(ぜんしんに)と呼び、
ほかに二人の女性も出家させ、三人の尼を崇め尊んだ、と記されている。
日本初の出家者は尼さんだった。しかし11歳の女の子を出家させて崇め尊ぶとか、馬子さんの趣味か。
それとも、「大物忌」のような神に仕える童女になぞらえたのだろうか。
蘇我氏は崇仏派ではあるが神祇崇拝の心も篤く、
欽明天皇十六年(555)、百済の聖明王が新羅との戦で戦死し、百済王子が日本にその旨を上奏した時、蘇我稲目は王子に対して、

  「昔、雄略天皇の御世に百済が高句麗に攻められて危機に陥った時、天皇は神を招請し、行って百済を救われた(雄略天皇21年)。
  その神とは、天地が開けた時、草木が物を言っていた時に、天降られて国を造り建てられた神である
  (経津主神あるいは武甕槌神のことか。『常陸国風土記』信太郡条・鹿島郡条に類似表現あり)。
  聞くところによると、あなたの国ではその神を祭っていないという。今、前過を悔いて神の宮を修理し、神霊をお祭りすれば、
  国は栄えるであろう。あなたはこれを決して忘れてはならない」

と教えた、と『日本書紀』に記されている。
当時、仏法の仏は「蕃神」つまり「異国の神」という認識であり、それを祀るにも当時の日本の神祭りの方式に従ったのだろうか。
善信尼ら三人は翌年、物部守屋大連の廃仏運動によって法衣を剥ぎ取られ、海石榴市の駅舎で鞭打ちの刑に処されたが、
間もなく馬子のもとに返された。守屋さんも女の子裸にして鞭打つとかドSすぎ。
その後、善信尼は自ら望んで百済に仏法を学びに行き、崇峻天皇三年(590)に帰国して桜井寺に住み、
この年に十一人の尼を出家させ、仏法の興隆に大いに寄与した。
桜井寺とは豊浦寺の前身ともいわれるが、善信尼帰国三年後の593年に推古天皇が豊浦宮にて即位、
その十年後に小墾田宮へ遷られるまで住まわれており、豊浦寺は豊浦宮の跡地に建てられたと考えられているので、
桜井寺と豊浦寺の関係についてはなお不明。
当地は甘樫丘北麓下の狭い区域で、しかも人家が密集していて発掘は難しい状況であり、
それが明らかになるにはなお時間が必要か。

天武天皇の崩御(686年)に際して無遮大会が五寺で設けられたが、
それは「大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田」において行われたと『日本書紀』には記されており、
朝廷からも飛鳥寺とともに庇護を受けていた寺院だった。
発掘結果より、この地には豊浦宮があり、その後7世紀初頭に豊浦寺が建立され、
豊浦寺はその後平安末期に創建当時の堂宇が廃亡、鎌倉初期にその跡地に床張仏堂が建てられ、
その建物は室町時代後半に火災で焼失したことがわかっている。
その後、江戸時代になって向原寺が建てられた。
この遺構は向原寺によって公開されており、見学可能。
江戸時代、向原寺近隣の難波池から金銅観音菩薩の頭部が発見され、向原寺では体を補修し厨子に入れて寺宝として祀っていたが、
昭和49年(1974)に盗難に遭い、以後長く行方不明だった。
しかし平成二十二年、オークションに出品されていたところを発見され(厨子は失われていた)、
奈良文化財研究所に一時預かりの後、寺に返還されている。
この頭部は、様式的に飛鳥時代のものとみられている。

解説板。
後方の寺が太子山向原寺。

甘樫坐(あまかしにいます)神社。

高市郡明日香村豊浦、甘樫丘北鹿、豊浦寺跡である向原寺のすぐ裏に鎮座している。

『延喜式』神名式、大和国高市郡五十四座のうち、甘樫坐神社四座。
四座とも名神大で、月次・新嘗祭だけではなく、相嘗祭においても朝廷の班幣があった、
古代においては重要な神社だった。
『延喜式』四時祭式祈年祭条では大和各地の山口神社とともに列記されており、山(丘)の神とみなされていたことがわかる。

『日本書紀』允恭天皇四年九月二十八日条に、このような記事がある。

  諸氏姓の人を斎戒沐浴させ盟神探湯(くがたち)させられた。
  味橿丘(うまかしのをか)の辞禍戸岬(ことまがとさき)に探湯瓮(くかべ)を据え、諸人を引いていき、
  「実を言うならばなんともなく、偽る者は必ず火傷する」と言った
  〔泥を釜に入れて煮沸かし、手をかかげて湯の泥を探ったとも、あるいは斧を火の色に焼いて掌に置いたともいう〕。
  諸人は木綿襷(ゆふたすき)を着けて釜に赴き探湯した。
  実を言う者はなんともなく、実を言わない者はみな火傷したので、ことさら偽る者は愕然として退き、釜に進まなかった。
  これより後、氏姓は定まり、偽る人はいなくなった。

当時、諸氏族は数多くの支族に分かれて乱立し、てんでばらばらに出自を飾って氏姓の乱れが激しかった。
そこで天皇はこれを正そうとされ、味橿丘、つまり現在の甘樫丘の岬(先端部分)で盟神探湯を行わせた、といい、
それがこの神社において行われた、ともいう。
手荒い方法だが、いつわりを除き事を正すにはこれくらいの拷問まがいの事をしなければならなかったのだろう。
「実を言う者はなんともなく・・・」とあるが、実際は「手の爛れを我慢できるか、できないか」ではなかっただろうか。
西洋の話だが、リウィウスの『ローマ建国史』には、
捕虜になって火あぶりをちらつかされ脅されるも、「男らしく振舞い、男らしく耐える」という「ローマの流儀」を見せるため、
自ら右手を祭壇の火に突っ込んで平然と焼け焦げるに任せ、
敵の王の度肝を抜いたというガイウス・ムキウス・スカエウォラの伝承が記されている。
わが国でも、たとえば大伴氏と佐伯氏はその家訓に、
「海行かば、水漬く屍、山行かば、草むす屍、大王の、辺にこそ死なめ、かへりみはせじ(あるいは、『のどには死なじ』)」
(海を行くならば水に浮かぶ屍として、山を行くならば草生す屍として、大王のおそばでこそ死のう、顧みることはしない
〔あるいは、「のどかな死を迎えることはない」〕)
という、天皇の近衛として身命を懸け代々仕えてきた強烈な自負を伝えていたことが、
東大寺大仏建立時、陸奥国で金が出た時に発せられた聖武天皇の詔(『続日本紀』収録)や、
それを承って感動した大伴家持が歌った長歌(『万葉集』収録)から知られる。
これほどの氏族の誇りを守るためならば、腕の一本くらい惜しくはないという人間もいただろう。

現在の主祭神は推古天皇で、
相殿に八幡宮・春日大明神・天照皇大神のいわゆる「三社託宣」の神々、そして八咫烏神・住吉大明神・熊野権現を祀る。
すぐそばには天皇のお住まいであった豊浦宮がかつて存在していたことからだろう。
ただ、これは近世からのことで、『延喜式』神名式では祭神を「四座」と記しており、
中世の文献『五郡神社記』には祭神を「八十禍日神・大禍日神・神直日神・大直日神」の四座としている。
八十禍日神・大禍日神は禍をもたらす神、神直日神・大直日神はその禍を良い方向へと直す神であり、
『古事記』において、黄泉国から帰ってきた伊耶那岐命が身のけがれを清めるために禊を行った時に現れた神々。
『日本書紀』には、盟神探湯を「味橿丘の辞禍戸岬」で行ったと記しているので、
おそらくはこの四柱が当初の祭神であったと考えられている。
後世、著名な神様が次々に勧請されてきたために元の祭神が隅に追いやられ、そのうち忘れられたのだろう。
中世には「湯起請の神」と通称されており、湯をもって祈願や誓いを立てる神事があったらしい。
近代になると政府により各地の特殊神事は俗信であるとして切り捨てられていったが、この社では戦後、盟神探湯神事が復興されている。
もちろん、熱湯に手を突っ込むという無茶なものではなく、湯の煮える釜の中に参列者がそれぞれ笹を浸し、
その笹でわが身を祓い清めるという、いわゆる「湯立神事」の一形態となっている。

神社の創祀は武内宿禰(たけうちのすくね)によると伝えられている。
これは『日本書紀』応神天皇九年四月条に、
弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)に讒言された武内宿禰が潔白を述べて弟と対立した時、
天皇は勅して、神祇に祈請し磯城川のほとりで探湯(くがたち)をさせ、その結果武内宿禰が勝ったとする記事にもとづくのだろう。
応神天皇はこの神社の西1.4kmほどの軽(かる)の地にあった軽嶋豊明宮(橿原市大軽町)にお住まいであったので、
そこからほど近いこの地に、武内宿禰が盟神探湯の神を報賽のため祀ったというのも大いにありそうなことと思われる。

盟神探湯についてはまた、『日本書紀』継体天皇紀には、

  「朝鮮に天皇の詔を持って行った近江毛野臣が、任那日本府へ詔を聞きに来た新羅・百済の使者を高圧的に追い返したため、
  新羅は三千の軍を率いてきて毛野臣を威圧、毛野臣は恐れて何もできず、新羅は任那の四村を掠め取って帰った。
  任務を果たせなかった毛野臣はそのまま任那へ留まって思うがままに振舞い、
  訴訟に好んで誓湯(くがたち)を置き、湯に投げ込まれて爛れ死ぬ者が多かった」

という話が記されている。
その後、毛野臣は天皇の召還命令にも従わず、ついに百済・新羅が任那を攻撃するという事態になったため、
天皇は重ねて使者を遣わして強制的に召還し、毛野臣は帰途、対馬で病を得て死んだ。

拝殿。向原寺の裏、丘の真下に鎮座している。
この向こうに、推古天皇を祀る小祠の本殿、その前の両側に小祠が二社あり、相殿神を三座ずつ祀っている。
拝殿の向かって右手にある自然石の立石。
古来この場所に立っている石で、
現在はこの石の前で「盟神探湯神事」が行われている。

飛鳥寺。

高市郡明日香村飛鳥。

飛鳥の東の山々と甘樫丘・飛鳥川に挟まれた平地部に建つ、日本最古の寺院の一つ。
『日本書紀』によれば、
用明天皇二年(587)、用明天皇崩御後の後継者争いの中で蘇我馬子大臣は諸皇子とともに物部守屋大連に全面攻撃を仕掛けたが、
古くから朝廷の軍事・警察を司っていた物部軍は精強であり、諸皇子・蘇我連合軍は三度退けられた。
この時、厩戸皇子は自ら四天王の像を彫って頭の結髪に差し、
「もし自分を敵に勝たせて下さいましたら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」
と誓い、馬子もそれに続いて、
「諸天王・大神王らがわたしを助け護って勝たせて下されば、諸天王と大神王のために寺塔を建てて三宝を広めましょう」
と誓って進撃し、勝利を収めた。
そこで馬子はこの地に「法興寺(ほうこうじ)」を建て始めた。仏法が興る寺、という意味であり、これが飛鳥寺のこと。
着工は翌年の崇峻天皇元年(588)で、
この地、飛鳥真神原(あすかのまかみはら)にあった、
飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)の祖である樹葉(このは)の家を壊して造り始めた。
造成が終わり、用材の調達が済んだのち、崇峻天皇五年(592)より仏堂と歩廊を起工し、
推古天皇元年(593)には塔の心礎に仏舎利を納め、柱を建てた。
そして推古天皇四年(596)、法興寺は落成し、馬子大臣の子の善徳臣を寺司に任じ、
また、聖徳太子の師である恵慈、そして恵聡の二僧を住まわせた。
ただ、この時は本尊である金堂の仏はまだなく、推古天皇十三年(605)に鞍作鳥を造仏工として造り始め、
翌年に銅の丈六仏が完成し、4月8日の灌仏会の日に金堂に収めた。これが今に伝わる飛鳥大仏である。
この時、仏像が堂の戸より高く、工人らは堂の戸を壊して中に入れようと議論したが、
鞍作鳥は知恵を絞って、堂を壊すことなく仏像を収めたという。
落成から本尊の安置まで10年かかったというのは議論の対象となっているが、
一般には、推古天皇四年には塔をはじめとするいくつかの施設のみ完成し、他の施設は引き続き建築が進められて順次完成していった、
と考えられている。
なお、『元興寺縁起』に引用する丈六仏光背銘文には、完成は「己巳年」つまり推古天皇十七年(609)となっている。

当時の規模は、南北に290m、東西に200~250m(東壁は北から南南東に向かって斜めに走っているため)。
官立の大官大寺クラスの規模を誇る大寺院だった。
中心に五重塔、それを囲むように東西と北に金堂があり、さらにそれを南の中門から発する回廊が囲み、
回廊の北には講堂、そして寺域を壁が囲っていた。
寺域の東西については、おおよそ現在の道路の通っているあたり。
寺の南には飛鳥京が接していたと考えられている。

中大兄皇子と中臣連鎌子(のちの藤原朝臣鎌足)を中心としたクーデター、乙巳の変(645)において、
飛鳥板蓋宮にて蘇我入鹿を殺害した皇子らは兵を率いて法興寺に駐屯し、西向かいの甘樫丘に居を構える蘇我蝦夷と対峙した。
皇子が使者を遣わして降伏勧告を行うと、蝦夷側の主要な者はみな逃亡し、翌日蝦夷は館に火をかけて自殺。
蘇我本宗家の氏寺である法興寺が、その本宗家誅滅の拠点になるという皮肉な事となった。
それ以後、法興寺は朝廷の崇敬を受けるようになり、
天武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺とともに「四大寺」の一として朝廷の管理下に入り、
この頃から「飛鳥寺」という通称で記されるようになった。
『日本書紀』天武天皇九年四月条には、

  諸寺は国の大寺である二、三をのぞき、それ以外は官司の管理から外せ。
  ただ、食封を所有しているものは三十年を限度とし、三十年に満ちれば停止せよ。
  また、思うに、飛鳥寺は司の管理に預かるべきではないが、もとから大寺として官が常に治めており、
  また(国のために)功があった。よって、官治の例に入れよ。

という天武天皇の勅が収録されている。

和銅三年(710)の平城京遷都にともない飛鳥寺も平城京の東部に移築され、
この時、法号も元興寺となった(大官大寺〔大安寺〕と薬師寺も移った)。
現在の元興寺本堂の屋根瓦には、そのとき移築された飛鳥時代の瓦が今なお残っている。
寺は移築されたものの飛鳥寺本尊の釈迦三尊像はその場を動かず、なお寺が営まれ、本元興寺と呼ばれて信仰を集め続けていたが、
建久七年(1196)に落雷による火災で焼失し、以後は衰退。
本尊の釈迦三尊像も釈迦像のみになり、火災でそのほとんどが欠損したものをなんとか補修していたが、
そのうち本堂すら失われると、無残にも雨ざらしの状態になっていた。
太平の江戸の世になるとようやく草庵の仮堂が建てられて本尊を覆い、釈迦像も「飛鳥大仏」として再び尊崇を集め始め、
19世紀になって大坂の有志の援助を受け、現在の本堂が再建された。
かくて、寺院の規模は大幅に縮小したものの、創建当時の本尊を今に至るまで守り伝えている。

『扶桑略記』には、推古天皇四年(596)の法興寺落慶の無遮大会にて、
「夕刻に花蓋のような形の紫雲が下ってきて堂や仏堂を覆い、
紫雲は五色の雲や龍鳳、人獣へと次々と姿を変え、かなりの時間変幻したのち、西へ向かって流れ去った」
という瑞祥が起こったと記す。
聖徳太子は合掌してその雲を見送ると、この寺に天が感応したためにこの瑞祥が現れたことを明らかにし、
しかし法興寺はこの後三百年で荒廃し、五百年後には廃亡するであろうと予言した、という。

通常、寺の門は東大寺を見ればわかるように南門がいちばん壮麗に造られるものだが、
発掘の結果、飛鳥寺では西門が南門よりも大規模に造られていたことがわかっている。
この西門の外には広場があって槻(つき。今でいうケヤキ)の木が立っており、それをシンボルとした集会の場として用いられていた。
この「槻の木の広場」は、様々な歴史の場面に登場する。
蘇我氏が専横をきわめていた皇極天皇三年(644)、中臣連鎌子は中大兄皇子に近づくため、
皇子が法興寺の西の槻木の下で蹴鞠をしていた時その中に加わり、皇子の皮鞋が脱げたのを拾って差し出したことから親しくなった。
また、壬申の乱(672)においては、近江朝廷の飛鳥留守使の軍が飛鳥寺西の槻の下に宿営していたところ、
そこへ大海人皇子方の大伴吹負が数十騎で奇襲をかけてこれを撃破・吸収し、本格的な戦闘の口火を切った。
このような大規模な事件の舞台であっただけでなく、イベントの舞台としても頻繁に用いられており、
この場所に須弥山を象ったものを造って法会を行ったり、
種子島の人や蝦夷などが入朝した時には饗宴を賜わったり、隼人が相撲を行ったりしていた。
槻は古来霊木とみなされており、『日本書紀』天武天皇九年7月1日条には、

  飛鳥寺の西の槻の木の枝がひとりでに折れて落ちた。

という記事があって、「木の枝が落ちた」という現在ならば気にも留められないような事が、
当時は何らかの異変、あるいはその兆しとみなされて特に記録され、国史にまで撰録されている。
それだけ、「飛鳥寺の西の槻の木」が特別なものとして見られていた、ということだろう。
現在はこの槻の木はなく、かつて広場であった地は田畑と化し、その中の小道に「入鹿の首塚」と呼ばれる五輪塔がひっそりと立っている。
もちろん、当時において特別な槻木の広場にそんなものを造るわけがないので、
広場が失われた後、五輪塔製作が盛んだった室町期のものであろうといわれている。

西門が大きかったのはこの広場があったからであるとも、
また、槻の木の広場からはさらに西へ延びる参道があったことが発掘から推定されており、
これが飛鳥寺と対になる尼寺であった豊浦寺へ続いていたために西門が正門とみなされていたからであるともいわれている。
飛鳥寺の東門と北門の跡はまだ発見されておらず、今後の発掘がまたれる。

『続日本紀』文武天皇四年(700)三月十日条に、道照和尚の物化(死去)の記事が記されている。
道照和尚は船連(ふなのむらじ。百済出身の渡来氏族)の出身。
父の名は恵尺(えさか)といい、乙巳の変(645)において、蘇我蝦夷が館に火をかけ珍宝などをすべて焼いて自害した際、
聖徳太子と蘇我馬子が編纂した史書のうち『国記』を炎の中から救い出した人。
道照は白雉四年(653)の遣唐使において入唐し、中国仏法界のスーパースター、玄奘三蔵法師に師事した。
玄奘法師には非常にかわいがられて同部屋に住み、師の勧めで禅定を学び、悟るところが広くなった。
やがて日本に還る日、玄奘法師は道照に舎利と経論をことごとく授け、
「人能く道を弘む」(人こそがよく道を弘めることができる。原典では続いて、「道が人を弘めるのではない」と続く)
という論語の言葉を餞、そして戒めの言葉として贈った。
道照は日本に帰ると(以前から住んでいたといわれる)飛鳥寺の東南隅に禅院を建てて住み、仏道修行を志す者はみな道照のもとで禅を学んだ。
彼はのちに十余年諸国を周遊し、造船を職掌とする船連出身の技能を生かして各地で井戸を堀り、渡し船を作り、橋を架けた。
かの宇治橋は道照和尚が造ったもの。
(と『続日本紀』は記すが、宇治橋碑文には大化二年(646)に道登という僧が架けたとしており、『日本霊異記』でもそう記されているので、
『続日本紀』の錯誤、あるいは道照はすでにあった宇治橋を修造したとみられている。
なお、『日本霊異記』では道登も「元興寺」、つまり飛鳥寺の僧であるとしており、道照の先輩にあたるので、
道登の造った橋を道照が修造、あるいは流失したのを架け替えた、ということは十分に考えられる)
その後、勅によって飛鳥寺に戻り、元のように熱心に禅に努めた。ある時は三日に一度起ち、またある時は七日に一度起ったという。
そして、禅僧らしく端坐した姿のまま、七十二歳にて亡くなった。
その遺体は栗原(明日香村栗原。高松塚古墳の南)にて荼毘に付され、これが日本における火葬のはじまりとなった。
火葬の後、親族や弟子が争って遺骨を求めようとした時、にわかにつむじ風が起こって遺骨・遺灰をいずこともなく運び去ったと伝えられる。
道照は当時の大寺の一であった飛鳥寺に若いころから住んでいたとされ、
役小角や行基という著名な人物との親交や、彼らに与えた影響についても取り沙汰される人物。

門前。
広い駐車場になっている。参拝者は無料だが、そうでない場合は駐車料金500円。
飛鳥の駐車場はだいたい有料で一律500円になっている。
飛鳥大仏の鎮まる本堂。
かつての中金堂の位置に建っており、飛鳥大仏は創建当初と全く同じ位置に座っている。
拝観し拝礼すると、寺の方からご説明を受け、写真撮影を許可していただける。
飛鳥大仏の写真は画像検索とかで容易に出てくるので割愛。
日本最古の仏像であり、
建久七年の火災により頭部、そして指先などの多くの断片を残して焼失したが、その後修復されて今に至る。
修復された胴体は、様式的に製造当時のものを模倣していると考えられている。
左右には阿弥陀如来坐像(平安後期)と聖徳太子孝養像(室町期)がある。
塔の心礎中心の表示。
かつてはこの場所に塔が立っていた。
境内西側。
現在はこぢんまりとした境内。
飛鳥寺西門を出てしばらく歩いたところに小さな広場がある。
これがかつての飛鳥寺西門の跡。
往古はこの向こうに「槻の木の広場」があった。
今は田畑と化し、石畳の道の上には「入鹿の首塚」が立っている。
飛鳥川を挟んだ向こうには甘樫丘。
乙巳の変においては、中大兄皇子はここから丘上の蘇我蝦夷の館を睨んでいた。
飛鳥寺西門遺構案内板より飛鳥寺方面。
西門は礎石を置き柱を立てた瓦葺き門で、
間口三間11.5m、奥行き二間5.5m。
門の外(西)には塀があって、
その下には土管をつないだ上水道が埋まっていた。
天武朝のころには、
槻の木の広場には噴水もあったという。

飛鳥坐(あすかにいます)神社

高市郡明日香村大字飛鳥に鎮座。
蘇我氏の氏寺であった飛鳥寺(元の名は法興寺)がすぐ近くにある。

『延喜式』神名式、大和国高市郡五十四座の中、飛鳥坐神社四座。
四座とも名神大で、朝廷からは祈年・月次・新嘗祭の奉幣だけでなく、71座しか指定されていない相嘗祭の奉幣にも預かっていた。
『日本書紀』朱鳥元年(686)七月五日条に、
「紀伊国に居る国懸神・飛鳥の四社・住吉大神に幣を奉る」
とあるのが国史初見。
創祀時は高市郡賀美郷の甘南備山に鎮座していたが、『日本紀略』天長六年(829)三月十日条に、
「大和国高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を、同郡同郷の鳥形山に遷す。神の託宣に依るなり」
とあり、このとき現在の鎮座地である鳥形山に遷座したことが記されている。
旧社地の「高市郡賀美郷甘南備山」は「飛鳥の神奈備」として『万葉集』にも多く歌われているところで、
従来は雷丘に比定されていたが、
近年ではミハ山(石舞台のすぐ南方、飛鳥川が大きく蛇行するところへ西から突き出している山。飛鳥歴史公園祝戸地区)が有力視されている。

祭神は天事代主命、高皇産霊命、飛鳥神奈備三日女命(賀夜奈留美命)、大物主命。
しかし、昔の史料には時代によってかなりの違いが見られる。
出雲国造の代替わりごとに国造が朝廷に出向いて天皇に奏上していた『出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこのかむよごと)』には、
大穴持命(大国主命)が皇孫の守護のために大和国に四柱の神の御魂を置いたと記されており、
*己の和魂を倭大物主櫛瓺玉命として大御和の神奈備に坐せ(大神神社)
*御子・阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ(高鴨阿治須岐詫彦根命神社、現在の高鴨神社)
*事代主命の御魂を宇奈堤に坐せ(高市御縣坐鴨事代主神社、現在の河俣神社)
*賀夜奈留美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せ
そして皇孫の近き守り神としたとする。
鎮座当初は賀夜奈留美命一座の神社だったのを、のちに三柱の神を勧請して飛鳥の都の守り神とし、
平安遷都したのちの天長二年に飛鳥坐神社が遷座すると旧社地は再び賀夜奈留美命一座の神社となり、
『延喜式』神名式には「飛鳥坐神社四座」「加夜奈留美命神社」となったか。
『類聚三代格』収録の貞観十六年(874)六月廿八日付の太政官符には、
封戸がなく祝部だけで社殿の修理ができない神社は、その祭神の祖神を祀る封戸ある神社の下につけることを命じているが、
その中の一例として、
「假令(たとへ)ば飛鳥神の裔(はつこ)、天太玉、臼瀧、賀屋鳴比女神四社」
とあり、天太玉は太玉命神社、臼瀧は飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社、賀屋鳴比女神は加夜奈留美命神社のこと。
三社しかないのは書写の過程で「天太玉」のあとに「櫛玉(櫛玉命神社)」の二文字が脱漏したものであろうと考えられているが、
当時、飛鳥神四座はこれらの神々の親神と考えられていたらしい。
天太玉命は『古語拾遺』によれば高皇産霊神の御子神であるので、このころには祭神四座のうちに高皇産霊神が入っていたようだ。
ともかく、飛鳥の地の守護神であることは間違いない。

現在、境内には式内社である飛鳥山口坐神社が遷座しており(旧社地は不明)、
また、摂末社が数多く鎮座している。
一般には、男根をシンボルとして祭りを行う奇祭「おんだ祭り」で有名。

境内入口。
雨上がりに参拝。
山の中腹にある拝殿。
境内は雨でぐしゃぐしゃだったので、
あまり写真は撮らなかった。

酒船石(さかふねいし)遺跡。

高市郡明日香村飛鳥。伝飛鳥板蓋宮跡の北東の丘陵部、万葉文化館のすぐ南。
観覧料(文化財保存協力金)が大人300円、小人(小・中学生)100円。
yahoo地図では、造成中・発掘中の状況を見ることができる。

ここには古くから丘陵の上に「酒船石」があったが、平成4年、その丘陵北斜面に砂岩の石垣が発見された。
さらに平成12年、丘陵北裾より亀型石造物、小判型石造物が発掘され、その周囲には石敷や石垣が見つかった。
この一帯を称して酒船石遺跡という。

『日本書紀』斉明天皇二年条、斉明天皇が後飛鳥岡本宮を造営して遷られた記述ののちに、

  田身嶺(たむのたけ)に周垣を冠し〔田身は山の名、これを大務(たむ)という〕、
  嶺上の二本の槻の木のほとりに高殿を建てて両槻宮(ふたつきのみや)といい、また天宮(あまつみや)といった。
  天皇は工事を好まれ、水工に溝を掘らせ、香久山の西から石上山にまで及んだ。
  船二百隻に石上山の石を積み、流れに従って下り、宮の東の山に引いて、石を積んで垣とした。
  時の人はこれをそしって、
  「狂心渠(たぶれこころのみぞ)に人力を無駄に費やすこと三万余、
  垣を造るに人力を無駄に費やすこと七万余、宮の材は爛れ、山の末は埋もれた」
  といった。またそしって、
  「石山の丘を造っても、造ったそばから自ら崩れるであろう」
  といった〔もしくは、未だ完成しない時にこの謗りをおこなったか〕。
  吉野宮を造った。

とあり、この遺跡がそれの一部ではないかともいわれている。
斉明天皇のこの土木工事の目的は様々に論じられており、
当時、仏教とともに流行しつつあった道教の趣向を取り入れたものという説もある。

この年の冬、岡本宮に火災があった。
当時、不必要と思われる造営や遷都などの労役のあった年には宮に火事が起こったことが国史に何件も記されており、
当時の民は放火をもって意思表示をしたのではないかとも考えられている。
この後、有間皇子の謀反が発覚するなど上下よりの不満が高まったことが明らかになったせいか、
以後は大規模造営の記事はなくなり、阿倍引田臣比羅夫の東北・北海道遠征や遣唐使などの対外行動が主となる。
しかし唐はその時新羅と連合しての百済攻撃の直前であり、遣唐使は情報漏洩防止のため抑留され、百済は唐の攻撃を受け一時滅亡。
百済の遺臣は首都を奪回したうえで日本に人質として滞在していた王子豊璋を王として迎え入れ、日本の救援を仰いだ。
斉明天皇はこれに応じ、自ら兵を率いて筑紫にまで出兵されたが(この時遣唐使帰還)、御高齢がたたったか、筑紫朝倉宮で崩御された。
その後を中大兄皇子が指揮したが、日本の救援軍は百済の守り、新羅への攻撃に加え、
これも唐・新羅の攻撃を受け日本に救援を求めてきた高句麗へと分散してしまい、
百済も新王が日本でぬくぬく暮らしていたせいか全くのボンクラで、一番の忠臣に疑いを抱いてこれを殺してしまう。
新羅は陸路一気に百済の首都を包囲、日本軍の中軍は百済首都に近い白村江にて唐の水軍と戦ったが、大敗。
日本軍は百済の王族や遺臣、遺民らを収容して日本に帰還し、中大兄皇子は近畿から北九州までの要地へ百済遺臣の力を借りて城を築かせるとともに、
都を近江国大津へ移した。これによってしばらくの間飛鳥京は留守となり、飛鳥には留守使が置かれた。

酒船石遺跡、亀形石造物部分、南側より。
丘陵の真下になる一番右手(南)に「砂岩湧水施設」があり、そこから出た水が樋を通って「小判形石造物」に落ち、
さらに「亀形石造物」に落ち、北に走る石組の排水溝へと落ちている。
周囲は石敷きで、西には垂直な石垣、東には階段状石敷、その上はテラス状の石敷。
遺構は五期に分けられ、I期は斉明天皇朝(7世紀中頃)、II期は斉明天皇~天武天皇朝(7世紀中頃~後半)、
III期は天武天皇~文武天皇朝(7世紀後半~末)、IV期は9世紀後半頃、V期は9世紀後半~10世紀初頭頃の造営。
目につく小判形・亀形石造物はII期の段階で改修されたものとみられている。
亀形石造物周辺のバラスからは貞観元年(859)初鋳の貨幣・饒益神宝(にょうえきしんぽう)が出土しており、
最初の造営から250年間、今のような姿で存在していたと推定されている。

丘陵の真下の、さらに石垣に囲まれた人工的で閉鎖性の高い空間を形成しており、
庭園というよりは祭祀を行う空間であったと考えられている。
発掘調査はさらに北の方へ行われていたが、
現在、北半分は万葉文化館の駐車場(ここは無料)となり、埋め戻されている。もったいない。
北から。 西から。
小判形・亀形石造物。
丘陵へと登る途中にある砂岩石垣。
発掘時は倒壊していたが、一部を復元して公開している。
砂岩は天理市から奈良市にかけて分布しているものと判明しており、
これが、
「船二百隻に石上山の石を積み、流れに従って下り、
宮の東の山に引いて、石を積んで垣とした」
「石山の丘を造っても、造ったそばから自ら崩れるであろう」
という『日本書紀』の記述に対応しているという説がある。

明日香産の花崗岩を敷き、その上に砂岩石垣を積み上げている。
丘陵も、版築状に土を3m盛り上げた人工のもの。
丘を登ると、右手奥に大きな石が。これが酒船石。

すぐ右にも下へと下る路があり、
さらに東の県道15号線方面へ向かう山道もある。
史跡・酒船石。昭和二年指定。東より撮影。
北側と南側は欠損しており、近世に割られて運び出されたとみられている。
円形のくぼみを細い溝でつないだ、不可思議な石造物。
酒をしぼる槽と考えられたことから「酒船石」の名がつけられているが、その用途については確定されていない。
この東40mの高所から土管や石樋が見つかっており、この場所に水が引かれていたことが推定され、
庭園の施設であるという説もある。
丘下にある遺跡とともに、『日本書紀』の記述と関連するのかどうかも含めて、今後の研究に期待。


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