にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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大和国:

高市郡(明日香村、高取町、橿原市南部、大和高田市南端部)

高市郡南部。いわゆる「飛鳥京」一帯。

伝飛鳥板蓋宮跡 飛鳥京跡苑池遺構 川原寺跡 橘寺
石舞台古墳 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社

史跡・伝飛鳥板蓋宮跡。

高市郡明日香村岡

飛鳥岡本宮に宮を構えられた舒明天皇の後を継いだ皇極天皇が宮と定められたのが、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)。
天皇は即位元年、年内のうちに宮殿を造るため国々に用材を採らせ、
遠江から安芸国までの国々から造営の人夫を集めるよう蘇我蝦夷大臣にお命じになったが、
結局年内には完成せず、翌年4月28日に新宮に遷られた、と『日本書紀』にあり、かなりの規模の宮だったことがうかがえる。
皇極天皇は重祚(再び皇位に就かれること)ののちに大規模な土木工事を起こして民より謗られたが、
この頃からその兆しがおありで・・・
それまでの宮は茅葺だったのを、この宮は例外的に板葺であったため、宮の名となった。
大化の改新において孝徳天皇の世になると一時難波に宮が遷ったが、
その崩御後、皇極天皇が飛鳥板蓋宮にて再び即位、斉明天皇となられると、後飛鳥岡本宮(のちのあすかをかもとのみや)を宮とされた。
中大兄皇子が近江京に遷都されたのち、飛鳥岡一帯は「倭京(やまとのみやこ)」と呼ばれるようになり、
壬申の乱においては、この京を押さえるべく大海人皇子・大友皇子双方の軍が大和国の各所で激戦を繰り広げ、
最終的には大海人皇子方の大伴吹負が地元有力豪族に東国からの援軍も得て倭京を制圧、大友皇子の近江朝廷の力を大いに削いだ。
天武天皇は戦勝の後、陣を構えられていた不破から戻られると倭京から嶋宮へ落ち着かれ、
その後に岡本宮へ遷られると、自らの宮である浄御原宮を造営して住まわれた。

古くよりこの地には宮があったと伝えられており、それは飛鳥板蓋宮跡であろうといわれていた。
発掘の結果、建物の遺構が発見されたが、それは皇極天皇の時代より新しい七世紀後半のものだった。
そのため、昭和47年に「史跡・伝飛鳥板蓋宮跡」として登録されたが、
発掘が進むにつれ、この地の遺構は三期にわたることが明らかになった。
現在ではそれぞれ、

1.舒明天皇の飛鳥岡本宮
2.皇極天皇の飛鳥板蓋宮
3.斉明天皇の後飛鳥岡本宮→天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮(後飛鳥岡本宮にエビノコ郭・外郭を追加し整備した宮)

であったと考えられており、3については紀年銘木簡の出土によりほぼ確定的とされている。
日本における最初の恒久的都城は藤原京であったが、それ以前より天皇の代替わりごとに転々としていた宮地を固定化する動きがあり、
飛鳥時代は都城制への過渡期にあたる時代であったことが判明。
そしてここは、その中心地だった。
東と南に山、西には川、空いている北口から侵入されても高所を取れるという比較的要害の地であり、
蘇我氏の影響力の強い土地ということもあって選ばれたのだろう。

この宮は、発掘結果によると、中心的な建物の柱穴から柱が抜き取られてさらに埋め戻された形跡があり、
建物が解体されたのちに整地されたことがわかっている。
埋め立て土に含まれる土器はほとんどが7世紀末のものであり、
それによって飛鳥浄御原宮は持統天皇八年(694)の藤原京遷都において解体整地され、廃絶したと考えられている。
その後、この敷地がどう用いられたのかはわかっていない。
9世紀ごろの出土遺物が見つかっており、平安期以降に何らかの用途で用いられた後、
現在のような田園地帯になったとみられている。
飛鳥地方では飛鳥時代の地割が現在も比較的残っており、それによって飛鳥京の四囲や当時の交通網を推定することもできるようだ。
またそれが、「なぜ飛鳥の水田は奈良時代に推進された条里水田になっていないのか?」という謎にもつながっているらしい。

北東より。万葉文化館に車を置いててくてくと歩いてきた。
車が多く停まっており、なんらかのイベントがあるようだった。
復元部東南より。この区域は内郭の北東隅にあたり、高床式の大規模な建物と大井戸などがあった。
遠くに甘樫丘が見える。
南側の遺構。

国指定史跡・名勝、飛鳥京跡苑池。

高市郡明日香村岡、伝飛鳥板蓋宮跡の北西にある庭園遺構。
平成15年8月27日に指定。

この遺跡は飛鳥時代の庭園遺跡で、その規模は、南北約280m、東西約100mという広大なもの。
すぐ西には飛鳥川が流れ、東南には宮があった。
『日本書紀』天武天皇十四年(685)11月6日条に、

  白錦後苑(しらにしきのみその)に行幸された。

と記されているように、飛鳥浄御原宮の後方(つまり、北)には「白錦後苑」という庭園が広がっていたが、この遺跡はその一部とみられている。

四角形を基本(曲面も備える)とした南北二つの池があり、その間は幅5mの渡堤で分けられている。
北の池からは北方へ伸びたのち西へ折れる水路が出ており、飛鳥川への排水用であったとみられている。
また北池の北には掘立柱列があって、水路の西には高まりが認められる。
南の池は深さ1mと浅く平らで、池中の島があり、水が流れ出るように加工された石造物も見つかっていて、観賞用の池であったと推定されている。
北の池は水深が3m深いなどやや様相が異なり、南池とは別の用途であるとみられているが、現在、その用途については不明。
発見された種子や花粉から、池の中にはハス、周辺には桃、梨、梅、柿などの果樹が植えられていたことがわかっている。
出土遺物よりこの庭園は7世紀中頃に造られ、7世紀後半に一度改修され、その後9世紀まで連綿と維持管理されてきたことがわかっており、
石積の護岸や池中の敷石など石を基調とした造園から、飛鳥京第3期の宮(飛鳥浄御原宮)と同じ構想で造営されたものとされる。
北の水路から多量に出土した木簡には薬や米・酒造に関して書かれているものが多く、苑池の役割に関わるものとみられている。
日本最古級の大庭園であり、日本庭園の祖ともいえる所。

大正五年、この地から石造物が二つ発見され、その形が酒船石と似ていたために「出水の酒船石」と呼ばれた。
耕作地から出土したためにこれらの石は売却された(今は京都にあるらしい)が、その出土位置を確認しようと発掘が行われたところ、
この遺跡が見つかったという。海老で鯛。

四角形の池は百済式庭園にみられ、曲線を備えた池は唐・新羅の庭園様式にみられるので、
造園時は百済式の庭園だったものが、改修時に新羅風の意匠が取り入れられたと考えられている。
天武朝、日本は遣唐使を送らず新羅と密接な国交を展開しており、
使節が訪れたであろう庭園も新羅風(新羅は唐と同盟する際に朝廷儀礼を唐風に改めた)の新しいスタイルに変えていったらしい。
その頃は日本も新羅もお互いに「唐と組まれたらマズい」という状況であり、気を遣った外交が展開されたものと思われる。
その後、日本は遣唐使を頻繁に送るようになり、
また、高句麗の末裔が興した渤海国が使節を送ってきて(神亀四年、727)これがすごく友好的(形の上では日本を立ててくれた)だったため、
そちらと仲良くして新羅のほうは邪険に扱うようになった。国際関係は難しい。

2010年度の調査では北池が中心に行われたが、
*池の東限が予想よりも西にあり、北池は南池より東西が狭く、南北に細長い形をしていた
*池の岸には南池にはない階段状の遺構があり、池底の敷石も南池のものより倍以上大きい
*池の東側は砂利を敷いた広場になっており、その東端には南北方向に走る石組溝があって、建物の軒先から落ちる雨水を受ける雨落ち溝とみられる
*それを裏付けるように石組溝の東に柱穴が見つかり、調査区域のさらに東に何らかの建物が存在することが判明
と、それまでの予想を覆す発見が連続した。
続く発掘でもさらなる発見が期待される。

発掘調査中だった。この日はお休み。橿原考古学研究所の服を着た人が見回りをされていた。
掲示されていたパネルによれば、今回の発掘では、

1.南池の南岸と東岸を検出し、南池の形と規模を明らかにする
2.南池東岸付近にどのような施設があるか確認する
の二点を探るとのこと。

また、近隣では吉野川分水改修工事として水路工事が行われていて、前年度はその事前調査でもいろいろと調べられた。
この調査で飛鳥寺西方110m付近に石敷きが発見され、飛鳥寺西の槻の木の広場、そして飛鳥寺西門への道路かとみられている。
また、飛鳥京の範囲についても発見があったようだ。
発掘区域外の草生す小路をてくてくと歩いて、
南東側から。
池底には石が敷き詰められているのが見える。
ブルーシートのかかった盛り上がりは、
池中の島を形成する石積み。
手前の灰色のシートは池の南岸で、
石造物などがあるはず。
西から。
現在、周囲は果樹園となっている。
先年からの発掘は保存事業に関わるもので、
将来的には史跡公園となるようだ。

川原寺跡。

高市郡明日香村川原

飛鳥の南部、飛鳥川西岸に位置する。県道155号線沿いで、向かいには橘寺がある。

舒明天皇皇后であった宝皇女(たからのひめみこ)は、舒明天皇崩御後にその後を継いで即位された。
これが皇極天皇で、天皇は乙巳の変(645年)を機に同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位し、皇祖母尊(すめみおやのみこと)と呼ばれていたが、
孝徳天皇は中大兄皇子と不和になり、皇子は皇族・臣下はおろか皇后まで率いて飛鳥に戻ってしまった。
難波宮に取り残された天皇は、失意のうちに病により崩御された。
そこで皇祖母尊は飛鳥板蓋宮において再び即位された(655年)。斉明天皇と呼ばれる。
この年の冬、板蓋宮は火災で焼失し、天皇は川原宮にいったん遷られ、
翌年、飛鳥板蓋宮の跡地に後飛鳥岡本宮を造営し、宮とされた。
この川原宮は仮宮程度の規模であったと推定されている。
斉明天皇七年(661)、天皇は滅亡した百済を再興させるべく親征して筑紫にまで出兵されたがその地で崩御、
その殯宮(もがりのみや)は「飛鳥川原」に営まれた。
これが縁で、天智天皇の御世に川原寺が創建されたのではないかといわれている。

しかし、天智天皇が創建したならば、川原寺もその縁起を朝廷に提出しただろうし、
それが認められれば『日本書紀』に記されていてもおかしくないが、同書には川原寺の創建について記されておらず、
初見は孝徳天皇の白雉四年(653)、

  天皇は僧旻法師が亡くなった事をお聞きになり、使いを遣わして弔わせ、
  法師のために画工狛竪部子麻呂・鮒魚戸直らに命じて多くの仏菩薩の像を造り、
  川原寺に安置した〔ある本には山田寺にある、という〕

という記事。
これは通説とは矛盾する記事であり、記事自体もひどく不明確なものになっている。
川原寺の創建についてはなお不明なところがある、ということだろう。
あるいは天武・持統朝においてはしばらくの間斉明天皇・天智天皇に関して語ることがタブーとなっていた事項があり、
そのため後世、当時の事がわかりにくくなっていたか。
事実、『日本書紀』の天智天皇紀の編集は杜撰で、未完成といっても差支えないほどらしく、
この期間の資料は壬申の乱の混乱の中で多くが失われていたか、
何らかの理由で採用されなかった、あるいは削られた記事も存在していたのだろうか。
この川原寺創建記事も、そういった事情で失われたのかもしれない。
ただ、四大寺の一に数えられ官寺としての扱いを受けていたことから、その創建に国家が関与していたことは間違いないだろう。

次に国史に現れるのは天武天皇二年(673)三月条で、書生を集めて川原寺にて一切経を写させ始めた、という記事。
続いて、天武天皇十四年(685)8月13日、天皇が前日の山田寺に続いて川原寺に行幸され、衆僧に稲を施された。
同年9月24日には天皇が御病にかかられたために大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経が行われ、
翌天武天皇十五年(686)の4月13日には筑紫に到着した新羅の客に饗宴するために川原寺の伎楽(くれがく)を筑紫に運び、
皇后宮の私稲5000束を川原寺に納めた。
この年は天武天皇崩御の年であり、川原寺では薬師経が説かれるなど病気平癒の行事が盛んに行われ、
崩御五日前の9月4日には、親王以下諸臣にいたるまでことごとく川原寺に集い、天皇の御病のために誓願した。

天武天皇の頃には「四大寺」の一として官寺なみの扱いを受けており、
自前の雅楽団をもっていて、それははるばる筑紫へ出かけていって新羅の使節の前で披露できるほどの技術があったことから、
かなりの財政基盤を持った、文化的にも優れたものをもつ寺だったと思われる。
また寺の規模は東西に約200m、南北には実に330mという大寺院であり、
その北端には瓦窯や工房、鍛冶炉まであって、数多くの工人が働く活気に満ちた場所だったらしい。
その伽藍配置は、中央に中金堂があり、その手前の東に塔、西に西金堂があって、
南にある中門から中金堂へと回廊が伸びて塔と西金堂を囲っていた。
中金堂の北には講堂があり、この講堂を取り巻いてコの字型の回廊のように僧房がめぐらされていた。
この形式は独特のものであり、川原寺式と呼ばれている。
yahooやgoogleの航空写真では遺構の跡がはっきりと見て取れ、その規模を知ることができる。
礎石も他の寺では見られない大理石製(寺では瑪瑙製と伝えてきた)。
また、屋根瓦も独特の文様をもっていて、この瓦は近畿地方だけでなく近江の琵琶湖東岸・美濃・尾張の寺院跡からも発掘されている。
これらは壬申の乱に関連する地域であり、川原寺は天武天皇の肝煎りの寺院であったと思われる。

平城京遷都が行われると、大官大寺・飛鳥寺・薬師寺も奈良へと移ったが、
川原寺はそのまま飛鳥の地に留まった。
法号は弘福寺(ぐふくじ)といい、
弘法大師が嵯峨天皇より拝領したことで真言宗寺院となり、東寺の傘下になって平安期においても各地に荘園を持つなど勢力を保った。
『延喜式』玄蕃寮式にも大寺の一に数えられているが、平安末期の建久二年(1191)に火災で炎上。
いったんは再建されたが、室町末期に落雷による火災によって焼失し、戦国時代の混乱のためかつての規模までの再興はできず、
規模を大幅に縮小して現在に至る。

ちなみに、現在一般に用いられる天皇号は漢風諡号(かんふうしごう)であり、奈良時代以降贈られるようになったがこの時代にはまだなかったもの。
漢風諡号ができる前の『日本書紀』には和風諡号で記されており、それぞれ当時の諡号は、
舒明天皇→息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
皇極天皇・斉明天皇→天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
孝徳天皇→天萬豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)
天智天皇→天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)
天武天皇→天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
持統天皇→高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
長い。
現在一般に用いられる元正天皇以前(弘文天皇・文武天皇のぞく)の漢風諡号は、
奈良時代の官人、淡海真人三船(臣籍降下したもと皇族の人)の一括撰進による。偉い。

県道より、弘福寺。現在は東寺の末寺ではなく、真言宗豊山派、長谷寺末寺。
伝承では、川原寺の僧・道明が長谷寺を建立したといい、その縁だろう。
現在の弘福寺は、かつての中金堂の位置に建っている。
その手前に塔の基壇、そして回廊跡が見える。
南大門跡前より。どこかの学校の生徒たちが休憩中。
南大門というが、川原寺の場合は川を隔てて飛鳥浄御原宮に面する東門が一番大規模だったらしい。
生徒たちがいるのが中門跡。そこから左右に回廊が伸びる。
向かって右に塔跡、左に西金堂跡。
後方の小高い山には板蓋神社が鎮座し、また「川原寺裏山遺跡」があって、往古はその辺りまでが寺域であった。
かつての荘厳さがしのばれる。
塔基壇。 西金堂跡。
東面回廊。西に折れ、かつては中金堂へ接続していた。
さらに北へ延びているのは、僧房の東室跡。
僧房東室跡より、講堂跡。
弘福寺の北西に隣接して光福寺がある。浄土宗。
手前の盛土は、経蔵の跡。
南向かいには、橘寺。

橘寺。

高市郡明日香村橘
川原寺跡(弘福寺)の南向かいの丘陵にある。

山号は仏頭山、法号は上宮皇院菩提寺。天台宗、比叡山延暦寺末寺。
『上宮聖徳法王帝説』に、

  太子は七寺を起こされた。
  四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺〔その宮をあわせて川勝秦公(かはかつのはたのきみ。秦河勝)に賜わった〕、
  池後寺、葛木寺〔葛木臣に賜わった〕。

   (*蜂岡寺=広隆寺、池後寺=法起寺。葛木寺は廃絶。今の和田廃寺がそれであるとみられている)

と伝えるところの聖徳太子建立の七寺の一。
この橘の地には欽明天皇および用明天皇の別宮があったという伝承があり、また「厩戸」という小字もあったことから太子生誕地ともいわれ
(欽明天皇の皇子には橘豊日尊〔用明天皇〕、橘本稚皇子、橘麻呂皇子など「橘」のつく名がみえ、
用明天皇は聖徳太子の父君。ただ、この地で生まれた確証はない)、
あるいは少年時代に住んだ上宮の地とも伝えられる
(これはさすがに敏達天皇の訳語田幸玉宮〔をさださきたまのみや。桜井市戒重にあったとされる〕の南だろう)。
平安期に集成された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』には、
「推古天皇十四年(606)七月、太子が天皇の招きにより三日間『勝鬘経』の講説を行われ、
それが終わった夜、橘の地に蓮の花が大量に降ったので、その地に寺を建てた」
という伝承を記し、橘寺の縁起では蓮花の奇瑞とともに「南の山に千の仏頭が顕れて光明を放ち、太子の冠から三光(日月星)が輝いた」とする。

国史初見は『日本書紀』天武天皇九年(680)4月11日条、
「橘寺の尼房で失火があり、十房を焼いた」
というもの。当初は尼寺であった。
発掘からは、7世紀初頭に金堂とみられる小さな堂宇が営まれたのち、
7世紀後半に塔をはじめとする諸施設を備えた堂々たる寺院に改修されたとみられている。
通常、寺院は南北線を軸に堂塔が建てられるが、橘寺は山の北麓にあるため、
東門より中門・塔・金堂・塔が一直線に並ぶ形式になっている。
一般には四天王寺式とみられているが、回廊が講堂に向かわずに講堂の前で閉じる山田寺式伽藍配置である可能性も指摘されている。
奈良時代には北門が造られ、僧寺の川原寺に対する尼寺の橘寺として位置づけられた。
当時の寺域は山裾一帯で、川原寺に道向かいで接していたという。
仏像の寄進、また東にあった嶋宮の御田も施入されるなど皇室の崇敬を受け、
平安期には藤原道長も参詣したと『扶桑略記』に記されており、貴族の崇敬もひとかたでなかった。
平安後期には小仏49体を法隆寺へ移すなどやや陰りが見え、法隆寺の国宝・玉虫厨子もこの時に橘寺から移されたと伝える。
久安四年(1148)5月15日に落雷による火災で五重塔焼失。
文治年間(1185-89)に三重塔を再建し、当時凋落著しかった元興寺(飛鳥寺)の仏像を迎え入れるなどしていた。
しかしその後室町末期の永正三年(1506)、多武峰寺の兵によって火をかけられ焼失。
鎌倉時代から室町末まで、大和国南部では興福寺と多武峰寺(現在の談山神社)が勢力争いでとにかく戦って戦って戦いまくっており
(僧兵だけでなく在地武士も巻き込んでいたので、そちらの利害も絡んでとことんやってしまう)、
橘寺は法相宗で興福寺と同門であったので、多武峰寺の「攻撃対象」だった。
江戸時代には本堂・念仏堂ともに大破し、わずか講堂一宇に太子御影立像が祀られているだけだったが、
明治目前の元治元年(1864)、多くの篤志家の力により再建された。
創建より法相宗であったが、江戸中期より天台宗に改宗し、延暦寺の末寺となっている。

正門である東門前。
川原寺から来た場合は西門から入るほうが近いが、こちらが正門。
入ると、左に鐘楼、右に本坊。
鐘楼の隣には、五重塔心礎跡がある。
正面奥には本堂。
本尊は聖徳太子勝鬘経講讃像。
三十五歳の時、推古天皇のお招きにより
勝鬘経を講じられた時の御姿。
室町時代の作で、国指定重要文化財。
正面に本堂、左に経堂。経堂には阿弥陀如来が祀られている。
おおよそ経堂から目の前の石畳通路のところにかつての金堂があり、本堂とその西の一帯には講堂が建っていた。

本堂右手には太子の乗馬であった「黒駒」の像がたたずむ。
この黒駒は甲斐から献上された黒い馬であり、空を翔けることができた。
太子はこの黒駒に乗って富士山へ飛ぶとそこから越国を巡覧して帰り、
また斑鳩宮から飛鳥の小墾田宮まで空を飛んで通勤したと伝えられる。
太子の薨去後、この黒駒は飲食せず、太子の墓所までついてきて、
太子が埋葬されるのを見届けると大きくいなないて一たび躍り上がり、斃れて死んだ。
群臣はその忠心に感じ入り、その屍を中宮寺の南の墓に埋めたという。

写真の右手外側には、親鸞聖人像や護摩堂、観音堂が並ぶ。
親鸞聖人は聖徳太子への崇敬がひとかたならず、太子ゆかりの地を巡拝してその遺徳をしのんだと伝えられ、
太子ゆかりの寺には宗派を問わず親鸞聖人の像や堂が建っている。
蓮華塚。
太子の勝鬘経講説の時に降った蓮華を埋めたところとされ、
また、この一角が大化改新にあたって
「一畝」の基準となったと伝えられることから、
「畝割塚」ともいう。
本堂横より。
蓮華塚には橘の木が植えられている。
「橘」の地名の由来については、
垂仁天皇の御世、田道間守(たぢまもり)という臣が勅命によって
「常世国(とこよのくに)」に「時じくの香(かぐ)の木の実」を求めに行ったが、
木の実を得て帰って来た時にはすでに天皇は崩御されていたので、
田道間守は号泣し、木の実を御陵に捧げて殉死した。
その実の種をこの地に播くと橘が生い出たので、
この地を「タチバナ」と名づけた、という。

田道間守は橘とともに黒砂糖を持ち帰ったと伝えられ、
その縁で菓子の祖神として崇められた。
そのために菓子屋の屋号には「橘屋」が多く、
現在でも菓子業社の神棚には彼が祀られ、
また彼の掛け軸が懸けられていたりする。
二面石。
本堂北にある、飛鳥時代の石造物。
人の心の二面性をあらわした石という。

もとは別の所にあったといい、
元来はもっと別の意味があっただろうか。

この北には放生池があり、そばの祠には水神が祀られている。
また、往生院や聖倉殿があり、
聖倉殿では国重文の「日羅上人像」「地蔵菩薩立像」を拝観できる。

県道より伸びる西参道から東方面。かつてはこの辺りも橘寺の域内だった。
正面、山の中腹に西国三十三ヶ所の第七番札所、岡寺(東光山龍蓋寺)の塔が見える。

国特別史跡・石舞台古墳。

高市郡明日香村島庄
多武峰から流れ出る冬野川沿い、飛鳥川との合流点付近にある。

かつては墳丘をそなえていたが、現在は失われて巨大な横穴式石室が露出している。
そのため、もともとどういう形であったかは定かではないが、発掘によって方形の下部墳丘、堀、外堀が見つかっており、
少なくとも下部は方形だったであろうとみられている。
巨石は、多武峰麓より冬野川の流れに乗せて運ばれてきたもの。
石室が剥き出しのために内部は盗掘され尽くしており、埋葬当時のものとしてはわずかに須恵器や土師器の破片、金具が見つかったのみ。
造営時に周囲にあった6世紀代の古墳を整地したとみられることから7世紀初期の古墳と推定され、
被葬者は、蘇我宿禰馬子大臣とみられている。
彼が亡くなった時、「桃原墓」に葬られたと『日本書紀』に記されており、これがその墓であるとする。
彼は飛鳥川のほとりに邸宅を構え、庭中の池に小島を置いていたために「嶋大臣」と通称されたと同書に記されており、
その地が現在の島庄と考えられていて、
石舞台古墳の北西の島庄遺跡からは7世紀前期・中期・後期の建物遺構が見つかっており、
馬子の邸宅、そして天武天皇が壬申の乱後に飛鳥へ帰還された時に一時住まわれ、
のち皇太子である草壁皇子の宮となった「嶋宮」の跡とみられている。
また、同書の舒明天皇即位前紀、推古天皇崩御(628年)後の後継について諸臣が議論していた中、
蘇我蝦夷が田村皇子(舒明天皇)を推して氏族内で意見を統一しようとするも、
一族の境部臣摩理勢(さかひべのおみ・まりせ。馬子の弟)は聖徳太子の御子・山背大兄王を推して譲らず、
ついに、

  この時、蘇我氏の諸族等はことごとく集って、嶋大臣の為に墓を造るため、墓の所に宿泊していた。
  摩理勢臣は墓所の庵を壊し、蘇我の田所(なりどころ。私有地)に退去して(墓所に)仕えなかった。

という事態に及んだために蝦夷は摩理勢を殺すこととなったが、
石舞台古墳の東からは7世紀前半の掘立柱遺構が発見されており、この時の蘇我一族の宿泊所ではないかともいわれる。
墳丘が破壊されていることについても、乙巳の変(645)での蘇我本宗家滅亡時に行われたのではないかと考えられている。
『日本書紀』では崇峻天皇弑逆主犯として描かれているので、本宗家討滅のシンボルとして破壊された可能性は大きいだろう。

一帯は飛鳥歴史公園石舞台地区で、
きれいに整備され駐車場もあり(有料)、
お土産屋もある。
石室。
この角度からだと赤子が寝ているようにも見える
石室入口。
石室内。 遠景。

飛鳥川上坐宇須多岐比賣命(あすかのかわかみにいますうすたきひめのみこと)神社

高市郡明日香村稲渕に鎮座
石舞台古墳から、飛鳥川沿いの県道15号線を吉野に向かって上ってゆき、
関西大学飛鳥文化研究所・植田記念館を過ぎてもう少し上ってゆくと、
左カーブの石垣上に社務所があり、その傍に山の上へと伸びる急な石段があるが、
この山の中腹に鎮座している。

『延喜式』神名式、大和国高市郡五十四座の一、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社。
社名は、「飛鳥の川上に坐す、宇須多伎比賣命の神の社」の意味でウスタキヒメノミコトという女神を祀っており、
神名の「ウスタキ」は「臼滝」のことといわれる。
中世に衰微し、八幡神を勧請して近世は「宇佐八幡」と呼ばれていた。現在でも「宇佐さん」「宇佐の宮さん」と地元では呼ばれている。
現在の祭神は、宇須多岐比売命、神功皇后、応神天皇と、元来の祭神と八幡神をあわせ祀る。

『日本書紀』皇極天皇紀には、皇極天皇元年六月に大旱があったことが記され、
七月には村々の祝部(はふりべ)の教えに従い、
牛馬を殺して諸社の神を祭ったり、しきりに市を移したり、川の神に祈ったりしたが験はなかったため、
蘇我大臣(蝦夷)の発案で大乗経典を転読して雨を祈願することとし、
二十七日に百済大寺にて仏・菩薩像と四天王像を安置し衆僧を招いて大雲経などを読ませ、蘇我大臣は自ら香炉を執って焼香発願したが、
翌日、かすかに雨が降っただけだった。
そのため、ついに天皇みずからが雨を祈られることとなったが、

  八月の甲申朔(一日)、天皇は南淵の川上に行幸され、ひざまづいて四方を拝まれ、天を仰いで祈られた。
  すると、雷が鳴って大雨が降った。
  ついに雨は五日間降り、天下をあまねく潤した〔ある本にいうには、五日間雨が続き、九穀が実ったという〕。
  ここに天下の人民はともに万歳とお称え申し上げ、「至徳天皇(いきほひましますすめらみこと)」と申し上げた。

みごとに雨が降った。
牛馬を殺して神を祭ったり、雨乞いに市を移すのは中国に見られる祭祀方法で、
『日本霊異記』にも、漢神(からかみ)に祈るために毎年牛を殺して捧げていたという話(中巻・五)があったり
(なお、のちの延暦十年(791)九月十六日に牛を殺して漢神の祭りに用いる事の禁制が発せられている)、
『続日本紀』慶雲二年六月二十七日条には、雨乞いの修法とともに都の南門を閉じて市の店を出すことを停止したことが記されており、
この頃には、海外の文化の流入と共に外来の神「漢神」を祭ることや、その祭祀法を取り入れることが日本でも広く行われていたようだ。
日本人の外国かぶれは今に始まったことではない。
そういった外来の祭祀や仏法による祈雨よりも、天皇の徳が勝るということを特筆した記事だが、
天皇が祈られた「南淵」が現在の「稲渕」に比定されており、この神社の辺りではないかといわれている。

参道入口。川沿いの県道15号線からいきなり急な石段が上へ向かっている。
下を見下ろす。携帯じゃ下の路面が光って写らない
実際に見てみたらその角度に驚くと思う 参道はさらに上へ

鳥居見えたー 拝殿。
左右には末社なのだろう、小さな祠がある。
近隣の神社をいろいろ合祀しているようだ。
夏の山中(しかも雨上がり)なので、参道や境内は草や苔がむしている。
拝殿の後ろには木々があるだけで本殿がない。
大神神社と同じように、神体山を拝む形になっている。
拝殿北の崖下から、さらさらという渓流の音が聞こえてきて心地いい。

緑の木々に囲まれた神社。




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