にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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大和国:

十市郡(桜井市南部、橿原市北部、田原本町南端部)

天香山神社 畝尾都多本神社 山田寺跡
(付・東大谷日女命神社)

天香山(あまのかぐやま)神社。

橿原市南浦町、大和三山の一、天香久山の北麓に鎮座する。

『延喜式』神名式に、大和国十市郡十九座の一、
天香山坐櫛真命神社(あまのかぐやまにいますくしまのみことのかみのやしろ)〔元名は大麻等乃知神(おおまとのちのかみ)〕と記される。
大社の指定がなされ、祈年・月次・新嘗祭の奉幣に預かっていた。
『延喜式』神名式、京中に坐す神の左京二条に坐す神社二座のうち久慈真智命神(くしまちのみことのかみ。現在は廃絶)の本社とされる。
久慈真智命神は同じく左京二条に坐す神であった太詔戸命神とともに卜占を司る神であったといい、
この天香山神社もそれに深い関係のある神社だった。

『古事記』の天岩戸神話では、
天照大神を呼び戻すために神々が天上の天香山の「真押鹿(まをしか)」の肩を抜き、
同じく天香山の「天波波迦(あめのははか)」を取ってきて、鹿の骨を焼く卜占を行い、
また天香山の「五百津真賢木(いほつまさかき)」を抜いてきてそれに勾玉や玉、八咫鏡などを取り付けて祭りを行ったと記している。

『日本書紀』神武天皇即位前紀、八咫烏の導きにより熊野の険所を越え宇陀にまで進撃してきた神武天皇は、
宇陀の高倉山の頂にて国見を行い、行く手の要害に多数の軍が配置されているのを見た。
その夜、神武天皇が神に祈って眠りに着くと、夢に天神が現れて教えて言うには、
「天香山の社の中の土(はに)を取って天平瓮(あまのひらか。ひらかは平たい土器)と厳瓮(いつへ。神酒を入れる瓶)を作り、
天神地祇を祭って厳呪詛(いつのかしり。霊威ある呪詛)を行えば、虜(あだ)は自ずから帰伏するであろう」
目を覚ますと、先に帰順していた宇陀の豪族・弟猾(おとうかし)も同じ進言をしたので天皇は喜び、
椎根津彦(しいねつひこ。海に住んでいた国津神。天皇の船団を迎え、これに従った。のちに大和国造)
と弟猾を老夫婦に変装させて出発させた。
二人は敵のただ中を潜り抜けて天香山へとたどり着き、見事その土を持ち帰ったので、
早速その土で土器を作って天神地祇を祭り、土器を川に浮かべて呪詛を行った。
そして吉兆を得たので改めて神を祭り、そこから一気に大和盆地に押し出して大和地方を平定した。
このように、天香山の土をもって神を祭ることは大和の地の支配権を得ることであると考えられており、
崇神天皇紀には、崇神天皇十年の武埴安彦の反乱において、
武埴安彦の妻の吾田媛がひそかに天香山の土を取り、「是、大和国の物実(ものざね)」と呪詛したと記されている。
ただ、この反乱は、四道将軍の大彦命(おおひこのみこと)、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと。別名、吉備津彦命)らがすぐさま殲滅した。
このように天香久山は古くから呪術や祭祀に関係の深い地であった。それゆえに重んじられ、京中の神としても勧請されたのだろう。

祭神は櫛真神。
創祀は不明だが、『日本書紀』には神武天皇が大和に入る以前から天香山に「社」があったとしており、
またその地名に「天の」という形容がつくことから、かなり古くから神聖視され祭祀が行われていたことは想像に難くない。
『大和国正税帳』に、天平二年(730)に神田一町が寄進されたと記されており、それが史料初見。

境内入口。
拝殿前鳥居。 拝殿。
山の北麓に西向きで鎮座しているので、ちょっと薄暗い。
拝殿内の奉納絵馬。 本殿。右側にもうひとつ祠が見える。
末社に春日神社と八幡神社があるそうなので、そのどちらかだろう。
久方之天芳山 此夕 霞〔雨+非〕〔雨+微〕 春立下
(ひさかたの天香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも)

万葉集巻第十の巻頭を飾る、柿本人麻呂の歌碑。
ははかの木。
「ははか」とは朱桜(かにわざくら)のこと。
この皮を燃やして鹿の肩の骨を焼き、
裂け目の入り具合によって物事を占う。

『古事記』の天岩屋戸神話にもとづき、境内に植えられている。



畝尾都多本(うねおつたもと)神社。

橿原市木之本(このもと)町に鎮座。
天香久山の西、奈良文化財研究所の北隣に鎮座している。すぐ西には藤原京・藤原宮の遺構がある。

『延喜式』大和国十市郡十九座の一。
小社指定ではあったが、
祈年祭にあたっては小社に対する通常の幣帛に加えて鍬(すき)・靫(ゆぎ。矢を入れて背に負う筒状の道具)が奉られていた。
『古事記』に、
火の神・迦具土を生んだ伊耶那美命が陰部を焼かれて神避ったとき夫神である伊耶那岐命はそれを悲しんで泣いたが、
その時に一柱の神が成り出でたと記されている。

 「御涙に成りませる神の香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木本(このもと)に坐す、名は泣沢女神(なきさはめのかみ)」

ここに記された、泣沢女神の坐す「香山の畝尾の木本」が、畝尾都多本神社であるとされる。
『古事記』編纂時には存在しており、さらに『万葉集』にも、天武天皇の皇子・高市皇子が薨去したときの歌として、

 哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)すゑ祷祈(いの)れども我(わご)王(おほきみ)は高日(たかひ)知らしぬ(巻二、202)
  (泣沢女神の神社に神酒を捧げて〔回復を〕祈ったけれども、
  我が王、高市皇子は天空の太陽を治める御方になってしまわれた〔=薨去された〕)

とあり、高市皇子が薨去した持統天皇十年(696)時にはすでに信仰を集める神社であった。
泣沢女神は、葬礼において泣き喚く事で死者の魂を呼び戻そうとする「哭女(なきめ)」「泣女(なきおんな)」の神格化で、
この歌では、その神を祭ることで瀕死の高市皇子をこの世に引き留めようとしていたことがわかる。

この神社のすぐ北には、古くは「埴安池(はにやすのいけ)」と呼ばれる池があって、
神社はそのすぐ傍に鎮座していたと考えられており、
この場所では埴安池が起こす水流が泣き声のように聞こえ、そのため泣沢女命が祀られるようになったのではないか、
という説がある。

境内入口。早朝に参拝したが、それでも鬱蒼とした雰囲気。
境内。
正面に見えるのは末社・八幡社で、
拝殿と本殿は左手のほう。間違いやすい。
本殿はもとは埴安池を背にしていたため、
このような配置になっているのだろう。
拝殿。

史跡・山田寺跡。

桜井市山田
飛鳥北東部の山地の麓にある。

舒明天皇十三年(641。天皇崩御の年)、蘇我倉山田石川麻呂の発願により建立が始められた寺院。
二年後には金堂が完成、なお建立は進められたが、
その中、石川麻呂は中大兄皇子に協力し、皇極天皇四年(645)、権勢を振るっていた蘇我蝦夷・入鹿父子を打倒
(乙巳の変。なお石川麻呂は馬子の孫で蝦夷の甥、入鹿の従兄弟にあたる。蘇我氏一族だが、本宗家とは対立していた)。
大化改新の新政府において右大臣の高位に就いた。
しかし大化五年(649)三月二十四日、石川麻呂は異母兄弟の蘇我臣日向によって「謀反の意あり」と讒言され、官兵を差し向けられる。
石川麻呂は当時の都であった難波から大和に逃れ、
山田寺の建立を任されていた息子の興志(こごし)は父を迎え入れると、兵を集めての抵抗を主張した。
石川麻呂はこれを教え諭し、
「今はなお天皇への忠誠を抱いて黄泉に向かうのが望みであり、山田寺に来たのは終わりの時を安らかにするためである」
と言った。そして金堂の戸を開いて、
「わたしは生まれ生まれる世々にて、決してわが君をお恨み申し上げません」
と誓い、首をくくって死んだ。翌日、三月二十五日のことだった。妻子で殉死した者は八人であった。
この後、石川麻呂の無実を知った中大兄皇子は後悔し、彼を讒言した蘇我臣日向を筑紫大宰帥(つくしのおほみこともちのかみ。筑紫大宰府の長官)に命じた。
世の人は、「これは隠流(しのびながし)である」と言った、と『日本書紀』には記されている。
隠流とは、栄転に見せて実は流罪に処したことを言ったもの。
ただ、後世に菅原道真がされたように「大宰権帥」のような実権のない副官としてであればまだしも、
当時の筑紫宰となれば九州を統轄し兵馬の権も握り、国境警備から外国との折衝も行う重職であって、とても流罪とは思われないことから、
この事件は中大兄皇子の首謀であって、日向はその腹心として忠実にその任を果たしただけである、という説もある。
事実、日向は後に孝徳天皇の御病平癒祈願のために般若寺を創建しており、
一寺建立するだけの力を保持していたとすると、この事件によって失脚したとは思われない。
その説が正しかった場合、用済みの実力者に対していともたやすく行われるえげつない行為、皇子さまなんてクールドライ。

この事件によって山田寺の建立は一時中断した。
その後、建立は再開され、天武天皇五年(676)には塔が完成。
同十四年(685)についに建立が成り、発願者・倉山田石川麻呂の命日である3月25日に本尊薬師如来の開眼供養会が行われ、
また、同年8月12日には天皇の行幸があった。
石川麻呂の娘の遠智娘(をちのいらつめ)は中大兄皇子に嫁いで大田皇女・鸕野皇女の二皇女を生み、
二人はともに中大兄皇子の弟の大海人皇子(天武天皇)に嫁いだ。鸕野皇女はのちの持統天皇である。
この建立再開には祖父を追慕する鸕野皇后の力が大きかったのではないかと考えられている。
『日本書紀』にある石川麻呂の赤心吐露、名誉回復の記述にも、鸕野皇后や山田寺の力が働いただろうか。
(なお、遠智娘は父の死に大きな衝撃を受け、悲嘆のあまり間もなく亡くなったと『日本書紀』に記されている)
山田寺は法号を「浄土寺」あるいは「華厳寺」といい、さらにのちには文武天皇が封戸三百戸を施入するなど栄えたが、
奈良、そして平安遷都により中央から離れていくにつれ次第に衰微し、
十一世紀初めまではまだ荘厳を保っていたが、その後藤原鎌足の墓所である多武峰寺(現在の談山神社)の末寺となり、
源平の争乱収束直後の文治三年(1187)には興福寺の僧兵によって本尊の薬師三尊像を強奪されてしまった。
興福寺は先に平重衡の南都焼き討ちによって炎上しており、再建の中途であって、この仏像強奪もその再建事業の一環であった。
興福寺おっかねー
この仏像は現在も興福寺に仏頭のみ現存しており、「山田寺仏頭」として国宝に指定されている。
中世には主要伽藍は失われていたが、ただ講堂付近に何らかの施設があったようで、発掘からは興福寺銘の瓦も出土しており、
多武峰寺と興福寺の勢力争いの中、所属も二転三転していたことがうかがえる。
(両寺は共に藤原氏ゆかりの寺院であるが、多武峰寺が天台宗に改宗したことで法相宗の興福寺は大いに怒り、以後は争闘を繰り返していた)
鎌倉末期より発した大和猿楽四座のうちに「山田座」があって山田寺の庇護のもと活動したと推定されており、
その頃まではまだ寺院としての活動は続いていたらしい。
しかし戦国の争乱の中で山田寺は完全にその機能を停止し、その敷地は田畠となり、礎石は除かれた。
ただ、この地が山田寺の地であったということはわかっていたらしく、
元禄十二年(1702)、もとの講堂のあった場所に観音堂が建てられ、
さらにのちには蘇我倉山田石川麻呂の故事に基づく「雪冤」(冤罪を晴らす、の意)の碑が建てられた。
この観音堂は明治初年にいったん破却されたが明治二十五年に再興され、これが現在の大化山浄土寺。

創建当時の寺跡の規模は、東西118m、南北185m。
南門・中門・塔・金堂・講堂が一直線に並び、中門から出る回廊が塔と金堂を囲んでいた。
遺構の保存状態はよく、とくに東面回廊においては倒壊したままの状況で発掘されたため、
これによって当時の建築様式を詳しく知ることができた。

飛鳥の東を走る県道15号線の「山田寺前」バス停を東に入り、すぐの三叉路を右折すれば、右手に山田寺跡。
道向かいには駐車場(になっている所)がある。
山麓の開けた斜面で、日当たりもよく気持ちのいいところ。

山田寺跡前に立っている文化庁の案内板。
中門から講堂までのイラストつき。
写真左手が北になる。
山田寺跡、北東より。
回廊部分が一段高くなっており、
奥のさらに高い盛り土部分が塔と金堂跡。
左端には宝蔵跡がみえる。
東面回廊外にある、宝蔵跡。 回廊の東側、東面回廊跡。
東面回廊は、回廊が屋根瓦ごとそっくり西側へ倒壊したままの状態で発見された。
礎石や基壇縁石がほぼ完全な状態で残っており、東面回廊は南北23間の86.9m、基壇幅6.4mの規模と判明した。
柱や連子窓など多数の建築部材、表面に白土を塗った壁土も残っており、当時の建築様式を知る重要な発見となった。
北から数えて13~15間目の部材は特によく残っており、保存処理を施して組み上げられた姿を飛鳥資料館で見ることができる。

写真は北から。
金堂跡前。
基壇は東西21.6m、南北18.4m。高さは約2mで、
周囲には板石を敷き詰めた犬走りがめぐっていた。
また、塔と金堂の中間には石燈籠の台跡が、
そして金堂南面中央からは犬走りに接して東西2.4m×南北1.2mの
「礼拝石」と考えられる板石が発見された。
礼拝石を金堂の前に設置するのは珍しい形式であり、
原寸大復元して展示している。
礼拝石を金堂の前に置くのは、
倉山田石川麻呂が金堂の戸の所で自殺したことと関係しているのだろうか。
中門跡の前から塔跡。碑が立っている。
かつては基壇の上に五重塔が立っていたようだ。
この後ろには、南門跡。
南西にはこんもりとした森があり、鳥居が見える。
これは東大谷日女命(ひがしおおたにひめのみこと)神社で、
『延喜式』神名式、大和国高市郡五十四座の一、東大谷日女命神社の論社。
江戸時代には「八幡社」となっていたが、同時代に記された地誌である『大和志』が東大谷日女命神社に比定した。
この地は旧郡制では高市郡と十市郡の境付近であるが厳密には十市郡内であり、『延喜式』の記述とあわないため、論社はほかに複数存在する。
北面回廊を東から。 左の写真の位置より東面回廊方向。
大化山浄土寺。本尊、十一面観世音菩薩。
かつての講堂跡に建っている。境内に「雪冤」の碑あり。


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