にっぽんのじんじゃ・ならけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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山辺郡:
(山添村、天理市・奈良市・宇陀市のそれぞれ一部)
石上神宮 大和神社 都祁水分神社 都祁山口神社


石上(いそのかみ)神宮

天理市布留町に鎮座。

『延喜式』神名式、大和国山辺郡十三座の一、
石上坐布留御魂神社(いそのかみにいますふるのみたまのかみのやしろ)〔名神大。月次・相嘗・新嘗〕。
国の大事にあたって臨時に行われる祭「名神祭」において幣帛を受ける「大」の神、いわゆる「名神大社」に指定されていた。
祈年祭のほか月次・新嘗祭さらには相嘗祭にあたっても朝廷の班幣があった有力な社で、
非常に古い歴史をもち、かつては大和朝廷の武器庫であり、物部氏が管掌していた。
古代においては、「神宮」という名を持つのは伊勢の神宮(当時の呼称は伊勢大神宮、ややのちに伊勢太神宮)と石上神宮のみであった。
(平安時代になると鹿島・香取の二社も神宮号が用いられるようになる)
また、百済から贈られた「七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)」(国宝)が所蔵されているところとして知られる。

石上神宮は、大きく三柱の神を主祭神としている。
中心となるのは「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」で、
「国譲り」において葦原中国を平定するために天降った武甕槌神(たけみかづちのかみ)の剣。
のち、神武天皇の東征において、天皇とその軍が熊野の地の神の毒気に当てられて病み臥せってしまった時、
天照大神は武甕槌神に「地上は未だ騒がしい。またおまえが行って討て」と命じたが、
武甕槌神は「わたしが降るまでもありません。わたしが国を平定した剣を降せば事足ります」と言い、
この剣を熊野の高倉下(たかくらじ)という者のもとに降し、天皇に献上するように命じた。
天皇がこの剣を手にした瞬間、天皇とその軍勢にかかっていた毒気は払われ、熊野の神もひとりでに斬り伏せられた。
天皇が大和国を平定して橿原宮を定められた時以来、この剣は宮中に祀られていた。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」の神武天皇紀には、

  五十櫛(いくし)を布都主剣(ふつぬしのつるぎ)に刺し繞らし、大神を殿の内に崇め斎(いは)ふ。
   (多くの櫛を布都主剣の周囲に刺しめぐらし、大神を皇居の中に崇め奉った)  
    *上代は、「五」を「いつ」、「五十」を「い」と言い、「五十」で「多数」をあらわした。
                                                     
とある。
のち崇神天皇七年、天皇が天社・国社を定めて天神地祇八十万群神を祀った時、
皇居を出て石上の地に祀られたとする。

次に、「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」。
『延喜式』神名式に「石上に坐す布留御魂の神の社」とあるのは、この神による。
石上神宮を管掌した物部連の祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が天孫・瓊瓊杵尊に先立って天降る時、
天祖・天照大神は饒速日命に天璽瑞宝十種(あまつしるしのみづのたからとくさ)を授けた。
それは、瀛津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・
生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・道反玉(ちかへしのたま)・死反玉(まかるかへしのたま)・
蛇比礼(へみのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさぐさのもののひれ)。
天祖は教えて詔して、
「もし痛むところがあれば、この十の宝をもって一二三四五六七八九十(ひと・ふた・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・たり)と言って振るえ。
ゆらゆらと振るえ。そうすれば、死んだ者も生き返るであろう」
と仰せになった。
『先代旧事本紀』は、これが「布瑠(ふる)」という言葉のもとである、と記している。
この、いわゆる「物部十種神宝(もののべのとくさのかんだから)」の神霊を「布留御魂大神」と称する。
神武天皇が大和橿原の地に宮を定められた後、饒速日命の御子で物部氏の祖・宇摩志麻治命(うましまぢのみこと)は、
この十種神宝をもって天皇・皇后に「鎮魂祭(みたましづめのまつり)」を行った。
古くは、人の魂は放っておくと肉体から遊離して弱体化すると考えられており、魂を肉体に鎮めて力を回復する儀式を「鎮魂祭」といった。
この時、魂を肉体に鎮め奉ると同時に「魂振(たまふり)」によって魂を振るい動かして活性化させることも行われており、
神宝を「ふるへ、ゆらゆらとふるへ」というのはそれを促す手振り。
この鎮魂祭は猿女君の職掌とされ、律令祭祀においてもなお続けられていたが、
物部氏はその起源をみずからの氏祖に求めている。
十種神宝は崇神天皇治世、布都御魂剣が皇居より石上の地に遷座した時にともに祀られ、あわせて「石上大神」と崇め奉られたという。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」には以下の記事がある。

  弟、伊香我色雄命(いかがしこをのみこと)。
  この命は、春日宮にて天下をお治めになった天皇(第九代開化天皇)の御世に大臣となった。
  磯城瑞籬宮にて天下をお治めになった天皇(第十代崇神天皇)の御世、
  大臣に詔して幣帛を頒布させ、天社・国社を定め、物部の八十手が作る祭具をもって八十万の群神を祭った時、
  布都大神社(ふつのおほかみのやしろ)を大倭国山辺郡石上邑に遷し建てた。
  そして、天祖が饒速日尊にお授けになり、天より伝え来た天璽の瑞宝も同じくともに納めて清浄にお祭りし、
  名づけて石上大神(いそのかみのおほかみ)と申し上げた。
  そして国家のため、また氏神として崇め奉り、鎮護とした。

『先代旧事本紀』は、記紀や『古語拾遺』の記述を切り貼りして組み合わせる中に物部氏(物部連)系の独自伝承を多く含む書物であり、
饒速日命を皇孫・瓊瓊杵尊の兄神である尾張氏の祖・火明命と同体であるとしたり、
前の布都御魂剣のエピソードにおいて、熊野で布都御魂剣を神武天皇に献上した高倉下は饒速日命の御子・天香語山命のことであるとするなど、
皇室と物部氏の関係に触れる箇所では特に詳しい独自伝承を記してその繋がりの深さを力説している。
ただし、朝廷はそれらの伝承を採用せず、氏族の分類と出自を記した『新撰姓氏録』においても、
物部氏の後裔氏族は「天孫」ではなく「天神」カテゴリーに入れられ、「天つ神ではあるが、皇室とはつながらない神」としている。
残念。

そして、「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」。
これは、素戔嗚尊が八岐大蛇を斬った時の剣。
『日本書紀』における素戔嗚尊の八岐大蛇退治のエピソードには、本文に続いて六つの異伝が収録されているが、
その第四の異伝に素戔嗚尊の剣の名を「天蠅斫剣(あまのははきりのつるぎ)」といっている。
平安中期、朝廷の祭祀氏族である斎部(忌部)氏の斎部広成(いんべのひろなり)が著した『古語拾遺』に、

  素戔嗚神は天より出雲国の簸の川上に降られ、
  天十握剣〔その名は天羽羽斬(あまのははきり)。今、石上神宮にある。古語に、大蛇(をろち)を羽羽(はは)という。蛇を斬るの意である〕
  をもって八岐大蛇を斬られ、その尾の中から一振りの霊剣を得られた。その名を天叢雲という。

とあり、その剣は今、石上神宮にあるとしている。
また、第二の異伝においては、

  その蛇を斬った剣は蛇之麁正(をろちのあらまさ)という。今は石上(いそのかみ)にある。

と、名は違うものの、今は石上神宮にあることは共通している。
そして第三の異伝では、

  素戔嗚尊は蛇韓鋤剣(をろちのからさひのつるぎ)をもって大蛇の頭を斬り、腹を斬られた。
  (中略)素戔嗚尊が蛇を斬られた剣は、今、吉備の神部(かむとものを)のもとにある。

と、ここでは吉備の神部(神職、あるいは神社に付属する職能集団)のもとにあるとしている。
これは『延喜式』神名式、備前国赤坂郡六座の一にある「石上布都之魂神社(いそのかみのふつのみたまのかみのやしろ)」のこととされ、
ここに祀られていた素戔嗚尊の剣が遷座して石上神宮に祀られたとされている。
それはいつか、というと、『新撰姓氏録』大和国皇別の条に、

  布留宿禰(ふるのすくね)。
  柿本朝臣と同じ祖、天足彦国押人命(第五代孝昭天皇第一皇子)の七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)の後裔である。
  その男子は木事命(こごとのみこと)で、
  その男子の市川臣(いちかはのおみ)は大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと。仁徳天皇)の御世に倭(やまと。大和国)に行き、
  布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を布留村の高庭の地に斎(いわ)い奉って、
  市川臣を神主とされた。
  四世の孫は額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世に、蘇我蝦夷大臣は武蔵臣・物部首をみな神主首と呼んだ。
  そのため、臣の姓を失って物部首(もののべのおびと)となった。
  男子の正五位上日向は、天武天皇の御世、社の地の名によって布留宿禰の姓に改めた。
  日向の三世の孫は、邑智等である。

とあり、これは石上神宮の社家で、和珥氏・春日氏らと同族である布留宿禰の由来を記したものだが、
この中に、市川臣が仁徳天皇の世に大和へ行って、布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を布留村の高庭の地(石上神宮)に祭り、
神主となったとある。
この時に遷座されたのが、備前国の赤坂宮にあった石上布都之魂神、つまり現在にいう「布都斯魂大神」とする。
石上神宮はこの三柱の神を中心に、物部連の祖である宇摩志麻治命、布都努斯神社の神主となった市川臣、
また、『日本書紀』に石上神宮を管掌したと伝えられる垂仁天皇の皇子・五十瓊敷命(いにしきのみこと)、
そして石上神宮に拝殿を寄贈するなど崇敬特に篤かったと伝えられる白河天皇を配祀する。

 

石上神宮の創祀について記すのは『先代旧事本紀』で、物部連の祖・伊香我色雄命が石上大神を祭り、
子孫が代々石上神宮を管掌したとしているが、
『日本書紀』にはそのような記事はない。
国史初見は『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条に、

  五十瓊敷命(いにしきのみこと。垂仁天皇皇子)が茅渟(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかはかみのみや)にいらっしゃって、
  剣一千振を作られた。
  よってその剣を名づけて川上部(かはかみのとも)という。またの名を裸伴(あかはだがとも)という。
  石上神宮に収めた。
  こののち、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神宝を管掌させた。

とあり、この時にはすでに鎮座しており、剣を納める武器庫として機能していたことがわかる。
この記事に続き、異伝として、これら一千振の剣はこの時ではなく、のちに石上神宮へ移され、
その時に神が望まれて「春日臣の一族、市河という者に治めさせよ」と教えたので市河に治めさせたが、
これが物部首(もののべのおびと)の祖である、という伝承が記されており、『新撰姓氏録』の布留宿禰の起源伝承を裏付けている。
その後、垂仁天皇八十七年二月五日条に、

  五十瓊敷命が妹の大中姫(おほなかひめ)に語って、「私は老いた。もう神宝を掌ることはできない。今より後は必ずお前が掌りなさい」と言った。
  大中姫命は辞退して、「私はか弱い女です。どうしてよく天神庫(あまのほくら)に登ることができましょう」と言った。
  五十瓊敷命は、「神庫が高いといっても、私が神庫のために梯(はしだて)を作ってやろう。どうして神庫に登るのに難しいことがあろうか」と言った。
  ゆえに、諺に「神の神庫も樹梯(はしだて)の随(まにま)に」というのは、これがその由縁である。
  しかしついに大中姫命は物部十千根大連(もののべのとちねのおほむらじ)に神宝を授けて治めさせた。
  ゆえに物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めるのは、これがその由縁である。

とあって、この時より物部氏が石上神宮を管掌することになったと記す。
物部十千根大連はこれより先の垂仁天皇二十六年、勅命によって出雲国に赴き国内の神宝をすべて検校(チェック)して天皇に奏上、
その功によって天皇から出雲国の神宝を司るようにも命じられている、いわば神宝のスペシャリスト。
『先代旧事本紀』は記紀の記述をベースにして記されているので、物部連が代々石上神宮を掌ったと記しつつも、
五十瓊敷命が神宮を管掌した事も記しており、矛盾が見られる。
石上神宮に収蔵される神宝や武器が増えてきたため、祭祀とともに軍事・警察も掌る物部連がその管理と警備のために神宮に関わるようになり、
そのうち神宮をも管掌していくようになっていったものだろう。
『日本書紀』の崇神天皇・垂仁天皇紀には、天皇が出雲など各地の神宝を見たいと言ったり、献上するように命じたりする記事がみえる。
これは朝廷が周辺地域を平定していく過程で、服属のしるしとしてその地の神宝を貢がせていたということだろうか。
後世には、朝鮮からの献上品を伊勢神宮などの諸社に奉納したという記事がみられるが、
この時期、そういった各地からの神宝は、ことごとく石上神宮に納められていたのだろう。
五十瓊敷命と大中姫のエピソードから、その「天神庫」は相当高い高床式倉庫であったとみられる。

『日本書紀』履中天皇即位前紀には、
仁徳天皇が崩御した後、皇太子の去来穂別尊(いざほわけのみこと。履中天皇)がまだ即位しない時、
同母弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)は太子を弑せんとしてその館を襲ったが、
太子に急を知らせた平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・物部大前宿禰(もののべのおほまへのすくね)・阿知使主(あちのおみ)は太子を助けて逃走、
一行は当時の都であった難波より大和へ向かい、大和へ至る諸道が封鎖されているのを突破し、
「石上振神宮(いそのかみのふるのかみのみや)に滞在した、と記している。
また、雄略天皇紀には、
阿閉臣国見(あへのおみ・くにみ)という者が、
「廬城部連武彦(いほきべのむらじ・たけひこ)が伊勢神宮の斎宮である栲幡皇女(たくはたのひめみこ)と姦通して孕ませた」
と讒言し、武彦の父の枳莒喩(きこゆ)は災いが身に及ぶことを恐れて武彦を殺し、栲幡皇女は姦通の疑いをかけられたことを恥じて自殺したが、
皇女の腹を裂いてみたところ無実であることが明らかとなったので、枳莒喩は子を殺した事を悔い、国見を殺して報復しようとしたが、
国見は石上神宮に逃げ隠れた(あるいは、枳莒喩は報復して国見を殺し、石上神宮に逃げ隠れた。この箇所、漢文不明確のため主語不明)、
とある。
これらのことから、石上神宮に遁れた者はたとえ罪人であっても外部より追及されない、
聖域として治外法権的な権力をもっていたと考えられている。

天武天皇三年(674)、天皇は施基皇子(しきのみこ)を遣わして石上神宮の神宝を膏油で磨かせ、
また神府に収められている諸家から献じられた神宝をその子孫に返還させた。
これにより、石上神宮は皇室の奉献した武具のみが所蔵されることとなった。
おそらく、神庫が飽和状態になってきていたのだろう。
百年余りののち都が平安京に遷った時、緊急時に備えて石上神宮に納められている武具を京の近くに保管しようという計画が持ち上がり、
延暦二十三年(804)二月五日、石上神宮の武具を山城国葛野郡に運び収めた。
しかし、翌年にはそれらの神宝は石上神宮に返還され、さらに石上神宮を修造することとなった。
その顛末は日本国三番目の正史『日本後紀』に記されている。

  石上神宮に代々収められた武器類を非常事態に備えて平安京の近くに移すこととしたが、
  神宮社家の官人、布留宿禰高庭(ふるのすくね・たかには)が、
  「石上神宮神戸の民よりの書状によると、最近石上大神が鏑矢を盛んに放っており、村の者が皆不思議がっているが、
  何の兆しであるかわからない、とありました。しかしそれからほどなく、神宝である武器を移送する決定がなされました」
  と、移送を思いとどまるよう上申した。
  しかし移送についての占いは吉だったので、輸送を強行したところ、
  武器を収めた葛野郡の新しい蔵はひとりでに倒れてしまったため、兵庫寮に収めた。
  さらに桓武天皇が病床に倒れられ、同時に平城京中の女巫に石上大神が託宣して言うには、
  「石上の武器は代々の天皇が懇ろな志をもって奉納した神宝であり、今、神宮の庭を汚して運収しているのは不当である。
  ゆえに天下の諸々の神に訴え、今上の帝の名を天帝に送り、裁きを求めるのみである」
  これを聞いた春日祭使の建部千継が平安京の桓武天皇に密かに上奏、
  天皇は石上神宮に二棟の仮屋を建て、御飯と御衣を御輿に納め、建部千継を遣わして女巫を召し、
  布留大神の鎮魂(みたましずめ)をさせた。
  女巫は宵を通して憤怒のまま前と同じことを口走っていたが、朝になると穏やかになった。
  天皇は自らの年齢と同じ六十九人の有徳の僧を神宮に送って神前読経させる一方、詔を奏上させ、
  神宝を石上神宮に返還し、幣帛と鏡を奉納した。
  (要点抜粋)

石上神宮の隠然たる勢力がうかがえる。
『日本後紀』延暦二十四年(805)二月十日条には、

  造石上神宮使の正五位下石川朝臣吉備人らが石上神宮修造のための労務者を計上し、
  のべ十五万七千余人が必要と上申、太政官はこれを奏上した。

とあり、修造はかなりの事業であったらしい。おそらく、神庫の造替が労力のほとんどだったか。

石上神宮には古来本殿がなく、禁足地があって、それを拝していた。
上の『日本後紀』の記事には、桓武天皇が石上大神を祭るため、
石上神宮に「二棟の仮屋」を建て、神輿に神饌と御衣を奉献したとしている。
禁足地は神祭の場であり、神祭においてはそこに仮屋を建て、その中に神輿を据え、幣帛を奉っていたらしい。
「二棟」というのは、『神名式』に石上坐布留御魂神社は「一座」とあり、
平安中期成立の『先代旧事本紀』には布都御魂剣と十種神宝を合わせて「石上大神」と称しているので、
石上の神の仮屋と、それを祭るための仮拝殿ということか
(二棟がそれぞれの神の仮屋とすると、布都御魂大神と布留御魂大神の「二座」を祀っていることになり、
石上神宮ほどの古社に並んで祭られる二神がいるのに、祈年・月次・新嘗・相嘗祭の幣帛は一座分、というのはまず考えられないため)。
この禁足地は「石上布留高庭」「御本地」「神籬」と呼ばれており、
神籬と呼ばれていたのは、その中央に高まりがあって、アカメモチの木が一本生えていたため。
ここには布都御魂大神である神剣「韴霊(ふつのみたま)」が埋まっていると言い伝えられており、
明治七年、当時の大宮司であった菅政友(水戸出身の学者。近代になり、神職の世襲は廃されていた)は、
その伝承を確かめるために官許を得て禁足地を発掘した。
すると、多くの玉類、剣、矛が出土し、その中に見つかったひときわ長い剣が「韴霊」であるとされ、
これを奉安するため、明治四十三年から大正二年にかけて禁足地を拡張し、本殿を造営している。
出土した「韴霊」は、明治天皇の御叡覧を賜わった後、刀工の手によってその影像が三振り造られた。
一振りは宮内省に献呈され、一振りは石上神宮に納められ、
残る一振りは、布都斯御魂大神の旧地とされる備前赤坂の石上布都魂神社に奉納されている。

石上大神は剣神、あるいは鎮魂の神であるが、
祈雨神祭八十五座のうちに「石上神 一座」とあり、五穀豊穣のための雨を祈る神でもあった。
雨を祈る神は基本的に山や川の神であるので、
石上の神ももともとは布留山・布留川の信仰をベースとして成立したのだろうか。
中世の伝承には、
「布留川の川上より、一本の鋭い剣が当たるものすべてを穿ち切り裂きながら流れ下ってきたが、
川辺で布を洗っていた貞女の布にかかると、これを切り裂くことなくその中に留まった。ゆえにこの地を布留という」
という地名起源伝承がある。
「布に留まったから布留(フル)」というのは、古い地名の起源が漢字の音にもとづくことはまずありえないので付会にすぎないとしても、
「川と剣そして乙女」というシチュエーションはごく古い時期、初期の祭祀形態を反映しているのではないかとも考えられる。
記紀にみえる、混沌をかき回してその雫からオノゴロ島を造った天瓊矛(あめのぬぼこ)、
八岐大蛇より出現した草薙剣の別名としてみえる「天叢雲剣」の名称、
また『播磨国風土記』にみえる、新羅から海を渡って来た天日槍(あめのひぼこ)が葦原色許男命(あしはらしこをのみこと。大国主命)に土地を乞い、
手にした矛で海水をかき回してそこに宿ったので、色許はその勢威を恐れ畏んで先に土地を占めようと思った、という伝承のように、
剣は水神である蛇の象徴であり、水を制御する能力があると考えられていた。
元々、布留の山川に対する信仰があり、その祭祀のために剣が祭られていたのが石上神宮の創祀の姿であって、
のち、何らかの理由でここに各地からの神宝が集中していき、大豪族の物部連も介入してくるようになって、神社の姿も変容していったのだろう。

鳥居。
境内には鶏がいる。 彼らは飛ぶ。
基本的に野生で、猫やイタチなどから身を守るために飛ぶ。
よって気性は荒々しく、下手に手を出すと、
「こいつは餌を持っていない→襲うつもりだ!」
と短絡的に逆襲されるので注意。
だってオラはにわとりだから。
楼門をくぐると拝殿。その向こうには禁足地があり、その中に本殿が建っている。
楼門は鎌倉時代末期、文保二年(1318)の造営で、国指定重要文化財。
かつては鐘のある鐘楼門だったが、明治の神仏分離時に外されている。
拝殿は、伝承によれば白河天皇が永保元年(1081)に宮中の神嘉殿を移築したものと伝えられているが、
建築様式的には鎌倉時代初期のものとみられている。
どちらにせよ現存最古級の拝殿建築であり、国宝に指定されている。

摂社、出雲建雄(いずもたけお)神社、天神社、七座社、猿田彦神社。
修理中で仮遷座がなされていた。

正面に天神社。
高皇産霊尊と神皇産霊尊の二座を祀る。

その向かって右に建つ七座社は、
生産霊神(いくむすひのかみ)・足産霊神(たるむすひのかみ)・魂留産霊神(たまつめむすひのかみ)・
大宮売神(おおみやのめのかみ)・御膳都神(みけつかみ)・辞代主神(ことしろぬしのかみ)・
大直日神(おおなおびのかみ)の七柱を祀る。
天神社の二座と、七座社の大直日神を除いた六座は、かつて宮中の神祇官に祀られていた、いわゆる「宮中八神」。
天皇の魂を肉体にしっかりと鎮めて力を回復させる「鎮魂祭」において祭られる神であり、
十種神宝を祀り、鎮魂の儀を伝える石上神宮においても重要な神々。
大直日神は、伊弉冉尊が黄泉から戻ってきた後、筑紫の日向の橘の小戸の檍原(あはぎはら)にて禊を行った際、
その身についた穢れからまず災いの神である八十枉津日神(やそまがつひのかみ)が化成したが、
この枉(まが)を「直す」ために神直日神(かむなおびのかみ)とともに生まれた神。
禊の神、祓えの神として信仰されている。

手前の、足場が組まれて修理中の社が出雲建雄神社で、
『延喜式』神名式、大和国山辺郡十三座の一。
祭神は出雲建雄神で、草薙剣の荒魂(あらみたま)とされている。
伝承によれば、天武天皇の朱雀元年、神官の布留宿禰邑智(おち)が布留川上流の日谷に八重雲湧き神剣が光り輝くという霊夢を見、
その場へ行ったところ八つの霊石があって、神が、
「わたしは尾張国の女が祭る神である。今この地に天降り、皇孫を安んじ諸民を守ろう」
と託宣したので、神宮の前の岡の上に社殿を建てて祀ったのが創祀という。
『日本書紀』によれば、草薙剣は、天智天皇七年(668)に道行という僧によって熱田神宮より盗まれ新羅へと持ち去られようとしており、
それが未遂に終わったのちは宮中もしくは畿内のどこかに置かれていたらしく、
天武天皇の朱鳥元年(686)、天皇の御病について卜したところ、「草薙剣の祟り」と出たので、即日熱田社に送り置かせた、とある。
草薙剣の一時保管場所として石上神宮は絶好のところではあるが、あるいはこの時草薙剣が一時石上神宮にあり、
それがこの社の創祀とかかわりがあるのかもしれない。
江戸時代には主祭神の一である布都斯御魂大神の御子として「若宮」と呼ばれていた。
布都斯御魂大神は素戔嗚尊が八岐大蛇を斬った剣であり、草薙剣はその剣によって大蛇の尾から出現したので、
布都斯御魂大神の御子が出雲建雄神である、というのは理に叶っている。

奥の山脇に猿田彦神社の小祠が鎮座する。
かつては東の山中に祀られていたが、明治十年に現在地に遷座。
のち明治四十三年、内山永久寺の鎮守社であった住吉社を合祀している。
祭神は猿田彦神、住吉神である底筒男神・中筒男神・上筒男神・息長帯姫命(神功皇后)、
そして龍神で、雨の神である高龗神。
摂社・出雲建雄神社拝殿。
かつて石上神宮の南方にあった内山永久寺の鎮守社の拝殿を移築したもの。

かつて石上神宮の南方には内山永久寺という大寺院があった。
鳥羽天皇御願により永久年間(1113-17)に建立と伝えられ、元号を以て寺号としたという。
長く興福寺所管だったが、江戸時代になり真言宗へと改宗。
盛時には堂塔五十二宇を数え、江戸期の社領は971石と経済的にも充実し、
「大和の日光」と呼ばれるほどの名刹だった。
石上神宮近隣にあったことからその神宮寺的な存在だったが、
明治初年の神仏分離時に僧侶はこぞって還俗し石上神宮や近隣の神社の神職となったために寺院の維持ができなくなり、
諸堂取払が仰せ付けられたために近隣の住民は競って寺院の建物を打ち毀し持ち去って材木や薪にした。
明治七年に廃寺、翌年に残っていた伽藍の競売が行われて、真言堂、本堂、観音堂、不動堂、大師堂などが解体されて運び去られ、
跡地は開墾されて農地になった。
永久寺廃寺の検分の時に役人が寺へ出向いたところ、寺僧は還俗の意思を示すため、
文殊菩薩の像を持ち出すと斧でそれをかち割ってしまったという。
あまりの行為に、役人はすぐさまその僧を寺から叩き出した。
さすがに仏像や仏具は誰も手を付けなかったので、役所はこれらを地元の庄屋へと一時預けることとしたが、
そのうちその人の所有物のようになってしまい、文明開化がもてはやされる中、明治二十年頃までは伝統芸術の価値は無に等しかったので、
それらは二束三文でどんどん処分されてしまって、現在は海外へ流出したものもある。
また金泥の経巻は焼いて、その灰から金を採って売っていたという。
大和はいわゆる廃仏毀釈が激烈に行われたところだが、ここまでされるとは、
江戸時代の長い間に民衆が溜め込んでいた寺院に対する不満を思い切り爆発させたとしか思えない。
還俗の意思を示したいからといって、日々拝んでいたはずの仏像にマキ割りダイナミックした僧侶の信仰心とモラルの程度からもそれが推し量れる。

永久寺の本堂の横には「三社」と呼ばれる鎮守があり、寺院が失われたあとも残っていたが、
明治二十三年に放火により焼失し、割拝殿のみが残って荒廃していたのを、
大正三年に現在地に移築して出雲建雄神社拝殿とした。
造営は保延三年(1138)で、その後二度の改築を経て現在の形となったとみられており、国宝に指定されている。
境内。

大和(おおやまと)神社

天理市新泉町に鎮座。
『延喜式』大和国山辺郡十三座のうち、
大和坐大国魂神社(おほやまとにいますおほくにたまのかみのやしろ)三座〔名神大。月次・新嘗・相嘗〕。
大和の国土の神霊である、日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)を祀る神社。

国史初見は『日本書紀』崇神天皇六年条。
当時、国内に大いに疫病が流行して多数の民が死亡していた。
これによって人々は流離し、あるいは背く者もあって、徳をもってしても治めることはできなかった。
そこで、天皇は朝に夕に神祇に謝罪されていたが、

  これより先、天照大神と倭大国魂の二神は、天皇の大殿の内に並んで祭られていた。
  しかし、その神の勢いを畏み、共に住むことに不安があった。
  そこで天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して倭笠縫邑に祭り、それによって磯堅城神籬(しかたきのひもろき)を立てた。
  〔神籬、ここには比莽呂岐(ヒモロキ)という〕
  また日本大国魂神を渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に託して祭らせた。
  しかし、渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ細って、祭ることはできなかった。

それまで皇居内に並んで祀られていた天照大神と倭大国魂神を、その勢威を畏んで別の処で祭るようにした。
『古語拾遺』には、それまでの祭祀について「同殿同床を常とし、神物も官物の分別もまだなかった」とあり、
日常生活の場所で、日常のもので神を祭っていたが、
この時代になると「ようやく神威を畏んで、殿を同じくすることが心穏やかでなかった」と、
神祇への接し方、そして祭祀の方法に変化がみられるようになってきたらしく、
神を清浄な場所で清浄に祭るようになっていく。
天照大神は倭笠縫邑に磯堅城神籬(しかたきのひもろき)にて祭られるようになり、のち、倭姫命によって神風の伊勢国に遷座することになる。
倭大国魂神はどこに祀られたのか、ここには記されていないが、
その御杖代(みつえしろ。憑り代)となった皇女・渟名城入姫命は髪が抜け落ち体は痩せ細って祭祀することが出来なくなった、とあり、
倭大国魂神の霊威にその身が耐えられなかったことを示す。
やがてこの疫病は三輪山の大物主神の御心であると判明したが、崇神天皇が大物主神を祀ってもなお験はなかった。
そこでなお祈ったところ、その夢に貴人が現れ、大物主神と名乗って、
御子の大田田根子(おほたたねこ)に自分を祭らせればすぐに平らぐであろうと告げた。
その後、

  (崇神天皇七年)秋八月の癸卯の朔の己酉(七日)、
  倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかむあさぢはらまくはしひめ)、
  穂積臣(ほづみのおみ。物部連の一族)の遠祖大水口宿禰(おおみなくちのすくね)、
  伊勢麻績君(いせのをみのきみ)の三人が共に同じ夢を見て奏上することには、
  「昨夜見た夢に一人の貴人が出てきました。その貴人は教えて、
  『大田田根子を大物主大神を祭る主とし、市磯長尾市(いちしのながをち)を倭大国魂神を祭る主とすれば、必ず天下は太平となるであろう』
  とお告げになりました」
  と申し上げた。
  天皇は夢の言葉を得てますます心に喜ばれ、(後略)
  十一月の丁卯朔の己卯(十三日)、伊香色雄に命じて物部の八十手(やそで。多くの人々)が作った祭具を用いて、
  大田田根子を大物主大神を祭る主とし、また長尾市を倭大国魂神を祭る主とした。
  その後、他の神を祭ってよいか卜したところ、「吉」と出た。
  そこで別に八十万群神を祭り、そして天社・国社と神地・神戸をお定めになった。
  ここに疫病ははじめて終息し、国内はようやく静まり、五穀は豊かに稔って、百姓は豊穣となった。

この時、「神はその子孫など相応しい氏族が神主となって祭り、天皇はそのうえで諸々の天神地祇を祭り治める」という形が確立された。
市磯長尾市は倭直(やまとのあたひ)の祖で、大和国造氏族。
大和国造の祖は東征途上の神武天皇の海上案内を行った国つ神・椎根津彦命であり、海のない大和国とは本来関係がないが、
大和一国の祭政を掌る国造は大和の地の神霊を祭るにもっとも相応しい者といえる。

『日本書紀』垂仁天皇二十五年春三月十日条は、伊勢神宮の創祀について記された有名な記事だが、
この部分にはひとつの異伝が収録されている。

  一説にいう。
  天皇は倭姫命を御杖代として天照大神にたてまつられた。
  そこで倭姫命は天照大神を磯城(しき)の厳橿(いつかし)の本にお鎮め申し上げて祭った。
  その後、神の教えに従い、丁巳年(垂仁天皇26年)の冬十月甲子の日に、伊勢国の渡遇宮(わたらひのみや)にお遷し申し上げた。
  この時、倭大神(やまとのおほかみ。倭大国魂神)が穂積臣の祖・大水口宿禰に憑依し、教えて、
  「太初(天地開闢前の始めの時)、約束して、
  『天照大神はことごとく天原を治めよ。
  皇御孫尊(すめみまのみこと。代々の天皇)は専ら葦原中国の八十魂神(やそたまのかみ。多くの神霊、つまり天神地祇)を治めよ。
  わたしは自ら大地官(おほつちつかさ。地主)を治めよう』
  と仰せになった。その言葉はすでに成就されている。
  しかし、先帝の御間城天皇(みまきのすめらみこと。崇神天皇)は、
  神祇をお祭りにはなったが詳しくその根源を探られず、枝葉のところでやめてしまわれた。ゆえにその天皇は御短命であった。
  そこで今の天皇であるあなたが先帝の及ばなかった事を悔いられて慎み祭られるならば、
  あなた様の御寿命は長く、また天下は太平であろう」
  と仰せになった。
  その時、天皇はその言葉をお聞きになると中臣連の祖・探湯主(くかぬし)に命じて、誰をもって大倭大神を祭らせればよいか卜させられた。
  すると、渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が卜に合った。
  そこで渟名城稚姫命に命じ、神地を穴磯邑(あなしのむら。桜井市穴師)に定め、
  大市(おほいち。箸墓の辺り)の長岡岬(ながをかみさき)にて祭らせられた。
  しかし、この渟名城稚姫命はすでに全身がすっかり痩せ衰え、祭ることができなかった。
  そのため、大倭直の祖・長尾市宿禰に命じて祭らせられた、という。

古くは、天原をつかさどる天照大神と大地をつかさどる倭大国魂神はつねにワンセットであり、
天皇の統治はその二神の契約によって保証されている、と考えられていたようだ
(太初の契約、というのはやや時代が下ってからの思想かもしれないけれど)。
また、ここで鎮座地とされている「穴磯邑の大市の長岡岬」は、箸墓の辺りの、巻向山の山裾が長く突き出している先端と考えられるが、
現在の鎮座地より4kmほど南であり、
天照大神が一時遷座していた倭笠縫邑の地と伝えられる檜原神社の近隣となる。
ここは垂仁天皇・景行天皇が宮としていた纏向宮の地であり、
近年では纏向遺跡の発掘が進み、その規模から「邪馬台国か?」との声も高まっている所。
ここに天照大神・倭大国魂神が一時祭られ、その後、各々さらに良い場所を求めて現在地へ遷ったということだろうか。
記紀において崇神天皇は長寿の天皇として記されているが、この伝承では神祭の根源を求めなかったために短命であったとしている。
特に『日本書紀』は神武天皇元年を辛酉年、紀元前660年に設定するタイムテーブルで記されており、
尺合わせのために事績の多い天皇は長命として描かれる傾向があるので、実際のところはどうだったのか、想像力をかきたてる所といえる。

『日本書紀』持統天皇六年(692)五月二十六日条に、
藤原の地に日本初の恒久的な都城である新益京(藤原京)が造営されることになったので、
五月二十三日に難波王を遣わして藤原の宮地を鎮祭した(地鎮祭を行った)のち、
使者を遣わして幣帛を伊勢・大倭・住吉・紀伊の大神にたてまつり、新宮のことを奉告した、という記事がある。
同年十二月二十四日には、新羅からの献上品を伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足(*大和国添上郡、宇奈太理坐高御魂神社。大社、月次・相嘗・新嘗)
にたてまつらせた、とあり、藤原京の造営にあたっては地主神としてとくに丁重に祭られた。

『続日本紀』和銅七年(714)二月九日条には、
従五位下の大倭忌寸五百足(おほやまとのいみき・いほたり)を氏上(うじのかみ。一族の長)に任じ、神の祭祀をつかさどらせた、という記事があり、
倭直の子孫である大倭忌寸の氏上が大和神社を管掌していたことがわかる。
のち天平九年(737)、神の託宣によって大倭忌寸小東人と大倭忌寸水守の二人に宿禰、その他の族人には連の姓が授けられており、
大倭宿禰水守は天平十九年(747)四月二十二日の記事において「大倭神主」と記されている。

養老令に対する明法家の解釈を集成した『令集解』には、養老神祇令内の「天神地祇」という語について註釈し、

  いわく、天神は、伊勢、山城鴨(京都府の賀茂社)、住吉、出雲国造の斎く神(熊野大社)などの類がこれである。
  地祇は、大神、大倭、葛木鴨(奈良県葛城地方の鴨氏奉斎神社)、出雲大汝神(出雲大社)などの類がこれである。

という見解が記されており、地祇、つまり国つ神の代表的な存在の一であるとみなされていたことがわかる。

大和神社の神はまた雨を祈る神であり、『延喜式』臨時祭式祈雨神祭条においては、大和国の祈雨神の筆頭に記されている。
大和の国土の神霊であるため、その中の山・川はすべて大和の神の領するところ、ということからだろう。
国史には祈雨奉幣記事が幾度も見られ、
『日本三代実録』貞観十二年(870)七月二十二日条には、
「使いを遣わして河内国に堤を築かせたが、完成する前に水害に見舞われることがないよう、河内の水源は大和国から出ることから、
大和国の三歳神(みとしのかみ。葛木御歳神社)、大和神、広瀬神、龍田神に奉幣して雨のないことを祈った」という記事がある。
また、畿内の代表的な祈雨神であった吉野の丹生川上神社とも深い関係を有していたらしく、
丹生川上神への奉幣には大和社の神主が勅使に随行し、幣帛を奉ることになっていた。
また、寛平七年六月二十六日太政官符にみえるように、丹生川上社の境界や禁制についての訴えを大和社の神主が行うなど、
丹生川上神社を摂社のような位置づけで管理していたらしい。

『延喜式』神名式には、三座の神に班幣がなされることになっている。
主祭神もちろん日本大国魂大神だが、残り二座がどういう神であったかについては、当時の所伝が残っていないことから今までに諸説あった。
現在では中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神(大国主神の別名)、右殿に御歳大神(五穀の稔りの神)の三座を祀っている。

鳥居。これしか撮ってなかった(汗
田畑に囲まれた、村の鎮守の神様、といった感じの境内でした。
御祭神は、その昔には天照大御神と同列に祀られていたすごい神様なんだけど。
でも、この大和の地を治める土地神様なので、こういう感じでいいのかもしれない。

都祁水分(つげみくまり)神社

奈良市都祁友田町に鎮座。
名阪国道、針ICから向かうのがいちばんわかりやすいルートか。
自分は篠畑神社からだったので、国道389号線を北上して、白石交差点で左折し県道781号線を入っていたら右手に見えてきた。

『延喜式』神名式、山辺郡十三座の一、都祁水分神社〔大。月次・新嘗〕。
大社に指定され、祈年祭のほか、月次祭・新嘗祭においても朝廷の幣帛が頒布される重要な社であり、
表記順も、大和神社・石上神宮に続く三番目となっている。
『延喜式』祝詞式所収の「祈年祭祝詞」には、大和国の東西南北四方の水分神の一として挙げられており、
五穀豊穣を祈るにあたって特に重要な水を司る神として崇敬されていた。
四水分神のうち、都祁は北方にあたる。東が宇陀、南が吉野、西が葛木。
この神社の近くより、大和川の源流、そして木津川に注ぐ布目川の源流のひとつが発しており、
大和川・木津川の水の配分を司る神としてこの地に祀られたと考えられている。

祭神は速秋津彦命、天水分神、国水分神。
天平二年(730)の「大倭国(大和国)正税帳」に「都祁神戸」と記され(神戸〔かんべ〕は、神社の祭祀維持のために神社に付属した民戸)、
このころにはすでに存在していたことがうかがえる。
当初はここより南、小山戸の地に鎮座する都祁山口神社と同所に祀られていたが、
天禄二年(971)に現在の位置に遷座したと伝えられる。
現在の本殿は明応八年(1499)造営で、国の重要文化財に指定。
また天平十二年、聖武天皇が行幸の途中一夜を過ごした堀越頓宮、
伊勢へ向かう斎王がその途上滞留した頓宮のひとつ、都介頓宮もこの辺りにあるといわれる。

参道正面より、神社を臨む。
堂々とした鎮守の森がいい。
鳥居前。 真っ直ぐ参道が伸びる。

正面に舞殿、その向こうに拝殿。
すぐ左手には社務所、右には手水舎。手水舎には、鳥が汚すために網がかかっていた。
広場の両側には、直会殿、神輿舎が配されている。

舞殿。 拝殿。
後ろには朱塗りの春日造の本殿がある。
直会殿。 祭りのときはどんな光景になるんだろうか。
北のはずれにある宝物殿。
中には室町中期作の金銅装神輿があるようだ。
奈良県指定文化財。
神社の東北にある、山辺の御井。
万葉集巻一に、
「和銅五年壬子(712)夏四月、
長田王(ながたのおほきみ)を伊勢の斎宮に遣はす時、
山辺の御井にして作る歌」
が収録されている。

山辺(やまのへ)の 御井を見がてり 
神風(かむかぜ)の 伊勢処女等(いせをとめども) 相見つるかも

(山辺の御井を見に来たついでに、
伊勢の少女たちに出逢うことができた)

これに歌われた「山辺御井」がこれであるといわれる。
・・・しかし、もろに大和国のここで伊勢国の乙女に出会うことはまずないので、
さすがに無理があるとは思う。伊勢国(三重県)のどこかだろう。
山辺御井の位置は現在も不明であるが、
本居宣長が『玉勝間』にて、
山辺の御井の所在地は「鈴鹿郡山辺村」(現在の鈴鹿市山辺町)
であると記しており、これが有力視されている。

都祁山口(つげやまくち)神社。

奈良市都祁小山戸町に鎮座。
都祁の平地部南端の山の麓。

『延喜式』神名式、大和国山辺郡十三座の一、都祁山口神社〔大。月次・新嘗〕の論社。
天理市杣之内町にも都祁山口神社が鎮座しており、論社となっている。
山口神社は「山の入口」に鎮座するので、立地的にはこちらでもおかしくない。
とりあえず小山戸町のほうのを。

都祁山口神社は名神大社に列し、四時祭(しいじさい。毎年行う恒例祭)の祈年祭・新嘗祭、
そして臨時祭の名神祭において朝廷より奉幣があった。
都祁の地は、古代おいては神武天皇の第二皇子・神八井耳命の後裔が闘鶏直(つげのあたい)として治めており、
都祁山口神社神主職も同族が歴任していた。
都祁水分神社も創祀当初はこの地に鎮座しており、
天平二年(730)の「大倭国(大和国)正税帳」に「都祁神戸」と記され(神戸〔かんべ〕は、神社の祭祀維持のために神社に付属した民戸)、
都祁山口神社・水分神社ともこのころにはすでに存在していたことがうかがえる。
山口神社は寛平三年(891)に山中より山麓の現在地に遷座、
水分神社は天禄二年(971)にこの地から現在の位置に遷座した。
都祁(闘鶏)氏は、貞観元年(859)に藤原時忠が女婿として入り神主職を継いだことで藤原氏と称し、
その後衰微するも南北朝時代には北畠氏に従い北と改姓、以後神主職とあわせてこの地を治めた。
しかし神事祭礼は水分神社のほうに重きが置かれるようになり、山口神社は衰微、社地は水分神社の仮宮として存続していた。
江戸時代になってようやく山口神社の社殿が再興、以後改修を重ねて維持され、今に至る。

主祭神は山の神・大山祇神で、大国主命を配祀。
「山口神」は山から木を伐り出す時にまず祭られる神。
勝手に山の木を伐り出すと山の神の祟りがあるとされており、
まず山の神を祭ってから伐採を行っていた。
その伐採にあたっても決まりがあり、木の本末(根本と先端)を伐って切り株に木の先端を差すという、
「鳥総(とぶさ)立て」という行事を行い、そのうえで中央部分を持ち帰っていた。
これも山の神を祭る意味があり、樹木の再生を期したもの。
『万葉集』にも、

鳥総立て足柄山に船木伐(き)り 樹に伐り帰(ゆ)きつあたら船材(ふなぎ)を   〔巻第三、392〕

鳥総たて 船木伐(き)るといふ 能登の嶋山 今日見れば 木立繁しも 幾代神(かむ)びそ  〔大伴家持。巻第十七、4026〕 

と歌われており、古代からの風習だった。
現在でも伊勢神宮の式年遷宮にあたっては最初に「山口祭」が執り行われており、古儀を伝えている。

この神社の裏山山頂付近に巨石があり、近隣の人々からは「ごしゃお」(御社尾の意か)と呼ばれており、古代の磐座祭祀跡と思われる。
旧社地ともいわれ、その後も白龍神降臨の場であるとして崇敬されていた。
夕方近くで、大神神社のほうへも行きたかったので、山登りは断念した。
夕暮れ近い山の中ってちょっと怖いし。

山沿いの細い道をどっこやねーんと走っていく。 あったー
左、参道の杉並木。
この中を歩くとなんか荘厳な気分に。


上、神門。
神門の右側は神饌所となっている。
拝殿。
奥に春日造の小さな本殿が見える。
周囲を森に囲まれ、
晴天ながらやや薄暗い。

賽銭箱には鎖がかかっていた。
賽銭泥棒がいるのだろう。
罰当たりな。
神饌所。 境内には池があり、小祠が立っている。
市杵嶋姫命を祀る末社だろう。
遠景。
鳥居から100mほど北、水田の中に叢林がぽつんと立っており、古来「森神さん」と呼ばれているとのこと。
「ごしゃお」の岩とともに、古代祭祀の名残だろうか。
後から知ったので、写真には撮れていない。








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