これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
信貴山(しぎさん)朝護孫子(ちょうごそんし)寺。
奈良県生駒郡平群町信貴山、
大阪府と奈良県を分ける生駒山脈の南端にある信貴山の山中にある。
この東南に位置する三室山の東麓には、風神の宮である龍田大社が鎮座する。
信貴山真言宗総本山。宗教法人法(昭和26年)公布時に高野山真言宗から独立した。
飛鳥時代、崇仏派と廃仏派の争いはついに蘇我氏と物部氏の武力抗争にまで発展し
(もっとも、実際のところ最大の目的は皇位継承者をめぐるものだった)、
両者は物部氏の拠る河内国を戦場として激しく戦った。現在の八尾市付近が舞台となったようだ。
緒戦は武門の家柄である物部氏が優勢。
その中、蘇我軍(といっても皇子たちが何人も加わっていたので、朝廷軍のようなものだった)に従っていた若き厩戸皇子(聖徳太子)が、
八尾市の東に位置する山にて戦勝の祈願を行ったところ、天空に毘沙門天王が出現し、必勝の策を授けた。
それは寅の年、寅の日、寅の刻だった。
これにより勝利を得た後、皇子は毘沙門天の尊像を刻み、伽藍を創建して山を「信貴山」と名づけたという。
(この経過は四天王寺の縁起と似た話になっている)
その後、平安遷都が行われると寺は一時衰えたが、
信濃出身で東大寺にて受戒した僧・命蓮上人によって中興がなされ、延喜二年(902)、天皇より「朝護孫子寺」の勅号を賜る。
その後は鎌倉幕府打倒を掲げる大塔宮護良親王が信貴山に籠り、
幼名をこの山にちなんだ楠正成(幼名多聞丸)が寺に旌旗を奉納して挙兵するなど、鎌倉末期の動乱に重要な役割を果たし、
また戦国時代には山頂に城が築かれ、松永久秀がこれを改修して天守を備えた山城へ変貌させた。
その後久秀は信長の下についたがこれを裏切り、信貴山城に籠って抵抗したものの、最後は自爆。
このとき、信長の攻撃によって一山は灰燼に帰した。
その後、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建を行い、本堂は昭和26年に焼失したが昭和33年に再建、今に至る。
毘沙門天はサンスクリット名ヴァイシュラヴァーナ。
「毘沙門」はその音訳。真言にある「べいしらまんだ」も同じ。意味は「ヴィシュラヴァスの子」。
その名が「よく聞く」とも訳せるため、「多聞天」と訳される。
そちらはまたの名であり、本当の名はクベーラ。地下の財宝を司り鬼神ヤクシャ(薬叉、夜叉)を統率する神、
時代が下るとソーマとともに北方の守護神となった。仏教ではこれが取り入れられ、北方の守護神となる。
中央アジアを経て中国に入ってくる過程で武神としての性格が付与されて四天王の一角となり、
中国では唐の名将・李靖と習合して「托塔李天王」の別名がつき、四天王から独立してその統率者とみなされるようになった。
さらにクベーラの息子(一般的には第三子)であるナラクーバラも「哪吒三太子」として中国で人気を得、
道教の神にも取り入れられて『西遊記』『封神演義』などで大活躍を見せる。
日本中世の神仏ヒエラルキーの中では、梵天(ブラフマー)・帝釈天(インドラ)が現実世界の秩序の頂点に位置し、
四天王がその下で東西南北を守護、その下に日本の神や造像された各地の仏菩薩
(中世においては仏像はそれ自体が一個の神であるという認識であり、本来の存在とは別物とみなされていた)
がいる、という位置づけがなされていた。
日本の神々、そして、諸寺院の仏像はあくまで日本限定の神々であり、梵天・帝釈天はそれを包含する全世界のトップの存在ということ。
ヒンドゥー教ではヴェーダ時代からの弱体化が著しかった両神だが、仏教で大きく復権を遂げている。
ゆえに、四天王の一角である毘沙門天の威光は大とされ、
また財宝・福徳の神であることから神・仏・仙混交の七福神の一にも加えられ、広く信仰された。
四天王の一角とはいえ、もとはソロで活躍していた神様なので独尊で祀られることが多く、朝護孫子寺でもそう。
その姿は唐代の武将系の鎧に身を固め、宝棒や三叉戟、そして宝塔をもつのが一般的。
これは唐で信仰されていたころの姿を継承したもので、中国ではその後、托塔李天王と多聞天の分離が起こり、
本来の姿は托塔李天王に引き継がれ、多聞天は傘とネズミを持つようになっていく。
『封神演義』での四天王は魔家の四将として描かれるが、多聞天にあたる魔礼紅は傘を持っている。
ネズミについては『西遊記』でも李天王が「西方のネズミの精」(地湧夫人)を養女にしているが、
これは唐・玄宗皇帝の世に来寇あり、皇帝の願いに応じて不空三蔵が毘沙門天の修法を用いたところ、
無数のネズミが現れて敵の弓弦を食いちぎったという伝承があるなど、ネズミが毘沙門天の使いとされていたことから。
日本では毘沙門天の使いは「ムカデ」とされており、朝護孫子寺の額にも描かれている。
お金のことを「お足」ともいうので、百足のムカデは財宝の神である毘沙門天の使いに相応しいからという説、
また、ムカデは鉱脈の象徴であり、鉱山関係者の多くが地中の財宝を司る毘沙門天を崇拝していたためにそうなった、という説がある。
では信貴山へ。
信貴山は河内国と大和国の境にあるが、『信貴山縁起絵巻』『扶桑略記』『宇治拾遺物語』でも、
命蓮上人の住んでいた信貴山は河内国にあるとされている。
もちろん、現在の朝護孫子寺は山頂よりも東側、奈良県(大和国)側にある。
当時の京では信貴山を河内国所属と見なしていたか。
『宇治拾遺物語』や『古本説話集』に収録する「信濃国聖の事」では、命蓮が東大寺で受戒したあと信濃に戻らなかったのは、
「よしなし、さる無仏世界のやうなる所に、いかじ。ここにいなむ」
という理由だった。信濃は仏のいない世界であり、そこには帰りたくない、ということ。
姉よりも仏道修行を取ったか・・・出家者であれば当然のことだけど、
のちに自分を尋ねて来た姉と一緒に暮らしたというのはいかにも日本的でほのぼのする。
中国では、自分を慕って追ってきた親が溺死しても構わずに仏道に打ち込んだ高僧の話もあるようだし。
大門池にかかる信貴大橋から開運橋を見る。 開運橋はトレッスル構造を用いたカンチレバー橋であり、 昭和6年の架設。その珍しい構造により文化的価値を認められ、 国の登録有形文化財に指定されている。 八尾市からケーブルカー~スカイラインで登ってきた参詣者などは あの橋を渡ることになる。 |
法隆寺方面から上がってきた下の駐車場からの参道。 お寺だが、鳥居がある。 本来、寺院にはないはずの施設だが、 日本では古来聖域への入口を示す構造物であるので、 これを設置する寺院も多い。 |
登って右を見ると、鳥居が。 これは猪上(いがみ)神社で、 『延喜式』神名式、大和国平群郡二十座のうちの一、 猪上神社に比定されている。 信貴山の鎮守神としてもとは本堂の近くに鎮座していたが、 明治の神仏分離時に境内を出てこの地に遷座した。 現在も朝護孫子寺によって奉斎されている。 おそらくは信貴山の神として朝護孫子寺ができる前から鎮座しており、 それを鎮守社としてその側に毘沙門天を祀ったのが 寺の開基ではないだろうか。 さらに奥には仁王門がある。 |
お食事処・休憩所にて |
また鳥居。 奥に虎が見える。 |
創建伝承にもとづいた、有名な「世界一福寅」。背後に本堂。 |
山門である「赤門」。寛政五年(1793)に再建。 平成21年に塗り替えが行われて鮮やかな赤。 赤い・・・ 赤いな ホントだこりゃ赤い |
千手院。 ちょうど護摩行が行われていた。 |
本坊前の、 かやの木稲荷と聖徳太子像。 かやの木は樹齢1500年といわれ、 飛鳥時代からこの地に根付いている。 |
本坊。 | 宿坊・成福院。融通尊を祀る。 なんでも融通利かせてくれるそうです |
本堂への石段。 | |
石段を上がりきったところから。 正面奥に地蔵菩薩を祀る玉蔵院。巨大な地蔵さんが。 右上には役行者を祀る行者堂。 |
本堂前。 奥秘仏御開帳期間中だった。 |
参道を見下ろす。 |
劒鎧護法堂を見下ろす。 | 飛鳥方面を望む。 |
本堂石段下にある経蔵堂。 中に「一切経」をおさめた大きな経厨子があり、 一回回せば一切経を読誦したのと同じことになる。 猪上神社の旧鎮座地。 この向かって右手に霊宝殿があり、 宝物ならびに『信貴山縁起絵巻』の展示を行っている。 この日は「飛倉の巻」を展示。残り二巻は複製を展示していた。 楠正成公の納めた「菊水の旌旗」や刀、兜も見られる。 |
とら。 |
虚空蔵堂。 丑年の守り本尊であるほかにも、 弘法大師の故事にちなみ、学業成就のご本尊でもある。 |
では信貴山雄嶽の頂上にある空鉢護法堂(みーさん)へ登るでござる 『信貴山縁起絵巻』「飛倉の巻」の故事に基づく。 |
行者堂。 | 奉納の鳥居が立ち並ぶ。 |
薄暗い山道を登る。 | まだか |
まだかー | あと二丁ー |
一丁ー | このあとすぐ |
信貴山雄嶽頂上、空鉢護法堂。 命蓮上人の空鉢の法は龍神の教えによるものと伝えられており、 |
周囲には様々な龍神の祠がぐるり。 お百度参りのためにお堂の周囲を巡ることができるようになっている。 |
ちなみに空鉢の法は密教で真面目に論じられており、 天台宗にはその方法を記した儀軌も残されている。 天台宗は修験道とも関わりが深く、 肉体と精神の限界に挑むような荒行も多いが、 その一方でそっち方面にも取り組んでいるというのが面白い。 |
信貴山城址の碑。 信貴山城は戦国時代の天文年間に雄嶽頂上付近一帯に築城され、 松永久秀が改修して堅固な城に造り替えた。 空鉢堂の場所に本丸を置き、この碑のあたりに二の丸があったらしい。 さらに三の丸、多数の曲輪も備える本格的な山城であり、 天守を備えた城砦の先駆的存在とされる。 城は天正五年(1577)、織田信長に攻められて落城。 久秀は名器・平蜘蛛茶釜とともに爆死したと伝えられる。 城はそのまま廃城となり、このとき朝護孫子寺も灰燼に帰した。 久秀は永禄九年(1566)年末、三好三人衆に信貴山を攻められているとき、 双方にキリシタンがいることを利用し、 日本初の「クリスマス休戦」をしたことで知られる。 ナムサンの山でメリクリとかいかにも日本。 ただ、結局はその場しのぎで、翌年信貴山城は落城、 久秀は信長の下へ逃げていくことになった。 |
真南を望む。 大阪府と奈良県の南部を分け、和歌山県に連なる金剛山脈が見える。 |
東南方向。 遠くに見えるのは・・・大和三山だろうか? 写真じゃわからないけど |
山を下り、玉蔵堂を過ぎて開山堂へと向かう。 | 開山堂。 開祖・聖徳太子、宗祖・弘法大師、中興開山・命蓮上人、歓算上人、 四国八十八ヶ所本尊をまつる。 |
開山堂の裏にある、命蓮塚。 命蓮上人の墓と伝えられる。 |
開山堂から赤門方面へと下りたところにある命蓮上人の像。 けっこういかついお方。 表情は霊宝殿にあった画像に準じているようだ。 |
劒鎧護法堂へ。 ここも鳥居が連なる。 朱色の鳥居の連続はお稲荷さんへ行くみたいな感じ。 |
劒鎧護法堂。 縁起絵巻「延喜加持の巻」の、 延喜帝(醍醐天皇)の重病に命蓮上人が劒鎧護法を遣わして快癒させたという故事に基づいており、 病気平癒の信仰が篤い。 劒鎧護法が雲と輪を踏み、一直線に空を飛び来る情景は絵巻のハイライトのひとつ。 この話は、『扶桑略記』延長八年(930)八月十九日条に、 醍醐天皇の御不予に「河内国志貴山」の「沙弥命蓮」が京に呼ばれて祈祷を行ったという記事があり、 事実に基づいたものとされる。 ただ、この一ヵ月後に天皇は崩御。 この時、京中で渦巻いていたのは「菅原道真公の祟り」の噂。 醍醐天皇が御病に伏したのも、 その二ヶ月前、六月二十六日に起きた「清涼殿落雷」により死者が出るという惨事に心を痛められたあまりだった。 さしもの上人の法力も、菅原道真公を鎮めることはできなかった、ということになる。 しかし、しょうがない。あちらは天神さまだもの。 命蓮上人の法力については『宇治拾遺物語』などにも類似の話があり、 当時広く流布していたことがうかがえる。 これを考えると、快癒はしないまでもある程度の効験はあったのだろう。 |
信貴山奥之院。
生駒郡平群町信貴畑。
朝護孫子寺から直線距離で北に1.5kmほどのところにある。
毘沙門天出現の霊地で、当初はここが塔頭だった。
毘沙門天は阪部大臣に姿を変えて先鋒をつとめ、戦後には汗をかいていたと伝えられることから、
ここの本尊は「汗かき毘沙門天」と呼ばれる。
周囲の風景。山あいの地。 | 奥の院到着 |
境内。左に鐘楼。 |
毘沙門堂。 |
吉祥天堂。 | 毘沙門堂のとなりには牛頭天王社。 明治の神仏分離において、 神社における菩薩・権現・天王号は使用禁止となったが、 寺院においてはその限りではなかった。 |
境内からは「焼米」が出るという。 | 汗かき毘沙門天。 |
いたるところに毘沙門天 | とら。 |