にっぽんのじんじゃ・おかやまけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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*吉備国は現在の岡山県全体と広島県東部からなる広大な国であり、
飛鳥時代は特に吉備大宰や吉備総領が置かれてその統治が行われていたが、
律令制下では備前・備中・備後の三国に分割され、
また和銅六年に備前国から美作国が分割された。
吉備国成立以前には、『先代旧事本紀』国造本紀によると、
・大伯国(のち備前国邑久郡。備前市・瀬戸内市・岡山市の一部)
・上道国(のち備前国上道郡。岡山市東部)
・三野国(のち備前国御野郡→御津郡。吉備中央町東半分・建部町)
・下道国(のち備中国下道郡。高梁市周辺)
・加夜国(のち備中国賀陽郡。吉備中央町から岡山市北区の西部)
・笠臣国(のち備中国。現在の笠岡市周辺とされる)
・吉備中県国(のち備中国。後月郡周辺とされる。井原市)
・吉備穴国(のち備後国安那郡。広島県福山市中心部から北部)
・吉備風治国(のち備後国品治郡。広島県福山市北西部) *ちなみに現在の福山市中心部周辺は当時まだ海の底だった
の九国が置かれていた。

備中国:

賀夜郡〔賀陽郡〕(総社市、吉備中央町の一部、岡山市の一部、倉敷市の一部):

備中国国府所在地。現在の総社市、総社宮の近隣に国府があったとされる。
造山古墳・作山古墳という日本有数の巨大前方後円墳を有しており、古代吉備の中心地であった。

吉備津神社
(別ページ)
矢喰神社 鯉喰神社 楯築神社跡 真宮神社 岩倉神社
*鬼城山
(別ページ)
*造山古墳 *作山古墳 *備中高松城跡
魔法神社


矢喰天神社(やぐいてんじんしゃ)。

岡山市北区高塚に鎮座。
岡山自動車道・総社ICのすぐ東、国道180号線沿いに矢喰公園があり、その中に鎮座する。

吉備津彦命と温羅が戦ったとき、
吉備津彦命の射る矢と温羅の射る矢(あるいは、投げる岩)が喰い合って落下した場所に建てられたと伝えられ、
境内にはその時のものとされる巨岩が存在する。
往古はこの辺りまで海であったといわれ、
すぐ南には「赤浜」という地があるが、これは温羅の流す血によって生まれた血吸川によって浜が赤く染まったことにより名づけられたともいう。
吉備中山と鬼城山との間は約10kmで、この地はそのほぼ中間に位置しており、
そこへ露出している岩によってそのような伝承が生まれたのか、
あるいは古くより磐座(いわくら)祭祀が営まれていた地に、後世温羅伝説が付託されたものか。

祭神は吉備武彦命。吉備津彦命の弟・稚武吉備津彦命の孫で、日本武尊の東征の副将として活躍した。
また、近隣の天神社を合祀して現在の正式な社号は「矢喰天神社」というが、一般には「矢喰宮」で通っている。

矢喰公園。向こうには岡山自動車道の高架が見える。
公園の北西の一角が神社となっている。 右手に巨石がいくつも露出している。
これが矢喰岩。 濠に囲まれた拝殿および本殿。
社殿遠景。 東を血吸川が流れる。
北西遠く、正面に鬼城山。鬼ノ城の復元西門が白く見えている。

鯉喰(こいくい)神社。

倉敷市矢部
旧山陽道沿いの足守川西岸近くに鎮座している。

吉備津彦命に左目を射られて怯み、変化の術を使って遁れようとした温羅だったが、こちらも変化の神術を用いる吉備津彦命にはかなわず、
鯉に化けて水中に潜ったところを鵜に変じた吉備津彦命に喰い上げられ、ついに捕縛された。
その地に鎮座と伝えられる社。
大正六年に、南東の楯築遺跡墳丘墓の上に鎮座していた楯築神社を合祀している。
祭神は、夜目山主命、夜目麻呂命、狭田安是彦、千田宇根彦。
この矢部には吉備津彦命の臣であった夜目麻呂命が布陣し、悪鬼たちの夜間の暴行を止めさせたと伝えられる。
楯築神社の地も、吉備津彦命布陣の地とされる。

神社のすぐ東、足守川西岸に立つ道標。
神社の南を走るこの道は旧山陽道だった。
社地は東西に細長い。社殿は東向き。
写真の左はすぐ旧山陽道。
境内の燈籠。
手前右の燈籠には「御崎宮」という、
かつての吉備津神社の七十二末社にあたり、
この地方に多く鎮座する「御崎神社」の社号が記されている。
どこかの御崎神社から移転したのだろうか。
ちなみに、この地方では「御崎」は「おんざき」と読むことが多い。
小規模ながら、吉備津神社と同じく神門と廻廊を備えている。 廻廊の向こうには拝殿、本殿があるが、
拝殿前の向かって右手には鐘楼がある。

楯築(たてつき)神社跡。

倉敷市日畑

吉備中山に本陣を置いた吉備津彦命が、鬼ノ城攻略のために陣を構えたという片岡山にある。
この一帯は古墳地帯であり、おびただしい数の古墳が丘陵地帯に分布している。
現在、この一帯は「王墓の丘史跡公園」となっていて、神社跡は丘陵の北部、「楯築地区」に位置する。
楯築地区の山頂には直径約50mの円形主墳に二つの突出部を備えた弥生時代後期の墓
(弥生時代のものは古墳ではなく墳丘墓と呼ぶ)があり、現存全長は72m。
昭和56年に国の史跡に指定されている。
そして楯築神社はその上に鎮座していた。
楯築神社は大正六年、鯉喰神社に合祀されている。


現在丘の周囲は団地になり、丘の上には団地への給水塔が建っているために古墳の突出部は大きく破壊されており、
中央の主墳部分を残すのみ。
この倉敷市容赦せん!な感じ。
墳墓の中央に主人とみられる遺体が埋葬されており、南東側にもう一人が埋葬されていた。
楯築神社の御神体として長く伝えられてきた加工石(亀石)については、発掘でよく似たものが出土しているという。
亀石は、給水塔の隣にある収蔵庫に保管されている。

墳丘墓周辺は「王墓の丘史跡公園・楯築地区」として整備されている。
墳丘墓の東からのぼるかつての参道がある。
その脇に鎮座する小祠。
鳥居、そして奥には燈籠が見える。
鳥居には注連縄が張られている。
神社跡の管理は合祀先の鯉喰神社が行っているようだ。
墳丘を上ってゆく。 頂上。
石の祠があり、かつてはその中に神体の亀石が収められていた。
祠の周囲を五つの列石が囲む。
これが楯築の名の由来であり、吉備津彦命の軍が布陣して並べた楯であると伝えられた。
この環状列石は、地下の棺を地上から囲み、守護するように配置されている。
墳墓の上に神社が建てられている例は全国に数多い。祖霊祭祀の原型がここにあるのだろう。
国史にも、慶事や異変に際して天皇や皇族の陵墓を祭ったという記述が数多く見られる。
弥生墳丘墓の周辺には、古墳時代後期(6世紀)のものとみられる古墳が密集している。
いずれも墳丘が流出してかつての姿をとどめていないが、すべて横穴式石室を備えていた。
北の鬼城山を望む。鬼ノ城の復元西門が見える。
吉備中山方面。
吉備津彦命は中山とこの片岡山、そして中山の北にある鼓山を拠点として鬼ノ城を攻めたという。

真宮(しんみや)神社。

倉敷市西尾に鎮座。
王墓の丘史跡公園・王墓山地区内の真宮古墳群のただ中、古墳に囲まれて鎮座する。

楯築地区の南、王墓山地区には東谷古墳群・真宮古墳群・大池上古墳群・赤井西古墳群と、
古墳時代後期・六世紀後半のものとみられる古墳が密集しており、
中でも北端の王墓山古墳(県指定史跡)は家形石棺をもち大量の副葬品があったことから、
この地域の有力者が葬られたとみられている。
しかし、史跡公園にもなっているのに一帯の古墳のほとんどはまだ未調査らしい。倉敷市ってば。
神社は丘陵北の楯築遺跡と対になるように丘陵の南部に鎮座していて、周囲は古墳で囲まれている。
祭神は建速須佐之男命だが、氏子はここ西尾地区の、西尾姓の者のみという。
ということは、もともとはこの地区の人々の祖先、文字通り「氏神」を祀っていた神社であり、
周囲に広がる古墳はそういった人々が眠るところ、ということになるのだろうか。

楯築地区の南、王墓山地区の大池上古墳群。
六世紀後半、古墳時代後期のものと推定されている。
大池上古墳群第9号墳石室。
真宮神社へ向かう途中にある大石は
神様として祀られているようで、
片方には「牛神」と刻まれていた。
牛神とは、農耕のパートナーである牛の守り神。
伯耆大山の大山権現はかつては牛馬の守り神としての信仰があり、
中国地方には大仙神社が多い。
大池上古墳群の南、真宮古墳群。真宮神社を取り囲むようにして存在する。
真宮神社鳥居。
参道は南から上がってくる。
鐘楼。このあたりの神社には普通に設置されている。
拝殿。奥に本殿。周囲は自然石を並べた垣で囲まれている。
戻って、王墓山古墳。
墳丘頂上部。
下ったところに、家形石棺が置かれている。
この古墳は明治末年に石材の切り出しのため掘り返され、
石室は運び去られ、石棺も外へ持ち出された。
墳丘。形は崩れている。 石棺のそばには、日蓮宗のお寺さんが建てたとおぼしき
古墳埋葬者慰霊碑がある。

岩倉(いわくら)神社。

倉敷市日畑に鎮座。
王墓の丘史跡公園の南の田園地帯の中にぽつんと鎮座しており、
巨岩に囲まれているのでよく目立つ。
才楽・瀬口・大手の総産土神で、かつては吉備津宮七十二末社の一だった。

由緒書によれば、

祭神は大稲船命。
吉備津彦命が吉備へ下向の際、片岡の伊佐穂という人が稲を栗坂の里(現・倉敷市栗坂。昔は早島という海中の島だった)で刈り、
軍卒に命じて船に積ませて北に向かったが潮が急で運ぶことができず、
船を廻して西の岬に停泊し、稲を積み上げて兵糧として献上した功によって大稲船の名を賜わり、
潮の急だったところを瀬口、稲を積んだところを稲倉と名づけたが、
後年、泥砂が流れ落ちて突き立った巌があらわれたことから、訛って岩倉といった。
仁徳天皇の時、勅して吉備津宮の五社七十二宇を創建されたが、この時岬に一宇を建立した。
元禄年間再興、明和五年および安政年間再建して今にいたる。
鐘銘:奉懸巌倉宝前梵鐘一口宝暦九年八月
神宝:庭瀬藩主戸川建安公、戦勝祈願に奉納

とある。庭瀬藩主戸川建安は戸川達安のことか。
この一帯は昔は海であったといい、
神社の鎮座地は当時は岬であったという。
田園地帯の中にぽつんと巨石の密集する区域であり、奇異な感じを与える。
北の丘陵地との間には灌漑用らしい水路が足守川から引かれているので、
その工事によって丘陵地と分離されてしまったのか、あるいはもともとは岬の突端の岩礁だったのか。

古代の海岸線は、現在の倉敷市上東・岡山市北区撫川の辺りにあり、大きな内海となっていて「吉備穴海」と呼ばれていた。
また、高梁川も現在の総社市市街地付近で東・南に分流し、東流は総社市市街地を貫流して足守川を合わせ、ここから海に注いでいた。
上古においては、もっと海岸線は北だっただろう。
岩倉神社はこの近隣であり、社伝は古代の記憶をよく伝えているといえる。

鳥居前。
社殿は東向き。
とにかく巨石が境内にごろごろしている。
南からの参道。小祠が二社見える。そして巨石。 拝殿前の鐘楼。
j寺院施設である鐘楼は明治の神仏分離において多くは破却されたが、
この地方の神社には普通に鐘楼が残っている。
本殿南側より。 北側より、鐘楼と拝殿。
拝殿の壁は焼き板を用いており、真っ黒。
焼き板にすることで、湿気による腐食を防ぎ、
断熱効果により燃えにくくなり、長もちするというメリットがある。
この地方の古い民家も多く焼き板を用いている。
本殿背後にも巨石がでーんと。
普通これだけ境内に巨石があれば「磐座(いわくら)祭祀の地」と喧伝してもおかしくないが、
「もとは稲倉といったけど、次第に岩が露出してきたので訛って岩倉となった」
というのが面白い。
小さい神社だが、岩と森とがかもし出す雰囲気が素晴らしい。
社域のまわりには堀がめぐっている。 神社の東の道端に立つ、
岩倉神社が吉備津宮七十二末社の一であることを示す石碑と燈籠。

造山(つくりやま)古墳。

岡山市北区新庄下、旧山陽道(現・県道270号線)の北にある。

西方にある作山古墳とともに吉備地方を代表する巨大前方後円墳で、五世紀前半から中期にかかる頃の築造と考えられている。国指定史跡。
仁徳天皇陵・応神天皇陵・履中天皇陵に続く全国第4位の規模を誇り、
上位三古墳は宮内庁管理である関係から一般の立ち入りができないので、
この造山古墳が一般の立ち入りができる国内最大の古墳ということになる。
その規模から、大和朝廷に比肩するほどの有力者が被葬者とみられている。
この古墳は自然丘陵を削り、また盛り土をして造られたと考えられ、周囲には濠をめぐらせ、
また前方部の先には六つの陪塚がある(ただし、築造時期が異なるものもある)。

右が後円部、左が前方部。
前方部の上には荒神社が鎮座していて、その社前に石棺とその蓋の一部が残存しているが、
この古墳のものかどうかは不明。
後円部には、戦国時代の羽柴秀吉による高松城水攻めの時に毛利の救援軍が築城を行っており、
その時の土塁や廓跡が残る。
ちなみにこの古墳の北、足守河畔の丘に吉川元春が布陣し、
東南の日差山に小早川隆景が布陣していたという。


作山(つくりやま)古墳

総社市三須にある。

旧山陽道(現・県道270号線)の北にある巨大前方後円墳で、全国第9位の規模を誇る。国指定史跡。
東方にある造山(つくりやま)古墳とともに、吉備地方を代表する古墳。
5世紀中頃の築造とされる。
どっちも「つくりやま」なので、区別のために音読みし、こちらは「さくざん」、あちらは「ぞうざん」と通称している。
自然の丘陵を加工した古墳だが、やや形が整っておらず、濠もなく、陪塚も備わっていない。
その規模から威勢を誇った豪族が被葬者であることは間違いないが、造山古墳の被葬者よりは格が下だったのかもしれない。
北の丘陵には多数の古墳が集中している。
なお、古墳への立ち入りは自由。

後円部。

備中高松城跡。

岡山市北区高松

戦国時代の平城跡。羽柴秀吉が水攻めを行った城としてつとに知られる。
城の周辺一帯は低湿地帯で、それが濠の役目を果たしていたために攻城側は用兵が難しく、平城ながらなかなかの要害だった。
天正十年(1582)、ここは織田と毛利の戦いの最前線となった。攻撃側は羽柴秀吉、守備側は清水宗治。
例によってこの城をまともに攻めることはできず、秀吉は持久戦を強いられたが、
羽柴勢はついに大がかりな水攻めを開始した。
水攻めのための土塁ラインは東の石井山から始まり、旧山陽道(現在の国道180号線)を利用、これに沿って足守川にまで伸ばして川水を流し込み、
現在の国道から北の山麓、最上稲荷の手前あたりまでの一面を水浸しにしたので、この一帯はさながら小さな湖と化し、
高松城はその中の孤島となった。
水によって封鎖された高松城は糧食を断たれ、軍馬を喰い、飢え死にした兵士の肉まで食らうという惨状となったが、
城主の清水宗治はなおも抵抗を続けていた。
その時「本能寺の変」が起こったため、秀吉はすぐさま毛利と講和を結び、城主清水宗治の切腹と引き換えに全ての将兵の命を安堵すると約束、
清水宗治はそれを受け入れ、衆目の前で見事切腹して果てて味方の命を救い、
秀吉はすぐさま中国大返しを敢行、山崎にて明智光秀を打ち破った。

吉備地方を代表するお稲荷さん、最上稲荷(さいじょういなり)の大鳥居。
正月には岡山県内最大の参拝者を集めるだけでなく、広島県からもお参りする人が多い。
お稲荷さんだが、神社ではなく日蓮宗の寺院であり
(戦後の宗教法人法施行にともない日蓮宗から独立していたが、平成21年に日蓮宗へ復帰した)、
ここからまだ先の山麓にある。
地元では地名をとって高松稲荷と通称される。
城跡内は公園となっている。 公園の北側に清水宗治公の首塚がある。

魔法(まほう)神社。

総社市槁(けやき)に鎮座。
ほぼ高梁市との境に位置する。

一見して「なにそれこわい」と奇抜な印象を受ける社名だが、これは祭神が「魔法様」であるため。
魔法様とは、祭神である狸神様の名。
この狸神様、本名は「キュウモウ」といい、
室町末期の永禄11年(1568)、キリスト教宣教師の南蛮船に乗って海外からやってきたという。
この狸、日本中を放浪した末、明和年間(1764-71)に備前国へやってきて、
廃坑となった御津郡加茂(旧御津郡加茂川町。現在は吉備中央町東部)の銅山の坑道に住みつき、
月夜の晩には牛鍬の先を叩きながら「サンヤン、サンヤン」と言いつつ踊り回っていた。
海外からやってきて、日本中を放浪した末に吉備へ住みついたというのは、かの温羅も同じ。
岡山は海外のひとにとって住みよい土地なのだろうか。瀬戸内地方は確かに住みよいし。
キュウモウ狸は外来とはいえやはり狸なので変化の術に長けており、
人間に化けては村にやってきて田植えや田の草取りを手伝ったり、盆踊りの時には奴姿で一緒に踊り回ったりした。
女郎を買うときもあったという。
ただ外来なので日本人そのものに化けることは苦手だったようで、ヒゲが濃すぎたり顎が細すぎたり、
あるいは極度の胴長短足、口が尖りすぎ、などとどこかおかしく、
正体がばれると「すまんすまん」と言いつつ逃げ出していた。
また彼はいたずら好きで、たびたび人家に入って悪さを繰り返していた。
「かちかち山の狸」みたいに人が死ぬような悪さはしなかったが、
ただ、猟師が犬をけしかけて狸狩りをすると、怒ってその家に火を放ったという。
キュウモウ狸はある日、いたずらを大目に見ていた村人の前に現れて、
これまでお世話になった、これからは牛馬を守護し、火難・盗難を予告しよう、と言い置くと、翌日いなくなった。
〔あるいは、狸のいたずらに困った人々が円城寺(吉備中央町円城)の住職に相談し、住職が狸退散の祈祷を行ったところ、
狸は本相をあらわすと泣いて謝り、これからは悪さをせず、牛馬を守護し、火難・盗難を予告しようと約束した、という。
ちなみに円城寺境内の鎮守提婆宮は「加茂の提婆は人をとる」と古来恐れられた呪詛の宮〕
そこで村人はその狸を「魔法様」と呼び、「魔法宮」を建てて祀り、牛馬の守護神・火事盗難除けの神として篤く奉斎した。

この伝承の舞台となっているのは吉備中央町上田西に鎮座する火雷(からい)神社であり、
魔法様信仰は備前から備中・美作にかけて広まっていて、この社はそのうちの一社。
中国地方で広く信仰されている牛馬の守護神「大仙社」の代わりとなっていたようだ。
「魔法」については、もとの字は「摩法」であり、創祀のときに隣に摩利支天を祀る堂があったことからきたともいわれる。
ただ、南蛮船に乗ってやってきた狸に「魔法様」というのはいかにもふさわしい気もしないではない。
狸は元来極東にしか住んでいなかったので、魔法様は中国から乗り込んできたか、
さらに西から来たならば、あるいはタヌキではなくジャコウネコとかマングースだったのかもしれない。

参拝には車で行くしかなく、さらに駐車場などないが、
近くに路側帯の広いところがあり、そこに車を停めることができる。

高梁川沿いを走る国道180号線から県道306号線を上がっていくと神社があるが、
その交差点の所にコンビニがあり、中ではセルフでうどんが食べられる。
眺めも結構いい。
山を登っていくと途中からは狭い一車線になるが、路線バスが槁まで走っているので道路は整備されている。
神社最寄りのバス停。
ただし一日二往復くらいのようだ。
社号標。
書体が微妙にあやしい
丘の上へと登ってゆく。
石段は苔むしている。
拝殿が見えた。
拝殿および本殿。
「魔法神社」とはいっても江戸時代以来の歴史がある神社なので、ごくまっとうな神社の造りとなっている。
高台の上で日当たりもよく、木々も年を経たものが立っていて、いい感じの境内。
拝殿の瓦は最近葺き替えられたようで、新しい。
明治28年の奉献を記した標柱。
「下道郡水内村大字影」云々と見える。

下道郡水内村は、明治22年(1889)の町村制施行によって
旧下道郡影村・中尾村・原村が合併して発足した村。
ちょうど、高梁川を挟んだ対岸の一帯になる。
(最初の写真の対岸のもう少し南の一帯)
ちなみに、この神社の鎮座する旧賀陽郡槁村はその時、
周辺の宇山村・種井村・延原村と合併して富山村となった。
その後、明治33年に下道郡と賀陽郡が合併したことによりともに吉備郡の村となり、
昭和27年にこの二村に下倉村・日美村が合併して昭和町が発足した。
その後、昭和47年に昭和町は総社市に編入されている。

これを奉献した当時、水内村は対岸の隣郡であり、
さらに影といえば井原市に隣接する最も遠いところ
別の面には「伯楽天王」「為牛馬繁栄」などの文字が彫られており、
農耕の大事なパートナーだった牛馬への思いの強さを感じることができる。
かつては一対の石燈籠だったようだが、
現在は上部が失われている。
神社の鎮座する丘。
槁の集落。その向こうに、NTTの無線中継所がにょっきりと顔を出しているのがなんとなくシュール。
ちなみに、バス終点を過ぎ、集落を過ぎるとこんなかんじの道になります
もう引き返せない


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