にっぽんのじんじゃ・岡山県

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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備前国:

吉備の東部一帯で、その北部は美作国として分割されている。

赤坂郡:

石上布都魂神社

赤坂郡:

石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社。

赤磐市石上に鎮座。

『延喜式』神名式、備前国赤坂郡六座のうち、石上布都之魂神社(いそのかみふつのみたまのかみのやしろ)。
備前国内神名帳においては、「赤坂郡坐二十七社」のうちに「従四位下 布津明神」と記されている。

祭神は素戔嗚尊。
近世までは「十握剣」「布都御魂剣」を祭神としており、
素戔嗚尊が八岐大蛇(やまたのをろち)を斬った剣の神霊を祀っていた。

『日本書紀』によれば、

乱行のために高天原を追放された素戔嗚尊が出雲国の簸の川(斐伊川)の川上に降臨したところ、
ひとりの少女を真ん中において泣いている老夫婦を見つけた。
話を聞いたところその老夫婦は、
自分たちは国つ神の脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)、この娘は奇稲田姫(くしいなだひめ)といい、
自分たちにはこの娘を含めて八人の娘がいたが、
毎年八岐大蛇(やまたのをろち)に一人ずつ呑まれ、今またこの子が呑まれようとしている、
そのために泣いているのですと申し上げた。
素戔嗚尊は、ならば奇稲田姫を自分に奉るかどうかと尋ね、夫婦がそれを承諾しすると、
素戔嗚尊は姫を湯津爪櫛(ゆつつまぐし。神聖な櫛)に変えて自らの髻に差し、
脚摩乳・手摩乳に命じて幾度も醸した上等の酒を造らせ、また八つの間の桟敷を作らせ、
その各々に酒桶を一つずつ置き、酒を満たさせて、大蛇の来るのを待ち受けた。
やがて八つの頭と尾をもち、八つの丘・八つの谷に這い渡る巨大な八岐大蛇が姿を現した。
大蛇は酒を見つけると、頭を各々一つずつの酒桶に入れて飲み、酔って寝てしまった。
その時、素戔嗚尊は佩剣の十握剣(とつかのつるぎ)を抜き、その大蛇をずたずたに切り刻んだが、
その尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。
尾を裂いてみると、中に一振りの剣があった。これがいわゆる草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。

という素戔嗚尊の八岐大蛇退治のエピソードに六つの異伝が付けられており、
このうち第四の異伝では、素戔嗚尊の剣の名称を「天蠅斫剣」といっている。
平安中期、朝廷の祭祀氏族である斎部(忌部)氏の斎部広成(いんべのひろなり)が著した『古語拾遺』には、

  素戔嗚神は天より出雲国の簸の川上に降られ、
  天十握剣〔その名は天羽羽斬(あまのははきり)。今、石上神宮にある。古語に、大蛇(をろち)を羽羽(はは)という。蛇を斬るの意である〕
  をもって八岐大蛇を斬られ、その尾の中から一振りの霊剣を得られた。その名を天叢雲という。

とあることから、「あまのははきりのつるぎ」と読まれ、天上に起源する蛇を斬る剣、の意。
あるいは字義どおり「あまのはへきりのつるぎ」と読み、蠅のような小さなものも断ち切る利剣の意である、という説もある。
宮本武蔵的なやつか。

第二の異伝では、物語の舞台は出雲国ではなく「安芸国の可愛(え)の川上」となっており
(これは神武天皇東征上の行宮となった埃宮(えのみや)の地とみられる東広島市府中町、あるいは江の川上流ともいわれる)、
一般的に知られる話からは、
 *奇稲田姫が生まれる直前の話である
 *脚摩・手摩が子を生むごとに大蛇がやってきて赤子を呑んでゆく
 *奇稲田姫が生まれようとする時、大蛇がやってくる
 *素戔嗚尊はこれを出迎え、「あなたは恐れ多い神だ。御馳走せぬわけにはいかない」と言い、自ら酒を大蛇に飲ませる
 *つまり、八岐大蛇を神として扱っている。ただし大蛇は逝く
 *奇稲田姫が生まれると、素戔嗚尊はこれを出雲国の簸の川上に遷し、成長するまで養育して、妃とした。
 *生まれた赤子を見て「将来の妃にしよう」。これからみると光源氏は小物としか言いようがない
 *冗談はさておき、これは神に仕え、その妻となる巫女が潔斎に潔斎を重ねて育てられるということの反映だろう
と、舞台や筋立てが少々異なっているが、この所伝の中に剣の名や所在についての伝承がある。

  これを草薙剣といい、これは今、尾張国の吾湯市(あゆち)村にある。
  すなわち、熱田の祝部がお祭りしている神がこれである。
  その蛇を斬った剣は蛇之麁正(をろちのあらまさ)という。今は石上(いそのかみ)にある。

「石上」とは、『古語拾遺』の記述により、大和国山辺郡(現・奈良県天理市)に鎮座する石上神宮とされる。
第三の異伝では、剣の名と所在について、

  素戔嗚尊は蛇韓鋤剣(をろちのからさひのつるぎ)をもって大蛇の頭を斬り、腹を斬られた。
  その尾を斬られた時に、剣の刃が少し欠けた。そこで尾を裂いて御覧になると、別に一振りの剣があった。
  名を草薙剣という。この剣は昔、素戔嗚尊のもとにあったが、今は尾張国にある。
  素戔嗚尊が蛇を斬られた剣は、今、吉備の神部(かむとものを)のもとにある。

「蛇韓鋤剣」とは、「大蛇を斬る力をもった、朝鮮より伝わった鋭利な剣」の意。
「サヒ」は古代朝鮮語で「鋤」を意味する「sap」の日本語形。
上代日本語のハ行は「パピプペポ」であったので、「サピ」とほぼ原語通りに発音していたことになる。
『古事記』の山幸彦神話において、山幸彦が「紐小刀」を与えた鮫を「サヒモチの神」と呼んでおり、
鮫の牙を「サヒ」に見立てていると思われることから、
「サヒ」とは小刀くらいの大きさの剣を意味していると考えられている。
『日本書紀』本文や『古事記』『古語拾遺』では、
尊の剣を「十握剣」「十拳剣」(とつかのつるぎ)と、「握り拳十個分」と形容される長剣であるとしており、違いがみられる。
蛇を小刀を用いて解体するという日常的?な行為に基づく描写か。
「神部」とは、神官・神職あるいは神社の経営を支える職能集団をさす。
この「吉備神部」の地が、この石上布都魂神社であるとされている。

『先代旧事本紀』「天孫本紀」は饒速日尊の子孫である尾張氏と物部氏の系譜を記すが、その中に以下の記事がある。

  弟、伊香我色雄命(いかがしこをのみこと)。
  この命は、春日宮にて天下をお治めになった天皇(第九代開化天皇)の御世に大臣となった。
  磯城瑞籬宮にて天下をお治めになった天皇(第十代崇神天皇)の御世、
  大臣に詔して幣帛を頒布させ、天社・国社を定め、物部の多くの人々が作る祭具をもって八十万の群神を祭った時、
  布都大神社(ふつのおほかみのやしろ)を大倭国山辺郡石上邑に遷し建てた。
  そして、天祖が饒速日尊にお授けになり、天より伝え来た天璽の瑞宝(物部十種神宝)も同じくともに納めて清浄にお祭りし、
  名づけて石上大神(いそのかみのおほかみ)と申し上げた。
  そして国家のため、また氏神として崇め奉り、鎮護とした。

崇神天皇の治世、「布都大神社」を大和国山辺郡石上邑、つまり石上神宮の地に遷座したと記しており、
記紀にはみられない石上神宮の創祀記事となっている。
これは、同書「天孫本紀」および「天皇本紀」に、
「神武天皇の御世、布都主剣に多くの櫛を巡らし、(皇居の)殿内に崇め奉った」とあるのを受けたもので、
おそらくは『日本書紀』にみえる、「崇神天皇治世、それまで天皇と同床共殿であった八咫鏡・草薙剣が皇居を出て倭笠縫邑に祭られた」
という伝承に歩調を合わせて書かれたものと思われるが、
「布都大神は別の所から遷座して石上神宮で祀られるようになった」ことは事実であったらしい。
『新撰姓氏録』大和国皇別・布留宿禰の条に、

  布留宿禰(ふるのすくね)。
  柿本朝臣と同じ祖、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと。第五代孝昭天皇第一皇子)の七世の孫、
  米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)の後裔である。
  その男子は木事命(こごとのみこと)で、
  その男子の市川臣(いちかはのおみ)は大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと。仁徳天皇)の御世に倭(やまと。大和国)に行き、
  布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を布留村の高庭の地に斎(いわ)い奉って、
  市川臣を神主とされた。
  四世の孫は額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世に、蘇我蝦夷大臣は武蔵臣・物部首をみな神主首と呼んだ。
  そのため、臣の姓を失って物部首(もののべのおびと)となった。
  男子の正五位上日向は、天武天皇の御世、社の地の名によって布留宿禰の姓に改めた。
  日向の三世の孫は、邑智等である。

石上神宮に仕える神官氏族である布留宿禰(物部首)の祖、市川臣(いちかはのおみ)が、
仁徳天皇の治世、どこからか大和国に上って行って、フツヌシの神の社を石上神宮の地である布留村に祭り、神主となったとしている。
この物部首は皇族を祖とする氏族であり、奈良盆地北部から山城国南部に勢力をもっていた春日氏・和珥氏などと同族であって、
石上神宮を管掌していた饒速日命を祖とする物部連とは全く別の氏族。
これは氏族伝承を国家が国史等に照らし合わせ、事実と認定して記してあるもので、
『日本書紀』垂仁天皇三十九年十月条、天皇の皇子・五十瓊敷命(いにしきのみこと)が剣一千振を造ったという記事の異伝に、

  ・・・その一千振の大刀は忍坂邑(おさかのむら。桜井市忍坂)に納め、
  のちに忍坂より移して石上神宮に納めた。
  この時、神が望まれて仰せになるには、
  「春日臣(かすがのおみ)の一族で、名を市河(いちかは)という者に治めさせよ」
  と仰せになった。そこで市河に命じて治めさせた。これが、今の物部首(もののべのおびと)の始祖である。

と、それに符合する記事がある。
これらの記事を総合して、
「崇神天皇、あるいは仁徳天皇の御世、吉備の石上布都之魂神社に祀られていた素戔嗚尊の神剣が大和国山辺郡に遷されたが、
旧地でもなお祭祀が続けられ、現在に至る」
とされている。
石上神宮の由緒においても、この剣を配祀神として「布都斯御魂大神(ふつしみたまのおほかみ)」と称し、
素戔嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣の威霊を称え奉った御名であり、もと備前国赤坂宮にあったものを、
仁徳天皇の御世、霊夢によって春日臣の一族である市川臣が石上神宮に遷し加えて祭った、としている。

社号が「石上布都之魂」ということは、この剣が「フツノミタマ」と呼ばれていたことになる。
「フツノミタマ」といえば、一般的には石上神宮の主祭神であるところの、
神武天皇が熊野において武甕槌神より下された、武甕槌神が葦原中国を平定した時に用いていた剣を指すが、
「物を断ち切る擬音+神霊」という構成から、普通名詞として用いられていた可能性もある。
中国地方で剣の神霊であるフツノミタマの神が祀られていたのかどうか、というと、
『出雲国風土記』意宇郡楯縫郷条に、

  布都怒志命の天石楯(あまのいはたて)を縫い直してここに置かれた。ゆえに楯縫(タテヌヒ)という。

同じく意宇郡山国郷条に、

  布都怒志命が国をお巡りになった時、ここに来て仰せになるには、
  「この国は止(や)まず眺めていたいものだ」
  と仰せになった。ゆえに山国(ヤマクニ)という。ここには正倉がある。

と「フツヌシノミコト」の名がみえ、出雲では土地名の由来になるほど信仰されていたことがわかる。
「国を巡る」という行為がみられ、巡幸する神であったようだ。
さらに意宇郡といえば出雲国造の本拠地であり、その祭神、熊野大神は素戔嗚尊と同体とされている。
出雲の山間部は今でも製鉄が盛んであり、中国山地を越えた吉備は「真金(まがね)吹く」という枕詞を冠せられる古代製鉄のメッカ。
考古学によれば出雲と吉備の間に文化の交流があったことは明らかであり、
素戔嗚尊の剣が「フツヌシ」「フツノミタマ」として吉備で信仰されていてもおかしくはない。
なお、この神が香取大神である経津主命と同体であるかどうかについては、
これが出雲の神とみられることから、同名ではあるが別の神であるとする見解が主流のようだ。
『出雲国風土記』にはほかに、大穴持命(大国主命)の御子として「ワカフツヌシノミコト」の名がみえる。

神社は、現在は大松山という山の中腹に鎮座しているが、
かつては山の頂上の巨岩が剥き出しになっている「磐座(いわくら)」の場所に鎮座していた。
「磐座」とは、窪みのある巨岩などを神の降臨の場として祭祀を行った場所をいう。
『古事記』の天孫降臨の場面に「天之石位(あめのいはくら)を離れ・・・」とあるように、
神は堅固な神座に鎮まっていると考えられていた。
大松山は、今では木々で覆われているが、かつては岩山であったといい、
頂上の磐座は周辺の住人からよく見え、磐座からも周囲をはるかに見渡せたと思われる。
その場所へ神剣の霊を祀っていたのが石上布都之魂神社だった。
鎮座地はかなりの山奥であり、かつては交通の要路でもあったのだろうが、
山陽道からも遠く離れていたこともあり、時代の経過とともに衰微していった。
しかし江戸時代、岡山池田藩第二代・綱政公が領内の社寺を整理していく中でこの社に注目し、
社殿の造営を行うと同時に学者に命じて社の由緒を調査・作成させ、また二十石の神領寄進を行い、
神社に折紙を奉納した。

  備前国赤坂郡石上村の経津霊神社は神代の霊跡、国家の鎮護である。
  神宝はかつて大和国山辺郡へと移し奉ったが、遺蹤はなお吉備国石上村に存する。
  よって、ここに社記を作り奉納してその由来を知らしめ、
  また石上大松村内の地高二十石を当社の神領とし、
  社官を旧姓の物部に復し、祭事に務めて時月の礼奠に欠如なきようにさせるものである。

    宝永七庚寅歳六月朔日綱政(花押)

のち、代々の藩主は代替わりごとに当社に折紙を奉納する習わしとなった。
明治四十三年、火事によって池田綱政公造営の社殿は焼失したが、
大正四年、現鎮座地である山の中腹に遷座し復興している。

明治の世になり、石上神宮の禁足地が発掘された時、そこから伝承通り太刀と勾玉が出土した。
これが武甕槌神の「布都御魂剣」であるとして、明治天皇の御叡覧を賜わった後、これと寸分たがわぬ太刀が三振り作られたが、
大正年間にそのうちの一振りが当社に奉納されている。
先の大戦後、占領軍がこの地方にも進駐して反乱防止の目的で刀剣類の没収を行う中で当社にもやってきて、
この太刀が奪い去られるかもしれないという危機だったが、
拝殿ですぐ目についた日清・日露戦争時奉納の刀のみ没収され、無事だったとのこと。


かなりの山奥。
道路も一車線だが、交通量は意外とある。
神社への標示が何か所もあるので、見落とさなければ迷うことはないはず。

奥にみえる山が、神社の鎮座する大松山。
参道入り口。
駐車場がある。
参道脇で災害復旧工事が行われていた。
社の前を流れる新庄川。
新庄川は、蒜山高原より流れ来る旭川に注ぐ。
参道。 古い石鳥居。
さらに参道。 やがて右手に参拝路。
杖が用意されている。

なお、ここにも数台が停められる駐車場がある。
けっこう急な九十九折になっている。
ただ、コンクリート舗装されているので歩きにくくはない。
石段になると、もうすぐ。
着いた。
右手に手水舎がある。
石上布都魂神社拝殿。奥に本殿。
左(向かって右)には稲荷神社が鎮座、その後方に神庫。
右(向かって左)には社務所、および休憩所。
掃除や手入れの行き届いた、すがすがしく爽やかな境内。

この社地はもともと稲荷社の鎮座地であり、
山上に鎮座していた石上布都魂神社が明治43年に焼失したのち、
氏子より「山上では神社のお世話が大変である」という意見が出たため、
山の中腹に鎮座していたこの稲荷社の社地を拡張して石上布都魂神社を遷座し、
お稲荷さんには脇へ移動していただいている。
社務所後方より、
旧鎮座地である山上の本宮への参道。
登りかけに見る本殿。
一間社だが、細やかな装飾の施された立派な建築。
いきなり急な石段を登る。
現在はコンクリートの石段に手すりがついているが、
昔はただの山道だったわけで、
ここを上り下りするのはさぞ大変だっただろう。
大松山というだけあって、
松の木が多い。
ただ、最近はマツクイムシによって
おおかたは枯れてしまっているようだ。
本宮への参道は整備されており、
それほどきつくはない。
参道途中より南方を望む。
ホントに山々の中という感じ。
鳥居が見えてくる。
本宮鳥居。
石段を登ると、本宮。
石上布都魂神社旧鎮座地、本宮。
かつては池田綱政公造営の本殿、幣殿、拝殿、神楽殿が建っていたが、
明治43年の火災で焼失して跡地となっており、本殿のあった場所に本宮の小祠が建っている。
手前には玉垣があり、明治年間に寄進があったようだ。
本宮の背後には巨大な岩が剥き出しになっており、その上には人為的に置かれたらしい大石が見える。
この「磐座」は禁足地となっており、立ち入りは禁じられている。

かつてこの大松山は岩山であって樹木は生えておらず、
ここからははるかに周囲が見渡せ、昇る太陽を見ることができ、麓からもこの磐座を見ることができたそうだが、
長い年月のうちに樹木が生育し、周囲は木々に囲まれている。

岩場の存在感。
確かにこれは神様を祭ろうと思う場所。
標示されている、かつての境内図。
こんな山のてっぺんによく造ったなあ、と思う。
ちょっと脇から。
脇その2。
脇その3。



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