にっぽんのじんじゃ・おおさかふ

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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摂津国:

東生郡(およそ大阪市東半部):

生國魂神社

西生郡(およそ大阪市西半部):

今宮戎神社 田蓑神社

東生郡:

生國魂(いくくにたま)神社。

大阪市天王寺区生玉町
東西には上本町と難波、南北には四天王寺と道頓堀と、
谷町筋と松屋筋と千日前通とに囲まれた、近世以降繁華街として賑わう一角に鎮座する。
通称は「いくたまさん」。

『延喜式』神名式、摂津国東生郡四座のうち、
難波坐生國咲國魂神社(なにはにいますいくくにさきくにたまのかみのやしろ)二座〔並名神大、月次・相嘗・新嘗〕。
難波に鎮座する、生国魂・咲国魂の神の社、という意味。
主祭神は生島大神(いくしまのおおかみ)・足島大神(たるしまのおおかみ)で、
日本列島を形成する島々の、生命力にあふれ満ち足りた神霊。
宮中では神祇官において生嶋御巫(いくしまのみかんなぎ)が奉斎していた神であり、
『延喜式』祝詞式収録の「祈年祭祝詞」には、

  生嶋の御巫が辞竟(ことを)へ奉(まつ)る皇神等(すめがみたち)の前に白(まを)さく、
  生国(いくくに)・足国(たるくに)と御名をば白して辞竟へ奉らば、
  皇神の敷き坐す嶋の八十嶋(やそしま)は、谷蟆(たにぐく)のさ渡る極(きは)み、鹽沫(しほなは)の留る限り、
  狭(さ)き国は広く、峻(さが)しき国は平らけく、嶋の八十嶋堕つる事无(な)く皇神等の依さし奉るが故に、
  皇御孫命(すめみまのみこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を称辞(たたへごと)竟(を)へ奉らくと宣(の)る。

   生嶋の御巫がお祭り申し上げる皇神たちの前に申し上げることには、
   生国・足国と御名を申し上げてお祭り申し上げるならば、
   皇神(*祭神を尊んでの呼称。ここでは生国・足国の神をさす)が領有しておいでになる嶋という嶋は、
   ヒキガエルが渡ってゆく限り、海潮の泡が留まる限り(*ともに陸地の果てをいう表現)、
   狭い国は広く、険しい国は平らかに、嶋という嶋を漏れることなく皇神たちがご委任下さることによって、
   皇孫である天皇が素晴らしく珍しい幣帛をもってお祭り申し上げます、と宣べ聞かせる。
   (*「~と宣る」と読まれると、その場に参集している諸社の神主・祝部は一斉に「おお」と返事の声を上げる。
   祈年祭祝詞は、神祇官の中臣が天皇の御言葉としての祝詞を読み聞かせる形式であるため)

と、その神徳がのべられている。
『古事記』の国生み神話においては、伊邪那岐命・伊邪那美命が生んでいく島々にはそれぞれ「神」としての名が付されており、
古代人は島といえど「神」として生命をもった存在であるとみなしていた。
また、草・木・石にも神霊が宿ると信じていたことから、太古においてはそれらも言葉を喋っていたと考えられており、
「国譲り」において経津主神・武甕槌神が葦原中国を平定した時、
はじめて両神がかれらの言葉を封じて地上を静かにしたということが『日本書紀』や『常陸国風土記』そして『大祓詞』などに記されている。
古代においては、自分の身の回りに存在する全てのものは生命であり、神であった。

社伝によれば、神武天皇が東征して難波津に上陸した時に生国・足国神を祭ったのを創祀とする。
国史初見は、『日本書紀』推古天皇六年(598)四月条、

  難波吉士磐金(なにはのきし・いはかね)は新羅から帰国して、鵲(かささぎ)二羽を献上した。
  それを難波杜(なにはのもり)で飼わせたところ、枝に巣を作って卵を産んだ。

この「難波杜」が生國魂神社のことであるという説があり、そうだとすれば6世紀にはすでに鎮座していたということになる。
続いて、孝徳天皇即位前紀に、

  天万豊日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと。孝徳天皇)は、
  天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと。皇極天皇)の同母弟である。
  仏法を尊ばれ、神道を軽んじられた〔生国魂社の樹を伐った類がこれである〕。

とあり、
孝徳天皇の宮であった難波長柄豊碕宮(なにはのながらのとよさきのみや)の造営にあたって社の木を伐採したことが記されており、
大化元年(645)時点にはすでに鎮座していたことは確実。
生國魂神社は、もともとは現鎮座地よりも北、現在の大阪城の敷地内に鎮座しており、
難波長柄豊碕宮はそのすぐ南に造営されたため(現・難波宮史跡公園)、手近な森から材木を伐採したのだろう。
ただし、それは神を軽んじる行為であると書紀編者から筆誅を加えられている。
斉明天皇紀にも、天皇が唐・新羅によって滅亡に瀕している百済救援のために筑紫まで親征した時、
朝倉社の木を伐って朝倉宮を造営したところ、朝倉社の神の祟りがあり、天皇はそれからまもなく崩御されたとある。

それはさておき、当時の光景は今とはまったく違っていた。
今の東大阪市の大部分は「草香江」と呼ばれる広大な内海であり、
今の新大阪~玉造あたりから東、ほぼ生駒山地西麓にまで達していて、その東端の港は草香津と呼ばれており、
淀川や大和川をはじめとする諸河川はこの草香江に流れ込んでいた。
その草香江と難波の海を分けるように上町台地が南から突き出し、
上町台地からは「天満砂洲」と呼ばれる砂洲が北に延びていた。
当時の天満砂洲が形成する海岸線は大ざっぱに言えば今の御堂筋のあたりで、現在よりずっと内陸にあった。
天満砂洲はより古い時代には未発達であり、
難波の海と草香江とは北のほう(江坂~淡路~都島の辺り)で通じていて「浪速(なみはや)の渡」と呼ばれていた。
神武天皇の東征軍はその「浪速の渡」を通って草香江へ入り、生駒山地西麓の草香津で上陸したとされており、
また、『古事記』には、朝鮮から「阿加流比売(あかるひめ)」という女性を追って渡来してきた新羅の王子・天之日矛(あめのひぼこ)は、
「浪速の渡の神」に遮られてそこから先に進めなかった、とある。
後代になると砂洲が発達してその水門を完全に塞いでしまったため、
上町台地の北端に沿って東西に天満砂洲を掘り抜き、洪水防止と交通の用に供していた。
これが「難波堀江」で、砂洲の間隙の潟湖(ラグーン)に船着き場である「難波津」が置かれていた。
生國魂神社および難波宮は上町台地のほぼ先端にあり、
東は草香江、北は難波堀江と砂洲、西には難波津および砂洲があり、その向こうは難波の海だった。
難波の海と草香江を分ける台地の上にあって淡路島などの島々を望見できる神社、島の神々を祭るのにふさわしい立地といえるだろう。
仁徳天皇が難波高津宮から淡路島へ行幸された時の御製に、

  おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 
  淡島(あはしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ

    〔おしてるや〕難波の岬から出発して、我が国を見れば、
    淡島、おのごろ島、蒲葵の島も見える、離れ島も見える。
     (*おしてるや:「難波」にかかる枕詞。「おしてる」は日光を受けた海面がまばゆく照り輝く「押し照る」の意といわれる)

とあるように、仁徳天皇の宮であった難波高津宮やこの生國魂神社はまさに「難波の崎」にあった。


『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、

  京畿七道の諸神の階を進め、また新たに叙した。すべて二百六十七社。
  (中略)
  摂津国の従三位勲八等広田神に正三位、正五位上勲八等生田神、従五位上勲八等長田神、従五位上垂水神、
  従五位下勲八等大依羅神、難波生国魂神、下照比女神、坐摩神、従五位下勲八等新屋天照御魂神にみな従四位下を(中略)授け奉る。

との神階授与記事がみられ、同年九月八日条には、
風雨を祈るために使いを遣わして幣帛をたてまつった四十五社のうちに「難波大社神(なにはのおほやしろのかみ)」として名が見える。
『延喜式』四時祭式相嘗祭条や臨時祭式祈雨神祭条にも「難波大社 二座」と記されており、
当時、「難波大社」が準公式的な呼称となっていたと思われる(ちなみに臨時祭式名神祭条における表記は「難波生國魂神社」)。

平安時代より天皇の即位にあたっては「八十島祭(やそしまさい)」という臨時祭が行われており、
これは天皇が即位して践祚大嘗祭を行った翌年、吉日を選んで、
神祇官より生嶋御巫、史(さかん)一人、御琴弾(みことひき)一人、神部(かむべ)二人、
また内侍(ないし。典侍〔ないしのすけ〕が赴くのが通例)一人、内蔵屬(くらのさかん)一人、舎人二人を使者として難波の津に遣わし、
海辺の祭場にて御琴弾が和琴を弾く中、典侍が天皇の御衣の入った箱を開けて揺り動かし、生嶋御巫が祝詞を奏上する、という祭り。
難波の海に浮かぶ大小様々の島を日本の国土「大八洲」と見立て、その神霊を天皇の御衣に付けてその身体を活性化し、
それとともに国土の祓え及び生成発展を祈ったものであるとみられている。
八十島祭の初出は『文徳天皇実録』嘉祥三年(850)九月八日条、

  宮主(みやじ)正六位下占部雄貞、神琴師(しんごんのし)正六位上菅生朝臣末継、典侍(ないしのすけ)正五位下藤原朝臣泉子、
  御巫(みかんなぎ)無位榎本連浄子らを摂津国の八十島の祭りに向かわせた。
  この日、右京の人、村住岑成が摂津国島上郡の河のほとりで白い亀を獲って献上した。
   (*宮主:神祇官所属の、宮中の神事を司る職員。卜部の中から優秀な者を選抜して任じた。
         卜部は亀卜をもって卜定を行う特殊技能者で、伊豆より5名・壱岐より5名・対馬より10名の計20名が選出されていた)
   (*神琴師:神事において和琴〔わごん〕を弾く職。下に権神琴師、神琴生がおり、技能の錬成も行っていた)

祭祀には神祇官の生嶋御巫が出向していることから、
八十島祭は生嶋・足嶋神が主祭神であったと思われる。
『延喜式』臨時祭式八十島祭条には「住吉神四座・大依羅神四座・海神二座・垂水神二座・住道神二座」
と、住吉大社とその管下あるいは親しい神社の神に座が設けられていることからこれを八十島祭の祭神とみる説もあるが、
これらの神は同条の最後あたりに記され、幣帛も別に記されていることから、祭りの主体となる神ではない。
八十島祭および東宮八十島祭(*東宮は皇太子)における幣帛の中にはそれぞれ八十二面・四十面の鏡があり、
ともにそのうちの二面だけが五寸鏡、その他の八十面・三十八面が一寸鏡となっていることから、
二面の鏡はこの祭の主祭神である二柱、つまり「生嶋・足嶋の神」に、その他の鏡が八十島の神へ奉られたと推定できる。
『住吉大社神代記』によれば難波生国魂神二前は住吉大社の「子神」と分類されており、事実上住吉社の管下にあったようなので、
重要な祭祀にあたっては「住吉グループ」の神々を勧請したうえで祭祀を行っていたのだろう。
住吉神は「祓え」の神徳を持つので、ただの「御来賓」ではなく祭祀の重要な一翼を担っていたかもしれない。
もとは摂津国で行われていたローカルな祭祀が国家的祭祀に昇格したものだろうか。

室町時代、15世紀末の明応年間、本願寺の蓮如上人が山城国から下向してきて、神社の傍に本願寺の別院を建てた。
これが石山本願寺で、のちに織田信長と本願寺がおよそ十年もの間派手にやらかした際、
生國魂神社もとばっちりを受けて兵火にかかり焼失した。
その後は細々と小祠を営んでいたが、
天正十三年(1585)、豊臣秀吉が生國魂神社および旧・石山本願寺の区域に大坂城を築城するにあたって現在の鎮座地を社領として寄進、
片桐且元を普請奉行とし、堂々たる新社殿を造営して遷座した。
しかしこれも大坂夏の陣(1615)により兵火にかかって焼失したので、将軍徳川秀忠が再建。
江戸時代には社頭に市や見世物が盛んに立ち、
道頓堀と天王寺に挟まれた繁華街の中にあることもあってその賑わいは相当のものであったという。
先の大戦の空襲で焼失し、戦後に再建されたものの、すぐさまジェーン台風によって破壊されてしまったため、
現在は鉄筋コンクリート建てとなっている。

本殿は東向きで、表参道は谷町筋に面している。
参道では、機会に応じて市が立つようだ。
境内入口。
入ると、目の前に拝殿が見える。
両側に回廊が延び、本殿に接続する。
本殿と幣殿を同一の流造屋根で葺き下ろし、
正面には幣殿の千鳥破風、本殿の唐破風そして千鳥破風が並んで三重の破風のように見えるという独特の様式を持っており、
「生国魂造」と呼ばれている、のだが、
拝殿と回廊が大きすぎてその威容はここからほとんど見ることができない。
江戸時代には回廊がなかったので、誰でも本殿の意匠をたっぷり見ることができた。
本殿の北(向かって右手)には境内社への参道。

反対の南側には参集殿や茶室がある。
北の回廊に面して、
天満宮と住吉神社が南向きに鎮座する。
上の両社の西には、
皇大神宮が鎮座。
境内の北側へ。
城方向八幡宮の鳥居と灯籠・水盤がある。
生玉の森。
城方向(きたむき)八幡宮。
もとは今の生玉公園の地、境内前南方に鎮座しており、境内の西から北にかけては蓮池があった。
大坂城が築かれて後の慶長年中、城中の諸司がその地において射御の稽古を行っていたことから八幡宮を勧請したのが創祀。
大阪城守護のために大坂城の方角、北方を向いていたことから「北向八幡宮」と呼ばれた。
昭和20年の大阪大空襲において焼失し、境内の現在地に遷座復興している。
旧社地の境内には鞴神社・家造神社の二小社が鎮座しており、
現在はその二社も八幡宮の隣に遷座復興を果たしている。

今は大阪城を守護する必要もなくなったため、本殿と同じ東向きとなっているが、
もと大坂城守護の神様であったため、方除など方角守護の神様として信仰されている。
「城方向」は、「きたむき」に「城(き)」+「手向(たむけ→たむき)」の字をあてはめたもの。

城方向八幡宮の手前左手に鎮座する、精鎮社(せいちんしゃ)。
事代主神・比咩(ひめ)大神の二柱を祭る。
かつては境内前北側、今の市立生魂幼稚園の地に鎮座しており、蓮池の中の島に弁財天祠としてあった。
戦後、地下鉄工事のために蓮池が埋め立てられることとなったことで、現在地に遷座している。
弁財天は宗像三女神の市杵島姫命と習合しており、八幡三神のうちの比咩大神は宗像三女神とされていることから、
弁財天を比咩大神と呼び換えたもの。
事代主神はえべっさん、比咩大神はべんてんさんと、繁栄と福徳を司る二神を祀っていることになる。
もっとも「えべっさん」といえば、この辺りでは何といっても「今宮戎」。

祠の前には池があり、鯉が泳いでいる。
誰かが鯉を盗んでいくためだろうか、池はすっぽり覆われている。
鞴(ふいご)神社・家造祖(やづくりみおや)神社。
城方向八幡宮の北に並んで鎮座する。
かつては八幡宮境内社であり、空襲で焼失した後、現在地に八幡宮とともに遷座復興。

鞴神社の祭神は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、石凝杼売神(いしこりどめのかみ)、香具土神(かぐつちのかみ)で、
それぞれ鍛冶・鋳造・火の神であり、製鉄・製鋼・機械工具等を扱う金物業者の守護神として崇敬されている。

家造祖神社の祭神は手置帆負神(たおきほおいのかみ)・彦狭知神(ひこさしりのかみ)で、土木建築の祖神であり守護神。
建設業界からの崇敬を集めている。
さらに北隣に鎮座する、浄瑠璃(じょうるり)神社。
創祀は不明も、明治九年に生国魂神社境内に社殿を建てて祭り始められたと伝えられる、
近松門左衛門、竹本春太夫、鶴沢清七ら「文楽」の先賢を祀る神社。
かつては精鎮社と同社地に鎮座していた。
春分の日・秋分の日が例祭日であり、大阪文楽協会からも多数の参列があって文楽の加護と発展を祈る。

文楽のみならず、
舞踊や演奏・歌謡、話術などお稽古事上達の神様として広く信仰されており、絵馬も多く懸けられている。
城方向八幡宮の南の一角にも三つの社が鎮座している。
左より稲荷神社、源九郎稲荷(げんくろういなり)神社、鴫野(しぎの)神社。

稲荷神社は佐賀県の祐徳稲荷(ゆうとくいなり)の勧請であり、
かつては佐賀鍋島藩とその蔵屋敷出入りの商家が厚く崇敬していた。

源九郎稲荷神社は吉野の源九郎稲荷の勧請。
このお稲荷さんは、兄の源頼朝に追われる源九郎義経を助けたことから、義経より「源九郎」の名を賜わったと伝えられる社で、
その経緯は歌舞伎『義経千本桜』などに詳しい。
相殿神として、八兵衛大明神が合祀されている。
八兵衛大明神は、もとは道頓堀にあった劇場「中座(なかざ)」の奈落に祀られていた神で、
平成11年(1999)の中座閉館に伴い遷座合祀された。
この「八兵衛」というのは狸神で、もとは淡路の洲本に住んでいた。
名を「芝右衛門」といい、芝居が大好きで、海を渡って難波へ出かけると「三隅八兵衛」という侍に化けて中座へ通い詰めていたが、
入場料に葉っぱが混じっていることから中座では「狸がいる」と番犬を用意した。
観劇に来た芝右衛門狸は恐る恐る番犬の前を通ったが、やはり正体を見破られ、
襲われて狸の姿に戻ったところを人々に追われて殺されてしまった。
その後、中座の客入りが悪くなったため、関係者が芝右衛門狸を奈落に祀ったところ元通り繁盛したので、
以来、「人気の神様」として役者たちから厚く信仰されていた。
中座を松竹新喜劇の本拠とした藤山寛美や片岡仁左衛門は芝右衛門狸の故郷である淡路の洲本に祠を建てている。
芝右衛門狸はわりとメジャーな狸で、その話にはいろいろバリエーションがある。


鴫野神社は、もとは弁天島に祀られていた「鴫野弁天」を遷座した社。
淀殿が厚く信仰していたと伝えられることから、女性守護の神様として信仰される。
大坂城落城の際、淀殿が蛇と化して昇天したという伝説から「巳さん」とも呼ばれており、
鴫野神社の背後の古木には祠が設けられ、巳さんの御神木となっている。
生玉の森。
周囲は交通量の多い所なので、
ちょっと落ち着ける場所になっている。


この辺りには、
かつては祭神の本地である薬師如来を安置した本地堂、
および弘法大師像を安置した大師堂があった。
神社の北門。
千日前通や松屋筋から来た場合は、
こちらをくぐって参拝することになる。
千日前通から北門に至る坂道は、「真言坂」と呼ばれている。
明治初年まで、境内の周囲には、神社の社僧として真言宗志宜山法案寺を称した南坊をはじめ、
桜本院・新蔵院・遍照院・曼荼羅院・観音院・医王院・地蔵院・覚園院・持宝院の、いわゆる「生玉十坊」があった。
このうち桜本院・新蔵院・遍照院・曼荼羅院・観音院・医王院の六坊が境内の北にあり、
いずれも真言宗であったことからこの坂を「真言坂」といった。
これらの僧坊は明治初年の神仏分離に伴って神社の傍にいることができなくなったため、
他の寺院に合併されたり、坊同士で合併して他所に寺院として再興したりしている。
たとえば法案寺は今の中央区島之内に移り、
「大阪の融通さん」こと藤治寺は地蔵院を合併して藤次寺と改称し、
遍照院と医王院は合併のうえ、他所に「青蓮寺」として再興、
覚園院は宗恵庵と合併し、「宗恵院」と称して存続している。

なお、生國魂神社境内には、
本地堂(本尊薬師如来)
大師堂(弘法大師石像安置。弘法大師自作と伝わる)
太子堂(聖徳太子十六歳像安置)
聖天祠(聖天こと大聖歓喜天を祀る)
があったが、神仏分離に伴い破却された。

かつては石段を備えていたことが『摂津名所図会』に描かれている。
真言坂の両側には、現在はマンションが立ち並んでいる。
松屋筋と千日前通の交差点の南に鳥居があり、
生玉北門坂が神社北門へとのぼっている。
千日前通を日本橋駅方面へ向かう途中にある、
国立文楽劇場。
1984年開館で、文楽の公演をメインに、
舞踊や演劇が行われる。
また、「上方演芸特選会」として、
落語・漫才・浪曲などの興行も行われている。

神社の東にある生玉公園。
城方向八幡宮の旧社地になる。
神社の南にある源聖寺坂
天王寺地区に点在する、上町台地へ上ってゆく坂「天王寺七坂」の一つで、
上り口に源聖寺(左の塀の向こう)があるため、その名がある。

神社の南一帯には寺院が所狭しと並んでおり、寺町と呼ばれている。
なぜこのように寺院が密集しているかというと、
大坂夏の陣ののち、戦闘によって荒廃した大坂の町の復興にあたった松平忠明公が、
大坂城下にあった寺院を一括してこの所に移転したため。



西生郡:

今宮戎(いまみやえびす)神社。

大阪市浪速区恵比寿西1丁目に鎮座。
南海・今宮戎駅が最寄だが、だいたいの人は難波駅から南海沿いに南へ歩いていくか。
ちなみにオタロードはこの南北に走る通り。

「今宮のえべっさん」として知られ、商売繁盛の神様として、
年初の1月9~11日にかけて行われる「十日戎」には連日おびただしい数の人が詰めかけ、
その数はのべ100万人に達する。

創祀は推古天皇八年(600)と伝わる。聖徳太子が四天王寺を建立した際、西の鎮守として祀られたという。
主祭神は、天照皇大神、事代主命、素戔嗚尊、月読尊、稚日女尊。
このうち事代主命が「えびす様」として突出した信仰を誇っている。
事代主命は大国主命の御子神で、その神名は神託を司る神であることをあらわしており、
国譲りにおいては、大国主命の国譲りの意思をこの神が代弁した。
その時、事代主命は美保の浜辺で漁をしていたことが『古事記』に記されており、
国譲りの言葉を発した後、そのまま海中に没して姿を隠すなど海と縁が深いことから、
海から寄り来る異国の神「えびす神」と同一視された。
(他には、イザナキ・イザナミの間に生まれ、不具ゆえに海に流された蛭子命もえびす神とされる)
当初は漁業の守護神だったが、そこから得られる利益も司るようになり、
そこからさらに一歩進んで商業の神となった。
大坂は海辺の町であり、また中世以降商業が発展していったが、四天王寺の西門には「浜の市」という市が開かれるようになり、
今宮戎神社はその守護神として篤い崇敬を集め、市の繁盛とともに発展。
慶長十四年(1609)には豊臣秀頼公が社殿造営・社領寄進を行い、
江戸時代に大坂が「天下の台所」となるとその威勢はいよいよ高まり、
祭礼も大規模化、元禄期には今見るような祭礼の形式となった。
大阪(大坂)の民衆とともに隆盛してきた神社といえるだろう。

この界隈は、現在は人や車や電車が行き交う賑やかなところだが、
『摂津名所図会』に描かれているように、江戸時代までは「今宮の森」と呼ばれる小さな森だった。
神社はその中に鎮座し、境内にあるめぼしい建造物は鳥居と拝殿と本殿だけ、という非常にシンプルな造りで(今でもそんな感じだが)、
平時はがらんとした静かな境内だった。
ただ、十日戎の時ともなると、境内には人が詰め掛けてはちきれんばかりの盛況となった。

中世、この地には海産物を調える御厨子所が置かれ、ここから毎日宮中へ鮮魚を奉献することとなっていた。
戦国乱世の中で一時中断していたが、弘治三年(1557)に後奈良天皇の綸旨を賜わって再開。
毎年正月、宮中へ新鮮な生鯛を奉献し年頭のお礼を申し上げることとなった。
この行事は「朝役」と呼ばれ、明治元年まで続けられた。
その行事の利便のために神社は朝廷より京の四条油小路に土地と家屋を拝領し宿としていたが、
この地が八坂神社の氏子区域だったため、祇園祭にも奉仕することとなった。
毎年六月七日と十四日、神輿をかつぐ駕與丁として今宮村の村人116人が参加する行事は「神役」と呼ばれ、
これも長く恒例の行事だったが、朝役の停止とともに絶えた。
その拝領地には、現在は「蛭子宮」が鎮座している。
また、毎年九月十八日には、午の刻に流鏑馬と豊後相撲の催しがあり、
神輿が四天王寺の石鳥居まで渡御、四天王寺が御供を行い、その楽人が舞楽を奉納するという一大イベントが開催されていたが、
これも明治初年の神仏分離により絶えた。

十日戎の中日、十日の祭りを古くは「居籠祭」といったが、これには以下のようないわれがある。

 今宮戎の神は九日の夜に広田神社(今宮戎神社の北150mに鎮座) に渡られるが、
 そのお姿が悪く人目を恥ずかしく思われるので、
 市中の民家はことごとく門戸を閉じ、さらに莚簾(むしろすだれ)を垂れ、門松を逆さに立て、
 家の中に親戚友人が集まって酒を飲み、豆腐の串焼きの雑煮などを食べ、
 この日は禁足して家を出ることなく、物静かに神祭をつとめる。
 そして夜が明けると門戸を開き、家中連れ立って神社へ参拝に向かう。

江戸時代にはそのような習慣だった。
もっとも、姿形の美醜にかかわらず、全国的に夜間における神の渡御、あるいは宮司など高位の神官の移動は見てはならないとされ、
見れば災いが降りかかるとされる。祭儀によっては、人に見られるといったん引き返してまたやり直すといったところもある。
広田神社は、兵庫県西宮市鎮座の広田神社と同じく天照大神荒御魂をお祭りしており、
西宮市の広田神社(天照大神)-西宮神社(えびす)と同じような関係を有している。
今宮戎神社の祭神のうち、天照大神・事代主神・稚日女命は、
神功皇后の新羅征伐において住吉三神とともに皇后を助けた神々であり、
それぞれ広田神社、生田神社、長田神社に祀られている。

えびす神は耳が遠い、という伝承があり、
参拝者は拝殿で祈願した後、本殿裏手にある羽目板・銅鑼を叩きながら声を上げてもう一度願い事をする。
大田南畝は享和二年(1802)にこの社を訪れ、「この神を祈るには、堂の後ろをたたいて願を掛ける」と記している。
えびす神を祀る神社は、だいたいこの形式になっている。

9日の宵。
難波駅から南海本線沿いに神社へ続く道の
両側には露店・屋台がぎっしりと立ち並び、
人の流れも非常に多い。なので写真撮るために
立ち止まるひまなし!
東門。
無数の提灯と干支の寅の絵馬が
架かっている。
神社周辺は縁起物を売る店で大賑わい。
境内。境内やその周辺にはお巡りさんが多数動員され、
人の流れの整理を行っている。
特に広い境内でもないところへ、
みんな拝殿前の鳥居をくぐって参拝したがるため、
その辺りが大渋滞を起こしている。
拝殿前。巨大な傘が立っている。
拝殿内では、次から次へと商売繁盛祈願が行われている。
ほとんどの参拝者は拝殿前まで近づけないので、
お賽銭がどんどん宙を飛んでいく。
何と景気のよい
ちなみにここまで接近すると、
後方から投げ銭の直撃を食らう可能性、大。
この後本殿裏に板を叩きにいくのが本筋だが、
肉密度的に無理でした
参拝が終わると、各々笹を受け取って、
「吉兆」と呼ばれる小宝を取り付けに向かう。
出口は北。
福娘さんたちが口々に呼び込みかまして熊手、お札を授与、参拝者が持ってきた笹に「吉兆」を取り付けてゆく。
商売繁盛で笹もってこーい。
福娘さんにうまいこと乗せられて、調子こいて小宝を次々つけてゆくとあっという間に万札飛びます。
この福娘さんは十日戎の華で、毎年凄まじい倍率の中から選ばれる。
神社で授与を行うのは、福娘選考会で決勝に残った方々。いずれも美人ぞろい。
関西ではここの福娘はステータスシンボルで、この経験者は就職先の心配がいらないとか。
藤原紀香もここの福娘出身者。
福娘さんのほかにもおかんやおばあちゃんたちが言葉巧みににこやかに、縁起物やおみくじの授与をなさってます。
もう逆行できる状況ではないです
肉密度1000パーセント!
いったん出て、南の鳥居前。
南鳥居前の通り。
こちらも人続々。今宮戎駅方面からの人か。
帰りに屋台で食う。


普段の境内。
十日戎の盛況がうそのように静か。
本殿を横から。 本殿裏。賽銭箱があり、両側に銅鑼がある。
参拝者はここでもう一度願い事をし、神様に念を押すならわし。
境内摂末社。右手前は大国社、奥は稲荷社。 福娘さんたちが華やかに呼ばわっていたところも、
ふだんはただのコンクリの建物。

 


田蓑(たみの)神社。

大阪市西淀川区佃一丁目
兵庫県との境、神崎川と左門殿川に挟まれた佃島の北部に鎮座。

『延喜式』には記載がなく、祈年祭において国から幣帛が頒布される「官社」ではなかったが、
住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』には、住吉大社の「子神」の一として「田蓑嶋神」が挙げられ、
また各地の神領を挙げていく条には、「九月御解除。田蓑嶋姫神社〔西成郡にあり〕」と記されていて、
住吉大社の神領に鎮座し、住吉大社と縁の深い神社であったことが知られる。
「解除」は「祓」のことであり、九月に祓の儀式を行う神社であったようだ。
田蓑島は佃島の古名。
おそらく、元来は田蓑嶋の女神を祀っていたと思われるが、
現在は住吉三神と神功皇后の、住吉大社と同じ四柱の神を祀っている。

社伝では、神功皇后が新羅遠征から帰還された際にこの島に立ち寄られ、
その時に海人が白魚を皇后に献上したことから、その海人を神として祀っていたが、
数百年の後にその海人が出現し、長らく自分が守っていた神功皇后の御船の鬼板を安置して住吉大明神を奉斎するようにと教えたことから、
貞観十一年(869)に住吉三神と神功皇后の四柱を祀る神社として創祀されたと伝えている。
もともと祀られていたのが『住吉大社神代記』にみえる「田蓑嶋姫」であり、
貞観十一年以降は住吉大社と祭神を同じくするようになった、ということだろうか。

戦国の世も終息に向かう天正十四年(1586)、
徳川家康公が住吉大社と多田神社(川西市鎮座。清和源氏霊廟)に参拝した折、
田蓑島の漁民が神崎川の渡船を勤め、また白魚を献上した。
家康公はこの縁によって田蓑漁民に漁業権の特権を与え、徳川家への献魚など様々な役を申し付けるようになった。
また、この時に「漁業だけでなく田も耕すように」とのことで「田蓑」に代えて「佃」の名を賜わったという。
天正十八年の家康公関東下向の際、佃の漁民と田蓑神社宮司の弟の三十四人が江戸へ移住し、
寛永年間には幕府より鉄砲洲向かいの干潟の地を拝領、これを埋め立てて造成し、
正保二年(1645)、故郷に因んで「佃島」と命名し移住した。
これが現在の東京都中央区佃島の地名の由来。
正保三年(1646)には住吉大神の社地を定め、住吉の四神と徳川家康公の御魂を祀った。
これがいわゆる佃住吉神社(中央区佃一丁目鎮座)で、神輿海中渡御、そして高さ20mにも及ぶ巨大幟などその祭礼は大いに繁栄し、
歌川広重の『名所江戸百景』に「佃しま住吉乃祭」として挙げられるように、江戸の人々にとって大変親しい神社となった。

境内の狛犬がどこかでパワースポットとして紹介されたらしく、
最近ではそれを目当てにやってくる人も多いらしい。

社前。
佃島南部は工業地帯といった印象だが、北部の当神社周辺は閑静な住宅地で、道も狭い。
鳥居は戦国時代の永正八年(1511)に建てられたもの。
境内。
きちんと整備され、清掃されている。
祭礼前のようで、各所で幟が立てられていた。
子供相撲の土俵の準備も。
左手には摂末社への鳥居。
拝殿。
住吉三神と神功皇后を祀る四つの本殿。
境内社。

奥の神社は稲生(いなり)社。祭神は宇賀御魂神。
次に七重之社。
天照皇大神・猿田彦命・事代主大神・大国主大神・
応神天皇・少彦名大神・菅原道真公の七柱を祀る。
手前が東照宮ならびに金比羅宮。
東照宮・金比羅宮。
徳川家康公と大物主大神を祀る。
賽銭箱には徳川家の家紋である三つ葉葵。
紀貫之歌碑と、「佃漁民ゆかりの地」碑。

歌碑には、『古今和歌集』巻第十八、雑歌・上(918)に収録されている田蓑島の歌、

    難波へまかりけるとき、たみのの島にて雨にあひてよめる             つらゆき
  雨によりたみのの島を今日(けふ)ゆけど名には隠れぬものにぞありける  
    (雨に降られたので、田蓑の島へ今日は行ったのだが、蓑という名には身を隠すことができないものだなあ)
    (*「名には」と「難波」をかけている)

が刻まれている。
古今集には、ほかにも、

  難波潟潮満ちくらし雨衣たみのの島に鶴(たづ)鳴きわたる  (913)
   (難波潟に潮が満ちてきたのだろう、鶴が田蓑島を目指して鳴きながら飛んでゆく)
   (*「あまごろも」は「蓑」の枕詞で、「あま」が「海人」も暗示する)

という、山部赤人の名歌「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」を本歌とした読人知らずの歌がある。
名前のせいで「長崎はきょうも雨だった」的な、いつも雨が降ってそうなイメージになってしまっておる。

佃漁民については上記の通り。
現在、この島の佃小学校と東京の佃島小学校は姉妹校となっており、交歓会を行っているとのこと。





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