にっぽんのじんじゃ・おおさかふ

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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河内国:

高安郡(八尾市東部):

恩智神社 天照大神高座神社

石川郡(大阪府南河内郡河南町・千早赤阪村・太子町、富田林市の一部):

叡福寺 弘川寺

*高安郡

恩智(おんぢ)神社

八尾市恩智中町に鎮座。
国道170号線(外環状線)柏村交差点を東に折れ、道なりに山を登っていったところ。

河内国二宮。
『延喜式』神名式、河内国高安郡十座のうち、恩智神社二座。ともに名神大。
祈年祭、月次祭、新嘗祭に加え、
京・畿内・紀伊の特定の神社にしか班幣されない相嘗祭において幣帛を受ける七十一座のうちの二座であり、
古来重要な神社であった。

創祀は雄略天皇治世とも天武天皇の白鳳年間ともいわれる。
祭神は大御食津彦大神と大御食津姫大神。
食物を司る男神と女神で、
大御食津彦大神は、中臣氏系図に見える天児屋根命の四世の孫・大御気津臣命で、
大御食津姫大神は、伊勢の外宮の祭神である豊受大御神と同じとされている。
中臣氏系図によれば大御気津臣命は恩智神主家の祖となっているが、
『新撰姓氏録』河内国神別・天神の項では、
「恩智神主。高魂命(たかみむすひのみこと)の児、伊久魂命(いくたまのみこと、いくむすひのみこと)の後なり」
とあり、異なる出自を記している。
中臣氏系図に組み込まれていることから少なくとも古代より中臣氏と深い関係にあったことは間違いなく、
社伝によれば、天平宝字年間(757-765)に藤原氏によって社殿再建されたことを機に、
中臣氏と藤原氏の祖神・天児屋根命を祀ることになり、その後宝亀年間(770-780)に枚岡神社(河内国一宮)へ分霊したと伝える。
その天児屋根命が奈良の春日神社へ分霊されたことにより、恩智神社は「元春日」と呼ばれる。
春日神社との関係は深く、春日社の猿楽は恩智神社が担当しており、春日社より猿楽座に米七石五斗と金若干が納められていた。

日本国第五の正史『日本文徳天皇実録』嘉祥三年(850)十月七日条に「河内国恩智大御食津彦命神。恩智大御食津姫命神等並正三位」とあり、
日本国第六の正史『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条にはともに従二位を与えられている。
また同年九月八日条には風雨順調を祈って幣帛が奉られたことが記されている。
『延喜式』臨時祭式によれば、祈雨神祭において幣帛を受ける八十五座のうちの二座であり、
雨を降らせ、また雨を止める神として信仰を集めていた。
『本朝世記』によれば正暦五年(994)年四月、一条天皇が中臣氏を宣命使として奉幣、疫病などの災難除けを祈願されたことにより、
以来厄除けの社としても信仰されている。
また、住吉大社とも深いつながりがあったようで、
旧暦六月二十七日には住吉・恩智の神輿が摂津・河内国境の平野鞍作の御旅所に会し、ともに住之江の浦で禊を行い、
それからそれぞれの社に戻って夏祭りを斎行したという。
『住吉大社神代記』の「生駒神南備山本記」には、

 唐国に大神が通い渡られたとき、
 乎理波足尼命(をりはのすくね。折羽足尼、津守氏系図にあり)はこの山の榊をもって迹驚岡(とどろきおか)の神を岡に降していつき祭った。
 時に恩智神がお参りなさった。ゆえに、毎年の春秋に墨江に通われる。
 これによって猿の往来が絶えないのは、これがその起源である。

と、その関係の古いことが記されており、江戸時代成立の『恩智大明神縁起』では、
神功皇后の新羅征伐にあたっては住吉大明神と御気津臣命が共同して皇后を護り導いたとしている。

鎮座当初は山の麓、現在「天王の森」と呼ばれるところに鎮座していたが、
建武年間、この地の豪族であり社家でもあった恩智左近満一(楠正成の右腕として戦った)が恩智城を造ったとき、
城が神社を見下ろす格好になって不敬であるということで、城よりも高所の現在地に遷座したという。
恩智城は貞和四年(1348)、楠正行が四条畷の戦で戦死し南朝方が総崩れとなった時に落城。
そのまま廃城となり、現在は城址を残す。

山の麓にある叢林、天王の森。
恩智神社の旧社地で、
その後牛頭天王を祀る祇園社が建てられたことにより、
その名がついた。
明治の神仏分離により「八坂神社」と改称、
現在は恩智神社の境外末社。
森といっても木々は周縁部に立っており、中は広場となっている。
子供たちが元気に遊んでいた。
八坂神社。
玉垣に「頓宮」と彫られている。
ここが恩智神社の神輿の御旅所になっているため。

この周囲は広範囲にわたって弥生時代の遺跡が見つかっており、
近年は縄文式土器も出土、古くから人が住んでいたことがわかっている。
東高野街道沿いに立つ、
恩智神社一の鳥居。

東高野街道は、京都から高野山への参詣に用いられた街道で、
高野山へと向かう街道のうちもっとも東に位置することからその名がある。
南北にほぼ直線的に走っていることから、もとは上古の官道であったと考えられている。
この辺りでは、おおむね現在の旧・国道170号線になる。

神社への道は狭いけど、
駐車場がこのへんにあるので、車での参拝も安心。

参道。急な階段が続く。 見えてきた。
最近新しい玉垣を立てたみたい。
上に行くにつれ奉献が30万、50万、70万、100万とうなぎ上りで、
氏子崇敬者の方々の心意気は凄いな、と思った。
参道の右手にある高野山真言宗・感応院。
もとは恩智神社の神宮寺だったが、
明治の神仏分離で分割されている。
というわけで手水舎にやってきたら、
うさぎさんがいたでござる
の巻
住吉さんもうさぎさんがお使いであり、
両社の深い関係を示している。
恩智神社拝殿。
向かって右に兎、
左に龍の像がある。
兎と龍はこの神社の神使となっている。
珍しい取り合わせだが、
これは、戦前までは秋祭りが
十一月末の卯・辰の日に行われていたことに
ちなんでおり、秋祭りは「卯辰祭」とも呼ばれている。
現在は十一月二十六日に固定されているようだ。

兎は神様の道案内をしたと伝わり、
龍はこの神社の水分社の水神とされ、
ともに神様へと導いてくれる存在としている。
本殿。
明治時代に造替されている。
大御食津彦大神(手前)、
大御食津姫大神(奥)の両殿が並び立つ。
この写真では見えないが、
両殿の真ん中に末社である
天川社・八幡社の小祠が鎮座する。
社務所と、摂社・春日神社。
天児屋根命をまつる。
香取神宮に奉斎されていた天児屋根命はまずこの地に勧請され、
それから枚岡神社→春日神社と祀られたことで、
恩智神社は「元春日」と呼ばれている。
春日神社の奥には末社が並んでいる。
拝殿前の兎と龍。
うさぎは撫でていいらしい。
本殿裏の林の中にある八大龍王社。
龍はこの神社の神使。
神仏習合、そして祈雨の神として信仰を集めていた名残だろうか。

本殿裏手近くには古墳があり、
山頂付近からは銅鐸も出土しているとのこと。
山麓一帯は縄文時代から人が住んでおり、
この神社が創祀されるはるか以前からここは神祭りの場だったのだろう。
社務所裏手にある閼伽井戸(あかいど)。
弘法大師空海がこの社を訪れた際、
岩場を突いたところ湧き出たと伝わる。
雨の降る前になると、赤茶色の濁水が流れ出るという。

天照大神高座(あまてらすおおかみたかくら)神社。

八尾市教興寺に鎮座。
恩智神社から北、そう遠くないところ。ただし山奥。

『延喜式』神名式、河内国高安郡十座のうち、天照大神高座神社 二座〔並びに大。月次・新嘗。元、春日戸神と号す〕。
大社指定がなされ、祈年祭、月次祭、新嘗祭の班幣に預かった。
注記に、もとは春日戸神(かすかべのかみ)と呼んだと記されている。
神名式に記載された官社(朝廷が祈年祭班幣を行う神社)の中で、唯一「天照大神」の名を冠する神社。

『日本三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に、従五位下の春日戸神の神階を従五位上に進めたとあり、
これが国史に見える唯一の記事。
中世以降は近隣の教興寺(八尾市教興寺。真言律宗、西大寺の末寺)の鎮守社となり、
近世は弁才天社となっていたが、
明治の神仏分離において「天照大神社」となり、戦後に『延喜式』の「天照大神高座神社」に社名を復した。

『延喜式』に「二座」と記されていた二柱の祭神、
一柱はもちろん天照大神だが、もう一柱は、現在は高皇産霊尊としているが、
昔の史料には、社名どおり「高座神」としているものが多い。
ただ、高座神がどのような神であるかについては、高皇産霊尊であったり伊勢津彦命であったりと意見が分かれている。
あるいは元の社名である春日戸の神であるとするものもある。
現在、高皇産霊尊にしているのは、高座神=高皇産霊尊とする説を採用しているのだろう。
神話においては高皇産霊尊と天照大神が共同で神々の会議を招集したりしているから、この説に違和感はない。
創祀は雄略天皇二十三年。伊勢に豊受大神宮(外宮)が鎮座した翌年に伊勢からこの地に勧請されたとする。

(左)道路からの参道入口を示す標柱。なんと塩爺さんの奉納。
しかし思い切りぶつけられてへこんでいるでござる

(上)参道入口鳥居。
戦前の社名である「天照大神社」の標柱が今も立っている。
コンクリート舗装されており、車で上がっていけるが、狭くて急坂。
山をスイッチバックのように登っていった先にある駐車場。
山の中で光量が足りず、携帯写真ではうまく写らない。
石段を上がっていった先が拝殿。
この左手の高台には「岩戸神社」が鎮座している。
拝殿からちょっと上がった高台より。
下に拝殿、そしてその右上、岩場の中にめりこむように本殿が鎮座している。
巨石や巨岩のくぼみに神が宿るとする、古代の磐座信仰が継承されたものか。
けっこう壮観。
拝殿。
拝殿前は薄暗くてピントがぜんぜん合わない。
上の写真を撮ったところの右手あたりに鎮座する末社たち。
拝殿の裏側のほうにももう一社鎮座していた。
末社の反対側には石神がずらりと並んでいる。 境内を小川が流れており、写真右のところで小さな瀧となっている。
白飯の瀧といい、どのような旱でも涸れることはないという。
その脇には石仏が並んでいて・・・
なんだかすごいことになってます。
ここは神社境内のはず・・・・・・
川向かいに「妙宗寺」という寺院があるけど、そっちのほうのだろうか。
白飯の瀧は修行場になってるみたいだし。
参道の左側、上のほうで隣り合うように鎮座している岩戸神社。
市杵嶋姫命を祀っている。
「日本最初 岩谷弁財天 岩戸神社」と記されている。
天照大神高座神社は近世は「岩谷弁才天社」として信仰を集めていたが、
明治の神仏分離でそれらが一掃されてしまった。
その弁才天信仰を復活させたのがこの岩戸神社で、
大正九年に天照大神社の境内末社として追加編入されている。
高安山の密度の濃い、鬱蒼とした森。
しかしこれを越えて山の東側に出たら、そこはもう信貴山朝護孫子寺。
とはいえ、車両が通れるような山越えの道路はない。
近鉄のケーブルカーと、
山稜を信貴生駒スカイラインが走ってるくらいか・・・
山越えのハイキングコースはあるようだ。

*石川郡

磯長山叡福寺。

大阪府南河内郡太子町太子
河内と大和の境、山に囲まれ奥まった谷間の地・磯長(しなが)にある、
日本史上のスーパースター、聖徳太子の御廟所。

聖徳太子は用明天皇の皇子で、推古天皇の世に摂政として国政を執られた。
『日本書紀』の用明天皇紀に、

  (天皇は)穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后とされた。この人は四人の男子をお生みになった。
  その一を厩戸皇子(うまやどのみこ)という〔またの名は豊耳聡聖徳(とよとみみしょうとく)という。
  あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおほきみ)という。あるいは法主王(のりのうしのおほきみ)という〕。
  この皇子ははじめ上宮(かみつみや)にお住まいになり、のち斑鳩(いかるが)に遷られた。
  豊御食炊屋姫天皇(*とよみけかしきやひめのすめらみこと。推古天皇)の世に東宮(皇太子)となられ、
  すべての政務を統轄し、天皇の代理を行われた。その事は豊御食炊屋姫天皇紀にみえる。
  その二を来目皇子(くめのみこ)という。その三を殖栗皇子(ゑくりのみこ)という。その四を茨田皇子(まむたのみこ)という。

とその出自が記される。
『日本書紀』によれば、
用明天皇崩御後、物部守屋大連は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立しようと図り、
対して蘇我馬子大臣は豊御食炊屋姫尊を立て、先手を打って穴穂部皇子を誅殺すると、諸皇子・諸豪族とともに物部守屋を攻撃した。
この時、物部の軍は強く、皇子・蘇我連合軍は三度退却した。
そこで厩戸皇子は「この戦いは願をかけなければ勝てません」と言い、四天王の像を彫って頭に載くと、
「もし自分を敵に勝たせて下さいましたら、必ず護世四王のために寺塔を建てましょう」と誓った。
蘇我馬子も諸天・諸神に誓い、かくて進撃すると、迹見首赤檮(とみのおびと・いちい)が守屋を木の股から射落とし、勝利することができた。
この時、世の人は、
「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹だ。大臣は軽々しく妻の計を用いて大連を殺した」
と語り合ったという。
この後、厩戸皇子は誓いの通りに四天王寺を建立し、蘇我馬子も同じく法興寺、つまり飛鳥寺を建立した。
この政変によって、連合軍に参加していた泊瀬部皇子が周囲の勧めで皇位を継いだ(崇峻天皇)が、
天皇は物部守屋の死後思うがままに権勢を振るう馬子とウマが合わず、馬子への不満を漏らしたために馬子の手の者によって弑逆されてしまった。
そして馬子は豊御食炊屋姫尊に皇位を継がせた。
これが推古天皇で、天皇は厩戸皇子を皇太子とすると、自らの代理として国政を委ねられた(593年)。
太子は、推古天皇十一年(603)に冠位十二階を制定、翌年には十七条憲法を発表、また朝廷内での礼法を定めた。
また仏法を積極的に推進し、自らも諸経典に精通、とくに勝鬘経・法華経のスペシャリストだった。
推古天皇十四年(606)には、天皇は斑鳩宮に遷られていた太子を招いて勝鬘経や法華経を講じさせられ、
天皇は大変喜ばれて播磨国の水田百町(約100ヘクタール)を太子に贈られたので、
太子はこれを自らの宮内に建てていた斑鳩寺(のちの法隆寺)に寄進された。現在の兵庫県揖保郡太子町がその土地にあたる。
また翌年には大陸の隋国に小野妹子を大使として遣わし、国交を通じた。
そして推古天皇二十八年(620)、蘇我馬子大臣と議って、『天皇記』『国記』そして臣・連・伴造・国造・百八十部ならびに公民等の本記を記録。
天皇から平民にいたるまでの歴史由来を記録し、国史編纂のさきがけとなった。
しかしその翌年、推古天皇二十九年(621)の二月五日、太子は斑鳩宮で薨去された。
諸王・諸臣および天下の人民は大いに悲しみ、泣き叫ぶ声は巷にあふれたという。
同月、太子は磯長陵に葬られた。
10世紀前半に編まれた『延喜式』の諸陵式では、「陵」字は原則として天皇・皇后の墓所に用いられる決まりのため、
皇太子であった聖徳太子の御墓は「磯長墓」と記されており、現在も正式にはその表記となっている。

『日本書紀』には太子の生年は記されていないが、
最古の太子の伝記である『上宮聖徳法王帝説』によれば、
用明天皇二年(587)、天皇崩御後の後継者争いで諸皇子と蘇我氏をはじめとする諸豪族の連合軍が物部氏と戦った時、
太子は「十四歳」であったと記されているので、
これに従うと生年は敏達天皇三年(574)となる。(当時は数え年)
(『日本書紀』では、年齢は記さないものの、その時皇子は「束髪於額(ひさごばな)」という髪型であったと記し、その注に、
「古俗では、年少の男児で年十五・六の間は束髪於額にする。十七・八の間は、分けて角子(あげまき)とする。今もまたそうである」とあり、
十五もしくは十六歳であったとする)
また、同書によれば、太子の薨去の年月日は「壬午年二月二十二日」と記されており、
同時代に製作された「法隆寺金堂釈迦仏光背銘文」や「天寿国繍帳背文」などにも、
太子の薨去を「間人皇后薨去の辛巳の翌年」、つまり「壬午年」としている。
「壬午年」は推古天皇三十年(622)にあたり、『日本書紀』に記す太子薨去年の翌年。
『上宮聖徳法王帝説』は『日本書紀』に先行する成立とみられており、また同時代の史料に基づき、
現在では太子は敏達天皇三年生誕・推古天皇三十年薨去、享年49(数え年)とされている。
ただし、この生没年にも疑問がないわけでもない。
『上宮聖徳法王帝説』が生誕年とする敏達天皇三年の干支は「甲午」であり、薨去年は「壬午」で、ともに「午年」。
「厩戸皇子」が午年に生まれ、そしてまた午年に薨去されたというのはいかにも出来すぎ、といえなくもなく、
「厩戸皇子」という御名になぞらえ、その霊妙さを増すために設定された可能性も否定できない(もちろん、あり得ない話ではないが)。
「法隆寺金堂釈迦仏光背銘文」「天寿国繍帳」も、太子薨去後あまり遠くない後世の製作であるという説もある。
聖徳太子はそれこそ生きているうちから伝説化が始まったとみられるので、生没年に関するいくつもの伝承のうち、
当時の仏法界では「午年生まれの午年薨去」がいちばん太子の霊妙さをあらわすということで通説化した、とも考えられる。
仏法界には仏法界の歴史があり、それは内輪でつじつまがあっていれば実際と異なっていても何ら差し支えなく、
オフィシャルな通史である『日本書紀』と年代が異なっていても一向にかまわないもの。
なお、平安時代成立の『聖徳太子伝暦』ではその説を採らず、
生年を敏達天皇元年(572)、薨年を推古天皇二十九年(621)の享年五十としており、それが長く定説であった。
多くの寺に残る「太子十六歳孝養像」(用明天皇御病平癒祈願の御姿)や、
「太子三十五歳勝鬘経講説像」などの年齢はそれに基づくもので、
『日本書紀』の記述とほぼ合致する。

太子は、『日本書紀』に記された片岡山飢人伝承からみても生前から「生ける伝説」と化していた可能性があり、
『日本書紀』も、太子をかなり聖人的に描いた伝承を用いて記している
(ただ、薨去年の相違からみて、太子贔屓が強かったであろう法隆寺系資料は用いていないと思われる)。
その後は、太子に縁の深い寺院である法隆寺と四天王寺が「ウチの太子はこんなにすごいんだからねっ!」と互いに張り合ったせいで
太子は雪だるま式にスーパー化していき、平安時代にまとめられた『聖徳太子伝暦』では、
太子は超人的な能力を持ち、前世は中国の衡山で修行をしていた僧であり、甲斐の黒駒に乗って斑鳩から飛鳥まで飛行通勤し、
次々に未来のことを予言、夢殿に籠って「金人」になんでも教えてもらい、
衡山にある前世の持ち物だった法華経を取りにいくため幽体離脱するetc...の完璧超人となっている。
太子は、その前世が衡山の天台宗第二祖・慧思禅師であったという説、そして『法華経』講説者ということで天台宗で非常に尊崇され、
天台宗こそ太子の後継であると主張し、後には延暦寺より四天王寺別当を補任するまでの権威を得た。
真言宗では開祖の弘法大師空海は太子の生まれ変わりともみなされたことでこれも深く信仰され、
真言・天台という平安時代を代表する宗門のバックアップで太子信仰は広く浸透するようになった。
太子が法華経のスペシャリストであったことから日蓮が尊崇、そのため法華宗でも尊ばれ、
浄土真宗の親鸞聖人や時宗の一遍上人も太子に深く心を寄せられるなど、いわゆる鎌倉新仏教においても高く仰がれることは変わらず。
日本仏法興隆の祖であっただけでなく、その後に続いた諸宗門にも等しく仰がれた存在だった。
また、大江匡房(1041-1111)の著した『本朝神仙伝』の写本の内には「上宮太子」という一項を立てているものがあり、
太子は尸解した仙人である、とする見方もあった。
正史『日本文徳天皇実録』を編纂した官人で、羅城門の鬼と漢詩を交わしたというエピソードで知られる都良香も聖徳太子伝を著しており、
それは散逸したものの、中世に記された聖徳太子伝集成目録にその名が残されている。

予言を能くしたという伝説から、鎌倉時代には聖徳太子の書いたという「未来記」が発見されたと話題になったり、
鎌倉幕府滅亡も「未来記」に書いてあった、という風説も生まれ、『太平記』にはその顛末が記されている。
一般にも『聖徳太子伝暦』を中心とするエピソードが流布してその霊験は知れ渡り、
観音あるいは弥勒の化身としての極楽往生の導き手、
物部守屋討伐のエピソードから軍神として、あるいは多数の寺院を建立したことから大工の神様として信仰された。
近代以降は「十七条憲法」がクローズアップされて天皇への忠誠や「和」の尊重などが叫ばれ、
ちょっと前でいうと「一万円札の顔」であり、いつの世にも信仰を失わない、まさに日本史上のスーパースターといえるだろう
(もっとも、一万円札に用いられた画は太子ではない説が有力になってるけど)。
そのあまりのスーパーぶりから「太子虚構説」も生まれているが、
『日本書紀』に数多くの異称が収録されていることから、その当時すでに太子に関する様々な資料があったと推定される。
『日本書紀』や法隆寺関係のもの以外にも、『書紀』に先行する書物である『播磨国風土記』の賀古郡(印南郡)大国里条に、
「原の南に石の造作物がある。その形は家屋のようで、長さ二丈、巾は一丈五尺、高さも同じ。その名号を大石という。
言い伝えによると、聖徳王の御世に弓削大連(物部守屋)が作った石である、という」という記事がある。
よって、「聖徳」の名号が『書紀』の作為であるとは考えられない。
また、『伊予国風土記』の逸文にも、聖徳太子が道後温泉に遺した碑文が収録されている。
太子に言及した同時代(あるいはやや後代)の文物も複数あり、その情報量からするととうてい架空の人物とは思われない。
太子が架空ならば、他の人物は太子よりよほど情報量が少ないので、それらはさらに架空の存在、となってしまう。
「一休さんとんち話」や「大岡裁き」には虚構が多いが、だからといって一休禅師や大岡越前守忠相が架空の人物という人はいない。
「すごい人」にあることないこと関わらず「伝説」が付加されていくのは古今東西変わらないこと。
現在では「全盛期のイチロー伝説」がそれにあたるかも?ただし太子伝説はイチローをはるかに凌駕する。

叡福寺は、この聖徳太子の墓を守る寺院。
八尾市・大聖勝軍寺の「下の太子」、羽曳野市・野中寺(やちゅうじ)の「中の太子」と並び、「上の太子」として親しまれている。
現在は真言宗系の単立寺院で、本尊は如意輪観世音菩薩。
寺伝では、推古天皇三十年(622)太子埋葬の後、その地に墓所守護・追福のために一堂を構えて創建、
神亀元年(724)、聖武天皇の勅願によって七堂伽藍が造営されたと伝わる。
朝廷の崇敬厚く代々寄進・参詣を賜わり、仏法を修める者もこぞって参詣した。
戦国時代の天正二年(1574)、石山本願寺や三好氏を攻撃した織田信長の兵火にかかり焼失、
17世紀初頭の慶長年間に後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が再建した。これが現在の塔寺となっている。
律令制下では、陵墓には朝廷が陵戸(陵墓の管理を行う賤民の家)を定めて管理を行っており、
寺院はそれに預かれなかったと思われるので、境内で発掘される瓦が平安後期を遡らないこともあり、
実際の創建は律令制崩壊後、陵墓の管理がなされなくなった平安後期になると考えられている。

南大門前。金剛力士が左右を護っている。
現在の門は慶長年間造営のものを昭和33年に再建したもの。
「聖徳廟」の額がかかっており、当時の内閣総理大臣、岸信介氏揮毫。
門前は駐車場。
「聖徳皇太子磯長御廟」の標柱が立っている。
寺前を走る府道32号線は狭く、坂道の途中なので交通注意。
境内。 左手には宝塔。承応元年(1652)再建。国指定重要文化財。
釈迦三尊(脇侍は文殊・普賢菩薩)・金剛界大日如来を安置する。
宝塔の向こうには聖光明院があり、
太子の従者であった調子麿(ちょうしまろ)が葬送後も留まって
太子の菩提を弔った場とされる。
塔の向かいにある金堂。
後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が再建し、現存するのは享保十七年(1732)の再建。府指定文化財。
金堂とは本堂のことであり、境内でもっとも壮大な建物。
本尊は如意輪観音菩薩。平安時代以降、太子は観音菩薩の生まれ変わりとされたことによる。
脇侍は不動明王と愛染明王。
金堂の裏にある聖霊殿。国指定重要文化財。
別名を太子堂といい、
「聖徳太子十六歳植髪等身像」
 (父君・用明天皇の御病平癒祈願の御姿)、
「南無仏太子二歳像」
 (二歳の時、東に向かい「南無仏」と再拝した御姿)
を祀っている。
十六歳像は後鳥羽天皇が文治三年(1187)に御臨幸の際、
宮中御物であったものを御下賜されたものと伝わる。
太子廟前の二天門。

「二天門」は「仁王門」とは違い、
持国天・増長天・広目天・多聞天の「四天王」のうちの
二天を両側に置く門のことをいう。
四天王寺を開基した太子に相応しい門だろう。
ここには多聞天と持国天が祀られ、
太子の御廟を守護している。
厩戸皇子磯長墓。宮内庁管理。
廟堂が建てられているのが通常の陵墓と異なる点。

磯長墓は丘の斜面を造成して築かれた三段墳丘の円墳であり、
後世、横穴石室の入り口に廟堂が建てられた。
(一段めを八角形であるとし、後世の墓として聖徳太子墓ではないとする説もある)
玄室には三つの棺が置かれており、それぞれ生母である穴穂部間人皇后、聖徳太子、そして妻の膳大郎女の遺体を納め、
「三骨一廟」と呼ばれている。
石室の一番奥に穴穂部間人皇后の石棺、
その手前の向かって右に太子の棺、左に膳大郎女の棺が置かれる。
この二つの棺は夾紵棺(麻布を漆で張り合わせた乾漆の黒棺)。
伝承では、間人皇后は太子の薨去前年12月に薨去、膳部大郎女は太子薨去の前日に卒去したとされている。
主要な陵墓は『延喜式』諸陵式に記されており、朝廷の管理が行われていた。
磯長墓も陵戸三戸が定められて墓守が行われていたが、律令国家体制の崩壊とともに管理されなくなり、
当初は法隆寺が管理していたようだが、やがて叡福寺がそれを司るようになった。

墓を取り巻いている立石を「結界石」といい、内部のものは弘仁元年(810)、弘法大師空海参籠の折に築造されたと伝えられ、
外側は享保十九年(1734)に大坂の樋口正陳が願主となり、浄財を募って寄進したもの。
内側の結界石は未完成だが、
これは弘法大師が一夜で仕上げようとしたところ、時ならず鶏が鳴いたために果たせなかったからであるといわれており、
そのため、この周辺の村人は鶏を飼わなかったという。
また、この結界石は何度数えても数があわないといい、叡福寺の七不思議の一つに数えられている。


邪な考えを持つ者もいたようで、
元久年間(1204-1206)には浄戒・顕光という二人の僧が石室に入り、太子の歯を盗んで東大寺の重源に進呈した。
これが発覚して歯は返還され、盗んだ浄戒らは流罪になったと、『百錬抄』に記されている。
太子の遺骨は仏舎利クラスの貴重品になっていたようだ。
また、貞和四年(1348)にも盗掘を受けて遺骨が破損、石室内の遺物がことごとく盗まれた、という記事が『園太暦』にみえる。
江戸時代には太子廟に入って三棺を拝むことができていたが、明治になると政府によって禁止され、
明治12年の修復工事ののち、石室への横穴入口はコンクリートで封鎖された。
このため、現在は三つの棺を見ることができないが、
「近つ飛鳥博物館」(南河内郡河南町東山、近つ飛鳥風土記の丘内)にて石室内部の状況をあらわした模型が展示されている。

『日本書紀』では、聖徳太子を磯長墓に葬った事は記しているが、母君と妻を合葬したとは記していない。
(もし合葬してあれば、天智天皇6年〔667〕2月27日条に、
「天豊財重日天皇(斉明天皇)と間人皇女(天智天皇妹、孝徳天皇妃)を小市岡上陵に合わせ葬り奉る。
この日、皇孫大田皇女(天智天皇娘、大海人皇子妃)を陵の前の墓に葬った」
とあるようにその旨の記事がある。この記事は牽牛子塚古墳発掘においてクローズアップされた)

『上宮聖徳法王帝説』でも、太子に先立って間人皇后と膳部大郎女が亡くなったことは記しているが、合葬したとは書かれておらず、
聖徳太子を磯長墓に葬ったと書いてあるだけ。
『延喜式』諸陵式でも、磯長墓の埋葬者として記されているのは聖徳太子一人。
これが平安中期の成立である『聖徳太子伝暦』では、聖徳太子と妻の二人が葬られたとしており、
そしてさらに後の鎌倉中期に法隆寺僧が記した『聖徳太子伝私記』において、被葬者は三人となっている。
『聖徳太子伝私記』には、正暦五年(994)に忠禅という僧が廟内に侵入して「不可思議な作法」を行い、
それを知った法隆寺の僧が検分に入った所、石室内には「二つの棺」があった、と記している。
それが事実であれば、少なくともこの頃、棺は二つであったことになり、
この時期は埋葬者を二人とする『聖徳太子伝暦』の成立時期と重なっているとみられる。
また、天喜二年(1054)にも聖を名乗る僧が廟内に押し入ったため、再び調査に入ったところ、
「三つの棺のうち、一つには頭蓋骨があったがほかの二つにはなかった」
「東の棺の中に太子が生前そのままの姿で横たわっており、異香が漂っていた」
という二つの伝承を記し、さらに同じ年には「太子御記文」出土、続いて「太子廟窟偈」が発見されたとあり、
ここより「三骨一廟思想」が大いに広まることとなった。

これらの伝承から、古代末期から中世には民間への太子信仰流布のために仏法界では大々的な活動が行われており、
その中、御廟内でもいろいろと操作があったとする見方がある。
ただ、『上宮法王法王帝説』が採録している「法隆寺金堂釈迦仏光背銘文」より、
太子の死後間もなくより法隆寺では、
三か月の内に相次いで亡くなった間人皇后・膳大刀自・聖徳太子の三人を重要視していたことがわかる。
仮にそのような操作があったとしても、それは太子にまつわる古い信仰を、
一般人にもひと目でわかるように提示した、ということになるだろう。
「嘘も方便」という言葉もあるし、それが信仰につながるのであればよかろう、というのが中世のスタンスだった。

御廟東にある浄土堂。
慶長二年(1597)、伊藤加賀守秀盛再建。
本尊は阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊。
弘法大師御参籠の際、九十九夜に渡って御廟内より楽の音が聞こえ、
阿弥陀三尊が御来臨されたといい、それをうつしたものと伝えられる。

写真の奥、御廟西の建物は「上の御堂」。
元禄元年(1688)、当国の丹南藩主・高木主水正が、
回廊・二天門・鐘楼などとともに寄進した。
聖徳太子三十五歳像が祀られている。
推古天皇の招請で勝鬘経・法華経を講ぜられたときの御姿。
浄土堂の東にある見真大師堂。
明治四十五年の建立で、本尊は親鸞聖人坐像。
太子への崇敬ひとしおであった聖人が八十八歳にて御参籠の折、
自らこの像を刻んで遺されたと伝わる。
熱心な門徒の方は現在でもこの堂に参籠し、
太子と聖人の遺徳を偲ぶという。
真言系のお寺に親鸞聖人のお堂、
宗派を超えた信仰をもつ太子のお寺ならではの建物といえるだろう。

この東後方には写経を納める経堂があり、
東前方には弘法大師堂がある。
この本尊も、大師自ら三鈷をもって刻まれたという六十歳像。
聖徳太子墓遠景。
道向かいには西方院があり、
聖徳太子御乳母の三尼公の御廟所となっている。
太子町案内板。YAHHO!
この磯長の地には敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵もあり、さながら「王家の谷」の様相を呈している。
この地は蘇我氏の勢力下にあり、たとえば太子町東部の山田という地は大化改新の功労者で蘇我馬子の孫、
蘇我倉山田石川麻呂の一族である蘇我倉山田氏の本貫地だった。
そのため、ここには蘇我氏に縁の深い天皇の陵がおかれている。

弘川寺。

南河内郡河南町弘川
大阪府と奈良県の境をなす金剛山地の西麓に位置する。

真言宗醍醐派で、本尊は薬師如来。
天智天皇四年(665)、役行者により創建と伝わり、
天武天皇の白鳳五年(677)に祈雨に験あって天武天皇より「龍池山弘川寺」の寺号を賜り勅願寺となったという。
一時衰微したが、弘仁年間に弘法大師が嵯峨天皇の命により中興、
文治四年(1188)、座主空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願し効験あったことで「善成寺」の勅額を賜った。
その後南北朝・戦国の戦乱に巻き込まれ、
寛正四年(1463)、河内守護の畠山政長と義就が後継者争いで干戈を交えた際、
この寺に拠った畠山政長を義就が攻撃(弘川合戦)、四月十五日に多くの伽藍・堂塔が焼亡した。

この寺院が有名なのは、ひとえに西行法師終焉の地であること。
前述の空寂上人の法徳を慕った晩年の西行法師は弘川寺を訪れて腰を落ち着け、
文治六年(1190)二月十六日、以前自分が詠んだ、

  願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ

の歌のとおりに入寂した。
その後、戦乱の世の中で西行法師入寂の地ということが長く忘れられていたが、
江戸時代に入り、西行法師を深く慕い「今西行」と呼ばれた安芸国出身の歌僧・似雲法師が享保十七年(1732)にこの寺を訪れ、
境内に西行法師の墳墓を発見。
墓域に草庵を結んで隠棲し、のち遺言により西行法師墳墓の傍らに葬られた。

金剛山地の西麓、奥まったところにあるのでなかなか行くのが面倒なところ。
大阪から、奈良から、どちらから行くにせよ国道309号線を使うのがいいだろうか。
2月に行ってみたが、2月は2月でも新暦2月はまだ殺風景だった。

弘川寺前。山門はない。
弘川合戦の戦火で焼亡し、そのままとなっている。
2月下旬に訪れたが、
強風のために杉の古枝が大量に落ちていた。
冬は雑草は生えないけど、
これがあるから掃除が案外大変。
本堂。弘川合戦にて焼失したのち長らく再建されていなかったが、
近年、五百年ぶりに再建された。
境内。
西行堂へ上がってゆく道。 西行堂。
延享元年(1744)、似雲法師が建立した。
さらに道は奥のほうへ。 広場に出てくる。
向こうに見えるのが西行塚。
西行法師が眠る。
その向かいにある、
西行を慕った似雲法師の眠る塚。
富田林市方面を望む。


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