にっぽんのじんじゃ・おおさかふ

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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和泉国:

大鳥神社 泉穴師神社 聖神社 積川神社 日根神社
泉井上神社

泉穴師(いずみあなし)神社。

泉大津市豊中町に鎮座。
阪和線・和泉府中駅付近の、国道26号線・阪和豊中交差点を西に曲がり、
泉大津高校前の大津高校前交差点を左折して進んでいけば、神社に行き当たる。
鎮守の森は「豊中公園」になっており、車を停めることができる。

和泉国二宮。
『延喜式』神名式、和泉国和泉郡二十八座のうち、泉穴師神社二座。
創祀は白鳳年間とするも他にいろいろの伝承あり不明だが、
『正倉院文書』にある「天平十年(738)四月五日和泉監正税帳」には「穴師神戸」の税について記されており、
そのころには神戸(神社維持のために神社に付属していた民戸)をもつ神社として存在していた。
国史初見は『続日本後紀』承和九年(842)十月九日条、無位の穴師神と積川神に神階従五位下を授けたとする記事で、
国史からはその後従四位下まで進んだことがわかっている。
豊臣秀吉の根来衆討伐時に兵火に遭い、
慶長七年、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建。その本殿は国指定重要文化財となっている。

祭神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)と栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の二座。
皇孫・瓊瓊杵尊の御両親を祀る。
天忍穂耳尊は天照大神と素戔嗚尊による天安河の誓約(うけひ)で、
天照大神のもつ勾玉を素戔嗚尊が噛み砕いて吹き出した息吹の狭霧に生まれた五男神の長子。
天照大神が自分の持ち物から生まれたゆえ自分の子であるとして引き取った。
稲穂を神格化したもので、それは親である天照大神も農業神であることを示している。
栲幡千々姫命は高皇産霊尊の娘で、機織物の神。
ただ、この神社の二座の祭神については諸説あり、
明治初期の神社明細帳では「天富貴神・古佐麻槌大神」の二柱を祭神としていた。
これは『新撰姓氏録』和泉国神別・天孫の項に、
「穴師神主。天富貴命(あまのとみのみこと)の五世の孫、古佐麻豆知命(こさまづちのみこと)の後なり」
とあるのに基づいており、穴師神主家がその祖神を祀っていたという認識だった。
また『袖中抄』(平安後期、文治年間に記された歌学書。歌語の注釈を行っている)に
「いぬゐ(戌亥、乾。北西)の風をあなしといふ」
とあることから、「穴師神」とは風神で、「級長津彦命・級長戸辺命」の風神二柱を祀っていたのではないか、という説もある。
また、大和国城上郡には「穴師坐兵主神社」が鎮座しているが、
この「兵主神」は秦始皇帝が山東地方で祭っていた八神のうちの「兵主神」(蚩尤神のこと)で、
その信仰が渡来人を通じて日本に伝わったものかともいわれており、
穴師神=兵主神という説もある。

JRと南海に挟まれ近辺に国道26号線も走っているが、
仕事中の人が周囲で一休みしたり、
散歩中の人が参拝に来たり、
ちびっ子たちが鳥居のところに自転車停めて橋の下でDSしたりと、のんびりした雰囲気のところだった。

鳥居。
小さな太鼓橋があり、
その下でちびっ子たちがDSやってた。
境内はかなり広い。 拝殿。
拝殿前に小さな鳥居がふたつある。
祭神が二座あるためだろうか。
玉垣のうちに本殿二座、
そしてその向かって右に摂社春日神社、左に住吉神社。
これらは国指定重要文化財。
住吉神社は戦国の戦火を逃れた、鎌倉期の建築らしい。
本殿の前に石灯籠が二基あるそうで、
それらは楠正成奉納と伝わる。
境内の左側にも、末社がずらりと並んでいる。
なかなか壮観な感じ。
その中でも一番立派な大国主社。 遥拝所。
神社境内の鎮守の森は、
泉大津市管理の「豊中公園」になっているようだ。

聖(ひじり)神社。

和泉市王子町、
安倍晴明生誕伝説で有名な、安倍保名と契った葛の葉狐が住んでいた信太の森に鎮座する。

和泉国三宮。
『延喜式』神名式、和泉国和泉郡二十八座の一、聖神社〔鍬〕。
小社区分であるが、祈年祭にあたっては、通常の小社への幣帛に加えて鍬(すき)が奉られていた。
祭神は聖神(ひじりのかみ)。
『古事記』では、
須佐之男命の子である大年神が神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘、伊怒比売(いのひめ)を娶って生んだ五神の中の一柱とする。
この五柱神の中には「韓神(からのかみ)」「曾富理神(そほりのかみ)」など、その名が朝鮮に由来する神々が入っており、
この聖神も、渡来氏族である信太首(しのだのおびと。『新撰姓氏録』和泉国諸蕃の項に、「信太首。百済国の人、百午の後なり」とある)が
その氏神をこの地に祀ったのがはじまりと考えられていて、
創祀は天武天皇の白鳳三年(674)八月十五日と伝えられている。
「ひじり」という神名は、一般には「日知り」、暦を司る神と解釈される。

鎮座地を取って「信太大明神」と通称され、
聖武天皇や後村上天皇から社領の寄進を受け、宇多上皇は菅原道真を伴って参詣し御衣を奉納、
後白河法皇は神額を自ら書して奉納し、この御宸筆の勅額は社宝となっている。
織田信長も朱印地を寄進するなど高名な神社であったが、
天正十三年(1585)、豊臣秀吉の根来衆討伐時の兵火により社殿は焼失、社領は没収された。
その後、慶長九年(1604)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として本殿を再建、今に至っており、
本殿は国指定重要文化財となっている。
明治の上知令によって社領が国に没収されて社地が大幅に縮小した際、
信太山丘陵に点在していた三神社・瀧神社などの末社が現在地に遷座している。
三神社・瀧神社の二末社も国指定重要文化財。

安倍晴明ゆかりの平安ファンタジーの舞台である信太の森だが、現在は集団住宅地として開発されてしまっている。
だが、明治の上知によって国の土地となり、陸軍演習場、現在は陸上自衛隊信太山演習場となっている一帯、
そしてここ聖神社周辺に、清少納言が『枕草子』に
「もりは(中略)、信太の森、(後略)」
と記した面影を残している。

住宅や公園のただ中にある朱塗りの鳥居。 ここから境内。

聖神社拝殿。
かなり古びており、歴史を感じる。
拝殿と、その後方の本殿。
桧皮葺の堂々たる姿で、
日光東照宮創建の際には、
この社殿を参考にしたとも伝えられる。

昭和十二年の大修理工事の際、
慶長九年の再建と江戸期の修理年代を
記した棟札が発見され、社伝を裏付けた。
同時に、文明十五年(1483)に製作された神輿が
解体された姿で発見されている。
明治の上知令による境内地縮小で遷座してきた、
境内末社。
境内右手に鎮座する。

右が三神社で、
保食神(うけもちのかみ)、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
別雷神(わけいかづちのかみ)を祀る。
通称「信太稲荷」(保食神=稲荷神)、
あるいは奥宮。
三間社春日造は全国でも珍しい。

左が瀧神社。
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊。



境内はちょっとした広さ。 境内右奥に鎮座する末社・平岡神社。
春日神四座を祀っており、
河内国一宮・枚岡神社の勧請か。
この社殿も安土桃山の様式で、大阪府指定有形文化財。
左は末社・厳島神社で、
右には神社であるにも関わらず聖不動明王が。
聖神社の本地仏は地蔵菩薩とされていたので、
それに基づくものではない。
明治初年までは神宮寺として真言宗の万松寺があったそうだが、
その名残だろうか。
土俵。
八月に角力祭を行うらしい。
神域の北には「鏡池」があり、
葛の葉狐がその姿を映したところといわれている。
安倍晴明伝説の地ではあるが、
現在は北信太駅近くの信太森葛葉稲荷神社のほうが有名になっている。
稲荷神社ということでわかりやすかったためか。
「ひじりのかみ」が渡来系の暦の神であるとすると、
暦法を司る陰陽師である安倍晴明とは
浅からぬ関係ということになる。

別名を「手洗池」といい、
これは神事の前に身を清める神聖な池であったことから。
それゆえ、葛葉明神の化身である狐の姿を映し出したのだろう。

垣根があって池が撮れまへんどした
熊野街道(鳥居手前を横切る道。府道30号線)に面した、
聖神社一の鳥居。
京から紀伊へ向かう熊野街道は「小栗街道」とも呼ばれるが、
これは説教節・浄瑠璃の「小栗判官」にて、
小栗がこの道を通って熊野へ詣でたことから。

積川(つがわ)神社。

岸和田市積川町に鎮座。
岸和田和泉ICから府道40号線を南に進んだ、牛滝川と深山川の合流地点付近。
ふたつの川の合流地点であるゆえに「積川(つみかわ)」という地名が起こり、のち「つがわ」と訛ったといわれる。

『延喜式』神名式、和泉国和泉郡二十八座のうち、積川神社 五座〔鍬〕。
五柱の神が官社として登録されており、
朝廷の祈年祭班幣にあたっては、通常の小社指定の奉幣品に加えて鍬(すき)が奉献されていた。
和泉国四宮として古くから信仰を集める。

創祀は崇神天皇御代と伝えられる。
祭神は、生井(いくゐ)神・栄井(さくゐ)神・津長井(つながゐ)神・阿須波(あすは)神・波比岐(はひき)神の五座。
神名式にも「積川神社五座」と記され、史料もみなこの五柱を祭神に挙げており、鎮座当初よりこの五柱を祀っていたと思われる。
これらの神は、『延喜式』祝詞式収録の祈年祭祝詞に見えるように、
宮中の神祇官に所属する座摩(ゐかすり)の御巫(みかんなぎ)が奉斎する神々だった。
生井神は「生き生きとした井戸」、栄井神は「栄える(あるいは、幸いの)井戸」・津長井神は「綱の長い(=深い)井戸」と井戸の神々であり、
古代人はこんこんと湧き出す清水を土地の、ひいてはそこに住む人間の生命力と永続性の象徴として見ていたらしい。
阿須波神・波比岐神は語意が不明だが、阿須波神は、『万葉集』に、

  庭中(にはなか)の阿須波の神に小柴さし 我(あ)れは斎(いは)はむ帰り来(く)までに  〔巻第二十、4350〕

とあるように家の庭に小柴を差して祭られていたらしく、おそらくは屋敷神であろうと推定されている。
「庭(には)」は、もともとは「家の中にある空き地」を指す言葉で、作業場、農場、祭場として用いられており、
時代が下ると、現在のような「ガーデン」の意味になった。
波比岐神は、「端引き(はひき)」、つまり宅地の境界線を司る神であろうと推定されている。
これらの神々は祈年祭祝詞では皇居の土地を守護する神として扱われており、
「座摩(ゐかすり)」とは、
奈良時代成立の『住吉大社神代記』に「猪加志利乃神(ゐかしりのかみ)」とあるようにもとの形は「ゐかしり」であるとされ、
「ゐ(居)+か(処)+しり(領有、支配する意。しる、しらすetc)」、居る場所を領有支配する意。
『古語拾遺』には、「坐摩是、大宮地之霊」とある。
この五座は摂津国西成郡(大阪市中央区久太郎町4丁目)の坐摩神社(大社。月次祭・新嘗祭に奉幣あり)にも祀られている。

寛治四年(1090)、白河上皇が熊野行幸の途中、
熊野古道沿いにある積川神社遥拝所(額原町にある。府道30号線沿い、阪和線下松駅近く。現在も鳥居が立ち、神輿の御旅所となっている)
より神社を遥拝、芝草の舞台を作って舞楽を奉納された際、遥拝所鳥居の扁額の文字があまりにもひどかったため、
その場で親ら筆を執り「正一位積川大明神」の勅額を奉納された、というエピソードがある。
この扁額は社宝となっている。
この時、その扁額にちなんで遥拝所一帯の地名が「額(ぬか)」となったといい、現在は額原町となっている。
熊野街道の途中に鎮座していることで皇室・公家の勅願社として崇敬篤く、社領六百石にのぼっていた。
しかし天正十三年(1585)、根来衆討伐のため和泉に侵攻した豊臣秀吉により社領を没収されてしまう。
その後、慶長七年(1602)、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として社殿の大改修を行い、今に至る。
その本殿は国の重要文化財に指定されている。

神社前鳥居。
現在、境内の模様替えもしくはだんじり準備か、
大工さんが働いていらっしゃった。
左、椋の木。樹齢八百年と伝わる。
上、境内へ。百度石。
拝殿。
拝殿前は広場になっている。
本殿。
本殿前に一対の石灯籠があり、
これらは正平七年(1352)、
楠正儀(楠正成の三男。南朝の武将)の奉納したもの。
本殿右の末社。
天満宮、という石灯籠があるので天神社だろう。
本殿左の末社。
後ろには八坂神社の提灯がかかっていた。
岸和田の酒、
だん    じ
        り


日根(ひね)神社。

泉佐野市日根野に鎮座。
関西空港自動車道の上之郷ICから直線距離で東へ1kmくらいのところ。
実際は、府道248号線に出てぐるりと回っていくことになる。
第二阪和国道(国道26号線)からだと、
南海・泉佐野駅前の泉佐野警察署東交差点から県道247号線を走っていくことになるか。

『延喜式』神名式、和泉国日根郡十座の一、日根神社〔鍬・靫〕。
朝廷の祈年祭班幣にあたっては、通常の小社指定の奉幣品に加えて鍬(すき)・靫(ゆぎ。矢を入れて背に負う筒状の道具)が
奉献されていた。
和泉国五宮として信仰を集める。
境内には比賣(ひめ)神社が鎮座しており、
『延喜式』神名式、和泉国日根郡十座の一、比売神社〔鍬〕。
こちらも小社で、朝廷の祈年祭班幣にあたっては通常の小社指定の幣帛に加えて鍬が奉られた。

創祀は不明でいくつかの異なった伝承があり、神社でもこれと特定はしていない。
日根神社の現在の主祭神は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)・玉依毘売命(たまよりびめのみこと)で、
神武天皇の御両親を祀っているが、
これは神武天皇が熊野へ迂回する途上にこの地で戦勝を神に祈った、という創祀伝承にもとづいている。
また、配祀神として鵜葺草葺不合命の四柱の御子、
五瀬命(いつせのみこと)、稲冰命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと、のちの神武天皇)
と、この地を治めた渡来氏族・日根造(ひねのみやつこ)の祖、億斯富使主(おしふのおみ)を祀る。
『新撰姓氏録』和泉国諸蕃の項に、「日根造。新羅国の人、億斯富使主の後なり」とあり、
書物によっては日根造がその祖・億斯富使主を祀ったのが日根神社の創祀であるとしており、
神社もその説を由緒書に示している。
ほかには、大鳥神社を勧請したものという伝承がある。

比賣神社の祭神は大日孁貴、素戔嗚命。
大日孁貴(おおひるめのむち)は、天照大神の太陽の女神としての御名。
神功皇后が新羅征伐から戻ってきたとき岡本(泉佐野市南中岡本)の船岡山に上陸し、
皇后とともに戦った神をこの地に祀ったのが創祀といわれる。
『日本書紀』には、天照大神の荒御魂が皇后に味方したと記されており、
『播磨国風土記』賀毛郡猪養野条には「天照大神の坐す舟」という記述があって、
伊勢神宮においては、天照大神の御神体である八咫鏡は「御船代(みふなしろ)」という木製の巨大な容器に入れられている。
また『播磨国風土記』や『住吉大社神代記』には、「伊太氐(いたて)の神」が御船の神として皇后を守ったとしており、
この「イタテの神」は素戔嗚尊もしくはその御子の五十猛命(あるいはその両方)とされていて、
二柱の神は姉弟神であると同時に、「船」に関わる神となっている。

中世以降も日根神社は「大井関大明神」、比賣神社は「溝口大明神」として崇敬を集めた。
この地には九条関白家が領有していた荘園「日根荘」があり(天福二年〔1234〕成立)、
その範囲は泉佐野市海岸線から和泉山脈の山間部までという広大なもので、
日根神社はその総鎮守という位置づけだった。
日根荘は南北朝以降の戦乱で武士の押領が多発、九条家の支配は弱まり和泉国守護の細川氏が実質的に支配。
戦国時代に入ると根来寺の支配下に入り、このころ日根荘は消滅。
その後豊臣秀吉の根来衆討伐によってこの地方も戦乱に巻き込まれて兵火に遭い、
日根神社は焼失。社領は秀吉に没収された。
その後、後継者の豊臣秀頼が慶長五年(1600)に吉田半左衛門を奉行として社殿を再建、今に至っており、
現在は、日根野・上之郷・長滝地区の総社となっている。
平成十年、日根神社、十二谷池など十四か所が「日根荘遺跡」として国の史跡に指定され、
広域に散在する史跡をひとつのものとしてとらえた荘園遺跡としては初の指定となっている。

日根神社鳥居。
三つ目の鳥居。
上の写真の鳥居からかなり長い参道。
本殿までは400mくらいあるだろうか。
(写真の左外には府道248号線が並行して走っている)
現在は住宅地の中だが、
往時の社域の広さをうかがい知ることができる。
秀吉による社領没収ののち、
再び寄進を受けるなどして広い社領をもっていたが、
明治の上知令ですべての社領は上知されてしまった。
鳥居をくぐると広場に出てくるが、
その右手に末社がずらり並んでいる。
一番右が式内社・比賣神社。
あとの神社は、
明治の神社整理時に近隣の神社を遷してきたもののようだ。
参道の反対側にある、
野々宮集会場。
朱塗りの比賣神社本殿。
春日造、安土桃山時代の様式で、大阪府指定有形文化財。
もとは日根神社と向かい合うように立っていたが、明治の神社整理時にこの位置に遷されたらしい。

この左隣の野々宮(丹生神社)も、かなり古びているが華麗な彩色。
丹生神社は、野々宮地区の産土神となっている。

左手に鐘楼が。
日根神社に隣接して、真言宗御室派の慈眼院がある。
古くは日根神社の神宮寺として「大井関御坊」と称され、同じ社地内にあったが、
明治の神仏分離により分割された。
日根神社の現社務所も、もとは慈眼院の下ノ坊だった。
慈眼院は天武天皇勅願寺として創建、聖武天皇も崇敬を寄せたと伝えられており、
江戸時代初期の寛文年間、仁和寺の性承門跡より「慈眼院」の院号が下賜され、仁和寺の末寺となって今日に至っている。
左に、府指定天然記念物の姥桜が見える。
元禄三年(1680)の古図にも見え、樹齢400年を越えると推定されている。


本殿前石段。 拝殿。
拝殿前は広々とし、穏やかな雰囲気。
本殿。

日根神社の例祭は通称「まくら祭り」。
現在は五月五日に行われる。
神輿渡御とともに、5mほどの竹竿へたくさんの色とりどりに装飾した飾り枕をつけた「枕幟(まくらのぼり)」を男たちが負い、
町中を練り歩いて長滝の御旅所まで渡御するという珍しい祭り。
幟に枕をつけるのは、
昔、子宝を願った娘が神社に奉納した枕を祭りの幟にくくりつけて渡御したのがはじまりといわれ、
良縁祈願や疫病よけに枕を奉納する者が増えたことで、現在のような形になっていったといわれる。
昔は海の近くの船岡山まで渡御を行っていたという。
玉垣内にはいくつかの末社が見える。
左を見ると、日根野を潤す井川(ゆかわ)が流れている。
この流れが、境内の雰囲気を穏やかにしている。
その向こうに見えるのが、慈眼院多宝塔。
この多宝塔は鎌倉期の建立で、国宝に指定されている。
国宝・重要文化財に指定されている屋外の塔では日本最小らしいが、典雅なたたずまい。
こういうところに国宝があるとは。





泉井上(いずみいのうえ)神社。

和泉市府中町に鎮座。
JR阪和線・和泉府中駅から東へ300mほど、和泉幼稚園の東隣。

『延喜式』神名式、和泉国和泉郡二十八座の一。
和泉国総社。

和泉国は、天平勝宝八年(757)に河内国から和泉郡、日根郡、大鳥郡を分割、正式に国として成立した
(その少し前に「監(げん)」という行政単位で独立していたが、再び河内国に合併されていた)。
和泉国という国名の由来は、古来この地方には清水が多く湧き出でることからつけられたというが、
また、神功皇后の新羅征伐の際、突如泉が生まれ清水がこんこんと湧き出たことにより、
これを瑞祥として泉を霊泉と呼び、宮として祀ったといい、それが和泉の名の由来ともいう。
そして、この泉井上神社境内にあった「和泉清水」(現在は涸れている)がその霊泉であると伝えられている。
もとの地名表記は「泉」であったが、
和銅六年(713)の「地名は好字を用いよ」という詔が出た際、
「地名は二字にする」という動きもあったようで、「泉」に「和」の字を加え、「和泉」となった。

泉井上神社が鎮座する和泉市府中町は、その地名の通り和泉国国府が置かれていたところで、和泉国の中心地だった。
神社は国衙に隣接しており、そのため、境内には和泉国を代表する五社、
大鳥神社、泉穴師神社、聖神社、積川神社、日野神社を勧請した「和泉国総社」が創建され、
国司神拝(新任国司の最初の仕事は国内のすべての神社を拝んで回ることで、それを国司神拝といった)の便が図られた。
和泉国国衙は泉井上神社の東隣、府中町5丁目にあったと推定されている。

最近建て替えられたらしい、
真新しい鳥居。
駅前の賑やかなところ。
だんじりが近いということで、
神社前の通りでは若者たちが祭りの準備にいそしんでいた。

正面奥には総社拝殿が見える。
総社拝殿。
総社には和泉国一宮~五宮が祀られた。
現在は和泉大明神(独化天神)を筆頭に和泉国五社、
御諸別命(みもろわけのみこと)、
および和泉国式内社六十二座と、
和泉国内のすべての神々を祀る。

独化天神は上古よりこの地に鎮座していた神で、天之御中主神、あるいは高御産巣日神、神産巣日神ともいわれる。
『日本書紀』には、
天地開闢の時に出現した国常立尊(くにとこたちのみこと)・国狭槌尊(くにさづちのみこと)・豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)の三柱を、
「乾道独化、所以成此純男」(陽の道のみを受けて生まれた、このゆえに純粋な男性が成った)
と記しており、独化天神とは天地開闢の時の神をいう。

御諸別命は崇神天皇皇子・豊城入彦命の孫で、東国の統治に功を挙げた人。
その子孫に和泉国の珍県主(ちぬのあがたぬし)、葛原部(ふぢはらべ)がおり(『新撰姓氏録』和泉国皇別)、
珍(茅渟)県主は当社の祭主兼和泉国在庁官人をつとめたと伝えられる氏族。
現在の社家はその子孫となっており、つまり社家の始祖を祀っているということになる。

拝殿の奥にある本殿は、
慶長五年に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として再建したもので、国指定重要文化財。
本殿隣にいくつかの末社が鎮座しており、
そのうちの一社は、『延喜式』神名式、和泉国和泉郡二十八座の一である和泉神社。
年始などの特別なときに拝殿が開き、それらの神社に参拝することができるらしい。

泉井上神社拝殿。
主祭神は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、従者四十五柱。
主祭神が四十八座ということで、江戸時代には「四十八神宮」、
また祭神が八幡神と同じということで、境内の泉とあわせて「井ノ八幡」「井戸の八幡」と呼ばれていた。
また、「水内宮」「小竹宮」との称もあった。
『延喜式』神名式では祭神は一座になっているので、
古くは泉の神を祀っていたのだろう。

和泉清水は、拝殿右の垣内に「和泉清水」の碑が立っており、
垣の窓から「失礼します・・・」とちょっと覗けば見ることができる。
昭和三十年代に涸れてしまったそうで、現在は草生しているが、
往古は周辺の田畑を潤し、
豊臣秀吉もこの泉の水を求めて茶を立てたといわれる。

拝殿手前には稲荷社が鎮座している。

境内社。かたわらに「髪之碑」が立つ。
由緒書きから類推すると、勝手神社。髪授大神を祀る。
美容・理容の祖、らしい。

奈良県吉野に鎮座する勝手神社は、
現在は天忍穂耳尊を祭神とするが、
かつては金峯山を中心とする修験道の蔵王三所権現の一、
「勝手明神」として全国で信仰されており、
その祭神は受鬘命(うけりのみこと)と呼ばれていた。
その神名の文字からの連想だろうか。
神庫が開いて、
だんじりが姿を見せている。
もうすぐこの一帯が熱狂に包まれる。



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