にっぽんのじんじゃ・しがけん

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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近江国(滋賀県):

犬上郡(彦根市、多賀町、甲良町、豊郷町)
 日本武尊の御子、稲依別王(いなよりわけのみこ)の子孫である犬上氏が住居とし、氏族名がそのまま郡名となった地。
 一族の犬上御田鍬は最後の遣隋使および第一回遣唐大使として大陸に渡った外交官として知られる。
 この地方は渡来人が多く、大陸文化と関わりが深かった。

多賀大社
付・日向神社
阿自岐神社
彦根城天守 ひこにゃん

多賀(たが)大社。

滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座。

『延喜式』神名式、近江国犬上郡七座のうち、多何神社二座。
天地の初めに国生みを行い、また森羅万象を生み出し、
『古事記』序に「陰陽ここに開けて二霊群品の祖となれり」と称えられる伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱を祀る。
『古事記』には、国生みを終えた伊邪那岐命は「淡海(あふみ)の多賀に坐す」と記されており、それがこの神社。
『日本書紀』では、「幽宮(かくりのみや)を淡路(あはぢ)の洲に構(つく)り」とあり、
『延喜式』神名式、淡路国津名郡九座の中に「淡路伊佐奈岐神社(あはぢのいざなきのかみのやしろ)」があり、名神大社に指定されている。
これらを見るに当時は伊邪那岐命を祀る社は淡路が本社とみなされていたようで、
『古事記』の「淡海」も「淡路」の誤写ではないかという説もあるが、これについてはほとんどの写本が「淡海」としており、
『古事記』では伊邪那岐命の鎮座地は一般の認識とは異なる「淡海の多賀」という立場を取っているといっていい。
『古事記』の原本を作ったのは天武天皇と思われるが、東国と縁の深い天皇ゆえ淡路より近江の多賀のほうを重視したのだろうか。
もっとも、伊邪那岐命・伊邪那美命は国生みの大神なので、全国に広く祀られていてもまったくおかしくない。

「お多賀さん」は延命長寿の信仰があつい。
そのいわれは、平重衡の南都焼き討ちによって焼失した東大寺の再建を志した六十一歳の重源が、
再建成就祈願のために伊勢の神宮に参詣したところ、夢に天照大神が現われ、
事業の成功のために延命を望むならば多賀神に祈願せよと教えた。
そこで急ぎ多賀社に参拝したところ、風に吹かれて一枚の柏葉が舞い落ちてきた。
その葉には、虫食いで「莚(エン、むしろの意味)」の字が記されていた。
この文字は「廿」「延」と分けることができ、
これは「二十年寿命が延びる」という神意である、そう読み解いた重源は奮起して東大寺再建の大事業に取り組み、
見事にその業を成し遂げたのち、報恩感謝の参詣を行った。
これにより、多賀社は延命長寿の信仰を得ることとなった。
その縁起により、多賀大社では「延寿」をあらわすには「延」ではなく「莚」の字を用い「莚寿」と記す。

社伝によると、大神は神社北東の杉坂山に降臨、
麓の栗栖の里(多賀町栗栖)で休んだ後に現在の鎮座地に鎮まったといい、
その地の山麓には調宮(ととのみや)神社が鎮座して、春秋の祭において御旅所となっている。
平安期まではとくに中央から重んじられてはいなかったようだが(近江国では比叡山の日吉神社が第一の尊崇を得ていた)、
鎌倉期から一般の信仰を集めるようになり、
室町中期の明応三年(1494)に神宮寺として天台宗不動院が建立されると、その坊人が全国を行脚してお多賀さんのお札を配布し、
全国的な信仰を獲得していった。そして伊勢、熊野と並ぶ参詣スポットとなり、
「お伊勢参らばお多賀へ参れ」
「お伊勢七たび熊野へ三たびお多賀様へは月参り」
などと謡われる盛況となり、近世は多数の参詣者でにぎわった。
豊臣秀吉は母・大政所の延命を祈願し、その成就の感謝として社殿を改修、また一万石を寄進したという。
このため多賀社では秀吉に感謝すること大で、境内には「太閤」と名のつく施設がいくつもある。
江戸期には彦根藩があつく保護していた。
しかし明治初年の神仏判然令に伴い多賀社では激烈な廃仏毀釈運動が起こり、
不動院をはじめとする境内の仏教施設はすべて破却され、境内は閑散としてしまった。
そのため、明治・大正・昭和と造営を重ねてかつての威容を復活させ、今に至る。

境内入口前。ちょいと雨模様。
神社前の「絵馬通り」。
この先、西方向へ約3km、
旧中山道(県道223号線)との交差点に多賀大社一の鳥居が立っている。
近江鉄道高宮駅の西、郵便局のある高宮鳥居前交差点のところ。
神社前には地元名産「糸切餅」の店が並ぶ。
蒙古襲来を退け、
その戦勝品が多数多賀大社に奉納されたことを記念して起こった、
と伝えられている。
色彩を施した餅を糸で切り分けてある。
食べてみたらもんのすごくもっちもっちしていて、飲み物必須。
太閤橋。
江戸時代に奉納された太鼓橋だが、
多賀大社では豊臣秀吉公に対する崇敬大きく、
親しみを込めて太閤橋と呼び習わしている。
神の通り道であり、通常は通ることはできない。

橋の向こうは神門。
斜めから。
神門をくぐると、広大な境内が広がっている。
社殿は、拝殿・神楽殿・幣殿・本殿と連なる。
雄大な構えが素晴らしい。
左に見える建物は授与所・社務所。
参道右手。右に神馬舎、左奥に能舞台。
能舞台裏手には末社が並ぶ。

絵馬殿。お多賀名物寿命そばの店が。 西へ向かうと、「文庫」がある。
多賀神社禰宜家であった車戸家邸内にあった建物。
桜田門外の変で藩主井伊直弼が暗殺されたのち
彦根藩は佐幕思想から尊王思想に転向したが、
それにあたっては大禰宜・車戸宗功が伊藤俊輔ら長州・土佐藩と
彦根藩の仲を取り持ち、
その密議がこの文庫内で行われたという。
大釜。
寛永十一年(1634)と元禄十一年(1698)の二度の大造営において
奉納された、御湯神事の調度と伝えられる。
神輿庫、鐘楼。
鐘楼にかかる釣鐘は天文二十四年(1555)に鋳造されたもの。
太閤蔵。
天正年間、豊臣秀吉公が母・大政所の病気平癒・延命長寿を祈願し、
験ありとして米一万石を奉納したとき、
それを元手に社殿の改修、奥書院庭園の築造が行われたが、
この蔵もそのときの建築のひとつといわれ、
太閤の名を冠して呼ばれている。
西へ続く参道。


夷(えびす)神社。えびす様こと事代主命を祀る。

夷神社は般若院跡に建っている。
明治初年まで多賀大社内には不動院・般若院・成就院・観音院の四神宮寺があり、
般若院は彦根藩主・井伊家の宿坊として使われていた。
『花の生涯』で知られる村山多賀女は若き日をここで過ごし、
ここで井伊直弼公や長野主膳を知ったという。

参道の先に鎮座する、日向神社。
多賀大社境内末社で、『延喜式』神名式、近江国犬上郡七座の一の日向神社に比定。
祭神は瓊瓊杵尊。
もとは独立していたが、近代になって多賀大社の末社となった。
右手には子安神社(瓊瓊杵尊の妻、木華開耶姫命を祀る)、神明両宮(天照大神、豊受大神の伊勢両宮の二柱を祀る)が鎮座。
日向神社鳥居。

胡宮(このみや)神社。
多賀町大字敏満寺
多賀大社から2kmほど南、青龍山の北西麓に鎮座する。
伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱と事勝国勝長狭(天孫降臨した瓊瓊杵尊の前に現れた日向の国つ神)の三柱を祀る。
多賀大社の別宮的な神社で、延喜式神名帳の「多何神社 二座」のうち一座はこの神社のことともいわれる。
子授けの神、鎮火の神として信仰を集める。
駐車場にチェーンがかかってたので参拝できず。



阿自岐(あじき)神社。

滋賀県犬上郡豊郷町大字安食西に鎮座。

『延喜式』神名式、近江国犬上郡七座のうち阿自岐神社 二座。
祭神は、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ。大国主命の御子神)と、
道主貴神(みちぬしのむちのかみ。宗像三女神のこと。海路安全の神であることからの別名)。
社名は「アジスキ」がつづまったものといわれ、「安食(あんじき)」という地名のもとになっている。
あるいは、応神天皇治世に百済から渡来した学者・阿直岐(あちき)の子孫、阿直史(あちのふひと)がこの地に住み着き、
その祖神を祀ったのが創祀ならびに社名の起源ともいわれる。
阿直岐は記紀に記載があり、日本に漢学を伝え、また『書紀』では応神天皇の皇子・菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師となっている。
『新撰姓氏録』右京諸蕃・下には、「安勅連(あちのむらじ)。百済国の魯王の後なり」とある。

この神社で特徴的なのは、神苑を備えていること。
神社を囲むように池があり、その中にいくつもの島が浮かんでいる。
これは上古の邸宅の庭園とみられており、昭和35年に滋賀県指定名勝となっている。
いずれかの氏族の邸宅がそのまま神社となったとも思われるが、詳しいことはわからない。
池の中には湧水があり、農業用水として利用されていた。
現在は道路工事などに伴う改修により、池は東西に分離している。

現在の本殿は棟札や墨書、改修時の見積有用帳から文政二年(1819)のものとされ、県指定有形文化財。

神社前の道路。東向きに。

この向こう、旧・中山道との交差点の傍に、
一の鳥居ならびに標柱、燈籠が立っている。
一の鳥居は、もとは道路をまたいでいたと思われるが、
道幅拡張工事のためだろう、
道端に移されていた。
鳥居前。

手水舎。 拝殿。
本殿前。 本殿を斜めから。
拝殿から本殿の間は石の廊下となっている。

それでは庭園のほうを

境内両側が神苑になっている。
庭園東側。
白鳥が居ます
小雨がぱらつく天気で、庭園の緑がいまいち映えないのが残念。
道路から。
西側は自然のままという感じ。



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