これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
意宇(おう)郡(松江市南部、東出雲町、安来市。のち安来市域は分割され能義郡に):
『出雲国風土記』には、以下のような地名起源伝承が記されている(要約)。
意宇と名づけたわけは、
国引きをなさった八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が、
出雲の国が狭いとお思いになり、新羅、隠岐、越(福井県北部~新潟県)の土地の余りを見つけると、
それぞれ鋤で土地を分割し、大縄をかけて「国よ来い、国よ来い」と引き寄せて縫い付けた(島根半島の由来)。
国を引き終えると、「今は国を引き終えた」と詔して、意宇の杜に御杖を突き立て、「意恵(おゑ)」と詔した。
ゆえに、オウという。
この「国引き神話」は、古代の出雲が朝鮮、隠岐、北陸地方と密接な関係を有していたことをあらわしている。
たとえば越から引いてきた土地は美保の崎だが、
風土記によれば、美保には越の沼河比売命の御子のミホススミノミコトが鎮座しているとしている。
これによれば、引いてきた土地が各々引いてきた先の地と深い関係を持っていたのだろう。
原文は同じ形式を何度も繰り返すもので、従来は語り部などによる口承形式であるといわれていたが、
近年の研究により、「国引き神話」は『出雲国風土記』編纂の時点においてまとめられ整理されたものとみられている。
意宇郡は出雲国造である出雲臣の本拠地であり、その一族が意宇郡郡司に任じられて郡政を行っており
(大領・少領・主政・主帳の郡司四等官を独占することも多かった)、
また「神郡」として、郡の収入はすべて熊野大社および杵築大社の運営に充てられていた。
その範囲は、東は伯耆国に接し、西は出雲郡・大原郡に接し、南は仁多郡に接するという広大なもの。
そのため、平安時代初期に意宇郡東部を分割して能義郡が設置されることとなった。ほぼ現在の安来市の区域となる。
熊野大社 | 熊野大社上宮跡 | 玉造湯神社 | 宇留布神社 |
松江市八雲町熊野に鎮座。旧・八束郡八雲村熊野。
大東町と東出雲町をつなぐ県道53号線沿い。意宇川のほとり、蛇山の麓。
『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所の一、熊野大社(くまののおほやしろ)。
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座の一、熊野坐神社(くまのにいますかみのやしろ)、名神大。
出雲国一之宮。
意宇六社(神魂神社、熊野大社、揖屋神社、真名井神社、八重垣神社、六所神社)の一。
祭神は、熊野大神櫛御気野命(くまののおおかみ・くしみけののみこと)。
新任の出雲国造が厳重な潔斎の後、京の朝廷に出向いて天皇に奏上する寿詞(よごと)である
『出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこかむよごと)』には、
伊射那伎乃日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命
(いざなきのひまなご、かぶろきくまののおほかみくしみけののみこと)
とあり、『出雲国風土記』意宇郡出雲神戸条には、
「伊弉奈枳(いざなき)の麻奈子(まなご)に坐す熊野加牟呂乃命(くまののかむろのみこと)」
とあって、伊弉諾尊の子とされている。
その神名は、「クシ」は「奇し、霊妙な」、の意で、「ミ」は尊称、「ケ」は「食物」を表す言葉で、御饌(みけ、神に捧げる神聖な食物)を司る神。
「かぶろき」という呼称については諸説あるが、
近年では、童子のおかっぱ頭、転じて童子そのものをあらわす「かぶろ」「かむろ」のことであるという説が有力。
『類聚名義抄』には「童」の訓読みを「ワラハ カフロ」と記し、
『日本書紀』允恭天皇即位前紀には、
「天皇、岐嶷より総角に至りて・・・」
とあるが、「岐嶷」には「カフロニマシマス」という古訓がつけられている。ちなみに「総角」は「あげまき」のこと。
つまり、櫛御気野命は「食物を司る童子神」ということになる。
記紀には登場しない神であり、伊弉諾尊の子ということから早くより素戔嗚尊と同一視された。
平安中期に書かれたとみられる『先代旧事本紀』の陰陽本紀では素戔嗚尊を「出雲国の熊野杵築神宮に坐す」としており、
このころにはすでに素戔嗚尊を祀る神社と認識されていた。
神社では現在でもこの説を踏襲している。
『古事記』には、須佐之男命が乱行の咎によって高天原より追放される場面で、
また(八百万の神は)食物を大気都比売神(おほげつひめのかみ)に求めた。
そこで大気都比売は鼻・口と尻から様々な美味のものを取り出し、様々に調理して奉ろうとするとき、
速須佐之男命はその様子を窺っていて、汚して奉ろうとしているのだと思い、
たちまちその大宜津比売神を殺してしまった。
そうして、殺された神の身に生ったものは、
頭に蚕が生り、二つの目に稲種が生り、二つの耳に粟が生り、鼻に小豆が生り、陰部には麦が生り、尻には大豆が生った。
そこで、神産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと)は、この成った種を(須佐之男命に)取らせた。
とあり、須佐之男命が食物神である大宜都比売を殺し、それが五穀その他の発生につながったこと、
須佐之男命がそれらの種を取って天降ったことが記されている。
これは素戔嗚尊が食物・農業神としての属性を持っていることを示しており、熊野大神のイメージと重なっている。
残酷な話にみえるが、我々の日々の食卓に乗っているものもすべて「殺されたもの」であること、
そしてそれによって我々が生かされていることを思うべきだろう。
養老令のオフィシャル注釈書である『令義解』の、養老神祇令天神地祇条にある「天神地祇」ということばへの注釈には、
『古記』(大宝令の注釈書)からの引用として、
天神(「神」は漢語で「天の神」の意味。日本では「アマツカミ」を表す言葉として用いられた)・
地祇(「祇」は同じく「地の神」の意味。日本では「クニツカミ」を表す言葉として用いられた)それぞれの代表的な神を四社ずつ挙げている。
天神:
伊勢(三重県、伊勢の神宮)
山城鴨(京都府、賀茂別雷神社)
住吉(大阪府、住吉大社)
出雲国造斎神(島根県、熊野大社)
地祇:
大神(奈良県、大神神社)
大倭(奈良県、大和神社)
葛木鴨(奈良県、葛城地方の鴨氏奉斎神社のいずれか)
出雲大汝神(島根県、出雲大社)
熊野大社は「出雲国造が斎(いつ)く神」として記されており、当時は天つ神の代表的な存在として認識されていた。
国史に見える神階授与記事でも、熊野大神の名が最後に見える『日本三代実録』貞観九年(867)四月八日条のように、
「出雲国従二位勲七等熊野神、従二位勲八等杵築神に並びに正二位を授く」
と、出雲大社(杵築神)よりも先に記される出雲国第一の神社であり、現在でも「出雲国一之宮」を称している。
出雲国造(今は千家・北島の両家)は、現在は出雲大社のそばに居を構えているが、
もともとの本拠地は出雲国府の所在するこの意宇郡だった。
そして、その奉斎する神は熊野大神であり、
杵築大社(現在の出雲大社)は「神話時代の委任によって祀る」という、今でいう兼務神社のようなものだった。
意宇郡は神郡としてその収入をすべて熊野大社と杵築大社に編入することが認められており、
また郡司の世襲も認められていたため、出雲国造家が郡司として意宇郡の一切を取り仕切っていた。
古くは、出雲国造家の重要な神事はみな意宇郡やその周辺で行われており、
現在も、千家国造家の代替わりにあたっては、熊野大社にて聖なる火を鑽(き)り出す「火継(ひつぎ)神事」が行われている。
この神事は、これを行うことではじめて出雲国造としての資格が発生するという重儀
(北島国造家は、神魂神社にて火継神事を行う)。
熊野大社は、『出雲国風土記』意宇郡の山野河川の条に、
熊野山。郡役所の真南一十八里〔桧、檀有り。いわゆる熊野大神の社が坐す〕。
と記されているように、当初は熊野山(現在の天狗山)の山頂やや下の地に鎮座していた。
交通の便が悪いため中世に意宇川下流方面に遷座し、
「上の宮」「下の宮」の二社祭祀形態をとっていた。
下の宮が現在の鎮座地で、上の宮は500mほど上流にあり、
上の宮では伊弉冉尊、事解男命、速玉男命等を、下の宮では素戔嗚尊、天照大神等を祀っていた。
これらの祭神は、中世に「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど隆盛を誇った紀伊の熊野三山に影響を受けたもの。
明治初年の神祇政策によって上の宮は下の宮に遷座合祀され、上の宮は「上の宮跡」として残されている。
平安末の十二世紀半ば、甲斐国にあった鳥羽上皇寄進の熊野三山の荘園・八代庄が、
荘園停止の宣旨を受けた国司によって収奪を受けるという事件があり、
この件に対する勘申を集成した『長寛勘文』という文書があるが、
その中には、量刑の判断において「伊勢大神宮と熊野権現は同体か?」という問題が持ち上がったため、
それに対する様々な識者からの意見が並べられているが、
このうちに『初天地本紀』という現在は散逸した書からの引用がある(助教・清原頼業の勘申)。
初天地本紀にいう。伊謝那支命が恵乃女命を娶って生んだ児は、大夜乃女命。次に足夜乃女命。次に若夜女命。
三神とはこれをいう〔この大夜女命は熊野大御神の后である〕。
陸の上に立たれ、身体の左肩を押し撫でる時に成り出た神の名を加巳川比古命といい、
また右肩を押し撫でる時に成り出た神の名を熊野大御神加夫里支、名は久々(*之か)弥居怒命、
髻の中より成り出た神の名を須佐乃乎命。三柱大王等がこれである。
(中略)熊野村に宮柱ふとしり奉りて、加夫里支熊野大御神、地祇神皇、
また御児后の名は大夜女命、山狭村に宮柱ふとしり奉りて鎮まります大御神というのはこれである。
伊弉諾尊が「恵乃女命」を娶って三女神を生んだという記述ののち、尊は自らの体から三男神を化成したとあり、
ここでは熊野大御神と素戔嗚尊は同体ではなく、兄弟神とされている。
熊野大御神の后神とされる大夜乃女命は山狭村に鎮座する大御神である、という記述から、
これは『出雲国風土記』意宇郡神社条に、筆頭の「熊野大社」に続いて記されている「夜麻佐社(やまさのやしろ)」および
十二番目に記される「夜麻佐社」とみられる。
『延喜式』神名式では、出雲国意宇郡五十八座のうち、
「山狭神社」および「同社坐久志美家農神社(おなじきやしろにいますくしみけののかみのやしろ)」とある。
つまり、熊野権現に関する文書への引用ではあるが、その実は出雲の熊野大社に関わる伝承ということになる。
この書は『本朝書籍目録』には「帝紀」の項目にみえる書であり、神代から歴代天皇の事績を記した書物であったとみられ、
公式文書への引用が行われているので、当時一定の評価と信頼を得ていた書物であったとみられるが、
伊弉諾尊にほかの妃神がいたり、『古事記』にみえるような、自らの体から三貴子を化成した話のバリエーションみたいな話もあり、
この箇所は神々の系譜に関わる部分と思われるが、いったいどのような神統譜が編まれていたのだろうか。
記紀には天照大神の本来の御名である「大日孁貴(おほひるめのむち)」「天照大日孁尊(あまてらすおほひるめのみこと)」、
そして天石窟の段には「稚日女尊(わかひるめのみこと)」の名がみえることから、
大夜乃女命・足夜乃女命・若夜女命の誕生記事に先立って「オホヒルメノミコト」「タルヒルメノミコト」「ワカヒルメノミコト」という、
夜の三女神と対となる日の三女神の誕生記事があった・・・かもしれない。
県道53号線をゆく。 大東町から八雲町に入ったあたりは急カーブが続くが、 だんだん開けた地になってくる。 松江市街方面からだと、特に難儀することはない。 |
県道に面した鳥居。松並木がのびる。 |
駐車場から。 駐車場が境内入口正面になっていて、 右上の写真の鳥居は駐車場の北にある。 |
参道脇に置かれている、奉納のさざれ石。 |
意宇川前の二の鳥居。 | 意宇川の涼やかな流れ。 意宇川は下流で東出雲町に入り、中海に注ぐ。 |
橋の上からの神社の眺め。 |
なかなかグレートなデザインの手水 | 随神門。 奥の拝殿もそうだが、出雲は注連縄にごっつ力を入れている。 これが出雲のステイタスか。 |
境内の眺め。 正面が拝殿・本殿、向かって左脇が授与所、右手に見えるのが舞殿。 舞殿はもと拝殿として使われていた建物。 社殿のある区画は一段高くなっている。 |
境内右手手前には土俵らしいものが。 奉納相撲があるんだろうか。 奥の建物は参集殿。 |
拝殿前から、舞殿。 |
拝殿。素朴な造りだが、巨大な注連縄が重厚感をかもし出す。 |
本殿の向かって右に鎮座する稲田(いなだ)神社。 素戔嗚尊の妃神である奇稲田姫を祀る。 相殿に親神である脚摩乳(あしなつち)・手摩乳(てなつち)を祀り、 少彦名命を合祀する。 |
稲田神社前から本殿を見る。 |
本殿の向かって左に鎮座する摂社・伊邪那美神社。 伊弉冉尊を祀る。 熊野大神は伊弉諾尊の子であるので、伊弉冉尊は母神にあたる。 明治末年の神社合祀政策にともない、 明治四十一年に近隣の神社がここに合祀された。 その中には、式内社(いずれも小社)であり 風土記記載の神祇官登録神社である、 前(さき)神社(風土記:前社) 田中(たなか)神社(田中社) 能利刀(のりと)神社(詔門社) 楯井(たてい)神社(楯井社) 速玉(はやたま)神社(速玉社) 布吾弥(ふごみ)神社(布吾弥社) の六社も含まれている。 |
境内左手の末社。 向かって右が荒神社、左が稲荷社。 右の荒神社の脇には御神水が湧き出ている。 |
境内左手の鑽火殿。 出雲国造は代々伝わる燧臼・燧杵を用いて聖なる火を鑽り出す「火継神事(神火相続式)」によってその職を継ぐ。 火継は霊継(ひつぎ)に通じ、これを行うことは職とともに奉斎神の霊威を継承することになる。 |
池の鯉。 |
中世より明治初年まで、熊野大社は上の宮・下の宮の両宮態勢で経営されており、
上の宮には伊邪那美神社・事解男神社・速玉神社・五所神社・八所神社・久米神社が鎮座していた。
明治になってこれらの社はすべて下の宮に合祀され現在の熊野大社となったが、上の宮の旧地も跡地として保存されており、
また熊野大社の当初鎮座地である熊野山(天狗山)の遥拝所も設けられている。
上の宮跡が鎮座する山は、現在は御笠山と称しているが、
かつては伊弉冉尊を祀っていることからその神陵地にちなんで「比婆山」と呼ばれ、
山中には比婆山に鎮座する久米神社が勧請されていた。
熊野大社から500mほど意宇川を遡った、 左岸の民家の間にある。 手前には案内板もあり、奥の方に石段が見えるので、 その場所に来れば(県道53号を走っていてもたぶん)わかる。 |
石段の手前は広場になっている。かつては何かの施設があったのだろう。 銀杏の巨木が立っており、標示によれば、 「実は採ってもいいけど、地元の人の迷惑になるので、実はそのまま持ち帰り、殻だけ捨てないように」 とのこと。 石段の上には、かつて社が建っていたことを示す標柱が立っている。 |
石段を上がった正面が伊邪那美神社址。 向かって右隣は速玉神社址。 |
速玉神社址の外側には、五所神社と八所神社の址。 |
伊邪那美神社より向かって左、木を隔てたところに 事解男神社址。 伊弉冉尊・速玉男命・事解男命を祀っていることから、 この地は「熊野三所権現」と呼ばれていた。 |
五社の旧址の並び。 石積みの跡からして、いずれもそれほど大規模な社ではなかったようだ。 ただ、背後には岩が剥き出しになっており、雰囲気がある。 |
旧跡の向かって右端から、背後の御笠山に登る山道が設けられている。
登りやすいように整備は為されているが、基本的に岩山であって足場はあまり良くないので、上り下りには充分に注意が必要。
少し登ると、 右手に湿った巨岩が見えてくる。 |
巨岩の各所からしずくが滴り落ちている。 この水は「明見水」と呼ばれ、江戸時代に編まれた松江藩の地誌『雲陽誌』に、 この所は岩壁である。 落水があって、明見水という。 眼病を洗う時は明を得ると言い伝える。 とあり、眼病によく効くと言い伝えられてきた。 また、産婦がこの水を服すると母乳が満ち足りるとも伝えられる。 明見水はけっこうぽたぽたと滴り落ちている。 よく落ちるところには手水鉢があって、水を受けていたが、 手水鉢はとくに清掃がなされていないので、受けようとするなら滴ってくるところを直接受けるのがいいだろう。 もちろん自然水であるので、その利用は自己責任にて。 この場所は久米神社址でもあり、それを示す標柱が立っている。 |
遥拝所への道はこんな感じ。 この前方では木が倒れており、道が深くえぐれていた。 登りやすいようにとの配慮があって大変ありがたいが、なにぶん元々の足場がそれほど良くないので、 一歩一歩慎重に登りたい。 |
登っていくと、 石畳に榊の木が立っている「祓所」に出てくる。 掲示板には、 祓え給え、清め給え(三度繰り返す) とのお祓いの言葉が書かれており、 祓所の前でこの言葉を唱えてわが身を祓ってから 遥拝所へ出るように、とのこと。 背後は巨大な岩塊であり、 その上が遥拝所となっている。 |
|
なお、ここから先の道はさらに容赦ないので、 一層の注意を。 プチロッククライミング。 |
|
そして到着 |
遥拝所からの風景。 手前の木々がごっつ茂っているので、視界が狭い。 正面に見える山々の最高峰が熊野山(現在の名称は天狗山)で、標高は610m。 その山頂の少し下に大きな岩があって、それが熊野大社の当初鎮座地であったと伝えられており、 毎年五月にはその場所で元宮祭が執り行われている。 |
松江市玉湯町玉造、
玉造温泉街の南のはずれ、玉造要害山の山麓に鎮座する。
『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所のうち、玉作湯社、および由宇社(ゆのやしろ)。
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座のうち、玉作湯神社、および同社坐韓国伊太氐神社。
宍道湖に面した温泉地である玉造温泉は、『出雲国風土記』意宇郡・忌部神戸条に、
忌部の神戸。郡家の真西二十一里二百六十歩。
国造が神吉詞(かむよごと)を奏上するため朝廷へ参向する時、御沐忌玉(みそぎのいみだま)を作る。
ゆえに忌部(いみべ)という。
この川のほとりに出湯がある。出湯のある所は、海と陸を兼ねている。
それで、男も女も老いも若きも、あるいは道路に連なり、あるいは海中を洲に沿ってやってきて、
毎日集って市を成し、さかんに入り乱れ、酒宴をして楽しむ。
一たび濯げば容姿が美しくなり、再び浴すれば、いかなる病もことごとく癒える。
古から今にいたるまで、効き目がないということはない。
ゆえに土地の人は、「神の湯」という。
(*御沐忌玉・・・潔斎に用いる神聖な玉。「忌玉」は「忌里」の誤とし、「国造が(中略)参向する時の御沐の忌里である」と読む説もあるが、
この訳では比較的古い時代の写本である細川家本に「御沐忌玉作」と「作」の一字があることを重視して「御沐忌玉を作る」と読んでいる)
とある、上古より広くその効能を知られた温泉で(『枕草子』にも三名泉の一として名が挙がっている)、
また、玉を製作する職能集団である玉作忌部の居住地だった
(この地方の玉作は、この地域と、東に山一つ隔てた松江市忌部地区に及ぶ)。
『延喜式』臨時祭式には、
およそ、出雲国の進上するところの御富岐玉(みほきたま)六十連(つら)は〔三時の大殿祭の料に三十六連、臨時に二十四連〕、
毎年十月以前に意宇郡の神戸の玉作氏に造り備えさせ、使いを差し遣わして進上させよ。
(*三時・・・一年のうちに三度、の意)
とあり、毎年朝廷に「御祈玉(みほきたま)」を進上していた。
毎年六月と十二月の月次祭の夜に行われる神今食(じんこんじき)、および十一月の新嘗祭に際しては、
内裏の御殿と御門を祝福して祓い清める「大殿祭(おほとのほがひ)」「御門祭(みかどほがひ)」が行われており、
そこで玉がどのように用いられていたかというと、『延喜式』四時祭・大殿祭条に、
・・・中臣(なかとみ)、忌部(いんべ)、御巫(みかんなぎ)らは列順どおりに御殿に入れ。
忌部は玉を取って殿の四隅に懸けよ。御巫らは米・酒・切木綿(きりゆふ)を殿内の四隅に散(ま)いて退出せよ。
中臣は御殿の南に侍り、忌部は巽(たつみ。東南)に向かって微声で祝詞を申せ。
終わると、次に湯殿に行って玉を四隅に懸けよ。次に厠殿の四隅に懸けよ。次に御厨子所の四隅に懸けよ。次に紫宸殿の四隅に懸けよ。
御巫らが順次米・酒を散くことは初めに同じくし〔御巫一人は承明門に進んで米・酒を散け〕、陰明門から退出せよ・・・
(*巽・・・宮の東南に置かれていた神祇官に祀られる宮中八神の一、大宮能売神への奏上があるため、東南を向いた)
とあり、出雲玉作忌部の玉は殿中の各部屋の四隅に懸けられ、その場を祝福し清浄にする役割を負っていた。
おそらく『神賀詞』奏上にあたって国造が参籠する斎館の湯殿などにも、同じように玉作忌部の玉が懸けられていたものと考えられる。
また、神賀詞奏上のために国造が上京する時も、
献上品の中には玉作忌部の製作した玉68枚(赤水精8枚、白水精16枚、青石玉44枚)があった。
(*神今食・・・じんこんじき。かむいまけ。6月・12月の11日に行われる月次祭班幣の夜、天皇が神々を招いて神饌を供し、自らも食する祭儀。
内容は概ね新嘗祭と同じだが、神饌の内容や、新嘗祭では新穀を用いるのに対して旧穀を用いるなどの違いがある)
玉造の東には「花仙山」という山があり、古くより碧玉を産出していて、
この地の各所では碧玉や水晶の玉が製作されていた。
玉作湯神社境内からも、弥生時代末期と推定される碧玉製管玉や水晶製丸玉の未完成品や大量の土器、
また古墳時代後期と推定される碧玉製管玉、瑪瑙製勾玉、水晶製切子玉、臼玉の未完成品や内磨砥石などが発掘され、
また古墳時代後期の住居跡や溝状遺構も発見されており、この周辺に玉作の工房があったとみられている。
玉作湯神社は、その玉作たちの奉斎神だったとみられている。
主祭神は櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)。
『古語拾遺』には、
そういうわけで素戔嗚神が日神〔天照大神〕にいとまごいをしようと思い、天に昇ろうとした時に、
櫛明玉命がお迎え申し上げて、瑞八坂瓊曲玉(みづのやさかにのまがたま)を献上した。
素戔嗚神はこれをお受け取りになって日神に献上され、それによって約誓(うけひ)をされた。
そうして、その玉によって天祖(あまつみおや)吾勝尊(あかつのみこと)をお生みになった。
これによって天照大神は吾勝尊を養育され、とくに寵愛された。
(*吾勝尊・・・天照大神の長子、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊〔まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと〕の省略形)
と、天に昇る素戔嗚尊に「瑞八坂瓊曲玉」を献上し、その玉から皇祖の天忍穂耳尊が生まれたとされている。
また、素戔嗚尊の乱行によって天照大神が激怒し天石窟(あまのいはや)に籠られた時、
神々は天照大神への陳謝のための祭祀を行うこととし、そのためのいろいろな物を製作するが、その中に、
・・・櫛明玉神に八坂瓊五百箇御統玉(やさかにのいほつみすまるのたま)を作らせ・・・
とあり、いわゆる「三種の神器」の一である「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」を作った神であるとされている。
また、神武天皇が橿原に宮殿を建てるくだりには、
また、天富命(忌部氏の祖)に忌部の諸氏を率いさせ、種々の神宝・鏡・玉・矛・盾・木綿・麻などを作らせた。
櫛明玉命の子孫は、御祈玉を作った〔古語に、美保伎玉(みほきたま)という。その意味は、祈祷(ほぎ)である〕。
その末裔は今、出雲国にあって、毎年の調物とともにその玉を貢進する。
(中略)
それらのものが全て備わると、天富命は諸々の斎部(いんべ)を率いて、天璽(あまつしるし)の鏡剣を捧げ持って正殿に安置申し上げ、
また瓊玉(たま)を懸け、幣物(みてくら)を陳列して、殿祭(おほとのほかひ)の祝詞を奏上した〔その祝詞の文は別の巻にある〕。
次に宮門(みかど)を祭った〔その祝詞も別の巻にある〕。
(*天璽の鏡剣・・・三種の神器のうちの鏡と剣。ここでは八咫鏡と草薙剣。のち、崇神天皇の御世に八咫鏡と草薙剣が宮中を出た際、
両者の分霊として新たに鏡剣が製作され、天皇の護身とされた。また「神璽の鏡剣」とも呼ばれ、皇位継承のしるしともなっていた)
(*別巻・・・『古語拾遺』と同時に著者の斎部広成が献呈した文書。その祝詞は『延喜式』祝詞式に収録されている)
とあり、その神の子孫が出雲の玉作忌部であること、そして上記の「大殿祭」に際して玉作忌部が玉を進上する起源を記している。
『日本書紀』にもそれに該当する伝承がある(いずれも異伝として収録される)。
一書にいう。
素戔嗚尊が天に昇ろうとされる時に、一柱の神がいた。羽明玉(はあかるたま)と申し上げる。
この神がお迎え申し上げて、瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにのまがたま)を進上した。
そこで、素戔嗚尊はその瓊玉(たま)を持って、天上に到着された。
この時、天照大神は弟に悪心があるのではないかと疑われ、兵を興して詰問された。
素戔嗚尊が答えて仰せになるには、
「わたしが参上しました理由は、本当に姉上にお目にかかりたいと思ったからです。
また珍宝である瑞八坂瓊之曲玉を献上しようと思っただけです。まったく他意はございません」
と仰せになった。
(*中略。天照大神が素戔嗚尊の言葉の虚実を何を持って証するか問い、素戔嗚尊は、共に誓約(うけひ)を立て、
自分が誓約において女子を生めば邪心があり、男子を生めば真心があるとお思い下さい、と答える。
そこで天真名井〔あまのまなゐ〕を三ヶ所堀り、互いに向かい合って立ち、天照大神は剣を素戔嗚尊に渡し、
素戔嗚尊は八坂瓊の曲玉を天照大神に渡す)
こういう次第で、天照大神は八坂瓊の曲玉を天真名井に浮かべ、手元に寄せて、
瓊の端を噛み切って、吹き出した息吹の中に神を化成された。市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と申し上げる。
これは遠瀛(おきつみや)に鎮座する神である。
また、瓊の中ほどを噛み切って、吹き出した息吹の中に神を化成された。田心姫命(たこりひめのみこと)と申し上げる。
これは中瀛(なかつみや)に鎮座する神である。
また、瓊の尾を噛み切って、吹き出した息吹の中に神を化成された。湍津姫命(たぎつひめのみこと)と申し上げる。
これは海浜(へつみや)に鎮座する神である。あわせて三柱の神である。
(*後略。素戔嗚尊は同じようにして天照大神の剣から、
天穂日命・正哉吾勝勝速日天忍骨尊・天津彦根命・活津彦根命・熊野櫲樟日命の五男神を化成する。
この伝承では、五男神の長子が皇室の祖である天忍穂耳尊(=天忍骨尊)ではなく、
出雲国造の祖である天穂日命となっているのが大きな特徴となっている。
また、『古語拾遺』では天忍穂耳尊を生んでいるが、ここでは宗像三女神が生まれたことになっている)
一書にいう。(中略)
そこで(日神尊は)御怒りになって、そして天石窟にお入りになって、その磐戸を閉ざされた。
その時、諸々の神は憂えて、そして鏡作部の遠祖・天糠戸(あまのぬかと)という神に鏡を造らせ、
忌部の遠祖・太玉(ふとたま)という神には幣を造らせ、玉作部の遠祖・豊玉(とよたま)という神には玉を造らせ、(後略)
一書にいう。(中略)
日神が天石窟に閉居されたため、
諸神は中臣連の遠祖である興台産霊(こごとむすひ)の御子、天児屋命(あまのこやねのみこと)を遣わして祈祷させた。
この時、天児屋命は天香山(あまのかぐやま)の真榊を根こそぎに掘り取ってきて、
上の枝には鏡作の遠祖、天抜戸(あまのぬかと)の御子である石凝戸辺(いしこりとべ)が作った八咫鏡を懸け、
中の枝には玉作の遠祖、伊弉諾尊の御子である天明玉(あまのあかるたま)の作った八坂瓊之曲玉を懸け、(後略)
また、天孫降臨の段に、
一書にいう。(中略)
そこで、天照大神は天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉、また八咫鏡、草薙剣の三種の宝物を賜い、
また中臣の上祖天児屋命、忌部の上祖太玉命、猿女の上祖天鈿女命(あまのうづめのみこと)、鏡作の上祖石凝姥命(いしこりどめのみこと)、
玉作の上祖玉祖命(たまのやのみこと)、すべて五部神(いつとものをのかみ)をもって副え侍らせた。
そして皇孫に勅して仰せになるには、「豊葦原千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり・・・」(後略)
とあり、「櫛明玉神」「羽明玉」「豊玉」「天明玉」「玉祖命」はすべて同体であるとされる。
その資料の多さから、八咫鏡を造ったとされる鏡作部とともに重んじられた氏族であったことがうかがえる。
また配祀神として、大名持神、少彦名神、五十猛神(いたけるのかみ)の三柱が鎮座する。
大名持神はいわゆる大国主神で、少彦名神とともに全国を巡って「国作り」を行った。
また、医療や呪術の知識を人々に教えたとされ、この玉造温泉も医療の一環として両神によって発見され、開かれたと伝えられており、
神社後背の湯山(要害山)には「湯山主命(ゆやまぬしのみこと)」として大名持神が鎮まっているとされている。
「伊予国風土記逸文」には、大穴持命が宿奈毘古奈命(すくなびこなのみこと。少彦名命)を蘇生させるため、
大分の速見の湯(別府温泉)を地下に樋を通して持ってきて宿奈毘古奈命に浴びせたところ、
蘇生して起き上がり、あくびをして、「ほんの少し寝てしまったわい」と言って四股を踏んだが、その足跡が今も温泉の中の石に残っている、
という道後温泉起源譚が記されている。
平安時代以降、泉や温泉は弘法大師が開いたとされることが多いが、それより前はこの両神によって開かれたとされる所も多かったのだろう。
五十猛神は、風土記にいう「由宇社」、延喜式にいう「同社坐韓国伊太氐神社」の祭神であり、
素戔嗚尊の御子で、全国を巡って木種を播き、国土を緑の大地とした神であって、
『日本書紀』では「勲功(いさをし)の神」とその業績が称えられている。
木をつかさどる神であることから、船の守護神としても信仰されていたことが『播磨国風土記』『住吉大社神代記』などからうかがえ、
上古より海路で上越地方や九州と交流を行っていた出雲では特に崇拝された神であったと思われる。
また、櫛明玉神が素戔嗚尊に玉を献上したという伝承にもとづき、境内社の中には素戔嗚尊を祀る社がある。
国史においては、『日本三代実録』貞観十三年(871)十一月十日条に、
・・・出雲国正五位上の湯神(*玉作湯神社)、佐陀神に並びに従四位下、
従五位上の能義神、佐草神、揖屋神、女月神(*売豆紀神社)、御譯神、阿式神(*阿須伎神社)に並びに正五位下、
従五位下の斐伊神、智伊神、温沼神、越中国従五位下の楯鉾神に並びに従五位上(を授く)。
という神階昇叙記事があり、のちに出雲国二宮となる佐太神社と同時昇叙がなされていることから、
出雲国内における神格も高かったと考えられる。
その後、玉の需要減にともなう玉作の終焉、また洪水による温泉埋没によって一時衰退したが、
中世には神社後背の要害山に出雲守護・佐々木氏の一派である湯氏が城を構え、
洪水によって衰退していた温泉を復興し、また神社を手厚く保護した。
近世には松江藩が神社の西北隅に「御茶屋」を建てて別荘とし、度々逗留したことから温泉街は隆盛し、
神社も「湯船大明神」「湯姫大明神」と称され、玉造温泉の守護神として高い崇敬を集めた。
明治になると玉作の伝統が復活し、明治以降の天皇即位の式典に際しては当地作の瑪瑙・碧玉製品が献上されている。
玉作湯神社は、貞観十三年十一月以前には佐太神社と同じ正五位上の神階にあったが、
それ以前、貞観元年(859)七月十一日条に、
出雲国従五位下の佐陀神、無位の湯坐志去日女命(ゆにいます、しこひめのみこと)に、並びに正五位下を授く。
という記事があり、佐太神社と同格の同時昇叙をしていることから「湯坐志去日女命」=「湯神」とすると、
当時の玉作湯神社の祭神は「志去日女命」という女神ということになる。
のちに当社が「湯姫大明神」と呼ばれたことと符合するが、それだと櫛明玉神はどうなるんだという話になる。
そこから、玉作湯神社は古くは玉作の祖神と温泉の神の両方を祀っていたのだろうとも考えられている。
その場合は、玉作湯神社へは一座ぶんの幣帛しか頒布されていないこと、
また本社と由宇社で二社と数えるにしても、『延喜式』神名式ではそのうち一社を「韓国伊太氐神社」としているのがネックとなる。
ただし、「玉作神」「湯神」を併せ祭って「玉作湯社」と称するうちの「湯神」にのみ国幣と神階が授けられ、
「玉作神」は玉作忌部の私的な社であって公的な性格を持たなかったために官社登録されず、神階も授けられなかった・・・
と考えれば矛盾しないか。
温泉の「美容の効能」から発展したのか、神社やその周辺は現在「恋愛成就パワースポット」として有名であり、
境内やその周辺には若い女性やカポーの姿が多い。大国主様大忙し。
だが待って欲しい、こんなところまでカポーで来るくらいの仲なら、それはすでに恋愛成就しているのではないだろうか
玉造温泉の泉質は「ナトリウム・カルシウム・硫酸塩・塩化物泉」で、
・弱アルカリ性の泉質がお肌の古い角質をクレンジングしてお肌スベスベ☆
・硫酸塩泉がお肌にハリと潤いを与えてアンチエイジング☆
・塩化物泉がお肌に塩のヴェールを形成し、入浴後数時間経ってもお肌がサラッとしっとり☆
と、まさに女性におすすめの美肌の湯。
天然系化粧水に用いられるメタケイ酸の含有も110mg以上を叩き出すところがあり(50mg以上で美肌効果が期待できる)、
まさに「天然の高級化粧水」。
『出雲国風土記』の記述は決して誇大広告ではない。
(ただし、現在は単純泉の温泉もある)
温泉街内のとある食堂には、「美肌らぁめん」などというどこかのアイドルがガタッとなりそうなメニューもあるらしい。
温泉街らしいゆったりのんびりした雰囲気があり、ついつい長居してしまうかも。
社前より北を望む。 神社の前を玉湯川が流れる。 玉湯川は、『出雲国風土記』意宇郡河川条に、 玉作川。源は郡家の真西一十九里(*10.2km)の□志山から出て、北へ流れて入海に入る〔アユがいる〕。 (*□は欠字。「阿」の字を入れ、「葦山」に比定する説がある) (*入海・・・宍道湖。当時は海水準の上昇により、中海と宍道湖は「飫宇(おう)の入海」と呼ばれる広大な内海となっていた) と記載されている。 交差点の向こうが玉造温泉の温泉街。 神社は温泉街の北外れに鎮座する。 左に見える「宮橋」から自らを撮影し、その中に玉作湯神社鳥居が写り込んでいると恋愛成就、らしい。 |
一の鳥居前。 くぐって左に社務所・授与所がある。 鳥居の手前は市の多目的広場となっているが、 通常は参拝者の駐車場になっているようだ。 ほかに停められるような所ないし。 |
二の鳥居。 くぐれば石段。 |
社域は整備されていて美しい。 | 石段途中の左手には、出雲玉作跡出土品収蔵庫がある。 神社の伝世品、および町内の玉作遺跡から採集され、 神社に奉納されたもの約700点が収蔵されている。 建物は住居形埴輪を模している。 |
収蔵庫の後背は「玉作湯神社境内古墳」と名づけられた墳墓で、
「玉祖神陵」、つまり祭神の玉祖神の神陵とされており、
二の鳥居の脇に「神陵之杜」とあるのはそれにもとづく。
調査の結果、この古墳の墳丘の形態・規模は確定できなかったが、方墳であろうと推定されている。
収蔵庫の周囲からも未完成の管玉などの遺物が発掘されており、
神社周辺の発掘結果によって、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけては社務所より西南の一帯において玉作が行われ、
その後、空白期間を置いて、古墳時代後期になると収蔵庫周辺などの境内地において再開されたとみられており、
花仙山周辺の玉作遺跡群の中では最も古い遺跡とされる。
いったいなぜ空白の期間ができたのか、興味深いところ。
『日本書紀』崇神天皇紀には、出雲大神の宮の神宝献上にかかわって天皇が出雲臣(出雲国造)の祖である出雲振根を誅殺したところ、
出雲臣らはこれを恐れ畏んでしばらくの間出雲大神を祭らなかった、という記事があり、
また『古事記』垂仁天皇記には、天皇が玉作の土地を没収したために「地(ところ)を得ぬ玉作」という諺が生まれた、とあり、
あるいは出雲における祭祀になんらかの断絶があったか、
玉作がその所領を奪われるような事があったのかもしれない。
再開された玉作はその後、『出雲国造神賀詞』奏上や宮中の「大殿祭」などに関わって玉を生産し続けたが、
平安時代中期、需要の減少によってその歴史に終止符が打たれることになった。
平安京遷都は大和朝廷からの古い伝統を一新する画期であり、
それまで大和国内の四か所に「天皇の近き守護神」として鎮座し、また国つ神の服属の象徴として重要視されていた出雲の神々も、
『神賀詞』奏上の儀が国史に記されなくなるなど、軽視されるようになった。
祭祀においても古代祭祀氏族が没落して中臣氏が専ら権勢を振るうようになり、
また天皇の聖性を強化するための「新しい祭祀」が発生し、また仏法や陰陽道との習合も進む中で、
かつては祭祀になくてはならないアイテムだった「玉」も、その重要性を失ってしまった。
以後、この地は専ら温泉地として知られるようになる。
玉作湯神社拝殿。 |
左手に鎮座する、 湯姫大明神社(ゆひめだいみょうじんしゃ)。 祭神は湯姫大明神で、 容姿端麗・安産助産・育児・諸病平癒・家庭円満等の 守護神とされている。盛りだくさん。 国史には「湯坐志去日女命」と記され、 近世には、玉作湯神社は「湯姫大明神」とも呼ばれており、 その伝統にもとづく、温泉の女神の社。 |
|
境内左手奥(西北)に鎮座する、 金刀比羅神社。 祭神は大物主命。 「讃岐のこんぴらさん」の勧請で、 海上交通の守護神。 もともとはインドの水神だが、 大物主神と同体とされる。 |
|
本殿後方にある土俵。 奉納相撲が行われるのだろう。 昔は境内古墳の東隣にあったが、移転している。 |
後方より、玉作湯神社本殿。 現在の本殿は安政四年(1857)造営。精巧な彫刻が素晴らしい。 本殿の鎮座する辺りは要害山から北に伸びる尾根(砂岩で形成される)を削平して開かれており、 その砂をもって本来は西北へ傾斜している境内地を均したとみられている。 |
願い石。 古来、櫛明玉命の御神石と伝えられる自然石であり、 この石に触れて願掛けを行い、また玉を奉納する。 |
|
もう少しすれば紅葉が美しい感じ。 |
境内社群。一番奥は御仮殿。 次に稲荷社、次に澤玉神社(祭神:猿田彦命)、次に福徳神社(祭神:大国主命)、 次に素鵞(そが)神社・記賀羅志(きがらし)神社合殿(祭神:素盞嗚尊)。 記賀羅志神社はもと温泉街東に聳える花仙山の麓、現在の出雲玉作史跡公園の地に鎮座しており、 旧鎮座地は櫛明玉命が素戔嗚尊に八坂瓊曲玉を進上した、まさにその地であると伝えられている。 旧地には古墳があり、また玉作工房址が確認されている。 |
湯山遥拝殿。 玉造要害山は古くは湯山と呼ばれ、 その山の神を湯山主命(ゆやまぬしのみこと)といい、大己貴神(おほなむちのかみ。大国主神)の別名とされている。 本殿はなく、山を遥拝する施設。 |
玉造要害山への登山路。 山頂には玉造要害山城(湯ノ城)の城跡がある。 鎌倉末の元弘二年(1332)に湯庄留守役の諏訪部扶重が築き、 その後間もない14世紀中頃、 湯伊予守秀貞が改修増築したとされている。 その後は湯庄支配のため湯氏が居城としたと考えられており、 天文十一年(1542)の記録には湯佐渡守家綱の名がみえ、 彼の墓と伝えられる祠が城域内に残っている。 湯氏は出雲国守護職であった佐々木氏の傍流で、 佐々木泰清の第七子頼清が湯庄に入り、 湯・拝志(はやし)の二郷を領して湯氏を称した。 佐々木氏は宇多源氏の一族で、 「宇治川先陣」で知られる佐々木高綱の兄弟の子孫となる。 |
湯氏は戦国時代には尼子氏に仕え、
一族の湯新十郎茲矩は亀井氏の名代を継いで亀井茲矩と名乗り、
湯氏が毛利元就の旗下に入り、尼子氏が滅亡したのちも、山中鹿助とともに主家再興のため転戦した。
のち羽柴秀吉に降伏してその配下となり、戦功を立てて因幡国鹿野城主となると、
関ヶ原の戦においては徳川方について因幡・伯耆地方を平定、所領を安堵される。
嫡子の政矩は津和野藩に転封となり、以後幕末まで家名を維持、
本家の湯氏は同藩にて客分として遇されたという。
神社の西北外にある茶屋。 江戸時代には松江藩別荘である「玉造御茶屋」となっていた一角。 当時は泉源があって湯殿も設けられており、 歴代松江藩主はここで湯につかり、お茶を点ててくつろいでいた。 逗留は短くて六日、長くて二十一日に及び、 140~200名もの家臣を引き連れて滞在したため、 この小さな温泉街は超賑わったという。 |
川辺の出湯跡。 神社のすぐ下手の交差点の河原。 現在は草が生えている砂地には、近年まで石囲いの露天風呂があった。 また、「一畠薬師」と刻まれた石燈籠が立っており、道向かいには湯薬師堂がある。 玉造温泉はその後洪水によって一時廃れていたが、 鎌倉末の湯氏当主である富士名義綱(ふじな・よしつな)が夢告によって川中に温泉を発見し、 (*富士名の号は、地頭として領していた布志名〔ふじな〕の地名にもとづく) 薬師堂を建立して湯船を構え、上屋を造って温泉を復興した。 その折節、月が東天に昇ってきたので、 瑠璃光の心は真如の玉造 薬の湯には月も入りけり と詠じたと伝えられる。 義綱は、後醍醐天皇の隠岐脱出に力を貸した忠臣として『太平記』に記されているが、 近年の研究により、それは同族の富士名雅清のことであるとする説がある。 |
出湯跡の向かいには「湯閼伽の井戸」がある。 (写真左側) 鎌倉時代に建立された湯薬師堂に供える水を汲むため 設けられた井戸とみられ、 岩の割れ目から湧き出る清水を石で囲い、井戸としたもの。 それ以前は出湯を浴びた人ののどを潤していたと 想像されている。 ここも恋愛成就スポットとなっており、 井戸から鯉の餌を投げ、 川中の鯉がそれを食べればミッションクリアらしい。 |
|
写真の右端に見える小さなお堂が、 湯薬師堂。 |
|
玉造温泉街。 玉湯川の両側に旅館が立ち並んでいる。 通過した限りでは、老舗が多い印象。 松江に近く、また出雲にもそれほど遠くないため、 島根県観光における宿泊地には絶好のポイントだが、 なにぶんどこも老舗のため、けっこうお足はかかるらしい。 |
山間の川沿いに少しく開けた地であり、大規模な農耕には適さないところ。
それゆえ、玉の原石や温泉があるというのは、まさに大地の恵みといったところだろう。
松江市八雲町平原に鎮座。
宍道湖南部広域農道と県道249号線が県道24号線と53号線の間をつないでいるが、
広域農道の始点を南にやや上ったところ。
隣に曹洞宗の正禅寺がある。
『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所の一、宇流布社。
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座の一、宇留布神社。
「ウルフ」という社名だけど祭神はもちろん狼とかではなく、大山祇命、木花咲耶比売命。
近世までは「三島大明神」と呼ばれていたことからの祭神。
明治になり、式内社の比定が行われる中で、宇留布神社に比定された。
『出雲国風土記』意宇郡の神祇官未登録神社の一、国原社を合祀している。
こちらの祭神は素戔嗚尊、櫛稲田姫命。
この社地はもとは国原神社の社地であり、明治三十九年の神社合祀政策によってこの地に宇留布神社ほか村内の神社を遷座合祀し、
社号は式内社である宇留布神社としたもの。
鳥居前。 左脇に駐車スペースあり。 |
狛犬が石段の両側に。 上がっていくほど小さくなっていく。 |
かわゆい |
拝殿。小さいお社だが、注連縄は立派。 | 本殿と右手の「社日」の石柱。 社日とは山陰地方の神社によく見られる六角形の石柱で、 天照皇大神、大己貴命、少彦名神、倉稲魂神、埴安姫神の 五柱の御名を各面に刻んで祀る。 また社日神社として社殿に祀られることもある。 社日とは、もとは春と秋に産土神を祀る日のことで、 五穀豊穣を祈り、また感謝する日。 「社」は、漢語においては「土地の神」を意味する。 |
本殿左手の荒神社。 | 燈籠。 |
変わった意匠だなあ、と思ったら、他の神社にもあり、この地方ではよく見られる形のようだ。 この燈籠は文字が読めなかったが、他の神社の同じような燈籠に彫られていた文字からすると、 江戸時代の文化年間(1804-17)ごろのものらしい。 |