にっぽんのじんじゃ・しまね

これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー


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意宇(おう)郡(松江市南部、東出雲町、安来市。のち安来市域は分割され能義郡に):

(能義郡域:)
能義郡は平安時代初期に広大な意宇郡の東部を分割して設置された郡で、ほぼ現在の安来市の区域。
「安来」の名の由来は、『出雲国風土記』意宇郡安来郷条に、

  安来の郷。郡家の東北二十七里一百八十歩である。
  神須佐乃嗚命(かむすさのをのみこと)は天の壁立(あめのかきたち)を廻られた。
  その時、この処に来て詔して、
  「わたしの御心は安平(やすけ)くなった」
  と仰せになった。ゆえに安来(やすき)というのである。

とある。
野城駅(のきのうまや)という山陰道の駅家の一つを擁する交通の要所であり、
その地には『出雲国風土記』にいう「野城大神」が鎮座していた。
同風土記において「大神」という称号を得ているのは、
出雲郡の「所造天下大神(大国主神)」、意宇郡の「熊野大神」、秋鹿郡の「佐太大神」、そして能義郡の「野城大神」の四神のみ。
『延喜式』神名式では、能義郡には「天穂日命神社」一座しか記されていないが、
ほかの能義郡域の官社はそれまで通り意宇郡の条に記されているので、
能義郡分割以後、新たに神名帳に登録された神社と考えられる。
『出雲国風土記』意宇郡屋代郷条に、天乃夫比命(あめのふひのみこと。天穂日命)の随神・天津子命の鎮座伝承があって、
屋代郷は現在の安来市吉佐(きさ)町付近とされることから、
『出雲国風土記』意宇郡の不在神祇官社一十九所のうちに二社ある「支布佐社(きふさのやしろ)」のうちの一社が
「天穂日命神社」であろうとされている。

能義神社 山狭神社 支布佐神社

能義(のき)神社

安来市能義町に鎮座。

『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所のうち、野城社および野城社、野代社。
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座のうち、野城神社および同社坐大穴持神社、同社坐大穴持御子神社。
また、
『延喜式』神名式、出雲国能義郡一座、天穂日命神社に比定する説もある。
 (*『出雲国風土記』の現存写本の多くには、意宇郡の神祇官在神社のうちに「野城(のき)社」「野代(のしろ)社」が二社ずつみえるが、
 「野代社」のうちの一社を「野城社」とする写本があることから、
 『延喜式』神名式との整合をとるため「野代社」のうちの一社を「野城社」とみなすのが一般的。
 ただし、『出雲国風土記』から『延喜式』にいたる200年間に祭神の変動があった可能性もある)

『出雲国風土記』意宇郡の野城駅家条に、

  野城の駅(うまや)。郡家の真東二十里八十歩である。
   野城の大神が坐すことによって、ゆえに野城という。

と、地名起源の説明があり、社名はこの地名、つまり「野城大神」にもとづいており、
「野城社」はすなわち「野城大神」を祀る神社ということになる。
「野城大神」とは、「野城に鎮座する大神」という意味で、固有名ではない。
『出雲国風土記』において、野城大神は「野城」という地名の説明に顔を出すだけでいかなる神であるかは不明だが、
この神は天穂日命(あめのほひのみこと)のことであるとされている。

天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊の天安河の誓約において、
天照大神の持ち物である玉を素戔嗚尊が水で濯ぎ、噛み砕いて吹き出した息吹の霧から化成した五男神のうちの第二子。
(『日本書紀』の当該箇所に収録されている三つの異伝のうち、第一の異伝では第四子、第二の異伝では長子とする)
生んだのは素戔嗚尊だが、その元は天照大神の持ち物であったため、天照大神は五男神を自らの子として引き取り養育した。
のち、長男である天忍穂耳尊の子、瓊瓊杵尊が天下の主たる者として天降ることに決まった時、
天穂日命は地上を平定するために最初に遣わされたが、大国主神に媚び付いてしまって三年経っても復命しなかった。
その後、紆余曲折あって国譲りが行われたとき、隠棲する大国主神の祭祀を司る者として天穂日命が選ばれており、
天穂日命は大国主神に媚び付くことでその御魂を和め、国譲りを平和裏に成就させたとされている。
この天穂日命の子孫が、現在にいたるまで出雲大社を管掌する「出雲国造」。
かつて出雲国造が朝廷に出向いて奏上していた『出雲国造神賀詞』においては、
天穂日命はまず大八島国(日本列島)を国見してその状況を報告し、
その上で御子の天夷鳥命(あまのひなとりのみこと)に布都怒志命(ふつぬしのみこと)を副えて遣わして、
荒ぶる神を掃い平らげ、大国主大神をも媚び鎮めて、大八島国の現実世界の事を委任させた、とあり、
御先祖のことをかっこよく言っている。
(なお、近代以降、『出雲国造神賀詞』奏上の儀が復活している)

出雲国造は意宇郡の大豪族であって、熊野大社を奉斎神としていた。
熊野大社の祭神、櫛御気野命は素戔嗚尊と同一視されており、
天穂日命は天照大神に引き取られはしたが直接的には素戔嗚尊の御子であり、また杵築大社を祀る神であるので、
その神が「大神」と称せられていてもおかしくない。
『出雲国風土記』意宇郡の屋代郷条には、

  屋代の郷。
  郡家の真東三十九里百二十歩。
  天乃夫比命(あめのふひのみこと)の御伴として天降ってこられた、
  社印支(やしろのいき)らの遠祖である神、天津子命(あまつこのみこと)が詔して、
  「わたしが鎮まり坐そうと思う社(やしろ)である」
  と詔された。ゆえに社(やしろ)という〔神亀三年、字を屋代と改めた〕。
    *社印支・・・「社」は、ヤシロという土地名にもとづく氏族名で、屋代郷の豪族。
             「印支」は風土記編纂時の屋代氏の当主の名か、
             あるいは「いにき」と読み、古代の姓(かばね)である「稲置、稲寸(いなき)」のことか。

と、天乃夫比命(天穂日命)の降臨およびその御伴神の鎮座伝承がある。
この屋代郷は能義郡域であり、現在の安来市伯太町北部、吉佐町、門生町にあたり、鳥取県との県境地域。
能義郡域に天穂日命の降臨伝承があり、その御伴神の鎮座伝承があるということは、
ご主人様である天穂日命も近くに鎮座しているというのが自然であり、それが野城大神であるというのも理にかなっている。

主祭神は天穂日命で、配祀神として大己貴命、事代主命を祀っており、
延喜式神名帳の「野城神社」「同社坐大穴持神社」「同社坐大穴持御子神社」がそれにあたる。
また、誉田別命・経津主命・国常立命の三神を合祀している。
中世より「能義宮」と称されて広く信仰を集め、出雲国造は祖神として毎年社参を欠かさず、寄進も行っており、
現在でも十月十九日の例祭の日には出雲国造が親しく参拝される例となっている。
元々は現鎮座地の南のもう一段高い丘の上に鎮座していたが、戦国時代の永禄六年(1562)に天災によって社殿を焼失し、
慶長十八年(1613)に松江藩主の堀尾吉晴によって現在地に再興され、以後造営を繰り返して現在に至っている。

国史初見は『日本三代実録』貞観九年(867)五月二日条、

  出雲国従五位下能義神、揖屋神にならびに従五位上を授く。

その後、同貞観十三年(871)十一月十日条、

  出雲国正五位上の湯神、佐陀神に並びに従四位下、
  従五位上の能義神、佐草神、揖屋神、女月神、御譯神、阿式神に並びに正五位下、
  従五位下の斐伊神、智伊神、温沼神、越中国従五位下の楯鉾神に並びに従五位上。

という昇叙記事があり、『出雲国内神名帳』には、
佐草大明神・佐陀大明神・揖屋大明神・河代大明神(おそらく「阿式大明神」の誤写)に続いて10番目に「能城大明神」とあり、
14番目に「温泉大明神」、15番目に「女月大明神」と、
これらの神社が中央から授けられていた神階どおりの崇敬を得ていたことがわかるが、ややこしいことがあって、
それが『延喜式』神名式、出雲国能義郡一座「天穂日命神社」とのかかわり。
「天穂日命神」の神社は、『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)九月十六日条に、

  出雲国の熊野、杵築両大神を特擢して並びに従三位を加え、
  青幡佐草壮丁命(あをはたさくさひこのみこと)、御譯命(みさかのみこと)、阿遅須伎高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)、
  與都彦命(よつひこのみこと)、速飄別命(はやつむじわけのみこと)、天穂日命の神たちに並びに従五位下を授く。

とみえ、次いで、天安元年(857)六月十九日条に、

  出雲国に在る従五位下天穂日命神、官社に預かる。肥後国に在る従五位上曾男神に正五位下を授く。

と、この時点で「官社」として神祇官の「神名帳」に載せられている。
これが「天穂日命神社」であり、おそらく意宇郡から能義郡が分割されたのちに登録されたと思われる。
天穂日命神社はこれ以後国史にその名が見えないが、
しかし、十年後の貞観九年に「能義神」が初めて国史にあらわれた時の神階は、天穂日命神の最終神階と同じ「従五位下」。
そして能義神は貞観十三年に六社まとめて正五位下に昇叙されているが、
天穂日神も仁寿元年に六社まとめて従五位下に昇叙されており、そのうち、

 青幡佐草壮丁命=佐草神(佐久佐神社。現在の八重垣神社、あるいは総社六所神社)
 御譯命=御譯神(意多伎神社の同社坐御譯神社か。しかし摂社が本社より格上になるのはおかしいので、
       あるいは国内神名帳で上位にある日田神社、意保美神社、布自奈神社あたりか)
 阿遅須伎高彦根命=阿式神(出雲郡、阿須伎神社)

以上の三社は確実に対応しているとみられ(貞観七年十月、この三社は同時に従五位上へ昇っている)、
仁寿元年の表記は「神社名」でなく「祭神名」を記したものと考えられる。
この時期は「特定の神社のグループが同時昇叙していく」ことが多いので、
與都彦命、速飄別命、天穂日命も揖屋神(揖屋神社)、女月神(売豆紀神社)、能義神のいずれかに当てはまる可能性が高く、
その場合、「天穂日命=能義神」であるとしても、
現在の能義神社は「天穂日命神社」となってしまい、「野城神社」は不明となってしまう。
これについては古くから論争があり、
その結果、現在では、「野城神社」が「能義神社」、「天穂日命神社」が吉佐町鎮座の「支布佐神社」であると考えられている。
天安元年に官社に預かった「従五位下天穂日命神」が能義郡一座の「天穂日命神社」であり、
それ以外の「天穂日神」「能義神」は「野城神社」である、というのが穏当な理解か。
中世の能義神社は「三社大明神」とも呼ばれており、式内野城神社であることの根拠のひとつとなっている。
ただ、

 ・『出雲国風土記』の多くの写本においては「野城社」二社、「野代社」二社となっている
 ・『延喜式』神名式では、「野城神社」が三社、「野白神社」が一社となっている
 ・『出雲国風土記』の出雲国官社は184社、『出雲国造神賀詞』における官社は186社、
  そして『延喜式』神名式の出雲国官社は187社と増えており、
  増えた神社である神門郡の「神魂子午日神社」「鹽冶日子御子焼大刀天穂日子命神社」、能義郡の「天穂日命神社」のうち、
  まず神門郡の二社が登録され、のち天穂日命神社が登録されたとみられるが、
  神門郡の二座の官社登録について国史にはみえない
 
ということから、
「それまで二社であった野城社の社地へ新たに天穂日命が勧請され、それが官社登録されて野城社が三社となった。
これが国史にみえる『天穂日命神』『能義神』であり、能義郡一座の天穂日命神社はそれとは別に登録されたが、
おそらく授与神階が低かったために国史には載らなかった。
二社の野代社のうち一社は、何らかの理由(遷座・合祀もしくは廃絶)で官社から外された」
と考えることもできる。
なんにせよ、この時期の能義郡では「天穂日命推し」が行われていたということであり、
これは意宇郡から能義郡が分割されたのちも能義郡への影響力を保ちたい出雲国造の意向が働いたものだろうか。

田園地帯の中の、まったりとした田舎の神社といった風情。

社前の風景。
田園地帯の中のこんもりとした森の中に鎮座している。社殿は西向き。
参道左手には、石燈籠と、周囲に笹を立てた社日らしい石柱がある。
鳥居前。 鳥居から石段を登ると、
狛犬の間を通って神門にいたる。
狛犬の所の左には、
注連縄を引き回した木々。
その中央には土盛りがあって、
その上に太い注連縄があった。
荒神祭を行う場だろうか。
神門をくぐると、正面に拝殿。
拝殿の手前には立砂が二山。

神門内には随神と狛犬が座っている。
拝殿に続いて、本殿が鎮座。
天穂日命、大国主命、事代主命の三座を祀る。

『延喜式』にみえる「同社坐大穴持御子神社」は、今では事代主命のこととされているが、
『出雲国風土記』によれば、意宇郡には「賀茂神戸」があり、
「所造天下大神命の御子、阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)が葛城賀茂社(かづらきのかものやしろ)に坐す。
この神の神戸である」
とあって、この賀茂神戸は『風土記』に「(意宇)郡家の東南三十四里」とあることから現在の安来市大塚町付近と推定されており、
能義神社のすぐ東の地域であること、
神戸として奉献される地は概ねその神に縁が深い土地であることから、
もともとの「大穴持御子」とは、大国主命の長子である味耜高彦根命であったかもしれない。

「葛城賀茂社」とは、『延喜式』神名式の大和国葛上郡筆頭に記されている、現在の「鴨都波神社」のこと。
『新抄格勅符抄』所載の、当時の全国の神社の神戸を記した「大同元年牒」(806)には、

 鴨神  八十四戸 〔大和国三十八戸 伯耆十八戸 出雲二十八戸

とあり、ここに意宇郡賀茂神戸の生産物が入っていた。
『延喜式』神名式に「高鴨阿治須岐詫彦根命神社」とあるように、
10世紀初頭において味耜高彦根命は高鴨社に祀られていたことが知られるが、
9世紀初頭の「大同元年牒」において「高鴨神」に出雲の神戸はなく、「鴨神」にしかない。
よって、少なくとも意宇郡賀茂神戸が奉られた時期において味耜高彦根命は「鴨神」、
つまり神名式に「鴨都波八重事代主神社」と記されている「葛城賀茂社」の主祭神であったとみられる。
おそらくは『延喜式』が編まれるまでに高鴨社の主祭神として遷座し、
そのあとに事代主神が主祭神として祀られるようになり、「鴨都波八重事代主神社」となったのだろう。
味耜高彦根命は、『古事記』に「今、迦毛大御神(かものおほみかみ)と申し上げる神である」と記されており、
8世紀初頭において葛城鴨の主神であったことを示している。
本殿南に鎮座する末社。

手前が野美社で、土師氏の祖・野見宿禰(のみのすくね)を祀る。
野見宿禰は天穂日命十四世の孫で、無双の大力であり、
垂仁天皇の御世に朝廷に召されて当時無敵を誇っていた当麻蹶速(たぎまのくゑはや)と対戦し、

  二人相対(あひむか)ひ立ち、各(おのもおのも)足を挙げ相蹶(く)う。
  則ち当麻蹶速が脇骨(かたはらほね)を蹶ゑ折り、亦(また)其の腰を蹈(ふ)み折りて殺す。
  故(かれ)、当麻蹶速が地(ところ)を奪(と)りて、悉(ことごと)に野見宿禰に賜ふ。
  是(ここ)を以ちて、其の邑(むら)に腰折田(こしをれだ)有る縁(えにし)なり。
  野見宿禰は乃ち留り仕へ奉る。

蹴りの応酬において蹴速のあばら骨を粉砕、さらにその腰を踏み折って殺す、という壮絶な勝利を収めた。
一般には、これをもって「相撲」の起源としており、野見宿禰は力士の間で信仰された。
昔の力士はキックOKだったらしいが(ていうか足技で決着をつけている)、
あるいは「四股を踏む」というのがその名残かもしれない。
殺したのは残酷なようだが、当麻蹶速は常々、
「四方の国を探して、わが力に並ぶ者があるだろうか。力の強い者に遇って、生死を問わず、ひたすら力比べをしたいものだ」
と吹聴していたことが記されており、この闘いは最初から「命のやり取り」だった。
また、皇后日葉酢媛命の薨去にあたり、出雲国から土部(はにべ)を呼び寄せて人物や馬の埴輪を作り、
殉死に代えてこれらの埴輪を陵墓に立てるよう建言したとされ、
以降、土師氏は葬送儀礼を掌る氏族となった。
垂仁天皇の時代とみられる古墳時代初期(3世紀)の前方後円墳から発見される埴輪は主に円筒形のもので、
これは吉備地方特有の形式の伝播とみられることから、
この記事は従来、
「出雲は死のイメージの強い地であるから、葬送行事においても出雲と土師が結びつけられた創作記事である」
とされていたが、近年、松江市にある5世紀の古墳より国内最古級の人物・動物埴輪が出土し、
野見宿禰の記事がそのまま事実ではないにせよ、なんらかの事実を反映している可能性が指摘されている。

江戸時代、松江藩は相撲に力を入れており、多くの強豪力士をお抱えにしていた。
史上最強力士とうたわれる「雷電為右エ門」も松江藩の松平不昧公に仕え、引退後は同藩の相撲頭取を務めている。

大国主神の別名を「葦原志許男命(あしはらのしこをのみこと)」といい、
また黄泉国には「予母都志許売(よもつしこめ)」がおり、
『先代旧事本紀』の物部氏系図には「出雲醜男大臣命(いづものしこをのおほおみのみこと)」がおり、
『播磨国風土記』揖保郡粒丘条では、
「葦原志挙乎命(あしはらのしこをのみこと)」のことを単に「志挙(しこ)」と呼んでいる箇所があって、
「シコ」という言葉は名詞であり、かつ出雲と深いつながりがあると推定され、
「シコ」は祭儀における何かの役職をあらわす言葉なのではないか、という説もある。
もし野見宿禰が「シコ」であったとすると、
「シコ」は命のやり取りを行う戦士であり、また葬送儀礼をも掌る者、
つまり「人の死」に深くかかわる職掌であっただろうか。

ちなみに、『日本書紀』等で「しこ」に当てられる「醜」という漢字は、
元来は「髪飾りをつけた巫が器に酒を注ぐ」という形で、「神に仕える人」の意だったが、
のち、神に仕える人を忌むことから、転じて「いみきらう」、さらに転じて「みにくい」の意に用いるようになっている。
上古の巫は、神を祭る神聖な存在である一方、
もし効験なく凶事が起こった時は全責任を負って殺されることもある、スケープゴート的な存在でもあった。
『魏志倭人伝』には、倭人が航海する時に「持衰」という役の人間を置いていたことを記しており、
この者は髪を整えず、シラミを取ることもなく、衣服は垢で汚れるに任せ、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人のようにしており、
もし航海が無事であればこの者に奴隷や財物を与え、そうでなければこの者が慎まなかったためとして殺そうとする、という。
「行いを慎んでいる一方でその身は不浄」という、
アンタッチャブルであることからくるこの両面性は、「シコ」に通じるものがあるだろうか。


奥は塩津神社(祭神:塩見命)・若宮神社(若宮ノ介霊)の合殿。
塩津神社は安来市久白町の同名社の勧請だろうか。

ちなみに、塩津神社の後背にそびえる塩津山の上には古墳があり、
安来道路の設置にあたって塩津山は切通しになる予定だったが、古墳の発見によってトンネルに変更になったため、
トンネルの上に古墳がある」という珍しいスポットになっている。
この「塩津山1号墳」は、弥生時代から古墳時代への過渡期にあたる時代の墳墓で、
弥生時代の出雲のスタンダードであった「四隅突出型墳丘墓」から
古墳時代のスタンダードとなる「方墳」へ移行する過程を知る上での重要な古墳。
ここからの大山の眺めもいいらしい。
この一帯にはこれでもかというくらいの古墳・墳丘墓が集中しており、総称して「荒島古墳群」と呼ばれ、
弥生時代末期から古墳時代初期にかけて大きな権力をもった豪族がいたと推定されている。
その後、古墳時代中期になると、出雲国府跡の北に聳える茶臼山の北西麓に巨大な方墳や前方後方墳が築かれるようになり、
また古墳時代後期になると、出雲国府跡の西方、出雲国造の館が置かれていた付近へと古墳築造の中心地が移っている。
ここから考えて、荒島古墳群の被葬者は出雲国造家の祖であり、
安来市北部は出雲国造家の発祥地であるという可能性がある。
本殿北の末社。

愛宕神社・鷺神社。
愛宕神社の祭神は軻具突智命で、火除けの神様。
鷺神社の祭神は稲背脛命で、疱瘡除けの神様。
稲背脛命は天穂日命の御子とされており、
出雲大社の摂社として大社町鷺浦の港に祀られている。

本殿背後にも、木の周囲を注連縄で囲って御幣を立てている場所があった。
右手はもう一段高い丘になっていて、神社はもとその丘の上に鎮座していた。



山狭(やまさ)神社。

安来市広瀬町下山佐に鎮座。
広瀬町中心部からやや西に外れた所、飯梨川の支流・山佐川が右曲する所の左岸の丘上に鎮座する。
広瀬町上山佐・下山佐にはそれぞれに「山狭神社」が鎮座しており、こちらは下山狭神社と通称される。

『出雲国風土記』意宇郡の神祇官登録神社四十八所のうち、夜麻佐社(やまさのやしろ)、および夜麻佐社、
『延喜式』神名式、出雲国意宇郡四十八座のうち、山狭神社、
および同社坐久志美気濃神社(おなじきやしろにいます、くしみけののかみのやしろ)に比定。

『出雲国風土記』意宇郡神社条には熊野大社に続いて記されている意宇郡第二の神社で、
熊野大社とは天狗山を隔てた東の地に鎮座している。
出雲国風土記における神社の序列は社格、あるいは神祇官への登録順とみられているが、
どちらにせよ前の方に書かれている神社ほど重要な神社ということになるので、
古代、山狭神社は意宇郡において熊野大社に次ぐ重要な社であったということになる。

主祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男命・事解男命の四柱で、
境内社の久志美気濃神社は加夫呂伎熊野大神を祀る。
主祭神はいわゆる紀州熊野権現の祭神であり、摂社は雲州熊野大社の祭神ということになるが、
加夫呂伎熊野大神は伊弉諾尊の御子とされており、主祭神がその親神である伊弉諾尊・伊弉冉尊というのは理にかなっている。
また、速玉男命・事解男命は伊弉諾尊と伊弉冉尊が黄泉比良坂において絶縁する時に化成した神であり、
伊弉冉尊の神陵である「比婆山」はここから東、伯太町横屋の比婆山久米神社奥宮がそうであるとされているので、
この二神を祀るのもおかしいということはない。

ただ、平安時代末の十二世紀半ば、甲斐国にあった鳥羽上皇寄進の熊野三山の荘園・八代庄が、
荘園停止の宣旨を受けた国司によって収奪を受けるという事件があり、
この件に対する勘申を集成した『長寛勘文』という文書があるが、
その中には、量刑の判断において「伊勢大神宮と熊野権現は同体か?」という問題が持ち上がったため、
それに対する様々な識者からの意見が並べられているが、
このうちに、『初天地本紀』という現在は散逸した書からの引用がある。

  初天地本紀にいう、伊謝那支命(いざなきのみこと)が恵乃女命(ゑのめのみこと)を娶って生んだ児は、
  大夜乃女命(おほやのめのみこと)。次に足夜乃女命(たるやのめのみこと)。次に若夜女命(わかやのめのみこと)。
  三神とはこれをいう〔この大夜女命は熊野大御神の后である〕。
  陸の上に立たれ、身体の左肩を押し撫でる時に成り出た神の名を加巳川比古命(かみかはひこのみこと。あるいは巳が己で、かこかはひこ)といい、
  また右肩を押し撫でる時に成り出た神の名を熊野大御神加夫里支(くまののおほみかみかぶろき)、
  名は久々(*之の誤写か)弥居怒命(くしみけののみこと)、
  髻の中より成り出た神の名を須佐乃乎命(すさのをのみこと)。三柱大王等がこれである。
  (中略)熊野村に宮柱ふとしり奉りて、加夫里支熊野大御神、地祇神皇、
  また御児后の名は大夜女命、山狭村に宮柱ふとしり奉りて鎮まります大御神というのはこれである。

伊弉諾尊が「恵乃女命」を娶って三女神を生んだという記述ののち、尊は自らの体から三男神を化成したとあり、
この伝承では熊野大御神と素戔嗚尊は同体ではなく、兄弟神とされている。
熊野大御神の后神とされる大夜乃女命は山狭村に鎮座する大御神である、という記述から、
山狭神社の祭神は熊野大神の后神・大夜乃女命ということになる。
『初天地本紀』は、中世に編まれた国内書籍総目録である『本朝書籍目録』の「帝紀部」のうちにも名が見えるが、
『旧事本紀 十巻』『古事記 三巻』に次ぐ三番目に記されており、
『日本紀略』や『日本書紀』にはじまる正史である六国史よりも前に置かれている。
「帝紀部」に記されているということは歴史書であり、写本によっては巻数を「三十巻」としているものがあることから、
神代から人皇にいたる歴史を記した書であったと考えられ、
『長寛勘文』にその名が見えることから長寛年間以前に成立していたことは確実であり、
公式文書に引用されていることから当時一定の評価と信頼を得ていた書物であったことは間違いない。
  (『初天地本紀』は、ほかには『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』の述義の部・天壌無窮神勅の条に、
  「且百王鎮護之詞、不載日本紀、如大倭本記、天地本紀等文者、『子々孫々千々万々』」と引用がみられる)
よって、この伝承もなんらかの根拠に基づいていると思われる。
山狭神社の祭神が熊野大神の后神であるならば、同社に熊野大神櫛御気野命を祀るのも自然であり、
意宇郡第二の社とされるのも納得がいく。
また、『延喜式』祝詞式に収録されている、天皇の宮殿を祝福し清める「大殿祭(おほとのほがひ)」の祝詞に、
建物に災いがないようにとの事例を列記する中に、
「御床都比のさやぎ、夜女のいすすき、いつづしき事無く」
とあって、この中の「夜女(ヨメ、あるいはヤメ)」というのがなんなのか諸説あって定まっていないが、
あるいは大夜乃女命・足夜乃女命・若夜女命の三神と関わりがあるのかもしれない。
(御床都比〔みゆかつひ〕は、「御床の霊」。「御床都比のさやぎ」とは、「御床の霊が騒ぐ」意。
「いすすき」は「驚き騒ぐ」ことで、「いづつし」は「いかにも恐ろしい」の意。
ここでは屋内における原因不明の騒音や声を超常の存在の仕業とみなしているか。
国史には、「誰もいない建物から物音がしたり声がした」という異変記事が多く記されている)

近世には「熊野神社」と称して伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っていたが、
中世から近世にかけて出雲の熊野大社が紀州熊野権現の影響下にあったことによるものか、
あるいは、平安時代より出雲国造が熊野大社・杵築大社の祭神を素戔嗚尊とし、
意宇郡大庭の地、神魂神社にて伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀るようになったことに関連しているか。
江戸時代、安永四年(1775)に松江藩の支藩である広瀬藩の藩主、松平淡路守直義公が参詣し、
以後代々の藩主が社参する習わしであったという。
また、正徳四年(1715)十月、本殿に合祀されていた久志美気濃神社を分祀して境内社とし、社殿を造営。
広瀬藩家老職が当社の本願となり、崇敬篤かったと伝えられている。

山佐の地には、この下山佐だけではなく上山佐にも「山狭神社」が鎮座しており、
もとは天狗山山中に鎮座していた社が現社地に下りてきたものと伝えられている。
熊野大社はもと天狗山の西側山頂付近に鎮座しており、天狗山は『出雲国風土記』において「熊野山」と記されている。
熊野大社の旧社地を考え合わせると、上山佐の山狭神社の旧地がもともとの「夜麻佐社」の地で、
時代の変遷とともに移動・分霊などが行われたのかもしれない。

南より、社叢。
急激に右へ流れを変える山佐川と県道45号に挟まれた、小高い丘の上に鎮座している。
山佐川は広瀬町奥田原の南、仁多・大原・意宇三郡の境にある三郡山を水源としており、
『出雲国風土記』意宇郡の河川条に、

  飯梨河。
  源は三つある〔一つの水の源は仁多・大原・意宇の三郡の境である田原から出て、
  一つの水の源は枯見(うらみ)より出て、一つの水の源は仁多の郡の玉嶺山から出る〕。
  三つの水が合流して、北に流れて入海に入る〔アユ・ウグイがいる〕。

とあるうち、「仁多・大原・意宇の三郡の境である田原から出」る川として記されている。
社前。
左手に手水舎。
燈籠と鳥居。
鳥居には「式内 山狹神社」の扁額。
石段を登り、木々に囲まれて薄暗い境内を歩く。
境内の参道は苔むしていて、ふかふか。
右手には土俵があり、車が上がって来れる道路がついている。
さらに石段を登ると神門があり、
くぐって石段を上がれば、本殿前へ。
山狭神社拝殿前。
向かって左に摂末社が鎮座する。
小さな丘の上のため、そう広くはない。
神門と狛犬。
拝殿向拝の素晴らしい彫刻。
山狭神社拝殿・本殿。
平成十二年に社殿修復、正遷座が行われているようだ。

拝殿には、
昭和時代の正遷宮時に奉納された俳句集が懸かっている。
本殿南の摂末社。

いちばん奥、本殿と隣り合って建っている社殿が、摂社・久志美気濃神社。
加夫呂伎熊野大神を祀る。
もとは本殿に合祀されていたが、江戸時代の正徳四年(1714)に分祀して社殿を造営し、境内社としたと伝わる。

その次の社は、久米社・稲荷社の合殿。
手前の社は、愛宕社。

摂末社の背後は急な崖になっていて、下には山佐川が流れており、
境内には水音が高く響いている。
社前より、東を望む。
正面には大辻山が見える。
大辻山の北隣にあるのが月山。
月山にあった富田城は室町時代末期に出雲国を支配した尼子氏の拠点で、この広瀬の地は出雲国の中心地だった。
関ヶ原の戦の後、出雲国には堀尾忠氏が封ぜられたが、忠氏は早世してしまい、
父の堀尾吉晴が孫の後見役として事実上の藩主となったが、
吉晴は富田城が交通に不便であるとして慶長十二年(1607)より新たに松江城を築き始め、
同十六年に松江城に移った。
これにより、出雲国を治める藩は松江藩と称せられる。

(「藩」とは「諸侯の治める地」を意味する漢語で、
公式には明治政府直轄地の「府」「縣」以外の旧諸侯領を呼ぶための名称として用いられ、
江戸時代には儒家の著作の表記上用いられたのみで、公式に「藩」という名称は用いられなかった。
そのため、江戸時代には「松江藩」と呼ばれたことはない。
たとえば、その領地は城の所在地名をとって「松江領」、その首長は「松江侯」あるいは姓をとって「松平侯」などと呼ばれていた。
厳密にいえば、「松江藩」が存在したのは、
明治政府が「府・縣・藩」を定めてから「廃藩置県」が行われるまでのわずかな期間にすぎないが、
現在では便宜上、江戸時代の諸侯領も「藩」と呼んでいる)

支布佐(きふさ)神社

安来市吉佐(きさ)町に鎮座。

『出雲国風土記』意宇郡の神祇官未登録神社一十九所の一、支布佐社(きふさのやしろ)、および支布佐社。
『延喜式』神名式、出雲国能義郡一座、天穂日命神社に比定。

島根県と鳥取県の県境近く、さらに山陰道(国道9号)にもほど近い小山に鎮座する神社。
近世には「天津大明神」と呼ばれており、
江戸時代初期に松江藩士の岸崎佐久次が著した『出雲国風土記』の注釈書『出雲風土記鈔』に、

  支布佐社、同社。
  この二社は、能義郡屋代郷吉佐村の天津大明神、客(まろうど)大明神の両社がこれである。
  按ずるに、延喜式に能義郡天穂日命神社とあるのはすなわち天津大明神のことである。

と比定がなされており、のちに「天穂日命神社」であるかどうかについては能義神社との間に論争があったものの、
現在では『出雲風土記鈔』の説に従い、
能義神社は式内「野城神社」、支布佐神社は式内「天穂日命神社」であるとされている。
岸崎佐久次は松江藩の税吏として出雲国内を巡検しており、その地理的考証は現在においても高く評価されている。
『出雲国風土記』意宇郡屋代郷条には、

  屋代(やしろ)の郷。
  郡家の真東三十九里百二十歩。
  天乃夫比命(あまのふひのみこと)の御伴として天降ってこられた、
  社印支(やしろのいき)らの遠祖である神、天津子命(あまつこのみこと)が詔して、
  「わたしが鎮まり坐そうと思う社(やしろ)である」
  と詔された。ゆえに社(やしろ)という〔神亀三年、字を屋代と改めた〕。
    *社印支・・・「社」は、ヤシロという土地名にもとづく氏族名で、屋代郷の豪族。
             「印支」は風土記編纂時の屋代氏の当主の名か、
             あるいは「いにき」と読み、古代の姓(かばね)である「稲置、稲寸(いなき)」のことか。
    *天津子命・・・「天津日子命」とする本もある。

と、天乃夫比命(天穂日命)の降臨およびその御伴神・天津子命の鎮座伝承がある。
屋代郷は現在の安来市伯太町北部、吉佐町、門生町にあたり、鳥取県との県境の、中海に面した地域。
社名の「きふさ」は鎮座地名にもとづいているとみられ、「吉佐(きさ)」は「きふさ」が訛ったものと考えられることから、
二社の支布佐社は屋代郷にあって、天津子命、そしてその主人である天穂日命を祀る神社であり、
そのうちの天穂日命を祀る社が式内・天穂日命神社である、という考え。

『出雲国風土記』では神祇官に登録されていない神社「不在神祇官社」とされているのに式内社であるといわれるのはどういうことかというと、
これは天穂日命神社が遅い段階で官社に登録されたことによる。
天穂日命神社の国史初見は、『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)九月十六日条。

  出雲国の熊野、杵築両大神を特擢して並びに従三位を加え、
  青幡佐草壮丁命(あをはたさくさひこのみこと)、御譯命(みさかのみこと)、阿遅須伎高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)、
  與都彦命(よつひこのみこと)、速飄別命(はやつむじわけのみこと)、天穂日命の神たちに並びに従五位下を授く。

次いで、天安元年(857)六月十九日条に、

  出雲国に在る従五位下天穂日命神、官社に預かる。肥後国に在る従五位上曾男神に正五位下を授く。

とあって、この時「天穂日命」神社が神祇官の神名帳に登録され、毎年の祈年祭班幣を受ける神社となった。
つまりこの時まで「天穂日命神社」は官社ではなく、『出雲国風土記』編纂当時にはいまだ神祇官に登録されていない神社だったということ。
そして、この官社登録はおそらく意宇郡から能義郡が分割されたのちに行われたものであり、
『延喜式』神名式の出雲国能義郡の条にこの一社しか記されていないのはそのためだと思われる。
733年完成の『出雲国風土記』での官社は「184社」であり、また927年完成の『延喜式』での出雲国官社は「187社」と、
出雲国の官社は200年間でわずか三社しか増えておらず、また『出雲国造神賀詞』において官社は「186社」と記されていることから、
『出雲国風土記』の時からまず二社が官社に登録され、その後一社が登録されたと考えられる。
『延喜式』において増えている三社は、この「天穂日命神社」と、
神門郡の「神魂子午日神社」「鹽冶日子御子焼大刀天穂日子命神社」であり、
先に二社登録されたのは神門郡の二社であるとみられることから、
「天穂日命神社」は、10世紀初期の時点で最も遅く官社となった神社であるということになる。

ただし支布佐神社が天穂日命神社であるという直接的な史料はなく、
意宇郡から能義郡が分置された時、能義郡への影響力を維持するため出雲国造が新しく創祀した神社が「天穂日命神社」である、
というような考え方もできるので
(実際、現在の松江市山代町に鎮座する「眞名井神社」は、もとは出雲国造が中世に創祀した「伊弉諾社」という神社で、
本来の眞名井神社とは別個に存在していたと考えられている)、
蓋然性の高い有力な説、というところだろう。

現在はすぐ北に線路、そして旧山陰道である国道9号線が走り、そして中海となっているが、
古代の山陰道は米子から山間部に折れ、今の鳥取県西伯郡伯耆町から島根県安来市伯太町安田へ入っており、
伯耆国との国境には「手間(てま)の剗(せき)」と呼ばれる関所が設置されていた。
『古事記』に、大国主神が兄の八十神に騙されて狩に連れ出され、
奸計によって一時は殺された場所である「伯伎国の手間の山本」もその辺りのこととされる。
現在の山陰道は時代が下ってからできたものであり、
古代には海が迫っていたために国境部の海岸付近は陸上交通が困難だったのだろう。
つまり、往古の当社はほぼ海辺の社だったということになる。
伝承において「天降った」というのも、あるいは「海から来訪した」ということなのかもしれない。

神社の鎮座する山。集落が隣接している。
社は東向き。
山麓を走る道路があり、
そこから参道の石段が伸びる。
周辺には、車を停められるようなところは見当たらない。
支布佐神社祝詞舎および本殿。
拝殿の扁額には「支布佐神社」のほかに「八幡宮」「武内神社」の社号もみえるので、
両社を合祀しているのだろう。
祝詞舎は土間の渡廊になっており、祭典はその空間で行う。

朝からの強風のため、境内には杉の古枝が大量に落ちている。
向かって右手には神楽殿、一段高い所に神庫?と、
さらに高台に天満宮、新宮神社、琴平神社が鎮座。
本殿の南(向かって左手)には、向かって右から、
稲荷神社、芽倉神社(祭神・伊弉諾尊)、一宮神社(祭神・下照姫命)、
そして國津神社(祭神・天津日子命)が鎮座。
この「國津神社」が、本社とともに『出雲国風土記』所載の「支布佐社」
であったと考えられている。

背後の高台に社日の石柱が立っており、
老木の株には御幣が立てられている。
「荒神祭」を行う木。
周辺に御幣の串が立っている。
南方を望む。
ススキがきれい。
『日本書紀』神代巻の天石窟の段には「ススキを玉串にした」という記述があり、
古くは榊だけでなくススキも神に献ずる玉串として用いていたことが知られるが、
こういう風景を見ると、さもありなんと思う。

ここから南に行くと、古代に出雲国と伯耆国の国境の関が置かれていた伯太町安田に達する。



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