これまでに訪れた神社で写真(携帯だけど)に撮ったところー
島根郡(松江市の北部):
『出雲国風土記』には、
島根と名づけたわけは、国引きをされた八束水臣津野命の詔により負わせたもうた名である。
ゆえに島根という。
とある。
美保神社 | ||||||||
松江市美保関町、
島根半島の先端近く、山と海とに挟まれた小さな港町に鎮座する。
『出雲国風土記』島根郡の神祇官登録神社一十四所の一、美保社。
『延喜式』神名式、出雲国島根郡十四座の一、美保神社。
平安時代の10世紀に編まれた『延喜式』では一座と数えられており、
風土記にも「同じき社」はないので祭神はもともと一柱であったようだが、
現在では事代主神と三穂津姫命の二柱を祀っている。
『出雲国風土記』島根郡美保郷の条には、
所造天下大神命(あめのしたつくらししおおかみのみこと。大国主命のこと)が
高志国(こしのくに。越国。福井県東部~新潟県)に坐す神、
意支都久辰為命(おきつくしゐのみこと)の子の俾都久辰為命(へつくしゐのみこと)の子、
奴奈冝波比売命(ぬながはひめのみこと)をめとってお生みになった子は御穂須須美命(みほすすみのみこと)といい、
この神がこの地に坐す。ゆえにミホという。
と地名起源伝承が記されており、御穂須須美命がもともとの祭神であって、
風土記編纂ののち、祭神の交代があったという説もある。
奴奈冝波比売命は『古事記』において「沼河比売」の表記であらわれ、大国主神の妻となったと記されているが、
その御子については記されていない。
平安時代成立の『先代旧事本紀』には、沼河比売命は信濃・諏訪大社の祭神である建御名方神の母とされているが、
そこには美穂須須美命の名はみえない。
沼河比売はヒスイを産する糸魚川近辺の女神であり、美保は古来より港として栄えていた地であるので、
上古、美保を拠点として上越地方との密接な交流が行われており、
その交流の起源の説明として、奴奈冝波比売命と御穂須須美命の神話が生まれたということだろうか。
事代主神は大国主命(大己貴命)の子。
記紀の国譲り神話において、出雲の大国主神のもとへ高天原からの使者が到来して国を譲るかどうか問うたところ、
大国主神は、「自分は答えないが、子の事代主神がお答え申し上げるだろう」と答えた。
事代主神はその時美保で漁をしていたので、さらに美保へ使者を遣わして国譲りについて問うたところ、
事代主神は天つ神の命に違わないことを告げ、乗っていた船を青柴垣(あをふしがき)に変えて海中に姿を消した。
そこで大国主神は、
「国を譲って自分が隠れたのちは、事代主神が皇孫にお仕え申し上げている限り、わが子らは決して皇孫に叛くことはないでしょう」
と言い、出雲に身を隠した。
のちに神功皇后の新羅征伐の際、
事代主神は天照大神荒御魂や住吉三神たちとともに皇后に力を貸し、その帰途、長田神社(兵庫県神戸市長田区)に祀られた。
また大和の葛城地方の有力豪族であった賀茂(鴨)氏が奉斎していた神であり、
『書紀』では、初代神武天皇から第三代安寧天皇までの皇后はみな事代主命の子孫とする。
そして、朝廷の神祇官にて祀られていた、いわゆる「宮中八神」の一座でもあり、皇室守護の神として朝廷から大変重んじられていた神。
その神名は「言葉を司る」ことを意味し、託宣の神。国譲りの契約も、彼の口から発せられることで効力を持った。
海で漁をしていたり、新羅遠征に力を貸したことから、海に関係深い神でもある。
のちに海から寄り来たり福をもたらす神「えびす神」と習合、七福神の一として大いに崇敬を集めることとなった。
現在は、事代主系の「えびす様」の総本宮となっている。
(もう一方のえびす様は、蛭子〔ひるこ〕が習合したもの。兵庫県西宮市鎮座の西宮神社など)
三穂津姫命は、大和の三輪山に鎮座する大物主神の妃神。
『日本書紀』神代巻、天孫降臨の段の一書第二に、
大己貴神の国譲りの後、経津主神(ふつぬしのかみ)たちは葦原中国を平定して回ったが、
そのとき帰順した神々の首魁は大物主神(おほものぬしのかみ)と事代主神だった。
大物主神は八十万(やそよろづ)の神々を率いて高天原に上り、帰順の意を伝えた。
このとき高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が大物主神に勅していうには、
「おまえがもし国つ神と結婚すれば、私はまだおまえが心から帰順していないと思うだろう。
だから、わが娘三穂津姫をおまえに娶わせ、妻としよう。
よく八十万神を率い、永く皇孫をお守り申し上げよ」
そして還り降らせた。
とあり、造化三神の一柱で、高天原の司令神でもある高皇産霊尊が大和の三輪山に坐す大物主神の帰順のしるしとして娶わせた姫神。
その神名から、稲穂の女神とみられる。三輪山の西の平地部に鎮座する彌冨都比売神社の祭神。
大物主神は大国主命の幸魂・奇魂として大国主命と同一視されたので、大国主命の妃神ともみなされた。
神名の「ミホ」が地名と相通ずることから御穂須須美命と同一視され、祭神となったか。
中世には、出雲大社の祭神が大国主神から素戔嗚尊に変わり、佐太神社の祭神も佐太大神から伊弉諾尊・伊弉冉尊に変わるなど、
仏法の教説による日本神話改変が行われて「中世神話」とも呼ばれるあらたな神仏の世界が作りだされる中、
神社の祭神も変わってしまう例が多かった。
美保神社も、出雲大社・佐太神社という出雲国で一・二を争う神社の祭神変更に負けじと、
美保に縁のある、大国主神の御子であり宮中八神の一でもある事代主神、
そして大物主神=大国主神の妃であり、神名に「ミホ」を含む三穂津姫命を祭神にして社格を主張したのだろうか。
美保神社は六国史中に名は見えないが、美保には海関が置かれて朝鮮との貿易が行われ、また漁業でも栄えていたので、
そのお膝元に鎮座する神社も隆盛したと思われるが、
戦国時代の元亀元年(1570)、尼子氏と毛利氏の争乱の中で戦火に遭い、社殿や古文書に至るまでことごとく灰燼に帰してしまった。
その後文禄五年(1596)、吉川広家が朝鮮の役に際して祈願のために再興し、近世のえびす信仰とともに隆盛を取り戻す。
西の出雲大社と並び称されて「ゑびす大黒、出雲の国の、西と東の守り神」と謡われ、
出雲大社に参拝した後は美保神社に参拝するのが通例とされた。
現在の社殿は文化十年(1813)造営。
その本殿は、大社造を左右に並べてくっつけた「美保造」という独特の形式で、
左右の殿内の内陣に祭神が一柱ずつ鎮座。その前面に大きな拝殿が建つ。
この神社で特徴的なのは、「一年神主」。
氏子の中でも有力な家である「頭筋」と呼ばれる頭屋(とうや)組織から「頭人(一年神主)」を選出し、年間の祭事に奉仕する。
頭人は「青柴垣神事」「諸手船神事」などを経験した者から選出され(実際はもっとかなり複雑なプロセス)、
選出されてから奉仕を行うまでの四年間、毎日欠かさず「潮かき」つまり海水で禊を行うなど、厳しい潔斎を続ける。
穢れに触れてしまうとその資格を失うため、保険のために常に候補は複数人選ばれることとなっている。
村の有力者たちによる神社運営組織「宮座(みやざ)」から一年神主を選ぶことは近世までは広く行われていたが、
ここまで厳しい潔斎を課するところは現在では少なく、
また、海辺の神社にはこの頭屋制がよく保存されていることが多い。
神祭りには古来清浄が重んじられていたが、その意識を厳格に現代に伝えている神社といえるだろう。
例祭である「青柴垣(あおふしがき)神事」は、国譲りにおいて事代主神が青柴垣に隠れた故事を再現するもので、
二艘の船を並べて柴で垣を作り、頭屋から選ばれた者を事代主神として乗せ、港を一周したのち美保神社へと漕ぎ着け、神事を行う。
頭屋から選ばれた者はまさに事代主神として神事の主体となり、この神事中は神がかりとなり、託宣をも行うことがあるという。
小泉八雲の『美保関にて』には、
*美保関の神は鶏が嫌いであり、そのため美保関には雄鶏も雌鶏も鶏卵すらない
*美保関へ鶏や卵を運ぼうとしてもそれを引き受ける業者はいない
*朝方に卵を食べた者は翌日まで美保関を訪れるのは遠慮した方が良いとされている
*もしそれらを破れば、必ず海上が荒れる
という風習が記されており、その由来として、
*事代主神は漁が好きでよく居所を空けていたが、必ず夜明けまでには帰らなければならなかった
*その時、雄鶏は事代主神に朝を告げる役目を負っていた
*しかしある朝、雄鶏はその義務を怠った
*事代主神は大急ぎで船を漕いで帰ろうとしたが、途中で櫂を失くし、両手で漕いでいたところ、海中の性悪な魚に手を噛まれた
という話が紹介されている。
そして、安来(松江市安来町)においても事代主神を熱心に崇めているが、こちらには雄鶏も雌鶏もいて、その卵の味は絶品であるといい、
それについての安来の人の言い分は、
*神様にお仕えするには卵を食べたほうがいい、その方が美保関の真似をするよりよほどましだ
*鶏を食べたり卵を呑んだりすれば、それだけ事代主神の仇を討つことになるじゃあないか
であると記している。
同じ神を崇めていても、ちょっと離れれば習俗が180度違うという、地域ごとの特色をよくあらわしているエピソード。
現代においてはマスコミやインターネットの影響で全国の習俗が画一化・平板化する傾向があるので、
「あそこと同じことは断じてやらない、こっちの方が理に叶ってるだろ」という地元意識バリバリの話は新鮮で面白く感じられる。
鳥居前。 雨でした この日の朝、卵食べてたっけ? |
二の鳥居。 えびす様総本宮ではあるが、出雲らしく素朴なたたずまい。 |
手水をとって石階を上ると、目の前に廻廊。 |
神門。大きな注連縄がかかっている。 豊磐間門命、櫛磐間門命の門神二柱が随神として両側に立つ。 |
拝殿。 本殿が両殿横並びで幅広いので、 それを隠すように左右に広く、また奥にも長い。 中はかなり広い空間となっている。 |
本殿を望む。撮影点のすぐ右隣には宮御前社。埴山姫命を祀る。宮荒神社、船霊社、稲荷社を合祀。 宮御前社の脇からは山へと続く道があり、山中には久具谷社・客社が鎮座している。 |
本殿を裏から。 左右の内陣に事代主神と三穂津姫命を祀る。中央には装束の間があってその中に客殿があり、 神屋楯比売命(事代主神の母神)・沼河比売命(御穂須須美命・建御名方神の母神)を祀る大后社が鎮座。 媛蹈韛五十鈴媛命(神武天皇皇后)、五十鈴依媛命(綏靖天皇皇后)を祀る姫子社、 稲脊脛(国譲りの諾否を問いに事代主神への使者に立った者)を祀る神使社を合祀する。 |
本殿裏に鎮座する若宮社。 天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと。 事代主命の子で神武天皇皇后の兄)を祀る。 境外末社の糺社が仮遷座中だった。 |
本殿後方。 |
両側から山が迫っており、境内はそう広くはない。 |
境外末社・糺社。 境内鎮座の若宮社へ仮遷座中。 |
美保関港。向こうの山中に客神社が鎮座する。 古くは、青柴垣神事で事代主神をつとめる者は客神社で潔斎の生活を行い、 そこから青柴垣の船で本殿に向かっていたらしい。 |